翌日、謁見の間で二人は諸将の前で正式な会見をしたが、口上は決まった物にとどめ、意識の通じ合いをお互いに目で確認したのみである。
明日にはベイルートを発つという夜、バラザフはまたアミルの所に呼ばれた。
「今回のメフメト軍の討伐はバラザフの活躍による所が大きい。改めて礼を言いたい。そしてもう一働きしてもらいたくて今夜呼んだのだ。戦争ではないのだが、あのファリド・レイスの動きを常に見張っていてほしいのだ。アルカルジ、リヤド、マスカットに至るまで俺の目になって見張ってほしい」
アミルの目から鋭気を注ぎ込まれたような感じを受けて、バラザフは、この言葉にただ黙って頭を下げた。
今夜もアミルはバラザフを茶でもてなした。
先日はアミルに自分の
「先日、
「
「それらを悉く自分の物とされたのですか」
「いや、自分の物になったものも、自分から離れて星と化したものもある。実はな、
昔を懐かしみアミルは柔和で少し寂しげな笑みを浮かべている。バラザフの方はポアチャと聞いてにやにやしている。いつの間にか親しみのある言葉になっていた。
「私は未来を視る眼が欲しいと幼少よりずっと思っておりました」
「だが、人の視る未来には限りがあるな」
「そうなのです。
「そうだな。お前に
その先の答えをバラザフは渇望して待ち続けている。アジャリアが死んでから他の人間に訓告求めるのは、これが初めてである。
「未来を視る眼の更にその先を視るさ」
「そのために結局は未来を視る眼が要るのでは」
「いや、そうではない。未来を視る眼といっても結局はそれは何かのために手段だよ。家族を護るとか、戦争に勝つとか、雨雲の明日の行方を知るとか、女性の心情を掴むとかな。つまりそれらを手にする事が出来れば、未来を視る眼の更にその先を行った事になる。勿論、未来を知れた方が事は楽に運ぶだろう。だが、未来を知っても何も出来ない事だってあると俺は思うんだ」
バラザフは、このアミルの答えに憧れだったアジャリアの道理に似たものを感じた。そしてアジャリアと似たアミルにバラザフが距離を置きたがる道理など無かった。
アミルはもう少しだけ言葉を重ねた。
「バラザフ。男は大人になっても結局皆
魅力が無く、つまらない。自身がポアチャと揶揄する、その典型的な人間の顔をバラザフは想像した。
「
アミルのこの言葉は、今口にした熱い茶と共にバラザフの中へ深く染み入っていった。この後もバラザフとアミルのやり取りは頻繁に行われるようになる。
リヤドに帰ったバラザフを弟のレブザフが迎えた。
「サーミザフもそろそろ所帯を持つ年頃だ。嫁をもらってはどうかと、レイス様に勧められました」
「ふむ、それもそうだな」
「レイス様が、イクティフーズ・カイフ殿を自分の養女にして、サーミザフと縁組をしたいと言っているのだが、話を進めてもよろしいですか」
「イクティフーズ・カイフ殿というと、ファリド・レイスに与えられた勿体無い神の恩寵と称えられた、あのイクティフーズ・カイフの事だな」
「はい、炎の二本角飾りの
「いやいや、知っているさ。俺は昔一度だけ直接戦った事があるんだ。強かった。武勇勝れる武人だった」
「おお、そうでした。それで、そのカイフ家の女性がサーミザフの妻として名が挙がっているのです」
「あのカイフ殿は俺は嫌いではない。彼の娘であれば大丈夫だと思う。それにレイス殿の養女として縁組するのだから、サーミザフにとってはレイス軍の中で栄達を得たに等しい。この縁組、承知したと伝えてくれ」
ファリドの底巧みとしては、ハウタットバニタミムの
「バラザフの長男のサーミザフが所帯を持ったか。ではムザフにも何か話を持ってきてやらないとな」
アミルは、サーミザフの縁組の話を聞いて、ムザフにも妻帯を勧め、候補を挙げた。
「当家の重臣でアリーシの
バフラーン・ガリワウはアミルの片腕ハーシム・エルエトレビーの刎頸の友である。
「バフラーンに大軍を預ければ、百万といえども一人も無駄死にさせぬだろう」
アミルにもその戦略的才能を愛され、このように賞賛されたが、惜しくも体中の皮膚が崩れていく難病にかかり、全身を包帯で覆っている。
バラザフ、ムザフ父子共々、この結婚に素直に首を縦にふった。このようにバラザフの子、サーミザフ、ムザフが結婚するのを待っていたかのように、二人の任官をエルサレムの聖皇に推した。サーミザフは
この時期、アミルは政権に威服したオスマンオウル家の領土であるイスタンブルを拠点に、地中海を渡ってナポリまで遠征しようと考えていた。
ナポリ遠征のための将兵が続々とイスタンブルに集結している。バラフは、サーミザフ、ムザフを伴いイスタンブルに入ったアミルを訪れた。シルバ軍総勢七万で来ている。
アミルもすっかり老境の入っていたが、頭も言語もまだまだ明瞭である。
「シルバ軍は今回の遠征に参加しなくてもよいぞ。レイス軍もカラビヤートに内乱が起きぬよう残るように命じてある。シルバ軍も同様だ。つまりは、わかるな」
バラザフは、シルバ軍が出兵を免れたのは、レイス軍を見張るためなのだと、アミルの真意を察した。
世間ではアミル・アブダーラはすでに老廃していると言っているが、実際のアミルは、要点は外さないくらいには頭はしっかり働いている。
「承知しました。
「頼んだぞ。シルバ殿でなければこの微妙な仕事は出来ん」
結局、このナポリ遠征は失敗に終わり、得るものも無く将兵は引き上げてきた。対外的には益無き事で終わっただけで済んだが、内部には文官派閥と武官派閥に大きな亀裂が生じた。滅びる前のアジャール家と似たような構造になってしまったといえる。
さらに悪いことには、アミルが体調を崩して伏せるようになると、
「レイス殿がいい」
「サリド・マンスール殿のほうがいい。実力もあるしアミル様の親友だ」
「何を言う。アミル様の御子息のカマール・アブダーラ様を脇に追いやる道理がどこにある」
と、経世論は様々に分かれ、誰が敵で誰が味方かという探り合いが始まった。こうした世の流れに注視しつつも、バラザフには内にもっと憂いがあった。
ハウタットバニタミムの太守などを務めてきた一族の長老的存在のイフラマ・アルマライが、カーラム暦1019年に世を去ったのである。アルマライ家は、息子であるアスファトイフラムが当主となっていたが、バラザフにとって叔父であり、重臣でもあるイフラマを失った事で、心中へ走った衝撃は決して小さいものではなかったのである。
カーラム暦1020年、病の床に居たアミル・アブダーラがついに病死する。
アミルは死ぬ数日前から、
「ザッハークの像を……」
と息をするのも苦しそうに繰り返して、謎めいた言葉を遺言のように残したが、周囲に侍る者達も一時は気にしたものの、日が経つにつれ、
「あれは死ぬ前の錯乱だったのだろう」
と謎は忘却され、各人が跡目をめぐる派閥のいずれかの流れに巻き込まれていくことになる。
バラザフによってアミルとの思い出は彼が淹れてくれた茶の味である。
「思えば、あれほど茶が美味いことはなかった」
権力者に競り勝たんとする闘争心が湧いてくるのがバラザフである。アミルが生きているときは、いつかこいつを越えてやろうという好敵手を見るような目が無くはなかったが、彼が世を去ってしまうと、むしろ無性に懐かしく、会いたいという気持ちが募った。
アミル亡き後、治から乱へ世界の気が蠢き出しつつある。
「今まで軍制を整えて、領土を無難に切り盛りしてきたのがここでやっと活かされる」
アミルの病死は、バラザフにも辛いものとなってしまったが、それはそれと、風向きを見定めてこれを喜んだ。
「また世は戦乱に逆戻りだ。俺が活躍出来る舞台がきっと与えられるはずなんだ」
バラザフは、今こそ自分も覇権争いに名を上げて、未来を視る目を活かす時だと、信じきったようだった。
時は二年経過して、カーラム暦1022年――。この年がバラザフ・シルバ、ファリド・レイス双方によって、生き方の最も密度の濃い時間となっていく。
アミルが世を去って数ヶ月くらい経つと、ファリドはアミルが生前に敷いておいた、
ファリド・レイス、サリド・マンスール、ジャービル・ジャファリ、ザラン・ベイ、カーセム・ホシュルー。彼等が
レイス家が、アブダーラ家に同和せぬ姿勢を示すという事は、シルバ家もその社会構造に沿って二分される事を意味する。サーミザフは、ハウタットバニタミム領に自分の家臣を太守として置いて、自分はベツレヘムにレイス家が設置した政務館に勤仕するようになった。一方、ムザフはアミルの死後、自動的に
ファリドが取った体制方針を蔑ろにする態度というのは自身の派閥の形成と強化である。アブダーラ政権下において諸侯の勝手な同盟は禁止されている。にもかかわらず、ファリドは自分の机の引き出しから物を出すように、傍に居る人間に他家と婚姻同名を結ばせて、リヤド、アルカルジなどの人事の配置換えも勝手に行った。
これらの自分を法とするファリドの手口に、ハーシム・エルエトレビーが批難の舌鋒を向けた。だが、バラザフはファリドの行動が別の狙いをもって行われていると見抜いた。
「傍若無人に振舞っても誰が言う事を聞いてくれるのか、誰が牙をむいてくるのか。そうやって敵味方を今のうちに識別しているんだ。あの苔爺の老獪さ。間違いなくアブダーラ家の後釜を狙っているぞ」
この頃、バラザフはファリドをポアチャと呼ばなくなっていた。若い頃の間抜けなファリドを馬鹿にしたあだ名ではなく、今の老獪さを皮肉る呼び方に変わりつつあり、鼻につくと思いながらも、彼の実力を認め始めていた。
次男のムザフは、
「
「ハーシムの奴も、さっさとファリドを倒す心を固めればいいのだ。暗殺でも夜襲でも何でもいい。ファリドの生死で、アブダーラ家の生死も決まる。もちろん生死逆にだ」
バラザフが今、ハーシムに求めるのは、ファリドと戦争を起こすか、暗殺するかして、ファリドをこの世から排除する事である。それによって、自分が覇権を狙う舞台に立てると期待した。だが、バラザフがこのように自分の野心を彼自身、いまだにレイス軍の下部組織の構成員としてのしがらみから脱しきれていない。
そして病に臥せっていたサリド・マンスールがついに世を去った。カーラム暦1021年、寒い季節の終わりが見え始めた頃である。ファリドの横暴を抑制出来る最実力者を失ったハーシム達の大いに落胆した。
そして、その夜――。
アミルの懐刀だったハーシムを危機が襲った。政敵であるファリドから襲われたのではない。アミルの生前より政権内では、文官派閥と武官派閥の折り合いの悪さが顕著になっていたが、文官派閥の筆頭であるハーシムを、武官派閥の連中が殺害を企てた。この企てに参加した武官はナミル・カリル、アドナン・ムサバハー、ガジ・タリヤニなど。追い詰められたハーシムは、仇敵であるレイス邸に助けを求めた。
「とりあえず助けて、後で使いどころを考えるか」
門前に居るハーシムを中へ迎え入れるようファリドは家人に命じた。程なくして武官派閥の連中がレイス邸に押しかけて、ハーシムの身柄を要求するが、ファリドは柔和にもこれを拒絶し、ハーシムに対しては助命の見返りとしてベイルートからの退去を要求した。
この経緯をアサシンがリヤドまで報告した。バラザフには、ファリドのハーシムの使い方がよく読めていた。
「ムザフ、ファリド・レイスが何故ハーシムを救ったかわかるか」
「文官派閥と武官派閥の亀裂をもっと深めるためですね」
「その通りだ。今ハーシムが死ねば、アブダーラ家は一つにまとまりファリドに牙を剥くようになるかもしれない。そうならないようにアブダーラ家の遺臣同士で争わせ弱体化を謀っているのだ」
さらにバラザフは、ムザフにその後の経過を語って聞かせた。ファリドはハーシムを政治の中心から遠ざけた後すぐに、メッカ南部ベツレヘムに本拠を置いて、
ファリドは、アブラーラ家弱体の手を緩めなかった。
「サリド・マンスールの息子サヌービルは、スタニスラフ・ザデー達と結託して、このファリド・レイスを除こうと企てた疑いあり」
ファリドは、この偽情報を流言として流した。
サヌービルにはこのような事実は無く、この噂は本人とっては降って湧いた災難だった。
サヌービルは、早速ファリドに対して噂は事実無根である事を釈明して、その証として自分の母スノウバラを、ファリドの本拠地であるオマーン地方のマスカットに人質に出した。
ベツレヘムにおいて大手を振って、あれこれと手を打つファリドは、それだけでは足りず、今度はベイルートの
「あの苔爺め。ここまで悪臭が届いてくるようだ。呆れて物も言えぬ」
ここまでいくと戦略、策謀という言葉の範疇に収まりきらない、ファリドの個人的なわがままの域に達しているのだとバラザフは思った。実際、今のファリドは大手を振る、というより振り回している。執政の座を得るためには何でもするという感じだ。
「やはり、
そして、すでにこの時ファリドの魔手は、さらに南へも伸び始めていた。
カーラム暦1022年、ファリドはザラン・ベイが召喚の命に従わない事をを理由に、討伐を発会して
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