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2023年5月5日金曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第11章_2

  暑さが酷くなってきた。

 ファリドは、諸将にカイロ征伐を通達した。そして、自身も領土に帰って、戦いの準備を配下に忙しく指示した。レイス軍にシルバ軍の情報は入らないのに、逆の情報はすぐに流れる。

「クウェートには、ファルダハーン・レイス、バスラにはカロウ・タレミ、シャア・アッバース、ケルマーンにはミールホセイン・ラフサンジャーニーが軍隊を揃えている。レイス軍のベイルートに駐在している軍団にも諸侯が合流するらしい」

「ベイルートの諸侯の面々は」

「ムサバハー、タリヤニ、サルマスィー、ティトー、バギロフなど武官派閥の連中に加えて、ナサ・アフラク、パヤム・ベイザー、ラウフ・タラート、サアド・ウトゥーブ等等。ファリド自身はアミル城クァリートアミール を出てベツレヘムに入り、守将にジャハーン・ズバイディーを置いたらしい」

 バラザフとムザフは次々と寄せられる報告を聞いて、胸を躍らせていた。

「有事に身を置いてこそ生きがいを得られるとは我ながら難儀な性分だ」

「まったくです」

 二人の口端に苦笑いが漏れる。

 今、この瞬間もシルバ軍は名義上、レイス軍の配下に置かれているわけで、当然、バラザフ・シルバにもカイロ出征に軍を出すように下達されている。しかも、その使者は長男のサーミザフである。

 ファリドは、まずはシルバ軍に対してクウェートに集合するように促した。

「父上、ムザフ。私もシルバ軍の武官として出るつもりです。先にハウタットバニタミムに戻って軍容を整えておきます」

 これにはバラザフも当惑してしまった。

 サーミザフは、純粋にファリドの配下として、シルバ軍はレイス軍に忠誠を尽くすものだと思い込んでおり、その前提で話を進めてしまっていた。

 父バラザフが裏でハーシムやナギーブ等の反レイスの連合と繋がっているなどとは夢にも思っていない。どこまでも真っ正直、実直なサーミザフの性根が、今のバラザフを困らせないわけがなかった。

 ――こいつに裏を明かせば板ばさみになって苦しめる事になるな。

 バラザフは、サーミザフには反レイス連合との繋がりなど、一切におわせずに、レイス軍に合流する支度を始めた。

 この頃、バクーの城邑アルムドゥヌ のハーシムの方は、

「ファリドがベイとハルブの誘い出しに乗った。ベイルートをファリドが離れたのはまたとない好機。ようやく毒のある枯葉を切り落とせるぞ」

「確かに毒はありますな。枯葉というよりアブダーラ家にへばり付く古苔と言えましょう」

「バラザフ・シルバ殿の手紙にもそのように書いてあった」

 ファリド評について皮肉りながら、ハーシムと重臣モジュタバー・ミーナーヴァンドは声を上げて大笑いした。どこでも、そしてどこまでいってもファリド・レイスという男は笑いのねたであった。この笑いには自分達の思惑通りに事が運んでいるという満足感も含まれている。

 元々、人望のあまりないハーシムであったが、この時彼に味方する諸侯は意外に多く、ベイ軍、シルバ軍の他に、ハーシムにはカーセム・ホシュルー、ジャービル・ジャファリ、バフラーン・ガリワウ、アマル・カアワール、ディーナー・ムーアリミー、デイシャ・バリクチスなどがハーシム主催の連合に加わっていた。

 サーミザフは先に軍備を整えハウタットバニタミムを進発した。サーミザフの部隊は迷わずクウェートへ向かっている。バラザフとムザフは、その一日後、リヤドの城邑アルムドゥヌ を出た。ここでバラザフにハーシム等保守連合がファリドの革新連合に対して正式に宣戦布告したと報告を受けていた。ハーシムの軍、ファリドの軍両方について詳細な情報までは得られていないのだが、大略で観ればバラザフを満足させるには十分な条件が揃っていた。

「この状況でリヤド、アルカルジのバラザフ・シルバが我等の方に旗色を示せば、それが契機となってこちらにつく諸侯も増えるはずだ。アルハイラト・ジャンビアと言われたバラザフ・シルバだ。我等の中であの知謀を越える者はいまい。ベイ軍のナギーブ・ハルブまで我等についているのだ。我等が戦略でレイス軍に劣るという事はありえないだろう」

 ファリド・レイス包囲網完成。ハーシムはそう確信した。

 二週間程経つと、今度はカマールの友人達アスディカ・カマール として、エルエトレビー、カアワール、ムーアリミー達がファリド・レイス本人に弾劾上を送りつけると同時に、諸侯にはファリド討伐を訴える檄文を送った。

 アブダーラ家保守連合、つまりハーシム側の連合は総帥にジャービル・ジャファリが担がれて、アミル城クァリートアミール に入城した。

 アミル城クァリートアミール にはせ参じる諸侯は一気に増えた。ムンターザルダービク・ジャファリ、アウニ・サバグ、タビット・アリ、ハーフィド・マブフート、ジャメル・ユースフ、トールマン・グリバス、アウグスティヌス・ゼンギンが反レイス連合に名を連ねた。

「現在、アミル城クァリートアミール に集まった戦力だけでも九十三万に上ります!」

 報告を受け、ハーシムが悦に入るのも無理からぬ大戦力である。

 翌日、ホシュルーとマブフートの軍がファリド側のベツレヘムを取り囲んだ。ベツレヘムには守将としてジャハーン・ズバイディーが置かれていた。

 保守軍と革新軍の戦端が開かれた瞬間である。

「今の所、保守軍およびベイ軍、シルバ軍でレイス軍の包囲網が完成すれば俺達が勝つ公算が非常に高い。だが、戦争の見込みに絶対などというものは絶対に無い。レイス軍が跳ね返してくる事だってありうる。その時はハーシムを見限って知らぬ顔でレイスの軍門に居残る。シルバ家存亡の潮目だ。よく読んで動かねばな」

 隣で馬を進めるムザフにだけ聞こえる声でバラザフは囁いた。前にバラザフとムザフが同じ戦場に出たのはリヤドの戦いである。その時にはレイス軍を痛い目に遭わせて追い払ったのだ。

 ベツレヘムの攻囲から数日して、バラザフのもとにオルガがハーシムから使者を連れてきた。バラザフはカフジの城邑アルムドゥヌ に来ていた。このまま北へ進軍すればファリドと諸将が待つクウェートの中心地には一日で到着出来る距離である。

 バラザフは使者からの手紙を受け取った。手紙にはハーシム・エルエトレビーとバフラーン・ガリワウの名前がある。

 そこに書かれている言葉はバラザフの血液を頭の大いに巡らすのを促した。一気に最後まで読み進め、それを隣に居るムザフにも見せる。手渡された手紙をムザフも読むが、ムザフの反応は落ち着いていて、言葉と内容を慎重に吟味している。

「この手紙に書いてある事が全て本当であれば、エルエトレビーの軍は百万以上という事になります。これに対してレイス軍は本軍を加えて百十万と算定出来ます」

 ムザフの計算は速く、手紙の内容から両軍の戦力を一瞬で数値化した。さすがのバラザフにもこのような異能は無かった。

「間違いなく、カラビヤートを二分する大戦争になるでしょう。問題は、両軍がどこで激突するのか……」

「ムザフ、今すぐサーミザフを呼べ。クウェートで俺達の到着を待っているはずだ。大事な話があるので、重大な相談があるから至急カフジまで来るように言え」

 ムザフによってすぐに使者が、サーミザフのもとへ遣わされた。サーミザフはカフジに来るなり、バラザフからハーシムからの手紙を見せられ、全身に氷のような寒さが走って彼の体温を奪った。これを見たときのバラザフの反応とは正反対である。

「ハーシムが軍を起こしたのか……」

「サーミザフ、もうわかるな。大事な話とはこれだ。シルバ軍はどちらに味方すべきか。生死の分水嶺だ」

「父上、私の答えは最初から決まっています。シルバ軍はレイス軍の配下なのです。筋を通してこのままレイス軍の陣営に参陣すべきなのです。ファリド様も父上の到着を待ち焦がれております!」

 サーミザフの性格からすれば当然の答えで、また正論過ぎるほど正論であった。是が非でも父バラザフをファリドから遠ざけてはならず、その強い意志は、いつになく強い語気に顕れていた。

 バラザフは、まだこれには返答しない。

 そして次にムザフの意見を促した。

「私はハーシム殿に味方すべきだと思います。父上のご判断はどうなるとしても、私はこれまでの半生をアミル様の育てられました。さらにバフラーン・ガリワウ殿は私の舅なのです。兄上のファリド殿に味方すべきという正論も決して否定は出来ません。しかも兄上もファリド殿の重臣中の重臣イクティフーズ・カイフ殿が舅だ。兄上は兄上でハーシム殿に味方出来る理由が無いのです。ここから結論するとすれば、我々兄弟が敵味方に分かれる他、道は無いと思われます。すでにそれぞれ別の未来を持ってしまったのです」

 バラザフ自身はどちらに付くかもう決めていた。

 バラザフは、サーミザフとムザフ双方にそれぞれ顔を向け、そして瞑目に入った。

「極めて難時である。だが、どちらに付くかここで決める。サーミザフ、お前だけレイス軍に戻れ。俺とムザフはハーシムに付く。こうしておけば、結果がどうあれ、シルバ家は必ず生き残れる。お前はすぐにファリドの所へ戻り、ハーシムの挙兵と俺の謀反を報告するのだ。次に会うのは戦場になるだろう。そして――」

 一息だけつき、

「死ぬなよ」

 そういってバラザフはサーミザフを送り出した。サーミザフの背中が遠くなり、傍に居るムザフに語った。

「歴史も国も問わず、こうした生き残り方は幾度も繰り返されきたはずだ。家族と別れるのは辛いが、これで俺が世に戦いを挑める好機が巡ってきた。あちこちから戦火が起こるぞ。今度こそ未来を視る眼の先を手に入れてやる」

 ムザフはたまに父の口から未来を視る眼という言葉が出てくる

訳は知らなかった。しかし、五十を越えたバラザフの身体から闘気が発せられているのだけはよくわかった。

「よし、すぐにリヤドに戻るぞ。ここでレイス連合の動向をよく見極めて、それ次第で城邑アルムドゥヌ を防衛するか、ハーシム連合に合流するかが決まる」

 サーミザフがクウェートに戻ると、先にベツレヘムのズバイディーの使者がファリドの陣に来ていて、ハーシムが挙兵した事を伝えた。

 ファリドはこれを聞いて驚くどころか、満足な笑みを顔いっぱいに顕して、重臣のイクティカード・カイフに顔を向けた。

「ようやくハーシム・エルエトレビーが挙兵した」

 ファリドは、ハーシムの挙兵を辛抱強く待ち続けていた。

 サーミザフは、ファリドにハーシムの挙兵と、父バラザフの謀反を報告した。そればかりかシルバ家で話し合って、家を二分して生き残るという結論に至ったのだと、真っ正直に全て話した。

 ファリドは、サーミザフが父親より自分に加担すると決めた事、全て隠さず自分に話してくれた事を素直に喜んだ。

「バラザフが敵に回ったのは痛手だが、サーミザフだけでも戻ってきてくれ心底嬉しく思う。ありがとう――」

 ファリドはサーミザフの両手を握ってまで喜んだ。そして、

「アルカルジ、そしてバラザフが所有しているリヤドもサーミザフの所領として認める」

 と今まで以上の厚遇を俄かに宣言した。

 この時点でバラザフの経路はまず狙いの一歩を進めたという事になる。

 ファリドは大略の戦争としてはハーシムを相手にしているが、

局地戦という面ではバラザフが好敵手となっている。二人の辣腕家によって知謀が水面下で火花を散らす。バラザフもファリドも最終的に欲する物は世の覇権なのである。

 クウェートに設置されているレイス軍の本営では、寄り集まった諸侯が皆ファリドに加担すると言質を供した。それ以前に人質も出している。クウェートへの参陣要請を拒否し、しかも反旗を翻したのバラザフ・シルバ、ムザフ・シルバの親子ばかりであり、他の全員がファリド・レイスの尖兵となると気勢を上げた。世の覇権をファリド・レイスが完全に手中に収める前に、売れる恩は売れる時に売らねばならぬ、という功名心でぎらついた者が並み居る。クウェートの城邑アルムドゥヌ は、そんな姿をしていた。

 未来の権力者に尻尾を振る群雄達を背中で嗤いながら、バラザフとムザフは、言い切った。

「ファリド・レイスは悪辣なり。最後の最後までカマール様のために反逆者を征討する戦争なのだと諸侯を騙しとおした。それがわかっていて付いて行く奴等もみんな古苔だ」

 サーミザフと別れ威勢よくカフジの城邑アルムドゥヌ を出てきた、バラザフとムザフとバラザフだったが、どうにもバラザフの様子がおかしい事がムザフは気になっていた。

 一行がリヤドに戻る道に入った頃である。バラザフが、

「サーミザフの子等に会っておきたくなった」

 と言い出した。サーミザフの子は当然バラザフにとっては自分の孫にあたる。

 急遽、軍旅をハウタットバニタミムに向けたものの、ハウタットの城門は固く閉ざされていて、バラザフが門を開けるように促しても守兵は何も反応しない。

 途方に暮れていた所、門の上にサーミザフの妻レベッカが現れて、槍を振り回して不動の構えで上から見下ろした。あのイクティフーズが被っていた、炎を象形した二本角のカウザ と同じものを被っている。こちらは女性用に仕立てられたようで、やや小さめであった。

「バラザフ殿がいかに舅殿といえども、夫サーミザフの敵に回ったお方を、この城邑アルムドゥヌ には一歩たりともお通しは出来ません!」

 レベッカの怒気にバラザフは口端を歪めて笑って応じるしかなかった。

「まったく、あいつには負けるよ。さすがは、あのイクティフーズ・カイフ殿の娘だ。父親の気性を受け継ぎ烈女となったか。城の護りも堅いわ」

 諦めてバラザフが城門に背を向けて立ち去ろうとしたその時――。

 背後で城門の開く音がして、レベッカが姿を現した。

「先ほどはご無礼を。ですがやはりこの門より内に入れる事は適いません。せめて、子供達と再会の場はご用意させていただきます」

 そう言ってレベッカは、リャンカの伽藍跡を面会の場に指定した。リャンカ寺院は、カトゥマルの妻リャンカがハラドの高僧ナデイユ師に、ザルハーカの法を授けられた事を起因に、リャンカがナデイユ師のために建てさせたゆえ、リャンカの名がつく。だが、リャンカ寺院は、フサイン軍の襲撃を受け伽藍は焼け落ち今は廃墟となっている。リャンカも、ナデイユも、そしてハイレディン・フサインも、もうこの世の者ではない。

 バラザフは息子の妻の親身な態度に感謝して、リャンカの伽藍跡へ馬を向けた。

 孫達と再会を喜び合って別れを済ませると、バラザフはリヤドへの道を急いだ。ここから二日はかかる予定である。

 すでにこの時、バラザフはファリドの動向を、未来を見る眼で走査していて、それ以外の事は彼の脳裏から消え去っていた。それしか考えられなくなっていた。

 そのバラザフの隣にはもう一人バラザフが居る。ムザフは、エルサレム、ベイルート、レイス軍、ベイ軍、アッバース軍など、情報収集路線を多岐に広げて、それらを見事に捌いた。間者ジャースース を縦横無尽に使いこなす態は、昔のバラザフそのものであった。

 バラザフは、未来を読んだ。

「八十三万。これはレイス軍のみの戦力だ。そのうち十万、あるいは二十万はベイ軍の進攻を防止するために割くはず。つまり、ハーシムとの決戦に連れて行ける戦力は多くても七十万ということになる」

 考えているうちにまた新たな要素が思い浮かぶ。

「レイス軍の尖兵となった諸侯も六十万くらいはいる。これもハーシム軍にぶつけるだろう」

 そこに大軍を進行させるレイス軍の課題が浮かび上がってくる。

「レイス軍はどこに宿営させるのか。一気に移動させるのか、段階的な移動になるのか。一気に行くとすれば、どこの城邑アルムドゥヌ ならば大軍を収容出来るか」

 バラザフは、都市機能、市民生活等の要素を考慮した結果、レイス軍はエルサレムへの行軍過程の問題から、段階的な終結になるだろうと予想した。

「となると、クウェートを進発した後軍隊を三つくらいに分隊し、バスラ、ナーシリーヤ、ナジャフ、バグダードの路線を、先発隊から順に移動と駐留を繰り返して進むしかない。あるいは路線をそれぞれ変えるという手もあるな。その内一隊くらいはリヤドに押し出してくるかもしれない」

 来るのが諸侯の軍になるか、レイス軍になるか。それは分からない。ハーシムと決着をつけるだけならリヤドはレイス軍の盤外に外しても戦略としては十分成り立つ。だが――。

「レイス軍は必ずリヤドに来る」

 それが、理屈の次元を超えたバラザフの勘であった。

「つまり、俺達はリヤドを空けておくわけにはいかないという事だな」

 アジャリアであれば一度リヤドを捨て、好機が巡ってきた頃に再度取り返す。そんな手も打てたであろうが、シルバ軍には、そのように流動的に動かせる組織力は無い。情報力だけが力である。

 さらにバラザフはハーシム側の動きも予想する手間を取らなければならない。味方ではあるのだが、ファリドのようにバラザフは味方の統帥権は持っておらず、また、献策も求められていない。

「そもそも、このまま行くと両軍はどこで激突するのか」

 戦力は自由にはならないが、考え方に関してはバラザフはアジャリアの思考を大いに活用した。大略の流動的な動きを、未来を見る眼で読み解く。両軍において、これに関してはバラザフを越える武人は誰一人居ない。

 視野を広域に広げれば、そのような大局眼を持った武人はもう一人だけいた。トリポリの君主、ヨシュア・タリヤニである。

 ヨシュアはアミルの生前、トリポリの城邑アルムドゥヌ を拝領して今に至る。が、ヨシュアは今回のハーシムとファリドの争いに今の所無関係を決め込んでいる。

「ハウラーンの涸谷ワジ だな」

 バラザフは、ハーシムとヨシュアがここで激突すると確信した。

「反レイス連合軍といっても、実際の作戦はハーシムが決めるのだ」

 リヤドに帰還して数日というもの、バラザフは自室に一人で閉じこもって作戦を考えていた。その前に両軍の流動が読めなければ話にならないので、貫徹して両者を見比べていた。そして、ようやく部屋から出てきてムザフに説き始めたのである。

「ファリドはじっくりやる攻城戦より野戦の方を得意としている。あくまであいつの中で得意というだけだ」

 これを裏付ける過去はいくらでもあった。まず第一に挙げられるのはウルクでのレイス軍の惨敗である。挙げればきりがないほど、バラザフはアジャール家の武官時代にファリドの負けぶりを幾度と無く目撃してきたのだ。ゆえに、バラザフは武人としての技量はファリドなどより自分が数段格上だと思っている。またこれを否定する人間もおそらく誰も居ない。

「それでファリドは自分の得意な野戦に事を運んでいきたいが、ハーシムはアブー・カマールに篭城するはずだ。もしここが陥落しても西へ逃げればベイルートだし、北へ行けばハーシムの本拠地であるカスピ海バクーの城邑アルムドゥヌ がある。どちらも一週間逃げ切れば退避出来る。アブー・カマールにレイス軍を張り付かせておけば、時間の経過とともにレイス軍からハーシム側へ旗色を替える輩も必ず出てくる。とどめにカマール様が自ら戦場に出てくればアブダーラの古参の武官は先を争って反レイス連合の陣に馬をつなぐだろう」

 バラザフは、ハーシムの側についているものの、このようにハーシムがあっさり勝ってしまうのは、それはそれで都合が悪い。アブダーラの政権が確たるものとして固まってしまう。つまりバラザフとしてはハーシム、ファリド双方が食い合って共倒れしてほしいわけだが、さすがにそこまでの魂胆は、相手がムザフであっても話す事はできなった。 

 ――共倒れとはいかなくとも、せめて両軍の進退が窮まって数ヶ月固まってくれれば。 

 主戦場が他に移る事になる。

 カイロのベイ家が周辺と戦争になるか、一連の同盟を作る。ヨシュア・タリヤニはトリポリ周辺の諸侯と戦い、自勢力でも何でも作ってくれればいい。

 その戦場が分散した時間がバラザフの好機となる。シルバ軍はバラザフとムザフでリヤド、ハラド、アルカルジをこの際全て手に入れてしまう。アジャール家再興を大義として自分の野心の上に掲げておけば、旧アジャール軍の武官を束ねて勢力を拡大する。そこまで強くなれればアジャリアが企図した西進を、バラザフの旗の下で成す事が出来る。

 本来、レイス軍とエルエトレビー軍の激突となるはずだった戦いが、広域戦乱として飛び火していく。

 世界的な戦火の中、その火に照らされながら、中央の政権にシルバ軍の旗を立てる。新生シルバ軍の覇権ともいうべき作戦壮図がバラザフの中で生き生きと描かれていた。


「インシャラー!」

 何に対するインシャラーなのか、バラザフは燃え上がった。

 レイス軍とエルエトレビー軍の大戦争は、バラザフにとって好機である。しかも、ただ大乱になるだけではない。自分が覇権を握れるような盤面が整っていた。

 バラザフはムザフにも本当の裏の裏の野心は説かず、戦況の先行きだけを示した。

「今まで攻城戦であれだけ失敗を重ねてきたファリドだ。さすがに攻囲での不利を自覚しているに違いない。あらゆる手段を講じてハーシムを野戦の場に誘引するはずだ。その手段までは細かく読めないが、ハーシムが誘いに乗った場合、決戦の場は、ハウラーンの涸谷ワジ になると結論出来る」

 バラザフの解き明かしを聞きながらムザフは地図から目を離さずにいた。

「ですが、父上。なぜ涸谷ワジ のような湿気があり不安定な地形を選ぶのですか。しかも、両軍とも。他にいくらでも平地、平地が得られなければ砂漠も有り得ましょう」

「人気取りさ」

「人気取り」

「うむ。どちらが勝っても一気に覇権の座は得られない。ハーシムにはアブダーラ家を弑逆するつもりは毛頭無いし、ファリドにしてもハーシムを倒したからといって即、大宰相サドラザム の地位を得られるとは限らない。だから農地や村落が荒れるような地形は避けたいわけだ。両軍とも連合として編成されていて一枚岩ではないから、大義を失すると後々厄介になるのさ」

 この辺りがバラザフの大略を読むに勝れた所で、戦場での作戦手腕だけに頼る武人、軍師達の一つ、二つ上を行っていた。

「本拠地であるバクーから近い分、あの辺りの土地勘はハーシムの方にあるだろう。岩陰に部隊を隠しておいてファリドだけを狙い撃ちする事も出来る」

「岩が多く、道が筋状に別れているという事は、挟撃が発生しやすい地形でもありますね」

「野戦になったとしも、ハウラーンならハーシムに優位に働くだろう」

「ハウラーンでの戦いが長引いてくれなければ、我等シルバ軍にとってはよくないですね」

「それもあるが、俺はハーシムの采配自体を心配しているよ。あいつは確か、名が上がるような戦勝は一度も経験していないはずだ。だからハーシムが総司令としてしっかり指揮力を発揮出来るのかどうか」

「臣下の心を掌握しきれていないという点でも、ハーシム殿が百万の大軍の総司令としての器として耐え得るものなのか、これも不安要素ではあります」

「まあ、数ヶ月にわたる長丁場になるのは間違いない。百万対百万の大戦だからな。この盤面での我等の手は、分隊して西進するレイス軍の一軍をこちらに引き寄せて、ハウラーンに向かう戦力を少しでも削ぎ落とす事だ。ハウラーンでの決戦、我等も楽しませてもらわないとな」

 そして、バラザフは篭城する事で引き付けたレイス軍に対処すると決めた。

 配下のアサシンが情報を持ってきて、ムザフがそれを吟味する。すると驚いた事に、そこから出てきた答えは、両軍の流動を明解に示したバラザフの予知と結果がほぼ同じになった。

「父上は裏付け無しに正確に未来を読み取ったというのか」

 アルハイラト・ジャンビアと言われるバラザフ・シルバ。息子であっても戦略家としての神威ともいうべき切れ味を、再認識させられる事はまだまだある。

「このハーシムでは、バラザフ・シルバの知謀には未だ届かず、敵に回さなくてよかったと痛感している」

 バラザフに宛てたハーシムの手紙である。

 バラザフはムザフにハーシムの手紙を見せた。その口には苦笑いがなぜか浮かんでいる。

「シルバ家の今の所領に加えて、ハラド、リヤド全域を領土として認める、と書いてありますね」

「レイス軍が勝てば、ハラド、リヤドはサーミザフのものに、エルエトレビー軍が勝てば俺達のものになる。どっちも品物を仕入れる前に売る約束をしているようなものだぞ」

 バラザフは、自分で喩えて、これが気に入ったらしく、今度は素直に笑った。

 この年の酷暑過ぎ、雨の季節が訪れようとしていた。レイス軍の諸将はクウェートの駐留をやめ、ついに城邑アルムドゥヌ を出て西へ進み始めた。そのうちの一軍はバラザフが予見したとおりリヤドに向けて派遣された。

 二週間で彼等はバグダードに到達した。急ぎすぎない無理の無い行軍といえる。レイス軍の配下として動いている諸侯に、中央に勤務しているそれぞれの家の家臣が主君に報告を入れる。

 ――ベツレヘムがエルエトレビー軍に落とされた。

 どこの主従も報告の内容はほぼ一緒である。

 諸侯の中に迷いが出始める者がいた。今からエルエトレビー軍に加勢すればまだ重用されるに間に合うのではと、心揺り動かされる者も少なくなかった。今頃合流しているはずのレイス軍の主力部隊がまだ自分達の見える場所にすら居ない事も、動揺を促した原因の一つである。

 今、ファリドは本拠地であるマスカットに居た。極めて多忙であった。

 ザラン・ベイが本腰を入れてレイス軍攻撃に乗り出してくるのか。それの真意と動静を確実に知っておきたかった。

 カイロからマスカットまでは最短距離でも二ヶ月近くかかる。しかも他勢力圏内をいくつも通過して来なければならないのだが、その通過する他勢力圏の正中に居るのが、よりによってシルバ軍であった。これまでのバラザフ・シルバのやり方を鑑みると、レイス軍とエルエトレビー軍の戦いが長引いた場合、バラザフがリヤドにベイ軍を引き入れて、マスカットを急襲するという事は十分に考えられた。しかも、それより以西のメッカの動向もわからない。

 マスカット滞在中にファリドは出来る限りの手を打っておきたかった。ザランに直接降伏勧告を行ったり、懐柔のための条件も提示したりした。

「アッバース殿は御自身の本拠地であるバンダルアバスからクウェートまでを監視体制に置き、ベイ軍の動きを見張られよ。攻め入るには及ばぬ故、ベイ軍がシルバ領の入る間に後詰の方から食われるかもしれぬという警戒心を持たせれば上々。クウェートに十三万の兵力を置いておくから、ベイ軍が攻めてきたらそれを使って防ぐのだ」

 こうして配下に幾つも指示を出してベイ軍の進攻を阻止しておいてた。シルバ軍とベイ軍を接触させない事がベイ軍対策の第一であった。

 まだまだ手を打っておかなければ西進のための準備を終える事は出来ないファリドは、エルエトレビー軍に付くことを表明しているマブフート軍、サバグ軍、カアワール軍、ムーアリミー軍にも筆を休めず手紙を書き続けレイス軍へ付くように工作に精を出した。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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2023年4月5日水曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第11章_1

  バラザフはリヤドで書面に筆を走らせていた。リヤドに戻ってから、こういう事務的な忙しさに追われる日々である。書面の内容はといえば、事務的な世事や時節の事柄を書き連ねて、それを擬装タムウィ として本件は所々に手短に記した。つまり手短に書かれている事は殺伐とした内容でもあるわけであり、反面、大半の余分な部分でバラザフは詩的な表現記述を楽しんだ。

 そして、真に核心に触れた手紙は、実力と仁義を信じられるアサシン軍団に持たせた。このように伝達方法を二つに分けたのも戦略としての擬装タムウィ である。

 バラザフも頭に大分白いものが増えた。同様にフートやケルシュも、もう若くはない。よって若手のアサシン、間者ジャースース が、バラザフの遠隔作業のために篤実に働いた。かつてアサシンとして実働していたフートは、今ではバラザフの執事サーキン のような仕事をしている。ケルシュは、リヤド近くに領地を与えられ、太守としての役割を果たすようになっていた。

 バラザフの手足になっているアサシンは、組織的にはムザフの部下であるという事になっている。ムザフは頭は切れるがその物腰は柔らかい。それで部下からは主君の息子という感じではなく、棟梁あるいは兄貴という感覚で慕われていた。

 バラザフが育ててきたシルバアサシンは、今、世代交代の時期を迎えている。ムザフを中心とした第二世代の波が来ているのである。

 その中で注目されるのがレオ・アジャールという若手のアサシンである。アサシン団のシムク・アルターラスの手で赤子の時から育てられたのだが、何と、かのアジャリア・アジャールの血を引いているという噂があった。アジャリアは彼の祖父にあたるらしいが、詳細は周囲には明かされなかった。バラザフもムザフもこのレオを可愛がって育てた。

 シムク・アルターラス亡き後は、アサシン団の中心に居たルブスタル、ジャンブリの二人が師匠となって、アサシンとしてのあらゆる技法を教えた。結果、今ではレオ・アジャールの実力はシルバアサシン団随一のものになっている。

「レオ・アジャール、カイロのベイ家執事サーキン ナギーブ・ハルブ殿にこの手紙を渡せ。言うまでもないが必ず本人に直接渡すのだ」

 レオと並んで主な任務をこなせるアサシンが居た。女のアサシンで名をオルガという。オルガもレオと同じくシムク・アルターラスに育てられ、レオとは姉弟同然である。亜麻色の髪を持つ相当な美人だが、素性はレオ以上に不明な事ばかりで、陰に隠して明かさないという事ではなく、名前以外の事が今日に至るまで本人にも判明出来ていない。

「オルガは、ハーシム・エルエトレビー殿の本拠地であるバクーの城邑アルムドゥヌ に行ってくれ。カスピ海の傍だ」

 バラザフの与える任務は重い。だが、こういった過負荷な仕事でも移動力に長けた二人は平然と受けた。バラザフにとって本心から頼もしいと思える新世代である。

 バラザフ・シルバ、五十四歳。ムザフ・シルバ、三十六歳。この二人のシルバ軍の棟梁は戦略的なかみ合わせが非常に良い。今の趨勢をどう見るか、それに対してどのように対処するのか。二人の方針は同和する所が多い。

「ファリド・レイスが何故周囲を振り回してまで先を急ぐのかムザフには見えているだろう」

「寄る年波ですよ。ファリド殿も八十を越えたとか。だからこそ、今まで慎重な素振りを見せていたのを、今になってひるがえ すのです」

「今のままでもファリド・レイスは実質的な執政者だ。安定した政権を望むなら、昨今、巻き起こしてきたように戦争を誘発する所業に出る必要はないのではないか」

「安定した政権というのであれば、それは結局アブダーラ家の政権としての安定です。大宰相サドラザム の地位を何としてでもレイス家のものにしたいと思えばこそ、戦乱の渦に世を巻き込んで諸侯の出方を見極めて、アブダーラ家を追い落とそうとするのです」

「ムザフの見解、まさに核心を衝いていると言える。俺も同じ考えだよ。ファリドのやり口は悪徳商人が自分の懐だけに金貨を貯めこむような感じだ。自分に利する世に対して信義を以って報いるという事がないのだ」

 同じような会話が、バクーのエルエトレビー家でも、カイロのベイ家でも行われていた。

 ――我等の信義を神はお望みだ。

 彼等のファリド・レイスの悪行に対する信義は、まずは理念の段階で団結している。

 大宰相サドラザム の地位もさることながら、今ファリドが渇望しているのは戦乱である。まず戦乱の渦に世間を巻き込まなければ何も始まらなかった。

 その渦に最初に巻き込まれたのは、ザラン・ベイである。

「ベイ侯には、政権より召集の命を何度も出した。これに従わないのはカマール様さらには聖皇に対する反逆の意があるからであろう」

 と詰問する内容の手紙がファリドからザランに送られた。これに対してザランも負けていない。

「馬鹿を言うな。このザランにカマール様への謀反の心があるはずがない。他人よりも己の心を明日の朝、井戸にでも川にでも行って洗ってくるがいい」

 ベイ家からの応酬はこれに終わらず、ハルブ個人からもファリドへ挑発の手紙を送った。

「ファリド・レイス。ザラン・ベイと、このナギーブ・ハルブが若造だと思って侮ると承知せぬぞ。ベイルートおよびエルサレムへの召集には応じないとは一言も言っていない。ベイ家にはベイ家の事情がある。それを知っていながら、ベイ家の不参を以って反逆者扱いするなど無礼にも程がある。ザランが反逆者であるならファリド・レイスは大逆人である。世から誅せらるべきはファリド・レイスである。ザラン・ベイのカマール様への忠心はカラビヤートに並ぶべきものなし。いずれにとが があるのかはっきりさせてやろうではないか。ファリドでもいい、愚息のファルダハーンでもいい。戦下手のレイス軍の相手をベイ軍がしてやろう」

 実に長い手紙である。

 これらの写しは同盟相手であるシルバ家にも届けられた。

「さすがの俺もここまで叩きつけてやれないな」

「しかも、他人の子を愚息呼ばわりですからね……」

 小気味よくザランとナギーブの読みながらも、バラザフもムザフも驚きを隠せなかった。

 かかってこいと言わんばかりのベイ家の胆力がバラザフには羨ましかった。これまでの人生、特にアジャリアを失った後は、バラザフにとって戦いとは、大勢力との正面衝突をいかに回避して勝つかという事に神経を尖らせてきた。

 そういう押しも押されもせぬ安定を求めていたからこそ、戦乱の世に躍り出て、活躍の舞台で大立ち回りを演じてやろうと息巻いていたのだった。

 戦争に挑む自分の動機が、ザランやナギーブよりも、むしろファリドに近いと自覚してしまった事も、バラザフを内心では動揺させた。

「ファリドのやつ、あまりに憤って、ハイレディンのように髪の毛が真っ赤になっているのではないか」

「最高に怒っているでしょう。ベイ家にあのように豪胆に言い放たれますと、我等シルバ家だけが真の士族アスケリ ではないと省みる価値もあるというものです」

「そうだな……」

 バラザフは、まだこの時は表立ってレイス軍に反旗を翻す事はできないでいた。今の所は流れを見定めておきたい。

 しかし、裏ではハーシムやナギーブとの手紙のやり取りをしきりに重ねて、さらには、ムザフの舅であるバフラーン・ガリワウと連絡を取り合うなどして、密盟の幅を拡げつつあった。

 ここまで裏でバラザフが大きく暗躍していても、レイス軍にはまったく気取られていないかった。バラザフは配下のアサシンの優秀さに援けられていた。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。


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2022年4月5日火曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第8章_1

 ――カーラム暦1000年サラディン・ベイ死亡。死因は心臓麻痺。

 ベイ家の当主サラディン・ベイが死んだ。サラディンの死は心臓麻痺によるものと世間には広まった。だが奇妙な事にサラディンの遺体の首には刃物で斬られた跡あった。

 それはさておき、サラディンの死が、カイロの城邑アルムドゥヌ を含むその周辺のミスル地方に、擾乱じょうらん に直結するであろう事を、この時に家臣団の誰もが予想した。

 サラディン・ベイには実子がなく、養子が二人いるのみである。

 養子の一人はサラディンの甥のザラン・ベイである。ベイ家の血に連なる者で慕う部下も少なくない。

 もう一人はベイ軍とメフメト軍が同盟した際に交換武官としてベイ軍に所属したオグズ・メフメトである。カウシーン・メフメトの末のほうの子らしいが、サラディンは殊更彼の素性を掘り起こそうとしはしなかった。

 サラディンが見た所、オグズには武人としての良質な芽があり、これを間違えて育てなければ、きっとベイ軍の力となるだろう。たとえオグズがメフメト家に還ったとしても、人一人、一人前に育て上げ実家に戻し、自分としての義が立てばそれでいいと、

サラディンは考えて、オグズも自分の養子とした。

 サラディンは、ザランを後継者として、ベイ家とカイロとミスル地方の領土を継がせるつもりでいたが、その事をはっきり周知する前に冥府の住人となってしまったのである。

 サラディンが死して日が経つごとに、皆が予見した擾乱じょうらんが少しずつ形になって表出し始めている。

「ベイ家が内乱状態にあるだと?」

 アジャール家では、アラーの城邑アルムドゥヌ の太守、トルキ・アルサウドが初めにこの情報を入手した。そして・アルサウドは最初にアルカルジのバラザフにこれを報せた。

「フート、お前の配下を全て連れてカイロに潜入してくれ。次のベイ家の当主はどちらになるのか。カイロの行く先はどうなるのか。その目で見て見澄ましてくるのだ」

 次いで、ケルシュにも命じた。

「メフメト家の動向も知っておきたい。おそらくシーフジンが稼動しいるだろうから警戒が必要だ。今はアジャール軍とメフメト軍は同盟状態にあるが、有事とは得てしてこういう変事から起こるものだからな」

 さらに、

「シムク・アルターラスを配下と共に俺の下に戻しておいてくれ」

 と、配下のアサシンに戦闘任務ではなく、元々の役割であった諜報任務を与えた。

「カイロへ出征する可能性も考えられる。戦いの支度もぬかりなく済ませておくように」

 カイロ擾乱は、バラザフの頭脳と体躯を活発に使役させた。しかし、こうした慌しさの中でバラザフは、逆に生命力を湧き上がらせていた。謀士アルハイラト としての光が目に戻りつつある。バラザフの頭は血がよく巡って、心地よく放熱している。

 バラザフの重臣にイフラマ・アルマライという人物がいる。バラザフの叔父であり、熱血と冷徹が同居したようなイフラマは、淡々と戦支度を進めている。

「バラザフ。もし戦争が勃発したらサーミザフを初陣に出す良い機会だと思うのだが」

「サーミザフも十二歳。戦場を知っても良い歳かもしれません。私もアジャリア様の近侍ハーディル として戦場に出たのはそれくらいの歳でした」

「ベイ軍とのあの戦いか。初めて戦場に出るには、あれは重い戦いであったな」

 イフラマの脳裏にあの激闘の光景が浮かんだ。バラザフはあの激闘を乗り越えて立派に成人して今は将軍の一人になった。だが、もし戦いが起こって、それがあのような惨状を呈した場合、サーミザフも同じように乗り切れるのか。不安は湧いてくるが自分が言い出してしまっただけに、イフラマはサーミザフの出陣を取り下げる事が出来なかった。

「サーミザフ、次の戦いでお前を連れていく事になった」

 バラザフは、長男サーミザフ、二男ムザフの二人を前に並べて、サーミザフの出陣を言い渡した。黙って頷くサーミザフを、ムザフが羨ましそうな顔をして見つめている。ムザフのその姿にバラザフは自身の幼少期を見た。

 アジャール家にとってカイロ擾乱は、ムサンナの敗戦での捲土重来を期せるまたとない好機となりうる。カトゥマルは十五万の兵と共に進発した。このカトゥマルの出兵の背景には、メフメト家も一枚噛んでいて、メフメト軍は現在盟約を結んでいるアジャール家にカイロへの出兵を要請したのであった。

 大きく二つに割れたベイ家の片割れ、オグズの妹が今のカトゥマルの妻になっている事も背後にあって、カトゥマルはこの出兵の目的をひとまずオグズに肩入れするためとしている。

 カトゥマルは北西に進軍してジャウフまで進み、そこから西へ向かって、スエズに至った。ここまで来ればカイロまで一両日、遅くても三日で到達する。

 これと同時にシアサカウシン・メフメトの方でもカイロ擾乱を自勢力の拡大の機会ととらえて、ベイ軍が手出ししてこないうちに、アルカルジの城邑アルムドゥヌ 近辺のアジャール軍の勢力下にある地域を、縫うように避けて、何とか実入りを得ようと軍勢を派遣した。

 シアサカウシンが目をつけたのはハウタットバニタミムの地である。シアサカウシンも派兵の目的をオグズに味方するためとして、カイロとは何の関係も無いこの地に押し寄せてきていた。

「メフメト軍がハウタットバニタミムに進攻し周辺に勢力を拡大しているようです」

 バラザフは、ケルシュの配下が持ってきたこの情報に驚かされた。当然、カトゥマルの気色もよくない。

「アルカルジに手を出すというような背信行為は、メフメト軍の同盟破約ではないか」

「いえ、ハウタットバニタミムは我がアジャール軍の支配下にないため、辛うじて同盟破約にはあたりません。ですが……」

「何とも狡辛こすからいな」

「ええ」

「同盟状態が維持されているとはいえ、そこから掌を返されては、すぐにアルカルジ諸共、一帯が席巻されるぞ」

「防諜に手抜かりはありません。ご安心を」

 バラザフには、メフメト軍がさらなる進攻、それこそ背信行為に出てくるであろう事は容易に想像出来た。よって、ケルシュに、

 ――シアサカウシンはカイロの弟のオグズと組んでハウタットバニタミムを挟んで乗っ取りに来る。

 とハウタットバニタミムの諸族を、ザラン・ベイの側につくという名目で、対メフメト軍の勢力として布石させた。カイロから遠く離れたアルカルジ、そしてハウタットバニタミムの地でも、形の上ではあるが、オグズ対ザランの構図が作り上げられた事になる。予想していなかった自勢力への抵抗で、アルカルジを含めて周辺を一気に席巻しようとしていたシアサカウシンの進攻の壮図はハウタットバニタミムまでで終わった。

 その頃、カイロでは状況に進展が無く行き詰った状態にあった。そこへアジャール軍が乱入してきたので、ザランと彼の参謀のナギーブ・ハルブの気勢は、急速に弱まった。この状況でアジャール軍をカイロに入れてしまえば、カイロの支配権は完全にアジャール軍の手に落ちるからである。そして、メフメト軍、アジャール軍が裏で糸を引いている事を考慮しても、ベイ家の当主としてオグズがカイロの城邑アルムドゥヌ の統治権を握るだろう事は容易に予想出来る。

 カイロ入りしているフートは、

 ――ザラン、ナギーブ・ハルブともに、アジャール軍との同盟の意図あり。

 と、バラザフに報告した。

「ザラン側では、同盟や降伏を本気で考えなければ、滅亡まで追い込まれると読んでいるのだな」

 そして、メフメト軍の方に間者ジャースース として出しているケルシュからは、

 ――シアサカウシンはこの機にアルカルジを取る意気を、まだ捨てていない。

 という情報がバラザフの所へ上げられてきている。

 次いで、

 ――オグズへの支援、カイロでの差配をアジャール軍に押し付けて、アルカルジを奪取する野心あり。

 との詳細も送られてきた。

「さて、この双方をどうさば くか……」

 バラザフは、二方面の情勢を測った。

「ザランから同盟を模索する使者が来るのは間違いない。カトゥマル様に講和に意思があるかどうか」

 バラザフが読んだとおり、ハルブの使者が、カトゥマルの天幕ハイマ に遣わされてきた。

 ザラン側の使者は、まずアジャール軍との和平の意思があるとし、

「フサイン軍、レイス軍との同盟関係を破棄する。アジャール軍とベイ軍で新たな同盟関係を構築し、リヤド、アルカルジ近辺のベイ軍所有の城邑アルムドゥヌ から手を引く。さらにカトゥマルの妹をザランの妻として迎え入れたい」

 と条件を示してきた。

 続いてやってきた使者は、

「アジャール軍に対して従属同盟であってもよい。フサイン軍、レイス軍に対しても、アジャール軍の盾となって戦う覚悟もある」

 と、さらに譲歩した条件まで提示してきた。が、この過度に譲歩された講和条件は、地理的条件を加味すると、エルサレムへの進攻を手控えている今のアジャール軍の盾となるような位置に、カイロに居るベイ軍が割って入るなどという事は現実的には、有り得ない事ではある。

 意地でもアジャール軍との抗争を回避したいザラン軍は、これでもかというように、カトゥマルと側近達へ、次の使者には、金塊とアレクサンドリアの金細工を大量に持たせてよこ してきた。

「さすがにここまで来ると露骨だとは思うが、ザランが提示してきた条件は我々にはこの上ないものばかりだ。妹とザランの縁が決まれば、ザラン・ベイと我々は縁戚という事になる。これからの力関係によっては、ナワズ・アブラスのようにアジャール家の親族派の家臣になる事も十分考えられる」

 ザラン・ベイという人は義人サラディンに似て、外交での化かしあい好むような狡知の人ではない。参謀であるハルブに、そこまで言ってのけねばアジャール軍との講和は成らないと言われて、このような講和条件を裁可したにすぎない。ハルブにしても相手を騙すような手段を普段から好んでいたわけではないが、ザランとベイ家を存続するために何をすべきかという窮状において、割り切って考えられる頭を持っていた。

 こうしてカトゥマルは、使者とのやり取りをバラザフに説明した上で、和平の受け入れる意思を示した。

「だが、ザランと講和するとなればオグズを裏切る事になるので、上手く話がまとまるように持っていきたいのだが」

「であれば、ザランとオグズが和議を結ぶように、我等が調停に入るようにすれば、両方に義理立て出来、また両方に恩を売った事になるでしょう」

 アジャール軍としては方向性が決まり、ザランとの講和も成立した。

 カイロは元の調和へ向けて歩みだしたように見えた。しかし、ベイ家の家臣の中には、ザランがアジャールと手を結んだ事に不満を持つ勢力が発生し、こらがオグズ側について、再びカイロは擾乱状態に陥った。

 そして次の年。ザランに追い詰められたオグズが自決し、多くの犠牲が出したカイロ擾乱は、これをもって終結したのである。

 これらの経緯を、フート、ケルシュ率いるアサシン団がバラザフに順次報告していた。


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2019年2月2日土曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第2章_7

 タラール・デアイエはサラディン・ベイを頼って行った。ハイルの街を落とされてより二年後、身を寄せていたカイドの街のバルナウィー軍も、アジャリア自身が率いる本隊によって壊滅させられ、ゆくあてを失ったためである。確執のあったデアイエ軍とバルナウィー軍だが、アジャール軍という外圧に晒され手を結ぶもやむなしという事で、バルナウィー軍にとってもタラールという兵士を率いる将が一人増えたともいえるので、アジャール対策としては強化が出来た。が、積んだ石を一つ外せば全て崩れ去ってしまうように、ハイルの街がアジャール軍の手に落ちた事は、この地方の勢力均衡を大きく変え、勢いづいたアジャリア・アジャールを止める事は最早適わなかった。
 ハイルからサラディンのカイロまで一ヶ月弱。砂嵐が落ちてゆくタラール達を容赦なく襲う。口を覆う布を押さえる手に力が入る。アジャリアという侵略者を怨みながら、砂を噛み、彼らはカイロへ向かってひたすら重い足を前に出していった。
「戦う事が士族アスケリの常とはいえ、アジャリアの悪辣さは目に余るな」
「サラディン殿には益無き戦いになりましょうが、何卒我らネフドの士族アスケリを済度して頂きたく恥を忍んで頼って来た次第」
「我輩は戦争で益など求めておらぬ。アジャリアの侵略など神は望まぬという事をこのサラディンが思い知らせてくれよう」
 手にした鎌型斧ケペシュが地を衝き、寂とした物腰のままサラディンは静かに息巻いた。
 義人サラディンは、人道に沿わぬを善しとせぬ男である。また自信家でもある。彼自身が武で鳴らす最強の武人である上に、戦いでは一度も敗れた事がない程、軍略に長けている事も彼の自信を裏付けている。篤信故に自分は神から愛されているという自負もあった。
 砂漠を延々と旅し砂埃にまみれ、見る影も無くやつれたタラールを始めとする、これについてきたネフドの士族達の訴えを聞き入れ、これを救済する事を約束し、ベイとアジャールの剣は初めてぶつかった。同年、七歳になったバラザフは正式にアジャリアの近侍ハーディルを受命した。

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