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2024年3月5日火曜日

『アルハイラト・ジャンビア』最終章

 レイス軍は、必勝を期待して挑んだリヤド攻略戦で、類を見ないほど惨敗した。

「我等の敗北が世人に広まれば、レイス連合全体に動揺が伝播するのではないか……」

 ファルダハーンは、決戦の場に召集された連合軍の向背を案じた。

 逆にバラザフは、この戦いで自軍が大勝した事が衆口に乗れば、自軍が所属するエルエトレビー連合の士気は上がり、レイス連合に背を向けてこちらに同心してくる諸侯が後を絶たない状況になるのは必然だと思っていた。それくらいの事はしたという自信がある。

「ファルダハーンがこのまま負けを背負ったままファリドの本軍に合流する事はないだろう」

 だが、ファルダハーンに付いている知恵袋のイクティカード・カイフは、

「これ以上リヤド攻略に拘泥していては、エルエトレビーとの決戦に間に合わなくなります。我等にリヤドは取れないのです。ファリド様がマスカットを出てから、すでにかなり経っています。ルトバにファルダハーン様が来ない事に痺れを切らしているはずです」

「だが、このままシルバ軍に勝ちを与えたまま放置するのはいかがなものか」

 それではと、イクティカードはリヤド攻略に重臣を二部隊ほど残して抑えさせておき、リヤド攻略は終わっていないという事にして、ファルダハーンに行軍再開を納得させた。

 岩山の難路を往くという事になった。リヤドから離れて戦線離脱した今になっても、バラザフ・シルバがいつどこで追っ手を差し向けてくるか、それならまだよしとしても、また得体の知れない妖術の類で罠にはめられてはたまったものではない。レイス軍にとって、もはやバラザフ・シルバの戦術というものは、不可視の幻影タサルール のような認識である。

 かつてアジャリアが自分の身代わりになる者達を幻影タサルール と呼んで使っていたが、バラザフのそれは大分様子が異なる。

「リヤドで疲弊した上にこの難路か……」

 一週間も道らしい道を進む事ができず、ファルダハーンは嫌気が差していた。負け戦の後ならばなおさらである。

 バラザフの方はといえば、リヤドに四十万の大軍を一週間も足止めさせた事に十分過ぎるほどの成果を感じていた。ファルダハーンやイクティカードが懸念したとおり、

「本当はもう一段階くらいレイス軍を陥れてやりたかったが」

 と、バラザフは追撃の意欲はあったものの、自軍の寡兵ぶりを鑑みると、自身の手腕だけで突き進むわけにもいかず自制した。リヤドの周りには、未だファルダハーンの配下が陣を張って残留している。リヤドもまだ自由になったわけではないのである。

「父上の意図が全て通りましたね。レイスの兵共が流した涙を壷に貯めて量ってやりたい所です」

 先のバラザフの罵倒に影響されてか、ムザフも俄かに辛辣になった。

「そうだな。俺達が参戦できる局面はここまでだ。後はベイ軍の挙兵を期待し、アッバース軍、ラフサンジャーニー軍の旗色次第でも戦況が動くだろう。ハーシム殿にも今回のリヤドでの攻防戦を手紙で書いておいた。四十万というレイス軍の主力をリヤドに延々と足止めさせたのだから、我等の功績はエルエトレビー軍の中では決して小さなものではないと思うがな」

 戦果を実感しながらも、バラザフの頭の中では、すでに次の手を打つ事を考えている。それにはまず、

「両軍の対決がどれほど時間がかかるか」

 を読まなくてはならない。本音を言えば、どれだけ時間を掛けてくれるか、だった。対決に要する時間が延びていくほどバラザフにとっては益多き事になる。

 ――最後の勝ちはこの俺がもらうぞ。

 バラザフの中で、そうした願望は少しずつ燃焼を強めている。

 かつて、バラザフは大宰相サドラザム アミル・アブダーラに自分は未来を視る目が欲しいと打ち明け、アミルによってその見る先にある物を得る事こそ、本当のアマル だと開眼した。そして、今、そのアマル は、確実に自分の方へ近づきつつある――。

「フート、良い事を思いついたぞ。アサシンを使ってレイス軍がリヤドでシルバ軍に大敗したと、方々に言いふらさせるのだ。各勢力に使者を送るのは当然だが、それより先にベイ、アッバース、ラフサンジャーニー、そして、レイス連合、エルエトレビー連合全ての諸侯にシルバ軍の大勝利を触れ回るのだ、カラビヤート全土、いや、世界にシルバありと言わしめるのだ」

 雨の少ないこの土地に、どういうわけか日照りが少ない。夏の暑さもまだ残る中、この夜も雨が勢いを増して降り始めた。

 エルエトレビー軍がハウラーン・ワジに向かっている。アブー・カマールを出たエルエトレビー軍の兵士達は行軍の間、音を立てて降り注ぐ大粒の雨に身体を濡らした。

「このアブー・カマールを素通りするだと?」

 レイス連合がアブー・カマールに攻撃せずそのままベイルートに向かうと聞いて、アブダーラ連合の実際の統帥権を握るハーシムは、ハウラーン・ワジをレイス連合が通る辺りで食い止めようと城を出てきたのである。

 この情報はファリドが流した偽情報であり、ハウラーン・ワジで決戦に挑みたいと考えていたのは、ファリドの方である。

 決戦の場に先に到着したエルエトレビー連合は、夜が明ける前に布陣を終え、後から来たレイス連合は丘の方に拠点を布設した。

 この時すでにハーシム・エルエトレビーの所には、バラザフがリヤドの城邑アルムドゥヌ で一週間もレイス軍を足止めしたという情報がもたらされていた。

「今、レイス軍を叩けば間に合うわけだな」

 遅参しているファルダハーン軍がここまで到達しないうちに決着をつけたいと思ったのも、ハーシムにここまで軍を動かせた理由の一つである。

 フートが人選して送り込んだアサシンは当然腕のよい者達ばかりで、彼らは、

「ファルダハーン・レイス殿の軍勢がリヤドでやられた。レイス軍の主力がリヤドでシルバ軍に惨敗してしまったんだ」

 と、レイス連合の陣にもしっかり入り込んで、レイス軍リヤドで惨敗の報を方々で撒き散らした。

「四十万のうち半分がやられたという事だ。生存の各隊も負傷者ばかりかかえて、ここまで来ても足を引っ張るだけだ」

 半分事実であるだけに、この流言はレイス連合の諸侯の向背を揺るがせ始めていた。

「こんな事で、勝てるのか……」

 レイス連合の中でファリド・レイスの狼狽が最も顕著であった。すでにハウラーン・ワジで決着をつけるべく全軍に移動命令を下してしまっているのである。その直後にこの流言が厄介事となって飛び回っているのだ。

 それでも、ここに居るファリド・レイスは、若い時アジャリア・アジャールにいい様に手玉に取られて赫怒していた彼ではない。抜かり無く裏でエルエトレビー連合にも手を回し、マブフート家、サバグ、アリ等の諸侯に必死に数百通も手紙を送り続けていた。

「こいつらは必ず我に寝返る」

 そう見込んでいるからこそ、筆を持つ手に汗をも握り、力も入る。ハウラーン・ワジでレイス連合が勝つには、これらの諸侯の寝返りは必要条件であった。

 ワジという地形は間欠泉で曇りやすい。が、この朝のハウラーン・ワジには特に濃い霧が立ち込めた。

 濃霧の中、レイス連合、エルエトレビー連合、両軍が鯨波を上げて互いに激突した。

 ――この戦いは長引く。

 この戦場に居合わせた誰もがそう思っていた。しかし――。

 確かに激戦は発生した。だが、それは日が沈むまでに決着した。レイス連合が決戦に勝利したのである。

 決戦の舞台から遥か離れたリヤドで、同じ落日を見るバラザフとムザフも、この結末は予想だにしていなかった。

 フートが差し向けたシルバ・アサシンはこの戦場に十人ほど散っていて、両軍二百万の大軍がぶつかるこの決戦の顛末を見届けていた。

 ハーシム・エルエトレビーの部隊が敵陣に押し込み蹴散らした。バフラーン・ガリワウも勇戦を演じながらも押し潰されるように戦場に散った。ハーフィド・マブフートはエルエトレビー連合を裏切り、サバグ軍、アリは何故か不戦を決め込んだ。

 アサシン達は、戦況をいち早くリヤドに伝達するため、一人ずつリヤドに向かって駆けた。その報告の任に就いたアサシン達の中には、メフメト家が滅亡したした後シルバの配下となったシーフジンの生き残りの顔もあった。

 エルエトレビーの連合のカーセム・ホシュルー、アウグスティヌス・ゼンギンの軍が全滅したとき、アサシンの最後の一人が地を蹴った。このときにアリは、ファリドの陣を中央突破して戦場離脱していた。

「ハウラーンでの決戦はファリド連合の勝利!」

 リヤドの城邑アルムドゥヌ が、この報が世界で一番早く受け取った。

 バラザフがこの報により衝撃を受けたと同時に、紫電が直下した。轟音と共に落ちたそれは青い火柱となり、横に壁を成した。レイスの死霊達の燐光は、怨恨の炎の壁となり、今度はバラザフの未来を阻まんとするかのようである。

「これはレイス軍の流した虚報ではないのか。二百万だぞ。何故、そのような大軍が戦ってたった一日で決戦が終わるのだ。まったく信じられん……」

 何故こうなったのか、どこで読み間違えたのか。バラザフは頭の中に浮かぶ条件を全て整理してみようと懊悩したが、いくつもの仮定が浮かびそれらが渦のように激しく回るだけである。

「父上、ハーシム殿が惨敗したそうです……」

 馳せ込んでくると同時に報告するバラザフに、虚空に泳いでいた目をゆっくりとムザフに向けて、

「すでに聞いている」

 とだけ答えた。

「それともうひとつ」

 ムザフは、ザラン・ベイがカイロから出ず、執事サーキン のナギーブ・ハルブも主戦論を撤回し城邑アルムドゥヌ にて篭城に等しい構えを見せていると伝えた。

「結局俺は未来が視えなかった」

 ムザフは言葉に詰まり答えなかった。

「俺は未来が視えなかった。いや、見えていたのだ。あのファリドに一度、俺は皇帝インバラトゥール を見た事がある。だが、それは有り得ぬと思った。どうしても納得できなかった」

 バラザフは虚空の中に何かを見ていた。

「戦いには勝った。だが俺達は負けた。レイス軍の主力をここで足止めしてやり、あいつらは決戦には間に合わなかった。だが、それは盤面のひと隅に過ぎなかったんだ」

 そして所属母体となっているエルエトレビーの連合が敗北した。それも僅か一日の内にである。

「今や俺達も敗軍の将となったわけだ。これで中央に居座る事になるファリドから、何らかの沙汰が来るのを待つしか無くなった」

 ムザフの眼前に座る父は、ハウラーンでの顛末を聞いてから俄かに枯れて萎んでしまったかのようである。

「ですが我々は結局ファリド・レイスに、いえ、時代の奔流に勝ちました」

「うむ……?」

「兄上をレイス軍の配下に行かせた事で父上はシルバ家を存続させる事に成功しました」

「だが、それはサーミザフがファリドを好いたからだろう」

「兄上の中に居る父上が、バラザフ・シルバがそうさせたのです」

 ここでようやくバラザフの目にムザフの姿が映った。そして、諦めと満足が入り混じった笑みを口に浮かべて、そのまま瞑目した。

 ――疲れた……休みたい……。

 バラザフ・シルバは生まれて初めて考えるという事をやめた。

 一方で勝ったはずのレイスのファルダハーン軍は、決戦が起きた当日には、まだラフハーの辺りに居た。リヤドでの惨敗で将兵は疲れきっていた。士気も低い。よって行軍速度はかなり鈍いものである。

 三日後、アラーの城邑アルムドゥヌ で決戦終結の報を受けた。

「終わった!? 負けてしまったのか!?」

 なにしろ主力である肝心の自分達が決戦場に間に合わなかったのである。ファルダハーンが、こう早とちりしたのも無理からぬ事であった。

 勝利したレイス軍では、諸侯、各将に褒賞するために戦功が論じられている。そんな中、サーミザフ・シルバにとっては本当の戦いが始まっていた。彼の戦いは実に孤独極まりなく、

「我が父、バラザフ・シルバ、レイス軍に槍を向けた事、死罪も当然な罪ながら、今回このサーミザフが少しでも功有りと賞与下さるならば、父バラザフ・シルバの助命を希います」

 と、父と弟の助命を、シルバ家の風当たりの強いレイス軍の中で切に嘆願した。

 ファリドは、サーミザフの事は気に入っていたし、レイス軍の中でも彼自身の評判は悪くなく、生真面目で裏に含みの無い信に足る武人と評価されている。それでも、さすがにこの嘆願はファリドに首を立てには振らないだろうと、論功の場に居た誰もが思った。

 だが、ファリドは、驚くほどあっさり、

「サーミザフ、いやこれからはシルバ殿と呼ぶべきだな。今回の戦功は評価に値すると思う。リヤドの城邑アルムドゥヌ で我等レイス軍は散々にやられた。貴公がアラーの城邑アルムドゥヌ の陥落させて守り通したのは、我等レイス軍の中で唯一目を背けなくて済む戦功である。肉親の情に従えば、父、弟と計ってこのファリドに弓引いたとしてもおかしくはなかった。バラザフ・シルバには殺しても殺し足りぬほど、今まで煮え湯を飲まされ続けてきたが、貴公の助命嘆願を受け容れる事とする」

 と願いを聞いたが、サーミザフはすぐに愁眉を開くというわけにはいかなかった。まだ何かありそうだと、ファリドの心の動きを感得していた。

「だがな、サーミザフよ……」

 来たな、とサーミザフは覚悟した。

「リヤドにバラザフを置いておいては、このファリドの気が安らぐ事がないのは貴公にもわかるな。そこでバラザフの土地勘の利かぬ遠方へ隠棲させるというのであれば、バラザフは殺さぬ。弟のムザフも、バラザフと共にジーザーン辺りに送るように手配せよ」

「インシャラー!」

 もっと重い処断があるだろうと心痛していたサーミザフは、感涙して応を唱えた。

 急いて退去しようとするサーミザフに、ファリドは、

「待て。まだあるぞ」

 今度こそ、サーミザフは凍りついた。ジーザーンで父と兄を処刑するよう申し渡されるのだと顔を強くしか めた。

「バラザフを退去させるとリヤドが空く。そこでサーミザフ・シルバが今のアルカルジの太守の任と、リヤドを兼任する事とする。どちらかに代行を置く等、子細の人事は貴公に任せる」

 サーミザフの身体に衝撃が走った。無論、恐怖心によるそれではない。本来、サーミザフのリヤドでの功程度であれば、父と弟の助命嘆願だけ相殺されるのが妥当な処分であるため、この領地加増は過分といえる。

 バラザフがあえてサーミザフを招き入れるように、アラーの城邑アルムドゥヌ に入れておいた事で、大盤のお釣りがきたのである。

 感涙したり、肝胆を氷結されたりと、心中慌しい事この上無いサーミザフだったが、ともあれ彼の独りの戦いは終わった。

 バラザフとムザフのジーザーンへの旅が始まった。付き従う家臣は百六十名。これまで中核を占めていた重臣達はすべてサーミザフに預けて、アルカルジに残す事にした。バラザフに従う百六十名は下人に見えて、実は殆どがアサシンであった。

 明日は出立という夜、バラザフ、サーミザフ、ムザフは三人で、シャイ を楽しんでいた。

「東のアルヒンドから取り寄せたシャイ だ」

 自分で淹れたシャイ をバラザフは、二人に差し出した。

「父上はアルヒンドにまで手を出していたのですか」

 父と弟の助命嘆願の一件で一皮脱皮した感のあるサーミザフは、シャイ に口をつけながら、意外と落ち着いて父に尋ねた。

「いや、実は亡き大宰相サドラザム 殿の好意で、居城に招かれてよりシャイ を送ってもらっていたのだ。次の大宰相サドラザム 、まあ、それには十中八九ファリドが就くだろうが、奴は何か送りつけてくるかな」

「送ってくるとすればポアチャではないですかな」

「そうか。ポアチャを送ってくるか!」

 サーミザフの言葉に、バラザフもムザフも大笑いした。意表をつかれたという事もあった。いつの間に冗談に言える男になっていたのか。そんな思いである。

「俺達はレイス軍四十万をリヤドに引き付けて、そして見事に撃退した。小規模勢力といえども一大軍事力として世界中が我等シルバ軍を認識したはずだ。そして、サーミザフを諸侯に位上げするという結果も残せた。そう、結果を残したんだ」

 バラザフの言葉に、サーミザフを首を縦に振って返すしかできなかった。

「俺達はこれからジーザーンで暮らす事になる。これも奇遇の成せるわざか、実は、俺は勝ったらファリドを追放するならジーザーン辺りにしようと決めていたんだ」

 バラザフの目尻に滴がこぼれずに光っている。その皺はリヤドでの戦いの前よりも深く、黒くなったようだった。

 ジーザーンへの道すがらムザフは、

「やはり、兄上の中には父上が居ました」

 と、何気なく語りだした。

「サーミザフが諸侯の席に仲間入りした事か」

「いえ、それもありますが、出立の前夜三人で饗応した時です。父上と兄上の座る姿が実にそっくりでした」

「そうか」

 バラザフのその返事には満足とまではいかなくとも、最早、悔恨の色は残っていなかった。

 バラザフの一行は、ジーザーンの太守に挨拶を済ませ、そこでしばらく預かられてから、山の上の寺院の伽藍がらん を一部間借りする事となった。

 バラザフにとって戦いの無いジーザーンでの時は、十年が一睡のように呆気なく流れた。

 十年の流れは世から人も連れ去った。シルバアサシンの二頭だったフートもケルシュも今や冥府に籍を置いていた。

 小勢力といえども領地持ちであった頃はまだよかった。ジーザーンに来てからは暮らし向きが困窮する事もしばしばで、父子を始め、家来に至るまで飢える事もあった。

 貧しさは反面、知恵も生んだ。

 バラザフの旧知の者が、ナザールボンジュウと呼ばれるガラス製の魔除けの製法をもたらしてくれて、それをムザフが教則化し、皆で生産できるようにした。それで凌いで今日まで生きれてこれたのであった。シルバ家の「死なぬ覚悟」が二人の生きる意志を碧く形作った。

 バラザフとムザフが追放されている間に中央ではファリド・レイスが遂に大宰相サドラザム になり、政治と時代の舵を握っていた。バラザフとムザフはレイス家による政権が安定していくのを遠くから眺めながらも、世界から波乱の種がすっかり拭い去れてはいないと観測している。そのために生活を切り詰めて、蓄えを作り、密かに武器を貯蔵した。

「戦いが無くならない限り俺の出番も尽きる事はないはずだ」

 ジーザーンの生活はバラザフに着実に老いを与えている。だが心の底のアマル まで枯らしきったわけではなく、むしろそれは湧き出ずる泉のごとく確実に存在していた。世相も彼にとって絶望に尽きるものではなく、アミル城クァリートアミール では、カマール・アブダーラが幼年から成人の入り口に入りつつあり、その完成カマールを待ち焦がれる諸侯もこの時点では少なくなかったのである。

 そしてある年の寒さが緩み始める季節、急にバラザフが倒れた。病床の傍につき父を看るムザフに、

「ハーシムが除かれても、アブダーラ家とレイス家の溝は埋まるまいな」

「はい。戦火の煙がここまで漂ってくる気すらしますが、実際、本格的に戦端が開かれるまでに三年はかかるかと」

「三年か。それまで俺はもたぬな」

「生きてください父上、アルハイラト・ジャンビアが再びベイルートに現れるのをアブダーラ勢は皆心待ちにしておりましょう」

「だが、三年はさすがに無理だ。だからお前に策を授けておく」

「拝聴致します」

「アブダーラ軍とレイス軍が交戦状態なったならば、お前はまずアミル城クァリートアミール に向かうのだろう」

「然り。私は父上以上に亡き大宰相サドラザム に大恩を受けた身ゆえ」

「ならばそれを推すような策にしてやろう」

 おそらくこれがバラザフからムザフへの最初で最後の策謀伝授になろう。この父子は昔から気は絶妙に合ったものの、何かを教え、また請うという事は今まで一度も無かった。

アミル城クァリートアミール から二十万の兵をハウラーン・ワジに行かせる。わざわざレイス軍が勝利したハウラーンに行かせるんだ」

「それでファリドはシルバ軍に策謀ありと勘繰る」

「そうだ。奴等が対応策を話し合っている間に西に引き返し、山に挟まれた適当な隘路を探して、工兵、火薬、何でも使って道を封鎖しろ。一度も戦う事無くアブダーラ家古参の諸侯を味方につけろ。奴等の心が揺らいだ所をこちらに引き込むんだ」

 卒倒した時には両目の行き先がまとまらなかったバラザフだったが、戦略を講ずる時の彼はまさにアルハイラト・ジャンビアとして瞬時に蘇生し、視線にも口吻にも力が入る。

「旧エルエトレビー連合を今度は正式にアブダーラ連合として再統合するのだ。エルサレムの要所である縫目の塔ブルジュ・キヤト にも火をかけよ。そしてアミル城クァリートアミール に篭城するのだ。拠点を固めて安定したあたりで今度や夜襲に転じて敵の疲労と混乱を狙ってゆく。そこでカマール公の署名で各地のアブダーラ家の古参の諸侯に書状を送る。ハウラーン・ワジの戦いでファリドがやったようにな。それで敵方は自分の味方を信用出来なくなる。そこまでいけば後は旗色が替わるのを待つだけだ」

「要するに今度は私がハウラーン・ワジのファリドの立ち居地に立つのですね」

「そうだ。間違いなくこれでアブダーラとレイスの抗争は終息する」

 ここまで勢いよく語り終え、バラザフは長く息を漏らした。

「俺の目論見では、アブダーラ、レイス、そこにシルバが加わって鼎立抗争になるはずだったんだが、まあ……うまくいかんものだな」

「そうですね……」

「それからな」

 バラザフは先ほどまでよりさらに声を落とした。

アミル城クァリートアミール に入ったら双頭蛇ザッハーク の像を探せ」

「そこには何が」

「知らん」

「は?」

「アミル殿がそれを探せと言っていただけだ」

「私には何も」

「お前なら何か知っているだろうと思って、敵がお前の身辺を探るからだろう。だから秘密を分割して俺とお前に託したんじゃないのか。レオにも十分用心しろよ」

「レオが……まさかと思います」

「ああ、信じられるうちはしっかり信じてやれ。だが、刺客は必ずくるぞ」

「はい」

 だが、アサシンとしてはあまりに純粋無垢で、しかも弟のように可愛がっているレオ・アジャールを、ムザフはどうしても疑う気持ちになれなかった。

 夕刻、急な豪雨が降って、何事も無かったように去った。

 バラザフの容態は奇跡的に回復した。いそいそと旅支度をするバラザフを見てムザフは驚いた。

「まだ起き上がってはなりません。また倒れたらどうするのです。それに旅支度などして一体どこへ」

「ムザフ、今夜中にジーザーンを引き払うぞ。というか脱出する」

アミル城クァリートアミール に行くのですか」

「お前はな」

「では父上はどこへ」

「まだ決めてない」

「決めてないって……」

「決めてはいないが、あちこちに出没してファリドに一泡も二泡も吹かせてやるつもりだ」

 バラザフは最後に四本の諸刃短剣ジャンビア を身につけ旅装を終えた。

「最後に、レイスとアブダーラに戦端が開かれたときの事だ。あの作戦もこのバラザフ・シルバの名を以って味方が信義を持ち、敵が謀略を危惧する。だが、お前の知名度はまだまだ低い。実力は俺以上であっても、世人の認識あっての信頼なのだ。お前を若造と見て侮る者もいるだろう」

「心得ております」

「だがな、何も悪びれる必要はないぞ。世評に一喜一憂するな。俺はああは言ったがな、配下を信じてやれ。それ以上に自分自身もな。それを以って角と成し突き進むのがシルバの戦い方だ。

わかっているな、ムザフ。死なぬ覚悟だぞ。臆病になって逃亡する事ではないのだ。それがシルバの家風、いや、この俺の遺言だ」

「承りました。我等シルバ軍はその言葉を戦場まで持って行きます」

「それから――」

 と、バラザフはムザフに問うた。

「お前は未来を視る眼を欲しいと思うか」

「もちろん欲しいです。幼少の頃より欲しておりました」

「そうか、お前もそうか。俺もそうだった。未来を、先々を見通す眼が欲しかったんだ」

 喜色を帯びたバラザフの視線は俄かに遠くへ飛んだ。

「だが、結局、俺には未来を視る資格はなかったらしい」

「そんな事はありませんよ。父上のその眼が無ければ、シルバ家もそしてアジャール家ですらこの乱世の砂塵に揉み消されてしまっていたはずです」

「本当にそうであろうか」

「はい。人はいつでも波の上に居られるわけではありません。また波間から九頭海蛇アダル が出現する。そんな時代を創ろうではありませんか」

「そうだな……」

 バラザフはムザフにさっと背を向けると、颯爽とジーザーンを離れた。別れの言葉も言えずに来てしまったのは、涙とはな で濡れきった醜態を見られたくなかったからである。

 バラザフは歩いた。ひたすら歩き続け、歩くという事に没頭していた。不思議と疲れは全く感じなかった――。

 歩くだけ歩いてふと我に返ったバラザフの眼前に見覚えのある瑞々しき黄色が広がっていた。

「ここは……リヤドか」

 菜の花の黄色はあの日と同じ美しさで、バラザフを迎えた。

「ああ……。やはりリヤドの菜の花は美しい」

 遠くから訪れた風が、花の淡い香りとともにバラザフの頬をやさしく撫でる。


 ――ああ……。風が、すずしい……。


 菜の花に魅入られたバラザフはゆっくりと一歩一歩へ踏み出し、吸い込まれるように奥へ姿を消した。

 これ以降のカラビヤートに史書にバラザフ・シルバが出てくる事は二度と無かった――。

(完)

2023年7月5日水曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第11章_3

  ついにファリドはマスカットを進発した。この情報はすぐさまアサシンによってバラザフ、ムザフに報告された。

 この時点でレイス軍の八十三万の兵力は三分割された形となり、ベイ軍進攻対策としてスウィーキー・レイスに十三万、ファリドの本軍三十二万が西進し、さらにファルダハーンが三十八万を率いてリヤドへ向かいつつ、そこから迂回してルトバを目指しそこで合流する手筈となっていた。

「ファリドの奴、やはりこちらに一軍を差し向けて来たぞ。ファルダハーンの三十八万をこちらに当ててきた。今日まで整備してきた城邑アルムドゥヌ で存分に相手してやろう」

 ファリドは、目付けとして重臣のイクティカード・カイフをファルダハーンの傍に置いた。ファルダハーン・レイスはこの時二十一歳の若輩で、ファリドの心配も頷ける。心配性のファリドがファルダハーンの所へ遣った重臣はイクティカードだけでなく、スィンダ・ボクオン、タヌナド・ファイヤド、フアード・アズィーズ等、レイス軍古参の勇将達の精強な部隊をファルダハーン軍に編入して、武力強化も念入りに施した。

「我等が途上に退かずに居座るのはシルバ軍だけだ。しかも我等は三十八万の大兵を率いてきている。いくらアルハイラト・ジャンビアと知謀を畏れられたバラザフ・シルバでもまともな戦いは出来ないだろう。抗戦を示すならばリヤド、ハイルの城邑アルムドゥヌ ごと踏み潰す。従わなくば剣だ」

 すでにファルダハーンの目前には、これからのリヤドの戦いは映っておらず、手早く雑事を済ませてファリドと合流しようと余裕の笑みを見せていた。目付けであるイクティカードも、部隊担当のボクオン、ファイヤドも同じように戦況を見ていたので、ファルダハーンの余裕を若輩の油断と批難する事は出来ない。

 ファルダハーン軍の行軍は速く、すでにリヤドの城邑アルムドゥヌ の間近まで迫り、近日中には包囲を完成させそうな勢いである。

「ムザフ、レイス軍が来た。ハーシムの奴が戦勝後我等の領地の加増を保証してくれているとはいえ万が一もあるし、アミル殿の時のように他の諸侯に難癖をつけられないとも限らない。今のうちの取れる砦を自分達で取っておこう」

「それには私も同意です。丁度私も同じ事を考えていました。近くに防衛拠点が増えるとリヤドの防衛度も向上します」

「ムザフ、俺が一つでも砦を落としてこよう。まだまだ前線での腕は衰えてはいないぞ」

 そういってバラザフは、腰の諸刃短剣ジャンビア に手をかけた。成人の折、アジャリア、エドゥアルド、そして父エルザフから諸刃短剣ジャンビア を贈られて以来、バラザフの腰周りは四本の短剣で賑わっていたが、アジャリアとエドゥアルドの諸刃短剣ジャンビア は今日まで敵の血を吸った事は無かった。

「父上の武技はよく承知しておりますが、レイス軍到達まで今は時間がありません。私がすぐに砦を落としてきましょう」

 そう言って、ムザフは素早く騎乗すると、

「レオ。騎馬兵のみでいいので急いで編成して後から来てください。私は先に行っていますよ」

 レオは手早く五百騎を編成して先に行ったムザフを追った。バラザフも三百名の火砲ザッラーカ隊を編成して、レオに付けた。

「ムザフもまだまだだな。騎馬兵だけで手詰まりになったらどうするのか」

 息子や若手の僅かに詰めの甘い部分を見つけて、やはり俺が居なくてはだめだと、老兵にありがちな満足感をバラザフは感じていた。

 夜の暗闇はムザフ隊の夜襲を援けた。しかも、ムザフの方はレオ・アジャールなどのアサシンを先に行かせて、暗闇の中でも猛進出来るように先の障碍が無いか探らせて、地の利の一端を得ていた。

 ムザフの攻城策はそれだけではない。砦の中に配下を何人も潜入させておいて、要所に配されている兵士を香で無力化していた。室内で用いる場合ではないので昏睡に至らしめる事までは出来なかったが、守備兵の頭が朦朧とする状態になればそれで十分であった。

 ムザフが猛進する道には見張りの兵が居たが、彼等も皆レオ・アジャール達によって取り除かれてしまっていた。

 これらの処方でムザフは、敵の砦に至るまでに無人の道をただ突き進んできたのである。守備兵は皆、起居も意のままにならぬ有様だ。

 ムザフ隊が門前に馬を並べると、中から城門が静々と開いた。ムザフは追いついてきた火砲ザッラーカ 隊に着火させ、放火を備えさせた。

 騎兵部隊が城門から突入する。砦の兵士は千人くらい居たがどの眼もはっきりと開かず、自分達が赫々と燃えるような武具を纏った連中にすっかり取り囲まれているという事だけようやく理解は出来た。

「シルバ軍のムザフがこの砦をいただきにきた。砦も貴公等も包囲されている。手向かいするならば、火砲ザッラーカ の炎が貴公等の身を焼いて今夜の灯火と成すぞ」

 砦の兵士は皆、得物を手放した。頭は朦朧とし、手足に力も入らぬでは、とても戦うどころではなかった。

「賢明な判断だ。死なぬ覚悟を尊ばれよ」

 砦の千名の兵士達は捕虜として扱われリヤドの城邑アルムドゥヌ に送られた。そして砦には騎馬兵二百名、火砲ザッラーカ 兵三百名が守備として置かれた。

「レオ、ここは貴方に任せます。すぐに歩兵をここに編入します。予め旗に使える物を千程準備しておいてください」

 ムザフもバラザフもこの砦を活かした擬態を考えていた。

 リヤドの城邑アルムドゥヌ の城壁から外を見渡すと遠くに砂塵が巻き起こっているのが見えた。砦を奪取して次の日の事である。

「低く広く広がった砂塵だ。相当大軍の客が来たぞ」

「我等シルバ家の旗もあります。兄上の部隊も参加しているようです」

「三十八万。さすがに壮観だ。ウルクでアジャリア様が動かした兵でさえあそこまで多くはなかった。あのような大軍の指揮を執ってみたいものだ」

 大軍の総帥権を握ってみたいという思いは昔からバラザフの憧れであった。ムザフにも父のこの本音が自ずと漏尽してきて、気持ちを一つにしていた。

 リヤドの城邑アルムドゥヌ の守備兵は二万。この数で外のおよそ四十万の大軍を防ぐのである。

 一方、ファルダハーンは、リヤドの城邑アルムドゥヌ を視界に微かに認める距離で陣を布いた。

「昔、レイス軍に煮え湯を飲ませてくれたバラザフ・シルバを冥府の住人にしてやろうぞ」

 昔とは十五年前リヤド城を攻囲して、結局敗退した時の戦いの事で、その屈辱を返上してやろうとファルダハーンは、息巻いていた。

「ファルダハーン様。リヤドを攻略する事自体は容易ですが、今の我々は時を惜しまねばなりません。ファリド様の本軍との合流に遅れるわけにはいきませんから、降伏を勧める使者を遣わしましょう」

イクティカード・カイフの進言をファルダハーンは素直に容れた。その使者としてはバラザフの長男であるサーミザフが良いと、ファルダハーン軍の首脳陣は判断し、彼を遣わす事になった。

 サーミザフは射手に弓矢を浴びせられる事もなく、リヤドの門前まで馬を進めた。

「サーミザフ、レイス軍から離脱して来たのか」

「そんな訳が無いでしょう。父上がレイス軍に降伏するように使者として来たのです」

「何だ、これ俺に降伏勧告とは。まあ良い。これから軍議を開いて降伏勧告とやらを容れるかどうか決める。明日こちらから使者を出すからお前はファルダハーンの陣に戻れ」

 正直者のサーミザフは、自分が相手を偽らぬと同様に相手の言葉にも偽りが無いとして全てを肯定してしまう。まして実の父の口から出た言葉である。これに疑いを差し挟むという理屈はサーミザフには有り得ず、使者としての自分の役目は上々だと信じてファルダハーンの陣に帰った。

 だが、バラザフからの使者は来ない。

 次の日になっても、またその次の日になってもバラザフからの使者がファルダハーンの本陣に姿を現す事は無かった。バラザフには、降伏勧告を受け容れる事はおろか、律儀に返事してやるつもりも無かった。

 ファルダハーンもサーミザフの報告を受けて黙って待っていたが、使者はやって来ず、しびれを切らして自分の方から再度使者を送った。使者には二千人の部隊を付けている。

「シルバ殿、降伏するか否か」

「降伏か。するわけがないだろう」

「返答の使者を寄越すはずだったのでは」

「よいか。俺とムザフはエルエトレビー軍に付くと決めたのだ。お前等のような恥知らずと違って大義に従っている」

「我等を好き放題愚弄するにも程がありますぞ」

「さっさと帰れ。帰ってレイスの小僧に、シルバ軍にとってお前の四十万の兵力など四千と変わらぬと言ってやるがいい。十五年前、お前の父親と同じように泥を被らせてやるぞ」

 使者は真っ赤になって怒ったが黙って席を払って出て行った。怒りのやり場のない使者は、戻ってバラザフの罵倒をそのままファルダハーンに伝えてしまった。

 ファルダハーンは父ファリドからはそれほど短気の性質を受け継いでいなかったものの、これにはさすがに激怒した。冷静さが売りのイクティカード・カイフですら怒りに上気していた。

 ファルダハーンの陣に揃って馬を繋ぐ諸侯も、言葉になって出るのはシルバ軍に対する怒りばかりである。

「バラザフ・シルバ、ここで討つべし! 踏み潰してリヤドの城邑アルムドゥヌ ごと砂に埋めてしまおうぞ!」

 主戦論が大勢を占めるファルダハーンの陣の中で、一人イクティカードの頭だけが冷静さを取り戻し、沈着に進言した。

「ファルダハーン様、リヤドまでやって来てなんですが、今ここを奪取する利は薄いと存じます。包囲の兵員だけを残して、ファリド様との合流地点に向かいましょう」

 とイクティカードは老兵として目付けに付いている真価を発揮した。

「これを懸念していたから使者を怒らせておいたのだがなぁ……」

 ファルダハーンとレイス軍を挑発しておいて、リヤドの城邑アルムドゥヌ に張り付かせておこうというのがバラザフの計画だった。

 バラザフは城壁の外の耕作地、放牧地も焼き討ちに遭うだろうと想定していたので、住民を早めに城内へ退避させるなり、他の城邑アルムドゥヌ に移すなりしていた。

 結局、ファルダハーンはイクティカードの進言を容れて、総攻撃は行わない方針に決めた。

「もう一度だけ降伏勧告をしておこう。それで利かなければ包囲の兵だけ残して、本軍との合流に向かうぞ」

 バラザフのアサシンはここにも配置されていた。それで次に来る使者が最後通告であること、そしてそれが不首尾に終われば、城邑アルムドゥヌ を包囲したまま主力は決戦の舞台へ向かうとファルダハーンが方針決定したと、バラザフは使者が来る前に知り得た。

「それでは、使者にはもっとファルダハーンが怒るようにひと働きしてもらわねばなるまい」

 馬に乗って使者がこちらに向かってきているのが見えた。

「レイス軍は四十万といえども驢馬の尻尾の毛ほどの価値も無い。奴等の毛で襟巻ワシャア でも編んでやろうか。レイスは弱いがシルバは強いぞ。ウルクで負けてリヤドでも負ける。負け癖のついたレイス軍。このリヤドの兵力がいくらか知っているか。たったの二万だ。その二万に腰が引けるからお前等は降伏勧告を何度もしてくるわけだ。戦え、戦え、戦え。ファルダハーンは自分の剣で手を切るのが怖くて、剣も抜けないか」

 最早稚気とも言える罵詈雑言をありったけ浴びせた後、バラザフは、自ら火砲ザッラーカ を担いで、使者に罵倒のみならず火炎まで浴びせてしまったのだった。

 火だるまになった使者は、砂地を転げ周り消火して何とか一命は取りとめ、一目散に退却した。それをシルバ軍の兵があからさまに笑いたてた。

 これが引き金となって、リヤドの周辺の砦からも鯨波があがり、相当な数のシルバ軍の旗が各城壁に棚引いた。

「シルバ軍は寡兵だったはずでは――」

 ファルダハーンは、四十万の自軍を包囲されたような状況に呑まれてしまった。そこへ全身火傷を負った使者が戻ってきて、報告にならないような呻きでファルダハーンに何事か訴えた。

 ここまでよく自制してきたファルダハーンの辛棒が折れた。

「総攻撃だ。リヤドを踏み潰してくれる!」

 ファルダハーンは、ついにバラザフの挑発にかかってしまった。

「本陣を押し出すぞ」

 ファルダハーンは、土地勘のあるサーミザフに諮り、リヤドの城邑アルムドゥヌ が上から見える高台に陣を移すことにした。

「ムザフ。ようやくファルダハーンの小僧が意地を見せてきたぞ。砦を取っておいたのが利いてきたようだ」

 先の砦の奪取は、戦闘としての価値ではなく、少数の遣い者に連結した旗を振らせて、レイス軍に対して視覚的な圧力を加えるためのものだったのである。

 口に含んで吹き付けられた水が霧散して細かく動き回るごとく、レイス軍の動きは忙しい。バラザフの目から見えればレイス軍の将兵など水滴ほど小さなものでしかない。

「うむ。向こうでシルバ軍の旗も移動しているな。サーミザフはきっとハイルの城邑アルムドゥヌ に向かうはずだぞ」

 バラザフは、レイス軍の兵まで自分の意図通りに動かしているつもりになっていた。シルバ軍にやられやすいように、レイス軍を動かせばいいのだと、未来を視る眼に自信を越えた確信を持っている。

「レイス軍はまず周辺の城邑アルムドゥヌ と砦を攻略してから、このリヤドの備えを削ぎ落として、全軍攻撃の命令を出してくると思うが、ムザフの見立てはどうか」

「兄上の動向を鑑みるに、父上の読みどおりになるかと」

「うむ。ムザフ、お前はここを抜けてアルカルジを押さえに行ってくれマスカットへ少しでも近くなるほうが、ファルダハーンの小僧を圧迫出来る。それとハイルの方にはレオ・アジャールを派遣して適当に敵の相手をしたら拠点を放棄して離脱させろ。サーミザフにそのままハイルを取らせればいい」

 あれだけ念入りに改修して産業まで興したハイルをバラザフは放棄するという。ハイルが陥落すれば、おそらくそのままサーミザフの預かりとなり、サーミザフは守備隊としてそこに留められるはずである。そのように事が動いてくれればシルバ家の家族同士で斬り合いする必要は生じない。

 バラザフの先を視る眼は、戦いに競り勝つ事のみならず、大局眼で戦術ではなく戦略を視ていた。

 ムザフがリヤドを出てその日の夕刻、偵察の者から報告が入ってきた。タヌナド・ファイヤドがムザフに押さえに行かせた砦に向かっている。三万の部隊を編成しているという。

 そして、ハイル方面の報告も、レオ・アジャールが計画通り城邑アルムドゥヌ を放棄して退却の最中であると伝えてきた。

 さらに、各方面の砦にボクオン隊二万等、レイス軍から別働隊が編成され本隊から分散しているとの情報があがってきた。無論、バラザフの想定からは少しも逸脱するものは無く、間者の入れ替わりの報告も確認程度でしかない。

 これら一つ一つの対応にも全く焦りが無い。やるべき事は予め決めていた。配下には作戦実行の最終確認だけすればいい。

 ムザフの相手をさせられたレイス軍はいつもどおり苦戦していた。このときのムザフの戦術は、高所から岩を転がしたり、城壁から石を投げたり、火砲ザッラーカ で一斉に炎を浴びせたりと、ファイヤド隊をシルバ軍らしく苦しめた。

 今回の戦いで視覚効果は彼等の手札となったようで、砦全体にシルバ軍の旗を立てて、拡声器で礼拝合図アザーン ではなく吶喊を敵に浴びせた。砦全体にシルバ軍の威圧が響く。

 耳も目も敵の威圧に屈してしまったように、ファイヤド隊の動きは目に見えて鈍った。すでに三分の一程も戦力を失ってしまっている事もある。

 ムザフは火砲ザッラーカ を放射させて、砦から出た。だが、もう敵を狙う必要はない。この方面の防衛線はこれにて締めである。そして、砦の守備を実際に解除してリヤドの城邑アルムドゥヌ に急いで帰還した。

 別方面の砦、すなわちボクオン隊等のレイス軍の別働隊が向かっているシルバ軍の各拠点に、二千人の兵力を配置してある。高低差があるのが特徴で、いたるところに落石が仕掛けられ、穴に落ちれば、これまた槍が林立していて命を拾う事は難しい。

 規模は大きくない砦であるため、大略を考えれば放置しておいてもよく、また奪取したとて彩のある収益は見込めない。それでもレイス軍はリヤドの城邑アルムドゥヌ のために周りを削ぐのだと躍起になり、案の定、穴に落ちて槍で身を刺し貫かれる事になった。

 レイス軍も正攻法で砦は落ちぬと理解したのか、夜襲をかけて攻略をはかるも、夜間の見張りに少しでも人が見つかると、火砲ザッラーカ から一気に炎が噴き出されて近づく事すら容易ではない。

 リヤドと周辺の砦を巻き込んだ多方面攻防戦は、ここまでで一日。どう見てもレイス軍が負けている。バラザフの目論見通りに全てが動いていた。

 レイス軍古参であるイクティカード・カイフは、ファリド・レイスの若く拙い時代からレイス家を支えてきただけあって、シルバ軍の出方に頭を抱えてしまうような事は無いものの、ここまで上手くいかないとやはり面白くはない。

 彼が表に渋面を作りながら次に目を付けたのは、畑――である。

 短い雨の季節が終わろうとしている。リヤドの城邑アルムドゥヌ の外にも、収穫時期を迎えた穀類がよく実っていた。麦の穂は昨日までの雨の雫を朝陽に照らして輝いている。

「畑の作物を手短に刈り取ってしまえ。残りは良い頃合で火をつけて畑を焼いてしまうのだ。さすがのシルバ軍でも慌てて城壁から出て止めに来るに違いないから、その時に打撃を与えればよい」

 古来、攻城戦で畑を焼いて敵の食料を断つという手はしばしば行われてきた。だが、これすらもバラザフは見透かしていた。

 レイス軍は歩兵が一時帰農したような格好で畑に足を踏み入れた。シルバ軍をおびき出す目的ではあるのだが、目の前の黄金色に実る麦は、刈り取れば我が物にしてよいとイクティカードから許されているので兵士達の顔色は明るい。そして、その後ろの方に城外に出てくるシルバ軍を包囲殲滅するための五万の軍隊が息を潜めていた。

 ついにリヤドの正面の門が開いた。間をおかず火砲ザッラーカ が出てきて全体放火を何度も仕掛けた。

「頭の方を狙え。畑を出来るだけ燃やさないようにしろよ」

 収穫に頭がいっぱいだったレイスの帰農兵達は伏せる間もないまま大火傷を負った。雨後の晴天がバラザフのこの作戦に味方している。

 バラザフの奇策はこれで終わらない。騎馬兵が五百程城外に突出して槍を振り回した。

「仕留めずともよい。帰農兵を薙いで威圧したらすぐに城内駆け込んで来るんだ。残りは俺達でやる」

 バラザフは赤い水牛、アッサールアハマル隊をレオ・アジャールに指揮させて繰り出した。

「今回は囮ですね。敵の刃を掠らせもしませんよ」

 門から突進してきたアッサールアハマル隊に度肝を抜かれたレイス軍だが、この騎馬兵の数が少ないと見るや、五万の大兵で圧殺出来ると見込んで押し返してきた。

「敵が出てくるのはこちらの計画通りなのだ。シルバ軍を一人も帰すなよ!」

 だが、アッサールアハマル隊は、レイスの帰農兵の鼻先までの距離に来て、手綱を引いて素早く迂回した。これにレイス軍は食いついてしまった。敵にようやく接触出来たのだ。この機を逃すまいとレイス軍は意気を揚げてアッサールアハマル隊の背中を追いかけていた。

「いかん。またバラザフの罠だ。追ってはいかん!」

 イクティカードは自軍の突進を大声で制止したが、シルバ軍の粘り強い反攻に昨日まで抑圧されてきたレイス軍の追撃は止まらなかった。要らない所でこれ以上無いくらいに士気が上がってしまったのである。

 リヤドの城邑アルムドゥヌ の門が緩やかに閉められていく。アッサールアハマル隊を率いたレオ・アジャールは最後までレイス軍を振り切ったのである。

 普段、士気の上がりにくいレイス軍も、闘争心に火がつくと命じられもしないのに自分から城壁を登りにかかった。城壁の上ではすでに火砲ザッラーカ が煙を立ち上らせて数百ほど待ち構えている。

 火砲ザッラーカ から炎が噴き出され城壁に殺到していたレイス軍の兵士達は多くが黒こげになり、残りは上方からの落石攻撃で下に落とされた。

 まずは足の速い少数部隊で敵を突いておいて、それを追撃にかかった敵を誘引して、まとめて倒すのはバラザフ・シルバの勝ち方の一つの型である。

「十五年くらいこのやり方でレイス軍に当たっているが、誰もこれに気付かないのだろうか」

 学ばない者は未来が見えないし読めない。同じ事を組織的に繰り返すレイス軍の無能の態に、バラザフの心中は憐憫と侮蔑であい半ばした。

 だが、レイス軍の中にもこの学習能力の無さを自覚した者が一人だけ居た。バラザフの罠に気付いていち早く制止をかけたイクティカード・カイフである。

「またバラザフにしてやられたではないか」

 人は集団に成ると慎重さを欠く。冷静さも無くなる。

 自分達が大軍であるゆえ負ける事は無いのだという感覚が、繰り返し土を嘗めさせられてもシルバ軍を過小評価してしまう。言葉としてではなく、感覚として自分達の中に存在する故、自覚出来ないのである。

 バラザフの放火に味方した晴天は、また雲の帳に隠れた。

「偵察に行くぞ。五百騎位連れていこうと思うが、お前もどうだ」

 バラザフはムザフに問うたが、答えは聞かなくても分かっている。

「行きましょう。愉快な事になりそうです」

 この二人の意見が食い違う事は滅多になかった。ムザフの方でもバラザフが次に何を言い出すのか大概知っていた。

「レオ。また火砲ザッラーカ を城壁に準備させておいてください。そして、敵がいつ来ても撃てるように常に着火を」

 バラザフは偵察と言ってもただ行って見て帰ってくるつもりはなく、実際に剣を交えて相手の強さを探ってやろうと思っている。五百騎を連れた二人が門の外に出る。

 アッサールアハマルの赤い行軍は、レイス軍の本陣からも見えた。それはよく目立つ。

「我がバラザフ・シルバを仕留めてくれよう」

 ファルダハーンは自ら火砲ザッラーカ を担いでバラザフのアッサールアハマルの隊を追いかけた。挑発に乗りやすいのがレイス家の血なのかもしれない。旗下の部隊も同様に火砲ザッラーカ を携えてファルダハーンを追うしかない。

 ファルダハーンを筆頭に五百の火砲ザッラーカ が火を噴いた。本営以外のレイスの部隊からも遅れて放火される。

 バラザフは、馬を退かせてそのまま反転した。ムザフはバラザフの部隊の最後尾で追撃の敵を槍で薙ぎ払い、突き倒して着実に撤退している。

 リヤドの門に馳せ込んだバラザフは、レオに頃合を知らせた。ムザフは、レイス軍がしっかり追って来るように距離を開けすぎず、わざわざ戻っては敵中を掻き回して、また退くという事をやった。

 昨日と同じ、というより数十年来の愚をレイス軍はまたやろうとしている。彼等はシルバ軍の罠に気付かず、追って来て、気付いた時にはリヤドの城壁が目の前にあった。

「またやられた!」

 兵の中の誰かが叫んだ。だが、それは余りに遅すぎた。

 リヤドの門が開くと中から現れたのは三百人の一隊とした火砲ザッラーカ が三隊である。レイス軍は一斉放火にただ焼かれるしかなかった。

 煙が風で吹き払われると、全身火傷を負ったレイスの兵達が転げ回る姿が露になった。死傷者は数百名と見える。

 さらに先ほど城内に収容したアッサールアハマル隊も出た。煉獄の中に命を繋いだレイス軍の兵士も、結局、アッサールアハマルの槍に貫かれて、拾いかけた命も瞬時に奪われていった。

 さらにバラザフは締めも厳しい。槍を持った歩兵が出撃して徹底的に生存者を潰していった。

「ムザフ、五千はやったと思うが、どうだろうか」

「昨日の戦果も併せると二万以上になります。短期でこれほどの戦果を上げるなど、我等シルバ軍でなくては不可能な事ですよ」

 ファルダハーンは若き日のファリドさながらに、自陣の物を所構わず蹴散らして大立ち回りを踏んだ。ポアチャが口に含まれていないのが不自然なほどそっくりであった。

「イクティカード、明日は総攻めするぞ! これ以上止めるなよ」

「総攻めはいけません。たとえ成功しても引き上げるのに時間がかかって集合に間に合うわけがありません。ファリド様はもうルトバに到着してお待ちのはずです」

 イクティカードが淡々と正論を述べるだけ、ファルダハーンにはイクティカードが自分の意思を汲まず軽んじていると感じられて、角も生えんばかりの勢いである。

「そろそろファルダハーンの小僧も堪え切れずに総攻撃に踏み切るはずだ」

 明日には来るはずだとバラザフは確信している。自分でやっておきながら可哀想になるくらいファルダハーンを愚弄してきた。

「これで怒らずに居られたら余程大物だろうさ」

「イクティカード・カイフとファルダハーンの身分が逆なら大変な事になっていました」

「ムザフ、川の上流で水を止めてから油を流せ」

「川を炎の壁に変えるのですね。他の砦の差配はどうします」

「今、ケルシュが向かっている。アサシンだけで部隊編成をして、別に稼動させる」

 次の日、最初に城門から出てきたのはムザフの武具を装備した、レオ・アジャールである。

 かつてアジャリアが替わり蓑として自分とよく似た人物を幻影タサルール として用いたように、レオもムザフという役を上手に演じた。

 これに対して、連日手ひどくやられたレイス軍は、これには手を出さず切歯扼腕してこれを見つめている。

「まずはレイス軍は様子見だろうな」

 これもバラザフの読みにしっかりと入っていた。

「レオ、今日のレイスはいつもと違うレイスだ。無闇に突っ込んではこないだろうから、そこを利用しろ。こちらから正面を突いても用心し過ぎて反撃すらしてこないはずだ。だからファルダハーンに飛び切りの罵倒を与えて、砂を掴んで兵等の顔に撒いてやれ。それでまた怒り出せば上々だ」

 まるで敵将であるバラザフに命じられたかのようにレイス軍の兵士はじっと身構えて反撃もしてこない。レオもバラザフの示した手順の通りに罵倒し、砂をかけた。

 ファルダハーンも罵倒までは何とか堪えたものの、麾下の兵士が顔面に砂をかけられて、顔をしかめて耐えているのを見て、眉一つ動かさぬまま彼の脳は最高に怒張した。

「やる――」

 この一言でレイス軍が再び攻撃に転じた。が、レイス軍の動きはファルダハーンよりも前のめりで、一隊が火砲ザッラーカ 仕掛け、しかもレオの率いるシルバ軍の後を追った。

「出ていいなら我等も出るぞ」

 スィンダ・ボクオン、フアード・アズィーズ等の部隊が先に行った一隊を追う形になった。

 レオは、上手く後ろに続くレイス軍を掃いながら、リヤドまで下がって来ている。だが、追撃のレイス軍は大軍である。この後退でシルバ軍にも戦死者が出た。

 今まで空を切るような戦いを強いられてきたレイス軍も、今回ばかりは良い感触を得たらしく、勢いはさらに勝って追撃はとまらない。

 シルバ軍にとってこの後退は筋書き通りであるが、士気の上がったレイス軍の切先は鋭い。レオはもう後ろを振り返らず、真っ直ぐリヤドの城門へ馳せた。

 かつてアラーの城邑アルムドゥヌ の大改築を行い、それ以前にはカトゥマルの頼みでアジャール家最後の砦のタウディヒヤの建築を主幹したバラザフである。当然、リヤドにも色々な仕掛けをしてある。

 まず城邑アルムドゥヌ の中は迷路になっている。敵兵が迷い込むと同じ所を何度も周回したり、あるいは螺旋状の道に迷い込むと奥で詰まってしまい、部隊全体が進退窮まるように作ってあった。通行を妨げる柵もやたら多い。

 リヤドに駆け込んだレイス軍の兵士達はまたもや堪えなければならなかった。おそらく中央にバラザフ等は居ると思われるのだが、目指す先が見えているのに道に沿って巡らされるばかりで、一行に核心に至る事は出来ない。バラザフの方でもただレイス軍の兵士にリヤドを散策させるつもりなどなく、あちこちに少数の兵を潜ませておいて、上から矢が放ち横から槍で腹を衝かせた。

 それでもレイス軍の兵士は苦難の道程を進まねばならない。そして、その苦難の末ようやく内側の城門の前まで来れたのに、城壁からの落石、投石に見舞われた。最早定番となったシルバ軍の勝ちの型であり、すなわちレイス軍にとっては負けの型であった。攻城に挑んだレイス軍の兵士はここでほぼ全滅した。

「これ以上傷口を拡げるわけにはいかん。すぐに下がるぞ」

 レイス軍の将の口から撤退が出ると今度は、開門して中からシルバ軍が追撃にかかった。レイス軍は前後の敵味方でつか えて完全に進退窮まっている。

 先も後も詰まったといってもレイス軍が大軍である事には変わりなく、犠牲の出た上にもそれらを越してシルバ軍へ押し寄せてきた。城門の下の濠に落ちた者も這い上がって城壁を登ろうとしている。

「油の臭いがする――」

 レイス軍の兵の一人がそう気付いたとき、火の川が彼等を一瞬の内に呑み込んだ。ムザフが先にせき止めておいた川に砂漠に漏れ出ている黒い油を流し込んでいたのだった。川だった場所は今燃え上がり炎の壁となっている。

 リヤドの城兵もこの炎の川を最初から心得ていて、炎が迫る前に焼かれない場所へそれぞれ立脚した。

 炎の川に包まれてリヤドは炎の城になった。確かに炎の壁が出来た事によってレイス軍を寄せ付けぬ防御となるのだが、これでは自分で自分の城を火攻めしているに等しい。だが、そこは心計の深いバラザフらしく、上流から流す油を適度に加減して、城邑アルムドゥヌ や、商人宅、民家に燃え移る前に油が燃え尽きるようにしてあった。そして、その油が燃え尽きたあたりで再び川のせき を切って消火する手筈になっている。

 レイス軍の兵士にもこの火攻めで生き残った者も大勢いた。何しろ大軍であるから、確率的に生き残れる者もそれだけ多くなる。火の手が弱まり、生存者が再び城壁をよじ登ろうとしたとき――。

 濠を流すように大水が横から押し寄せた。水ばかりでなく、大岩、巨木までもが含まれた濁流である。当然、レイス軍は恐慌状態に陥った。今度こそ逃げ場がない。

 それでも運あって命を拾える者はいたが、そこに炎の壁作戦を終えたムザフ隊が戻ってきて、稀有の幸運も一瞬で摘み取られてしまった。レイス軍の背後には別働隊として分隊しておいたケルシュの部隊が挟撃に加わって一方的な殺戮を演じた。

 一方でレイス軍の後詰や本軍でもこれらの一連は信じられない光景として映った。意気揚々と攻城をしかけていたのが、一転、殲滅される側に立たされた。

 リヤドの城邑アルムドゥヌ の中にも周りにも濠がある事はわかっていた。濠を越えるのに難があれば、早めに引き上げの指示を出そうと決めていたが、兵達は意気が上がって城壁を登ろうとしている。

 今度こそ、シルバ軍に勝ったと思った。

 だが、濠から一瞬で炎の壁が出現し、兵等を焼いて消え去ったかと思えば、今度は大水が押し寄せてきて、生存者を押し流し、あるいは水底へ誘う。

 救援に行こうにも大水で遮られて最前線に寄り付く事も出来ない。いきなり出現した川の向こうで、味方がバラザフ、ムザフが指揮するシルバ軍の強兵に一方的に殺されていく。ただ、それを傍観している他ないのである。

 レイス軍からハイルの守備を任され、その場で暫定的な太守になったサーミザフからも、これらの様子はよく見えていた。驚きのあまり見開く両目に、父バラザフの戦い方が凄絶に映った。

「情け容赦ない……それしか言葉が出ない」

 そう漏らしながら、サーミザフには一つ気付いた事があった。それはこのハイルの城邑アルムドゥヌ を父バラザフが無抵抗で自分に譲ってくれたという事である。同時に、その意味する所も理解した。

「レイス家の者同士が剣を交えなくても済むように。父上は私と部下をこのハイルに入れて命を拾わせたのだな……」

 このリヤドへの攻城戦だけで、レイス軍の戦死者は四万にのぼった。バラザフの配慮が無ければ、この中にサーミザフの主従も含まれてもおかしくはなかった。

「それぞれの部隊が勝手に押し出したのは明らかな軍律違反なのだぞ」

 それでなくとも、ここに来てから負けを重ねてしまっているのである。イクティカード・カイフは、諸将の責任問題をきつく言及した。この落とし前をつけるという形で、ボクオン隊他、諸部隊から隊長格が処刑されるという犠牲まで出た。

 責任問題に対する処分としてこれらは当然であるとしても、珍しく士気が自発的に上がっていたレイス軍は、急激に消沈し、冷えていった。

「嬉しい誤算というやつだ」

 実戦での戦果に加えて、レイス軍の戦力をさらに削ぐ事が出来たのである。バラザフは作戦の成功を喜んだ。

 次の日は、また雨になった。風で横に舞うような霧雨である。

 バラザフはその霧雨の中、正面の門から出てきた。頭にはアジャリアから下賜された、額に孔雀石マラキート象嵌ぞうがん が施されたあのカウザ を被っている。一万の将兵を率いていた。城内の方にも一万の兵を残してムザフに全権を与えた。

「万が一にも俺がこいつら相手に死ぬ事は有り得んが、リヤドはムザフに任せてきた。ファルダハーンの小僧には策略抜きでシルバ軍の戦いを見せてやろうじゃないか」

 バラザフが連れた一万のうち、千騎がアッサールアハマルの精鋭である。彼等はバラザフを中心に並列錐ミスカブ の突撃陣形をとった。だが、まだ突撃はかけない。後ろの歩兵の行軍速度に合わせて、頃合まで近づいて一気に抜くのだ。

 霧雨の中に、焼かれて赤く光る巨大な鉄塊が、ずしりずしりと濡れた砂を踏み固めて押し進んでいるように見える。レイス軍の本陣からも、ハイルを守備しているサーミザフ隊からも、この燃える赤はよく視界に映えた。

「バラザフ・シルバが出てきたぞ!」

「いや、あれは先年亡くなられたアジャリア様じゃないのか」

「俺はハウタットバニタミムの入城行進を思い出したぞ」

 今でもアジャール家の元家臣はレイス軍の中にも結構居る。皆が数十年も昔のアジャール家全盛期を目の前の光景と重ねた。

「ファルダハーン様、今度こそ手出ししてはいけませんぞ」

 イクティカードは、ファルダハーンに釘を刺しておかなくてはならない。イクティカードにそう制止されるまでも無く、ファルダハーンの意気はレイス軍全体の消沈の気を全て吸い取ってきたかのように、萎んでいたので、イクティカードが手出し無用の方針を決定してくれた事は、むしろ決断を強いられるよりはありがたかったのである。

 だが、その沈みきった心も数刻も経って少し落ち着くと、今度は、

 ――誰か我が軍の中にシルバ軍に一泡吹かせる事の出来る勇者はいないのか。

 と、苛立ちがまたもや小さな火となって揺れ始めている。

「ファルダハーン様、我が軍に知恵の回る猛者が居れば、今日までの敗戦はひとつまみ程の損害で済まされていたはずです」

 口に出していないファルダハーンを読心したかのように、イクティカードは再度釘刺しを忘れなかった。

 バラザフの部隊は、そのすぐ後ろにアッサールアハマル、その後ろに歩兵隊、そして最後に千人程の火砲ザッラーカ 兵が続いた。火砲ザッラーカ にはすでに火が付いている。

 バラザフはファルダハーンの本陣までやってきて大音声で叫んだ。

「我はリヤド領主バラザフ・シルバ。レイス軍にひとつ提案があるからまずは聞け!」

 レイス軍では将軍格から兵卒に至るまで、息を呑んでバラザフの次の言葉を待っている。

「こちらはたったの二万、それに対してお前達レイス軍は四十万だ。二十倍だ。いいか、二十倍だぞ。それを我等シルバ軍が相手になると言っているのだ。今日、決着を着ける。これで手合わせせぬというのなら、レイス軍は数だけ揃えた駱駝ジャマル の糞の塊だとカラビヤート中、噂が広まるだろうな」

 バラザフの喩えの汚さにシルバ軍の兵卒すら眉を寄せて苦笑したのだから、当然、ファルダハーンは怒った。怒ってはみたものの、レイス軍は前進出来る状態になかった。眼前に、昨日の炎の壁作戦の余剰で出来た川が横たわっていた。

 川の手前にレイス軍は、稲妻バラク のおうとつのある陣形で構えている。一方、バラザフの方はリヤドを出てきた時から並列錐ミスカブ の隊列を組んでいる。何故、並列かといえば、バラザフを中心に機に応じて、部隊を左右に分隊できるからである。左右に分かれたとき、並列錐ミスカブ は、双頭蛇ザッハーク に変形した事になる。四十万のレイス軍に対して、シルバ軍の二万など小隊扱いであり、それゆえ、間の群飛雁イウザ稲妻バラク の形体を飛ばして変形してもよいとバラザフは考えていた。

「まぁ、どちらでもよいわ」

 バラザフにとっては、ファルダハーンを怒らせて戦いに引きずりだせば、痛恨の一撃を与えてやれる自信がある。そのために、自分が囮として最前線に出てきて、しかもリヤドの兵力を半分もこちらに割いてきた。

「かのサラディン・ベイの戦法にも似ているようだが……」

 と気付いたのはハイルのサーミザフである。彼はバラザフから昔日、ベイ軍との決戦に参加した見聞を聞かされていた、その記憶の中に素早く探りをいれ、当時のサラディンの突撃陣形を父が再現しているのだと理解した。

「アジャリア様だけでなく、サラディンまで自分の力にしてしまったのか」

 レイス軍のボクオン、アズィーズ、ファイヤドのような古豪でも、眼前のバラザフの戦闘隊形を危険視していた。目の前には川も横たわっている。大軍を自在に動かす事はできず、動けない間にバラザフの知謀に陥れられる不安を拭い去る事ができるのなら、それは無謀の猪突者だけだ。

「バラザフ・シルバ自身が出てきたのだ。陥穽が仕込んであるに決まっている。とはいえ、先手を打つこともできぬ……」

 そうした恐怖が増幅していくのは当然である。

「さあ、来ないなら行くぞ。シルバ軍を相手にするという事はアジャリア・アジャールに狩られる事だと知れ」

 バラザフは諸刃短剣ジャンビア を一本抜いて、そのまま敵陣へ、鋭く、真っ直ぐ指し示した。いつもの武器として扱っている方ではなく、アジャリアから下賜された翠玉ズムッルド象嵌ぞうがん の宝物である。

 歩兵五百が河川に居並んだ。アジャリアの独特の戦法だったタスラム部隊である。歩兵が膏で出来た投擲武器を持ち、渾身の力でこれを投げつける敵を怯ませるのである。

 戦いの太鼓タブル が打たれた。すぐさま歩兵がタスラムを敵目掛けて投げつける。レイス軍の前線の兵士達は、タスラムにやられて頭部から血を流し、次々と卒倒していく。しかも割れたタスラムの石膏破片が粉塵となって視界を遮るのである。

 アジャリアの時代から、このタスラム戦法は敵に厭忌されてきた。やられる方からすればそれほど鬱陶しい攻撃であった。

 レイス兵が逃げ散りそうになっているのを見て、バラザフは次の手を合図した。タスラム部隊が下がって、次に火砲ザッラーカ 隊が前面に出てきた。

 太鼓タブル の拍子が変わり、一千の火砲ザッラーカ が火を噴いた。すでに、ここまででレイス軍には六百程の死傷者が出ている。

 しかし、レイス軍の反応は薄い。逃げ惑うような反応は見せはしても、反撃に出てくるまでの押し返しは無い。懲りているのである。もはや両軍にとって定番となりつつある煽られてよりの反撃は、入り乱れた戦いの陥りやすく、即ち、これも定番のレイス軍の敗北を誘引する。

 バラザフの合図で、詰めの弓兵が出てきた。

 川から進んでこれないレイス軍の頭の上から矢の雨が浴びせられた。

「ポアチャから駱駝ジャマル の糞が生まれたか!」

 精一杯悪態を込めて罵声を放ち、バラザフが手綱を引いてリヤドに戻ろうとした、その時、レイス軍の中から火砲ザッラーカ を撃つ者があった。炎はバラザフの所まで至らなかったが、その引き金で、レイス軍の勘気余った者らが水を掻いてバラザフの後を追おうとした。それを見て残りの前列の歩兵も皆、水に浸かって押し出していく。俄かに大兵が殺到したので、元々、舟が無くとも渡れる水量だった川の流れが止まった。

 命令違反ではある。だが、ファルダハーンは兵達の自発的な押し出しに、自身の意気もまたもや上がって、

「そのまま疾駆するのだ!」

 と、状況を良い風に受け取って喜んでいた。

 バラザフは、またすぐに迂回して前後反転し、並列錐ミスカブ を整え直した。隊が細分化され、錐がさらに鋭さを増した形である。

 レイス軍の先頭が川を渡り終え、今度こそバラザフの部隊を包囲したと確信したとき、

「待て、油のにおいが――」

 流れのせき止められた川は、再び炎の壁と化し、押し出してきたレイス軍の歩兵の大半が一瞬で焼死した。今度は、バラザフの傍にいたケルシュが、この仕掛けを発動させたのだった。フートも一枚噛んでいて、川の水がとまったのを見て濠に油を流し込んで、仕込みをしていた。フートは今回で引退を決めていて、アサシン軍団を指揮に現場に立った。

 二度目の炎の壁で数千の歩兵の焼死体ができた。

「終わりましたな……」

 イクティカードはファルダハーンにわざと聞こえるように呟いた。落胆というより、諦めと嫌気の交じった呟き、ため息である。

 バラザフは、戦果を自分の目で確認して、満足して後ろに退いた。

 後にファリド列伝ともいうべき記録が、レイス家に編まれる事になるが、そこにすら、

 ――シルバ家とのリヤドにおける戦いで、我が軍百害で足らず。

 と、自虐されてしまうほど、この戦いでレイス軍は見事に崩れたのである。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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(最終章2024.03.05公開予定)

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2022年11月5日土曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第9章_4

  ハラド、リヤド、そしてアルカルジ。アジャール家の旧領は、諸侯の領地争奪戦の間で激しく揺さぶられている。無論、そこに手を伸ばそうとしているのは、レイス家、メフメト家である。さらにはベイ家までもが戦乱を生き残るために領土獲得という路線を打ち出してきていた。

 この三家の中でもハラドの獲得で激しくぶつかっているのが、レイス家と、メフメト家で、両軍の衝突があちこちで発生した。

 セリム・メフメトは、

「ハラドの支配権はアジャリアの孫の自分にある」

 と大いに喧伝した。

 これは領土獲得のための欺瞞ではなく、実際にセリム・メフメトは、アジャリアの娘の子である。

 この主張に対するだけの名分を持ち合わせていないファリドは、アジャリア家遺臣を多数雇用して、彼等の土地勘と人脈を活用して巧みに戦争を展開していった。

 戦いはレイス軍がじわりじわりと優勢に進んでゆく。この風向きをずっとバラザフは眺めていた。そして、風向きがレイス軍に有利と見るや、ファリド・レイスに味方しようと決めた。

「ですが、バラザフ様。すでにメフメト軍ともベイ軍とも同盟関係にある我等がレイス軍にまで距離を縮めるとなると、シルバ家が世に軽く見られます」

 家臣の言い分はもっともである。これら三家はそれぞれ敵対関係にあり、シルバ軍だけがその全てに対して良い顔するという事は、どこかで下手を打てば、その瞬間全て矛先がこちらに向けられる危険を孕んでいる。だが、バラザフはこの訴えを自己の肯定を以って柔和に斥けた。

「これこそがバラザフ・シルバの戦略の真骨頂だ。この方法こそが俺達のような小勢力を滅亡から救うのだ。心配ない」

 こう言ってバラザフは、レイス軍への使者に、また弟のレブザフを立てた。

 レブザフは、現在レイス軍の武官となっている、元アジャリア家の家臣のつてでレイス軍につきたいという旨を伝えた。

「あのシルバ家が我等に臣従するというのか」

 ファリドは余程嬉しかったのか、早速レブザフに直接面会し、丁重に迎えた。

「昔、貴公の兄のバラザフ・シルバに一度だけ会った事がある。あの時はアジャリア殿の使者としてであった。いかにも切れ者という面貌だったのを憶えている。そこから我等はシルバ軍に手痛い目に遭わされ始めたな」

 表情に棘を作らないように努めているファリドだが、積年の仇を所々で刺してくる。レブザフはシルバ軍の売込みで出来るだけ値を吊り上げるため、アジャール軍在籍時代に、シルバ軍がメフメト軍やレイス軍と戦って立て功績を、整然と述べた。

 レブザフの語りを聞いていたファリドは、突如、

「貴公、レブザフ・シルバと言ったな。話を聞いていて貴公が欲しくなった」

 とシルバ家の与力を認める前に、目の前のレブザフを家臣に誘った。

 ファリドはバラザフに、

 ――若さに苔の生えたような男。

 と言わしめた程、彼等の相性はほぼ最悪に近い。

 その相性で言うならば、ファリドとレブザフは組み合わせが良かった。少なくともファリドの方ではレブザフを気に入ったようである。

「レブザフ、レイス軍の武官になってくれるなら、貴公を藩主ラジャー に任官するようにエルサレムの聖皇に働きかけてやってもよいぞ。今のレイス家はそれくらいの力はある。勿論、レイス家からも十分な禄を出す」

 今まで何度もバラザフの遣いで方々に外交に出向いて、淡々と人物を見てきた。あのアジャリアですらも、兄よりもある種、冷ややかな視線で観察していたレブザフも、これには心を動かされた。感激したといってよい。

 今までレブザフは相手からバラザフ・シルバの使者として見られてきたが、レブザフ・シルバとして人物そのものに入れ込んできた者はファリドが初めてだったかもしれない。初対面の自分を破格の待遇で迎えると言ってくれている事が、彼の誠実さを表していると思った。

「ファリド殿がレブザフを気に入ってくれたか。シルバ家とレイス家の関係も築いていけそうだ。交渉ご苦労であった」

 バラザフは、素直に外交上の成功を喜んだ。

「兄上、レイス殿が私をレイス軍の武官にと望んでいるのです」

「うむ。それもいいだろう。シルバ家にとってレブザフ以上の外交の人材は居ないゆえ、大きな損失ではあるが、ファリド殿の厚遇を袖にするわけにもいかないだろう。だが、レブザフよ。右か左か迷ったときは、必ずシルバ家のためになる判断をしてくれ」

「もちろんです。しかし、まだシルバ軍での残務処理がありますので、残りの仕事片付けてから移籍致します」

 レブザフがファリドから取り付けてきた約定は、レブザフ本人のみならず、シルバ家にも良い待遇であった。アルカルジのシルバ領をこれまでどおり認め、ハラド、リヤドに関してもシルバ軍の随意で良いというものである。

「シルバ軍が、レイス軍の下についただと!」

 シアサカウシン、セリムのメフメト親子は、バラザフのやり口に恐慌した。当然の反応といえる。

 メフメト家は、これをシルバ家の裏切りと受け取った。

「あちらがそのつもりならば、こちらにもやり方というものがある」

 早速、メフメト軍は、アルカルジを端から切り取ろうと、軍隊を派遣してきた。

 カイロのザラン・ベイもバラザフの外交処方は背信行為であるとして、シルバ家へ侵略の動きを見せてきた。

 当初、恐れていた挟撃を受けた形になったが、それでもバラザフは落ち着いたままである。

「当然予想していたよ。メフメトもベイも想定どおりの反応を見せてきた。だからレイス軍を選んだわけだ。心配ない」

 これまでバラザフは、アルカルジ、リヤドと自分の活動圏の支配権を賭けの担保にするように、諸侯、諸族との外交的な折衝において優位性を得てきたので、その点に関しては実績に裏付けられた矜持があった。支配領域に比してシルバ軍の組織としての勢力は弱い。

 兵力の多寡を覆して、大勢力と同等の立場で渡り合うには、心の奥底に燃ゆる気根と剛勇さを持ち続けるしか無い。表向きは臣従したような形にはなっても、相手が大勢力であろうとも自分は対等の立場であり、君主個人の能力では必ず相手より優っているはずだという思いがバラザフの中にある。

「おい、リヤドに新しい城邑アルムドゥヌ を造るぞ」

 シルバ家の家臣達は、バラザフの突飛な策案に毎度の事ながら面食らった。レイス軍に付くと言い出したかと思えば、今度は城邑アルムドゥヌ を手がけるというのだから、彼等が驚くのも無理は無かった。

「正確にはハイルの城邑アルムドゥヌ を新しくする。アルカルジやリヤドからは一週間もかかるから急な援軍を差し向ける事も出来ないし、我らには多くの軍を常に抱えておける力はない。昔のように小勢が寄せてきたのを撃退すれば良い時代ではなくなっているから、城邑アルムドゥヌ 自体が小さいと、防衛して耐えているうちに味方の戦局から置き去りにされるのだ」

 アルカルジ、リヤド、ブライダーと西北に道が伸びており、ハイルはその道の先にある城邑アルムドゥヌ である。その先も各地に道は伸びてゆくので、押さえを疎かに出来ない場所ではある。

「拠点の戦略的価値を向上させる。規模を広げて大きくするぞ」

 ハイルの西にごつごつとした岩場がある、切り立った高い山ではないが、足場が悪く進軍に難儀しそうな場所である。そこを起点に城壁を築き、足場の悪い岩肌に難儀して行軍してくる敵を弓矢などで撃退すればよい。その基本的な在り様の今までどおり活用して、バラザフはハイルを東へ、あるいは南北へ拡張していった。

「ここからジャウフ、ラフハー、メディナに繋がる」

「三方を睨める位置だが、また三方から攻められる位置でもあるのう」

 叔父のイフラマがバラザフの意図を解して言葉にした。

「その通りです。そして折角城邑アルムドゥヌ を拡張したのに、兵を養えぬでは無用の事となるのです。よって、糧秣確保のための畑と、さらにそのための貯水が必要になってくる」

 バラザフは、ハイルの周辺に点在する小さな砂漠緑地ワッハ を基に水源を整備して、城邑アルムドゥヌ の中にもいくつも溜池を作った。

井戸ファラジ の整備も当然必要だ。防衛線になったら水が枯渇するから、井戸ファラジ は各部署ごとに作ろう。そしてそのうちの一つは枯れ井戸にする」

 この一つに水を通さないようにするのは、抜け道にするためである。

 バラザフは城邑アルムドゥヌ の砦としての機能ばかりを重視していたわけではない。各門に通じる道の脇に商業区を整備し、布類の商人を多く置いた。煉瓦の工場や、金属加工の鍛冶職人も抱えた。

 産業として鷹匠達への業務援助も行った。

 古くからカラビヤードでは鷹狩りが男子の嗜みとされていて、近頃では権威の象徴とされる向きもある。男達がサクル を連れて城邑アルムドゥヌ を離れ、砂漠に入ってゆき、鷹狩りを楽しむ光景もよく見られる。

 サクル は高価なものでは、城邑アルムドゥヌ と天秤に掛けられる程の値がつく。王族、貴族が戦争で捕虜になった際にも身代金代わりに要求される事すらある。

 城邑アルムドゥヌ の整備に併せるように、バラザフは軍制改革にも着手した。

「ハイレディン・フサインがやったように専業武官を増強する」

 カトゥマルも生前、フサイン軍の勢力に圧されて軍制改革の必要性に迫られていた。それを成そうとバラザフは躍起になっていたが、一方で家臣達はこの軍制改革に不安を抱いていた。専業武官の増加は、農業人口の減少に繋がる。シルバ軍のような小勢力がそれを実行可能なのかどうか。家臣達の不安はそれに尽きる。

 ハイルの城邑アルムドゥヌ の大幅な改築に現場が賑わう中、レイス軍とメフメト軍の間で突如として戦いが止んだ、との情報が入ってきた。

「ハラド、リヤドをレイス軍のものに、アルカルジからオマーンまでをメフメト家の随意にする。その保証として両家の間に婚姻同盟が結ばれる、という取り決めです」

 この情報をアサシンのケルシュの部下が探ってきた。

「そんな事だと思った。あのファリドが豪腕を奮えるわけがないからな。外交上の抜け道があれば、すぐに飛びつくのさ」

 バラザフは、むしろ両家の同盟を面白がって見ていた。

「ハイルの築城を急がせろ。叔父上、急ぎハウタットバニタミムに太守として就いてくれ」

 そして、イフラマ・アルマライの下に長男のサーミザフとメスト・シルバを付けて防衛の任を与えた。

 ハイルに大きな城邑アルムドゥヌ が出来上がった。シルバ家が抱えて維持していくにはやや困難ではあるが、ハイル、リヤド、アルカルジ、ハラドが一連してシルバ領となった。

 ハイレディン死後、中央でも時代は停滞していない。

 ハイレディンの寵愛を受けて出世した遺臣のアミル・アブダーラが、他のフサイン軍の遺臣達を統御して、ハイレディンの盟友であったファリドと対立を深めた。

 両家の軍団は、バグダードの南、ナジャフで衝突。この戦いにレイス軍が勝利した。

「また世の風向きが荒れてきたな」

 バラザフの胸中には若者のような期待感がある。自分の知略を思う存分活用出来るような気がしていた。

「戦乱になれば俺の時代も巡ってくる」

 バラザフの気炎はアジャリアの下に居た時以上に、アルハイラト・ジャンビアとして煌々としている。


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2022年8月5日金曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第9章_1

  バラザフの人格が一変した。無論、主家滅亡が原因である。シルバ家の家来の者達にもそれがわかった。

 ――シルバ家を拡大するのだ。

 元々、バラザフの中にそうした積水のように溜まって力を秘蔵したものがあった。それが頼みとするのは自分の知謀のみ、という形で表出してきたのであった。

 今、シルバ家にとって急務の問題がいくつもある。ハイレディン攻勢への対策、ベイ家への対応、メフメト家との関係構築の方針、これら全てが今度の対策として大事な事であった。

九頭海蛇アダル の漂流を一日でも早く止めるのだ」

 頭を酷使して策を出した後、バラザフはそれをすぐに実施した。

 先の対外問題にあげられた中で、ハイレディンに対する策は一番にやらなければならない。ハイレディンは、アジャール家を滅亡させて、憂いがなくなった後で自分に寄ってきたナジャルサミキ・アシュールの血族を悉く処刑し、ハラドの城邑アルムドゥヌ にカトゥマルを討ち取ったフマーム・ブーンジャーを太守として入れた。

 ブーンジャーはハラドに赴任すると、アジャールの残党を大規模に駆り込みにかかった。ハイレディンの命あっての事である。

 戦の火種はまだアルカルジには及んでいない。ハイレディンの軍勢はアルカルジまでは到達していなかったものの、ハイレディンが、旧アジャール領のリヤド、アルカルジの獲得に気炎を上げるであろう事は誰にでも予想できた。

「フサイン軍の武官にルーズベ・ターリクという人物がいる。そいつがアルカルジの知事サンジャク・ベイ に任官されて、このアルカルジとリヤドを封地として与えられるらしい」

 家臣に直近の情勢を示すバラザフが、隠すことなく顔をしかめるのも当然の事で、フサイン軍はすでに勝者として、現存のシルバ家やその他の諸侯の都合を一切無視して、領地の割り当てを差配していた。

「そのターリクとかいう奴から手紙がきたわけだが……、無抵抗にフサイン軍に臣従するなら、今のシルバ家の領土を保証すると言って来ている。真偽を見定めるため、皆の意見を聞きたい」

 まずイフラマ・アルマライがハイレディンに対して思う所を語った。

「ハイレディンという名は常に冷酷無比という印象と共に各地に飛んでおる。つまり、一度敵対した者は永代憎み続けるという事じゃ。そのような者がシルバ領を保証するなどと言うわけが無いと思うがのう」

「ベイ家、メフメト家と我等が今一度結託出来れば、フサイン軍に一矢報いる事も夢ではありません。バラザフ様が戦うと仰せられるならば、我等も喜んで随行致します」

 メスト・シルバもアルマライと同調して、降伏よりも抗戦の意思の方が強いようである。

「私が使者に立ちましょう。要はこの手紙を送ってきたターリク殿と、ハイレディンの我等と結ぶ意思に偽りが無いのか知れればよい話だ」

 弟のレブザフが使者として志願した。

「皆がハイレディンの真意を気にかけているのはよくわかった。レブザフの言うとおり直接探ってみなくては、先に進めないな」

 軍議の内容にバラザフは一定の安堵感を得ていた。

 ハイレディンの意図は未だ不明といえども、シルバ家としては、対外的にも意識のまとまりが感じられる軍議であった。アジャール家であのような悲劇が起きた後なので、シルバ家でも裏切り者が出るのではと気を尖らせていた。

 バラザフの心中では、万が一裏切り者が出れば、その者を粛清して篭城の構えを取るつもりであったが、この分だと、それも口に出さずに済みそうである。

「レブザフ、ターリク殿へ使者を命じる。フサイン軍としての意向をはっきり確かめてきてくれ。抗戦するにしても、臣従するにしても、それでこれからの関係が決まる」

 レブザフを使者として遣わす事として軍議は解散した。

「フート、ルーズベ・ターリクという人物について知っておきたい。フサイン軍とは今まで接触が無かったせいで、武官についても情報が少ない。出自、性格、過去の判断など全てだ。急いで調査してきてくれ」

 バラザフに命じられたフートは、すでに少しばかりターリクの情報を仕入れていた。

「ターリク殿はハラドの出身の武官です」

 ルーズベ・ターリクの出自はハラドで、火砲ザッラーカ の扱いに長けていて、ハイレディンに信用されている人物であり、若輩の頃より側近として取り立てられていた。ハイレディンは、アジャール家を滅亡させた後、メフメト軍や、それ以東の諸侯の征討の采配をこのルーズベ・ターリクに一任している。

 武勇に優れた武官で、知謀も欠けていない。知勇を具有するという点においてはバラザフに通じるものが、少なからずあるらしい。さらには義理人情にも通じ、敵味方の人心収攬の術も心得ているという。

 そのルーズベ・ターリクがハサーの城邑アルムドゥヌ に入った。配下に八万の兵を連れている。距離を少しあけてアルカルジの様子を探っているようでもある。

「ハサーやこのアルカルジでも小領主は皆、すでにターリク殿に臣従を意を示した様子。領地保証の嘆願をしているようです」

 バラザフの心中はほぼこのフートの報告で確定した。ハサーに向けてレブザフが使者として派遣された。

 ハサーまで出向いてきたレブザフをルーズベはまず褒詞で迎えた。

「敵とはいえ不義理な家臣によって滅亡の憂き目に遭ったアジャール家を不憫に思っておりました。反面、一門に属していないシルバ家が最後までカトゥマル殿を衷心を以って支えた。この戦乱の世に在りながらも、義理を重んじる武人と、我が主ハイレディンもシルバ家の格を重く量っておりました」

 シルバ家を高く評価されて悪い気はしないレブザフだが、今、彼等の間で最も重要な事は、領地が保証されるか否か、この一点である。

「それに関しては手紙に書いたとおりです。ハイレディン様もシルバ家の領地を奪うつもりは無いので安心されよ」

 シルバ家には良い事を吹き込んだルーズベだが、当然、腹の内には彼なりの計算があった。

 これからの彼の任務はメフメト軍を斬り従える事と、これ以東へのフサイン軍の更なる進出である。それを考えると盤上にアルカルジを敵として置くのは得策ではなく、巧く臣従させて、抗戦に出てくるのを予防するのが良いと判断した。残り火に手を突っ込んで要らぬ火傷を負う必要もあるまいと、警戒を緩めずにいた。ルーズベとしてはここは何としても、賛辞を惜しまずシルバ軍を自分の手札に加えておきたかった。

 一方で、バラザフの方もルーズベのこうした内情を見抜いていた。レブザフを送る前から、フサイン軍を取り巻く環境を鑑みると、押し潰してくるような強行には出て来まいと予想していた。

「まずはハイレディン様への謁見を薦める。もしそちらにその気があれば、私が間に入って取り計らうがどうだろうか」

 バラザフが直接ハイレディンの拝謁を得るように、ルーズベはレブザフを誘った。

 ハイレディンは今リヤドに居る。

 バラザフはひとまずルーズベの提案を容れて、レブザフを連れてリヤドに出向いた。

 ハイレディンの方ではバラザフに引見する準備をしていたのだが、直前になってバラザフは気分がすぐれぬと言って、拝謁を取りやめた。

 ハイレディンにはレブザフだけを会わせたが、レブザフの前に姿を現したハイレディンは当然ながら、赫怒していた。

 ――シルバ家を誅伐する!

 と口まで出掛かっているハイレディンをルーズベが上手くなだめてくれて、何とか謁見の体裁を整えてくれていたのであった。

 バラザフが仮病を使ってハイレディンへの謁見を中止したのは、この謁見がその場でフサイン軍とシルバ軍の戦端が開かれる場になってしまう事を危惧しての事である。

 ハイレディンの真意を探っていた分、シルバ家の臣従は他の諸侯と比べて遅い。ハイレディンがその遅参を問責するのは目に見えていた。

「カトゥマルの生死不明の内に敵に降伏するのは武人としては不義理、と俺は答えるだろう」

 カトゥマルが無事であったなら、フサイン軍と敵対するつもりであったのかと、また問い詰められる。

「最後の一兵までフサイン軍に噛み付いて死んでいくでしょうと、叩きつけてやるさ」

「それでは、忠誠を誓いに来たはずが、その場で交戦状態となってしまいますよ」

 とレブザフが息巻くバラザフを制止した。謁見の場で諸共誅殺される事も十分有り得る。弁が立つ故に逆にハイレディンの怒りを最大限まで引き出してしまう事が予想された。

 こうしてバラザフは近くの城邑アルムドゥヌ に逗留しておとなしくしていた方がよいと判断した。

 そしてそこまで成り行きをルーズベに隠さず述べておいたのである。

 先の言のとおり、ハイレディンへの謁見の仲介の労はルーズベが担ってくれた。ルーズベと共に貢物を携えたレブザフがハイレディンに拝謁した。

 バラザフ本人が出向いて来ない事にハイレディンはまだ怒っていたが、貢物の中身を見てみてその怒りは失せたようであった。

 貢物が素晴らしかったとか、気に入ったという事ではない。中央の政治で威風を吹かせているハイレディンにとって、シルバ家が捧げた品々には、はっきり言って目を見張るような物は無かった。

 この貢物にハイレディンが見たのは、シルバ家が富貴に優れず、何とか地方で踏ん張っている弱小勢力の姿であり、今自分が誅伐を命じれば一夜にして地上から消えるような者等を、あえて自分の配下として生かしておく戯れのような考えが浮かんでいた。

「生意気な奴だ。だが、たまにこういう遊びもいい。シルバ家の臣従を許す。そのかわり東方攻略の際にはシルバ軍を最前線に送るからな」

 この一言で、ひとまずハイレディンの矛先がシルバ家から逸れた。しかし、全て無事というような上手い具合にはいかず、シルバ家の所領はアルカルジを含めた幾つかの小領だけで、後は大幅に減封されてしまった。減封された分の領土はルーズベの親類の武官を遣ってハイレディンの息のかかかる所領とされた。

 一朝にして独立勢力になったシルバ家は、一夕にしてまたフサイン家の武官という立場になってしまった。

 とはいえフサイン軍は強大である。この支配下にあれば、これで対外的には、強敵に怯える日々から開放されると思われた。

「また他勢力の武官に落ちてしまったのは悔しいが、シルバ家滅亡を回避出来るよう立ち回ってくれたターリク殿には義理で応じなければならないな」

 バラザフは、今後のルーズベ・ターリクの政治に与力するつもりでいた。


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2021年10月5日火曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第7章_1

  バラザフの所に弟のレブザフが来た。

「兄上、アジャリア様が亡くなったとの噂を聞きました。数年の間、自分の死を秘すようにアジャリア様に言い残したとも。兄上なら全て知っているのでは」

 アジャール家の武官として役に就いているレブザフであったが、アジャリアの死を知らされる身分ではなかった。だが、この隠匿はあっけないほどの速さで家中に拡散しつつあった。それでもカトゥマルも含めて重臣等は、

 ――アジャリア様は病気で療養中である。

 と、かたく なに外にも内にもアジャリア生存を装い続けた。

「レブザフ。アジャリア様を死んだ事にするとは不敬である。アジャリア様は病気。そして療養中だ。それが現実なのだ」

 この間にも公ではアジャリアが出なけばならない式典等が発生する。こうした時、式典の場には弟であるサッタームがアジャリアの席の腰を下ろす事になった。

 ――アジャリア様は病気の中、強いて公の場に出ている。

 という現実を作り出すためである。

 数年の間、自分の死を秘すようにとアジャリアは遺言した。この数年という時間を、家臣の間では三年の間と認識して、これを共有する事となり、サッタームをはじめとするアジャリアが創った幻影タサルール 達を、本人が出るべき場所へ出していた。

 一応、形の上ではアジャリア体制を維持している一方で、アジャリアのたった一人の後継者であるカトゥマルが、アジャール家での発言権を強めていった事は自然な流れだった。同時に、サッド・モグベルなどの自分の側近が重きを成すような、人材配置にしていった。

「彼らは知恵もあるし、血筋もよい。政治力も申し分ない。だが、その政治力に比重が偏るゆえ、戦術的な思考の出来る古豪のシャアバーン、ハリティ、オワイラン殿と溝が生じてしまう」

 バラザフの口から懸念が漏れた。

 自分にとってはカトゥマルとは、主家でありながら親友だと思っていた。お互いに自分の考えを言い合える距離で過ごしていたので、最近のカトゥマルが事あるごとに側近の力で解決しようとして、古参の武将との間に立ち入れない一線を引いてしまっているように見えて、危うきを感じていた。

 カトゥマルの母はリヤドの太守の娘である。母の生家であるリヤドで育てられたカトゥマルは、アジャリアの長男アンナムルが死んだ後、アジャリアの後継者となった今でも、アジャール家内では、「リヤド太守カトゥマル・アジャール」の印象がどうしても強く残っている。

 この印象のためにアジャリアが亡くなってカトゥマルが新たな当主になっても、言い得ぬ違和感を皆に持たれてしまうのである。

 カトゥマルが家臣団からぞんざいに扱われたという事は無かった。だが、モグベルなどの側近の台頭に不満を持つ家臣は徐々にこの頃から増え始めていった。

 バラザフは、この亀裂を傍観することにした。

「俺は実際の執事サーキン の役を賜っているわけではない。カトゥマル様のためになる事、アジャール家のためになる仕事だけを考えていればいいのだ」

 と早い段階で自分の立ち位置を定めていた。そうする事が亡きアジャリアに対する自分の報恩であると信じていた。

 他方で、カトゥマルの側近たちはそうは考えなかった。カトゥマルのため、アジャール家のためと考えるより先に、

 ――いかにカトゥマル様に自分をよく見せるか。

 ――自分の出世のためにカトゥマルの出方にどう処世するか。

 という腹の中に金貨の受け皿を備えているような勤め方をしていた。主人の恩寵によって急に位が上がった者によくある思考である。

 アジャリアの時代は、九頭海蛇アダル の頭は、長の頭によって統率されていた。家臣団の中で臨機に頭に数えれる者が替わるにせよ、ばらばらな動きはしていなかった。

 ところが、カトゥマルの代になった途端、カトゥマル側近の派閥、古豪の派閥、そしてテミヤト、アシュール、アブラスといったアジャール家親族の派閥に分かれた。大きな派閥はこの三つなのだが、九頭海蛇アダル の頭には首の細いものあり、目鼻の無いものありで、九頭海蛇アダル と形容するに相応しくない態になりつつあったが、さすがに酒樽の頭を突っ込んで酔いつぶれているものは無かった。

 親族派閥は、古豪派閥に肩入れしたら、次の日は側近派閥の肩を持つというような安定感の無い動きをして、側近派閥はカトゥマルの視野を塞いで家中の裁定から遠ざけようとした。

 カトゥマルに耳ざわりのよい言葉だけを入れて、側近派閥の支配権を拡張しようという、これまた王座に寄生する者にありがちな型であった。

 カトゥマルの目は閉ざされても、バラザフの目からは全体が見えすぎるほど見えた。

 ――側近派閥は欲得剥き出しでうんざりする。

 こうした思いをバラザフは内に抱え込んでおく他無かった。

 昔のバラザフとカトゥマルであるならば、歯に衣着せる事なく考えを言い合えた。せめて自分が一歳でも年長であるならば、衷心を以って諫言する事も出来たろうにとバラザフは思う。

「アジャリア様が作ろうとしてアジャール家は、こんなものではなかったはずだ」

 早くも巨星が堕ちた弱りがアジャール家に見え始めていた。


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2021年9月5日日曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第6章_6

  アジャール軍は野営のこの地から動かぬまま、新旧の年を遷った。カーラム暦995年になってすぐ、アジャリアは床から重い身を起こして、全軍に再出発を命じた。

 主君の病みと、長期による野営で動けぬまま倦み始めていた三十万の将兵は、進軍と聞いて歓喜の声を上げた。

「アジャリア様の快癒、我等家来共は皆喜んでおります」

 アジャリアの病状の重さを知らぬ一般の仕官は、再出発の命がアジャリアの快癒を意味するものととらえてカトゥマルに賀辞を贈る者も少なくなかった。ウルクの遺跡でレイス軍に勝利した時の賑わいが久々にアジャール軍に戻ってきている。

「次の目標はルマイサだ。皆には、わしのせいでルマイサを目前にして歯がゆい思いをさせて済まなかった。ルマイサは包囲して飲み水を断水させれば陥落までさほど時は要さないだろう」

 再出発の軍議で諸将を安堵させて、アジャリアは彼が指揮鞭としている革盾アダーガ の柄を高々と振り上げた。

 この動きの切れに主君の威信を感じた三十万の将兵は大きな川となってルマイサを目指した。さほど遠くない行軍である。

 ルマイサの太守は四千の兵で城邑アルムドゥヌ に立て篭もっている。

 アジャリアは出発前にルマイサを断水させると言った。いつも通り城邑アルムドゥヌ を包囲して、周囲の水源から隔絶させる他、地下から空洞を掘って井戸水を抜く手筈になっている。城外で普通の井戸の深さまで掘り進めてから、次に横に掘ってゆく。掘った所から水がしみ出てくれば当たりである。当たるまで範囲を拡げて掘ってゆくのだ。

 井戸水の断水作戦に加えて、アジャリアはこの穴を攻撃に利用しようと考えている。サマーワ攻撃の際にハリティとシャアバーンが警戒していた事を、今回は自分達がやってみようというのである。そのため今回は最初から採掘職人を連れてきていた。

 これと似た方法に坑道戦というものがある。相手の砦、城邑アルムドゥヌ の地下へ空洞を掘り進み、空洞を支えていた柱に火をつけて重さで下に落とす。あるいは火薬で爆破して施設を崩壊させる作戦だが、今回は掘った穴から兵士を侵入させようとしているので、これとは似て非なるものである。

 わざわざ採掘職人に仕事させて、作戦の手間をかけるのは、この手法でれば落城させるのに、敵味方の将兵の消耗を極力回避出来るからである。

 アジャリアは動かない。ルマイサを包囲したまま、採掘職人達が空洞を掘り終わるのをじっと待っている。敵の兵力は四千、たった一押しすれば済む事だろう。しかし、アジャリアはそれをしようとせず、一ヶ月の間辛抱した。

 この一ヶ月は待つ一ヶ月であると同時にアジャリアの病にも進行の時間を与えてしまっていた。

 バラザフの目に映るアジャリアは日を追うごとに痩せてゆく。それどころか小さくなっていくようにすら見える。

 ――これではエルサレムに上るなど夢想ではないか。

 バラザフの中でその思いが日々に増幅されていくのも無理からぬ事である。

「バラザフ、ルマイサは落とせたか」

 アジャリアは野営地で病臥して、意識が戻るとバラザフにこう尋ねる。一日一日がこれだけになっていた。

「あと少しです。採掘職人達が良い仕事をしておりますゆえ」

 答えるバラザフの方ではこれが定型句になっていた。

 冬の最中、一ヶ月の時間をかけて、アジャール軍はルマイサを落とした。城邑アルムドゥヌ の将兵らはほぼ無抵抗で武器を捨ててアジャール軍の縛についた。同時に――、

 アジャリアは死を隣にして冥府の門の前で眠っていた。

「これはいけませんね……」

 アジャリアの加減を診た侍医は首を横に振った。

「アジャリア様の今の病状では、これ以上進むのは限界です。ハラドに帰還するのがよろしい。ゆっくりとです」

「バラザフ、主だった将だけ秘密で集めてくれ」

「承知」

 アジャリアの意識は戻らない。食事を一切摂ることが出来ず、体中の肉が落ちきっている。戦況を尋ねる言葉ももうその口から発せられなくなっていた。

 カトゥマルの命で本陣に合議のため諸将が呼ばれた。

「エルサレムを目指すのはこれまでではないか」

 まずアブドゥルマレク・ハリティがアジャリアの重篤を理由に撤退案を出し、何人かもこれに賛同する者があった。

 ワリィ・シャアバーンはここまでを黙って聞いている。

「ナーシリーヤを抜いて、サマーワ、ルマイサを得てここまで来れたのだ。バグダードさえ攻略出来ればエルサレムまでの道が通ったも同然。アジャリア様には養生していただくとして、先鋒だけで行く手を片付けてゆくのはどうであろうか」

 言葉は穏やかながらナワフ・オワイランは継続路線を主張すると、これへの異見がサイード・テミヤトの口から出た。

「アジャリア様の意識は戻られぬままだ。ここで養生していただいても快復の望みは薄い。ハラドまで、せめてリヤドまで戻って療養に専心していただくのがよい」

 これにカトゥマルが我が意という風に大きく頷いた。

「カトゥマル様のご存念を家臣にお示しください」

 バラザフがカトゥマルに促すと、諸将の視線が一斉にカトゥマルに注がれた。

「私も帰還第一と考える。ハラドに戻って療養していただきたい。ハリティ殿、テミヤト殿と同じ意見である」

「これで合議は決定ですな」

 バラザフがカトゥマルの言葉が総意となるように閉めた。だが、ここで初めてシャアバーンが口を開いた。

「ハラドに戻ってアジャリア様の意識が戻られた時に、何と伝えたらよいか。アジャリア様の意識が無いうちに勝手に撤退した事になってしまうからな……」

 シャアバーンの言葉に対して、誰も何も言えなかった。アジャリアの病状を鑑みれば帰還が正論だが、名目上、指揮権上ではシャアバーンの言葉もまた正論なのである。それぞれが一国を束ねてもやっていける程の頭脳から出された意見だけに、それぞれの言葉に聞くべき理があり、道は容易には定まらなかった。

 諸将を沈黙させてしまったシャアバーンが再び口を開いた。

「ハラドへの帰還が諸君の決定であるのならば、私がアジャリア様に、エルサレムまで後少しと報告しておく」

 刹那、

 ――一体何を言い出す!

 という全員の視線がシャアバーンに集まった。

「アジャリア様に嘘を報告するとおっしゃるのか」

 血の気のひいた顔でナジャルサミキ・アシュールが、皆の不安を言葉に表した。

「然様。だがそれしか道はあるまい。アジャリア様は図西とせい を諦めない。一方、我等家臣団は一度ハラドに帰還し、アジャリア様の養生を第一として、再度、エルサレムを目指すべきと考えている」

 シャアバーンは、この流れで相違無き事を、一旦確認するように諸将を見回すと、

「ここはアジャリア様を騙してでも御身体を案じるべきであろう。虚偽のとが は、このワリィ・シャアバーンが一切引き受ける。重大な決定である故、合議が一つにまとまらねばならぬ。合議の流れが帰還という方向だから、私もそれに従うまで。後は諸君もこのシャアバーンの嘘に合わせて上手く装っていただきたい」

 最早、これに異見を述べる者は誰も居なかった。シャアバーンがアジャリアに嘘を報告するという事に、最終的に皆が黙ってそれを認めた。エルサレムとハラド、進退いずれにしてもアジャリアの命脈は途中で尽きてしまうであろうと、口にこそ出さないものの誰もが思っていた。ならば、

 ――騙してでもアジャリア様の渇望を満たしてあげたい。

 アジャリアはつくづく家臣に愛されていた。

 アジャリアの本営に極力に作業が悟られぬよう、アジャール軍は静かに撤退を進めた。

 サマーワから三週間、行軍と野営を繰り返し、アジャール軍はリヤド近くまで戻ってきた。深夜、

「バラザフ、バラザフはいるか……」

 意識の戻ったアジャリアはバラザフを呼んだ。

「アジャリア様。バラザフでございます」

「バラザフ、今どこまで進んでおる」

「カトゥマル様のご活躍でバグダードを陥落させ、逗留しているところです」

「なるほど……。ではカスピ海も近いということだな」

「そのとおりです。行軍は順調にて、アジャリア様のご心配には一切及びません」

 そう答えるバラザフの目には涙がたまっていた。

「ご苦労であった。心配ないようだな……」

 アジャリアは、再び深い眠りに入っていった。

 季節は春らしくなっていた。あちこちで花が顔を見せ、雨でできた水地には駱駝ジャマル が水遊びをする姿が見られた。

 明日にはリヤドという所まできて、アジャリアは意識を戻し、

「花を見せてくれまいか……」

 と近侍ハーディル の者に乞うた。

 シャアバーン、ハリティも傍に近侍していて、駕籠パランクァン の帳をまくった。カトゥマルも隊をとめて傍まで来ていた。

「ああ……。やはりリヤドの菜の花は美しい」

 視界に広がる瑞々しき春の黄に迎えられアジャリアは感嘆をもらした。

 一同、くず折れて地に手を突いて嗚咽と共に落涙していた。

「アジャリア様……」

「ああ。わかっていたよ。リヤドの菜の花の顔は少しやさしいのだ」

 アジャリアの身体を支えるバラザフの手が震えた。満面の黄に童子トフラ のように素直に喜ぶアジャリアは、本当に小さくなっていた。

「わかっていたとも。わしは初めからわかっていた。だが、知らないふりをしてきた。お前達のわしへの思いやりを受け取らなければ無粋だからなぁ……」

 アジャリアの顔には満面の笑みが浮かんでいる。

「ああ……。風が、すずしい……」

 一点の濁り無き幸福感がアジャリアを包んでいた――。


== カーラム暦995年 ==

アジャリア・アジャール、リヤドから冥府に入る。

享年五十三歳。


 バラザフがこよなく敬愛したアジャリア・アジャールは冥府の籍の人となり、同時にバラザフの心の中を占めていた大部分が虚ろな穴となった。

 だが、バラザフは冥府の呼び声によく耐えた。

「俺がアジャリア様の遺徳を護る。俺が自分で考えて、俺がやるんだ」

 この試練と決意がバラザフの人となりをさらに練った。

 エドゥアルドとズヴィアドを失った時も、辛さが骨身にしみた。だが、今回の痛みはそれ以上だ。心のばねを強くせねば押し潰されてしまいそうだった。

「昇ってやる。上に昇ってやるぞ。地位も実力も、全てだ!」

 バラザフ・シルバ、二十七歳。才溢れるこの若き将は、ここまで得たものが多かったかわりに、失ったものも多かった。

 バラザフの息子達は二人ともハラド生まれ、ハラド育ちである。長男サーミザフ八歳、二男ムザフ七歳。二人は父の涙をまだ知らず、ハラドで無邪気に遊んでいる。


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2019年2月15日金曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第2章_21

 アンナムルの副官アルムアウィンでアジャール軍の重臣でもあるヤルバガ・シャアバーンはアンナムルの方に味方した。他、アジャール軍の有力者達がアンナムルの側に回って、無視出来ぬ派閥を形成し始めている。
「おそらく大事には至らぬとは思いますが……。アジャリア様もアンナムル様も仲間割れでアジャール軍を潰してしまうような狭量ではない故……」
 ハラドに設けられたシルバ邸でエルザフは声を落として言い含めた。
「ですがバラザフ。今後、この件に一切関わってなりません。アジャール家で見聞きした事を他で漏らしてもいけません。この父や兄にも、勿論近侍ハーディル の仲間内でもです。よいですね」
 二人の確執の先に難は無いだろうと言ったものの、エルザフの頭の中には、この二枚扉が破れた先を見てしまったならば、その奥からの邪視アイヤナアルハサド と目が合い、滅びの呪いに呑まれるという自分達の像が映ってしまっていた。
 今はアジャール家の重臣にまでなり上がったとはいえ、シルバ家は元は小領主の出である。一時は砂を住処とする程の追い詰められた少し前の自分が、エルザフにこれ以上踏み込んではならぬという死線を緋く示唆した。
 アジャリアは一応アンナムルを憚ったのか、方針を決める評議にサバーハ家併合の事を挙げず、リヤド、アルカルジ周辺を固めるため、敵の駒を地道に除いていく事に、しばらくは注力している風だった。

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2019年1月28日月曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第2章_2

 サルマーン・アジャール、後のアジャリア・アジャールは重臣らと共謀し、父ナムルサシャジャリを門から入れず、クウェートのサバーハ家に預ける事にした。預けるといっても事実上の永久追放で、アジャリアはハラドの無血革命に成功した事になる。
 当主となったアジャリアは、リヤドを侵略し、タラール・デアイエと領土獲得戦を繰り広げるなど、ネフド砂漠へと領土欲の枝葉を伸ばし始めた。
 アジャリアの侵略戦争もここまでは順調に見えた。だが戦線を拡大してゆくにつれて、彼がネフドから追い出した地元の士族アスケリが援けが徐々に必要になってきた。
 その折を見極め、エルザフ・シルバは怨恨あるアジャール家の懐に入り込み、アジャリアの下、一応、重臣の籍に身を置く事となった。これがカーラム暦968年の事で、バラザフが生まれたのがこの次の年の989年である。
 ネフド砂漠から自分達を追い出したアジャール家の禄を食む事に、当然エルザフの中に悩みが生ずる。だが、そこは元来合理的な頭のシルバ家であるので、最優先すべき事は何かと考えた場合、それはシルバ家の旧領回復であるから、アジャール家と共に生きるという道を選んだのである。
 その合理的な頭でさえも、当初は、
 ――まるで冥府に籍を置くようなものだ。
 と、自らの境涯を皮肉り、あるいは死ぬ気で仕えるという臨死的覚悟を以って、アジャールという鋳型の中に焼けた鉄を流し込んでいったのである。
 そして、その鋳型には自分の反感の情だけでなく、親族も入れなければならない。即ち、アジャール家服属の約定の証として、エルザフは息子達のうちバラザフをアジャール家に取られ、この時からバラザフの身はハラドに置かれている。
 アジャール家がネフド砂漠侵攻に先方としてシルバ家を用いるため、旗を反さない確証としての「人質」を求めたという事である。アジャリアの賢い所は、たとえ人質であっても有能な者は上役に取り立てて、しかるべき処遇をしてやる所であり、バラザフの中に利発さを見たアジャリアは、彼を近侍ハーディルに抜擢したのである。
 我が子が主家に重用されているという安心もあってか、バラザフの父エルザフは十分に能力を発揮した。シルバ家が「謀将アルハイラト」と評され始めるのもこの頃からで、エルザフは己が知略を用いて、アジャール家の侵攻の枝葉を四方に伸ばすのに大いに貢献した。

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2019年1月27日日曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第2章_1

 カーラム暦969年にバラザフは誕生した。ナウワーフはバラザフより二歳年上である。そしてアジャリアの子、カトゥマル・アジャールも年近くバラザフの一つ上である。
 ――カトゥマル様がお母上と共にリヤドに移られるそうだ。
 子供の頃から何かにつけてナウワーフは情報を聞きつけて来るのが好きだった。特にカトゥマルついては知らぬ仲ではなく、主家の血筋でありながらも、アジャリアの跡目と周囲からも目されていない事もあって、バラザフも加えて三人は親友として付き合っていた。
 リヤドでカトゥマルが養育されるようになって後も、彼がたまにハラドに訪れる際には、必ず三人で遊びに行く関係が出来上がっていた。
 結局、カトゥマルはアジャール家を継ぐ事になった。
 そのカトゥマルが懐刀としてバラザフにナウワーフ、そして近侍ハーディルの面々を重用したのは当然過ぎる事といえた。
 ナウワーフの家は名家である。彼の父は、アジャリアが追い出したアジャリアの父「アジャール家の猛虎」ナムルサシャジャリの代からアジャール家に仕えている。ナウワーフは父に似て度胸があり、奮闘する質だ。そして社交家で利発な男でもあった。アジャリアはナウワーフのその辺りを気に入って近侍ハーディルに取り立てた。
 元々、重臣の家であるナウワーフと比べて、バラザフのシルバ家はアジャール家の者になってからまだ日が浅い。シルバ家は小さいながらも独立した士族アスケリであった。
 リヤドやジャウフを囲うネフド砂漠には、小領の領主達がひしめき合っている。バラザフの父エルザフもそうした小領主達の一人であった。
 ナムルサシャジャリ・アジャールは縁戚であるリヤドの領主と連携し、シルバ家の所領に攻め込んだ。場所としてはリヤドの少し北。カーラム暦963年の事である。
 弱小勢力である当時のシルバ家やその他の領主が合力しても、ハラド、リヤドの連合軍に抗う術など無く、シルバ家はアルカルジへと落ちて行き、そこの領主に身を寄せる事となった。
 戦勝して帰ってきたナムルサシャジャリは、ハラドの街の門を潜る事は出来なかった。子のアジャリアの反逆である。

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