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2022年6月5日日曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第8章_3

  シルバ軍がハウタットバニタミムを落とした三ヵ月後、カトゥマルが突如としてアルカルジから攻略戦線を拡げると言い出した。

「シルバ軍には先陣を切るようにお達しが出ている。フサインやレイスの攻撃を警戒していなければならない今時期に何故だ」

 アルカルジをシルバ軍が押さえているのであるから、先駆けを命じられるのはよいとしても、バラザフにはこれは唐突な指示であるような印象を与えた。

 いざメフメト軍の城邑アルムドゥヌ を攻める段階になると、カトゥマルにしては珍しく、知略を使う攻め方をバラザフに問うた。

「バラザフ、このような小規模の城邑アルムドゥヌ は強攻めで取る事も出来なくはないだろう。だが、今は戦力を極力温存したいのだ。策略で落とす方法は何か無いか」

 バラザフもカトゥマルのこの方策は間違っていないと思った。十万の兵でアジャール軍が城邑アルムドゥヌ を包囲しているものの、相手の防御姿勢は堅調で、一気には落とせないと見通していたからである。

 バラザフは、今回、一緒に先陣の任にあるファヌアルクト・アジャールと方策の合議に入った。といっても合議が必要な込み入った案件も無く、バラザフの中でほぼ全て策定出来ていたが、先陣のもう一人の責任者であるファヌアルクトの面目を潰さないように配慮したに過ぎない。

「さすがはバラザフ殿。その策で行きましょう!」

 ファヌアルクトは猪突な性格が良い方向に伸びて、実直な好青年に成長していた。バラザフは恩師であるエドゥアルド・アジャールが大好きだった。そのエドゥアルドの遺児であるファヌアルクトに、バラザフは少し年の離れた弟のような情愛が湧いて、彼の行く末にも期待していた。

「昔からアジャール軍は大海を往く九頭海蛇アダル に喩えられています。シルバ殿の知略は正しくその九頭海蛇アダル の頭です。貴方の策なら間違いない」

「まだその策を示してはいませんよ」

「大丈夫です」

「では、敵を誘引する事にしよう。大軍である故こちらの軍紀が緩んでいるように見せるのです」

 バラザフが示した策をファヌアルクトは、素直に実行した。自分から策を生み出す事は無かったが、この青年は昔から作戦遂行能力は高い。

 城内から矢頃すれすれに部隊を布陣させて、ファヌアルクトは配下の将兵に武器を放擲させ、防具なども一切外して横になって休息を取らせた。まさに、だらけきっているぞという姿をありありと見せつけたのである。

 その上で、ファヌアルクトは、城邑アルムドゥヌ の中まで届くように声を張り上げて、

「お前達、怠慢が過ぎるぞ! 今、敵が出てきたら我等はひとたまりもないぞ!」

 と横になっている兵卒等の上に怒声を投げかけた。

 バラザフに示された作戦内容をファヌアルクトの主従は、敵に気取られる事なく巧くこなした。これがファヌアルクトの統率力が一定の水準を越えているとの、アジャール軍内での評価にもつながる。

 ファヌアルクトの部隊に作戦の表を任せておいて、バラザフの方では裏で動いた。シルバアサシンを城内に送り込んでまた言葉巧みに城兵の行動をこちらの意図通りに制御していた。

 ――アジャール軍はこちらが打って出る事は無いと思っているから、しばらく城攻めの気配はないぞ。

 ――じっとしれいれば今のところは安全だ。そのうちメフメト軍が援軍に来て援けてくれるはずだ。

 城邑アルムドゥヌ の外ではファヌアルクトに倦怠感を演出させる一方で、中では急場の意識を削いで、ゆるりとメフメト軍の援軍を待つように手なずけた。

 当然ながらメフメト軍の援軍は来ない。次の日もファヌアルクトの部隊は昨日と同じく緩慢な動きを見せている。

 そして、城内の兵士等が援軍への期待が不信に変わり始めた頃、

 ――メフメト軍の援軍はアジャール軍の別働隊に阻害されてここまでたどり着けないらしい。

 ――援軍を進めないようにしている間に、我等の水源を断って日干しにする策略らしいぞ。

 と、城内のアサシンは、今度は焦燥感を掻き立てる噂を流した。この流言は城内の兵によく利いた。

 城邑アルムドゥヌ の外に目を向けてみれば、よく見える距離でアジャール軍が十分な食事を与えられて、満腹に満足する表情を食事のたびに浮かべている。武具すら投げ出して、余裕この上無い。

 長期戦への準備のため、城邑アルムドゥヌ の中では食料割り当てが厳しく、中の兵士は自分達の空腹と外の満腹感が対比されて、精神的に堪えてきた。

「畜生。アジャール軍の奴等ゆっくり食事なんか摂りやがって」

「ここ数日武器を持った奴の姿を見ない。あいつなんか横になりっぱなしだ」

「油断しているアジャール軍を今叩いて、食料を頂戴したらどうだ」

 空腹に耐えに耐えている所へ、豊かに食事している姿を見せ付けられては、城内の兵士に、このように打って出よう、打って出たいという気運が高まっていくのは当然の事であった。

 バラザフの狙い通り敵はアジャール軍は悠長に休み続けると思い込んでいる。

 城邑アルムドゥヌ の上空の突如として火柱が昇った。戦火のそれではなく、ケルシュが城兵が攻撃に転化する事を中から信号を発してきたのである。

 バラザフは自らファヌアルクトの部隊に駆け寄って叫んだ。

「中から敵が出てくるぞ! 武器を拾って迎撃の準備をしろ!」

 ややあって目視で見張っていた兵も敵の動きを察知して味方に報知してきた。

「門が開いた! 打って出てくるぞ!」

 ファヌアルクトの部隊は武器だけ拾って起き上がった。もう防具を装備する時間は無い。敵の誘引に成功した反面、危険度の高い戦いとなる。

 敵が攻めに転じた時、弓矢や火砲ザッラーカ を使ってこなかったので、この賭けはまずアジャール軍側に有利になった。

 ファヌアルクト自身も槍を携え敵を迎撃した。彼も鎧を身に着けていない。後ろからバラザフが援護しているが、彼もまた軽装である。バラザフは得意の諸刃短剣ジャンビア を振り回して叫んだ。

「落ち着いて敵の剣筋を見ろ! こちらのほうが圧倒的に多いのだ。慌てなければ死なずに済む戦いだぞ!」

 そういう彼は諸刃短剣ジャンビア で左右の敵を受けている。

 バラザフの言ったように、兵力差を活かした戦い方でファヌアルクト、バラザフの部隊は着実に優勢に事を運んでいった。

 数えにして千程の時間が経過した。敵兵の一団は潰走し始め、中には武器を放り出して一目散に逃げる者もいた。

 ここまで来ると後は押し潰すだけで、アジャール軍は城内に逃げる兵と共に中へ奔流となって流れ込んだ。

 その奔流の先頭にバラザフがいた。こういうときのバラザフは智将から猛将に一変する。当たる先から敵兵が諸刃短剣ジャンビア の血祭りに上げられ悲鳴と共に倒れ伏してゆく。

 敵兵が押し出して来てから、城邑アルムドゥヌ が陥落するまで半刻も無かった。

 この戦いでの勇猛さが衆口に乗って周辺諸族に広まり、アジャール軍の威風は高揚した。

「シルバの勇猛さは同じ武人として誇らしい事この上無い。バラザフの勇猛さを一番良く分かっているのは、ずっと傍で見てきた私なのだ。さらに、それ以上に今回の作戦は見事だった。この地上にもはや九頭海蛇アダル の頭がバラザフ・シルバである事に異論をはさむ者はいまい」

 カトゥマルは満足げに、ファヌアルクトと同様にバラザフの智勇を九頭海蛇アダル の頭として賞賛するのであった。アジャール軍の中ではすでに自分達を世評と同じように九頭海蛇アダル に喩える事が一般的になっていた。

 その夜――。

 カトゥマルの方から供も連れずにバラザフの陣の天幕ハイマ を訪れた。

「バラザフにやってもらいたい仕事があるのだ」

 アジャール家の当主に就いてからカトゥマルはバラザフを家名で呼んでいた。今、こうして旧友として名前でバラザフを呼んだが、その声には懐かしさよりも、空虚な響きしか無い。

「カトゥマル様の方から私を訪れずとも、私は呼びつけて下さればよろしかったのです。それはさておき、如何なるご用件で」

 カトゥマルの空虚な雰囲気が表情にあらわれてきた。疲れている様子である。

「新しい城邑アルムドゥヌ 建設を総務してほしいのだ」

「新しい城邑アルムドゥヌ を」

「うむ。ハラドを放棄する」

「どういう事です」

「今のハラドを棄てて城邑アルムドゥヌ を新設したいと考えている。その総務をバラザフに任せたい。ズヴィアド・シェワルナゼ、エルザフ・シルバから築城技術を仕込まれたアブドゥルマレク・ハリティはもう居ない。今のアジャール軍を見渡せば、すでに築城技術を持つ武官はそなたしか居なくなっていたのだ」

 バラザフは黙ったままカトゥマルの話に耳を傾けていた。カトゥマルから出ている疲労感から、話はそれだけではないと察したのである。

「私がアジャール家を継いでから、古豪と呼ばれる猛者達が相次いで世を去ったと思えば、今度は側近と親族の派閥が反目している」

 カトゥマルは、アジャール家の現状を染み出るような言葉で、バラザフに語った。家臣の派閥同士の諍いが元で、自分がやろうとしている組織、経済、軍制等々の新生が思うように下の者の協力が得られないというのである。

「あまつさえ、ハイレディンの勢力は日増しに増長を続けるばかりなのだ。このような打つ手なしという状況が続けばアジャール家が時の流れから孤立してしまうのは目に見えている。我等が生き残ってゆくには確執の無い新たな場所でアジャール家を生まれ変わらせる必要があるのだ」

 切羽詰ったカトゥマルの言葉であった。

「それを余人に漏らさぬようにお一人でここまで参られたわけですか」

「うむ、そうなのだが……」

 カトゥマルの歯切れの悪さから、バラザフには果たしてこの密事が二人だけのものになるのかどうか、という疑いを持った。そしてやや思案し、

城邑アルムドゥヌ 新設の任、引き受けましょう。私の方から言うのも障りがありますが、カトゥマル様とは兄弟に等しき幼馴染。アジャリア様にも手塩にかけて育てていただいた、このバラザフ・シルバ。ここでカトゥマル様の頼みを断れば、冥府でこっぴどくアジャリア様に叱られましょう」

 役を受けると供に、バラザフはカトゥマルに笑みで返した。

 主命として下達すれば済むものをそうせずに、わざわざ自ら頼みに来る腰の低さに昔のような親しさを感じた。確かに事を漏らさぬという意図はあっての事だろう。だが、カトゥマルの態度からバラザフは、やはりこの人は一族を率いる身分になっても、

 ――驕慢とは別の世界に在る人だ。

 と感じていた。

 そして自分の持てる知識を全て、この城邑アルムドゥヌ 新設に注ぎ込もうと心に決めたのである。

 カトゥマルとバラザフが、城邑アルムドゥヌ 新設にここと決めた場所は、ハラドの旧城邑アルムドゥヌ から西に行軍距離で二日程の距離にあるタウディヒヤという集落のある場所で、大まかな工程としては、この集落を城壁で囲み城城邑アルムドゥヌ にしてしまうというものである。

 住民に給金を払って労働力として稼動させて、城邑アルムドゥヌ が完成すれば住民は新首都民になり、ハラドからも移住を受け入れる手筈である。

 このタウディヒヤは、ハラドとアルカルジのちょうど中間点にあたり、タウディヒヤからはアルカルジを挟んですぐリヤドとの行き来が可能になる。カトゥマルの中に、故郷であるリヤドに新首都を近づけたいという心境があったかどうかは、彼はそれは表には出さなかった。

 タウディヒヤの城邑アルムドゥヌ の新設のため、活動拠点を現地に遷さなければならないバラザフは、アルカルジ等の所領の仕置を、イフラマ・アルマライなどの信頼出来る血縁者の家臣に委任する措置をとった。

「あまり大きく作りすぎても、また移設という事も有り得るから規模の策定が難しい点だな」

 バラザフが城邑アルムドゥヌ の規模に深慮しているのは、防衛上の理由もある。大きすぎると警備の目が行き届かないし、内通者の発見も遅れる。小さすぎると兵員の常駐が困難になり、そもそも砦としての用を成さない。

 また視点を戦闘に置くならば、攻守の均衡の取れた備えがよく、一般論でありながら、最も実現が難しい事であった。

 また、生前ズヴィアド・シェワルナゼは築城について、

城邑アルムドゥヌ はそれ自体が巨大な生き物だ。中に住む人が生き延びられなくては機能しないものだ。生きるうえで一番大事な物は水だ」

 と、教えていた。

 水源の確保はどこの集落でも重要課題である。が、政策としての水源確保をせず、遠くに水を汲みに行かせるなどして、住民の負担とする諸族も多い。

 まず井戸ファラジ を掘って現存のものよりさらに数を増やし、貯水溝を用意しようと考えた。そして、

 ――水源。

 である。

 タウディヒヤの周辺には水源となり得るような、砂漠緑地ワッハ は無い。それゆえに今まで集落が城邑アルムドゥヌ にまで発展してこなかったといえるのだが、バラザフは、タウディヒヤの水源を自領のアルカルジから引いてこようと考えた。

 水を共有する事は命を共有する事である。バラザフが、カトゥマルを主君以上に、兄弟として信頼としている表れであった。

 ここまで決まった所で、労働力の供給が開始された。

「カトゥマル様、これがタウディヒヤの完成予定図となります」

 カトゥマルが絵図に目を落としている横で、バラザフは得意気な顔をしている。

「もうお気づきでしょう」

 カトゥマルは図を凝視している。そして、

「これは、まるでハラドの再現ではないか」

「その通りです。ハラドの城邑アルムドゥヌ をそのまま移写し、各区割りを模倣して建設する予定です」

 区画構成をハラドと同じくした事で、今までの防備訓練様式をそのままあてる事が出来、今までハラドを防衛していた兵員の負担も軽減される。

「新機を得て活路を見出そうというカトゥマル様の意図を汲ませていただくと同時に、旧臣が新体制に振り落とされぬよう配慮した設計になっております」

 そして、引いてきた水を城壁の外に貯水溝と濠を兼ねて備えておくことによって、農産の発展が期待でき、水に水牛ジャムス駱駝ジャマル などの動物が集まってきて、これらを捕獲すれば、住民にとっても益多き事になるのだと説明した。

 最後にバラザフは、全てを変えてしまうのではなく、旧き物からの微妙な変化が、新しき風を吹かせる要になるのではないかと、自分の意見を付言した。

 時代の急速な流れがカトゥマル・アジャールという一指導者に与えた時間はそれほど長くはない。カトゥマルとバラザフは、タウディヒヤの城邑アルムドゥヌ の建設を大急ぎで進めて完成させた。

 ハラドの城邑アルムドゥヌ という防備の一つの体系として確立していたものを模造したため、急ごしらえにしては、しっかりと砦としての用を成すものが出来上がった。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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2021年10月5日火曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第7章_1

  バラザフの所に弟のレブザフが来た。

「兄上、アジャリア様が亡くなったとの噂を聞きました。数年の間、自分の死を秘すようにアジャリア様に言い残したとも。兄上なら全て知っているのでは」

 アジャール家の武官として役に就いているレブザフであったが、アジャリアの死を知らされる身分ではなかった。だが、この隠匿はあっけないほどの速さで家中に拡散しつつあった。それでもカトゥマルも含めて重臣等は、

 ――アジャリア様は病気で療養中である。

 と、かたく なに外にも内にもアジャリア生存を装い続けた。

「レブザフ。アジャリア様を死んだ事にするとは不敬である。アジャリア様は病気。そして療養中だ。それが現実なのだ」

 この間にも公ではアジャリアが出なけばならない式典等が発生する。こうした時、式典の場には弟であるサッタームがアジャリアの席の腰を下ろす事になった。

 ――アジャリア様は病気の中、強いて公の場に出ている。

 という現実を作り出すためである。

 数年の間、自分の死を秘すようにとアジャリアは遺言した。この数年という時間を、家臣の間では三年の間と認識して、これを共有する事となり、サッタームをはじめとするアジャリアが創った幻影タサルール 達を、本人が出るべき場所へ出していた。

 一応、形の上ではアジャリア体制を維持している一方で、アジャリアのたった一人の後継者であるカトゥマルが、アジャール家での発言権を強めていった事は自然な流れだった。同時に、サッド・モグベルなどの自分の側近が重きを成すような、人材配置にしていった。

「彼らは知恵もあるし、血筋もよい。政治力も申し分ない。だが、その政治力に比重が偏るゆえ、戦術的な思考の出来る古豪のシャアバーン、ハリティ、オワイラン殿と溝が生じてしまう」

 バラザフの口から懸念が漏れた。

 自分にとってはカトゥマルとは、主家でありながら親友だと思っていた。お互いに自分の考えを言い合える距離で過ごしていたので、最近のカトゥマルが事あるごとに側近の力で解決しようとして、古参の武将との間に立ち入れない一線を引いてしまっているように見えて、危うきを感じていた。

 カトゥマルの母はリヤドの太守の娘である。母の生家であるリヤドで育てられたカトゥマルは、アジャリアの長男アンナムルが死んだ後、アジャリアの後継者となった今でも、アジャール家内では、「リヤド太守カトゥマル・アジャール」の印象がどうしても強く残っている。

 この印象のためにアジャリアが亡くなってカトゥマルが新たな当主になっても、言い得ぬ違和感を皆に持たれてしまうのである。

 カトゥマルが家臣団からぞんざいに扱われたという事は無かった。だが、モグベルなどの側近の台頭に不満を持つ家臣は徐々にこの頃から増え始めていった。

 バラザフは、この亀裂を傍観することにした。

「俺は実際の執事サーキン の役を賜っているわけではない。カトゥマル様のためになる事、アジャール家のためになる仕事だけを考えていればいいのだ」

 と早い段階で自分の立ち位置を定めていた。そうする事が亡きアジャリアに対する自分の報恩であると信じていた。

 他方で、カトゥマルの側近たちはそうは考えなかった。カトゥマルのため、アジャール家のためと考えるより先に、

 ――いかにカトゥマル様に自分をよく見せるか。

 ――自分の出世のためにカトゥマルの出方にどう処世するか。

 という腹の中に金貨の受け皿を備えているような勤め方をしていた。主人の恩寵によって急に位が上がった者によくある思考である。

 アジャリアの時代は、九頭海蛇アダル の頭は、長の頭によって統率されていた。家臣団の中で臨機に頭に数えれる者が替わるにせよ、ばらばらな動きはしていなかった。

 ところが、カトゥマルの代になった途端、カトゥマル側近の派閥、古豪の派閥、そしてテミヤト、アシュール、アブラスといったアジャール家親族の派閥に分かれた。大きな派閥はこの三つなのだが、九頭海蛇アダル の頭には首の細いものあり、目鼻の無いものありで、九頭海蛇アダル と形容するに相応しくない態になりつつあったが、さすがに酒樽の頭を突っ込んで酔いつぶれているものは無かった。

 親族派閥は、古豪派閥に肩入れしたら、次の日は側近派閥の肩を持つというような安定感の無い動きをして、側近派閥はカトゥマルの視野を塞いで家中の裁定から遠ざけようとした。

 カトゥマルに耳ざわりのよい言葉だけを入れて、側近派閥の支配権を拡張しようという、これまた王座に寄生する者にありがちな型であった。

 カトゥマルの目は閉ざされても、バラザフの目からは全体が見えすぎるほど見えた。

 ――側近派閥は欲得剥き出しでうんざりする。

 こうした思いをバラザフは内に抱え込んでおく他無かった。

 昔のバラザフとカトゥマルであるならば、歯に衣着せる事なく考えを言い合えた。せめて自分が一歳でも年長であるならば、衷心を以って諫言する事も出来たろうにとバラザフは思う。

「アジャリア様が作ろうとしてアジャール家は、こんなものではなかったはずだ」

 早くも巨星が堕ちた弱りがアジャール家に見え始めていた。


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2021年8月5日木曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第6章_5

  冬はただアジャリアに寒さに耐える事のみを強いたのではなかった。冷え込んだ日々の中にも、季節は暖かで穏やかな表情を見せる事もあり、それがアジャリアとバラザフが二人で話せる安らぎの一瞬であった。

「アジャリア様の人材を見極める目をご教授下さい」

「一つある。それは生命だ」

「生命……」

「うむ。東方に馬の生命力を観て名馬を見分ける目利きがいたという。その者の眼中には雌雄の別無く、毛並みの色も無く、肉付きも関係無い」

 語るアジャリアの真諦しんてい を捉えようとバラザフは必至に食い入って聞いている。穏やかな光に包まれたアジャリアはバラザフにとってはまさに賢哲であった。

「近づいてよく観てみるのだ。一方で闇であったものが、また一方では光となる。強い生命力は伸びて、広がってゆく」

「闇も用い得るのでしょうか」

「闇に目を凝らすと、その中に明るい闇と、暗い闇がある。カトゥマルは猪突で先行き不安であるが、武人としては有能であるといえよう。また、シャアバーンやハリティのような古豪の名将であっても、見方によっては暗く見える事もあろう。人を人材として選り分けるのではない。その生命力を伸ばしてやるのだ」

 バラザフはアジャリアの途方も無い深さと高さを知った気がした。正直、今までアジャリアに付随するように学んできた自分が、ここに至って新たな物を得られるとは思っていなかっただけに、遠ざかる流星を追っているかのような心地がして、追いつこうとする心がここで折れてしまいそうで、バラザフは必死に心中で暗闘した。

 神話では九頭海蛇アダル は首を斬られてもその傷跡から首がいくらでも生えてくるために、傷跡を焼かれて倒された。バラザフはこの無限に生え続ける九頭海蛇アダル の首の一つになっているつもりでいた。長たる首は勿論アジャリアだが、自分もそれに並んでいると感じていた。だが、バラザフに真諦しんてい を語るアジャリアは九頭海蛇アダル の胴体から離れて、光を帯びて流星のごとく天駆ける至高となろうとしている。

 アルハイラト・ジャンビア。アジャリアの知恵を後継した者としてバラザフは後にこう称され、九頭海蛇アダル という喩えも徐々に彼の息子に対する言葉へと遷ってゆくのだが、その彼も今はまだ流星の尾をかろうじて掴まんとする追尾者なのである。

「アジャリア様の用人の真諦しんてい 、このバラザフの生涯の宝とさせていただきます」

 とバラザフはここで一呼吸置いた。追うからには消えて見えなくなるまで追いすがって得られる物を全て得なくてはならない。

「さらにもう一つお尋ねしたいのです。いえ、もう一つというより、もう一度戦術の根底を教えていただきたいのです」

 離れた首は流星となりやがて消え行く。だが、九頭海蛇アダル さえ得ておけば、自分が胴体になっていれば、いずれ首は生えうるとバラザフは思い始めている。

「戦術の根底には三つ」

 すなわち――、頭脳、謀計、戦術と、戦術の根底の中で戦術自体の優先度を一番最後に据えた。

「剣を振るのは最終手段だとおっしゃるのですか」

「勿論だ。謀で敵を陥れずとも、剣によって相手を沈めずとも、言葉によって安鎮がかなう事がこの世に多々あるが、世人には気付かれ難いものなのだ」

 攻城においても、強攻めする以前に言葉で敵の投降を促し、次の手段として謀計で敵を無力化して、最後の最後に強攻め力攻めするものである。先の手段を尽くした上で強攻めが活きるという事でもある。

「バラザフ、兵を率いる将軍に知恵があれば兵は活かされる。国家を構成するものはそれぞれ家族であり、家族を構成しているのは個々の人なのだ。当たり前であるが故に常に気に留めておかねばならぬ事である。構成する人が居なくなれば国家は国家たりえなくなる。民族もな……」

 ここまでバラザフに言い聞かせて、アジャリアは瞑目し、深く長い息を吐いた。会話による疲労がアジャリアを克しつつあると感じたバラザフが礼だけして下がろうとしたとき、アジャリアの問いがバラザフを呼び止めた。

「バラザフ、お前のアマル を聞かせて欲しいのだ」

 バラザフは、かっと目を見開いた。アマル という言葉にアジャリアの中に確かに父を見た。あの時持っていたアマル は今も心中に確かに在る。

「私の、アマル は――。未来を視る眼を欲する事。それが私の幼少の頃よりのアマル でした。渇望し、その方向を向かい歩み続ける強さが必要であると、父に説かれました」

「やはり、エルザフは正しい。わしは、未来を視る眼とは、自分が見たい未来を視る眼だと思う。未来を視たいと皆が思うだろう。未来が視得れば多く富めるからだ。だが、その富の意味は人によって違う。視たい未来も異なる。わしが視たい未来。バラザフの視たい未来。少しずつ人によって違うはずだ……」

 バラザフはアジャリアに微笑んでいた。静かに、穏やかな動作でアジャリアのもとを辞するその笑顔からは涙が一筋だけ流れていた。

 冬の日和は柔らかくアジャリアを包んでいた。遠ざかってから振り返るバラザフには、アジャリアの日和を楽しむ姿が、童子トフラ のように無邪気に、そして、小さく見えた――。


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2021年5月5日水曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第6章_2

  塔に上ったファリドは三十万の大軍が威風堂々としてこちらに向かってくるのは見つめている。そこには不安も彼と共にあったが、そればかりでなく恐怖が彼の闇の近侍ハーディル として憑いていた。だが、傍にいるのは彼の不幸を見物している闇の存在のみならず、最大の味方、最良の友、若きイクティフーズ・カイフがそこに一緒に居てくれている。

 季節は冬に移ろうとしている。降雨の前兆である肌に沁みる風が吹いてきて、空には黒雲が立ち込めてきた。

 アジャリアは伝令を走らせた。

「ここで一転する。全軍を西へ向けよ!」

 ナーシリーヤの手前まできて、三十万のアジャール軍は反転して西へ行軍し始めた。

「わけがわからない……」

 アジャール軍三十万のナーシリーヤで迎え撃つ悲愴な覚悟決めていたファリドは、一変、自分を眼中から掃ったかのように背を向けて戻っていくアジャリアの行動を見て、呆然とした。

 戦わずに済んだ安心よりも、むしろ理解不能な事態に混乱を深めた。

「帰ると見せかけて迂回してナーシリーヤを包囲するつもりでは」

 とファリドは色々と思慮を巡らせずにはいられなかった。

 だが、まさにそれこそがアジャリアの意図する所であり、元々気の短いファリドの頭に着実に疲労感を溜めさせていたのである。

「なぁ、イクティフーズ。アジャリアは何を考えているんだ。我々を怯えさせたと思ったら、今度は無視して帰っていくぞ。また包囲されるかもしれんし、どう対処すべきなのだ」

「アジャリアが奇行に出るときは、裏に策略があるときです。ファリド様が読んだとおり包囲の可能性も十分ありえます。どちらにしても今は動くべき時ではありません」

「そうだな。今は静観が一番だ。そうだそうだ」

 焦る自分を抑え込むようにファリドはイクティフーズの言葉を自分に納得させた。

 この時点ではファリドは篭城の構えを解かずに、九頭海蛇アダル の巨体が通り過ぎてくれるのを、ただただ静かに待とうと思っていた。

 ところがハイレディンから派遣された援軍の態度がファリドを逆上させた。

「無駄死にせずに済んだ。ハイレディン様から戦闘は不要と言われていたが、アジャリアが仕掛けてきていてたらレイス軍の道連れになるところだった」

 こう安堵の声を漏らしたのはハイレディン配下の将軍のマァニア・ムアッリムである。さらにマァニアは自分の兵士に武具を解いて休息するように言って臨戦態勢を解除してしまった。

「アジャール軍に無視され、さらには味方の援軍であるフサイン軍まで俺を侮っている。ここまで馬鹿にされたらアジャール軍と戦わねば怒りが収まらん!」

 もはやファリドの怒りは、いつものようにポアチャを齧るどころではなかった。

「イクティフーズ!」

 ファリドは大声で叫んだ。

「アジャリアの奴は俺たちが追う意地など無いと思って無防備でいやがる。味方まで俺が戦わないと思っている。あの厭味な後姿に齧り付いてやらねば気が済まんのだ!」

 ファリド・レイスは普段は家臣の言葉を重んじる性分である。だが一度頭に血が上ると、隠れていた猪突な性格が顔を出す。

 ――またファリド様は冷静さを失っておられる。

 イクティフーズや普段から傍で仕えている家臣らには、ファリドの頭が熱でやられているのは見ただけでわかるのだが、ファリド自身は、自分が、

 ――今この時も戦機を読んで判断し、的確な指示を出しているのだ。

 という方向違いの自信を持っていた。

 イクティフーズは、今レイス軍がアジャール軍と交戦した場合、敵のいいように痛めつけられる事は必至であるから、ファリドの血気を抑えるべきであるし、彼自身そう判断していた。だが、ファリドのように表情には出さないものの、アジャール軍の人を馬鹿にした態度はイクティフーズ自身も相当頭にきていた。

 よって、主君と共に死に花を咲かせるつもりで、

「ファリド様、今こそアジャリアの傲慢な背中に齧り付いてやりましょう。一気に中央を衝けば、あるいは穴を開ける事も可能でしょう」

 と出撃に従った。

 一方、アジャリアはアジャリアで、

「バラザフ、わしは三年間ファリド・レイスに持ち続けてきた陰鬱をここで叩きつけてやるつもりよ」

 と、すでに陣容を整えて息巻いていた。ファリドを引っ張り出して、それこそこちらのいいように痛めつけてやるつもりでいたのである。

 ファリド・レイスはこれまでアジャリアの戦略であるバスラ、およびクウェート攻略を、ベイ家やメフメト家と同盟して阻害してきた。それがアジャリアの言にある三年である。

 時、乱世となれば領土獲得の機会は平等である。だが、アジャリアはそうは考えていなかった。平等であるという事は当然頭でわかってはいるが、彼とファリドの間にその平等は有り得ないというのがアジャリアの価値観である。

 これを言葉ではなく感覚として持ち続けているだけに、アジャリアのファリドに対する怒りは粘りを含んだしつこさがあった。

 こうしたアジャリアの人間臭い本音はバラザフに対してのみ吐けるもので、バラザフの方でもアジャリアの言葉の裏に、臭いを嗅ぎ付けるのが半ば習性となっていた。

 アジャリアはいつものようにファリドの小僧・・ とは言わなかった。そこにファリド自身のみならず、レイス軍全体を邪魔者と認定して、一斉排除しようとする血生臭さをバラザフは微かに感得したのである。アシュールと一緒に、レイス軍を蹴散らそうとしたとき、すんで の所で制止したのも、ここで一気に痛めつけてやりたかったからなのだとわかった。

 そして、

 ――稀に残虐性を見せるものだな。

 と、この頃ようやく気づき始めていた。

 アジャール軍が態勢を整え直したときに、サイード・テミヤトの部隊を先陣に配して、その後ろに荷隊カールヴァーン を従属させた。その後ろにアジャリア本陣を配置して、その左右にはカトゥマル・アジャール、ナワフ・オワイランの部隊を置いた。

 今回はファヌアルクト・アジャールにも別働隊の一隊を任せている。その左右を、最早アジャール軍の編成の定石となったアブドゥルマレク・ハリティ、ワリィ・シャアバーンの二人の古豪で固めて、若い将を補うように配慮した。

 そしてナジャルサミキ・アシュールを最後尾に配置して、アジャール軍は悠々と進軍していった。

 後ろから背中を見ていたファリドの目には、腹を満たした九頭海蛇アダル が余裕の態度でのしのしと巣穴に戻っていくように映った。

「あのまま西へ進んでサマーワに帰るつもりだな。いつも俺は囲まれてばかりだから、アジャリアがサマーワに入城した瞬間に今度はこちらが包囲してやろうか」

 ファリドはアジャリアが優勢をたのみに隙を見せているのだと思い込んだ。だが、背中を見せて西へ進む九頭海蛇アダル は腹など満たしてはいなかった。食欲旺盛な九頭海蛇アダル は巣穴になど戻らずどこかへ消えた。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。


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2021年2月5日金曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第5章_9

  一月程経過し、涼やかな風が少しく吹くようになると、アジャリアの体調は回復の兆しを見せた。バラザフは、

 ――やはり酷暑が堪えたのだ。

 と、アジャリアの回復を喜んだが、食欲は戻ったものの、痩身は元の体格には戻る事はなかった。

 アジャリア自身は、

 ――そろそろ冥府の籍にわしの名が記される頃だ。

 と死期が近い事を悟り始めていた。

「今少し保たせてもらえまいか……」

 アジャリアはとにかくエルサレムに行きたかった。エルサレムに上って大宰相サドラザム のスィン家を輔弼する。でなければ、自身が大宰相サドラザム の位に就いて政務を執らねばならぬ。そうでなければ今の戦戈の入り乱れた世を安んずる事など出来ぬのだ。それまでは――、

「保たせなければならぬ」

 さらに半月程経ち、アジャール軍はエルサレムへ進発した。この時期あたりから、作物の類は夏季が最盛期の物から徐々に主役を降りてゆく。

 ワリィ・シャアバーンが今回も先陣を務める事になった。彼の配下の将兵は五万。リヤド近くのブライダーではサッド・モグベルがワリィの合流を待っている。ここにも五万の兵力が置かれている。

 アジャリアの本隊がハラドを発った。威風堂々とした九頭海蛇アダル が砂の海をのして進む。勿論、その一番の主の頭は本物・・ である。アジャリアの麾下にも五万の兵を編成した。

 アジャリア麾下の五万の中にバラザフの顔もあった。今回の出征で、バラザフはアジャリアの傍で務めようと決めていた。

 その他の部隊編成は、ナジャルサミキ・アシュール隊三万、アブドゥルマレク・ハリティ隊二万、カトゥマルのリヤド軍団三万、ナワフ・オワイラン隊四万、サイード・テミヤト隊三万と、総勢三十万を超す大軍である。さらにメフメト軍からも二万の援軍が送られてきている。

 メフメト軍との同盟が成ったとはいえ、後方のアルカルジは地方の諸族の向背が定まらぬ上にベイ軍の手出しが懸念される地域であり、ここをエルザフ・シルバ、アキザフ・シルバに押さえてもらい、自領北部のアラーをトルキ・アルサウドに守衛させて後ろを任せてから出立である。

 エルサレムへの道を、アジャリアは最短を採らなかった。

 アジャリアが通ろうとする道というのは、まずハラドからリヤドへと自領を西へ移動するアジャール軍の常套の行軍路から、さらに西へ進みブライダーを経由して、そこから一気に北上してナーシリーヤからエルサレムを目指すという道順である。

「ブライダーまで行ったのならアルサウド殿の居るアラーは、ジャウフを通ってそのまま西進すればエルサレムには近いのではないか」

 バラザフは、アジャリアの行軍路の意図をはかりかねていたが、思案の中、急に頭の奥に最短を採らなかった理由が浮かんできた。

「分かった。やはりアジャリア様は背後を気にされているのだ。最短で往けばナーシリーヤ、バスラのレイス軍を放置したままになる。となると、ハイレディンと雌雄を決する際にファリドが邪魔になってくるのだな」

 バラザフの推測は当たっていた。アジャリアはブライダーに着いてから軍団を三つに分けた。

「シャアバーンは別働隊として迂回し、かつ先行せよ」

 アジャリアは、シャアバーンには迂回してナーシリーヤに向うように、そして諜報を出してレイス軍の諜報を駆逐しながら進軍するように指示し、モグベルの部隊にはハイレディンへの威圧を目的とした上でのルトバの城邑アルムドゥヌ 制圧を命じた。ハイレディンの拠点のバグダードの西側にルトバは在る。

「そしてわしが本隊を率いて北上し、バスラの城邑アルムドゥヌ に入る手筈とする」

 バラザフの配下のシルバアサシンも、アジャリア本隊の諜報として動いている。隊が行軍する先々でレイス軍の諜報を始末するために、全方位に彼らは駆けている。

 バラザフは、アジャリアから賜ったカウザ を被って傍近くに勤めている。

「バラザフ、今わしら本隊はバスラを目指しているわけだが、その間のレイス軍の拠点をいくつか取ってゆく。理由はわかるな」

 アジャリアとバラザフの間には、しばしば、教練のような会話が交わされる。バラザフの脳裏には進軍先の地勢が描かれ、精一杯頭を回転させて、アジャリアの戦略的意図を考察した。

 アジャリアの計路の中には、アジャール軍の総帥がカトゥマルになる時代を想定して、バラザフをカトゥマルの参謀アラミリナ 、あるいは大臣ワジール として育成し、知識と知恵を今の内に注入しておこうというものがある。

 バラザフの方でも、平野や砂漠での戦い方、攻城と篭城のやり方、外交面を含めた戦略など、アジャリアの脳内にある財産を総じて自分の物にしたいというアマル を抱きながら日々を邁進しているので、二人の意志は絶妙に裏で合わさっていたといえる。

「我が愚才でアジャリア様のお考えを図るのは僭越ではありますが、バスラの南にあるズバイルを我が軍の拠点として今一度固め直すおつもりであると」

「そうだ。では、更にそれはなにゆえか」

「これらの城邑アルムドゥヌ の南にはレイス軍の拠点のサフワーンが在り、これを獲得できればバスラ、クウェート間、さらには東のブービヤーン島との拠点連携を図る事が出来るからです」

「バラザフよ、その心計は賞賛に値するぞ。我が意もお前の言葉通りである。つまりは、小さな拠点でも確実に手中に収めておく事が肝要となるのだ」

 とアジャリアはこの戦略性を説いた。だが、二人はこうした小さな城邑アルムドゥヌ を取るのに、戦術的には大した手間が要るとは考えていなかった。これらの城邑アルムドゥヌ の兵力はおよそ五千程度で、三十万の大軍で圧殺すれば余計な被害を出さずに、自ずと降伏を引き出す事が出来るはずである。

 この見込みは当たり、アジャール軍が城邑アルムドゥヌ を包囲すると、多くの将兵が投降してきて降伏勧告はすんなり通る事となった。敵味方共に無血のまま城邑アルムドゥヌ の獲得に成功したのである。

 これを聞いてファリド・レイスの頭は大いに混乱した。これらの城邑アルムドゥヌ がアジャール軍に落ちた事で、サバーハ家から独立後に獲得した領土を殆ど失ったからである。

「自分でアジャール軍の数を目で見てくる」

 こう言い出したら最後、非妥協的になってしまうファリドは二万の将兵を大偵察部隊に動員して出動した。偵察には多くても三百人で部隊を構成すれば十分足りるのであるが、主将自らが偵察に出るとなっては、一軍そのものを偵察部隊として稼動させなければならない。

 ――ファリド・レイスが偵察に動いてる。

 という情報がすぐバラザフに知らされた。

「それは確かなのだな、フート」

「ファリド自身が出る前に諜報を出しておりましたが、それとシルバアサシンが遭遇し、撃退する途中でその内の一人を捕縛しました。その者から出た情報です」

 バラザフがそれをアジャリアに上げると、アジャリアは口に僅かに笑いを浮かべて、こう命じた。

「ファリドの小僧が自ら偵察に出たがっているのであれば、それを待ち受けて、あわよくば始末してしまおう」

 アジャリアはバラザフを切り込み隊として、それにアシュール隊を付けて行かせた。後の煩わしさを今ここで消化しておけるかもしれない。だが、後の大戦に備えて強行な攻めはせぬようにと最後に加えた。


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2020年11月5日木曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第5章_6

  結局、アジャリアはサフワーンを取らずに攻めるのをやめた。

 ――レイスの小僧はメフメト軍よりも弱い。

 それだけ確認出来れば十分で、アジャリアは矛先をナーシリーヤに向ける事にした。

 今、クウェートの城邑アルムドゥヌ はアジャール軍の拠点として使える状態にある。しかし、アジャリアはバスラやクウェートからナーシリーヤへ向う道を採らず、一度、リヤドに戻ってから転進するという方向で事を進めた。

 ――これはアジャリア様のアマル なのだ。

 バラザフはアジャリアの戦略にエルサレムへの企望を見た。リヤドからナーシリーヤを攻撃するという事は、クウェートから行くよりもアジャリアにとっては見込みのある行軍路であり、加えてレイス軍の予想の裏をかいてナーシリーヤを攻めるという利点がある。

 春――。花の咲く時期にアジャール軍はハラドを出発した。ハラドからリヤドを経由してブライダーに進み、そこから北東へ進軍してゆく。結局途中でクウェートで補給してからナーシリーヤへ向うのだが、補給路や後詰を自分の拠点を通す事で、不測の事態を可能な限り排除したいというアジャリアの慎重さがここにも出ている。

 行軍途中、ブライダーにさしかかったあたりで、菜の花が咲いている一帯があった。

「砂の黄、黄金の黄と黄にも色々あるが、花の黄はやはり命が感じられてよいな」

 砂の大地では命は特に尊い。アジャリアもカトゥマルも幼少の頃よりは花は好きである。出陣してさほど日は経っていなかったが、生命の美しさというものが感じられた時、人はそこから家族へと想いが飛んでゆくようである。

 アジャール軍の本隊はクウェートに駐留せず、補給部隊だけを行かせて食料を賄った後、本隊に合流させた。アジャリアはクウェートからナーシリーヤへ道を使わず、クウェートの西側の砂漠を真っ直ぐ北上した。

 アジャール軍はナーシリーヤの南、スーク・アッシュユーフという城邑アルムドゥヌ を包囲した。

 スーク・アッシュユーフの太守には突然、九頭海蛇アダル が現れたように見えた。アッシュユーフの南には緑地が東西に広がっていて、それでアジャール軍が攻め寄せてきたのが見えなかったせいでもある。

 太守の慌てぶりは尋常ではなかった。すでに日は高く熱い日差しで気温が高くなっているにもかかわらず、彼の頭からは血の気がひいて、寒気をおぼえていた。

 アジャリアはすぐにはアッシュユーフには手を出さなかった。数日の間威圧して、さらに敵の焦燥を誘うつもりである。

「そろそろやるとするか。明日の朝攻撃すると中に伝えてやれ」

 明朝、朝靄がひくと、防備の気配のない、スーク・アッシュユーフの城邑アルムドゥヌ だけが姿を現した。住民も避難する者だけは早々に避難して、残された者達も息をひそめていた。

 アジャリアは、スーク・アッシュユーフに至ったとき、彼らの戦意が低い事を見てとった。そして、ブービヤーン島のときのように、わざと敵の逃げ道をつくっておいて、敵兵の脱走を促して城邑アルムドゥヌ の防備を無力化したのである。これには不必要な戦争を回避して、戦力の無駄な消費を避ける効果があった。

 以前よりアジャリアからあらゆる事を吸収しようと努めていたバラザフである。この戦法も咀嚼するに値した。

「アジャリア様から、また新たな手札を得る事が出来た」

 バラザフはアジャリアを師として仰いでいる。勿論、主君として崇拝すべき存在ではあるが、今では戦術の師としてアジャリアを越える存在が無くなっていた。


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2020年8月5日水曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第5章_3

 カフジの城邑アルムドゥヌ を押さえたアジャリアは、バラザフにクウェートへの使者を命じた。
「クウェートは今、主君であるバシャール・サバーハの代わりに、太守を置いてハサン・アルオタイビという者が治めている。このハサンに城邑アルムドゥヌ を譲渡するよう説得し、加えてハサンを我等アジャアール軍の将として迎え入れる用意があると伝えるのだ。バラザフでなければ手落ちとなり得る重要な任務だ。頼んだぞ」
 クウェートへ向うバラザフの顔からは血の気がひいていた。最悪、捕縛されて殺されるかもしれない。
 ――やられる時はハサンと相打ちにして果ててやる。
 刺客として送られたアサシンのような覚悟の、アジャリア軍使者バラザフ・シルバである。
 バラザフは単身、クウェートの城邑アルムドゥヌ の奥へ招かれた。連れてきた配下の者には奥へ進む許可が下りなかったのである。
「溌剌とした若者が来たものだ。カフジの攻城はその若い将の手柄だと私は聞いている」
 ハサンと会見し、ファリド・レイスの所へ遣いにいったときのように、バラザフは使者として若輩扱いされた。だが、今回はなめられたとは感じなかった。相手は見た所明らかに自分より年長者であるし、ファリドのように言葉に侮りの色が見えない。何より今の自分には心の余裕が無い。
 バラザフは顔を強張らせたままアジャリアからの手紙をハサンの側近を通じて渡した。後はアジャリアが言っていた言葉をそのまま伝える事しか出来なかった。
「アジャリア殿の御申し出を受ける事にしよう。私にはこのクウェートの城邑アルムドゥヌ の兵と民を護る責任がある。今のサバーハ家は風前の灯火だが、九頭海蛇アダル の肉体の一部となれば吹き消される心配も無かろう」
 ハサンがこう返事した瞬間、クウェートはアジャール軍の所属となった。
「良き手柄だ、バラザフ。お前の説得を見込んだわしはやはり正しかった」
 殆ど説得らしい説得も出来なかったバラザフは、アジャリアの賛辞にただ頭を垂れる他無かった。
 アジャリアはクウェートの城邑アルムドゥヌ を獲得出来た事を十分な成果と受け止め、この年の軍事行動をここまでとし、本拠地であるハラドに引き上げた。

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2020年7月5日日曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第5章_2

 次の朝、アジャリアはカフジ包囲戦の方針を発表した。
「カフジ攻撃をカトゥマルを隊長として、ファヌアルクト、バラザフ等に任せる」
 そして、ここカフジの城邑アルムドゥヌ がメフメト軍のクウェートにおける重要拠点であるとして、メフメト軍に士気をさらに下げる必要性を説き、此度は落城を要すると命じた。
 冬季、気温は夏季と比べてぐっと下がるが、それでも水が凍りつく程の寒さは有り得ず、クウェートは海からの暖かい風を受ける。気温は過ごし易いが、強さとなると風の表情は穏やかではない。
 アジャール軍の若手の将軍達はこの強風に目を付けた。まず城壁の外側に火を放ちカフジの城邑アルムドゥヌ を焼く。当然これだけでは殆ど打撃を与えられないので、火矢を放ち同時に中も火攻めしようと考えた。火矢を横からの風に乗せて流す形である。
 この作戦を責任者であるサイード・テミヤトに奏上し、許可が下りると、火攻めの火がつけられた。
 炎は城内に燃え広がった。東の風で炎がカフジの城邑アルムドゥヌ を西へ西へ燃やしていく。西の城壁が内と外からの火に挟まれ、灼熱の地獄に等しきものになった。
「今に熱に耐え切れず、守兵が西門を開けるはず。出てきた者を迎え撃ち、投降する者は受け入れる。炎が下火になったらファヌアルクト殿は一万の兵で門から突入を」
 バラザフの言葉通り、門が開かれると兵も住民もなだれを打って出てきた。殆どの者が抵抗せずに投降し、この投降の受け入れはカトゥマルとバラザフがやった。
 バラザフがこの差配として、突入の役にファヌアルクトをあてて、カトゥマルを行かせなかったのは、猪突なカトゥマルに、総大将としての後詰的な役割も覚えてもらいたかったからである。煩雑な手間は無いが敵味方の呼吸を把握せねばならない。突撃して押すのでもなく突撃を防ぐのでもなく、先程まで敵であった者等を受け止めるのである。
 今でもアジャリアから重用されている自分は、カトゥマルが当主となったときには参謀アラミリナ として、今以上に重きを成しているはずだ。勿論、自己陶酔は割り引いて考えているつもりではある。
 そしてバラザフはファヌアルクトの方にも手配りは忘れていない。炎が弱まるのを待ってからとはいえ、燃える城邑アルムドゥヌ の中に突撃をかけるのであるから、これは危険な任務である。ファヌアルクトが火炎や伏兵など、何らかの危機に晒されたときのために、退路となる出口の安全確保を配下のシルバアサシンに指示を下してした。
 突入するファヌアルクトに、残ったメフメト兵が火砲ザッラーカ で仕掛けてくるが、すでに統率を欠いているようで、一斉射撃してくるのなやり方はしてこなかった。シルバアサシンが火砲ザッラーカ 兵を一人ずつ仕留めて、ファヌアルクトに降り掛かる危険を排除してゆく。ファヌアルクトはメフメト兵の掃討に頭がいっぱいで、脇でこのような補助が行われているのには気付いていないようである。
 槍を振り上げるファヌアルクトの顔は炎に赤く照らされ、歓声と火炎とがカフジの天を衝いた。その猪突ぶりが少し前のカトゥマルとそっくりでバラザフは、今までカトゥマル程は接点のなかったファヌアルクトに、戦いの最中、少し親好をおぼえたのだった。
 ファヌアルクトの突入組の背中を自身の配下であるシルバアサシンに任せていたが、カトゥマルの後詰の方がある程度片付くと、やはり前線が気になり始め、陰ながらファヌアルクトを見守っていたというわけである。
 そして、後は危なげないだろうと判断すると、バラザフは前線を後にしてカトゥマルの下へ戻っていった。
 ともあれ、ファヌアルクト隊の突入で、カフジの城邑アルムドゥヌ の西半分の区画を制圧する事が出来た。
 東区画は、火が燃え広がっていった西区画と逆に位置する事になる。城外からの火攻めはあったものの、守備兵に守りを放棄させる程の打撃には至らず、依然として防御、抗戦の構えを見せていた。
「万が一、バーレーンから援軍が出てきて城の内外から掎角されては堪らないな」
「ええ、前回の戦いでかなり痛めつけたとはいえ、それくらいの兵力はまだ残っているでしょう」
 角のある獣を捕える際、獣の後足をとるのが掎で、前から角をとるのを角である。カフジの城邑アルムドゥヌ に角を衝いている間に、足を捕まれて自由を奪われる危険は否定出来ない。
「バラザフ。日暮れまでにカフジを陥とせ。半分までくれば後は強攻めでも良かろう」
「インシャラー」
 カトゥマルの命に応じながら、バラザフは、
 ――段々、似てきたな。
 と内心では、にやりとしていた。
 急ぎこれをサイード・テミヤトにあげねばならないが、遣いの者が許可を持って戻ってくるのを待つ時間は無く、報告に人を出すと同時に攻めを実行する必要がある。行き違いが生じる可能性もあるが、それを今カトゥマルに告げても意気を挫くだけになるとバラザフは判断した。
 半刻後、カトゥマルとバラザフはカフジの城邑アルムドゥヌ の東の海上に居た。
「何だあれは。メフメト軍の新しい罠か」
 船上から早速例の円錐状の物体をカトゥマルが見つけた。
「あれらは砂蟹カボレヤ の巣穴ですよ」
砂蟹カボレヤ か。さすがバラザフは何でもよく知っているものだ」
 さらりと自分の知識であるかのように披露して、抜け目無く評価を稼ぐバラザフだが、彼自身、そんなものは昨夜知ったばかりである。
「それはそうと、バラザフ。こちら側は連中の防備は手薄のようだな」
「どうしてそう思われます」
砂蟹カボレヤ が巣穴を作るくらいだ。誰も見回りになど来ていないのだろう」
「なるほど……。確かにそうですな」
 カトゥマルの洞察を聞いて、バラザフは、血は争えるものではないなと思った。
「こちら側は殆ど足場が無く、濡れた砂に足を取られるので攻められるとは思っていないのでしょう」
「そうだな。だが向こう側と挟み撃てば話は別だろう」
「向こうのファヌアルクト殿と挟撃を呼応させるとなると、また遣いに時間を要しますが」
「いや、その必要はないさ。そろそろだろう」
 カトゥマルがそう言うと敵を挟んで向こう側から鯨波が上がるのが聞こえてきた。
「先にファヌアルクト殿に手回しをされていたのですか」
「いや、ファヌアルクト殿の性格を考えると待ちきれず仕掛ける頃だと思った。俺がそうだから分かる」
「まことに血は……、いえ、何でもありません」
「何か言ったか。バラザフ、矢を射掛けろ。火矢ではなく普通のだ」
 バラザフからカトゥマルの配下隊に指示が下ると、兵等が船上から放射状に射撃攻撃が始めた。正面から攻撃するファヌアルクト隊のための援護射撃である。
「今回のカトゥマル様の洞察、見事でございました」
「バラザフの知恵にばかり頼ってはいられないからな。それに、俺もお前もズヴィアド先生の弟子であるわけだしな」
「ズヴィアド先生が一門を開いていれば、我々は先生の同じ門下生という事ですね」
「そういう事だ。猪突な俺ばかり見て忘れていただろう」
 カトゥマルとバラザフは今でもこうした冗談が言い合える関係である。バラザフの言葉のように、生前のズヴィアド・シェワルナゼは教師でもなく、また宗教的に認可された師でもなく、彼らにとっての「先生」であった。ズヴィアドが先生として彼らに教授したのは、言うまでも無く戦場における戦術である。
 カフジの兵がファヌアルクト隊に手一杯になっている隙に、カトゥマルの部隊は城壁に梯子を掛けて、東側の区画のおよそ半分を占拠した。ほぼ無人の場所に兵を送り込んで奪取する事は、この上なく容易い事であった。
 カフジの太守が防備を固めている、残された最後の区画の前でカトゥマル隊とファヌアルクト隊は合流を果たし、カフジの攻城戦はいよいよ大詰めを迎えようとしている。
「カトゥマル様、この奥で指揮を執るのはカウシーン・メフメトの弟のファントマサラサティです。それを考慮すると今までが順調過ぎたように思えます。特に火砲ザッラーカ の一斉射撃が危惧されます」
「もっともだな。だが一度得られた勢いは貴重な力だ。前に使っていたあれ・・ を備えながら、このままゆくぞ」
「インシャラー。共に冥府までも!」
 カトゥマル隊の勢い・・は確かに凄まじい力となった。カフジ城内に出現した九頭海蛇アダル は敵の精鋭までも呑み込んでいった。
 対火砲ザッラーカ 用の砂袋を用いるまでもなく、恐ろしいほどの速さでカフジは陥落したのであった。
 アジャリアは、
「カトゥマル、ファヌアルクト、それにバラザフ。カフジの攻城、申し分の無い手柄である」
 と、短いながらも、現実味のある褒辞を垂れた。
 アジャリアは実は長子アンナムルを欠いた事を気に病んでいた。だが猪突なだけの愚息と先々を危ぶんでいたカトゥマルが、案外戦術の面でも、バラザフには及ばないものの、それなりに成長している事で、アジャール軍の展望が明るくなった気がして、嬉しさで虚飾が一切削ぎ落とされて出た言葉であった。
 アジャリアは余程嬉しかったらしく、バラザフを褒めるはずで父のエルザフに後で送った手紙に、バラザフの手柄に絡ませながら、随所にカトゥマルの名を出して、エルザフを笑わせた。
 家名を自らの名として帯びるアジャリアも、こういう時には人並みの父親エビ なのであった。老境を深める程、人は公から個へ還ってゆく。

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2020年6月5日金曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第5章_1

 メフメト軍との戦いから帰還してより、バラザフはまたアジャリアの傍で勤務するようになった。アジャリアの傍で働くのは近侍ハーディル として仕えていた少年時代以来である。
「戦いは敵兵を倒せばよいというものではない。城邑アルムドゥヌ を強引に奪い取ればよいというものでもない。敵も味方も出来うる限り死なせない事が最上だ。隊将は武技だけ持っていてもいかん。わかるな、バラザフ」
 勿論、バラザフにとっては言われるまでも無い極めて基本的な事柄ではあるが、アジャリアから慈愛を込めて含むように諭されると、その言葉が千金の価値があるように感じられるのだった。それはアジャリアから得られる知恵は漏らさず貪欲に吸収していこうとバラザフは常日頃から思っているからである。
 バラザフ・シルバ、二十五歳。ズヴィアド・シェワルナゼから戦術、城邑アルムドゥヌ 建設を習っていた懐かしき時代は、すでに十年も昔の事である。
 バーレーン要塞包囲から退却戦に勝利して帰還してすぐに宣言したように、平時に戻る暇を与える事無くクウェート侵攻を命令した。
「先の戦いで皆が疲れきっている事はわしも重々承知しておる。しかし、好機はメフメト軍が怯んでいる今、一瞬の時しかないのだ」
 大鳥ルァフ から毟り取った羽根がずっと生えずにいるだろうとは楽観出来ない。
「今しかクウェート侵攻を再開出来ないのだ」
 本当は味方の誰よりも将兵の疲労が分かっているアジャリアなのである。しかし、ここは配下に負担を掛けてでも断行したい計画で、ここまでそうなるように盤面を動かしてきたつもりだ。
 大鳥ルァフ の羽根が治らぬうちにクウェート獲得を成しえなければ、ナーシリーヤのファリド・レイスは、きっとバスラにまで手を伸ばしてくるに相違ない。急がなければ、その後も力を持つ者がどんどん後続し、勢力図は刻々と塗り替えられてゆくのである。
「思慮深きバラザフの事だ。わしが拙速に過ぎるように見えるであろう」
 出征の慌しさに全軍が包まれる中、アジャリアとバラザフだけになる事があった。
「決して拙速には見えません。アジャリア様のお言葉通りクウェート侵攻は今しかないでしょう。そうでなければ先の激戦が全て無駄になってしまいますから」
「戦略的な事では無いのだ。そうさな、言うなれば生き方よ。わしもそろそろ五十。命の尊さが自分でよく分かってきたと思える」
 戦いの前とはとても思えない程穏やかに好好爺は語る。
「お前はまだ若く勢いがある。わしはこの歳になって思うのは、これまで何を成して来たか、死ぬまで何を成すことが出来るのか、だ」
 アジャリアは真っ直ぐバラザフに向き直り、
「わしは生き切るぞ。せいぜい後五十年だ」
 と哄笑した。
 もちろんバラザフにとってはアジャリアのこの心境も彼の吸収すべき教材であると思っている。だが、実際それを理解するのは難しい。バラザフの中でアジャリアは正に神で、その神がこう ずる事は有り得なかった。
 アジャリアは後五十年と言ったが、彼自身にとってはこれは明らかな冗談でも、バラザフは現実的な数字として受け止めた。
「いずれにしても時は限られているのだ。よって、このクウェートをその限られた時の中で成し得ておきたい」
 アジャリアはここまで自身の心根を吐き出し、
「全軍出撃!」
 と気勢溢れる指揮官の顔に戻った。
 クウェートの南、沿岸沿いのカフジに前線の陣を置いてこの城邑アルムドゥヌ を包囲した。今回の前線の将軍はアジャリアの甥であるサイード・テミヤトがその任に就いている。
 アジャール軍がカフジの地に至るのはこれで三度目である。ハラドからリヤドを経由してカフジまでの行軍はおよそ二週間である。季節は冬の入り口に入り、酷暑と対照にあるこの時期は昼間は過ごしやすい。
 カフジから海岸沿いに進めばクウェートへは二日の距離であり、このカフジの城邑アルムドゥヌ を含めて南のメフメト軍を勢力圏を背にする格好である。
 以前にここを奪取して撤退と同時にアジャール軍が放棄したカフジは、再びメフメト軍の勢力下にあった。カフジの太守はファントマサラサティ・メフメトという者で、カウシーン・メフメトの弟である。
 アジャール軍はカフジの包囲を調え、夜になってバラザフは現地の案内人を連れて周囲の視察に出かけた。
 海岸に出て砂浜を歩いていると円錐状の物体がいくつも設置されているのを見つけた。
「何だあれは。メフメト軍の新しい罠か」
 案内人に尋ねると、円錐は砂蟹カボレヤ が巣穴を作るときに掘った砂を積んだものなのだという。よく見ると円錐状のそれは確かに積まれた砂で、恐る恐る足で蹴ると簡単に崩れた。
 内陸で生まれ育ったバラザフにとっては海洋の生き物のこうした生態はとても珍しいものだった。
 アジャリアは奇策百出の頭脳から、九頭海蛇アダル に喩えられるが、彼らは砂の海に棲む九頭海蛇アダル であって、本物の海とは実はあまり近しい存在ではないのである。

※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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2020年5月5日火曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第4章_10

 フートが走り去ってから一刻――。アッシャブートからフートを通して報告があげられた。
「メフメト軍はアジャール軍が待ち伏せを迂回すると読んでいる。そのためバーレーンからの本隊と合流待ち待機場所からは動かない」
 バラザフはこの情報を、メフメト兄弟は城邑アルムドゥヌ の防衛戦でアジャール軍から手酷くやられているのでシアサカウシンから、
 ――こちらから仕掛けるな。
 との命令が出されていると解釈した。
 まだフートからの情報はある。
「敵味方の諜報戦が熾烈です」
 配下のシルバアサシンが各方面で必ずシーフジンと遭遇しているが、今の所戦闘は回避出来ていると続けた。
「シーフジンもアジャール軍の情報をもぎ取ろうと躍起になっております」
「フート、予め戦闘を許可しておく。この場合こちらの情報を守るのが優先される。敵の情報を取れなくとも良いから、各自の判断で始末して構わない」
「承知」
 作戦とアジャリアの意図を鑑みると、別働隊の情報だけは何としても秘さねばならないのだ。
 結局、シーフジンとの戦闘が多発した。
 シーフジンに対応するには、彼らの移動力を封じる事が肝要である。ここでシルバアサシンの連携の良さが活きた。
 ある所では網を張り、ある所では縄を巡らせ、砂地に伏せて、シーフジンの足を止めに掛かった。それで各所でシルバアサシンとシーフジンとの戦闘に発展した。
 ここで判ったのは、シーフジンは先にオクトブートと遭遇して霧消してしまった者のように、捕縛されたからといって皆が皆、消えるわけではないという事である。
 フートは配下全員に、
「モハメド・シーフジンはカウシーン・メフメトの傍近くで勤めているという話だ。よって戦場には出てきてはいないと見ていい。モハメドに統率されればシーフジンの連携も侮れぬものになるだろうが、各々ばらばらであれば我等シルバアサシンが奴等相手に危うくなる事は無い」
 と自身の思惑を伝えてある。中には消えてしまう奴もいるであろうが、シーフジンの中で唯一恐るべきは首領のモハメドであるとフートは考えている。
 バラザフは、これらのを情報を取りまとめる事から、別働隊のワリィ・シャアバーンよりも先陣に居るアブドゥルマレク・ハリティへの情報伝達が優先されると判断した。アジャリアへの報告には弟のレブザフが走っている。
 レブザフが持ってきた情報はアジャリアを喜ばせた。
「待ち伏せておきながらメフメト兄弟は我等が戦闘を回避すると読み違えたか。ふふ……、九頭海蛇アダル から通り一遍等の知恵が出るわけがあるまい。わしは定石を外すことも中てる事も出来るのだ」
 そしてハリティを急がせるようにアジャリアからバラザフへの指示を持ってまたレブザフは駆けた。敵が油断している今が攻め時である。
 アジャール軍のこの動きを見たメフメト兄弟は、傍から見ても分かるくらいに青ざめた。先の戦いで自分達がアジャリアに敵わない事は証明されてしまっているのである。
 アジャリアの言葉通り待ち伏せておきながら、彼らはアジャール軍との遭遇を想定していなかった。
「何故、アジャリアがこちらに向ってくるのだ!」
「あれもまたアジャリアの幻影タサルール とやらではないのか。こちらに影を当てて本隊は砂漠を横断して通り過ぎるに違いない」
 アジャール軍によって混乱させられているのは、上だけでなく下の諸将もである。ここに召集された意味を知らない彼らは、
 ――アジャール軍と戦う事になるとは。
 ――アジャール軍に交戦の意思は無いらしい。
 と噂して浮き足立った。
 その通り上からも彼らは命令されており、言われた地点へ布陣すればアジャール軍は迂回して通り、後はバーレーンのメフメト軍主力が追撃し、そこから挟撃にうつればよいと一応安心させれていたのである。
 シルバアサシンや、アジャール軍のアサシンはこれを衝いた。流言を用いてこの噂により真実味を持たせたので、メフメト軍の将兵の間では、いよいよ、
 ――アジャール軍は迂回路を取る。
 との情報が浸透しきっていった。
 内部に流言がこれ以上拡散して、より困難な状況に陥るよりは、
「まだ勝機のあるうちに事に挑もう。向ってくるアジャール軍に先手を打つ」
 と、ソコルルとメフメト兄弟は、先制攻撃の方針を決めた。
 同時にこの情報は、バラザフのもとへ流れてゆく。バラザフは先陣に居るアブドゥルマレク・ハリティの所へ向う途中でこれを受けて、敵がアジャール軍を迎え撃つ構えになっている事をアブドゥルマレクへ知らせるために馬の脚を速めた。
「伝令将のバラザフ・シルバだ。そこを通してくれ!」
 暗闇を照らす松明を持つ兵の間をバラザフは駆けて通る。
「ハリティ殿、アジャリア様からの伝言を持って参った!」
 バラザフは、敵の動き、アジャリアの指示に加えて、先ほど入ったメフメト軍が交戦の構えを見せているという情報をアブドゥルマレクへ伝えたところで新たな伝令が駆け込んできた。
 ――メフメト軍、火砲ザッラーカ を発射!
「怯えた威嚇射撃だ。あの場所からはこちらに火砲ザッラーカ は届かん。どちらにしろ交戦する気のようだな。バラザフ、全軍に戦闘の準備をさせてくれ」
 先鋒の本部のアブドゥルマレクの陣を出て、最前線へ向けてバラザフは走った。一番前に配置されているのはハッターン・アルシャムラニという将である。
 アルシャムラニに伝令を終えた所で再びメフメト軍の火砲ザッラーカ が一斉射撃された。
「今度はかなり近いな」
 火砲ザッラーカ が宵闇の空の赤く焼いているのが見えた。おそらく今の発射で全て撃ってきたはずだ。
 ――予備の発射を残しておいて反撃される危険はあるが、しかし、
「次の発射までに一気に仕掛けるぞ!」
 メフメト兄弟にそこまでの機知は無いとバラザフは判断した。急場、伝令将の任に就いてはいるが、バラザフは部隊を率いる身分である。伝令の間にも常に彼の部隊は随行してきており、バラザフは弓兵に先ほど炎が見えて明るくなった場所を指して攻撃を命じ、騎馬兵は自身と共に突撃するように指示した。万が一次の火砲ザッラーカ が来た時に備えて、また以前のように砂袋投げて炎を防ぐ手配も忘れなかった。
 闇夜の空を弓矢がはし って裂いた。準備に時間のかかる火砲ザッラーカ と比べて、弓矢での攻撃は連射も出来るし、急場の小回りも利く。
 音から判断して弓兵の攻撃は効いているようだ。
「好機! 一気に押し掛けるぞ!」
 伝令将でありながら、その場に居合わせた都合で、バラザフが最初の切り口を作る形になった。
 馬上で両手に諸刃短剣ジャンビア を持って構える。そして、灯明がある位置を目指して駆けた。火砲ザッラーカ を敵が撃ってきたために攻め時が生じただけである。悠長に構える時間は無かった。
「敵を見つけたらとにかく斬れ! もたもたしているとこちらが火砲ザッラーカ の炎の馳走にあずかる事になるぞ!」
 暗闇故の同士討ちも回避するよう指示した。当然ながら同士討ちというものは、進行方向が交わるから発生するものである。よって扇状に各自が斬り進んでいけば味方とはぶつからないという一応の理屈である。言葉で敵味方を判別する方法もあるが、今回はこの方法を採った。
 先に斬り込んでいった者らに続いて、手持ちの矢を撃ち終えた弓兵も得物を抜いて攻撃に入った。
 予想通り火砲ザッラーカ は一斉射撃した後で、反撃らしい反撃も無く敵部隊は俄かに崩壊した。
 一人、バラザフに斬りかかってくる者があった。質の良い装備から火砲ザッラーカ 隊の隊長であると思われた。
 相手は素早く剣を突き出してバラザフを仕留めようとするが、その切っ先は全てバラザフの諸刃短剣ジャンビア なされ、最後には左の刃で大きく弾かれた隙に、右の刃で心の臓を貫かれ絶命した。
 すぐに周りを警戒し視界を巡らせてみると、各自、敵の殲滅を終えた部下達が集結している所である。兵等が集まってきた場所では二人が刃を交えている最中であった。どちらかが味方でどちらかが敵である。
 その片方の頭にあるカウザ と両手の諸刃短剣ジャンビア からバラザフだと判断し、彼が敵将を仕留めた瞬間、歓声が沸き起こり、その渦は周囲のハッターン・アルシャムラニの部隊にも伝播していった。
 ――見事!
 と手柄を寿ことほ ぐ声まで聞こえてくる。
「十分に働く事が出来た。この場はアルシャムラニ殿の部隊に任せて我等は伝令の任に戻る」
 バラザフが自部隊に退却を命じた所に、アルシャムラニ隊がやってきて入れ替わり、陣地を確保した。アジャール軍の陣地が一歩進んだ形になる。
「さすがはバラザフ・シルバ。伝令の任にありながらその機転で緒戦を制してしまうとは」
「いえ、行きがかり上、巻き込まれたに過ぎません」
 全方面で剣が交わり始めた。バラザフの戦いがきっかけとなったのである。
 両軍の火砲ザッラーカ が火を噴いて、夜の砂漠を明るくした。
 アジャール軍が分隊して稼動しているため、メフメト軍もこれに対して隊を分けて対応しなくてはならない。ハリティの部隊は敵を斬りながら圧している。士気は十分である。
 戦戈は荷隊カールヴァーン を護衛しているナワフ・オワイランの部隊にも及んだ。
「積荷を死守せよ! 守りきるのだ!」
ナワフは必死に叫ぶ。こちらは劣勢を強いられていた。
 敵の放った弓矢に荷隊カールヴァーン の護衛隊の小隊長の一人が眉間を射抜かれた。途端に配下の兵が悲鳴をあげて慌てふためき始める。戦線の弱まった所に敵兵が殺到した。
 ナワフは部下を怒喝しながら敵を必死に防ぐ。小隊長を失った部隊を急いで他の小隊長の指揮下に入れた。
「守りきるのだ! 勝てない敵ではない!」
 隊列が乱れ、敵味方が入り混じっている。誰もが暗闇の中、剣を振り回していた。
 乱戦が一刻ほど続いた後、別働していた部隊を連れてワリィ・シャアバーンが荷隊カールヴァーン の加勢に駆け付けた。すでに自分の持ち場の敵は片付けている。
 奮って抗戦する荷隊カールヴァーン を押し切れなかったメフメト軍は、背後にワリィ・シャアバーンが部隊が俄かに出現し、前後から挟まれる形となった。
 七万のワリィ・シャアバーン隊が鯨波を伴ってメフメト軍を圧殺しにかかった。
 メフメト軍の数は十三万。数ではかなり有利に見えるが、その実、メフメト勢力圏内から集まった烏合の衆で、あわよくば脱走の機会を窺う兵もいるほどである。
 結局の所、まともに戦意があるのはメフメト兄弟とソコルルとその他数名のみで、あとは兵を束ねる隊長格でさえ、後ずさり始める始末である。メフメト兄弟の命令を待たず、ほとんどの将兵が戦場を離れようとしている。その点ではアジャリアに侮られ、雛鳥ファルフ と揶揄されているとはいえ、メフメト兄弟はまだ将として資格があるといえた。
 まもなく夜が明ける。
 旦日シュルーク が地平より顔を出し、戦場の砂を橙色とうしょく に染める。
 始めに挟撃を仕組んでいたメフメト軍は、現前、アジャール軍に挟撃されているという事態である。
「御兄弟、これ以上の戦闘は無用と思われる。戦死は回避すべきです。撤退命令を出すべきです」
 大局眼を持つソコルルでも、この不利は押し返せないと見た。今、アジャール軍の勢いは強すぎる。
「ここに至っては犠牲がさらに増えるばかり。撤退命令を」
 ついにメフメト兄弟から撤退命令が出された。ただでさえ逃げたがっていた将兵らは、形振り構わず散り散りになって姿を消していった。
 そのメフメト兵をアジャールの騎馬兵が、駱駝騎兵が掃討を始める。
「神が我等の勝利を望まれた」
 戦況を見つめていたアジャリアの口から安堵の声が漏れた。その安堵も束の間、すぐに、
「バラザフ!」
 声を大にして呼び声をあげた。
荷隊カールヴァーン と全軍の被害状況を確認せよ」
 いまだアジャリアは勝利に落着してはいられなかった。先に彼が申し渡したとおり荷隊カールヴァーン が無事でなければ彼らの帰還はかなわない。
 バラザフは馬を駆けた。戦いが始まる前と違って、朝に降りた露が今度は腕に冷たく感じられた。
 ある場所でフートが立ち尽くしていた。足元に物言わぬ身体が数多転がっている。
「何があった。フート」
 フートはすでにここには無い心でバラザフに答えた。
「モハメド・シーフジンが出ました……。奴は……。奴は怪異です」
「こちらが戦いを制したのか」
「こちらが倒したのは九人、こちらは六人殺されました」
 バラザフは再度足元の死体に目をやった。その数は十四である。
「一人足りないようだが」
「私です。私はここで死んだのだ」
「だがフートは俺の目の前で現に生きているではないか」
「モハメドは私をやれた。喉下に刃を突きつけ、そしてやらずに消えていったのです」
 バラザフの前に立つフートはただ肉体が生きているだけのようで、心と魂が剥離しかかっている。だが今放心を求めれば或いはまだ間に合うかもしれない。
「ならば大死とせよ。今、絶後に蘇り今まで以上に奮起せよ。フートはもう死んだ!」
「は……」
 バラザフの言葉はひとまずフートの心に救いを与えたが、まだフートが力を戻すには至らなかった。生きる屍になりかけているフートを言葉の剣で斬り、バラザフはフートにそう言ってやる他なかったのである。
「本当は我等が完全に優勢でした」
 フートはバラザフのため何とか先程まで起きていた戦いを述懐した。
「戦いが終わった瞬間、モハメドが現れました。奴は私の配下を一瞬で屠り、最後に私は青い煙を見たのです」
「なるほどな……」
 つまり、シーフジンが前線での敗戦をカウシーン・メフメトに報告するために出てきており、フートの命をわざと取らなかったのはバラザフに恐怖を伝えるためで、
 ――シーフジンとメフメトを侮るな。
 という釘刺しのようなものであろう。バラザフの方にはまだ、そう分析する冷静さが残っていた。
 この惨状の現場に各方面に散っていたフートの配下が戻ってきて、皆、一様に驚嘆した。
「一体何が……」
「モハメド・シーフジンが出たそうだ」
 胸詰まらせるフートの代わりにバラザフが答えた。
 フートの配下達は、
「いかにモハメド・シーフジンが伝説のアサシンでもシルバアサシンの総力なら倒せるのではないか」
「姿を見ても正体が分からぬでは倒す方策が立たん」
「だが首領が生き残れたのは幸いだった」
 と口から出る言葉は様々であるものの、心の内は同一に暗澹としたものである。
「シーフジンと対決する時が迫っているのかもしれない。その時までにフートの指示によく従い各々力を蓄えるように」
 バラザフはフートの顔を立ててやるのを忘れなかった。
「バラザフ様の言葉通りシーフジンとの対決は回避出来ぬだろう。それは逆に仲間の仇を返す機会が与えれるという事だ」
 ようやくフートがアサシンの首領の顔に戻ってきた。
 モハメド・シーフジンの方は、戦線情報を把握を望むカウシーンの指示を受けて、配下を遣わさずに自身が前線に赴いていたのである。
 報告に戻ろうと駆けるモハメドの視界に配下のシーフジンとシルバアサシンの戦闘が目に入り、シルバアサシンを次々に斬って帰ってきた。
「戦線にて我等メフメト軍は敗北。戦後、アジャール軍はリヤドに向けて退却し始めている模様」
 報告するモハメドの顔色はメフメトから仮面のせいで分からない。その口から出る声も、ただ事実を淡々と述べるのみである。
「こちらは手痛くやられたであろうな」
「アジャール軍が把握した情報を借りるならばメフメト軍の戦死者は三万二千、負傷者は数え切れず」
「向こうはどうだ」
「戦死者三千、負傷者六千」
「負けるにしても負け方が酷すぎるな」
「あくまでアジャール軍の情報ですが」
「いずれ愚息等も帰還するであろう。それで再度確かめよう」
 敗戦から命拾した者らが語る言葉によって、カウシーンはモハメド・シーフジンの報告に誤りは無かった事を知らされた。
「息子達よ。父はアジャリアと初めて対決し、そして負けた。大きな戦いであったなぁ……」
 カウシーンは寂しく笑い、細めた目をおぼろげに遠くに遣った。
 俯いて物も言えぬ息子達の中で、シアサカウシンだけが、
「父上は大鳥ルァフ なのです。大鳥ルァフ は地に墜ちる事は無い。墜とされたのは我等だ!」
 父カウシーンの敗北を否定し、最後まで大鳥ルァフ であらしめようとした。翼で飛べない自分達の代わりに、父だけでも大鳥ルァフ として飛翔していてくれれば、それでメフメトの誇りが守れるような気がずっとしていた。同じ思いは後ろのムスタファ、バヤズィトにも当然あった。
「それは違うぞシアサカウシン。大鳥ルァフ といえども土から生まれた物であろうよ。ならば翼を風に永遠に乗せている事など出来ぬのが道理なのだ。アジャリアはカウシーンに圧勝した。この先そう語り継がれてゆく事だろう」
 それを聞くシアサカウシンにもはや言葉は無かった。あるのは自分達の不甲斐無さで父の名を貶めてしまった事への無念だけである。
「我等は義人と世間で称されるサラディンをあてにし過ぎたのだな」
 カウシーンの見る西の海の先には広大な砂の大地が広がり、さらにその先に今日の太陽が沈もうとしている。
「父の死後は、ベイ軍とはそれで手切れとせよ。義侠心は確かに価値ある物だ。しかしこの世でそれより価値ある物は生き残るための力だ。父が死んだらアジャール軍を頼れ」
「はい……」
「あの九頭海蛇アダル の懐に潜り込んで背中に乗ってやれ。乗り心地は最悪だろうがな」
 愉快そうに笑うカウシーンは、最後にはやり切ったという清々しい顔になっていた。
 数年後、大鳥ルァフは 地に降りて羽根をゆっくりと静かに休めた。そしてシアサカウシンは父カウシーンの言葉を守り、アジャール軍との同盟を成立させた。これもアジャリアのクウェート侵攻を再開する上で盤に組み込まれる事になる。
「あれだけ叩きのめしておけば、メフメト軍がわしの行く手を阻む事はないだろうからな」
 ハラドに帰還したアジャリアは早速、全軍にクウェート侵攻の方針を示した。
 先の戦功でバラザフはさらに昇格し、配下が増員され、弟のレブザフも配下を与えられ、兄とは独立した百名程の自分の小隊を持つ事が出来るようになった。
 息子達の出世を聞いた父のエルザフは、
「あの苦境の頃の死なぬ覚悟がここで生きてきた」
 と彼ら以上に喜びを噛み締めていた。

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2020年2月5日水曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第4章_7

 アジャール軍は全軍でハサーに進んでいる。
 シアサカウシンは本格的な追撃に入るため軍容を整えていた。
 ところが追撃に燃えるシアサカウシンを嘲うかのように、二十万のアジャール軍はハサーの傍まで寄せて、またもや転進したのである。
「全軍、西だ。このまま皆でリヤドに帰還するぞ!」
 アジャリアの指示が下達した。
「ハサーを獲得する目的ではなかったのですか」
「ハサー獲得も上辺うわべ の陽を見せたに過ぎん。これで十分にメフメト軍を揺さぶりをかける事が出来たはず」
 目的を十二分に達成したにもかかわらず、アジャリアの表情が晴れていないと傍のアブドゥルマレク・ハリティは見た。
 今回のメフメト軍との戦いが布石であるならば、それはクウェート攻略のために他ならない。だが、ハリティの見たアジャリアの顔色にはそれだけでない苦さが出ている。
「帰還の道は間違いなく血路だ、アブドゥルマレク。メフメト軍は大鳥ルァフ と化してわしらを食いに追ってくるぞ。各隊に情報収集を怠らないようにして進軍するように命じよ」
 ――アジャール軍、ハサーに向う。
 シアサカウシンの方ではこの報を受けた上で、これからの方針をカウシーンにまず上申した。
「ハサー近辺を封鎖してアジャリア軍を包囲殲滅するのが良いと思われます」
 確かに盤面にはハサーに封じられて大鳥ルァフ の翼に被われて啄ばまれてゆく図が出来上がっているようではある。故にシアサカウシンのこの考えは常識的判断と言えた。
 だがカウシーンは、これに否やをとなえた。
「だがな、シアサカウシン。アジャリアの性格を考えるとサラディンと同じわだち に車輪を落とす事は無いはずだ。包囲殲滅にはこの父も反対はすまい。だがハサーというのは虚報に違いない。おそらくアジャリアはハラド、あるいはリヤドに退却しようとしている。メフメト軍全てを連携してその逃げ道を潰してやろうぞ」
「しかし、そう考えるとハサーは虚報であるという我等の裏をかいてくるような気にもなってきますが」
「そうだな。であるから後は当主であるお前が判断するが良い」
 結局シアサカウシンはカウシーンの方針を採った。
 そしてカウシーンの読みどおり、アジャール軍の進軍がハサーの手前で西に折れた。後は一直線にリヤドに向う道である。
「お前はそういう奴だ、アジャリアよ」
 カウシーンの顔に僅かに笑みが浮かんだ。肉体が老いても頭は老廃していなかった事を喜ぶ笑みである。友が自分が知る友であってくれた事も嬉しかった。
 その下でシアサカウシンの方はアジャール軍挟撃のために実務的に動き回らなくてはならない。弟達、領内の諸将との包囲、連携のための使者が行き交う。
 それらの一人が、シルバアサシンの手に捕縛された。
 書状を持ったメフメト家の使者がバラザフの所へ連行された。網を張っていたのは、オクトブートである。
 使者が携えていた書状には、
 ――ハサーの西に部隊を急行させバーレーン要塞からの主力部隊と挟撃する。
 という作戦内容が書かれていた。
「各所に自分達だけがわかる目印をつけて砂漠を往来していたようです。シーフジンを使者として遣わなかったのが幸いしました」
 バラザフは褒美としてオクトブートに金貨と肉とを与えた。褒美として価値のある金貨の他に、肉は戦場ですぐに労いになる。
「水と果物はレブザフに言って荷駄から持っていけ」
 当然、酒は与えられない。オクトブートは速やかに退去した。口にこそ出さないものの顔には褒美に満足した清清しさがある。
 バラザフは、捕らえた使者と書状をアジャリアに差し出した。
「カウシーン殿がわしの意図を読んだのだ。シアサカウシンはきっとハサーで我等を包囲するつもりだっただろう。ともあれ、退く先に軍を回されるのはいかにもまずいな。挟撃に嵌まり込んで進退を見失わないようにせねば」
 ――決戦の時が近づきつつあるな。
 アジャリアは、すぐにバラザフに諸将を集めさせた。軍議である。
「バラザフ、お前には伝令将として動いてもらう。時間が無い。即刻稼動してくれ」
 ここまでバラザフの部隊はカトゥマルの部隊に所属する形で動いてきたので、この再編措置はアジャリアの口からカトゥマルに伝えられた。
 今の戦局での主目的は帰還・・ である。よってメフメト軍との戦闘が起こるとすれば、それは敵が退路に立ち塞がってきたときであり、遭遇戦となる事が予想される。これまでのように時と場所を握る事は出来ず、敵兵のみならず宵闇も敵に回るかもしれない。
 よって伝令の任に就く将は智勇兼備でなければならず、用兵の機微を頭の中で描ける者でなくてはならない。九頭海蛇アダル であるアジャリア軍の中を血液のように巡らなければならず、これがしかと機能出来ないと頭や手足がばらばらに動き出す。
 ――困難で心労の強い役目だ。
「既に西方面に敵兵力が集まっているだろう。フート、情報収集に今まで以上に動いてくれ」
 今回のバラザフが受けた伝令の役目は、ただの伝令ではなく敵との遭遇が大いに予想される、戦闘込みの仕事である。兵を殆ど連れず戦うのは腕の立つ武人でなくては務まらない。
 この戦場にはシルバアサシンの他に、アジャール軍のアサシン、アジャリア直属の間者ジャースース も諜報のために放たれてはいるが、それらはバラザフの管轄下ではなく、彼らに指示を下して用いる事は出来ない。従ってシルバアサシンの働きぶりが、バラザフの伝令将の役目に直結する事になる。
「バーレーンより繰り出される兵はおそらく二十万。これをカウシーンとシアサカウシンで分隊して、西へ進む我が軍の先に回して絡めてくるはず。アジャリア様はこの二十万の稼動には時が掛かると読んでいる。つまりこの時を利用して敵の全軍を同時に相手するのを回避するのが我等の生き残りの胡麻シムシム 。門扉を開けるという意味だ」
 バラザフの詳説を弟のレブザフや配下の部隊長が神妙に聞いている。あれだけメフメト軍を翻弄した後の退却である。皆、この血路を活路とせねばならぬと理解していた。
「おそらく路線は今言った方向に定まる。いや、そこに必ずもっていく。フート、そのために情報を掻き集めるのだ」
 皆、言葉無く拝している。が、バラザフには、彼らに自分の意が浸透していっているのが感得された。
「昔、アジャール軍とベイ軍との間に大戦争があった。今回の戦いの熾烈さもそれと同等か、それを上回る事になろう。死なぬ覚悟が要るぞ! 味方との連携を疎かにせず戦死者を一人も出すな!」
 バラザフは激戦が訪れる事を読んで、配下に死なぬ覚悟を説いた。もちろんアジャリアも激戦を予測している。しかし、その危機感はまだ軍全体に伝播しきっていない。
 ――西にメフメト軍の陣を発見。すでに配置は済んでいる模様。
「予想以上に迅速だな。全員、大鳥ルァフ の背にでも乗って飛んできたか」
 偵察の者の報告に対してアジャリアは冗談交じりに余裕の態度で応えてはいるが、心の奥の顔は額に汗を浮かべている。メフメト軍の動きが予想以上に迅速なのは事実なのである。
 続いてアジャリアは偵察の者にバーレーンからの本隊の動きを問うたが、こちらにはまだ動きは無く、こちらの方は思ったより遅いようであった。
「わしにまだ武運がある証拠だ。この遅れは我等にとって僥倖となったわ」
 バーレーン要塞の主力がまだ出撃していないのが分かったアジャリアの安心感は大きい。
 一方、西に回りこんだ敵部隊の様子も大いに気になる所である。
 その部隊の数は十三万。ハサーのムスタファ・メフメト、ダンマームのバヤズィト・メフメト、さらにムバッラズの街の太守ソコルル・メフメトなどメフメト軍の諸将が集結している、と偵察は報告した。
 アジャリアの横で一緒に報告を聞いていたバラザフは、自分の背筋が冷たくなるのをはっきり自覚した。あれだけメフメト軍を叩いたのに、まだこれだけの戦力が残っている。主力が来ないまでも十三万を相手にするだけでも下手を打つとこちらがやられる。

※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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2019年12月5日木曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第4章_1

 たった一晩でダンマームから九頭海蛇アダル が消えた。多勢のアジャール軍はバヤズィトの夢想の中の存在になってしまったかのようである。自分達が追い返したから居なくなったのではない事だけは確かである。不可解な撤退であった。
 ダンマームの城邑アルムドゥヌ は陥落せずに済んだ。半死である自分も命永らえた。だが、まだ自力で歩き回るのは難しく、頭からも血の気が失せているのがわかる。
 ――あの猛攻も厳しかったが、撤退の手際も恐れ入るな。
 朦朧とした頭でバヤズィトは、戦いを回想し分析していた。あそこまで強攻めをして、しかも落城寸前にまで追い詰めておきながら退却していった理由は一体何だ。
 ――そうか!
 ここでバヤズィトは、アジャリア・アジャールの真の狙いがバーレーン要塞にあると思い至った。父親のカウシーンはバヤズィトにアサシンを配下として与えていた。今がそれを用いるべき時である。
「命を削ってバーレーンまで駆けてくれ。アジャール軍の到着より早く報せが届かねばならない。二十万の大軍がバーレーンに向っている事を報せるのだ」
 バヤズィトの命に言葉は返さずアサシンは消えた。青い煙のようなものだけを残し、それもすぐに霧散して見えなくなった。

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2019年11月5日火曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第3章_17

 数年前バーレーン要塞が百万の大軍で包囲された事があった。その総大将が他でもないサラディン・ベイであったが、その中身はカイロ、アルカルジ、オマーン、ドーハ他、各地方の反メフメト勢力の寄せ集めであり、指揮系統が確立していない軍とは呼べない集団であった。
 いかに義人サラディン・ベイであるとも、これらを統帥する術無く、バーレーン要塞の包囲を解除するに至った。その時ムスタファはバーレーンで参戦し、これらを見ていた。
 だが、ムスタファが眼下に見ているアジャール軍は、その寄せ集めとは全く別の存在で、城壁の上から遠くを見ても、戦意が高い精鋭である事がわかる。
 ムスタファの身体に怯えの気が漂っている。それが周囲に伝染し、ハサーの体温が冷たく、そして重くなっていく。
 ――この戦い、危うい。
 そんな空気が城内に伝播していった。
 この戦況を危険視したシアサカウシンは、カイロのサラディン・ベイに援使を送った。ハサー城内のムスタファからも援使は数回送られた。
 だが、ベイ軍からは援軍を撥ね付けられはしないものの、
 ――援軍の用意あり。しばし持ち堪えられよ。
 と返事されるだけで、援軍はやって来なかった。
 サラディン自身がメッカのザルハーカ教横超地橋派の蜂起に苦しめられている事を、メフメト軍は知らない。
 城内で怯えるムスタファにしても他勢力に援軍を求めるシアサカウシンにしても、決して無能というわけではない。寧ろ遠目に敵兵の士気を感得出来、敵将を侮らず力量を推し量らんとするは、下の将兵を束ねるのに最低限の器量は持ち合わせていると評価されてもよい。
 しかし、戦争は兵力の多寡もさることながら、奇策を生み出す人間の頭脳に依る所が大きい。即ち発想の豊かなる者、想像力に富む者は乱世で生き残れる確率が高まり、空想力の乏しい者はそれらに淘汰されてゆく。勿論、空想が双頭蛇ザッハーク壁浮彫ラーハ のように世に現れ出ない物であってはならない。
 砂の海の上に大きく横たわる九頭海蛇アダル の頭は切り落としてもいくらでも生えてくるだろう。奇策として一つの頭に対応出来ても、他の頭に食われる。それが怖い。
 アジャリアの包囲は固い。攻撃を仕掛けて兵力を消耗しないように、
包囲する事で持続的な威圧を掛けている。
「時を待て。敵がじっとして居られなくなった時に打撃を与えてゆけばいいのだ」
 と気長に構えている。

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2019年10月5日土曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第3章_14

 カウシーンはダンマームとハサーの城邑アルムドゥヌ にそれぞれ二男と三男を配している。これらにアジャール軍の侵攻に急ぎ備えるようにと命令した。いずれもバーレーン要塞への緩衝となる重要拠点である。
 アジャール軍の方では、バラザフが先鋒のカトゥマルの部隊と合流していた。
「アジャリア様の命でカトゥマル様の部隊を追ってきた次第です」
「おう、バラザフ。我等にも定められた行程がある故、お前が後ろから来ているのに気付いていても途中で待ってやれなかった。許してほしい」
「昔からカトゥマル様は足が速かったですから」
「何、あれでも俺は加減していたぞ」
「追う方は堪りませんよ」
 幼少時の同じ感覚を持った二人の会話は哄笑に変わった。この幼少時の幼い感覚にはナウワーフも含まれている。彼らは主家と家来という間柄でありながら、今でも冗談が言い合える仲である。
「バラザフは昔から知恵が回ったな。そんなお前に尋ねたいのだが」
「何か問題でも生じましたか」
「いや、問題が生じたという事ではない。カウシーン・メフメトという人物を戦う前に知っておきたいと思ったのだ」
「カウシーン殿ですか」
「うむ。父アジャリア・アジャールに匹敵する智勇の将という、世で言われている情報くらいしか分らない」
「私の持っている情報もそれと変わりありませぬ。一応父が申していましたのは……」
 バラザフは、父エルザフから聞いていた、カウシーン・メフメト像を語った。戦い方や交渉のやり方についてを、特にメフメト家のジュバイル獲得がカウシーンの活躍に依る所が大きい事を、押して伝えた。
「戦局を左右させ得る力があるという事だな。父に匹敵すると評価されるのも頷ける」
「戦いにおいて勝つための筋道という物が定まっているのかどうかはわかりませんが、戦略、戦術、外交、どれをとってもアジャリア様のやり方と酷似しているように思えるのです」
 アジャリアとカウシーンが似ていると話して、バラザフは自分も彼らのやり方を模倣しようとしている事に気付いた。やはり勝つための一定の法則はあるように思える。だが、今は頭の中でその方法論を形成してゆく時間は無く、自分等の本分を務め切らねばならない。
「父アジャリアに戦いで勝たなければいけないようなものではないか」
「その言葉は言い得ています。それほどの強敵であるが故に私も寒気がします」
 二組の人馬は離れ、バラザフは後ろの自分の部隊に戻っていった。バラザフは東の空に目を遣った。あの空の下に海があり、そこにバーレーン要塞が在る。
 その空にネスル が誇らしげに飛んでいるのが見える。ネスル は見る見る巨大化し大鳥ルァフ となり空を覆った。
 ――大鳥ルァフ よ。我等の九頭海蛇アダル の首はお前まで届いて吞み込んでやるぞ!
 自分は九頭海蛇アダル の手足だ。大鳥ルァフ に睨まれ背中に悪寒が走る。反面、もし自分が九頭海蛇アダル の頭として稼動出来たなら、どのように大鳥ルァフ を食い殺してやろうかという戦術的な楽しみもある。
「あの時もそうだったかもしれん」
 バラザフはベイ軍との死闘において、主将になったつもりで戦場の動きを見つめている若き日の自分を思い出した。すでに父親になったとはいえ昔日を懐かしむには些か若すぎる謀将アルハイラト である。

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2019年9月25日水曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第3章_13

 アルカルジにアジャール軍集結。この情報がすぐバーレーンに届いた。
「何で素直にクウェートに行かんのだ!」
 新たにメフメト軍の統領となったシアサカウシンの頭の中は怒りと混乱で入り乱れた。
 難攻不落のバーレーン要塞を本気で攻撃するまいと思っていた。万が一来たとして、ジュバイルの城邑アルムドゥヌ 辺りからのはずであった。
「あの揺さぶるようなやり方が気に入らん」
「ではそれに揺さぶられてはならんぞ」
 すでに九頭海蛇アダル の術中に嵌っているシアサカウシンにカウシーンが話して看た。
「同じ高さで観ては九頭海蛇アダル の頭の一つが見えるのが精々だ。だが、上から観れば九頭海蛇アダル蚯蚓ドゥダ に見える。もっともあれは化け物蚯蚓だがな」
「あれが化け物蚯蚓であれば、父上はそれを啄ばむ大鳥ルァフ でしょう」
「その賛辞は嬉しいが父は老いた。長くは飛べぬ大鳥ルァフ よ。父はお前にこのバーレーンの空を飛んで欲しいのよ」
 偉大なる父を大鳥ルァフ に喩えたシアサカウシンは自らが成鳥となって久しく、名目上はメフメト軍の総帥として当主を継いでいる。だが客観的に見ても、親の欲目で見てもシアサカウシンが大鳥ルァフ としてバーレーンを制空する器とは評価出来ない。
 それでも親として子に期待せぬ事など所詮無理な事であり、老いたりとはいえ自分の命ある限りは我が子と一族を守りたいと、ついつい政務軍務の口を挟んでしまうカウシーンなのである。今は迫り来る化け物蚯蚓にこの地を食い散らかされるのを防がねばならない。
 上から観ろと子を諭し、大鳥ルァフ と称されただけあって、カウシーンの目にはアジャリアの意図が徐々に浮かび上がって見えてきた。
「シアサカウシン」
 虚空を真っ直ぐと見つめたままカウシーンはアジャリアの意図を描こうとする。
「アジャリアの狙いはこの父よ」
「父上を?」
「この父の命……というより、力比べよ。どちらが強いか、知恵が回るか、根気が上回るか。同盟に安居して我等はこれまでぶつかって来なかった。大鳥ルァフ九頭海蛇アダル 、ここで雌雄を決してみたいと父にも思えて来たぞ」
「父上……」
 血が沸き立ち震える父を、シアサカウシンは仰羨していた。まさにバーレーンを制空する大鳥ルァフ を眼前に見ていた。
「こちらも全力をぶつけてやりましょう」
「そうだな。あの九頭海蛇アダル がどのような奇策を出して、このバーレーンを落とそうとするのか楽しみなってきたわ。情報を拾え。アサシン、間者ジャースース を増員してアジャール軍の動きを追うのだ」
 父の威風に薫陶され性を成して、シアサカウシンの身体にも闘気が宿り始めた。
 カウシーンにはこれが自分の最後の戦いのなると分った。故、たとえ僭越になろうとも戦いの指揮権をやる気になっているシアサカウシンから自分に戻して戦おうと決めた。
 シアサカウシンに大鳥ルァフ の羽根のひとひらでも有していればよかった。見上げるような感覚や、地に足を着けて横を観る目も必要な時はある。民情を把握して民の暮らしを平らけく安らけくせんとする時がそれである。が、今地を這っていては九頭海蛇アダル に踏み潰されるか、いずれかの頭に呑みこまれて終わる。シアサカウシンを活かしてやるのは平安が訪れてからでよい。
 カウシーンも元々は土の如く地に有った。その土には戦場の薫りが浸み付き、鶏ではなく大鳥ルァフ に大きく焼きあがった。無論、戦場はその製陶を唯見過ごすという事はせず、言うなれば傷物として出来上がった。やがて陶の大鳥ルァフ は命となり、バーレーンの空を飛んだ。その意味ではシアサカウシンは父を的確に観て評したと言える。
 その目でアジャリア・アジャールを観て欲しい。だから、
 ――味方は活かせても敵は殺せぬ。
 というのが父カウシーンのシアサカウシンに対する評である。
 ジュバイル、バーレーン、ドーハ、マスカットにかけて、メフメト家は、ペルシャ湾、オマーン湾の南側の湾岸を支配下に置いている。サバーハ家の客将であったカウシーンの祖父がサバーハ軍の後ろ盾を得て、この地を支配するに至った。カウシーンの今までで一番大きな戦いダンマームでの戦いである。ダンマームはこの時まだ他の有力首長の支配下であって、相手はメフメト軍の十倍以上の威を誇っていた。これをカウシーンの活躍で追い出しアルカルジまで退かせる事に成功した。カウシーンが二十歳の時である。アルカルジもこのときはまだアジャール家の支配ではなかった。
「もうあの時の力は残っていない。だが、アジャリアと最後の対決となれば、ジュバイルの戦いの記憶が我が血をたぎ らせずにはおかぬ」
 ぐっと力の篭るカウシーンの腕は傷跡だらけである。その腕を見つめ、それからシアサカウシンを見遣った。

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2019年7月15日月曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第3章_6

 アジャリア自身はハラドから動かない。だが彼は諜報組織の活動によって、カラビヤート内外の情報を網羅出来ていた。
 アジャリア幻影タサルール 計画は、こうした諜報活動とは別の新機軸の計画である。アジャール家を九頭海蛇アダル にする。アジャール家の版図が胴であれば、アジャリアは頭である。
 体調を崩した際の当座の手当として戦場に出すならば、幻影タサルール は一人居れば足りる。しかしアジャリアの心計はそのようなありきたりのものではなく、九頭海蛇アダル の頭のように各戦場にアジャリア・アジャールを出現させてみたいのである。
 敵にとっては抜け目の無いアジャリア自らが戦場に出てくる事は迷惑この上無く、逆に味方にとっては万人の戦力を得たに等しく、将兵の士気高揚が大いに期待出来る。
 ――アジャリア・アジャールが自ら出陣している。
 全ての戦況において、これを作り出したいとアジャリアは思っている。常にアジャリア軍が十二分の実力を発揮出来れば、押しも踏ん張りも利く。効率よく戦いを進める戦場を想像して、アジャリアの食はまた進んだ。
 ファリド・レイスがサバーハ家からバスラ南の街サフワーンを譲渡された。ファリドに取り損ねたサフワーンをやるのには、バスラから追い出される形となったバシャール・サバーハを無事にバスラに戻して復権させる後ろ盾になってほしいという意図がある。
 以前にファリド・レイスを利用してクウェートに侵攻したアジャリアだが、此度もこれを皮切りにクウェート攻略を再開した。
「あの小僧、わしを差し置いてバスラを取るとは」
 バスラにバシャール・サバーハを帰還させたといっても、サバーハの今の力と、サバーハ家とレイス家が和解した事、ファリドが大手を振ってサフワーンを手中に収めた事を考えると、事実上バスラ周辺の地域がファリド・レイスの支配下になったといってよかった。
 アジャリアはバラザフがファリドを、
 ――若さに苔の生えたような男
 と評したのを思い出した。
「まさにあれだな!」
 自分の事は棚に上げ、それを白い幕で隠して、アジャリアはファリドの老獪さを蔑んだ。若者が老獪さを身につけている事、というより領土獲得で出し抜かれたのが我慢ならなかった。が、自分のそれは許されるのである。
「お前の見立ては正しかったようだ、バラザフ。ファリド・レイスは若さに苔の生えたような男、いや、苔そのものじゃ!」
 さすがにそこまで自分は言い過ぎていないと思ったバラザフだが、アジャリアがレイス軍をバスラ近辺から締め出そうとするのを、その怒気から感じ取っていた。
 ――岩から苔を剥がす、という事なのか?
 そして、クウェートに再度侵攻するという流れになっている。
幻影タサルール の手配はバラザフに任せる。サッタームの準備も手伝ってやってくれ」
 まずアジャリアは弟であるサッタームを幻影タサルール として戦場に出した。幻影タサルール 作戦を知るものはアジャール軍の中でも、ワリィ・シャアバーン、アブドゥルマレク・ハリティ、そしてバラザフ・シルバのみである。

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2019年7月5日金曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第3章_5

 速やかにバラザフの下から、アルカルジの兄達へ遣いが送られた。本家のシルバ家はずっと臨戦態勢にある。
「バラザフを通して、アジャリア様の替え玉を捜せとの指示が出ました」
 手紙を受け取ったエルザフは、アキザフ等に主旨を伝えた。
「戦いに明け暮れる日々が続くでしょう。アジャリア様はついにエルサレムに上る事を決断したようです」
「なぜ、その決断が分るのです」
「それは――」
 普通大将格が幻影タサルール を必要とするのは、身代わりとして本人の命が取られるのを回避するためである。だが、アジャリアはそれを複数人用意せよという。これはアジャリアが軍の多方面展開を意図している事に他ならず、シルバ家がアルカルジで威勢を保ち続けている間に、クウェート、バスラに出征して、レイス軍、メフメト軍とやり合うつもりでいる。これらの戦いにアジャリア・・・・ が前線に出る事が出来れば、味方の将兵の戦意を高揚させ、敵の威勢を抑制出来ると、バラザフは説明した。
「アジャリア様は、通常、守りのための幻影タサルール を攻めの作戦に用いようとしている……。まったく底の知れぬ方です」
「神出鬼没のアジャリア・アジャールが九頭海蛇アダル の頭のように各方面の戦場に出現するわけですね」
 さすがにシルバ家の当主となっただけあって、アキザフはエルザフの説き明かしを飲み込むのも早かった。
「父上、幻影タサルール を攻めに使うというのは我等シルバ軍にも応用出来るのではありませんか」
「それは困難でしょう。頭は増やせても我がシルバ家だけでは胴を俄かに肥えさせる事はできません」
「今はそうでしょうが、手札の一枚として憶えておいて損はありません」
 まだ衰えを知らぬ者の展望の明るさがそこにあった。
「それよりもバラザフ。今はアジャリア様の事です」
 すでに老獪となった謀将アルハイラト は目の前の現実を見通して言う。
「アジャリア様の野心は余りに大きい。ひょっとすると……」
「ひょっとすると?」
「アジャリア様はあのバーレーン要塞を攻略するつもりかもしれません」
「あの難攻不落のバーレーン要塞を!?」
「ええ」
「あの要塞はサラディン・ベイがネフド砂漠の首長等を引き連れて、百万の大軍を以ってしても傷一つ付けられなかったのに……」
 バーレーン要塞はマナーマの西のバーレーン島北部に位置し、ペルシア湾に面している。白い要塞はずしりと体躯を誇り、下でも白く輝く砂が太陽によって輝きその重量をしっかりと支えている。
 ここにはディルムンの古代の港と首都があったと伝わっている。その名に「遺丘」という意味を持ち、建物が建てられる事で砂丘が盛り上がり、時代を経てそれが砂に埋もれてゆく。今のバーレーン要塞の下には古い時代と文化が層を成して眠っているのである。
 燃える水――つまり油はまだ無く、真珠と漁業を産業の主軸としている。
 東西を結ぶ海上貿易の要所として重要性を持つが、その地位は周辺都市の発展度合いによって上下するものである。ここを押さえる事が出来れば、西側の勢力は後は海峡を抜けるだけで東のアルヒンドに進出が可能となり、東側からすれば西へ抜け切って、政治と経済の中心に自勢力の旗を立てられるのである。
 その戦略的に重要な地理条件というものが、年を経るにつれて、バーレーン要塞を自ずと堅牢にさせていった。
「もちろん、アジャリア様も十分それを理解してバーレーン要塞攻略に臨むのでしょう」
 アジャリアの意図を読むエルザフの言葉は確信めいている。
「父上、どうしてそこまで自信がお有りなのです」
アマル ですよ。私もかつては今のアジャリア様のような大きなアマル を抱いていました。シルバ家の領土回復を願っていた時代でさえ、その先があった」
「そのアマル に照らして見たというわけですね」
「そうです。おそらくアジャリア様のバーレーン要塞攻略は撹乱のためでしょう」
 最早、エルザフの中ではアジャリアのバーレーン要塞攻略は確定していた。
「陥落させる事には本気ではない、と」
「我々のクウェート侵攻は去年の時点でほぼ成功していました。メフメト軍に横腹を衝かれない様に、この辺りで押さえ込む必要があります」
「ついにカウシーン・メフメト殿と決着をつけるのですね」
「その前段階としてバーレーン要塞を封鎖してからになるでしょう。その作戦をベイ軍に阻害されないよう、我等シルバ軍はアルカルジを守らなくてはなりません」
「バラザフからのアジャリア様の幻影タサルール 探索の件、急がねばなりませんね」
 アジャリア・アジャールという人は用間の最たる巧者である。
 彼は、争覇の気運が高まると共に、職掌の多様性において発展を遂げていったアサシン達、言い換えると暗殺者カーティル間者ジャースース の糸を引くように使った。敵国での情報収集、国内の民情把握、要人の警護、密書の遣いという具合に分化していった彼らの職掌を細やかに使いこなし、彼らの頭目を信の置けるアブドゥルマレク・ハリティの管轄とした。
 彼らは商人、学者、僧侶、時には他勢力の役人に化けて各地に配置された。その数二千。恐るべき情報量がアジャリアの下に寄せられるのである。

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