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2023年1月5日木曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第10章_1

  バラザフが名声を得たりといえども、相変わらずアミル・アブダーラが続いている。

 大宰相サドラザム になり、一気に中央の政治の権益を自分に集めようとしているアミルの所に庇護を求める諸侯が増え、中央の威令に服す士族アスケリ の数も日増しに増えている。

 だがそのアミルでも一筋縄でいかない者等がいる。ナーシリーヤのレイス家、ドーハ、バーレーン、オマーンに威を張るメフメト家がそれであった。

「一つでも手を焼いているのに、あいつ等は同盟しているからな。ナーシリーヤからオマーンまでは光の届かぬ黒き大地だよ。それと比べて、レイス、メフメトの大軍に一歩も退かず逆に撃退したバラザフ・シルバは、今後も気にかけてやりたいものだ」

 本人の居ない所でアミルはバラザフに賀詞を連ねた。バラザフの方でもアミルへの臣従を嫌がらず、ベイ家にも頼んでムザフをアミルの所に派遣武官として置いてもらえるようにした。

 アミル・アブダーラという中央政権の庇護を得るようになり、バラザフの日々の暮らしの中に剣戟の音が聞こえなくなって、しばらく経った。

 ところがその穏和な生活を再び乱す事が起こった。カーラム暦1008年、ついにファリド・レイスが中央政権に威服した。つまりファリド・レイスがアミル・アブダーラの下についたという事で、カラビヤート全体を趨勢を鑑みれば平和への筋道となるのだが、これがシルバ家を大いに揺さぶる事になる。

 ファリドはアミルと距離を縮めたのをいい事に、今まで自分に辛酸をなめさせてきたバラザフの評価を、ここぞとばかりに貶める態度に出た。亡きアジャリアに手痛い目に遭わされ続けた恨みもある。さらには、シルバ家を罵って、同盟相手であるメフメト家の評価を相対的に上げようという狙いもあった。

「このカラビヤートにバラザフ・シルバ程の食わせ物はおりません。バラザフは一度メフメト家に従ったかと思えば、裏切ってベイ家とも結託していた。さらに奴の悪事を紐解けば、ハイレディン・フサイン殿に臣従した際も、ハイレディン様がヘブロンで死んだ途端、私ファリド・レイスを裏切った。ハイルの城邑アルムドゥヌ を改修する際にも我がレイス家は大いにシルバ家を支援したのです。差し伸べた我が手を咬む如く、ハウタットバニタミムの所有の件で裏切った」

 本音でバラザフを恨んでいるので、ファリドの弁舌は熱を帯びつつ滑らかに回る。

「そして、またベイ家と結んだかと思えば、今度はアミル様の下に付くという。これを食わせ物と呼ばぬならこの世に食わせ物など一人もおりますまい。バラザフ・シルバは自分が生き残るために他人の肉でも食うのですぞ」

 これだけの弁を生み出す如くファリドの頭に血が巡っていれば、かつてアジャリアに叩きのめされる事も無かったはずである。

「アルハイラト・ジャンビア。確かにそう世間に賞賛されるだけに頭はあります。ですが、知恵が人の全てではない。バラザフは知恵の使い方がいかにもまずく、いつ庇護者を裏切るとも知れず油断なりません。今、その気苦労をアミル様が抱えておられるかと思うと、このファリド・レイス、アミル様が不憫でなりなせん」

 アミル・アブダーラは平民レアラー の、しかもかなりの貧しさから大宰相サドラザム にまで身を起こした男である。その出世の過程の早い段階で、他人の気色を窺うという特技を身に着けていた。よって、これらのファリドの訴えも、恨みつらみが目いっぱい盛られていると冷静に見ながらも、脳内の半分では、

 ――ファリドのバラザフ・シルバ評も全く聞き流す事は出来ぬ。

 とバラザフへの警戒心も同時に持っていた。

「レイス殿の言い分はよくわかった。貴殿はこのアミルに何を求める」

「アミル様に何かを要求するなど僭越ではあります。ですがハウタットバニタミムをメフメト家に返還するように、シルバ家に命じるのが政道に適う事かと。いわばシルバ家はハウタットバニタミムの所有権を自分で喧伝しているだけなのです。政道の道理が示されればメフメト家も自ずと威令に服す事でしょう」

 ファリドとの会見が終わったアミルは、まずザラン・ベイとの路線を固めた。

「バラザフ・シルバの動向に注意されたし。顔に二面あり」

 とバラザフへ気を許しすぎるなと、アミルは手紙でザランに釘をさしておいた。

 そしてもう一通差出人不明で、

「レイス軍とシルバ軍との戦争にて、バラザフ・シルバに肩入れせぬよう」

 と書かれた手紙がザランのもとに届いた。無論、アミルの手紙と一緒にである。

 ファリドの話と、他から伝聞するバラザフの知謀をアミルは評価したが、その高評はバラザフの能力への警戒心へと作り変えられていった。

 また大勢としてはシルバ軍は少しも恐ろしい相手ではない。レイス軍が自分の所についたこの状況では、バラザフ・シルバとは個人の能力さえ注意しておけばよく、ファリドの気色を損なわないように懐柔する方が今は大事といえた。

 バラザフを心の中で少し距離を置く一方で、息子のムザフのひととなりをアミルは愛した。ファリド・レイスとの折衝からシルバ家の扱いに影響が出るが、アミルはムザフを気遣ってそのような事情は一切告げなかった。

「ムザフは、賢くてその上、実直だな。ハーシム・エルエトレビーとは、着物の表地と裏地のようだ」

 ムザフの存在を自身の懐刀であるハーシム・エルエトレビーと対にするような形で評価した。

 ハーシムは知謀に切れ味はあるものの人当たりはよくない。一方ムザフは穏和で人を生かす知謀を持つ。アミルはこの二者の才知の在り方どちらも好んで傍に置いた。

 ――アミル様は父上によく似ている。

 ムザフはアミルに仕官して、そのように見えてきた。無論、面貌ではなく、人格は能力的な面である。

 二人とも困難に直面した際には、それを前向きにとらえ闇を光に換えていこうとする。結果、憂慮していて点が逆に長所、実績となって残る。また、対人的にも賞罰両刀を使い分け人との垣根を取り払い距離を縮める。

 二人には異なる点もある、とムザフは思う。

 アミルには、平民レアラー として育った経験からか、羞恥心はあまり無く、生き抜くために恥をかく事を嫌がらない。バラザフの方は、上からどんな重石を乗せられようとも持ち上げてやるぞ、という心魂の剛直さがあった。

 ここまでのレイス軍とシルバ軍の角の突合せを見ていて、アミルが取った処方は、シルバ軍をレイス軍の下につけるというものである。このまま放っておけばファリドが再びバラザフの所に攻め入るのは時間の問題だろうから、平定しかかっているカラビヤートがまた加熱する事というアブダーラ家にとって好ましくない状況になる。

 よって、この処方は全体の熱を冷ますと同時に、他家の軍制に介入してアブダーラ家の威令によってレイス軍、シルバ軍を組成するという形を取りたかったためでもある。

「アミルめ、シルバ家をレイス家の格下に置きやがった」

 バラザフは、勢力関係を計算してシルバ家の処遇を決めたアミルを憎んだ。他家の勢力争いに乗じて裾野を拡大していく点では自分もアミルと同じ見方をしているのだが、自分は圧迫される勢力なのだから、したたかでいて良いのだとバラザフは思っている。

「それだけではないぞ。現在のシルバ領のうちハウタットバニタミムの周辺地域をメフメト軍に献上せよと言う。その我等への補填をレイス軍に一任し、アルカルジ、リヤドのみ所領据え置きにして良いと言ってきている」

 まとめるとシルバ家はアミルの命令によってレイス家の下に付かされたばかりか、所領までもメフメト家に取られたという事になる。

 そしてファリドがアミルの命令に従ってシルバ家に与えたのがナーシリーヤの城邑アルムドゥヌ の傍のガラフという場所である。ナーシリーヤの近くにあるので拠点として価値は低くはない。

 だが、シルバ家がここを実効支配するのはほぼ不可能に近い話である。本拠地となるアルカルジ、リヤドからはあまりに遠く、他家の支配地をいくつも通りながら行き来せねばならない。またナーシリーヤの傍である事は常にレイス家に見張られている事にもなるので、ファリドが変な気をおこせばいつでも奪取されてしまうのだ。

 シルバ家がここから得られるのは実質、僅かな租税だけで、それも輸送のための人員の賄いに配ってしまえば、ほとんど残らない。

「アミルの命令で痛手は受けたが、メフメト家の主張も通らなかった。アルカルジを全部寄越せといっていた所をハウタットバニタミムを所領するだけに止められた。アルカルジ、リヤドを我等が押さえているから、カイロやメッカの往来で得られる利はシルバ軍だけのものだ」

 現実に光をあてて見なければやっていられない。重臣たちに話すバラザフの言葉には、素直に負けを認めたくない色が滲み出ている。

「これだけで終わりにはしないぞ、あのメフメトはな。また悪巧みを仕組んでくるに決まっている。防衛により一層留意せよ」

 取られた部分は今は諦める他ないが、ハウタットバニタミムの城邑アルムドゥヌ でも周辺にはまだシルバ軍が実効支配出来る砦も残っている。そうした拠点を今までハウタットを任せていたイフラマ・アルマライの預かりにして、諸将を従来の配置どおりにして、バラザフはメフメト軍への警戒を説いた。

 しばらくして、バラザフは自分の方から暗躍を始めた。弟のレブザフの縁故から長男のサーミザフをファリド・レイスの所へ送り込んだ。

「アミル様の指示によるとはいえ、レイス軍の従属となったからには、保証として誰かをレイス軍へ預けた方が関係が悪化せずに済むと思われます。待遇はこのレブザフが良きように計らっておきます」

 このように書かれた手紙がレブザフから送られてきたのがきっかけである。

 バラザフはアブダーラ家から呼び戻して、今回も次男のムザフに赴任させようと思っていたが、サーミザフが自らこの任を買って出たのである。

 サーミザフという若者は生真面目な性格であると同時に、弟想い、家族想いである。レブザフは自分が待遇を保証するとは言ってはいるが、これまでのシルバ家とレイス家のややこしい関係を考えると、今アミル・アブダーラの寵愛を受けているムザフが、それ以上に良く扱われる事は考えにくい。

 また、対等ではないにしても、今やカラビヤート最強となっている大宰相サドラザム のアブダーラ家との繋がりを自ら断ってしまうのは惜しい。またその道筋をつけてくれたベイ家の顔にも泥を塗る事にもなってしまう。生真面目な彼の性格がそれを良しとしなかった。

「俺はお前を他所に出すのは反対だぞ」

 サーミザフの意向を聞いて、バラザフはすぐに反対した。バラザフの中では、長男のサーミザフを次期シルバ家当主にしようという考えがあったからである。

「ムザフはアミル・アブダーラ様の近侍ハーディル として可愛がられているとか。実力者に近侍ハーディル として仕える者がその後の出世において道が開けているのは父上が一番ご存知のはず。ファリド・レイス様は派手さは無いものの地道な方であり、ハイレディンに臣従するかのようにじっと堪忍してつきあった性格は、今後付き合っていくのに信用に値するでしょう。シルバ家の今後の事を考えた場合も、私がレイス軍に、弟がアブダーラ軍に仕官しておく事は有益です」

 若造だと思っていたがいつの間にか言うようになったとバラザフは思った。それだけサーミザフの話は的を射ていて、聞くべき理があった。

 ――レブザフの奴もファリドについて同じような事を言っていたな。

 レイス家に赴く前の妙に溌剌としたレブザフの姿がバラザフの脳裏に映った。

「お前の言う事ももっともだ。お前がレイス家に行くのならば、そこでシルバ家の陣地を拡げてこい」

 この人らしいしたたかさである。

 ――レブザフのようにサーミザフの方が俺よりファリドと気が合うかもしれない。

 レブザフと似たサーミザフの言葉の先に、ファリドとの関係が少し見えた。

 ファリド・レイスは今では元サバーハ家の領土であるクウェートを本拠地としている。クウェートに赴くサーミザフには、バラザフも一緒に付いた。

 会見の席でファリドはバラザフに対してはにこりともしなかったが、サーミザフには笑顔を絶やさなかった。

 ――サーミザフが上手くファリドと付き合っていけそうで、俺も少しだけ心配事が減った。

 ファリドの自分へのとげとげしさは気にもしていない。

 会見はそのままサーミザフ歓迎の宴席となった。その席でバラザフは、ファリドにひとつだけ尋ねた。

「レイス殿にアマル というものがあればお聞かせ願いたい」

 名目上彼の下に置かれても、レイス様と呼ばないバラザフの剛腹さである。

 答えるファリドにもバラザフへの無愛想には、ぶれが無い。

アマル という言葉すら浮かんだ事が無い。そんな物を許してくれる程、俺の現実は甘くは無かった」

 ここまでは想定どおりだったが、バラザフはもう一歩踏み込んでみた。

「私は未来を視る眼が欲しいと思いつづけておりました。童子トフラ の頃よりずっとです。今でも欲しております」

「それはアマル であって貴公にとっては幸せな事だろう。そんな物は現実には在り得ないからだ。アマル として心の中に大事に大事にしまっておかれるがよい」

 バラザフは、そこまでで言葉を発するのをやめた。この人物には未来は見えないという蔑みもあったし、怒りが湧いてこなかったのは、ファリドがサーミザフを大事にしてくれるだろうと、少しだけ好感を持てたからだろう。サーミザフに対して心配事が無くなった。今はそれだけである。

 心配事という物は一つ減れば、またすぐに新しい心配事が生じるものである。

 カーラム暦1011年秋、メフメト軍のハウタットバニタミムの太守が、近くのシルバ領の砦を陥落させ、シルバ側の守将もこの戦いで戦死した。

「メフメトのやつめ許せん。俺の政治に服さぬ乱暴に出るならば、メフメト軍を滅亡まで追い込んでやらねばならない」

 バラザフ以上にアミルは頭にきていた。折角、メフメトの顔も立てて大宰相サドラザム として裁判の労を執ってやったのに、それに不承知であると言う様な今回の挙兵である。裁定に不承知であるならば、その時に申し立てねばならない。それを後になって騙すような形でシルバ領に押し入って砦を落とすというのは、世の摂理を乱す許されざる事であった。

 一旦、事はここで霧散したものの、アミルの中ではメフメト家を威令に服さぬ不忠者という扱いになり、メフメト征討に大義を被せた。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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2021年12月5日日曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第7章_3

  バスラはシャットゥルアラブ川の右岸にある港湾都市である。穀物や棗椰子タマル などの輸出港でもあり、都市内に整備された運河が、バスラの産業製品である棗椰子タマル の品質向上にも役立っている。

「この城邑アルムドゥヌ は北にシャットゥルアラブ川が流れているから向こう側から攻撃するには無理がある。南のバスラ運河沿いに布陣してじっくり攻めるしかないな」

 バラザフは今回の戦いでは、城邑アルムドゥヌ の包囲は有効な手段ではないと考えていた。

「敵味方ともに、このバスラ運河が攻防の鍵となる。敵の弱った部分を見つけて商人のダウ船で渡河できれば、そこから一気に攻略が進むのだが」

 だがカトゥマルはバラザフを参謀としては採用しなかった。

「今回の戦いはテミヤト殿の能力を十二分に活かしたい。諸将もテミヤト殿の指揮下に従属するものとする。シルバ殿は、レイス軍、フサイン軍の動きを注視し、別働隊として臨機に対応してもらいたい」

 という具合にテミヤトを前に推していた。

 主戦闘から外れているバラザフだったが、その間にも彼の脳は戦略的な思考をやめない。

 ――アサシンの能力を活用し、新たな部隊を創設出来ないか。

 この方法論をずっと探っていた。

 アジャリアが世を去り、カトゥマルの代になったと同時に、世界にも新時代が開かれていくのではないか、という予感がしていた。そして、新時代に適応出来るアサシンが要る。

 ――情報を獲得しなければならない。

 そして、

 ――そこに速さが求められる。

 つまり、

 ――アサシンをもっともっと増やさなくてはならない。

 アサシンを活かしきって、敵を掻き乱すには、獲得した情報をアサシン部隊の中でさば けなくてはいけない。とすると――、

「アサシン部隊自体に頭脳が必要だな」

 どこの軍団でも個々の力量によって情報を集めるようなアサシンは必ず居た。それを部隊として連携した戦法を取れるようになれば、戦力は格段に向上するはずなのだ。

 メフメト家のシーフジンの軍団の事が、バラザフの脳裏に浮かんだ。だが、シーフジンはメフメト家に抱えられているとはいえ、棟梁モハメド・シーフジンが動かしている軍団である。バラザフが志向するのは、シルバ家の一部隊としてのアサシン軍団の設立であった。

 バラザフは、リヤド、アルカルジなどを中心にしてアサシンの人材を広範囲に募るようにシルバアサシンの長のフートに命じた。このとき、部隊としてのアサシンを欲しているバラザフが求める人数は千人は超えていた。

 この時期、ハイレディン・フサインは火砲ザッラーカ を大量に導入した新たな軍団編成を目指していた。今まで弓兵で編成していた部分にも火砲ザッラーカ を装備させて、武器の扱い方に慣れさせる練兵の手間を大幅に削減した。火砲ザッラーカ は扱い方さえ覚えさせれば、鍛錬の必要はかなり少なく出来るからである。この頃ハイレディンが導入した火砲ザッラーカ の数は一万以上であった。

 しかし、未だ小城邑アルムドゥヌ を拝領しているだけのバラザフには、ハイレディンのように火砲ザッラーカ を自前で導入するとか、職業軍人を常に抱えておけるような力は無かった。

 小領主の身の丈に合った部隊編成、新戦法の開発をするより道は無い。

 バラザフの部隊創生の主軸には、アサシンを十二分に活かすというものがある。戦術には正奇の二つがある。将兵を使って普通に戦うのが正に据えるとすれば、バラザフの創案にあるアサシンを使った戦いは奇の位置に置かれる事になる。正奇の相まって戦いの勝利に安定性が生まれる。

「つまりだな、フート」

 アサシンの長にバラザフは、アサシン軍団創生を実際事例を前に置いて説明を始めた。

「今、カトゥマル様がバスラの城邑アルムドゥヌ を攻城しているだろう。そして、バグダードからハイレディンがレイス軍に援軍を出してきたとする」

 フートは、いつもはあまり無駄な口を開かない主人の言葉に熱がこもっているの感じて、興味深くこれを聞いていた。

「手薄になった敵の城邑アルムドゥヌ にアサシンを五百人くらい潜入させて、あちこちで放火すると敵はどう出ると思う」

「残った守衛部隊が出てきますな」

「その通り。詰め所から出撃してきた所を、城内に埋伏させておいた者に攻撃させる。この役に二千名ほどをあてておくのだ。伏兵に慌てた守衛部隊は一旦退却するはずだ」

「そうですな。なるほど見えてきました。そこから刺さりこむのですな」

「その通り。詰め所や本部に退却する敵兵に紛れて、こちらの兵を入り込ませて中を攻撃する。援軍を出している間にバグダードの城邑アルムドゥヌ は陥落してしまうという絡繰からくり なのだ」

「なるほど、これは我等アサシンが培ってきた力の撰修せんしゅう といえるでしょうな」

 バラザフの戦術をフートがこう評したように、今語られた戦い方はアサシンのこれまでの戦い方の総纏めである。アサシンの力を認め、これまで以上の活躍の場を与えようとしてくれている主人にフートの好感は素直に上がった。

 反面、複雑さも増すだけに、目的到達には誰も経験した事の無い険しさがある。創生するとはそういうことである。

 具体的には、今までの稼動単位が一人、または数人の集団だったものが、軍団に格上げされることで兵卒の部隊と同等の連携度が求められる事になるはずである。

「軍団になるといってもアサシンは奇で、歩兵、騎兵が正だ。正が主軸になるのは言うまでも無い。フートは面白くないかもしれないが、絡繰からくりの部品のような動きをしなければならないのは今までと変わらない。敵からも味方からも情報を集めてきて、それを捌く。その情報を活用して敵をかき乱し、正の者を巧みに勝たせる。名誉は得られないが重要な役割なのだ。これが今後のシルバ家の戦法となっていくであろう」

 このバラザフの言葉が、バラザフの子供達のこれからの戦い方も決定する事になった。

 特に次男のムザフ・シルバは父バラザフがつけた道を轍のように通って、最初の情報収集、次の段で後方撹乱をして、多勢に無勢という戦いでも勝ちにつなげてゆく型を確立していった。

 ハイレディンの火砲ザッラーカ の運用度を上げた軍団編成は、すぐに各地の勢力で模倣されてゆくが、バラザフのこの正奇両用の新たな軍略は、バラザフにしか運用出来ず、万人による模倣はとても適うものではなかった。アサシンの力を余すところ無く引き出す部隊の新編は、大量の火砲ザッラーカ が火を噴くような派手さはなかったが、シルバ家個有の戦術になった。

 至急、フートはバラザフの求めに応えるべく、リヤド、アルカルジを駆け巡り、新軍団に入隊する面々をバラザフの前に連れてきた。

 それぞれのアサシンがすでに百名ほどの配下を持っている。

「シムカ・アブ・サイフと申します。元はアジャール家に抱えられていたアサシンで、その後、御父上のエルザフ・シルバ様の配下となりました。梶木の名のとおりシーフジンにも劣らぬ速さと自負しております」

「シムク・アルターラス。得意技は、隠密タサルール 。姿を消して城に忍び込みます。元エルザフ様の配下です」

 バラザフの前に並ぶ顔には見慣れた者もあった。フートと一緒に戦ってきたフート、クッドサルディーンアジャリースアスカマリィ の面々である。さらに、

「ロビヤーンと申します。周りから何故か海老ロビヤーン と呼ばれておりました。城内を撹乱する技を持っております。エルザフ様に雇われた事も十五回ほど」

「ハッバール。煙の烏賊ハッバール 。墨ではなく煙で姿を隠します」

「ルブスタル」

「ジャンブリ」

「大海老と小海老であります」

 ルブスタルの方が付け加えた。この二人は配下を連れていなかった。

「我等の特技も移動。そして砂や木に潜む事もできます」

「ロビヤーンとは何か繋がりがあるのか?」

「いえ、フート殿の命名にて、特に関係は。アサシンは名前が隠れればそれでよいかと」

 その後、彼等を何気なく観察していると、実際の兄弟かはさておき、ルブスタルが兄、ジャンブリが弟として親密に行動しいるらしい。

 そして、最後にバラザフの前に出てきたのが、

「おお、ケルシュ殿も我が軍団に参画してくれたのか」

 バラザフもケルシュは顔見知りの仲であった。自然とバラザフの顔にも笑みが浮かぶ。ケルシュはリヤド周辺の集落出身で、アジャール軍でアサシン団を束ねる棟梁の一人だった事もある。

 配下を敵の城に潜入できるように育成し、自分も潜入能力には長けていた。アサシンの中の古豪である。アジャール家中の身分からいえば、バラザフと同等か、それよりもやや上の人物である。

「俺が今動かせる配下は二百名。どいつもそれぞれ異能を持った奴ばかり。フートから話を持ちかけられて、面白そうだから乗らせてもらった。俺が選んだ者達、皆、バラザフ殿を満足させられるはずだ」

 明瞭だが遠くに響かず、余人に漏れない。そんな声である。

 バラザフは最初の稼動人員を千名として、アサシン団を抱える事にした。そして、アサシン団の長を二人置いた。一人はケルシュ、もう一人は今までと同様、フートを任命した。


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2021年11月5日金曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第7章_2

  カーラム暦996年中頃、カトゥマルはアジャリアの弟のサッタームをアジャリアに偽装し挙兵した。本人不在の幻影タサルール 作戦である。

 この挙兵はアルカルジに攻めてきたサラディン・ベイに対するものである。サラディンはアジャリアの生存を疑わしく思い、一度叩いてみて出方を確かめてみようというものであった。これと同時に、ハイレディン・フサインがバグダードから再び勢力拡大に動き始めていた。

 アルカルジでは病に伏しているエルザフの跡をバラザフの兄アキザフが継いでいた。そのアキザフよりこれらの急報を含めた報告が入ってきた。

「サラディンもハイレディンも、なめたまねをしてくれる。戦ってみればアジャリア様の生存がわかるというのなら、それでは勝てぬのだと教えてやろうではないか」

 これには諸将も異論無く一つにまとまった。煽るようなこの二者に対して応戦せぬでは、アジャリアの死を悟らせてしまう事にもなるからである。

 カトゥマルは、二つの戦線を同時にさばく事とし、アルカルジとバグダードに向けて出兵した。陣中のサッタームはアジャリアである事になっている。

 ――アジャリア・アジャール自ら出師。

 この報をどう判断したかは明らかにせず、サラディンの方は武器をおさめて馬を返して去っていった。

 カトゥマルは、アルカルジに出していた軍を転進させて、バグダードの方に向かわせた。こうした転進を織り交ぜた行軍こそがアジャリアの模倣なのであった。

 カトゥマルの当主としての戦争は緒からいい具合に運んだ。アブラス隊とともにアキザフ・シルバが先陣を駆けてフサイン軍を縦となく横となく蹴散らして勝利した。

「見事だ。さすがにシルバ家は当主がかわっても相変わらず強い」

 カトゥマルは本陣でアキザフ等の活躍を見ていて、そのとき近侍していたバラザフにも信頼を込めた笑みをおくった。カトゥマルの笑顔にバラザフも素直に頷いた。

 ――カトゥマル様ほど戦場で嬉しそうな顔をする方もいないな。

 人が死ぬ戦場で、溌剌としているカトゥマルを見て、彼の真の居場所のようなものをバラザフは感得していた。

 ハラドにいるときの最近のカトゥマルは沈鬱な表情を浮かべていることが多い。その重苦しさが、戦場に出ていると一切感じられない。戦場に出ると要らぬ苔を削ぎ落としたような清清しさになるのである。

 バグダードからハイレディンが出たときにはカトゥマルはすでに着陣していた。

「以前より速くなっているではないか。アジャリア殿の死は虚報に違いない。いや、こうして惑わす事がアジャリア殿のやり方だった気もするぞ」

 カトゥマルの迅速さにハイレディンは驚き、恐怖すら芽生えつつあった。

 カトゥマルがアジャリアを模倣出来たのは速さばかりではない。兵力を消耗しない、アジャリアらしい策略を駆使して、フサイン軍、レイス軍の城邑アルムドゥヌ を時間の後先もわからぬほど、どんどん飲み込んでいった。

「強くなっている。アジャリア様の御霊が乗り移ったかのような強さ」

 カトゥマルの強さにはバラザフも驚いていた。これまでは猪突な大将としか思っていなかっただけに、カトゥマルの統率力、指揮力を見直さざるを得なかった。と同時に、今では九頭海蛇アダル の頭の一つとなっているバラザフは、すぐ横の一番大きな首を無意識に好敵手として凝視していた。

 本陣でカトゥマルを見つめていると、カトゥマルの戦術のアジャリアと僅かな違いも浮かび上がって見えてきた。カトゥマルのやり方は、押せると見たら徹底的に押して敵を下す、押しの強い戦いである。アジャリアと比較すると、このやり方は蛮勇といえるかもしれない。

 勇猛果敢である事はそれ自体が強さである。だが、突き進む強さが強ければ強いほど、敵の刃に触れる回数も圧倒的に跳ね上がる。

 ――やはり戦場でのカトゥマル様は危うい。

 バラザフの危惧をよそに、カトゥマルは目の前の壁を砕くかのよう戦い方を続けた。

 今回、バラザフは監視役としてカトゥマルの本陣で、諸将の賞罰を管理していたので、前線に出ることは少なかったが、カトゥマルの用兵で戦列に入る事も多少あった。

 敵の小規模な城邑アルムドゥヌ は、千人ぐらいの戦力して持っていない。

 敵の正面に前線の兵士を当てて、バラザフは配下を三百人率いて城邑アルムドゥヌ の裏に忍び寄った。配下の中にはシルバアサシンの長、フートの顔もある。フートは城邑アルムドゥヌ の中を調査して、警備が薄い所から潜入して、混乱の渦に陥れる。

 城邑アルムドゥヌ 内の混乱が最高潮に達したあたりで、バラザフと配下が裏門を一気に叩いて突破し、中になだれ込む。ここで無駄な斬り合いが発生しないよう、投降する者を受け入れられるように、バラザフは配下をしっかり統率した。この辺りがバラザフが諸将と比較して抜きん出て巧みな要素といえた。

 部隊の統率者が討たれれば兵士は動けなくなる。そこを狙い目に敵の隊長格の者を見つけて倒し、敵味方の損害を最小限に抑えるのである。

 敵将の獲物がバラザフの諸刃短剣ジャンビア で防がれたときが、もう片方の諸刃短剣ジャンビア で敵将が討ち取られるときであった。

「隊長は討ち取ったぞ! 命を粗末にせず投降せよ!」

 投降を促すとともに、敵将の血のついた諸刃短剣ジャンビア をこれ見よがしに掲げる。

 このやり方で投降しない敵兵はいなかった。これがバラザフの小規模戦闘での勝利の型として出来上がっていた。

 いかにすれば戦意が高揚するのか、低迷するのか。アジャリアの軍に従軍して戦場にてそれを肌で感じ取ってきた事が、将軍としてのバラザフの能力の形成につながっていた。

 バラザフは夜戦にも強さを発揮した。

 ――夜に敵が奇襲にくるぞ。

 城邑アルムドゥヌ の内側に潜入した数人の間者ジャースース 達は、方々で吹いて回って守備兵の恐れを喚起し、各所に放火した。

 城邑アルムドゥヌ の混乱が高まると間者ジャースース 達は離脱して、次にバラザフを先頭に少数の強兵が襲い掛かる。

 小規模な城邑アルムドゥヌ は、この手口で落とされたものが多かった。

「カトゥマル・アジャール。アジャリア以上に恐ろしい大将だ。たった三日でこちらの城邑アルムドゥヌ が二十も奪われた」

 カトゥマルの猛攻にはハイレディンといえども手出し敵わず、バグダードに篭って今はこの勢いを見極める他なかった。

 この戦いの間、アジャール家中におけるカトゥマル立場が強くなっていた。

「戦場の真中においてこそカトゥマル様は活きるのだ」

 バラザフがそう思ったように、戦場ではアジャール家はカトゥマルを中心にひとつにまとまった。しかし、ハラドに帰ると主君の不在を守っていたモグベルなどの側近派閥が大きな顔をするようになって、戦場ではカトゥマルに引き付けられていた古豪派閥の家臣等との亀裂がまた表出してしまう。

 これはカトゥマルの意思で古豪との溝を作るというよりも、側近派閥に融和性がないゆえに出来てしまう溝なので、カトゥマル自身では処置のしようがなかった。

 こうした溝を埋めるためにバラザフは、またカトゥマルを戦場に置こうと考えた。

「今のカトゥマルには勢いがあります。今のうちにこれを活かしてナーシリーヤ方面の攻略を再開しては」

「うむ。正に我が意である。アジャリア様が落とせなかった城邑アルムドゥヌ も、今の俺ならば可能であろう」

 と、カトゥマルも強く同意した。

 ところが、この出征にシャアバーン、ハリティ等、古豪派閥の家臣は、表向きはアジャリアが生存している事になっていて、目だった行動をする事によって、アジャリアの死が外にもばれてしまう危険が高まる事を理由に反対した。それでもカトゥマルが強く出征路線を打ち出してくるので、古豪派閥もこれに折れるしかなかった。

「シルバ。今回はテミヤト殿に先陣を任せようと思う。異論はあるか」

 今までバラザフと呼んでいたのを、カトゥマルはシルバ・・・ と呼んだ。無意識的に幼馴染という関係から抜け出し、公の人間になっていた。また、先鋒を・シャアバーン、ハリティにしなかった事も、カトゥマルが戦巧者である事を表していた。

 ――カトゥマル様は本当に戦争の事になると神がかる方だな。

 バラザフは、カトゥマルの采配と戦いでの神智に感心していた。

 出征の方策をカトゥマルから求められたときの案として、テミヤトを先鋒に推す事はバラザフも考えていた。クウェート方面のある小さな城邑アルムドゥヌ をテミヤトが領地として与えられていた事が理由の一つ。もう一つは、先鋒を古豪派閥ではなくアジャール家親族派閥から選任する事によって、家中でのテミヤトの格を上げて、なおかつ先のように戦争によってアジャール家がまとめる事を見込んだためである。カトゥマルの意図もこれに異なる部分は無かった。

 かつてアジャリアとの関係がそうであったように、カトゥマルとバラザフの関係も黙したまま互いに了解出来る領域が多い。幼馴染だからこそ分かる距離感というものはあるものである。

 テミヤトの部隊を先頭にアジャール軍がバスラに雪崩れ込んだ。アジャリアは生前、バスラ方面も鋭意攻略してきたが、バスラの城邑アルムドゥヌ 自体には手をつけてこなかった。バスラからファリド・レイスの本拠地であるナーシリーヤまで、西北西に約二日の行軍距離である。ナーシリーヤやクウェート等を繋ぐ、主要道の交点でもある。

 ――エルザフ・シルバ、危篤。

 ハラドを発つ直前にアルカルジからバラザフのもとにこの報せが入った。不安が無いといえば、それははっきりと嘘である。だが、バラザフは表情には出さなかった。

「父上の快復を祈る」

 とだけバラザフは兄アキザフにあてた手紙を送った。しかし、この手紙がアルカルジに着く前に、父エルザフは病にて霊籍の人となっていた。数日の後、シルバアサシンによって父エルザフの死がバラザフに報告された。

 アジャリアの死。父エルザフの死。敬愛した二人の、続いた二つの大きな死は、バラザフの心に大きな衝撃を与えた。一方で人の命の有限と、あらゆる命に死は避けえぬ宿命なのだという事も二人の死から学んだ。

「アジャリア様は限りある命を生き切ると言っていた。その中で何を成すかが大事であるとも。死を意識して尊き命を巧く運んでいかなくてはな」

 あの時のアジャリアの言葉の意味がわかり始めていた。


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2021年3月5日金曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第5章_10

  バラザフは風を切って本陣から出てくると、

「フート。ファリドの動向を正確に掴んできてくれ。少しでも情報を得たら報告に戻るように」

 フートが部下を連れて風となって消えた。

 一人のアサシンが情報を持って戻ってきたのは、およそ一刻後の事である。

「敵の諜報部隊の主将は確かにファリド・レイス自身です。そして副将がイクティフーズ・カイフ。シャトルアラブ川を川沿いに下りハンマール湖の北辺りにまで来ています」

 ナジャルサミキ・アシュールの部隊は三万。今ではアジャール軍の中で最強の軍団である。ナジャルサミキはバラザフからその旨を受けて、全軍に臨戦態勢に入るよう命じた。

 バラザフとナジャルサミキが待ち受けている事をファリドは知らない。二万の将兵を率いて偵察だというのに警戒無く進軍してくる。バラザフの方は川辺の少し窪んだ場所に部隊を待ち伏せさせていた。弓隊を準備してある。

 ファリド・レイスという人物は慎重かつ粗忽な人物で、この時はその粗忽さがもろに現れて、偵察部隊の先頭に自身を置いていた。

 ――ヒュッ!

 と、ファリドの頭上に風を切る音が聞こえた。鳥梟の類であろうと上を見たレイス軍が、風切りの音の主が飛矢だとわかった時、すでに彼はすでに矢の雨の中でそれらを浴びていた。

 驚いたファリドは馬から転げ落ちて這い蹲って逃げようとしたが、この矢の雨の中、どちらに行けば命を拾えるのか全くわからない。ファリドの頭上から飛矢が襲いかかったとき、近侍していたイクティフーズ・カイフが外套アヴァー をファリドの上にかざ し、電光石火の速さで引いた。鏃が外套アヴァー に刺さった瞬間に、横に引き、害を免れる、達人にのみ出来る神技しんぎ であった。

 が、外套アヴァー に次々と矢が刺さり、この状況も長くはもちそうにない。イクティフーズはファリドを庇いながら後方を退いていった。其間、周りの兵士達の身体に弓矢が突き刺さり、次々と斃れてゆく。

「イクティフーズ! 最早生き残れん。武器を取って前に出るぞ!」

 イクティフーズの必死の護衛にもかかわらず、ほぼ絶念したファリドは喚いた。

「戦況をよく見られよ! 味方は敵の矢でほぼ全滅、前に進んでも冥府の門しかありませぬ。このイクティフーズがここで持ち堪える故、ファリド様は下がって命を拾われよ!」

 ファリドを叱咤すると、イクティフーズはファリドを馬上に戻して馬をはし らせた。あとは馬に任せる他無い。

 恐慌に陥っているレイス軍に、バラザフは騎馬兵を率いて斬り込みをかけた。さらにバラザフの後からアジャール軍最強のアシュール軍が騎馬部隊を前にして突撃をかける。

 砂塵が巻き起こり河川に沿って流れ、レイス軍を覆う。さらに水の方へ下りて、ざくざくと濡れた砂地を蹴り、アジャール軍がレイス軍を襲った。

 川辺に満ちる音は、鯨波、吶喊、馬が飛沫をあげる音、いなな き。バラザフは、退いてゆくレイス兵を掃討する形で、両手の諸刃短剣ジャンビア で、手当たり次第に斬り捨てていった。

 進むバラザフの前に一人の騎士が行く手を塞いだ。

「我が名はイクティフーズ・カイフ! これ以上進むとあらばここを貴様の死地と成すぞ!」

 ここまで退きながら猛攻を撃退していたイクティフーズの部隊が俄かに反転し、追撃してくるアジャール軍目掛けて反撃に駆けた。

 バラザフとイクティフーズ、それぞれの得物がすれ違いざまにぶつかり火花を散らす。

 両者は馬を反転させ、刃を交える事、五合、六合――。だが、息を弾ませながらも両者ともまだ馬上に在った。

「アジャール軍の謀将アルハイラト バラザフ・シルバ。その諸刃短剣ジャンビア 共々忘れぬぞ!」

「ファリドの槍、イクティフーズ・カイフか……。こちらもその名は忘れぬ」

 そして、バラザフは辺りの照顧を促すように、

「この混戦では互いに一騎打ちなど出来る状況ではない。勝負は次に預けておきたいと思うが」

「我はファリド様をお逃しするのが即今の使命。ここで決着をつけぬも異存なし。次までに死ぬなよ」

 と、イクティフーズは散らばっている兵を纏めて隊列を整えて押し寄せてくるアシュール軍への防備の姿勢を見せた。バラザフも自分の配下を集合させると、アシュール軍に合流した。

 互角に見えていた両者の戦いだったが、バラザフの方はかなり息も乱れ、後数回、刃を合せていれば、イクティフーズの槍がバラザフの心の臓を貫いていたかもしれなかった。

 戦場で敵同士という形で初めて顔を合わせた二人であったが、後に世代が代わった時、バラザフの長子サーミザフが、ファリド・レイスの孫娘を娶り、ファリドから領地を認められる事になるのだが、この娘の父親がイクティフーズ・カイフなのである。

 この時点でイクティフーズ・カイフ、二十四歳。バラザフ・シルバ、二十六歳。

 イクティフーズ・カイフは若さに似合わず、この撤退戦で類稀なる指揮能力を発揮した。自身が古今無双の勇将であったという事もある。

 単隊での防衛は柔らかき所を衝かれると、一瞬の内に部隊が壊滅する。だが、イクティフーズは徐々に部隊の戦力を削られながらも、持ち堪えて見せた。

 ファリドが視界から消え、戦線を離脱出来たのを確認すると、攻め来るアジャール軍に後退攻撃し、反撃しつつ撤退を成功させたのである。

 このイクティフーズ戦いぶりを見ていた、敵であるアジャール軍からも褒め称える声が聞こえてきた。


 ――ファリド・レイスに神は二つの勿体無い恩寵を与えた。

 ――イクティフーズ・カイフと彼のカウザ だ。


 この言葉が、やがて全体の歌となり戦場に響いた。


 ――ファリド・レイスに神は二つの勿体無い恩寵を与えた。

 ――イクティフーズ・カイフと彼のカウザ だ。


 イクティフーズのカウザ には二本の角が飾られていた。その飾りの角が炎を象形しており、それが彼の武威を一層華やかに衆目に映した。イクティフーズの優れている武具はカウザ だけではなく、彼の持つ槍もそうなのだが、この戦いではアジャール軍はその鋭さを殆ど味わわないで済んでいる。

 ファリドを逃す事には成功したレイス軍ではあったが、どの道崩壊を免れる道は無さそうである。押し返そうにも衆寡の差は明らかで、残された兵力も疲弊しきっていた。

「掃討戦のさらに掃討戦だ。退却するイクティフーズ・カイフの部隊に追撃をかけて、ファリド・レイスもここで討ち取ってやる」

 もはや勝ちの見えた戦いに、ナジャルサミキは意気込んだ。勢いがアジャール軍に味方している。

 戦いには慎重さをもって臨むバラザフだが、アシュール軍の追撃には賛成である。

 バラザフが部隊と共に駆けようとしたとき、後方で戦いの太鼓タブル が打たれた。だが、それは突撃を意味するものではない。退けというのである。

 ――なんだとっ。

 バラザフもナジャルサミキもこの撤退指示が信じられない。後方を見遣るとアジャリアの言葉を持って走り回っている伝令が見えた。

「アジャリア様から言葉を伝えに参った!」

 バラザフとナジャルサミキの姿を遠方より認めて伝令は声を張り上げた。

「追撃はならぬ。死を覚悟した敵を追えばこちらも無用に痛手を被る。二人の手柄此度はこれで十二分、との事である」

 伝令は、アジャリアの文言をそのまま伝えたようである。

「無理を承知した……」

 ナジャルサミキは不満をあらわにしたが、アジャリアの絶対命令を無視する事は出来ない。全軍に退却指示が出された。

 同じようにバラザフも配下に退却を指示するとともに、損害状況の調査を命じた。

「負傷者、二十名。戦死者は一人もおりません」

 その言葉はバラザフを安堵させたが、今度はアシュール軍の損害の方が気にかかる。

「アシュール軍、負傷者、一千名。戦死者、百五十名」

「レイス軍の損害はどうか」

「まだ詳細は把握しきれておりませんが、戦死者、五千名。負傷者は、ほぼ全員かと」

「確かに十二分な戦果だな」

 そして、配下を代表してフートに、

「今回の戦果はシルバ・アサシンの働きによるものが大きい。皆に分け与えよ」

 と、金貨を与え、

「肉もその他の食料も我が隊の荷隊カールヴァーン の分は好きにして良いぞ」

 と大盤振る舞いをした。

「俺がもっと出世して領地を殖やせたら、フートにも城邑アルムドゥヌ の一つくらい持たせてやりたいと思っているのだ」

 この時、遠くで雷鼓が鳴り震天して伝わってきた。空を見上げると、紫電が光るのが見えた。暗雲が立ち込めて、地上に雹雨をもたらさんとしていた。

「冷えそうだな。アジャリア様のお身体が心配だ。また体調を崩されなければよいが」

 バラザフの意図に反して、暗雲は刻々と深まってゆく。

 バラザフは身につけている武具の重みを感じた。初陣のとき初めて武器を持ち鎧を着たとき感じた重みではない。


 ――疲れたな。


 そして、いやな暗さだと思った。

 次に脳裏には、今日戦ったイクティフーズ・カイフの姿が浮かんだ。身も心も強い武人だった。あのままやり合っていれば、武技では確かに自分はあの男には敵わなかったはずだ。

 ここまで猛進してきたバラザフの歩みが少しだけ緩んだ。


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2019年7月25日木曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第3章_7

 ファリド・レイスにアジャール軍のクウェート侵攻の報が入った。
 サバーハ家と手を結んだ事で彼らの主拠点であるバスラにレイス軍の兵を置いておけたファリドだったが、これを退かせて急ぎサフワーンの街の防衛に充てた。
 アジャリア軍の強兵共が押し寄せてくる。しかもそれをアジャリアが自ら率いてくるのである。兵を分散したままでこれに勝てる道理がなかった。利口な選択が出来れば傷口は小さくて済む。
 折角、ファリドとの間にバスラに帰れる渡りをつけたバシャールだが、アジャリアを恐れてまだバスラに戻れていない状態である。
「まさに幻影タサルール 作戦が利いていると言えるだろう」
 クウェートへ向けて進軍する道すがら、バラザフはそう考えていた。
 アジャリアはサッタームにクウェートとは別の南部のカフジの街に向わせた。クウェートからは徒歩で二日程の距離である。言うまでも無くサッタームは幻影タサルール としてアジャリアに化けている。
 クウェートの中心からサッタームを離して配置したのは意味がある。
「街は無理に得ようとするな。自分の存在を誇示すれば十分だ」
 クウェートからここまで南に離れていれば、そこから更に南側はすでにメフメト家の目の届く範囲に入る。つまりサバーハ軍とメフメト軍の間に幻影タサルール であるサッタームを置く事で両者を牽制する狙いがある。無論、挟撃される危険はあるが、今のサバーハ軍にその気概は無いとアジャリアは見ていた。ここは前回の撤退で荷隊カールヴァーン が奇襲を受けた場所でもあった。

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2019年7月15日月曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第3章_6

 アジャリア自身はハラドから動かない。だが彼は諜報組織の活動によって、カラビヤート内外の情報を網羅出来ていた。
 アジャリア幻影タサルール 計画は、こうした諜報活動とは別の新機軸の計画である。アジャール家を九頭海蛇アダル にする。アジャール家の版図が胴であれば、アジャリアは頭である。
 体調を崩した際の当座の手当として戦場に出すならば、幻影タサルール は一人居れば足りる。しかしアジャリアの心計はそのようなありきたりのものではなく、九頭海蛇アダル の頭のように各戦場にアジャリア・アジャールを出現させてみたいのである。
 敵にとっては抜け目の無いアジャリア自らが戦場に出てくる事は迷惑この上無く、逆に味方にとっては万人の戦力を得たに等しく、将兵の士気高揚が大いに期待出来る。
 ――アジャリア・アジャールが自ら出陣している。
 全ての戦況において、これを作り出したいとアジャリアは思っている。常にアジャリア軍が十二分の実力を発揮出来れば、押しも踏ん張りも利く。効率よく戦いを進める戦場を想像して、アジャリアの食はまた進んだ。
 ファリド・レイスがサバーハ家からバスラ南の街サフワーンを譲渡された。ファリドに取り損ねたサフワーンをやるのには、バスラから追い出される形となったバシャール・サバーハを無事にバスラに戻して復権させる後ろ盾になってほしいという意図がある。
 以前にファリド・レイスを利用してクウェートに侵攻したアジャリアだが、此度もこれを皮切りにクウェート攻略を再開した。
「あの小僧、わしを差し置いてバスラを取るとは」
 バスラにバシャール・サバーハを帰還させたといっても、サバーハの今の力と、サバーハ家とレイス家が和解した事、ファリドが大手を振ってサフワーンを手中に収めた事を考えると、事実上バスラ周辺の地域がファリド・レイスの支配下になったといってよかった。
 アジャリアはバラザフがファリドを、
 ――若さに苔の生えたような男
 と評したのを思い出した。
「まさにあれだな!」
 自分の事は棚に上げ、それを白い幕で隠して、アジャリアはファリドの老獪さを蔑んだ。若者が老獪さを身につけている事、というより領土獲得で出し抜かれたのが我慢ならなかった。が、自分のそれは許されるのである。
「お前の見立ては正しかったようだ、バラザフ。ファリド・レイスは若さに苔の生えたような男、いや、苔そのものじゃ!」
 さすがにそこまで自分は言い過ぎていないと思ったバラザフだが、アジャリアがレイス軍をバスラ近辺から締め出そうとするのを、その怒気から感じ取っていた。
 ――岩から苔を剥がす、という事なのか?
 そして、クウェートに再度侵攻するという流れになっている。
幻影タサルール の手配はバラザフに任せる。サッタームの準備も手伝ってやってくれ」
 まずアジャリアは弟であるサッタームを幻影タサルール として戦場に出した。幻影タサルール 作戦を知るものはアジャール軍の中でも、ワリィ・シャアバーン、アブドゥルマレク・ハリティ、そしてバラザフ・シルバのみである。

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2019年4月5日金曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第2章_38

 正直バラザフには荷が重い。何せまだまだ小隊長格の自分が主君の同盟相手に上から物を言わねばならないのである。相手の人となりが全く分らぬ上に、ファリドの出方や細かな心の機微も見落としてはならなかった。
 バラザフが面会を求めに行った時、ファリド・レイスはまだバスラを包囲している最中で、バラザフはファリドの野営陣に通された。
「すんなり分け前を寄越すまいとは思っていたが、こちらの取り分まで邪魔するというのか」
 バラザフの口上にファリドは怒った。当然の反応である。語気を抑えただけまだ辛抱強いと言える。
 バラザフとしても損な役目であるが、この瞬間二人の間に出来た大きな溝は生涯に亘って尾を引く事となった。
「なぁ、バラザフとやら。俺はバスラを取るのに忙しいのだ」
「存じております」
 ファリドは使者との会見であるにもかかわらず、ポアチャを脇に置いて齧っている。
 完全にバラザフが若造だと思ってなめてかかっている。が、ファリド自身、バラザフを侮っていい程、歳を経ているわけでは全くない。この時ファリド・レイス二十六歳、バラザフ・シルバ二十二歳である。
「どうだろうバラザフ、俺には会えなかった事にして帰ってはもらえまいか」
 正気で言っているのかとバラザフは疑った。アジャリアに嘘を報告するつもりも毛頭無いが、仮に会えなかったと言ったとして、そんな事を信じるアジャリアではない。ファリドがこちらの申し出を断ったと受け取り、レイス家はバスラ諸共アジャール軍に踏み潰されるのがおちである事は、バラザフの目から見ても簡単に分る。
 要求をいかにして飲み込ませるか思案していると、
「冗談だ。サフワーン攻撃はやっておくと伝えておいてくれ」
 と、もってまわったような承諾をファリドは返してきたのだった。
 バラザフは一応冷静に心の目を働かせ、ファリドを観察していた。だが、どうにもこの人物を掴む事がかなわない。ただ、
 ――こいつは嫌いだ。
 と率直に感じた。若者が放つ独特の光がこの男には無かった。

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2019年3月5日火曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第2章_35

 ハラドから一部隊がバラザフの部隊に合流しようとしている。その部隊を待つためバラザフは合流地点で進軍を止めた。
 寒風はハラドにも来た。
「風が乾いておるな。水の補給に心を配らねば」
 野心に燃えるアジャリアの身体は寒さなど受け付けぬらしく、悠然とアジャリア本隊を北へ進めた。クウェートの南、カフジという街が合流地点で、そこまで一週間程の行程である。カトゥマルの部隊もリヤドを進発した。
 ――レイス軍、バスラを包囲。
 伝令からアジャリア本隊に情報が入れられた。
 バスラはクウェートの北の大きな街である。本来、レイス軍のような小さな勢力に手に負える要所ではないのだが、サバーハの威が弱まっている事と、アジャール軍のお蔭で南から衝かれる心配が無い事とで、ファリドは大きく出たのである。
「まったく。意外と簡単にいけるではないか。こんな事ならさっさと取っておくべきだった」
 そう言うファリドの中にはすでに、ファハド・サバーハ存命中に小さくなっていた自分は居なかった。

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