シルバ軍がハウタットバニタミムを落とした三ヵ月後、カトゥマルが突如としてアルカルジから攻略戦線を拡げると言い出した。
「シルバ軍には先陣を切るようにお達しが出ている。フサインやレイスの攻撃を警戒していなければならない今時期に何故だ」
アルカルジをシルバ軍が押さえているのであるから、先駆けを命じられるのはよいとしても、バラザフにはこれは唐突な指示であるような印象を与えた。
いざメフメト軍の
「バラザフ、このような小規模の
バラザフもカトゥマルのこの方策は間違っていないと思った。十万の兵でアジャール軍が
バラザフは、今回、一緒に先陣の任にあるファヌアルクト・アジャールと方策の合議に入った。といっても合議が必要な込み入った案件も無く、バラザフの中でほぼ全て策定出来ていたが、先陣のもう一人の責任者であるファヌアルクトの面目を潰さないように配慮したに過ぎない。
「さすがはバラザフ殿。その策で行きましょう!」
ファヌアルクトは猪突な性格が良い方向に伸びて、実直な好青年に成長していた。バラザフは恩師であるエドゥアルド・アジャールが大好きだった。そのエドゥアルドの遺児であるファヌアルクトに、バラザフは少し年の離れた弟のような情愛が湧いて、彼の行く末にも期待していた。
「昔からアジャール軍は大海を往く
「まだその策を示してはいませんよ」
「大丈夫です」
「では、敵を誘引する事にしよう。大軍である故こちらの軍紀が緩んでいるように見せるのです」
バラザフが示した策をファヌアルクトは、素直に実行した。自分から策を生み出す事は無かったが、この青年は昔から作戦遂行能力は高い。
城内から矢頃すれすれに部隊を布陣させて、ファヌアルクトは配下の将兵に武器を放擲させ、防具なども一切外して横になって休息を取らせた。まさに、だらけきっているぞという姿をありありと見せつけたのである。
その上で、ファヌアルクトは、
「お前達、怠慢が過ぎるぞ! 今、敵が出てきたら我等はひとたまりもないぞ!」
と横になっている兵卒等の上に怒声を投げかけた。
バラザフに示された作戦内容をファヌアルクトの主従は、敵に気取られる事なく巧くこなした。これがファヌアルクトの統率力が一定の水準を越えているとの、アジャール軍内での評価にもつながる。
ファヌアルクトの部隊に作戦の表を任せておいて、バラザフの方では裏で動いた。シルバアサシンを城内に送り込んでまた言葉巧みに城兵の行動をこちらの意図通りに制御していた。
――アジャール軍はこちらが打って出る事は無いと思っているから、しばらく城攻めの気配はないぞ。
――じっとしれいれば今のところは安全だ。そのうちメフメト軍が援軍に来て援けてくれるはずだ。
当然ながらメフメト軍の援軍は来ない。次の日もファヌアルクトの部隊は昨日と同じく緩慢な動きを見せている。
そして、城内の兵士等が援軍への期待が不信に変わり始めた頃、
――メフメト軍の援軍はアジャール軍の別働隊に阻害されてここまでたどり着けないらしい。
――援軍を進めないようにしている間に、我等の水源を断って日干しにする策略らしいぞ。
と、城内のアサシンは、今度は焦燥感を掻き立てる噂を流した。この流言は城内の兵によく利いた。
長期戦への準備のため、
「畜生。アジャール軍の奴等ゆっくり食事なんか摂りやがって」
「ここ数日武器を持った奴の姿を見ない。あいつなんか横になりっぱなしだ」
「油断しているアジャール軍を今叩いて、食料を頂戴したらどうだ」
空腹に耐えに耐えている所へ、豊かに食事している姿を見せ付けられては、城内の兵士に、このように打って出よう、打って出たいという気運が高まっていくのは当然の事であった。
バラザフの狙い通り敵はアジャール軍は悠長に休み続けると思い込んでいる。
バラザフは自らファヌアルクトの部隊に駆け寄って叫んだ。
「中から敵が出てくるぞ! 武器を拾って迎撃の準備をしろ!」
ややあって目視で見張っていた兵も敵の動きを察知して味方に報知してきた。
「門が開いた! 打って出てくるぞ!」
ファヌアルクトの部隊は武器だけ拾って起き上がった。もう防具を装備する時間は無い。敵の誘引に成功した反面、危険度の高い戦いとなる。
敵が攻めに転じた時、弓矢や
ファヌアルクト自身も槍を携え敵を迎撃した。彼も鎧を身に着けていない。後ろからバラザフが援護しているが、彼もまた軽装である。バラザフは得意の
「落ち着いて敵の剣筋を見ろ! こちらのほうが圧倒的に多いのだ。慌てなければ死なずに済む戦いだぞ!」
そういう彼は
バラザフの言ったように、兵力差を活かした戦い方でファヌアルクト、バラザフの部隊は着実に優勢に事を運んでいった。
数えにして千程の時間が経過した。敵兵の一団は潰走し始め、中には武器を放り出して一目散に逃げる者もいた。
ここまで来ると後は押し潰すだけで、アジャール軍は城内に逃げる兵と共に中へ奔流となって流れ込んだ。
その奔流の先頭にバラザフがいた。こういうときのバラザフは智将から猛将に一変する。当たる先から敵兵が
敵兵が押し出して来てから、
この戦いでの勇猛さが衆口に乗って周辺諸族に広まり、アジャール軍の威風は高揚した。
「シルバの勇猛さは同じ武人として誇らしい事この上無い。バラザフの勇猛さを一番良く分かっているのは、ずっと傍で見てきた私なのだ。さらに、それ以上に今回の作戦は見事だった。この地上にもはや
カトゥマルは満足げに、ファヌアルクトと同様にバラザフの智勇を
その夜――。
カトゥマルの方から供も連れずにバラザフの陣の
「バラザフにやってもらいたい仕事があるのだ」
アジャール家の当主に就いてからカトゥマルはバラザフを家名で呼んでいた。今、こうして旧友として名前でバラザフを呼んだが、その声には懐かしさよりも、空虚な響きしか無い。
「カトゥマル様の方から私を訪れずとも、私は呼びつけて下さればよろしかったのです。それはさておき、如何なるご用件で」
カトゥマルの空虚な雰囲気が表情にあらわれてきた。疲れている様子である。
「新しい
「新しい
「うむ。ハラドを放棄する」
「どういう事です」
「今のハラドを棄てて
バラザフは黙ったままカトゥマルの話に耳を傾けていた。カトゥマルから出ている疲労感から、話はそれだけではないと察したのである。
「私がアジャール家を継いでから、古豪と呼ばれる猛者達が相次いで世を去ったと思えば、今度は側近と親族の派閥が反目している」
カトゥマルは、アジャール家の現状を染み出るような言葉で、バラザフに語った。家臣の派閥同士の諍いが元で、自分がやろうとしている組織、経済、軍制等々の新生が思うように下の者の協力が得られないというのである。
「あまつさえ、ハイレディンの勢力は日増しに増長を続けるばかりなのだ。このような打つ手なしという状況が続けばアジャール家が時の流れから孤立してしまうのは目に見えている。我等が生き残ってゆくには確執の無い新たな場所でアジャール家を生まれ変わらせる必要があるのだ」
切羽詰ったカトゥマルの言葉であった。
「それを余人に漏らさぬようにお一人でここまで参られたわけですか」
「うむ、そうなのだが……」
カトゥマルの歯切れの悪さから、バラザフには果たしてこの密事が二人だけのものになるのかどうか、という疑いを持った。そしてやや思案し、
「
役を受けると供に、バラザフはカトゥマルに笑みで返した。
主命として下達すれば済むものをそうせずに、わざわざ自ら頼みに来る腰の低さに昔のような親しさを感じた。確かに事を漏らさぬという意図はあっての事だろう。だが、カトゥマルの態度からバラザフは、やはりこの人は一族を率いる身分になっても、
――驕慢とは別の世界に在る人だ。
と感じていた。
そして自分の持てる知識を全て、この
カトゥマルとバラザフが、
住民に給金を払って労働力として稼動させて、
このタウディヒヤは、ハラドとアルカルジのちょうど中間点にあたり、タウディヒヤからはアルカルジを挟んですぐリヤドとの行き来が可能になる。カトゥマルの中に、故郷であるリヤドに新首都を近づけたいという心境があったかどうかは、彼はそれは表には出さなかった。
タウディヒヤの
「あまり大きく作りすぎても、また移設という事も有り得るから規模の策定が難しい点だな」
バラザフが
また視点を戦闘に置くならば、攻守の均衡の取れた備えがよく、一般論でありながら、最も実現が難しい事であった。
また、生前ズヴィアド・シェワルナゼは築城について、
「
と、教えていた。
水源の確保はどこの集落でも重要課題である。が、政策としての水源確保をせず、遠くに水を汲みに行かせるなどして、住民の負担とする諸族も多い。
まず
――水源。
である。
タウディヒヤの周辺には水源となり得るような、
水を共有する事は命を共有する事である。バラザフが、カトゥマルを主君以上に、兄弟として信頼としている表れであった。
ここまで決まった所で、労働力の供給が開始された。
「カトゥマル様、これがタウディヒヤの完成予定図となります」
カトゥマルが絵図に目を落としている横で、バラザフは得意気な顔をしている。
「もうお気づきでしょう」
カトゥマルは図を凝視している。そして、
「これは、まるでハラドの再現ではないか」
「その通りです。ハラドの
区画構成をハラドと同じくした事で、今までの防備訓練様式をそのままあてる事が出来、今までハラドを防衛していた兵員の負担も軽減される。
「新機を得て活路を見出そうというカトゥマル様の意図を汲ませていただくと同時に、旧臣が新体制に振り落とされぬよう配慮した設計になっております」
そして、引いてきた水を城壁の外に貯水溝と濠を兼ねて備えておくことによって、農産の発展が期待でき、水に
最後にバラザフは、全てを変えてしまうのではなく、旧き物からの微妙な変化が、新しき風を吹かせる要になるのではないかと、自分の意見を付言した。
時代の急速な流れがカトゥマル・アジャールという一指導者に与えた時間はそれほど長くはない。カトゥマルとバラザフは、タウディヒヤの
ハラドの