2023年3月5日日曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第10章_3

  翌日、謁見の間で二人は諸将の前で正式な会見をしたが、口上は決まった物にとどめ、意識の通じ合いをお互いに目で確認したのみである。

 明日にはベイルートを発つという夜、バラザフはまたアミルの所に呼ばれた。

「今回のメフメト軍の討伐はバラザフの活躍による所が大きい。改めて礼を言いたい。そしてもう一働きしてもらいたくて今夜呼んだのだ。戦争ではないのだが、あのファリド・レイスの動きを常に見張っていてほしいのだ。アルカルジ、リヤド、マスカットに至るまで俺の目になって見張ってほしい」

 アミルの目から鋭気を注ぎ込まれたような感じを受けて、バラザフは、この言葉にただ黙って頭を下げた。

 今夜もアミルはバラザフを茶でもてなした。

 先日はアミルに自分のアマル を一方的に掘り起こされてしまったので、バラザフは今度は自分の方から問うてみたかった。

「先日、大宰相サドラザム 殿は我がアマル を指し示されましたが、大宰相サドラザム 殿もアマル をお持ちであれば是非お聞かせ願いたく存じます」

アマル か。俺も勿論アマル を持った。それもいくつもな」

「それらを悉く自分の物とされたのですか」

「いや、自分の物になったものも、自分から離れて星と化したものもある。実はな、大宰相サドラザム などという高位は一度も望んだ事は無かったのだ。知っての通り俺は平民レアラー の出で、そればかりか、日々の食い物に事欠く有様だったよ。童子トフラ の頃、空腹で眠れず夜空を見上げた事があった。丸い月がポアチャに見えてきてな……」

 昔を懐かしみアミルは柔和で少し寂しげな笑みを浮かべている。バラザフの方はポアチャと聞いてにやにやしている。いつの間にか親しみのある言葉になっていた。

「私は未来を視る眼が欲しいと幼少よりずっと思っておりました」

「だが、人の視る未来には限りがあるな」

「そうなのです。大宰相サドラザム 殿でしたら、未来を視る眼をどのようにして自分のものとされるのですか」

「そうだな。お前に札占術タリーカ で占ってもらおうか。だが、それでは俺が手に入れた事にはならないな」

 その先の答えをバラザフは渇望して待ち続けている。アジャリアが死んでから他の人間に訓告求めるのは、これが初めてである。

「未来を視る眼の更にその先を視るさ」

「そのために結局は未来を視る眼が要るのでは」

「いや、そうではない。未来を視る眼といっても結局はそれは何かのために手段だよ。家族を護るとか、戦争に勝つとか、雨雲の明日の行方を知るとか、女性の心情を掴むとかな。つまりそれらを手にする事が出来れば、未来を視る眼の更にその先を行った事になる。勿論、未来を知れた方が事は楽に運ぶだろう。だが、未来を知っても何も出来ない事だってあると俺は思うんだ」

 バラザフは、このアミルの答えに憧れだったアジャリアの道理に似たものを感じた。そしてアジャリアと似たアミルにバラザフが距離を置きたがる道理など無かった。

 アミルはもう少しだけ言葉を重ねた。

「バラザフ。男は大人になっても結局皆童子トフラ だよ。アマル を持つというのも言い換えれば童子トフラ で在り続ける事さ。だから童子トフラ で無くなってしまった人間は魅力が無く、つまらなくなってしまうのかもしれないな」

 魅力が無く、つまらない。自身がポアチャと揶揄する、その典型的な人間の顔をバラザフは想像した。

童子トフラ だからアマル を持てる。未来を視る眼でも、食べ物でも、何でもそうだ。アマル を心で指し続ける人間が、人を惹き付ける人間だと俺は思うんだ」

 アミルのこの言葉は、今口にした熱い茶と共にバラザフの中へ深く染み入っていった。この後もバラザフとアミルのやり取りは頻繁に行われるようになる。

 リヤドに帰ったバラザフを弟のレブザフが迎えた。

「サーミザフもそろそろ所帯を持つ年頃だ。嫁をもらってはどうかと、レイス様に勧められました」

「ふむ、それもそうだな」

「レイス様が、イクティフーズ・カイフ殿を自分の養女にして、サーミザフと縁組をしたいと言っているのだが、話を進めてもよろしいですか」

「イクティフーズ・カイフ殿というと、ファリド・レイスに与えられた勿体無い神の恩寵と称えられた、あのイクティフーズ・カイフの事だな」

「はい、炎の二本角飾りのカウザ の、レイス家の執事サーキン の一人の」

「いやいや、知っているさ。俺は昔一度だけ直接戦った事があるんだ。強かった。武勇勝れる武人だった」

「おお、そうでした。それで、そのカイフ家の女性がサーミザフの妻として名が挙がっているのです」

「あのカイフ殿は俺は嫌いではない。彼の娘であれば大丈夫だと思う。それにレイス殿の養女として縁組するのだから、サーミザフにとってはレイス軍の中で栄達を得たに等しい。この縁組、承知したと伝えてくれ」

 ファリドの底巧みとしては、ハウタットバニタミムの城邑アルムドゥヌ をサーミザフの預かりにしておいて、婚姻関係を以ってレイス軍に取り込んでしまおうという事なのだが、バラザフはこれをよく見抜いた上で、それもまたよしと、この婚姻を認めた。

「バラザフの長男のサーミザフが所帯を持ったか。ではムザフにも何か話を持ってきてやらないとな」

 アミルは、サーミザフの縁組の話を聞いて、ムザフにも妻帯を勧め、候補を挙げた。

「当家の重臣でアリーシの郡長官アライベイ バフラーン・ガリワウは知っているな。そのバフラーンに年の離れた妹がいるのだが、名をハーレフという。その娘はどうだ」

 バフラーン・ガリワウはアミルの片腕ハーシム・エルエトレビーの刎頸の友である。

「バフラーンに大軍を預ければ、百万といえども一人も無駄死にさせぬだろう」

 アミルにもその戦略的才能を愛され、このように賞賛されたが、惜しくも体中の皮膚が崩れていく難病にかかり、全身を包帯で覆っている。

 バラザフ、ムザフ父子共々、この結婚に素直に首を縦にふった。このようにバラザフの子、サーミザフ、ムザフが結婚するのを待っていたかのように、二人の任官をエルサレムの聖皇に推した。サーミザフは郡長官アライベイ に、監督官ダルガチ に任官された。いずれも実際の権力基盤に比して過分の出世である。

 この時期、アミルは政権に威服したオスマンオウル家の領土であるイスタンブルを拠点に、地中海を渡ってナポリまで遠征しようと考えていた。

 ナポリ遠征のための将兵が続々とイスタンブルに集結している。バラフは、サーミザフ、ムザフを伴いイスタンブルに入ったアミルを訪れた。シルバ軍総勢七万で来ている。

 アミルもすっかり老境の入っていたが、頭も言語もまだまだ明瞭である。

「シルバ軍は今回の遠征に参加しなくてもよいぞ。レイス軍もカラビヤートに内乱が起きぬよう残るように命じてある。シルバ軍も同様だ。つまりは、わかるな」

 バラザフは、シルバ軍が出兵を免れたのは、レイス軍を見張るためなのだと、アミルの真意を察した。

 世間ではアミル・アブダーラはすでに老廃していると言っているが、実際のアミルは、要点は外さないくらいには頭はしっかり働いている。

「承知しました。大宰相サドラザム 殿の命によりシルバ軍は内乱防止の任に就きます」

「頼んだぞ。シルバ殿でなければこの微妙な仕事は出来ん」

 結局、このナポリ遠征は失敗に終わり、得るものも無く将兵は引き上げてきた。対外的には益無き事で終わっただけで済んだが、内部には文官派閥と武官派閥に大きな亀裂が生じた。滅びる前のアジャール家と似たような構造になってしまったといえる。

 さらに悪いことには、アミルが体調を崩して伏せるようになると、大宰相サドラザム に任官されているアブダーラ家の跡目は一体誰になるのか、という論争が水面下で始まった。

「レイス殿がいい」

「サリド・マンスール殿のほうがいい。実力もあるしアミル様の親友だ」

「何を言う。アミル様の御子息のカマール・アブダーラ様を脇に追いやる道理がどこにある」

 と、経世論は様々に分かれ、誰が敵で誰が味方かという探り合いが始まった。こうした世の流れに注視しつつも、バラザフには内にもっと憂いがあった。

 ハウタットバニタミムの太守などを務めてきた一族の長老的存在のイフラマ・アルマライが、カーラム暦1019年に世を去ったのである。アルマライ家は、息子であるアスファトイフラムが当主となっていたが、バラザフにとって叔父であり、重臣でもあるイフラマを失った事で、心中へ走った衝撃は決して小さいものではなかったのである。

 カーラム暦1020年、病の床に居たアミル・アブダーラがついに病死する。

 アミルは死ぬ数日前から、

「ザッハークの像を……」

 と息をするのも苦しそうに繰り返して、謎めいた言葉を遺言のように残したが、周囲に侍る者達も一時は気にしたものの、日が経つにつれ、

「あれは死ぬ前の錯乱だったのだろう」

 と謎は忘却され、各人が跡目をめぐる派閥のいずれかの流れに巻き込まれていくことになる。

 バラザフによってアミルとの思い出は彼が淹れてくれた茶の味である。

「思えば、あれほど茶が美味いことはなかった」

 権力者に競り勝たんとする闘争心が湧いてくるのがバラザフである。アミルが生きているときは、いつかこいつを越えてやろうという好敵手を見るような目が無くはなかったが、彼が世を去ってしまうと、むしろ無性に懐かしく、会いたいという気持ちが募った。

 アミル亡き後、治から乱へ世界の気が蠢き出しつつある。

「今まで軍制を整えて、領土を無難に切り盛りしてきたのがここでやっと活かされる」

 アミルの病死は、バラザフにも辛いものとなってしまったが、それはそれと、風向きを見定めてこれを喜んだ。

「また世は戦乱に逆戻りだ。俺が活躍出来る舞台がきっと与えられるはずなんだ」

 バラザフは、今こそ自分も覇権争いに名を上げて、未来を視る目を活かす時だと、信じきったようだった。

 時は二年経過して、カーラム暦1022年――。この年がバラザフ・シルバ、ファリド・レイス双方によって、生き方の最も密度の濃い時間となっていく。

 アミルが世を去って数ヶ月くらい経つと、ファリドはアミルが生前に敷いておいた、王の友シャーヤール という執政組織と、その下部組織としてのカマールの友人達アスディカ・カマール の体制方針を蔑ろにする態度を鮮明にするようになった。

 ファリド・レイス、サリド・マンスール、ジャービル・ジャファリ、ザラン・ベイ、カーセム・ホシュルー。彼等が王の友シャーヤール の総代を構成し、ファリドはこの機関の筆頭的立場にある。そして、カマールの友人達アスディカ・カマール はこの上部機関の決議事項を政策化して、大宰相サドラザム となったカマール・アブダーラを、文字通り介添えするように補佐する役目を担っていて、この長官にはハーシム・エルエトレビーが就いていた。

 王の友シャーヤール の総代の中ではサリド・マンスールがアミルの生前に最も信頼されており、文官、武官全ての評判がよかったが、病に伏せて政治に参加する機会が減り、他の三人も老獪となってきたファリドに太刀打ち適わず、いわば自動的な流れでファリドが王の友シャーヤール の筆頭格になっていったのであった。

 レイス家が、アブダーラ家に同和せぬ姿勢を示すという事は、シルバ家もその社会構造に沿って二分される事を意味する。サーミザフは、ハウタットバニタミム領に自分の家臣を太守として置いて、自分はベツレヘムにレイス家が設置した政務館に勤仕するようになった。一方、ムザフはアミルの死後、自動的に近侍ハーディル の任を解かれて、リヤドに戻っていた。

 ファリドが取った体制方針を蔑ろにする態度というのは自身の派閥の形成と強化である。アブダーラ政権下において諸侯の勝手な同盟は禁止されている。にもかかわらず、ファリドは自分の机の引き出しから物を出すように、傍に居る人間に他家と婚姻同名を結ばせて、リヤド、アルカルジなどの人事の配置換えも勝手に行った。

 これらの自分を法とするファリドの手口に、ハーシム・エルエトレビーが批難の舌鋒を向けた。だが、バラザフはファリドの行動が別の狙いをもって行われていると見抜いた。

「傍若無人に振舞っても誰が言う事を聞いてくれるのか、誰が牙をむいてくるのか。そうやって敵味方を今のうちに識別しているんだ。あの苔爺の老獪さ。間違いなくアブダーラ家の後釜を狙っているぞ」 

 この頃、バラザフはファリドをポアチャと呼ばなくなっていた。若い頃の間抜けなファリドを馬鹿にしたあだ名ではなく、今の老獪さを皮肉る呼び方に変わりつつあり、鼻につくと思いながらも、彼の実力を認め始めていた。

 次男のムザフは、大宰相サドラザム アミルの近侍ハーディル として働いていたので、自身の心情はアブダーラ家寄りになっている。ムザフにしてもファリドの謀略は義憤をもって対すべき行為であった。

大宰相サドラザム の位に在ったのは他でもないアミル様だ。ファリド・レイスはその臣下の籍に過ぎないはずではないか」

 近侍ハーディル として仕えていたといっても、その実、アミルのムザフへの扱いは養子に対するそれに近く、数々の朝恩を受けていたので、アブダーラ家へ義理立てる心情が生じたのも当然のことである。

「ハーシムの奴も、さっさとファリドを倒す心を固めればいいのだ。暗殺でも夜襲でも何でもいい。ファリドの生死で、アブダーラ家の生死も決まる。もちろん生死逆にだ」

 バラザフが今、ハーシムに求めるのは、ファリドと戦争を起こすか、暗殺するかして、ファリドをこの世から排除する事である。それによって、自分が覇権を狙う舞台に立てると期待した。だが、バラザフがこのように自分の野心を彼自身、いまだにレイス軍の下部組織の構成員としてのしがらみから脱しきれていない。

 そして病に臥せっていたサリド・マンスールがついに世を去った。カーラム暦1021年、寒い季節の終わりが見え始めた頃である。ファリドの横暴を抑制出来る最実力者を失ったハーシム達の大いに落胆した。

 そして、その夜――。

 アミルの懐刀だったハーシムを危機が襲った。政敵であるファリドから襲われたのではない。アミルの生前より政権内では、文官派閥と武官派閥の折り合いの悪さが顕著になっていたが、文官派閥の筆頭であるハーシムを、武官派閥の連中が殺害を企てた。この企てに参加した武官はナミル・カリル、アドナン・ムサバハー、ガジ・タリヤニなど。追い詰められたハーシムは、仇敵であるレイス邸に助けを求めた。

「とりあえず助けて、後で使いどころを考えるか」

 門前に居るハーシムを中へ迎え入れるようファリドは家人に命じた。程なくして武官派閥の連中がレイス邸に押しかけて、ハーシムの身柄を要求するが、ファリドは柔和にもこれを拒絶し、ハーシムに対しては助命の見返りとしてベイルートからの退去を要求した。

 この経緯をアサシンがリヤドまで報告した。バラザフには、ファリドのハーシムの使い方がよく読めていた。

「ムザフ、ファリド・レイスが何故ハーシムを救ったかわかるか」

「文官派閥と武官派閥の亀裂をもっと深めるためですね」

「その通りだ。今ハーシムが死ねば、アブダーラ家は一つにまとまりファリドに牙を剥くようになるかもしれない。そうならないようにアブダーラ家の遺臣同士で争わせ弱体化を謀っているのだ」

 さらにバラザフは、ムザフにその後の経過を語って聞かせた。ファリドはハーシムを政治の中心から遠ざけた後すぐに、メッカ南部ベツレヘムに本拠を置いて、大宰相サドラザム カマール・アブダーラの補佐として自らを宰相ペルヴァーネ の位に置いた。もちろんカマールの補佐というのは建前である事は皆が周知する所であり、世間ではファリド・レイスを実際の執政者として扱うようになっていった。

 ファリドは、アブラーラ家弱体の手を緩めなかった。

「サリド・マンスールの息子サヌービルは、スタニスラフ・ザデー達と結託して、このファリド・レイスを除こうと企てた疑いあり」

 ファリドは、この偽情報を流言として流した。

 サヌービルにはこのような事実は無く、この噂は本人とっては降って湧いた災難だった。

 サヌービルは、早速ファリドに対して噂は事実無根である事を釈明して、その証として自分の母スノウバラを、ファリドの本拠地であるオマーン地方のマスカットに人質に出した。

 ベツレヘムにおいて大手を振って、あれこれと手を打つファリドは、それだけでは足りず、今度はベイルートのアミル城クァリートアミール の城郭の中に自分の拠点を造ってしまった。

「あの苔爺め。ここまで悪臭が届いてくるようだ。呆れて物も言えぬ」

 ここまでいくと戦略、策謀という言葉の範疇に収まりきらない、ファリドの個人的なわがままの域に達しているのだとバラザフは思った。実際、今のファリドは大手を振る、というより振り回している。執政の座を得るためには何でもするという感じだ。

「やはり、アマル を持っていない人間は、力を持ったときに出てくる色合いが汚すぎる。俺もアルハイラト・ジャンビアと呼ばれ、策略で鳴らしたきた口だが、あそこまで汚いやり方はできない」

 そして、すでにこの時ファリドの魔手は、さらに南へも伸び始めていた。

 カーラム暦1022年、ファリドはザラン・ベイが召喚の命に従わない事をを理由に、討伐を発会してアミル城クァリートアミール の自分の拠点に諸侯を集めた。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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(2023.04.05公開予定)

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2023年2月5日日曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第10章_2

  翌年、すぐにアミルはカラビヤートの諸侯にメフメト征討のために軍を出すように命じた。ファリドやバラザフにも出兵の命令が下った。

 アミルがバーレーン要塞を包囲するために指揮した兵の数は二百万。広域にわたって周辺の城邑アルムドゥヌ に兵を分散させねば軍容を維持する事すら困難な数である。

 バラザフは三万の兵を率いてバーレーン要塞攻略戦に参加し、サリド・マンスールの部隊と合流した。サリド・マンスールはアミル・アブダーラの腹心であり盟友でもある人物である。この部隊には、ザラン・ベイ、アアジム・ダルウィーシュが所属し、サリドが部隊長を務める。

 兵力的のは申し分の戦いだが、メフメトを相手にするのにバラザフが懸念している事が一つだけある。

「あのシーフジンにはどう対処すべきか」

 カウシーン・メフメトが世を去ると同時に、モハメド・シーフジンの話も衆口に乗らなくなっている。カウシーンのようにシーフジンを巧みに統率する者が居なくなったからであろうが、メフメト家が滅亡の淵に立たされているこの戦いで、シーフジンが傍観を決め込むとは考えにくい。

「今のシーフジンはバーレーンの防衛の任務を果たすのがやっとで、アルカルジにまで手出しするに至らなかったようです」

「なんだ、そうだったのか」

 シルバアサシンにシーフジンについて調べさせ、ひとまず安心を得たバラザフである。

 ファリド・レイスも今回の戦いに参戦し、包囲網に加わっている。ファリドは一計を思いつきサーミザフを一度自分の指揮下から外してバラザフの部隊に所属させた。

 マンスール隊はメフメト軍バーレーン要塞の近くの砦を包囲している。バラザフはマンスールにハサーの城邑アルムドゥヌ の攻略を進言し、自身と息子のサーミザフをその攻略担当に自薦した。

「ひとつくらい敵の城邑アルムドゥヌ を取っておかねば、大宰相サドラザム から怠慢の烙印を押されてしまいますゆえ」

 そう言ってハサーに向かうバラザフだが、武功を立てねばならぬというような焦りは全くない。

「サーミザフ。昔アジャリア様や我が父エルザフがここに篭城したメフメト軍の太守ラエド・アレウィを攻めた。名将アレウィ相手に三日で城邑アルムドゥヌ を落とした。だがな、俺はここを一日で取るぞ」

 名将ラエド・アレウィは今はもう居ない。

 バラザフは、シルバアサシン団のフート、ケルシュの二本柱を呼んだ。

「中の敵は二百万の兵力を恐れて縮みあがっている。その恐れを我等の力にせよ。城内で火を放ち、夜間に虚言を撒き散らして自滅を誘え。太守と話をつける時間がない。計略だけでやるぞ」

 バラザフの言葉が終わると同時にシルバアサシンは、四方八方に散開した。

 バラザフ等本隊は、城邑アルムドゥヌ を包囲して城内に攻め込める姿勢で機会を待っている。

火砲ザッラーカ 隊はいつでも火を噴けるようにしておけよ。城内に炎が見えたら、それに機を合わせて射撃するのだ。千人ずつに三分して、射撃の手を絶やすなよ」

 ここまで部下はバラザフの指示通りに動いている。それは城内での経過も順調だという事でもある。

 砂漠では雨は長続きするものではない。とはいえ、

「こういう時に限って雨に狙われるものだからな」

 雨量が少しずつ増えてくる時期である事から、バラザフは急な降雨で火砲ザッラーカ の放火が阻まれはしまいかと気にしていた。若い時から彼は戦場で雲の流れが自然と気にかかる。バラザフが戦いで雨に計画を阻まれた事はなかったが、雨を気にする癖はそのままで今に至っている。悪いことではない。

 そろそろ中でケルシュが率いるアサシン団が活躍し始める頃だ。城内は騒然となり、時を置かずしてあちこちで炎が夜空を紅く照らし始めた。

「頃合だ。火砲ザッラーカ 発射!」

 城壁を越えて火砲ザッラーカ の炎が夜空をより明るく見せた。それで十分であった。

 最後の放火が行われた時には、城内の混乱は最高潮に達していた。バラザフは手元に残っていたアサシンを稼動させて、城壁を昇らせた。城内のアサシンと歩兵が連携して内側から正面を開門する。

 次に赤い水牛、アッサールアハマルの出番である。前回のレイス軍との戦いで出番を得た赤い武具の部隊は、その後もシルバ軍で常設される事となったが、前回と異なるのは馬ではなく水牛に騎乗している点である。これにはレイス軍の方ではなく、自分の方が本元のアッサールアハマルなのだと、世間に認識させるバラザフの狙いがあった。

 そういった大義名分の自他の意識が、戦場で勝敗を分ける事が多々ある。短期で水牛を飼いならす苦労はあったが、将兵の士気の高揚には見合う苦労だとバラザフは考えている。

 突入したアッサールアハマルが雄雄しく雄叫びを上げる。バラザフ自身も突入部隊に参加した。こういう時に本陣で座って待っては居られない人である。

 城内の兵士は抗戦してくる者は皆無だった。バラザフは、この城邑アルムドゥヌ に自分の権限でサーミザフを太守として置き、自身は早々と引き上げ明朝にはマンスール隊に復命していた。

 サリドは一晩で城邑アルムドゥヌ を一つ陥落させて来て、平然と明朝の軍議の席に座っているバラザフを、幻影であるかのようにしげしげと見ていた。

「隊長殿、この城邑アルムドゥヌ も手早く片付けて大宰相サドラザム 殿へのよき土産にしたいものですな」

 サリドの不思議そうな顔に比してバラザフは飄々たるものである。

「噂以上の戦巧者だ。噂といえばシルバ殿は風変わりな配下を持っているとか」

 サリドが指すのはシルバアサシンとも、昨夜の水牛のアッサールアハマルとも取れるが、バラザフはそれには微笑で返したのみであった。

 今、バラザフを含むサリド・マンスールの部隊が包囲しているのは、バーレーン要塞の支城ともいうべき城邑アルムドゥヌ で、昨夜バラザフが落とした場所よりは若干規模が大きい。またここの守将はマフーズ・ハザニという武官で、メフメト軍の古豪として有名である。

「今、我等はバーレーン要塞を落とす事を目的として、この城邑アルムドゥヌ を包囲しております。さらにその前段階として周囲の砦を確実に攻め取ってはいかがか」

 バラザフの献策にサリドもザランも同意した。

「では、折角ここに錚錚たる顔ぶれが集まっているのだから、諸将が一件ずつ担当して周囲の砦を落とすのはどうかな」

 アアジム・ダルウィーシュが締めにこう案を出して軍議は決まった。

 こうして各将は四、五の砦、城邑アルムドゥヌ を落としていったが、急がずに二週間時間をかけ、バラザフもそれに歩調を合わせた。いよいよ、孤立したマフーズ・ハザニだったが、三日は抗戦を維持したものの、最終的には降伏するしか手段は無く、マンスール部隊の管轄の戦いはこれで終わった。

 周囲の戦力が全て剥ぎ取られて、難攻不落のバーレーン要塞も落ち、メフメト軍は降伏した。さらに海峡を渡った先のバンダルアバス方面もアブダーラ軍の威令の下に置いて、アミル・アブダーラが、ついにカラビヤート全土を手中に収めたのであった。

 メフメト軍が支配していたバーレーン要塞や、オマーン地方はファリド・レイスの支配下に置かれたが、その替わりファリドはナーシリーヤ、バスラ、クウェートなど、馴染み深い本拠地をアミルに取り上げられてしまった。

 本当にしぶしぶファリドは、新たな領土であるオマーン地方のマスカットを本拠として領地運営を開始した。

 ハウタットバニタミムに関してはアミルからシルバ家に返還するようにとの命令が出た。

 これにファリドは巧みに対応した。ハウタットバニタミムはシルバ家の返還する。だが、その相手はバラザフではなく長男のサーミザフにするというのである。サーミザフは現在はレイス軍の武官となっているため、ハウタットバニタミムがシルバ領になっても、実質的にはレイス軍の領土とも言えてしまう。

「ふざけるなよ」

 バラザフにはこれは受け入れがたかったが、結局自分の死後シルバ家はサーミザフが当主となるのだからと、承服した。

「相変わらず苔の生えたような奴だ」

 外交上は調和を保ちつつも、バラザフの心中ではファリドとの間の溝がますます深まっていった。

 同年、酷暑が去りゆき逆に寒さが目立つようになってきた頃、アミルから客としてベイルートに招くという使者がやってきたので、バラザフはそれに応じた。

 ――世間の噂通り本当に鼻の大きい奴だ。

 応接間でアミルに対面したバラザフは、まずそう感じた。謁見の間でアミルが来るのを待っていたら、近侍ハーディル にこちらに通されたのであった。

「バラザフ・シルバ殿、よく参られた。日頃から未来を視る眼が欲しいと願っているとか。それが自分のアマル なのだと」

「はあ……」

 自分からこの話題を出すことは確かにある。だが、相手の方から、しかも初対面の相手から切り出されて、いきなり調子を狂わされるバラザフである。

「初対面の相手にこんな事を言われて驚かせてしまったようだな。済まん済まん。東のアルヒンドから取り寄せたシャイ だ。これでも飲んで気を休めてくれ。皆、俺が淹れたシャイ は美味いと言ってくれるのだ」

 すでに良い具合に熱せられた茶器から茶を注いで、アミルはシャイ を差し出した。

「それでは頂きます」

 ゆっくりと熱いシャイ を口に含むバラザフ。

「いい味であろう」

「はい。心が休まっていきますな」

 こいつにはやけに味方が多いようだが、この茶のせいもあるのではないかとバラザフは思った。視線を落とした自分の顔が碗の中で波紋に揺れている。

「ところでバラザフ」

「はい」

 アミルはバラザフに少し膝を寄せてきた。

「お前の未来を視る眼とは、これであろう」

 そう言って敷物の下から引き出してきたのは、バラザフがいつも先行きを占っている札占術タリーカ の札である。

「これで俺の未来を見て欲しいというのではない。相談したいのはこれさ」

 アミルが山の一番上から捲った札をバラザフに見せた。札は皇帝インバラトゥール である。

 熱いシャイ を飲んだばかりだというのに、バラザフの額からは冷や汗がゆっくりと流れ落ちる。アミルがこの札に喩えてファリド・レイスの事を言っているのであろう。それはつまりアミルの耳目はバラザフの所にまで届いているという事になる。しかも随分昔からだ。

「どうしてそれを」

「配下に目端の利く爺がいてな。そいつがどういうわけか俺の事を気に入ってくれてな。あちこち飛び回ってくれている。まあそれはいいだろう」

 アミルは黙してバラザフのファリドの評を促すように目を覗き込んでいる。

「これは大宰相サドラザム 殿はすでにご存知の事かもしれませんが、昔、アジャリア公がご存命の頃にも同じ事を聞かれました」

「ふむ、それで」

「ここだけの話にしていただきたいのですが、その時私はファリド殿を若さに苔の生えたような男と、率直に自分の感想をアジャリア様に申し上げたのです」

「それは面白いな!」

 楽しめる物が大好きなアミルは、この喩えに哄笑した。

「ですが、今のファリド殿は若者というには、いささか貫禄が過ぎるようで、その評価はいかがなものかと」

「それでは今のファリドは一体何なのだ」

「古苔で充たされた洞窟かと」

「苔だらけになってしまったではないか」

「はい。ハウタットバニタミムを愚息のサーミザフの預かりにすると言い出したとき、昔のファリド・レイスではないと思いました。老獪といいますか世知に長けてきたといいますか、若い頃よりアジャリア様に叩きのめされて強くなったいったように思えます」

「なるほどな……」

 バラザフの話を聞き終えたアミルは、頭の中でゆっくりと記憶を探り、それが今の話と繋がったかのように、納得している風だ。

「さすがはアルハイラト・ジャンビア。あのアジャリア・アジャールの片腕といわれただけの事はある。お前のような切れ者を敵には回したくないものだな。それに――」

 アミルはゆっくり腰をあげ、

「今日は久々に楽しい話が出来た。俺の事もたくさん話して聞かせたいが、政務もあるし今日はこれまでだ。また必ず会おう」

 そう言いながらバラザフに笑みを与え室を後にした。

「飄々として捉えどころがないが、何故か憎めない奴だ」

 アミルの気のおけない雰囲気に、バラザフはいつの間にか、存念を全て話してしまったという感じだが、後にはすっきりとした気持ちが心中に残って、ほんの少し残っていたシャイ を飲み干した。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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2023年1月5日木曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第10章_1

  バラザフが名声を得たりといえども、相変わらずアミル・アブダーラが続いている。

 大宰相サドラザム になり、一気に中央の政治の権益を自分に集めようとしているアミルの所に庇護を求める諸侯が増え、中央の威令に服す士族アスケリ の数も日増しに増えている。

 だがそのアミルでも一筋縄でいかない者等がいる。ナーシリーヤのレイス家、ドーハ、バーレーン、オマーンに威を張るメフメト家がそれであった。

「一つでも手を焼いているのに、あいつ等は同盟しているからな。ナーシリーヤからオマーンまでは光の届かぬ黒き大地だよ。それと比べて、レイス、メフメトの大軍に一歩も退かず逆に撃退したバラザフ・シルバは、今後も気にかけてやりたいものだ」

 本人の居ない所でアミルはバラザフに賀詞を連ねた。バラザフの方でもアミルへの臣従を嫌がらず、ベイ家にも頼んでムザフをアミルの所に派遣武官として置いてもらえるようにした。

 アミル・アブダーラという中央政権の庇護を得るようになり、バラザフの日々の暮らしの中に剣戟の音が聞こえなくなって、しばらく経った。

 ところがその穏和な生活を再び乱す事が起こった。カーラム暦1008年、ついにファリド・レイスが中央政権に威服した。つまりファリド・レイスがアミル・アブダーラの下についたという事で、カラビヤート全体を趨勢を鑑みれば平和への筋道となるのだが、これがシルバ家を大いに揺さぶる事になる。

 ファリドはアミルと距離を縮めたのをいい事に、今まで自分に辛酸をなめさせてきたバラザフの評価を、ここぞとばかりに貶める態度に出た。亡きアジャリアに手痛い目に遭わされ続けた恨みもある。さらには、シルバ家を罵って、同盟相手であるメフメト家の評価を相対的に上げようという狙いもあった。

「このカラビヤートにバラザフ・シルバ程の食わせ物はおりません。バラザフは一度メフメト家に従ったかと思えば、裏切ってベイ家とも結託していた。さらに奴の悪事を紐解けば、ハイレディン・フサイン殿に臣従した際も、ハイレディン様がヘブロンで死んだ途端、私ファリド・レイスを裏切った。ハイルの城邑アルムドゥヌ を改修する際にも我がレイス家は大いにシルバ家を支援したのです。差し伸べた我が手を咬む如く、ハウタットバニタミムの所有の件で裏切った」

 本音でバラザフを恨んでいるので、ファリドの弁舌は熱を帯びつつ滑らかに回る。

「そして、またベイ家と結んだかと思えば、今度はアミル様の下に付くという。これを食わせ物と呼ばぬならこの世に食わせ物など一人もおりますまい。バラザフ・シルバは自分が生き残るために他人の肉でも食うのですぞ」

 これだけの弁を生み出す如くファリドの頭に血が巡っていれば、かつてアジャリアに叩きのめされる事も無かったはずである。

「アルハイラト・ジャンビア。確かにそう世間に賞賛されるだけに頭はあります。ですが、知恵が人の全てではない。バラザフは知恵の使い方がいかにもまずく、いつ庇護者を裏切るとも知れず油断なりません。今、その気苦労をアミル様が抱えておられるかと思うと、このファリド・レイス、アミル様が不憫でなりなせん」

 アミル・アブダーラは平民レアラー の、しかもかなりの貧しさから大宰相サドラザム にまで身を起こした男である。その出世の過程の早い段階で、他人の気色を窺うという特技を身に着けていた。よって、これらのファリドの訴えも、恨みつらみが目いっぱい盛られていると冷静に見ながらも、脳内の半分では、

 ――ファリドのバラザフ・シルバ評も全く聞き流す事は出来ぬ。

 とバラザフへの警戒心も同時に持っていた。

「レイス殿の言い分はよくわかった。貴殿はこのアミルに何を求める」

「アミル様に何かを要求するなど僭越ではあります。ですがハウタットバニタミムをメフメト家に返還するように、シルバ家に命じるのが政道に適う事かと。いわばシルバ家はハウタットバニタミムの所有権を自分で喧伝しているだけなのです。政道の道理が示されればメフメト家も自ずと威令に服す事でしょう」

 ファリドとの会見が終わったアミルは、まずザラン・ベイとの路線を固めた。

「バラザフ・シルバの動向に注意されたし。顔に二面あり」

 とバラザフへ気を許しすぎるなと、アミルは手紙でザランに釘をさしておいた。

 そしてもう一通差出人不明で、

「レイス軍とシルバ軍との戦争にて、バラザフ・シルバに肩入れせぬよう」

 と書かれた手紙がザランのもとに届いた。無論、アミルの手紙と一緒にである。

 ファリドの話と、他から伝聞するバラザフの知謀をアミルは評価したが、その高評はバラザフの能力への警戒心へと作り変えられていった。

 また大勢としてはシルバ軍は少しも恐ろしい相手ではない。レイス軍が自分の所についたこの状況では、バラザフ・シルバとは個人の能力さえ注意しておけばよく、ファリドの気色を損なわないように懐柔する方が今は大事といえた。

 バラザフを心の中で少し距離を置く一方で、息子のムザフのひととなりをアミルは愛した。ファリド・レイスとの折衝からシルバ家の扱いに影響が出るが、アミルはムザフを気遣ってそのような事情は一切告げなかった。

「ムザフは、賢くてその上、実直だな。ハーシム・エルエトレビーとは、着物の表地と裏地のようだ」

 ムザフの存在を自身の懐刀であるハーシム・エルエトレビーと対にするような形で評価した。

 ハーシムは知謀に切れ味はあるものの人当たりはよくない。一方ムザフは穏和で人を生かす知謀を持つ。アミルはこの二者の才知の在り方どちらも好んで傍に置いた。

 ――アミル様は父上によく似ている。

 ムザフはアミルに仕官して、そのように見えてきた。無論、面貌ではなく、人格は能力的な面である。

 二人とも困難に直面した際には、それを前向きにとらえ闇を光に換えていこうとする。結果、憂慮していて点が逆に長所、実績となって残る。また、対人的にも賞罰両刀を使い分け人との垣根を取り払い距離を縮める。

 二人には異なる点もある、とムザフは思う。

 アミルには、平民レアラー として育った経験からか、羞恥心はあまり無く、生き抜くために恥をかく事を嫌がらない。バラザフの方は、上からどんな重石を乗せられようとも持ち上げてやるぞ、という心魂の剛直さがあった。

 ここまでのレイス軍とシルバ軍の角の突合せを見ていて、アミルが取った処方は、シルバ軍をレイス軍の下につけるというものである。このまま放っておけばファリドが再びバラザフの所に攻め入るのは時間の問題だろうから、平定しかかっているカラビヤートがまた加熱する事というアブダーラ家にとって好ましくない状況になる。

 よって、この処方は全体の熱を冷ますと同時に、他家の軍制に介入してアブダーラ家の威令によってレイス軍、シルバ軍を組成するという形を取りたかったためでもある。

「アミルめ、シルバ家をレイス家の格下に置きやがった」

 バラザフは、勢力関係を計算してシルバ家の処遇を決めたアミルを憎んだ。他家の勢力争いに乗じて裾野を拡大していく点では自分もアミルと同じ見方をしているのだが、自分は圧迫される勢力なのだから、したたかでいて良いのだとバラザフは思っている。

「それだけではないぞ。現在のシルバ領のうちハウタットバニタミムの周辺地域をメフメト軍に献上せよと言う。その我等への補填をレイス軍に一任し、アルカルジ、リヤドのみ所領据え置きにして良いと言ってきている」

 まとめるとシルバ家はアミルの命令によってレイス家の下に付かされたばかりか、所領までもメフメト家に取られたという事になる。

 そしてファリドがアミルの命令に従ってシルバ家に与えたのがナーシリーヤの城邑アルムドゥヌ の傍のガラフという場所である。ナーシリーヤの近くにあるので拠点として価値は低くはない。

 だが、シルバ家がここを実効支配するのはほぼ不可能に近い話である。本拠地となるアルカルジ、リヤドからはあまりに遠く、他家の支配地をいくつも通りながら行き来せねばならない。またナーシリーヤの傍である事は常にレイス家に見張られている事にもなるので、ファリドが変な気をおこせばいつでも奪取されてしまうのだ。

 シルバ家がここから得られるのは実質、僅かな租税だけで、それも輸送のための人員の賄いに配ってしまえば、ほとんど残らない。

「アミルの命令で痛手は受けたが、メフメト家の主張も通らなかった。アルカルジを全部寄越せといっていた所をハウタットバニタミムを所領するだけに止められた。アルカルジ、リヤドを我等が押さえているから、カイロやメッカの往来で得られる利はシルバ軍だけのものだ」

 現実に光をあてて見なければやっていられない。重臣たちに話すバラザフの言葉には、素直に負けを認めたくない色が滲み出ている。

「これだけで終わりにはしないぞ、あのメフメトはな。また悪巧みを仕組んでくるに決まっている。防衛により一層留意せよ」

 取られた部分は今は諦める他ないが、ハウタットバニタミムの城邑アルムドゥヌ でも周辺にはまだシルバ軍が実効支配出来る砦も残っている。そうした拠点を今までハウタットを任せていたイフラマ・アルマライの預かりにして、諸将を従来の配置どおりにして、バラザフはメフメト軍への警戒を説いた。

 しばらくして、バラザフは自分の方から暗躍を始めた。弟のレブザフの縁故から長男のサーミザフをファリド・レイスの所へ送り込んだ。

「アミル様の指示によるとはいえ、レイス軍の従属となったからには、保証として誰かをレイス軍へ預けた方が関係が悪化せずに済むと思われます。待遇はこのレブザフが良きように計らっておきます」

 このように書かれた手紙がレブザフから送られてきたのがきっかけである。

 バラザフはアブダーラ家から呼び戻して、今回も次男のムザフに赴任させようと思っていたが、サーミザフが自らこの任を買って出たのである。

 サーミザフという若者は生真面目な性格であると同時に、弟想い、家族想いである。レブザフは自分が待遇を保証するとは言ってはいるが、これまでのシルバ家とレイス家のややこしい関係を考えると、今アミル・アブダーラの寵愛を受けているムザフが、それ以上に良く扱われる事は考えにくい。

 また、対等ではないにしても、今やカラビヤート最強となっている大宰相サドラザム のアブダーラ家との繋がりを自ら断ってしまうのは惜しい。またその道筋をつけてくれたベイ家の顔にも泥を塗る事にもなってしまう。生真面目な彼の性格がそれを良しとしなかった。

「俺はお前を他所に出すのは反対だぞ」

 サーミザフの意向を聞いて、バラザフはすぐに反対した。バラザフの中では、長男のサーミザフを次期シルバ家当主にしようという考えがあったからである。

「ムザフはアミル・アブダーラ様の近侍ハーディル として可愛がられているとか。実力者に近侍ハーディル として仕える者がその後の出世において道が開けているのは父上が一番ご存知のはず。ファリド・レイス様は派手さは無いものの地道な方であり、ハイレディンに臣従するかのようにじっと堪忍してつきあった性格は、今後付き合っていくのに信用に値するでしょう。シルバ家の今後の事を考えた場合も、私がレイス軍に、弟がアブダーラ軍に仕官しておく事は有益です」

 若造だと思っていたがいつの間にか言うようになったとバラザフは思った。それだけサーミザフの話は的を射ていて、聞くべき理があった。

 ――レブザフの奴もファリドについて同じような事を言っていたな。

 レイス家に赴く前の妙に溌剌としたレブザフの姿がバラザフの脳裏に映った。

「お前の言う事ももっともだ。お前がレイス家に行くのならば、そこでシルバ家の陣地を拡げてこい」

 この人らしいしたたかさである。

 ――レブザフのようにサーミザフの方が俺よりファリドと気が合うかもしれない。

 レブザフと似たサーミザフの言葉の先に、ファリドとの関係が少し見えた。

 ファリド・レイスは今では元サバーハ家の領土であるクウェートを本拠地としている。クウェートに赴くサーミザフには、バラザフも一緒に付いた。

 会見の席でファリドはバラザフに対してはにこりともしなかったが、サーミザフには笑顔を絶やさなかった。

 ――サーミザフが上手くファリドと付き合っていけそうで、俺も少しだけ心配事が減った。

 ファリドの自分へのとげとげしさは気にもしていない。

 会見はそのままサーミザフ歓迎の宴席となった。その席でバラザフは、ファリドにひとつだけ尋ねた。

「レイス殿にアマル というものがあればお聞かせ願いたい」

 名目上彼の下に置かれても、レイス様と呼ばないバラザフの剛腹さである。

 答えるファリドにもバラザフへの無愛想には、ぶれが無い。

アマル という言葉すら浮かんだ事が無い。そんな物を許してくれる程、俺の現実は甘くは無かった」

 ここまでは想定どおりだったが、バラザフはもう一歩踏み込んでみた。

「私は未来を視る眼が欲しいと思いつづけておりました。童子トフラ の頃よりずっとです。今でも欲しております」

「それはアマル であって貴公にとっては幸せな事だろう。そんな物は現実には在り得ないからだ。アマル として心の中に大事に大事にしまっておかれるがよい」

 バラザフは、そこまでで言葉を発するのをやめた。この人物には未来は見えないという蔑みもあったし、怒りが湧いてこなかったのは、ファリドがサーミザフを大事にしてくれるだろうと、少しだけ好感を持てたからだろう。サーミザフに対して心配事が無くなった。今はそれだけである。

 心配事という物は一つ減れば、またすぐに新しい心配事が生じるものである。

 カーラム暦1011年秋、メフメト軍のハウタットバニタミムの太守が、近くのシルバ領の砦を陥落させ、シルバ側の守将もこの戦いで戦死した。

「メフメトのやつめ許せん。俺の政治に服さぬ乱暴に出るならば、メフメト軍を滅亡まで追い込んでやらねばならない」

 バラザフ以上にアミルは頭にきていた。折角、メフメトの顔も立てて大宰相サドラザム として裁判の労を執ってやったのに、それに不承知であると言う様な今回の挙兵である。裁定に不承知であるならば、その時に申し立てねばならない。それを後になって騙すような形でシルバ領に押し入って砦を落とすというのは、世の摂理を乱す許されざる事であった。

 一旦、事はここで霧散したものの、アミルの中ではメフメト家を威令に服さぬ不忠者という扱いになり、メフメト征討に大義を被せた。


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