ハラド、リヤド、そしてアルカルジ。アジャール家の旧領は、諸侯の領地争奪戦の間で激しく揺さぶられている。無論、そこに手を伸ばそうとしているのは、レイス家、メフメト家である。さらにはベイ家までもが戦乱を生き残るために領土獲得という路線を打ち出してきていた。
この三家の中でもハラドの獲得で激しくぶつかっているのが、レイス家と、メフメト家で、両軍の衝突があちこちで発生した。
セリム・メフメトは、
「ハラドの支配権はアジャリアの孫の自分にある」
と大いに喧伝した。
これは領土獲得のための欺瞞ではなく、実際にセリム・メフメトは、アジャリアの娘の子である。
この主張に対するだけの名分を持ち合わせていないファリドは、アジャリア家遺臣を多数雇用して、彼等の土地勘と人脈を活用して巧みに戦争を展開していった。
戦いはレイス軍がじわりじわりと優勢に進んでゆく。この風向きをずっとバラザフは眺めていた。そして、風向きがレイス軍に有利と見るや、ファリド・レイスに味方しようと決めた。
「ですが、バラザフ様。すでにメフメト軍ともベイ軍とも同盟関係にある我等がレイス軍にまで距離を縮めるとなると、シルバ家が世に軽く見られます」
家臣の言い分はもっともである。これら三家はそれぞれ敵対関係にあり、シルバ軍だけがその全てに対して良い顔するという事は、どこかで下手を打てば、その瞬間全て矛先がこちらに向けられる危険を孕んでいる。だが、バラザフはこの訴えを自己の肯定を以って柔和に斥けた。
「これこそがバラザフ・シルバの戦略の真骨頂だ。この方法こそが俺達のような小勢力を滅亡から救うのだ。心配ない」
こう言ってバラザフは、レイス軍への使者に、また弟のレブザフを立てた。
レブザフは、現在レイス軍の武官となっている、元アジャリア家の家臣のつてでレイス軍につきたいという旨を伝えた。
「あのシルバ家が我等に臣従するというのか」
ファリドは余程嬉しかったのか、早速レブザフに直接面会し、丁重に迎えた。
「昔、貴公の兄のバラザフ・シルバに一度だけ会った事がある。あの時はアジャリア殿の使者としてであった。いかにも切れ者という面貌だったのを憶えている。そこから我等はシルバ軍に手痛い目に遭わされ始めたな」
表情に棘を作らないように努めているファリドだが、積年の仇を所々で刺してくる。レブザフはシルバ軍の売込みで出来るだけ値を吊り上げるため、アジャール軍在籍時代に、シルバ軍がメフメト軍やレイス軍と戦って立て功績を、整然と述べた。
レブザフの語りを聞いていたファリドは、突如、
「貴公、レブザフ・シルバと言ったな。話を聞いていて貴公が欲しくなった」
とシルバ家の与力を認める前に、目の前のレブザフを家臣に誘った。
ファリドはバラザフに、
――若さに苔の生えたような男。
と言わしめた程、彼等の相性はほぼ最悪に近い。
その相性で言うならば、ファリドとレブザフは組み合わせが良かった。少なくともファリドの方ではレブザフを気に入ったようである。
「レブザフ、レイス軍の武官になってくれるなら、貴公を
今まで何度もバラザフの遣いで方々に外交に出向いて、淡々と人物を見てきた。あのアジャリアですらも、兄よりもある種、冷ややかな視線で観察していたレブザフも、これには心を動かされた。感激したといってよい。
今までレブザフは相手からバラザフ・シルバの使者として見られてきたが、レブザフ・シルバとして人物そのものに入れ込んできた者はファリドが初めてだったかもしれない。初対面の自分を破格の待遇で迎えると言ってくれている事が、彼の誠実さを表していると思った。
「ファリド殿がレブザフを気に入ってくれたか。シルバ家とレイス家の関係も築いていけそうだ。交渉ご苦労であった」
バラザフは、素直に外交上の成功を喜んだ。
「兄上、レイス殿が私をレイス軍の武官にと望んでいるのです」
「うむ。それもいいだろう。シルバ家にとってレブザフ以上の外交の人材は居ないゆえ、大きな損失ではあるが、ファリド殿の厚遇を袖にするわけにもいかないだろう。だが、レブザフよ。右か左か迷ったときは、必ずシルバ家のためになる判断をしてくれ」
「もちろんです。しかし、まだシルバ軍での残務処理がありますので、残りの仕事片付けてから移籍致します」
レブザフがファリドから取り付けてきた約定は、レブザフ本人のみならず、シルバ家にも良い待遇であった。アルカルジのシルバ領をこれまでどおり認め、ハラド、リヤドに関してもシルバ軍の随意で良いというものである。
「シルバ軍が、レイス軍の下についただと!」
シアサカウシン、セリムのメフメト親子は、バラザフのやり口に恐慌した。当然の反応といえる。
メフメト家は、これをシルバ家の裏切りと受け取った。
「あちらがそのつもりならば、こちらにもやり方というものがある」
早速、メフメト軍は、アルカルジを端から切り取ろうと、軍隊を派遣してきた。
カイロのザラン・ベイもバラザフの外交処方は背信行為であるとして、シルバ家へ侵略の動きを見せてきた。
当初、恐れていた挟撃を受けた形になったが、それでもバラザフは落ち着いたままである。
「当然予想していたよ。メフメトもベイも想定どおりの反応を見せてきた。だからレイス軍を選んだわけだ。心配ない」
これまでバラザフは、アルカルジ、リヤドと自分の活動圏の支配権を賭けの担保にするように、諸侯、諸族との外交的な折衝において優位性を得てきたので、その点に関しては実績に裏付けられた矜持があった。支配領域に比してシルバ軍の組織としての勢力は弱い。
兵力の多寡を覆して、大勢力と同等の立場で渡り合うには、心の奥底に燃ゆる気根と剛勇さを持ち続けるしか無い。表向きは臣従したような形にはなっても、相手が大勢力であろうとも自分は対等の立場であり、君主個人の能力では必ず相手より優っているはずだという思いがバラザフの中にある。
「おい、リヤドに新しい
シルバ家の家臣達は、バラザフの突飛な策案に毎度の事ながら面食らった。レイス軍に付くと言い出したかと思えば、今度は
「正確にはハイルの
アルカルジ、リヤド、ブライダーと西北に道が伸びており、ハイルはその道の先にある
「拠点の戦略的価値を向上させる。規模を広げて大きくするぞ」
ハイルの西にごつごつとした岩場がある、切り立った高い山ではないが、足場が悪く進軍に難儀しそうな場所である。そこを起点に城壁を築き、足場の悪い岩肌に難儀して行軍してくる敵を弓矢などで撃退すればよい。その基本的な在り様の今までどおり活用して、バラザフはハイルを東へ、あるいは南北へ拡張していった。
「ここからジャウフ、ラフハー、メディナに繋がる」
「三方を睨める位置だが、また三方から攻められる位置でもあるのう」
叔父のイフラマがバラザフの意図を解して言葉にした。
「その通りです。そして折角
バラザフは、ハイルの周辺に点在する小さな
「
この一つに水を通さないようにするのは、抜け道にするためである。
バラザフは
産業として鷹匠達への業務援助も行った。
古くからカラビヤードでは鷹狩りが男子の嗜みとされていて、近頃では権威の象徴とされる向きもある。男達が
「ハイレディン・フサインがやったように専業武官を増強する」
カトゥマルも生前、フサイン軍の勢力に圧されて軍制改革の必要性に迫られていた。それを成そうとバラザフは躍起になっていたが、一方で家臣達はこの軍制改革に不安を抱いていた。専業武官の増加は、農業人口の減少に繋がる。シルバ軍のような小勢力がそれを実行可能なのかどうか。家臣達の不安はそれに尽きる。
ハイルの
「ハラド、リヤドをレイス軍のものに、アルカルジからオマーンまでをメフメト家の随意にする。その保証として両家の間に婚姻同盟が結ばれる、という取り決めです」
この情報をアサシンのケルシュの部下が探ってきた。
「そんな事だと思った。あのファリドが豪腕を奮えるわけがないからな。外交上の抜け道があれば、すぐに飛びつくのさ」
バラザフは、むしろ両家の同盟を面白がって見ていた。
「ハイルの築城を急がせろ。叔父上、急ぎハウタットバニタミムに太守として就いてくれ」
そして、イフラマ・アルマライの下に長男のサーミザフとメスト・シルバを付けて防衛の任を与えた。
ハイルに大きな
ハイレディン死後、中央でも時代は停滞していない。
ハイレディンの寵愛を受けて出世した遺臣のアミル・アブダーラが、他のフサイン軍の遺臣達を統御して、ハイレディンの盟友であったファリドと対立を深めた。
両家の軍団は、バグダードの南、ナジャフで衝突。この戦いにレイス軍が勝利した。
「また世の風向きが荒れてきたな」
バラザフの胸中には若者のような期待感がある。自分の知略を思う存分活用出来るような気がしていた。
「戦乱になれば俺の時代も巡ってくる」
バラザフの気炎はアジャリアの下に居た時以上に、アルハイラト・ジャンビアとして煌々としている。