2022年6月5日日曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第8章_3

  シルバ軍がハウタットバニタミムを落とした三ヵ月後、カトゥマルが突如としてアルカルジから攻略戦線を拡げると言い出した。

「シルバ軍には先陣を切るようにお達しが出ている。フサインやレイスの攻撃を警戒していなければならない今時期に何故だ」

 アルカルジをシルバ軍が押さえているのであるから、先駆けを命じられるのはよいとしても、バラザフにはこれは唐突な指示であるような印象を与えた。

 いざメフメト軍の城邑アルムドゥヌ を攻める段階になると、カトゥマルにしては珍しく、知略を使う攻め方をバラザフに問うた。

「バラザフ、このような小規模の城邑アルムドゥヌ は強攻めで取る事も出来なくはないだろう。だが、今は戦力を極力温存したいのだ。策略で落とす方法は何か無いか」

 バラザフもカトゥマルのこの方策は間違っていないと思った。十万の兵でアジャール軍が城邑アルムドゥヌ を包囲しているものの、相手の防御姿勢は堅調で、一気には落とせないと見通していたからである。

 バラザフは、今回、一緒に先陣の任にあるファヌアルクト・アジャールと方策の合議に入った。といっても合議が必要な込み入った案件も無く、バラザフの中でほぼ全て策定出来ていたが、先陣のもう一人の責任者であるファヌアルクトの面目を潰さないように配慮したに過ぎない。

「さすがはバラザフ殿。その策で行きましょう!」

 ファヌアルクトは猪突な性格が良い方向に伸びて、実直な好青年に成長していた。バラザフは恩師であるエドゥアルド・アジャールが大好きだった。そのエドゥアルドの遺児であるファヌアルクトに、バラザフは少し年の離れた弟のような情愛が湧いて、彼の行く末にも期待していた。

「昔からアジャール軍は大海を往く九頭海蛇アダル に喩えられています。シルバ殿の知略は正しくその九頭海蛇アダル の頭です。貴方の策なら間違いない」

「まだその策を示してはいませんよ」

「大丈夫です」

「では、敵を誘引する事にしよう。大軍である故こちらの軍紀が緩んでいるように見せるのです」

 バラザフが示した策をファヌアルクトは、素直に実行した。自分から策を生み出す事は無かったが、この青年は昔から作戦遂行能力は高い。

 城内から矢頃すれすれに部隊を布陣させて、ファヌアルクトは配下の将兵に武器を放擲させ、防具なども一切外して横になって休息を取らせた。まさに、だらけきっているぞという姿をありありと見せつけたのである。

 その上で、ファヌアルクトは、城邑アルムドゥヌ の中まで届くように声を張り上げて、

「お前達、怠慢が過ぎるぞ! 今、敵が出てきたら我等はひとたまりもないぞ!」

 と横になっている兵卒等の上に怒声を投げかけた。

 バラザフに示された作戦内容をファヌアルクトの主従は、敵に気取られる事なく巧くこなした。これがファヌアルクトの統率力が一定の水準を越えているとの、アジャール軍内での評価にもつながる。

 ファヌアルクトの部隊に作戦の表を任せておいて、バラザフの方では裏で動いた。シルバアサシンを城内に送り込んでまた言葉巧みに城兵の行動をこちらの意図通りに制御していた。

 ――アジャール軍はこちらが打って出る事は無いと思っているから、しばらく城攻めの気配はないぞ。

 ――じっとしれいれば今のところは安全だ。そのうちメフメト軍が援軍に来て援けてくれるはずだ。

 城邑アルムドゥヌ の外ではファヌアルクトに倦怠感を演出させる一方で、中では急場の意識を削いで、ゆるりとメフメト軍の援軍を待つように手なずけた。

 当然ながらメフメト軍の援軍は来ない。次の日もファヌアルクトの部隊は昨日と同じく緩慢な動きを見せている。

 そして、城内の兵士等が援軍への期待が不信に変わり始めた頃、

 ――メフメト軍の援軍はアジャール軍の別働隊に阻害されてここまでたどり着けないらしい。

 ――援軍を進めないようにしている間に、我等の水源を断って日干しにする策略らしいぞ。

 と、城内のアサシンは、今度は焦燥感を掻き立てる噂を流した。この流言は城内の兵によく利いた。

 城邑アルムドゥヌ の外に目を向けてみれば、よく見える距離でアジャール軍が十分な食事を与えられて、満腹に満足する表情を食事のたびに浮かべている。武具すら投げ出して、余裕この上無い。

 長期戦への準備のため、城邑アルムドゥヌ の中では食料割り当てが厳しく、中の兵士は自分達の空腹と外の満腹感が対比されて、精神的に堪えてきた。

「畜生。アジャール軍の奴等ゆっくり食事なんか摂りやがって」

「ここ数日武器を持った奴の姿を見ない。あいつなんか横になりっぱなしだ」

「油断しているアジャール軍を今叩いて、食料を頂戴したらどうだ」

 空腹に耐えに耐えている所へ、豊かに食事している姿を見せ付けられては、城内の兵士に、このように打って出よう、打って出たいという気運が高まっていくのは当然の事であった。

 バラザフの狙い通り敵はアジャール軍は悠長に休み続けると思い込んでいる。

 城邑アルムドゥヌ の上空の突如として火柱が昇った。戦火のそれではなく、ケルシュが城兵が攻撃に転化する事を中から信号を発してきたのである。

 バラザフは自らファヌアルクトの部隊に駆け寄って叫んだ。

「中から敵が出てくるぞ! 武器を拾って迎撃の準備をしろ!」

 ややあって目視で見張っていた兵も敵の動きを察知して味方に報知してきた。

「門が開いた! 打って出てくるぞ!」

 ファヌアルクトの部隊は武器だけ拾って起き上がった。もう防具を装備する時間は無い。敵の誘引に成功した反面、危険度の高い戦いとなる。

 敵が攻めに転じた時、弓矢や火砲ザッラーカ を使ってこなかったので、この賭けはまずアジャール軍側に有利になった。

 ファヌアルクト自身も槍を携え敵を迎撃した。彼も鎧を身に着けていない。後ろからバラザフが援護しているが、彼もまた軽装である。バラザフは得意の諸刃短剣ジャンビア を振り回して叫んだ。

「落ち着いて敵の剣筋を見ろ! こちらのほうが圧倒的に多いのだ。慌てなければ死なずに済む戦いだぞ!」

 そういう彼は諸刃短剣ジャンビア で左右の敵を受けている。

 バラザフの言ったように、兵力差を活かした戦い方でファヌアルクト、バラザフの部隊は着実に優勢に事を運んでいった。

 数えにして千程の時間が経過した。敵兵の一団は潰走し始め、中には武器を放り出して一目散に逃げる者もいた。

 ここまで来ると後は押し潰すだけで、アジャール軍は城内に逃げる兵と共に中へ奔流となって流れ込んだ。

 その奔流の先頭にバラザフがいた。こういうときのバラザフは智将から猛将に一変する。当たる先から敵兵が諸刃短剣ジャンビア の血祭りに上げられ悲鳴と共に倒れ伏してゆく。

 敵兵が押し出して来てから、城邑アルムドゥヌ が陥落するまで半刻も無かった。

 この戦いでの勇猛さが衆口に乗って周辺諸族に広まり、アジャール軍の威風は高揚した。

「シルバの勇猛さは同じ武人として誇らしい事この上無い。バラザフの勇猛さを一番良く分かっているのは、ずっと傍で見てきた私なのだ。さらに、それ以上に今回の作戦は見事だった。この地上にもはや九頭海蛇アダル の頭がバラザフ・シルバである事に異論をはさむ者はいまい」

 カトゥマルは満足げに、ファヌアルクトと同様にバラザフの智勇を九頭海蛇アダル の頭として賞賛するのであった。アジャール軍の中ではすでに自分達を世評と同じように九頭海蛇アダル に喩える事が一般的になっていた。

 その夜――。

 カトゥマルの方から供も連れずにバラザフの陣の天幕ハイマ を訪れた。

「バラザフにやってもらいたい仕事があるのだ」

 アジャール家の当主に就いてからカトゥマルはバラザフを家名で呼んでいた。今、こうして旧友として名前でバラザフを呼んだが、その声には懐かしさよりも、空虚な響きしか無い。

「カトゥマル様の方から私を訪れずとも、私は呼びつけて下さればよろしかったのです。それはさておき、如何なるご用件で」

 カトゥマルの空虚な雰囲気が表情にあらわれてきた。疲れている様子である。

「新しい城邑アルムドゥヌ 建設を総務してほしいのだ」

「新しい城邑アルムドゥヌ を」

「うむ。ハラドを放棄する」

「どういう事です」

「今のハラドを棄てて城邑アルムドゥヌ を新設したいと考えている。その総務をバラザフに任せたい。ズヴィアド・シェワルナゼ、エルザフ・シルバから築城技術を仕込まれたアブドゥルマレク・ハリティはもう居ない。今のアジャール軍を見渡せば、すでに築城技術を持つ武官はそなたしか居なくなっていたのだ」

 バラザフは黙ったままカトゥマルの話に耳を傾けていた。カトゥマルから出ている疲労感から、話はそれだけではないと察したのである。

「私がアジャール家を継いでから、古豪と呼ばれる猛者達が相次いで世を去ったと思えば、今度は側近と親族の派閥が反目している」

 カトゥマルは、アジャール家の現状を染み出るような言葉で、バラザフに語った。家臣の派閥同士の諍いが元で、自分がやろうとしている組織、経済、軍制等々の新生が思うように下の者の協力が得られないというのである。

「あまつさえ、ハイレディンの勢力は日増しに増長を続けるばかりなのだ。このような打つ手なしという状況が続けばアジャール家が時の流れから孤立してしまうのは目に見えている。我等が生き残ってゆくには確執の無い新たな場所でアジャール家を生まれ変わらせる必要があるのだ」

 切羽詰ったカトゥマルの言葉であった。

「それを余人に漏らさぬようにお一人でここまで参られたわけですか」

「うむ、そうなのだが……」

 カトゥマルの歯切れの悪さから、バラザフには果たしてこの密事が二人だけのものになるのかどうか、という疑いを持った。そしてやや思案し、

城邑アルムドゥヌ 新設の任、引き受けましょう。私の方から言うのも障りがありますが、カトゥマル様とは兄弟に等しき幼馴染。アジャリア様にも手塩にかけて育てていただいた、このバラザフ・シルバ。ここでカトゥマル様の頼みを断れば、冥府でこっぴどくアジャリア様に叱られましょう」

 役を受けると供に、バラザフはカトゥマルに笑みで返した。

 主命として下達すれば済むものをそうせずに、わざわざ自ら頼みに来る腰の低さに昔のような親しさを感じた。確かに事を漏らさぬという意図はあっての事だろう。だが、カトゥマルの態度からバラザフは、やはりこの人は一族を率いる身分になっても、

 ――驕慢とは別の世界に在る人だ。

 と感じていた。

 そして自分の持てる知識を全て、この城邑アルムドゥヌ 新設に注ぎ込もうと心に決めたのである。

 カトゥマルとバラザフが、城邑アルムドゥヌ 新設にここと決めた場所は、ハラドの旧城邑アルムドゥヌ から西に行軍距離で二日程の距離にあるタウディヒヤという集落のある場所で、大まかな工程としては、この集落を城壁で囲み城城邑アルムドゥヌ にしてしまうというものである。

 住民に給金を払って労働力として稼動させて、城邑アルムドゥヌ が完成すれば住民は新首都民になり、ハラドからも移住を受け入れる手筈である。

 このタウディヒヤは、ハラドとアルカルジのちょうど中間点にあたり、タウディヒヤからはアルカルジを挟んですぐリヤドとの行き来が可能になる。カトゥマルの中に、故郷であるリヤドに新首都を近づけたいという心境があったかどうかは、彼はそれは表には出さなかった。

 タウディヒヤの城邑アルムドゥヌ の新設のため、活動拠点を現地に遷さなければならないバラザフは、アルカルジ等の所領の仕置を、イフラマ・アルマライなどの信頼出来る血縁者の家臣に委任する措置をとった。

「あまり大きく作りすぎても、また移設という事も有り得るから規模の策定が難しい点だな」

 バラザフが城邑アルムドゥヌ の規模に深慮しているのは、防衛上の理由もある。大きすぎると警備の目が行き届かないし、内通者の発見も遅れる。小さすぎると兵員の常駐が困難になり、そもそも砦としての用を成さない。

 また視点を戦闘に置くならば、攻守の均衡の取れた備えがよく、一般論でありながら、最も実現が難しい事であった。

 また、生前ズヴィアド・シェワルナゼは築城について、

城邑アルムドゥヌ はそれ自体が巨大な生き物だ。中に住む人が生き延びられなくては機能しないものだ。生きるうえで一番大事な物は水だ」

 と、教えていた。

 水源の確保はどこの集落でも重要課題である。が、政策としての水源確保をせず、遠くに水を汲みに行かせるなどして、住民の負担とする諸族も多い。

 まず井戸ファラジ を掘って現存のものよりさらに数を増やし、貯水溝を用意しようと考えた。そして、

 ――水源。

 である。

 タウディヒヤの周辺には水源となり得るような、砂漠緑地ワッハ は無い。それゆえに今まで集落が城邑アルムドゥヌ にまで発展してこなかったといえるのだが、バラザフは、タウディヒヤの水源を自領のアルカルジから引いてこようと考えた。

 水を共有する事は命を共有する事である。バラザフが、カトゥマルを主君以上に、兄弟として信頼としている表れであった。

 ここまで決まった所で、労働力の供給が開始された。

「カトゥマル様、これがタウディヒヤの完成予定図となります」

 カトゥマルが絵図に目を落としている横で、バラザフは得意気な顔をしている。

「もうお気づきでしょう」

 カトゥマルは図を凝視している。そして、

「これは、まるでハラドの再現ではないか」

「その通りです。ハラドの城邑アルムドゥヌ をそのまま移写し、各区割りを模倣して建設する予定です」

 区画構成をハラドと同じくした事で、今までの防備訓練様式をそのままあてる事が出来、今までハラドを防衛していた兵員の負担も軽減される。

「新機を得て活路を見出そうというカトゥマル様の意図を汲ませていただくと同時に、旧臣が新体制に振り落とされぬよう配慮した設計になっております」

 そして、引いてきた水を城壁の外に貯水溝と濠を兼ねて備えておくことによって、農産の発展が期待でき、水に水牛ジャムス駱駝ジャマル などの動物が集まってきて、これらを捕獲すれば、住民にとっても益多き事になるのだと説明した。

 最後にバラザフは、全てを変えてしまうのではなく、旧き物からの微妙な変化が、新しき風を吹かせる要になるのではないかと、自分の意見を付言した。

 時代の急速な流れがカトゥマル・アジャールという一指導者に与えた時間はそれほど長くはない。カトゥマルとバラザフは、タウディヒヤの城邑アルムドゥヌ の建設を大急ぎで進めて完成させた。

 ハラドの城邑アルムドゥヌ という防備の一つの体系として確立していたものを模造したため、急ごしらえにしては、しっかりと砦としての用を成すものが出来上がった。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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(2022.07.05公開予定)

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2022年5月5日木曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第8章_2

  カーラム暦1001年秋、ザラン・ベイにカトゥマルの妹が嫁いだ。バラザフもアジャール側の随員としてこの婚礼の儀に加わっていた。ここでザランと彼の参謀のナギーブ・ハルブと初めて顔を合わせた。

 この時、バラザフ・シルバ、二十三歳、ザラン・ベイ、二十四歳。ナギーブ・ハルブはまだ十九歳である。

 自分と同年代の者がすでに国を束ねている。二人の若き指導者にバラザフは興味を持った。

「カイロの義人サラディン・ベイの薫育を受け、信頼をおいたハルブが自分より若い士官だったとは」

 十九歳、その頃の自分は今のハルブの格には及ばないかもしれないというのが正直な感想である。ハルブも謀将アルハイラト と呼ばれてもおかしくない程、これから逸話を歴史の上に幾つも刻んでゆく将である。だが、バラザフと会った今時期には目を見張るような活躍はない。それなのに若さを削ぎ落としてしまったかのような深みが、その人格の奥にある。過日、バラザフがファリド・レイスを「若さに苔の生えたような男」と評したのとは別種の老成である。

 そして、

 ――低くて深く響きのある声だ。

 と表面上の印象を受けた。

「バラザフ・シルバさんですね。アジャリア公の息吹を受けたアルハイラト・ジャンビアの名前はカイロまで届いておりますよ」

 ハルブは、バラザフをこのように当たり障りの無い褒め方をした。

「この新規の同盟関係が両家にとって多幸である事を当家も願っております」

 バラザフも定型句のような返答をハルブに返しておいたが、二つの道が交わったこの先に何が待ち受けているのかは、アルハイラト・ジャンビアといえども、見通す事は困難であった。しかし、少なくともアルカルジ一帯の仕置に関して、ベイ家が干渉してくる事が無くなるのは、状況は好転したと受け取っていいはずである。

 カトゥマルは、これより後のベイ軍に関する外交処理の全権をバラザフに与えて、一任した。

 意識をハルブに戻すと、向こうはこちらをじっと見つめている。瞳の中を覗き込んできるような凝視である。針金のような張り詰めた視線、さりとて邪視アイヤナアルハサド とも違う。不思議な目つきだが、少なくとも体裁を見ているのとは異なる事だけは確かなようであった。

 こちらも相手の内心を探ってやろうと、瞳を覗き込んでみるものの、針金の視線で圧してくるので、心の身動きが取れない。

 ここで意固地に踏ん張る意味も無い。バラザフは肩の力を抜いて思考を解除した。

「アジャリア公に因んで、このバラザフをお褒め頂けるとは、小官にとっては、この上ない喜びです」

「アジャリア公の懐刀、アルハイラト・ジャンビアの切先がこちらに向けられぬ事無く済んで、ほっとしております」

 ナギーブが口に笑みを浮かべ、バラザフも笑った。

「我等アジャール軍も、強兵のベイ軍を味方につける事ができて、厄介な敵が減って、此度の同盟をありがたく思っております」

 これは本音であった。

 次いで、バラザフは、ザランへ言上を向け直して、

「ただ、災厄がまだ残っております。シアサカウシン・メフメト殿の事です。昨年、我等のアルカルジ周辺を現れてハウタットバニタミムをまんまと手中に収めてしまいました」

 滅多に笑顔を見せないザランは、バラザフの口上に対しても、いかめ しく無言でただ肯首したのみでった。戦いに出るより、人に愛想を見せる事の方が余程至難な人なのである。

 バラザフの口上にあるように、カイロ擾乱の発生の後、同盟関係であったアジャール軍とメフメト軍の間に険悪な情調が充満していた。

 その情調を体現するかのようにメフメトは、アジャールの領土にまで食指を伸ばしつつある。

「ハウタットバニタミムには八千の兵が置かれ守備しています。カトゥマル公から我がシルバ家に対して、早々にハウタットバニタミムを攻撃して奪取するように命が下っておりまして、これから城攻めに入りますので、それをベイ家にも承認していただきたい」

 ザランは、厳しい面容を保っていたが、ナギーブを一瞥した。ナギーブの口から言葉は無い。

「その件、ベイ家も承認する。アルカルジ方面の領土獲得はシルバ家の随意にするがよい。アジャール殿にもそのように伝えてくれ」

 実際に兵をもらわずとも、ベイ家とアジャール家、大勢力が二つも後ろ盾になっているという事実だけでも、万敵を怯ませるには十分な材料である。

「アジャール家と結んだからというわけではありませんが、今ベイ家は、レイス、フサインとの外交処理に多忙なのです。アルカルジ方面が敵に取られるよりは、味方であるシルバ家に押さえておいてもらえれば、我々にも安心感が広まるというものです」

 シルバ家のハウタットバニタミム攻略に関してナギーブはこのように結んだ。

 バラザフは、アジャール家、ベイ家双方の承認を得た。これは盤面をアルカルジ近辺に絞って戦えばよい事になり、寡兵を自らの知謀によって大戦力に化けさせるバラザフには、格好の舞台が与えられたといってよい。

 この地方の一番の要点であるアルカルジをシルバ軍が押さえているとはいえ、ハウタットバニタミムの地理的価値も軽視出来るものではない。

 リヤド、ハラドに接しているのはもとより、オマーンやジュバイルにも通じている。ハウタットバニタミムばかりでなくアルカルジの地方全体が各地の接点となる。だからこそ、メフメトが手を伸ばしてくる事も出来るのである。

 アジャール軍がハウタットバニタミムを攻略するのは二度目である。アジャリアの時代からアジャール軍は、大略を推し進めるために、一度獲得した城邑アルムドゥヌ を敢えて放棄するという事は何度も行ってきた。

 兵力の分散を極力回避し、城邑アルムドゥヌ の経営のために要する兵員や食料を抑えるためである。

 ハウタットはアジャリアの攻略の主軸が北に遷されるとともに、戦略的価値が低下し放棄され、アルカルジの別の族が入っていた。そこをメフメト軍に攻略された。

 ハウタットバニタミムの周りには涸れ谷ワジ が点在している。雨が続くとこれが天然のカンダク になる守りの一役を担う。今、その利を使っているのが、メフメト軍である。

 アジャール軍の方針がエルサレムへの進攻を手控えて、守りに重点を置くようになり、ハウタットの戦略的価値が再び上がってきた今、是非とも押さえておきたい城邑アルムドゥヌ なのである。

 バラザフは以前にここでの攻城のとき、間者ジャースース を用いて、敵を撹乱して戦功を上げた。つまり、

「今回はその手は通じないと見たほうよいかもな」

 抜け目の無いメフメト軍の事である。当然、当時のハウタットの下士官を探し出して、昔日のバラザフがここで用いた戦法も知っていよう。

 涸れ谷ワジ の増水によって自陣が呑み込まれる事を、父エルザフは危惧していた。そして、今でも城壁から降ってくる矢の雨も、十分に留意しなければいけない点の一つである。

「つまりは水に飲まれなければいいのだ」

 次の日、手配された間者ジャースース が大量の板と丸太の載せて現れた。

「よし、簡単な足場を作るぞ」

 工兵達の作業が始まる。工兵達は丸太を砂地に深く打ちつけ、その上に板を乗せて固定する。それだけである。

「板と丸太の固定だけは抜かりなくやっておいてくれよ」

 次の日の昼前には、敵の矢頃の外あたり、味方の陣の前面に野外演劇場のような足場が出来た。最前に板が敷かれればそれで十分である。

「足場の準備はできた。フート、投槍ビルムン を用意してくれ」

投槍ビルムン ですか。ジュバイルを攻撃した時以来見ておりませんが。私も正式に配属されるのは此度が初めて故、まだ積荷まで把握し切れていないのです」

「しくじったな……。あれからレブザフの荷隊カールヴァーン から移していなかったのか」

 レブザフの所へ使いを遣って投槍ビルムン を手配しても早くても届くのは明日になるだろう。それまで待機するよう各隊に下達しようとした所へ、

「遠くから小規模の間者ジャースース がこちらへ向かってきております」

「どこの者だ」

「敵ではないようですが……」

 バラザフ達が相手の出方を伺っていると、

「お久しぶりです、兄上」

「レブザフではないか。どうしてここに。今、丁度お前に使い送るところだったのだ」

「ええ、そうでしょう」

 レブザフは夢に、亡きエドゥアルド・アジャールが現れたのだと言う。レブザフはバラザフと違って生前エドゥアルドとはそれほどの親交は無い。そのエドゥアルドの、

 ――バラザフ……足場……。

 という言葉だけが、目を覚ましたレブザフの脳裏に妙に残った。そして足場という言葉から、バラザフがまた投槍ビルムン 使った戦術を考えているのだと、思い至ったと言う。

 バラザフは、エドゥアルドから自分の成人の祝いとして貰った孔雀石マラキート象嵌ぞうがん が施されている、あの諸刃短剣ジャンビア を見つめた。

「たしか、孔雀石マラキート の加護で、戦場で仲間の援けを得られるのだったか……」

 死してなお子を想うのエドゥアルドの親心のようなものを感じ、バラザフはじわりと両目を潤ませた。そして、レブザフの兄弟愛にも心奥で感謝した。親しい者には感謝の言葉というものは、なかなか素直に出せないものである。

「兄上、水に近いこの場所をわざわざ選んだのですか」

「うむ。以前俺は父上、兄上達とハウタットを包囲したとき、この北側を担当したのだ」

「ええ」

「その時俺は間者ジャースース を使って北側の櫓を落として、そこから突破口を開いた」

「同じ手を使うと?」

「また同じ手を使うかのように偽装したのさ」

「なるほど!」

「敵はきっと俺が間者ジャースース を使ってくると思っている。夜間の警備も厳重にするだろう。その分疲労が溜まる」

「そこへ投槍ビルムン というわけですか」

 レブザフは投槍ビルムン だけでなく、それを投げる強肩の兵もしっかり連れてきていた。

 投槍ビルムン 部隊は、用意された足場に踏ん張り、城壁の兵を次々と仕留めていった。が、それだけでは十分ではない。

 バラザフが足場となる橋を架けさせたもう一つの理由が、周囲から寄せる水を避けるためである。すでに北側の城壁の下には水が流れ込みカンダク を成している。せっかく城壁の兵を倒しても、これを渡るのに難儀している間に、残存の兵から上から攻撃されては、城邑アルムドゥヌ の攻略どころではない。

「今、間者ジャースース を潜入させれば、容易に開門出来よう。こちらは今回は正攻法で攻めると思っている裏をかくのだ。敵の出方を予測する事、これが俺の未来を視る眼であると思っている」

 此度の戦いに一緒に出陣してきていた長男のサーミザフは、父の言葉を教練のように聞き入っていた。だが、実直そのものであるサーミザフには、父バラザフの戦術は分からない事だらけである。特に敵の裏をかくという、正攻法から離れてゆく奇法に、不確かな危うさを、この頃から感じていた。

 確かに父バラザフの未来を視る眼は当たる。だが、その未来を覆すさらに大きな未来に呑み込むように襲われたとしたら、シルバ家のような小船は一瞬で沈んでしまうのではないか。生真面目な人間の抱え込む苦労がそこにある。

 バラザフが初めて総大将として采配を振るう舞台が、この二度目のハウタットバニタミムの攻略戦となった。

 今までもアジャール軍は、バラザフの発案によって動いている部分はあった。だが、それも上の裁可あっての事であり、上にはカトゥマルの判断を仰ぎ、後方ではテミヤトなどの目付けが、バラザフ等若い将に手抜かりが無いか常に見張っていた。

 先のハイレディンとの戦いにおけるテミヤトの一連の行動から、バラザフは、これまで後方で監督していたテミヤトに好感を持てなくなっている。それもあって、今、自由に采配を振るっているという実感は大きなものなっていた。

投槍ビルムン で打撃は十分与えた。後は力で押すか、間者ジャースース を使うか、の二択にしてしまってもよいのだが」

 バラザフは答えを急がず明日の朝までに結論する事にして、その晩は眠りについた。

 夜明け間近き頃――。バラザフの枕元に寄せてあるアジャリアから下賜された諸刃短剣ジャンビア象嵌ぞうがん された翠玉ズムッルド が淡い光を発し始めた。それと共鳴するかのようにエドゥアルドの孔雀石マラキート も光る。

 光はゆっくりと拡がり一つの光になると、そこにアジャリアとエドゥアルドの姿が映し出された。

 ――バラザフが総大将となる日が来ようとはな。

 ――何を言います、兄上。我等の弟子なのです。これでも遅いくらいですぞ。

 ――いやいや、わしは出世は遅い方が大成すると思うがの。

 ――今回は力攻めはするなと言いたいのですかな。

 ――そうじゃな。バラザフの初の采配だ。無事に勝たせてやりたい。

 ――バラザフ。我等はそろそろ行く。自分の力を巧く活かせよ……。

「アジャリア様! エドゥアルド様!」

 まだ靄掛かる脳裏に二人の言葉が残響する。

「夢……か……」

 二つの象嵌から返す光は朝露のものだけではなかった。

 朝一の軍議でバラザフは、

「シルバアサシンを潜入させる」

 と方針をを下に示した。

「亡きアジャリア公、エドゥアルド様のご遺志である」

 夜明けに現れたアジャリアとエドゥアルドの言葉を受けての事であるが、下の者にとってはその意味は、亡きアジャリア公の戦術を踏襲するのだ、というくらいにしか理解出来ていなかったであろう。

 ハウタットバニタミムの将兵にとっては足下に築かれたシルバ軍の足場と、投槍ビルムン の攻撃が強く印象付けられている。

「またあの長槍を投げてくるか、城壁に圧しをかけてくるのだ」

 と、正攻法的な防備を固める姿勢を見せた。

 バラザフは、これをシルバアサシンの使いどころと見た。

 ケルシュ部隊の特技は城への潜入である。数名ずつの班に分けて、夜の闇と共に中に侵入した。すぐさま流言が流れ始める。

 ――シルバ軍の大将は投降する敵兵は手にかけないらしいぞ。

 ――兵士だけではなく将官の命も保証されるらしい。

 ――そればかりか褒美まで与えられるらしい。

 ――手向かいすればアジャール軍十万で我等を皆殺しに来るらしいぞ。

 流言が十分に飛び回ったあたりで、バラザフはハウタットの太守に降伏を勧告した。それに加えて太守の配下にも黄金を贈り、さらにその下の仕官にも、ケルシュに金貨を配らせた。ナギーブ・ハルブがカトゥマルとその配下にまいない をしたのと同じやり口である。

 これで城内の守衛の意気は大いに低下した。

 シルバ軍に対して徹底抗戦を訴える士官は少数派になり、降伏した方が痛手を受けなくて済むという言葉が、一様に衆口に乗るようになってきた。仕官の中にはすでにシルバ軍から黄金を受け取った者もいるという噂も、兵卒間が顔合わせると口に出る、合言葉のようになっている。

 城内の流言作戦も熟してきた。城内には充つる空気は、降伏後、自分達の処遇はどうなるのか、それだけである。太守ですら戦う意欲を失くしている。それでも降伏に踏み切れないのは、メフメト軍に帰参した際に立つ瀬が無くなる事を恐れているからに過ぎない。

 ここで一押しと、バラザフは周辺の諸族からハウタットの副将に転身している者達に声を掛けた。

「今降伏すれば全て水に流そう」

 太守にこれ以上の義理立ては不要と、副将等は降伏を受け容れた。バラザフはさっさとその者たちと配下の将兵達を、ハウタット周辺の彼等の封地に還した。領地安堵を約束するとともにハウタットの実効戦力を削ぎ落としたのである。

 主だった将兵が離脱した事で、ハウタットバニタミムの防衛機能は皆無となり、太守はやむなく城邑アルムドゥヌ を明け渡し、野に下っていった。

投槍ビルムン と金貨で城邑アルムドゥヌ が落ちた」

 ハウタット側は一度も抵抗らしい抵抗すらさせて貰えなかったという事でになる。

「ハウタットには明日入城する事にしよう。その前に――」

 バラザフは、配下に城内の安全を念入りに確かめさせた。古来、城の明け渡しに事件は付き物である。

 翌日はバラザフは、堂々と太鼓タブル を鳴らさせて、正面の門から入城した。

「サーミザフ、戦争は犠牲少なくして勝つ事が大切だ。知恵を駆使して勝つ。力押しで勝つのは上策ではないのだ」

 バラザフは入城行進で傍らに馬を進める長男に話した。

「一兵の損失も出さず、また負傷者も一人も出さず。そのような戦術が仕官として将軍として目指す究極かもしれない」

 バラザフのハウタットバニタミム入城に従う兵は、騎馬兵三千、歩兵二万である。今回連れてきたのはアルカルジのシルバ軍であり、バラザフはリヤドにも手持ちの兵を残してきているので、今のシルバ軍の総戦力は三万前後まで成長していた。

 バラザフの周囲には従卒が四人、前に二人、後ろに二人、彼の諸刃短剣ジャンビア を天に向けて高く戴剣して、先頭にはアジャリアから下賜された、あの孔雀石マラキート の象嵌のカウザ を掲げた者が行く。こうした式典には普通、真っ直ぐな直刀を天に向けるものなので、そこに諸刃短剣ジャンビア を用いたのは些か異様な光景だということはできる。

「バラザフがハウタットバニタミムを陥落させたのか。私ですらそのような威風堂々たる行進の主役になった事などないのに、何とも羨ましい限りだ」

 バラザフのハウタットバニタミム入城の風景を、ハラドにて伝え聞いたカトゥマルは、我が事のように満足げに大きく頷いた。

「ハウタットの奪取がようやく成った。だが、それよりも私はバラザフの初の指揮が成功した事の方が嬉しいぞ!」

 そしてハウタットバニタミム奪取成功を祝す使者をバラザフに遣った。使者はハウタットの太守をバラザフが自領と兼任せよとの辞令も持ってきている。カトゥマル・アジャール公認でハウタットバニタミムをシルバ軍の領土と認めたに等しい。

 事実、このハウタットバニタミムの入城行進が、アルカルジを始めハウタットを含めた周辺地域の支配者は、バラザフ・シルバであると示すものとなった。

 そして、この領域こそがバラザフがシルバ家を一地方の領主として独立を可能にする重要基盤となるのである。

「まだまだ周辺にはシルバ家に従わぬ小族や城邑アルムドゥヌ も多い。だが、この地方の支配者は、このバラザフ・シルバである事に異論を挟む者はもはや居ないであろう」

 ハラドにいる奥方と次男のムザフに、バラザフが手紙でこう記したように、今回の入城行進はこの一帯におけるシルバ軍の示威行動となった。

 奥方もムザフも、バラザフからの手紙を何度も読み返しては目を輝かせていた。二人の眼前には自信に満ちた父バラザフの勇姿が映っており、二人ともバラザフの鬼才をよく知っていたため、彼が思う存分采配を振るえる事を喜んだ。

 この時、次男のムザフ・シルバは十三歳、男子であれば、兄が戦場で父の隣で馬を並べているのを羨望してもおかしくない歳である。

 カトゥマルからハウタットバニタミムの支配を任されたバラザフは、親族の者を太守の任にあたらせ、長男のサーミザフをまたハラドに帰還させる事にした。

 この旅でバラザフは叔父のイフラマ・アルマライに頼んで、サーミザフの護衛のため一緒にハラドまで帰ってもらうようにした。イフラマもシルバ家の男子として歴戦を生き抜いてきた者らしく、サーミザフをハラドまで護衛するくらいの任はどうという事は無い。今回の旅の彼の苦労は別の所にあった。

 彼は道すがら、ずっとサーミザフから質問攻めにされ、シルバ家の古事を語り続けるはめになった。一つ語り終えるとすぐに次の問いが来る。持っている記憶を残らず引き出されるような感じであった。

「シルバ家はリヤドの周辺地方の小領の領主だったのだが、さらに古くはシルバの名から分かるように、西のアルブルトガールまたはブルトガールという異国から渡ってきた一族なのだ」

 生真面目な性格が人の形を成しているようなサーミザフは、その形成を崩さずに、イフラマの話を一心に聞き入っている。生真面目な彼が自家の来歴を詳細に知っておこうと思ったのは当然であり、その引き出しをイフラマに求めたのはこれまた当然の事であった。

 なにしろ父バラザフは、自分が物心つく前から常に戦場を駆けている。主家のアジャリア自身が求めたものにせよ、アジャール軍は常に波乱の中になり、バラザフもその荒波に揉まれる小船の一双であった。

 ムサンナでの敗戦以降は特に家中の緊迫が高まり、バラザフはたまに家に戻ってきても、なかなか戦場での険を解く事が出来ずにいた。親子が胸襟を開いて語らう機会を作ってこれなかったのである。

 だが、そんな父をサーミザフは憎いとは思わない。むしろ主家を守るため、そしてシルバ家を守り抜くため奔走している父の背中を見て、そこに尊敬の念を感じていた。

 だからこそシルバ家の事をもっと知っておきたいと、生真面目の彼の中に、ある種責任感のようなものが発生していた。知ってさえいれば父の通った足跡を追える。

 そうした思いを抱え続けていたとき、サーミザフはイフラマという親族の長老を捕まえる事が出来た。彼にとっては好機であった。

 サーミザフは、父バラザフは戦いのときは、アサシンのフートやケルシュを重用しているが、親族の中ではイフラマに一番信を置いていると、彼なりに観察していた。

「そなたも自分の目で見てきて分かると思うが、シルバ家は盛んなりといえども、まだまだアジャール家のような大領主にはかなわん。家の記録などという物はアジャール家のような大勢力が持つ物だ。士族アスケリ といえどもシルバ家は生き抜くのに精一杯だった。来歴などという大層な物は、リヤドに来てから、そしてお前の祖父のエルザフがアジャール家で力を付けてから、自然に付いてきた物なのだよ」

「シルバ家の出自はリヤドではなかったのですか」

「勿論リヤドだとも。語り継げる記憶や記録の範囲では確かにシルバ家はリヤド出身という事になるんだ。ブルトガールから来たという先の話も、シルバという家の姓から推し量っているに過ぎないのだよ」

 その後もサーミザフはイフラマの記憶からシルバ家にまつわる事を引き出し続けた。が、やはり一番印象に残ったのはシルバ家の出自が遠く異国の地かもしれないという部分であり、アジャール軍屈指の士族アスケリ の家柄と思っていたシルバ家も、案外、近年に勃興して来た新勢力に過ぎないという事である。そこに悔しさは無い。自分が生まれてからのシルバ家については、アジャール軍内で重用されている記憶しかない。だが、自分の立ち居地が、祖父の代辺りから苦労を重ねてきた結果の足場なのだと理解したとき、この真面目な若者の胸中に湧いてきたのは、祖先への感謝の念なのであった。

 アルカルジとハウタットバニタミムの間には小さな集落がいくつもある。リヤドにおけるシルバ家発祥の地もその集落の中のひとつだとイフラマは言う。

「リヤドと一言に言っても広いからな。城壁を持たぬ集落も星の数ほどある。人の暮らしは何も城壁が全てというわけではない。城邑アルムドゥヌ を幾つも持たせて貰えた今でも、わしらはその地を放り出さず管理しているのだよ」

「ですが、父上は先日ハウタットバニタミムに入城した折、やっと俺の故郷を取り戻したと言っておりました」

「それはだな。シルバの発祥はさっきも言ったように小さな集落であったが、ナムルサシャジャリ・アジャール殿の時代、つまりアジャリア公の父上の代で、アジャール、デアイエの連合軍に攻撃されて、シルバ家は件の小領を追われた。そして流れ着いたのがアルカルジのハウタットバニタミムの辺りだったのだ。すでにシルバ家の者がそこに根を下ろしていた事もあって、そなたの祖父のエルザフ殿も、しらばくはここに安住出来た。そして、エルザフ殿はそこで嫁をもらって、父であるバラザフ殿が生まれた。それでハウタットバニタミムがバラザフ殿にとっては、故郷、あるいは旧領という事になるのだよ」

 実際に見てきたイフラマの話を聞き、サーミザフは人の生きてきた時間の長さは貴重なものだと思った。

「そういう事であれば、私の出自もリヤドや、アルカルジ一帯にまたがった広い範囲に関わっていると言えるのではないでしょうか」

「その通りだよ。シルバ家の長男であるサーミザフ殿の立場は重いものだ。何しろ各地で生きた我等の血筋の者たち、その者たちが地に足を張って、食らってきた命を全て背負う事になるのだからな」

 ――食らってきた命を継承する。

 シルバ家の血脈のみならず、自分が生きるという事が自分をこの世に有らしめてきた全てを継承する事になるのだと、サーミザフの心の中に、穏やかなるも熱い決意が興った。この決意がその後のサーミザフの生き方の全てをも決めてしまう事になる。

 アルカルジとハウタットバニタミムを中心に地方をまとめて手中に収めたシルバ軍が次に取り組むべき課題は外交である。

「ベイと同盟関係にあるとはいえ、昨日今日結ばれた関係が明日には崩れるという事はよくあるものだ。アジャリア様がしたように万が一に備えて間に位置するメッカへの手回しが必要だろう。カトゥマル様へも具申するつもりだが、シルバ家独自の外交経路を構築しておきたい」

 バラザフはその先駆けの使者として従兄弟のメスト・シルバという物をメッカに遣わした。バラザフと同じように兄達をベイ家との戦いで亡くし、自家を継承していた。

 新たに外交経路を築くという事は、商売でいえば新たな顧客開拓である。これまで対外的な方針はアジャール家のやり方に従ってきたが、シルバ家が一つの勢力として確立した今、アジャール家を始め、各所との折り合いをつけた上での外交となるので、これまでの対外策とは、また違った険しさがある。

 そしてメストはその後もシルバ家の執事サーキン の一人としてバラザフに与力した。


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2022年4月5日火曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第8章_1

 ――カーラム暦1000年サラディン・ベイ死亡。死因は心臓麻痺。

 ベイ家の当主サラディン・ベイが死んだ。サラディンの死は心臓麻痺によるものと世間には広まった。だが奇妙な事にサラディンの遺体の首には刃物で斬られた跡あった。

 それはさておき、サラディンの死が、カイロの城邑アルムドゥヌ を含むその周辺のミスル地方に、擾乱じょうらん に直結するであろう事を、この時に家臣団の誰もが予想した。

 サラディン・ベイには実子がなく、養子が二人いるのみである。

 養子の一人はサラディンの甥のザラン・ベイである。ベイ家の血に連なる者で慕う部下も少なくない。

 もう一人はベイ軍とメフメト軍が同盟した際に交換武官としてベイ軍に所属したオグズ・メフメトである。カウシーン・メフメトの末のほうの子らしいが、サラディンは殊更彼の素性を掘り起こそうとしはしなかった。

 サラディンが見た所、オグズには武人としての良質な芽があり、これを間違えて育てなければ、きっとベイ軍の力となるだろう。たとえオグズがメフメト家に還ったとしても、人一人、一人前に育て上げ実家に戻し、自分としての義が立てばそれでいいと、

サラディンは考えて、オグズも自分の養子とした。

 サラディンは、ザランを後継者として、ベイ家とカイロとミスル地方の領土を継がせるつもりでいたが、その事をはっきり周知する前に冥府の住人となってしまったのである。

 サラディンが死して日が経つごとに、皆が予見した擾乱じょうらんが少しずつ形になって表出し始めている。

「ベイ家が内乱状態にあるだと?」

 アジャール家では、アラーの城邑アルムドゥヌ の太守、トルキ・アルサウドが初めにこの情報を入手した。そして・アルサウドは最初にアルカルジのバラザフにこれを報せた。

「フート、お前の配下を全て連れてカイロに潜入してくれ。次のベイ家の当主はどちらになるのか。カイロの行く先はどうなるのか。その目で見て見澄ましてくるのだ」

 次いで、ケルシュにも命じた。

「メフメト家の動向も知っておきたい。おそらくシーフジンが稼動しいるだろうから警戒が必要だ。今はアジャール軍とメフメト軍は同盟状態にあるが、有事とは得てしてこういう変事から起こるものだからな」

 さらに、

「シムク・アルターラスを配下と共に俺の下に戻しておいてくれ」

 と、配下のアサシンに戦闘任務ではなく、元々の役割であった諜報任務を与えた。

「カイロへ出征する可能性も考えられる。戦いの支度もぬかりなく済ませておくように」

 カイロ擾乱は、バラザフの頭脳と体躯を活発に使役させた。しかし、こうした慌しさの中でバラザフは、逆に生命力を湧き上がらせていた。謀士アルハイラト としての光が目に戻りつつある。バラザフの頭は血がよく巡って、心地よく放熱している。

 バラザフの重臣にイフラマ・アルマライという人物がいる。バラザフの叔父であり、熱血と冷徹が同居したようなイフラマは、淡々と戦支度を進めている。

「バラザフ。もし戦争が勃発したらサーミザフを初陣に出す良い機会だと思うのだが」

「サーミザフも十二歳。戦場を知っても良い歳かもしれません。私もアジャリア様の近侍ハーディル として戦場に出たのはそれくらいの歳でした」

「ベイ軍とのあの戦いか。初めて戦場に出るには、あれは重い戦いであったな」

 イフラマの脳裏にあの激闘の光景が浮かんだ。バラザフはあの激闘を乗り越えて立派に成人して今は将軍の一人になった。だが、もし戦いが起こって、それがあのような惨状を呈した場合、サーミザフも同じように乗り切れるのか。不安は湧いてくるが自分が言い出してしまっただけに、イフラマはサーミザフの出陣を取り下げる事が出来なかった。

「サーミザフ、次の戦いでお前を連れていく事になった」

 バラザフは、長男サーミザフ、二男ムザフの二人を前に並べて、サーミザフの出陣を言い渡した。黙って頷くサーミザフを、ムザフが羨ましそうな顔をして見つめている。ムザフのその姿にバラザフは自身の幼少期を見た。

 アジャール家にとってカイロ擾乱は、ムサンナの敗戦での捲土重来を期せるまたとない好機となりうる。カトゥマルは十五万の兵と共に進発した。このカトゥマルの出兵の背景には、メフメト家も一枚噛んでいて、メフメト軍は現在盟約を結んでいるアジャール家にカイロへの出兵を要請したのであった。

 大きく二つに割れたベイ家の片割れ、オグズの妹が今のカトゥマルの妻になっている事も背後にあって、カトゥマルはこの出兵の目的をひとまずオグズに肩入れするためとしている。

 カトゥマルは北西に進軍してジャウフまで進み、そこから西へ向かって、スエズに至った。ここまで来ればカイロまで一両日、遅くても三日で到達する。

 これと同時にシアサカウシン・メフメトの方でもカイロ擾乱を自勢力の拡大の機会ととらえて、ベイ軍が手出ししてこないうちに、アルカルジの城邑アルムドゥヌ 近辺のアジャール軍の勢力下にある地域を、縫うように避けて、何とか実入りを得ようと軍勢を派遣した。

 シアサカウシンが目をつけたのはハウタットバニタミムの地である。シアサカウシンも派兵の目的をオグズに味方するためとして、カイロとは何の関係も無いこの地に押し寄せてきていた。

「メフメト軍がハウタットバニタミムに進攻し周辺に勢力を拡大しているようです」

 バラザフは、ケルシュの配下が持ってきたこの情報に驚かされた。当然、カトゥマルの気色もよくない。

「アルカルジに手を出すというような背信行為は、メフメト軍の同盟破約ではないか」

「いえ、ハウタットバニタミムは我がアジャール軍の支配下にないため、辛うじて同盟破約にはあたりません。ですが……」

「何とも狡辛こすからいな」

「ええ」

「同盟状態が維持されているとはいえ、そこから掌を返されては、すぐにアルカルジ諸共、一帯が席巻されるぞ」

「防諜に手抜かりはありません。ご安心を」

 バラザフには、メフメト軍がさらなる進攻、それこそ背信行為に出てくるであろう事は容易に想像出来た。よって、ケルシュに、

 ――シアサカウシンはカイロの弟のオグズと組んでハウタットバニタミムを挟んで乗っ取りに来る。

 とハウタットバニタミムの諸族を、ザラン・ベイの側につくという名目で、対メフメト軍の勢力として布石させた。カイロから遠く離れたアルカルジ、そしてハウタットバニタミムの地でも、形の上ではあるが、オグズ対ザランの構図が作り上げられた事になる。予想していなかった自勢力への抵抗で、アルカルジを含めて周辺を一気に席巻しようとしていたシアサカウシンの進攻の壮図はハウタットバニタミムまでで終わった。

 その頃、カイロでは状況に進展が無く行き詰った状態にあった。そこへアジャール軍が乱入してきたので、ザランと彼の参謀のナギーブ・ハルブの気勢は、急速に弱まった。この状況でアジャール軍をカイロに入れてしまえば、カイロの支配権は完全にアジャール軍の手に落ちるからである。そして、メフメト軍、アジャール軍が裏で糸を引いている事を考慮しても、ベイ家の当主としてオグズがカイロの城邑アルムドゥヌ の統治権を握るだろう事は容易に予想出来る。

 カイロ入りしているフートは、

 ――ザラン、ナギーブ・ハルブともに、アジャール軍との同盟の意図あり。

 と、バラザフに報告した。

「ザラン側では、同盟や降伏を本気で考えなければ、滅亡まで追い込まれると読んでいるのだな」

 そして、メフメト軍の方に間者ジャースース として出しているケルシュからは、

 ――シアサカウシンはこの機にアルカルジを取る意気を、まだ捨てていない。

 という情報がバラザフの所へ上げられてきている。

 次いで、

 ――オグズへの支援、カイロでの差配をアジャール軍に押し付けて、アルカルジを奪取する野心あり。

 との詳細も送られてきた。

「さて、この双方をどうさば くか……」

 バラザフは、二方面の情勢を測った。

「ザランから同盟を模索する使者が来るのは間違いない。カトゥマル様に講和に意思があるかどうか」

 バラザフが読んだとおり、ハルブの使者が、カトゥマルの天幕ハイマ に遣わされてきた。

 ザラン側の使者は、まずアジャール軍との和平の意思があるとし、

「フサイン軍、レイス軍との同盟関係を破棄する。アジャール軍とベイ軍で新たな同盟関係を構築し、リヤド、アルカルジ近辺のベイ軍所有の城邑アルムドゥヌ から手を引く。さらにカトゥマルの妹をザランの妻として迎え入れたい」

 と条件を示してきた。

 続いてやってきた使者は、

「アジャール軍に対して従属同盟であってもよい。フサイン軍、レイス軍に対しても、アジャール軍の盾となって戦う覚悟もある」

 と、さらに譲歩した条件まで提示してきた。が、この過度に譲歩された講和条件は、地理的条件を加味すると、エルサレムへの進攻を手控えている今のアジャール軍の盾となるような位置に、カイロに居るベイ軍が割って入るなどという事は現実的には、有り得ない事ではある。

 意地でもアジャール軍との抗争を回避したいザラン軍は、これでもかというように、カトゥマルと側近達へ、次の使者には、金塊とアレクサンドリアの金細工を大量に持たせてよこ してきた。

「さすがにここまで来ると露骨だとは思うが、ザランが提示してきた条件は我々にはこの上ないものばかりだ。妹とザランの縁が決まれば、ザラン・ベイと我々は縁戚という事になる。これからの力関係によっては、ナワズ・アブラスのようにアジャール家の親族派の家臣になる事も十分考えられる」

 ザラン・ベイという人は義人サラディンに似て、外交での化かしあい好むような狡知の人ではない。参謀であるハルブに、そこまで言ってのけねばアジャール軍との講和は成らないと言われて、このような講和条件を裁可したにすぎない。ハルブにしても相手を騙すような手段を普段から好んでいたわけではないが、ザランとベイ家を存続するために何をすべきかという窮状において、割り切って考えられる頭を持っていた。

 こうしてカトゥマルは、使者とのやり取りをバラザフに説明した上で、和平の受け入れる意思を示した。

「だが、ザランと講和するとなればオグズを裏切る事になるので、上手く話がまとまるように持っていきたいのだが」

「であれば、ザランとオグズが和議を結ぶように、我等が調停に入るようにすれば、両方に義理立て出来、また両方に恩を売った事になるでしょう」

 アジャール軍としては方向性が決まり、ザランとの講和も成立した。

 カイロは元の調和へ向けて歩みだしたように見えた。しかし、ベイ家の家臣の中には、ザランがアジャールと手を結んだ事に不満を持つ勢力が発生し、こらがオグズ側について、再びカイロは擾乱状態に陥った。

 そして次の年。ザランに追い詰められたオグズが自決し、多くの犠牲が出したカイロ擾乱は、これをもって終結したのである。

 これらの経緯を、フート、ケルシュ率いるアサシン団がバラザフに順次報告していた。


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2022年3月5日土曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第7章_6

 ハリティ隊、オワイラン隊の最後の奮戦をバラザフの配下のフートが見ていた。彼等の最期を見届けるためと、この戦い方を主人のために覚えるためである。

 バラザフはさすが自他認めるカトゥマルだけあって、フートの状況説明だけで、寡兵対多兵の戦術を自分の身にすると同時に、主人思いの配下の機転に感謝した。そして、このハリティ、オワイランの最後の教練は、バラザフの戦術の型となってゆく。

 この戦争でのアジャール軍の戦死者は十万人。その中には稀代の名将達も数多く含まれている。

 フサイン、レイス連合軍の戦死者は六万人。こちらは将官の戦死者はさほど多くはなかった。この半数がハリティ、オワイランの最後の戦いで討ち取られた者である。

 三重の壕、三重の土塁、裏切りの虚報、火砲ザッラーカ 兵による一斉砲撃。打てる手は全て打ったという感の連合軍だったが、そこまでして辛うじて無敵のアジャール軍との勝ちに漕ぎ着けたのである。

 バラザフは、ハラドに生還して反省する事が深かった。

「配下の労を費やしてアサシン団を編成したのに、今回の戦争で俺は彼等を活かす事が出来なかった。崩れたときにどう戦うのか俺はまるでわかっていなかったのだ」

 そして、

 ――やはり未来を視る眼が欲しい。

 と思った。

 バラザフは、この敗戦自体をも自分の身にしようとした。

「ハイレディンの壕、土塁。あれは言うなれば城邑アルムドゥヌ を攻めるような堅さだった。これに対するハリティ、オワイラン隊の戦術は攻防の均衡が取れていた。城邑アルムドゥヌ の攻めに強く守りに強い。さらに平地でも強い戦術を創らなければ」

 ムサンナでの敗戦は、バラザフがこれまで以上に謀将アルハイラト として極まってゆく契機となった。

 アジャール軍は、アブドゥルマレク・ハリティやワリィ・シャアバーンなどの、アジャリア・アジャール生存中に、直にその息吹を受けた名将達を一瞬にして亡失した。アジャール家の支柱となれる将軍の数は極めて少ない。切れ味のよい軍師もいない。

 カトゥマルが、この先を託すのはバラザフ等、若い世代の将軍である。次世代の中でもバラザフは、アジャリアの時代から一部の間で「アルハイラト・ジャンビア」と称される、鬼才を隠さぬ存在だった。アジャリアの息吹を受けた度合いは誰よりも強いのである。

 アジャール軍の負け方は、これ以上無いほどひどいものだった。それでもハイレディンの方では、クウェート、リヤド、ハラド方面に進攻する気配を見せなかった。

 知恵を絞るだけ絞って、準備を万端にした上で、しかもアジャール軍が思惑通りに動いてくれた。それでもアジャール軍の全滅には至らなかったし、こちらも六万の兵力を損失したのである。

 ハイレディンが、

 ――カトゥマルは侮れぬ。

 と、これ以上の踏み込みを思いとどめたのも、決して慎重すぎる采配ではない。

 ハラド方、アジャール軍の戦力を大分叩く事が出来た。アジャリア時代に、手も足も出なかったアジャール軍相手に戦った事を思えば、十分な戦果であった。

 酷暑が僅かに退き始めた頃、カトゥマルがバラザフを召呼した。まずカトゥマルはバラザフに詫びた。

「ムサンナでの敗戦で、バラザフの兄を二人とも戦死させたのは私の責任だ。あの二人無くしてアルカルジの防衛も、城邑アルムドゥヌ も立ち行かぬ事も我が軍にとっては大きな痛手となっている」

 カトゥマルがバラザフに対してこの言葉を発するのは初めてではない。生還した際も、バラザフがハラド勤務の際に顔を合わすときも、カトゥマルはバラザフに詫びの言葉が思わず出てしまう。

「実は今日は別件なのだ。アラーの城邑アルムドゥヌ のトルキ・アルサウドによる助言なのだが、バラザフを正式にシルバ家の当主として認定しようと思うのだ」

 兄二人が戦死して後継者は二人、バラザフと末弟のレブザフだが、三男のバラザフを後継者にするのが正当ではないか、という事であった。

「まさかそのような件であったとは……」

 少し当惑したバラザフは思案し、

「当主を失ったシルバ家をこのまま放置するわけにもいきません。兄達の死によって繰り上がる形ではありますが、シルバ家を継承して責任を果たさせていただきます」

「うむ、なによりだ」

「そうとなれば、アルカルジの情勢もまた混迷する危険もありますので、防備に今まで以上に注力せねばなりません」

「それに関しても私もアルサウド殿も意見は一致している。それが心配でアルサウド殿もバラザフをシルバ家の当主に推していたのだ」

「今私が所領しているヒジラートファディーアの支配はいかが致しましょう」

「名目上はバラザフが太守を兼任し、誰か副官アルムアウィン を遣って政務をさせるように」

「以前であれば弟のレブザフを行かせるところですが、彼も今では所領持ちゆえ、何とか人選してみましょう」

「すまぬが、そうしてくれ」

 ひとまずバラザフはヒジラートファディーアの地に戻った。

 シルバ家の当主になるというのは、小さい頃からの叶わぬ夢であった。勇猛果敢で人望がある。そんな兄が二人も上にいて、同時にこの世を去った。

 兄達の不幸の上に自分の夢が叶えれらた。そんな思いしか浮かばない。

 欲するという事はつまりアマル なのだと父エルザフは言った。

「俺はこんな形を望んでいたんじゃない!」

 バラザフは一人自室で声をあげて号泣した。

 翌朝、バラザフは顔に差す日の暖かみで目を覚ました。一人泣き濡れたまま疲れて眠ってしまったようだ。

 バラザフ・シルバ、二十九歳。

 バラザフはカトゥマルにアルカルジにシルバ家の当主として赴任する事を報告して、城邑アルムドゥヌ に向かった。

 アルカルジでバラザフは家臣団に、兄のアキザフに代わって自分が当主になった事を宣言しなくてはならない。そして家臣の所領も、職柄も旧来のままにする事とした。

「フート、ケルシュ。俺が正式にシルバ家の当主になったことで、そなた達も正式にシルバ家の武官という事になった。ついてはシルバアサシン団を強化したい。具体的には少数精鋭をいくつか編成したいと考えているので、また働いてほしい」

 バラザフはシルバ家の当主となっても、アルカルジの防衛だけでなく、今までのようにカトゥマルのためにハラドに出仕しなくてはならない。

 アジャール家が沈下していく環境の中で、バラザフの存在は大きくなってきている。


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2022年2月5日土曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第7章_5

  アジャール軍の天幕ハイマ は今熱気を帯びている。毎日のように激論が行き交っていた。

 親族派閥のサイード・テミヤト、ナジャルサミキ・アシュールらが総攻めを強く促し、これにカトゥマルの従兄弟であるファヌアルクトも賛同した。

「テミヤト殿には前の戦い、つまりサフワーン攻略の実績がある。さらには敵将ムアッリムの寝返りの受け皿になり、すでに功績を立てたと言える。敵陣のムアッリムの持ち場の所から攻め込めば、敵は倍なりといえども抵抗する暇も無いはず」

 これがファヌアルクトがテミヤトの総攻撃論を推す理由である。

 古豪派閥のシャアバーン、ハリティ、オワイランらの重臣たちは総攻撃には乗り気では無い。というよりやはりここでも慎重であった。

「ムアッリムの寝返りはまだ確定ではない。これがアジャリア様であったなら、事実が固まってから戦いに出るはずだ。未だ戦機熟せず。その上敵の陣容も掴めずというのだから、軽挙は命取りになるぞ」

「貴公らは私が敵に騙されていると、そう申すのか!」

 テミヤトが立ち上がって怒声を発した。いつもは後詰で後進の将軍たちの危うきを見張っているテミヤトが、自分が主立って進める仕事に埋没して慎重さを失っていた。この一言で全てが斥けられ議論は締められた。

「インシャラー!」

 カトゥマルは仕方なくこれで、儀式の香壇の前で出陣の誓いをすることになり、諸将もこれにならった。

 総攻撃の日――。

 長雨がようやく上がり、朝から日が出ている。本来の夏の猛暑が戻ってきていて、まだそれほど高く昇っていない太陽が地上の砂を熱した。

 カトゥマルの本体は五万。本陣を奥に置いて構えた。

 先陣はワリィ・シャアバーンである。総攻めに反対してテミヤトと溝を深めていた。

 シャアバーンが行く先の風を切る。昇る太陽を背負うような形である。シャアバーンの部隊の前に敵の防塁の間からボクオンが歩兵隊が三千ほど率いて前に出てきた。

「おそらく陽動だ。過度に踏み込むなよ」

 この時、左側から攻めていたテミヤトの部隊がムアッリム隊に計画済みの戦いを仕掛けた。テミヤト隊の戦いの太鼓タブル が雨上がりの周囲によく響いた。

 テミヤト隊の太鼓タブル はシャアバーン隊の兵の耳にもよく届いた。シャアバーンの指示が部隊に下達し終わる前に、兵が太鼓タブル を攻撃指示として解釈し、先頭の騎馬兵等がレイス軍の歩兵を蹂躙した。

 勢いのついた騎馬兵は、その流れでレイス軍の防塁を苛烈にも抜けきろうとした。レイス軍の防塁まであと一歩の所まで迫ったとき――。

 先頭の一団が炎に包まれたかと思うと、一瞬で黒こげになって人馬共に地にどっと倒れ伏した。レイス軍による火砲ザッラーカ の一斉射撃であった。

 出だしから悪い流れになった。だが、シャアバーンは古豪と言われるだけあり、劣勢に動じず兵を鼓舞した。

「これしきで狼狽うろた えるな! 歩兵の騎乗を許可する。乗り手のいない馬があればそれに乗って、防塁を越えよ!」

 その言葉を後に置くように、シャアバーンの高く跳び上がり、率先して斬り込んだ。陥穽を越え、土塁を越えたとき、目に映るものにシャアバーンは愕然となった。

 今、越えてきた土塁、陥穽と同じものが行く手を阻んでいる。さらにその奥にもまた同様の防衛線が設けられているのが見えた。

「このままではまずい。本隊の突撃を止めなければ」

 だが、本隊に危機を報せようにも、この狭い足場から助走もせずに、今渡ってきた元の場所に戻るの不可能に近い。

 進退窮まっている間に、第二の防衛線の奥から火砲ザッラーカ の炎が噴きつけられてくる。シャアバーンの周りでは部下達が次々に炎に焼かれゆく。

 ――ここまでか。

 潔く覚悟決めた時、紅蓮の炎がシャアバーンを包んだ――。

 この壮絶なシャアバーンの最期を、アジャール軍は誰も知らない。後続の騎馬兵をどんどん送り出していた。

 カトゥマルの本陣でも混乱は起きていた。足場がぬかるんでいる。昨日までの雨で砂が水を目いっぱい吸い込んでいて、足で踏むと水が滲みだし、一歩一歩が崩れる。このせいで偵察が出せず本陣では戦況を把握出来ない状況が続いている。

 本陣に参謀として仕えているバラザフが何かしら采配を具申しようにも、材料となる情報が無くては捌き様が無かった。

 ――自分の目で実際を見る他無い。

 前に出て戦場を見渡し、バラザフは左側の異変に気がついた。異変というよりは進展が無い。ムアッリム隊が守備している箇所を皮切りに、そこからフサイン軍の内部へ斬り込むべきであったテミヤト隊が、ムアッリム隊の前で居竦いすく んでいた。

「フート、テミヤト隊の様子がおかしい。すぐに把握してくるんだ」

 バラザフは、カウザ を深く被って臨戦態勢に入った。

「テミヤト隊は、ムアッリム隊の守備に歯が立たず、間を空けて様子を見ているようです」

「畜生、何が功績だ! まるで駄目ではないか!」

 ムアッリムの寝返りという虚報を掴まされ、ハイレディンに謀られたのである。バラザフがこれを報告しようとすると、カトゥマルも今それに気付いたという。

「退きましょう、カトゥマル様。即時撤退して持ち直しを図るべきです!」

 バラザフの具申をカトゥマルは即決で容れて、退却を全軍に下達した。ところが切り結んでいる状態から戦線を離脱しようにも、足場の悪さがそれを困難にさせていた。ばしゃばしゃと飛沫をあげる音、怒号、悲鳴――。あらゆる音が退却指示の伝達を妨げた。

 この戦況の中、動きの悪いテミヤト隊に業を煮やしてマァニア・ムアッリムの防衛線に、バラザフの兄、アキザフ・シルバ、メルキザフ・シルバの部隊が突撃した。

 二人の部隊は一つ目のカンダク を越え、そこに構えていた火砲ザッラーカ 兵を片端から切り伏せて、次の壕に迫った。

 退き時の戦況を遠目に探るバラザフの目に、兄達の部隊が奥へ消えてゆく姿が映った。

 ――長兄、次兄、必ず生きて戻ってください。

 武人としては決して範とはいえない思いだが、それが家族に対するバラザフに偽らざる心だった。

 フサイン軍の陣に果敢に突撃をかけているのはバラザフの兄達ばかりではない。ある将は正面突破しようと何度も攻撃を繰り返して進退しているが、その数を減らしていき、部隊を痩せ細らせていた。

 アジャール軍の多くが苦戦する中、戦巧者のナワフ・オワイランは二つ目のカンダク と土塁を突破し、三つ目も越えそうな勢いを見せたが、敵兵の防御の堅さと反攻の強さに難渋していた。

 固唾を呑んで戦況を見つめるバラザフの耳に信じ難い報告が入った。

「ハイブリ様、戦死!」

 近侍ハーディル として共に年少からアジャリアに仕え、第一の親友であったナウワーフである。

 ――あのナウワーフが、ここで死んだというのか!

 自分と共に必死に走ったきた仲間が命を落とした事がバラザフには信じられなかった。

 だが、神はバラザフの悲しみをそこまででとど めておいてはくれなかった。一番恐れていた報がもたらされた。

「アキザフ・シルバ様、メルキザフ・シルバ様、戦死!」

 その瞬間、バラザフは自分の目の前に冥界の門が開かれたかのように感じた。光が見えなくなった。時がバラザフだけを置いて流れていた。

 この間にもアジャール軍の本陣には、名のある将軍達の戦死の報が続々と流れてくる。皆、古豪の武人の名ばかりである。戦力としてはおそらく五分である。だが、アジャール軍はどこの戦線でも圧倒的に不利な戦いを強いられている。

「カトゥマル様、退却です! 今付いて来れる者だけでも生き延びさせるのです!」

 バラザフはようやく息を吹き返して軍師の目に戻った。カトゥマルは前線で戦っている将兵を見捨てるに忍びず、退却を迷っていた。そこへ、

「カトゥマル様だけでも何卒退却を。全滅だけは回避せねばなりません。ハリティ、オワイランの二人が敵の追撃を食い止めます!」

 オワイラン、ハリティの部隊の遣いが、飛び込んでくるなり、涙ながらに叫んだ。

 名将が数多命を散らすこうした激戦の中で、テミヤト隊はとうに後方に退避していた。カトゥマルに報告もしていないという始末である。

 バラザフは、下士官にカトゥマルを連れて行かせて、オワイラン、ハリティの部隊の遣いに、

「カトゥマル様には退避していただく。両将軍の武運を祈る。カトゥマル様はこのバラザフ・シルバが責任をもってハラドへ生還させる故、ブライダーで落ち合うようにと、伝えてくれ!」

 と答えて、本人達のつもりでその手を固く握った。

 ムサンナの死闘の一日がもうすぐ終わろうとしている。

「防塁に囲まれて我等の本領が発揮できなかった」

「悔しくて死ぬに死ねん」

 ハリティとオワイランは、アジャール軍の力を出し切れなかった悔しさを自分達に向けていた。

「だが、追撃してくるとなれば、この防塁から敵は出て来ざるを得まい」

「後はあのシルバの若造に任せてもうひと暴れしようぞ」

 ハリティもオワイランも、そして散っていったシャアバーンも、アジャリア・アジャールから戦いの息吹を吹き込まれている。

「まともにやり合えば我等は無敵ぞ」

 というのは決して自惚れではないのである。

 レイス、フサインの本陣にカトゥマル退却の報が寄せられると、追撃の軍が繰り出された。

 ハリティ、オワイランは生存している将兵を再編した。まだ一万五千、戦える数である。

「我等アジャールが冥府の門を開いてくれる! フサイン、レイス軍を道連れに、冥府でアジャリア様に再びお仕えしようぞ!」


 ――インシャラー!!


 ハリティ隊、オワイラン隊の吶喊とっかん が大きく響いた。

 フサシン軍、レイス軍の追撃の兵力は五万。 

「兵士諸君、最後の教練だ。寡兵での戦い方というものを教える」

 ハリティ隊が最後尾、つまり敵の真正面に出た。

 追撃部隊の先頭の兵力を少し削り、すこし切り結んですぐに後ろに下がるという戦術である。

 ハリティ隊が下がると、すぐにオワイラン隊が出て敵の戦力を齧り取ってゆく。

 だが、ハリティ隊、オワイラン隊も無傷のままではいられない。一人また一人と敵の刃に倒れ、最後には全てが大軍の波に飲み込まれていった。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。


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2022年1月5日水曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第7章_4

  カーラム暦996年、バスラの城邑アルムドゥヌ が陥落した。暑さ隆盛の猛夏の季節であった。

 ――今はアジャール軍に勢いがある。

 それを見てとったファリドとハイレディンは、下手に手出しをすれば傷口が拡がると感じて、結局、バスラの城邑アルムドゥヌ が落ちるのを見ているしかなかった。

 ファリドとハイレディンが感じたように、今のカトゥマルに怖いものなど無かった。立ち塞がる敵は全て新生九頭海蛇アダル の巨体の踏み潰されていった。頭もようやく九頭海蛇アダルてい を成し始めているようである。

 巨体に勢いがある事自体、それは驚異的な力である。ハイレディンもファリドも、今はカトゥマルとの戦闘を回避するのが上策と見ていたが、カトゥマルの方からナーシリーヤ、バスラ方面に仕掛けて行くのを止めなかった。

 また、アジャール軍はファリドを野外戦に誘い出すように、何度か仕掛けてみたが、ファリドはナーシリーヤの門を堅く閉ざして一向に出てくる気配もなかった。

「ウルクで叩きのめされたのが心底辛かったのだろうな」

 と、アジャール軍の誰もが、引きこもっているファリドの心情を、卓上の物を見るようにはっきりと感じていた。

 カトゥマルが各地でその武勇を称えられても、ハイレディンは支援すらままならずここまできてしまっている。

 カーラム暦997年春、アジャール軍が十五万の手勢でハラドを進発した。リヤドを経由して北上、向かう先はムサンナである。

 ムサンナはサマーワを含む広域の名で、サマーワやナーシリーヤから見れば南に広がる地帯である。この大部分は砂漠で占められているが、 涸れ谷ワジ も多数流れる。

 北部のユーフラテス川の近くで棗椰子タマル米類アルズ雑穀ミレット などの栽培が行われている。集落はあるが、広域であるため城壁のある城邑アルムドゥヌ は形成していない。

 カトゥマルは全軍を三つに分隊した。生前アジャリアがよく行っていた編成のやり方である。

 五万の兵をカトゥマル麾下に置いてムサンナ方面に向かった。

シャアバーンが率いる別働隊を西から、もう片方のアブドゥルマレク・ハリティが率いる別働隊を東から行かせた。

 このやり方はファリドを恐れさせた。散々痛い目にあわされてきたアジャリアの戦術をカトゥマルが継承しているのが、一目でわかったからである。

「すぐにハイレディン殿に遣いをやれ。アジャリアが再来した、とな」

 ファリドの心はすでに病み始めていた。今までのレイス軍とアジャール軍の戦いの経緯からすれば、今度こそナーシリーヤが滅ぼされるほどの猛攻を受けるのは必至であり、カトゥマルの実力がアジャリアに劣らぬと判明した以上、勝ち目がほとんど無くなったと考える他ない。

 カトゥマルはムサンナに臨時に築かれたレイス軍の砦を包囲して、数回、火砲ザッラーカ で攻撃した。五千台の火砲ザッラーカ を配備している。だが、カトゥマルもそうだが、アジャール軍は火砲ザッラーカ の運用に大して重きを置いてはいないのである。

「使用するのは至極簡単ではあるが、弓矢のように連射する事が不可能だ。火薬や燃料のための費用も馬鹿にならない。狙撃出来るような必中の武器というわけでもないから、大量に用意しないとこの威力も用を成さんな」

 こう漏らしながらも、カトゥマルは火砲ザッラーカ での準備射撃をやり切ってから、戦いの太鼓タブル を鳴らして陣形を整えた。そして、カトゥマルはムサンナはひとまず放置して北上しハマー湖を過ぎて、バサの城邑アルムドゥヌ を包囲した。季節は春と夏を行き来している。

 ――カトゥマル様は、レイス軍の城邑アルムドゥヌ を包囲して攻めるようだ。

 ――ファリドがナーシリーヤから出てくるように仕向けるおつもりらしい。

 ――今後もアジャリア様の戦術の路線でやっていくということだな。

 アジャール軍の中で将兵等がはカトゥマルの戦い方をこのように見ている。皆、カトゥマルの戦い方に独自性を期待すると同時に、これまでのやり方が変わらない事へ安堵もしていた。

 だが、それは見方を変えれば、カトゥマルがアジャリアの轍を踏み外さず模倣するのに、十分な実力を持っている事に他ならないのである。

 カトゥマルは、ファリドが頑なに篭城を続ける姿勢を見て、略奪こそしなかったものの、周辺の集落の作物を全て刈り取らせて、ファリドを挑発した。

「我等はファリドのおかげで腹を満たさせてもらったが、それでも奴は怒らないのか」

 様々な手を使ってでも、なんとかファリドを引っ張り出したいアジャール軍だが、結局、ナーシリーヤの城邑アルムドゥヌ の門は堅く閉ざされたままである。

 このような曲折した交渉が何度か繰り返された後、カトゥマルは再び主戦場をムサンナへと移した。場所はナーシリーヤから南西のハマー湖のさらに南である。レイス軍に属する小領主達がここを守備している。

 夏場に珍しく雨が降り始めた。長く続きそうな雨である。

 カトゥマルはムサンナの攻略に全力を注いだ。このような城壁も無い集落は、自分にとっては無防備も同じで、すぐに勝利出来る算段である。

 これと同時に、ハイレディンの方ではナーシリーヤへの派兵を決めていた。新編していた火砲ザッラーカ 兵の部隊の動きがようやく様になってきた事が、派兵に踏み切る一つの安心材料になったからである。そして、安心材料をもう一つ、秘策として抱えていた。

 ――ハイレディン、ナーシリーヤへ出兵。

 カトゥマルの麾下でムサンナの攻略の任にあるバラザフのもとへ、フートの配下が報せてきた。

 バラザフは、この仕事の間もシルバアサシン団の力を十二分に発揮出来る場を探していたが、その舞台を用意出来ぬまま今日まできてしまっている。

 雨は何故か未だに降り続いている。雨足が弱まる事はあっても、雲が切れて間から日が差してくる事は殆ど無い。

 ――レイス軍は歩兵に一万の火砲ザッラーカ を配備している模様。

 フートの配下からさらに情報が上がってくる。だが、バラザフはこの長雨と湿気では火砲ザッラーカ は、ただ金を捨てるようなものだと、これを危険視してはいなかった。

 アジャールがムサンナが制圧出来ないままでいるところに、レイス、フサインの連合軍が合流をはたした、という情報が入った。レイス軍はこの部隊にも火砲ザッラーカ を五千配備している。

「敵の兵力はどれくらいだ」

「ハイレディン自身が率いるフサイン軍が三十万、ファリドが率いるレイス軍が八万、計三十八万の兵力とのこと」

「我等の倍を超えているな。ハイレディンもファリドもこの戦いで雌雄を決するつもりのようだ」

 気を引き締めて、バラザフはカウザ を深く被った。だが、そこに驚きは無い。

 ほんの少し前のウルクでの戦いで圧勝した事を皆が憶えている。

 ――レイス兵ならば三人相手でも勝てる。

 という自信がアジャール軍の中で一般的になっている。

 アジャール軍の威風を知りながら、ハイレディンがムサンナへやってきた。ハイレディンはハマー湖の西側を少し過ぎたあたりで足を止めた。

 奇妙にも雨はまだ降り続いている。アジャール軍の方では、

 ――長雨のせいでハイレディンは我が方の動向を見つめている他無いのだ。

 という読みが大勢 たいせい である。

 思惑も先の見方も多数あった。そんな中でフートがアジャール軍の本陣に向かうフサイン軍の数名のアサシン集団を捕らえた。

「フサイン軍のマァニア・ムアッリム様に雇われた。我等は使者として参った故、サイード・テミヤト様に会わせてもらいたい」

 フサインのアサシンは書状を出した。テミヤトに宛てたものだという。フートはこの数名をテミヤトの所へは連れていかず、ひとまずバラザフの所へ連行した。

「何故、敵のムアッリムからテミヤト殿に使者が来るのだ。フート、テミヤト殿に知らせてきてくれ」

 呼ばれたテミヤトは、

「相異無い。フサイン軍の武将と何人か連絡をとってこちらに同心する手筈になっている。それらの代表がムアッリムというわけである。使者も今回が初めてというわけではない」

「何故、そのような大事な事を今まで隠していたのです」

「成功する前に知られて失敗して自分の顔に泥を塗りたくないのでな」

 と、テミヤトが顔色を変えない。

「さてと。隠し通せなくなった以上、カトゥマル様に知らせてこなくてはな」

 バラザフがさらに追求を深めてくる前にテミヤトは素早く席を立った。テミヤトの密使の件がカトゥマルの耳に入ってしまえば、バラザフとしては、これ以上の糾弾の材料が見つからない。

「これは危ない兆しだぞ」

 バラザフはテミヤトの暗躍をそう見た。ムアッリムがこちらに同心してくるとして、その真偽はどうなのか。そして、アジャール家の親族派閥に属するとはいえ、そういった単独の外交交渉をする権限がテミヤトにあるのか、という問題がある。

「こうした独断が認められれば、アジャール家の武将はアジャリア様以前、つまりナムルサシャジャリ様の代に逆戻りだ。アジャール家がまた分裂するという事なのですぞ。テミヤト殿ならお分かりのはずだ」

 バラザフは、カトゥマルの所から出てきたテミヤトを早速捕まえて糾弾した。

「それでこの私にどうしろというのかね」

 テミヤトは詰め寄られても態度は崩さず、うっすらと笑みすら浮かべている。

「く……! もうよろしい。カトゥマル様の存念をお聞きしてくる」

 テミヤトと話していても埒が明かないと即断したバラザフは、脇を抜けてカトゥマルの本陣の天幕ハイマ に駆け込んでいった。いつものバラザフならば、このような目上の将に対して礼を失する態度は慎むものだが、そんな事に構っていられないほどの言い得ぬ危機感に突き動かされていた。

「テミヤト殿の専行は本来ならば看過出来ぬが、寝返り工作が成功すればそれを帳消しにする以上の功績となる。自分が気に入らない策でも全軍のためと思えば、それを採るのが大将としての私のつとめではなかろうか」

 敵の寝返りを含めたテミヤトがカトゥマルに具申した策というのは、ムアッリムがこちらに同心したのを合図に、フサイン、レイス軍に対して総攻撃をかけるというものである。

 ムアッリムの使者が持ってきた書状には、フサイン軍はアジャール軍を罠にはめるため、工兵に陥穽のための穴を掘るのを急がせているので、今ならば、アジャール軍の騎兵部隊を全力投入すれば難なく突破出来る、とあった。

 都合が良すりる話を聞かされて、バラザフの危機感は逆につのるばかりである。

「カトゥマル様、この策に乗るのはあまりに危険です」

 バラザフは、カトゥマルの決定が変わるよう何度か食い下がったが、戦意に充ちた今のカトゥマルには、全てが自分にとって益するものにしか見えなくなっていた。

「フート、手遅れになる前に敵の陣容、特に本陣を調べてきてくれ」

 この言葉も、もはや無意識にバラザフの口から出ていた。

 しかし、フサイン軍に本陣に遣ったフートの配下は、何の情報も得られずやむなく戻ってきた。

「警戒が異常なほど厳重でした。配置されているアサシンの数、間者ジャースース の数、今までと比較になりません。近くまで行く事はかないませんでしたが、遠目には穴を掘る工兵が動いているようには見えましたが、雨のせいで視界が利かずはっきりと確証は取れませんでした」

 このとき確かにハイレディンは、工兵に穴を掘らせていた。だが、それを三重に築いていたのはアジャール軍からは確認出来なかった。掘った砂を麻袋に入れて積み上げ、平地に土塁も築いている。

「こうする事で平地に城を作ったのと同じ防衛効果が利くはずだ」

 というのがハイレディンの一つの意図である。当然、ムアッリムの寝返りの話もハイレディンが画策したものだった。

「カトゥマルの奴がこれに乗ってくれば、俺達の勝ちだ」

 三重に用意した陥穽、その最前列の穴と土塁の後ろに火砲ザッラーカ 兵を一万五千人並ばせている。フサイン軍の一万、そしてレイス軍の五千である。

 ハイレディンはこの戦いに自分の命運を賭けて挑んでいる。ムアッリムの裏切りという虚報で、アジャール軍を遠くから糸を引くように操っている。

 雨はまだ続いている。火砲ザッラーカ を今回の主軸に置いているフサイン軍にとって、この雨は凶事であるように思える。が、情報の隠蔽という意味では、先にフートの配下がフサイン軍の陣容を見極める事が出来なかったように、巧く情報を隠す役割を果たしてくれていた。


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