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2021年11月5日金曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第7章_2

  カーラム暦996年中頃、カトゥマルはアジャリアの弟のサッタームをアジャリアに偽装し挙兵した。本人不在の幻影タサルール 作戦である。

 この挙兵はアルカルジに攻めてきたサラディン・ベイに対するものである。サラディンはアジャリアの生存を疑わしく思い、一度叩いてみて出方を確かめてみようというものであった。これと同時に、ハイレディン・フサインがバグダードから再び勢力拡大に動き始めていた。

 アルカルジでは病に伏しているエルザフの跡をバラザフの兄アキザフが継いでいた。そのアキザフよりこれらの急報を含めた報告が入ってきた。

「サラディンもハイレディンも、なめたまねをしてくれる。戦ってみればアジャリア様の生存がわかるというのなら、それでは勝てぬのだと教えてやろうではないか」

 これには諸将も異論無く一つにまとまった。煽るようなこの二者に対して応戦せぬでは、アジャリアの死を悟らせてしまう事にもなるからである。

 カトゥマルは、二つの戦線を同時にさばく事とし、アルカルジとバグダードに向けて出兵した。陣中のサッタームはアジャリアである事になっている。

 ――アジャリア・アジャール自ら出師。

 この報をどう判断したかは明らかにせず、サラディンの方は武器をおさめて馬を返して去っていった。

 カトゥマルは、アルカルジに出していた軍を転進させて、バグダードの方に向かわせた。こうした転進を織り交ぜた行軍こそがアジャリアの模倣なのであった。

 カトゥマルの当主としての戦争は緒からいい具合に運んだ。アブラス隊とともにアキザフ・シルバが先陣を駆けてフサイン軍を縦となく横となく蹴散らして勝利した。

「見事だ。さすがにシルバ家は当主がかわっても相変わらず強い」

 カトゥマルは本陣でアキザフ等の活躍を見ていて、そのとき近侍していたバラザフにも信頼を込めた笑みをおくった。カトゥマルの笑顔にバラザフも素直に頷いた。

 ――カトゥマル様ほど戦場で嬉しそうな顔をする方もいないな。

 人が死ぬ戦場で、溌剌としているカトゥマルを見て、彼の真の居場所のようなものをバラザフは感得していた。

 ハラドにいるときの最近のカトゥマルは沈鬱な表情を浮かべていることが多い。その重苦しさが、戦場に出ていると一切感じられない。戦場に出ると要らぬ苔を削ぎ落としたような清清しさになるのである。

 バグダードからハイレディンが出たときにはカトゥマルはすでに着陣していた。

「以前より速くなっているではないか。アジャリア殿の死は虚報に違いない。いや、こうして惑わす事がアジャリア殿のやり方だった気もするぞ」

 カトゥマルの迅速さにハイレディンは驚き、恐怖すら芽生えつつあった。

 カトゥマルがアジャリアを模倣出来たのは速さばかりではない。兵力を消耗しない、アジャリアらしい策略を駆使して、フサイン軍、レイス軍の城邑アルムドゥヌ を時間の後先もわからぬほど、どんどん飲み込んでいった。

「強くなっている。アジャリア様の御霊が乗り移ったかのような強さ」

 カトゥマルの強さにはバラザフも驚いていた。これまでは猪突な大将としか思っていなかっただけに、カトゥマルの統率力、指揮力を見直さざるを得なかった。と同時に、今では九頭海蛇アダル の頭の一つとなっているバラザフは、すぐ横の一番大きな首を無意識に好敵手として凝視していた。

 本陣でカトゥマルを見つめていると、カトゥマルの戦術のアジャリアと僅かな違いも浮かび上がって見えてきた。カトゥマルのやり方は、押せると見たら徹底的に押して敵を下す、押しの強い戦いである。アジャリアと比較すると、このやり方は蛮勇といえるかもしれない。

 勇猛果敢である事はそれ自体が強さである。だが、突き進む強さが強ければ強いほど、敵の刃に触れる回数も圧倒的に跳ね上がる。

 ――やはり戦場でのカトゥマル様は危うい。

 バラザフの危惧をよそに、カトゥマルは目の前の壁を砕くかのよう戦い方を続けた。

 今回、バラザフは監視役としてカトゥマルの本陣で、諸将の賞罰を管理していたので、前線に出ることは少なかったが、カトゥマルの用兵で戦列に入る事も多少あった。

 敵の小規模な城邑アルムドゥヌ は、千人ぐらいの戦力して持っていない。

 敵の正面に前線の兵士を当てて、バラザフは配下を三百人率いて城邑アルムドゥヌ の裏に忍び寄った。配下の中にはシルバアサシンの長、フートの顔もある。フートは城邑アルムドゥヌ の中を調査して、警備が薄い所から潜入して、混乱の渦に陥れる。

 城邑アルムドゥヌ 内の混乱が最高潮に達したあたりで、バラザフと配下が裏門を一気に叩いて突破し、中になだれ込む。ここで無駄な斬り合いが発生しないよう、投降する者を受け入れられるように、バラザフは配下をしっかり統率した。この辺りがバラザフが諸将と比較して抜きん出て巧みな要素といえた。

 部隊の統率者が討たれれば兵士は動けなくなる。そこを狙い目に敵の隊長格の者を見つけて倒し、敵味方の損害を最小限に抑えるのである。

 敵将の獲物がバラザフの諸刃短剣ジャンビア で防がれたときが、もう片方の諸刃短剣ジャンビア で敵将が討ち取られるときであった。

「隊長は討ち取ったぞ! 命を粗末にせず投降せよ!」

 投降を促すとともに、敵将の血のついた諸刃短剣ジャンビア をこれ見よがしに掲げる。

 このやり方で投降しない敵兵はいなかった。これがバラザフの小規模戦闘での勝利の型として出来上がっていた。

 いかにすれば戦意が高揚するのか、低迷するのか。アジャリアの軍に従軍して戦場にてそれを肌で感じ取ってきた事が、将軍としてのバラザフの能力の形成につながっていた。

 バラザフは夜戦にも強さを発揮した。

 ――夜に敵が奇襲にくるぞ。

 城邑アルムドゥヌ の内側に潜入した数人の間者ジャースース 達は、方々で吹いて回って守備兵の恐れを喚起し、各所に放火した。

 城邑アルムドゥヌ の混乱が高まると間者ジャースース 達は離脱して、次にバラザフを先頭に少数の強兵が襲い掛かる。

 小規模な城邑アルムドゥヌ は、この手口で落とされたものが多かった。

「カトゥマル・アジャール。アジャリア以上に恐ろしい大将だ。たった三日でこちらの城邑アルムドゥヌ が二十も奪われた」

 カトゥマルの猛攻にはハイレディンといえども手出し敵わず、バグダードに篭って今はこの勢いを見極める他なかった。

 この戦いの間、アジャール家中におけるカトゥマル立場が強くなっていた。

「戦場の真中においてこそカトゥマル様は活きるのだ」

 バラザフがそう思ったように、戦場ではアジャール家はカトゥマルを中心にひとつにまとまった。しかし、ハラドに帰ると主君の不在を守っていたモグベルなどの側近派閥が大きな顔をするようになって、戦場ではカトゥマルに引き付けられていた古豪派閥の家臣等との亀裂がまた表出してしまう。

 これはカトゥマルの意思で古豪との溝を作るというよりも、側近派閥に融和性がないゆえに出来てしまう溝なので、カトゥマル自身では処置のしようがなかった。

 こうした溝を埋めるためにバラザフは、またカトゥマルを戦場に置こうと考えた。

「今のカトゥマルには勢いがあります。今のうちにこれを活かしてナーシリーヤ方面の攻略を再開しては」

「うむ。正に我が意である。アジャリア様が落とせなかった城邑アルムドゥヌ も、今の俺ならば可能であろう」

 と、カトゥマルも強く同意した。

 ところが、この出征にシャアバーン、ハリティ等、古豪派閥の家臣は、表向きはアジャリアが生存している事になっていて、目だった行動をする事によって、アジャリアの死が外にもばれてしまう危険が高まる事を理由に反対した。それでもカトゥマルが強く出征路線を打ち出してくるので、古豪派閥もこれに折れるしかなかった。

「シルバ。今回はテミヤト殿に先陣を任せようと思う。異論はあるか」

 今までバラザフと呼んでいたのを、カトゥマルはシルバ・・・ と呼んだ。無意識的に幼馴染という関係から抜け出し、公の人間になっていた。また、先鋒を・シャアバーン、ハリティにしなかった事も、カトゥマルが戦巧者である事を表していた。

 ――カトゥマル様は本当に戦争の事になると神がかる方だな。

 バラザフは、カトゥマルの采配と戦いでの神智に感心していた。

 出征の方策をカトゥマルから求められたときの案として、テミヤトを先鋒に推す事はバラザフも考えていた。クウェート方面のある小さな城邑アルムドゥヌ をテミヤトが領地として与えられていた事が理由の一つ。もう一つは、先鋒を古豪派閥ではなくアジャール家親族派閥から選任する事によって、家中でのテミヤトの格を上げて、なおかつ先のように戦争によってアジャール家がまとめる事を見込んだためである。カトゥマルの意図もこれに異なる部分は無かった。

 かつてアジャリアとの関係がそうであったように、カトゥマルとバラザフの関係も黙したまま互いに了解出来る領域が多い。幼馴染だからこそ分かる距離感というものはあるものである。

 テミヤトの部隊を先頭にアジャール軍がバスラに雪崩れ込んだ。アジャリアは生前、バスラ方面も鋭意攻略してきたが、バスラの城邑アルムドゥヌ 自体には手をつけてこなかった。バスラからファリド・レイスの本拠地であるナーシリーヤまで、西北西に約二日の行軍距離である。ナーシリーヤやクウェート等を繋ぐ、主要道の交点でもある。

 ――エルザフ・シルバ、危篤。

 ハラドを発つ直前にアルカルジからバラザフのもとにこの報せが入った。不安が無いといえば、それははっきりと嘘である。だが、バラザフは表情には出さなかった。

「父上の快復を祈る」

 とだけバラザフは兄アキザフにあてた手紙を送った。しかし、この手紙がアルカルジに着く前に、父エルザフは病にて霊籍の人となっていた。数日の後、シルバアサシンによって父エルザフの死がバラザフに報告された。

 アジャリアの死。父エルザフの死。敬愛した二人の、続いた二つの大きな死は、バラザフの心に大きな衝撃を与えた。一方で人の命の有限と、あらゆる命に死は避けえぬ宿命なのだという事も二人の死から学んだ。

「アジャリア様は限りある命を生き切ると言っていた。その中で何を成すかが大事であるとも。死を意識して尊き命を巧く運んでいかなくてはな」

 あの時のアジャリアの言葉の意味がわかり始めていた。


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2021年10月5日火曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第7章_1

  バラザフの所に弟のレブザフが来た。

「兄上、アジャリア様が亡くなったとの噂を聞きました。数年の間、自分の死を秘すようにアジャリア様に言い残したとも。兄上なら全て知っているのでは」

 アジャール家の武官として役に就いているレブザフであったが、アジャリアの死を知らされる身分ではなかった。だが、この隠匿はあっけないほどの速さで家中に拡散しつつあった。それでもカトゥマルも含めて重臣等は、

 ――アジャリア様は病気で療養中である。

 と、かたく なに外にも内にもアジャリア生存を装い続けた。

「レブザフ。アジャリア様を死んだ事にするとは不敬である。アジャリア様は病気。そして療養中だ。それが現実なのだ」

 この間にも公ではアジャリアが出なけばならない式典等が発生する。こうした時、式典の場には弟であるサッタームがアジャリアの席の腰を下ろす事になった。

 ――アジャリア様は病気の中、強いて公の場に出ている。

 という現実を作り出すためである。

 数年の間、自分の死を秘すようにとアジャリアは遺言した。この数年という時間を、家臣の間では三年の間と認識して、これを共有する事となり、サッタームをはじめとするアジャリアが創った幻影タサルール 達を、本人が出るべき場所へ出していた。

 一応、形の上ではアジャリア体制を維持している一方で、アジャリアのたった一人の後継者であるカトゥマルが、アジャール家での発言権を強めていった事は自然な流れだった。同時に、サッド・モグベルなどの自分の側近が重きを成すような、人材配置にしていった。

「彼らは知恵もあるし、血筋もよい。政治力も申し分ない。だが、その政治力に比重が偏るゆえ、戦術的な思考の出来る古豪のシャアバーン、ハリティ、オワイラン殿と溝が生じてしまう」

 バラザフの口から懸念が漏れた。

 自分にとってはカトゥマルとは、主家でありながら親友だと思っていた。お互いに自分の考えを言い合える距離で過ごしていたので、最近のカトゥマルが事あるごとに側近の力で解決しようとして、古参の武将との間に立ち入れない一線を引いてしまっているように見えて、危うきを感じていた。

 カトゥマルの母はリヤドの太守の娘である。母の生家であるリヤドで育てられたカトゥマルは、アジャリアの長男アンナムルが死んだ後、アジャリアの後継者となった今でも、アジャール家内では、「リヤド太守カトゥマル・アジャール」の印象がどうしても強く残っている。

 この印象のためにアジャリアが亡くなってカトゥマルが新たな当主になっても、言い得ぬ違和感を皆に持たれてしまうのである。

 カトゥマルが家臣団からぞんざいに扱われたという事は無かった。だが、モグベルなどの側近の台頭に不満を持つ家臣は徐々にこの頃から増え始めていった。

 バラザフは、この亀裂を傍観することにした。

「俺は実際の執事サーキン の役を賜っているわけではない。カトゥマル様のためになる事、アジャール家のためになる仕事だけを考えていればいいのだ」

 と早い段階で自分の立ち位置を定めていた。そうする事が亡きアジャリアに対する自分の報恩であると信じていた。

 他方で、カトゥマルの側近たちはそうは考えなかった。カトゥマルのため、アジャール家のためと考えるより先に、

 ――いかにカトゥマル様に自分をよく見せるか。

 ――自分の出世のためにカトゥマルの出方にどう処世するか。

 という腹の中に金貨の受け皿を備えているような勤め方をしていた。主人の恩寵によって急に位が上がった者によくある思考である。

 アジャリアの時代は、九頭海蛇アダル の頭は、長の頭によって統率されていた。家臣団の中で臨機に頭に数えれる者が替わるにせよ、ばらばらな動きはしていなかった。

 ところが、カトゥマルの代になった途端、カトゥマル側近の派閥、古豪の派閥、そしてテミヤト、アシュール、アブラスといったアジャール家親族の派閥に分かれた。大きな派閥はこの三つなのだが、九頭海蛇アダル の頭には首の細いものあり、目鼻の無いものありで、九頭海蛇アダル と形容するに相応しくない態になりつつあったが、さすがに酒樽の頭を突っ込んで酔いつぶれているものは無かった。

 親族派閥は、古豪派閥に肩入れしたら、次の日は側近派閥の肩を持つというような安定感の無い動きをして、側近派閥はカトゥマルの視野を塞いで家中の裁定から遠ざけようとした。

 カトゥマルに耳ざわりのよい言葉だけを入れて、側近派閥の支配権を拡張しようという、これまた王座に寄生する者にありがちな型であった。

 カトゥマルの目は閉ざされても、バラザフの目からは全体が見えすぎるほど見えた。

 ――側近派閥は欲得剥き出しでうんざりする。

 こうした思いをバラザフは内に抱え込んでおく他無かった。

 昔のバラザフとカトゥマルであるならば、歯に衣着せる事なく考えを言い合えた。せめて自分が一歳でも年長であるならば、衷心を以って諫言する事も出来たろうにとバラザフは思う。

「アジャリア様が作ろうとしてアジャール家は、こんなものではなかったはずだ」

 早くも巨星が堕ちた弱りがアジャール家に見え始めていた。


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2019年11月25日月曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第3章_19

 ハサーの包囲はナビール・ムフティという家来の部隊に任せて、自身はダンマームへ向けて出発した。アジャリアはダンマームの攻撃もカトゥマルに任せるつもりでいる。
「カトゥマル、ダンマーム攻撃でもお前が指揮を執るのだ。もちろんバラザフも一緒ににな。それとファヌアルクトを副将とする」
 ファヌアルクト・アジャール。ベイ軍との戦争で戦死したエドゥアルド・アジャールの息子であり、その名に猫の牙の意味を持つ彼は、その名の如く素早く敵を仕留めるの攻撃を得意としている。が、人を殺めた事はまだ無い。カトゥマルにとっては従兄弟であり弟のような間柄である。バラザフにとっては敬愛していた師匠の子供という事になる。カトゥマル同様、アジャリアの剣として武勇を賞賛されてはいるが、その実、猪突な性格で周囲を困らせる事もしばしばである。
 ダンマームはバーレーン要塞の西の対岸にあり、要塞の緩衝の役割を持つ拠点である。ペルシャ湾では一、二を争う貿易港で現代経済の中心地の一つであるアル・コバールと連携され、リヤドとも繋がっている。経済活動は農業、酪農を中心に行われている。
 太守はカウシーン・メフメトの子バヤズィト・メフメトが務めている。バヤズィト・メフメト、二十五歳。カトゥマル・アジャール、二十五歳。今、ダンマームの守備に二万の兵が充てられていて、しかもつわもの揃いである。太守バヤズィトも戦いの指揮に関しては、腕に覚えがある。だが、アジャリア・アジャールが二十万の大軍で接近していると知らされて、その自信は翳り始めていた。何をされるかわかったものではない。
 目下、アジャール軍のナジ・アシュールと一万の兵らが陣を張り始めているのが見える。バヤズィトの認識ではアジャリア本隊はまだハサーに居る事になっている。
 ――アジャリアがやってくる前にこいつらだけでも片付けよう。
 アジャリアさえ居なければまだやり様はいくらでもあるはずであった。
「あそこに居るアジャリアはおそらく幻影タサルール とやらだろう。勝てるうちに勝っておく」
 到着して間もないアシュール軍を、ダンマームの兵が襲った。しかし、敵の一万に一万五千を当てて戦ったにも関わらず、メフメト軍は崩れて城内へ逃げ込んだ。
 ――アシュール軍に居るアジャリアは本物だ。
 という認識をダンマーム側は持つようになり、それが報告としてバーレーン要塞にも伝えられた。ここでも幻影タサルール 効果が出始めている。
 ダンマームの緒戦の勝利はアジャリアの機嫌を大いに良くし、彼の食指をまた進ませた。
「カトゥマル。一週間でダンマームを陥とせ。アシュールの強兵を頼みとすれば強攻めでも良かろう」
 これにカトゥマルも大きく頷いた。元より猪突な性格の彼であるから、アジャリアのこの意に異を挟むものではなかった。傍で聞いていたバラザフもアジャリアの意向ならばと、攻撃の準備に入った。とはいえ城邑アルムドゥヌ 攻めるのはいつもながら楽観視は出来ない。バラザフは自分の部隊に十倍の敵と戦う覚悟を持つよう引き締めた。
「強攻めは無駄死にせよという意味ではないからな。奇策を用いぬというだけだぞ」
 両軍の矢が飛び交い、火砲ザッラーカ が火を噴いた。
「城の区画を少しずつ削るように取っていきましょう」
「だが父上は一週間で陥とせと仰せであった」
「十分出来うる時間かと存じますが」
 この日のうちに城から打って出る部隊があり、カトゥマル自らが単騎駆でこの隊を打ち破った。
「アジャリアの剣、カトゥマル・アジャールぞ! 冥府を希望する者は我が前へ出よ!」
 その後は乱戦になった。敵兵を跳ね飛ばして進み、敵将に一騎打ちを仕掛ける様は猪突な彼の性格をそのまま現していると言ってよかった。
 このカトゥマルの暴走ともとれる奮闘は結果として敵の意気を挫き、味方の士気は大いにあがった。補佐としてついているバラザフにとっては冷や汗ものだったが、幼馴染のカトゥマルが手柄を立てる雄姿を見て、心晴れやかになる部分も少なからずあった。
 カトゥマルと同じ毛色のファヌアルクトもこれに手放しで喜び、
 ――次は自分が単騎で駆けてやろう。
 と意気込んだ。
 バラザフはこの機に城内に退却する敵兵と共に中へ乱入した。先陣に出て戦うカトゥマルに触発され、闘志に火がついたのである。シルバ軍は逃げ込む城の兵の直後に付けて、気付かれないまま楽々と門を潜り、一区画を突破した。その辺り、闘志の火の中にバラザフは彼らしい冷静さも隠し持っていた。
 一つ目の広場に出た所で、
火砲ザッラーカ に備えよ」
 と注意を喚起した。城内で火砲ザッラーカ の集中砲火を浴びて一網打尽にされる危険がある事は最初に危惧したとおりである。ここまで突入してきたのも見込みの要素が大きい。
 部隊に防衛線を準備させている間に、城内の地勢を見渡すと奥の塔の上で質の良さそうなコラジン を着た若い将が自ら火砲ザッラーカ を構え砲口をこちらに向けている。
 ――あれが太守のバヤズィトだな!
 咄嗟にそう判断したバラザフは、腰の諸刃短剣ジャンビア を抜いて、バヤズィトを思しき人物目掛けて、目一杯力を込めて投げつけた。
 放たれた諸刃短剣ジャンビア はバヤズィトではなく彼の構えている火砲ザッラーカ の砲口へ入った。火砲ザッラーカ の火は外へ噴かず諸刃短剣ジャンビア のせいでこもる様に暴発して、爆炎がバヤズィトを包んだ。
 バヤズィトは近侍の者に介抱されて、そのまま姿を消した。
「狙い外したが案外届くものだろう」
「兄上、あの諸刃短剣ジャンビア は」
 バラザフの持つ諸刃短剣ジャンビア の貴重さをレブザフは知っている。
「数あわせで買った一本だ。それ以外はどれも失うわけにはいかぬ代物だから」
「咄嗟に一本を選ぶとは」
「普段からこれを抜くように訓練していただけさ」
 バラザフは空になった諸刃短剣ジャンビア の鞘を軽く叩いた。
「とはいえ、男の誇りである諸刃短剣ジャンビア を投げつける事自体、あまり感心は出来ませんよ」
「今後は常に投槍ビルムン の者でも待機させておくか」
 バラザフはほとんど気にしていない。
「おそらくバヤズィトは大火傷を負っただろうから、しばらく指揮は執れないだろう」
 そして先に命じておいた火砲ザッラーカ 対策の砂袋と防衛の隊列が整ったところで、奥の区画の門が開き敵の火砲ザッラーカ がまたもや火を噴いてきた。
「砂は投げなくていい。積み上げて門を塞いでしまえ」
 と、炎による攻撃を封じてから、
「弓兵、塀越しに矢を射掛けてやれ」
 三百人の弓兵が上に向って矢を乱射する。バラザフ部隊に所属する弓兵達も委細心得ていて、門の向こう側の敵兵に当たるように、天を射抜くような角度で弓矢を構えて放ち続ける。
 シルバの弓兵は城内の火砲ザッラーカ 隊を駆逐した。火砲ザッラーカ 部隊は前方が塞がれ、どうしたものか往生しているうちに、上から矢の雨が降ってきて、為す術無く自分の身体を矢に晒す他なかった。
「期限まであと残すところあと一日だが、我等の盛んな攻撃でダンマームもあとは中央だけだな」
 カトゥマルもバラザフも戦果に大いに満足していた。
 しかし、ここに至ってアジャリアの口から退却の命が出た。アジャリア本陣では三人のアジャリア・アジャールが威風堂々として座している。
 ――アジャリア様が三人も居るぞ。
 諸将は自分達の目に映るこの信じがたい状況について囁き合っているが、アジャリアはこれに一切取り合う様子も無く、
「今日までのダンマーム攻撃の戦果とは何か。敵に恐怖を植え付けた事である。これはバーレーン要塞の布石と心得よ」
 と改めて諸将に方針を訓示して、
「カトゥマル、静かにダンマームの包囲を解除せよ。今宵の内にダンマームを去るぞ」
 と即時撤退を命じたのである。
 明朝、全身火傷の身体を包帯に包んだバヤズィトは、痛みを我慢しながら指揮に出ようとしていた。
九頭海蛇アダル はどうした…」
九頭海蛇アダル などおりません」
「そうではない。アジャール軍だ。奴等から何としてでもこのダンマームを死守しなければ……」
 塔に登ってバヤズィトが見た物は、一週間前と同じ砂漠の静かな朝靄だけであった。

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2019年11月15日金曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第3章_18

 アジャリアが想定したとおり、宵闇に城内から偵察兵が出てきた。これがバラザフが手配しておいたアサシンの罠に掛かった。アサシンの長はフート、つまり鯱と呼ばれている。元々、父エルザフに仕えていたが、現在シルバのアサシン団の半数がこのフートと共にバラザフの配下として働いている。
「メフメトの偵察兵を捕獲……」
 フートはいかにも裏舞台で生きる者らしく静かにバラザフに報告を入れた。
「何か吐いたか」
「五百名程で出撃してくる模様」
「それは俺たちで対処しよう。お前達は配置に戻れ」
 その情報をすぐにカトゥマルに入れて、迎え撃つ備えをしなければならない。
「日が昇る前に来そうか」
「おそらく」
「俺も出撃する」
「それはなりません」
 バラザフは、参戦するつもりでいるカトゥマルを、小規模戦闘には総大将は出るべきではないとして制した。まだカトゥマルにはアジャリアの剣として戦っていた武人として気質が抜けない。バラザフにアジャール軍の系譜である事を再認識させられて、ここは彼らに任せておく他なかった。
「こちらが待ち構えているのは向こうも承知だ。その上で出てくるのだから敵は死力を尽くして来るぞ」
 ――火砲ザッラーカ ! 一気に撃て!
 バラザフが配下を引き締めたその時、城内から火砲ザッラーカ が火を噴いてきた。
「慌てず砂袋投げ掛けてやれ」
 兵達が射線に向けて砂の詰まった袋を投げる。袋は空中で火の玉となり砂が舞った。無数の砂粒が拡散して霧のように膜になり炎を防ぎ熱を吸収している。撒き散らす砂の中で、袋の一つが爆破した。
「誰だ! 間違って小麦粉を投げた奴は」
 どうやら準備の段階で糧秣の袋が一つ紛れてしまったようだ。その炎もやがて舞う砂に呑み込まれ消し去られていった。誰に対してというわけでもなく兵を怒鳴りつけたバラザフだったが、内心に怒りは無い。火砲ザッラーカ の炎を巧く防ぎ、緒戦から上首尾である事への高揚の顕れである。
 やがて炎が途切れ、敵が門扉を大きく開き、百名程が打って出てくるのを機に、
「今だ! 矢を射かけよ!」 
 と反撃を命じた。
 門から出てくる敵に真横に射られた矢が突き刺さってゆく。ほぼ狙撃の形に近い。
 バラザフは弓兵を百人ずつ三部隊を編成していた。この三部隊で射撃稼動を循環させ、メフメト軍を襲う弓矢の凪は生じなかった。
 幸運にも撃ち漏らされて弓隊に一矢報いんと突撃をかける者も、脇に配置されたアサシンの投擲で着実に始末されていった。
 当然、バラザフは定石である槍兵も用意している。二百名の槍兵が門の傍で転倒している敵兵に止めを刺さんと襲い掛かる。その横を次の火砲ザッラーカ に備えて砂袋を携えた軽歩兵が駆け抜けてゆく。
 ――これしきの小競り合いでは少しの損害も出したくないからな。
 奇策という程の戦術ではない。だがバラザフは一手一手を細やかに指示して、味方を一人も死なせなかった。門の所には百を越える骸がある。それらはすべてメフメト兵で生者は全てアジャール兵である。
「これで十分だ! 一旦退くぞ」
 僅かに生き残った敵兵が城内に退却してゆく。良い戦果だとバラザフは認識していた。ここで逃げてゆく敵兵と一緒に門内へ駆け込んで攻撃するという手もある。だがバラザフはその戦術を取らなかった。
「門が開いている内に駆け込まないのですか?」
 例によってレブザフが尋ねる。
「うむ。敵が先に火砲ザッラーカ を使ってくれたのが幸いした。あれを知らずに城内に駆け込んでいれば、門を閉められて今頃集中砲火で一網打尽になっていたところだな」
「ついていましたね」
「ついていた。全てを想定しきるのは至難だからな」
 この時、フートの配下が城内へ駆け込んで様子を窺って来た。そして城内では火砲ザッラーカ が構えられ、弓兵も多数待機していると、バラザフの予想を裏付ける報告をした。
「手際の良い見事な戦術だった。見た目は小競り合いだがこの勝利は大きな意味を持つだろう」
 レブザフを通して報告を受けたカトゥマルは満足な様子を隠さず表した。
「俺はバラザフの活躍が我が事のように嬉しい。勿論父上もお喜びだった」
 アジャール軍の士気が上がる一方で、この一戦でメフメト軍の士気は一層低下し、中から突進してくる気概はすっかり失せてしまったようである。だがアジャール軍はおとなしくなったメフメト軍を黙って囲んでおけばよいというわけにはいかず、ベイ軍やバーレーンのメフメト軍からの援軍を相手した小戦闘はしなければならなかった。
 アジャリアはこれらの戦闘の勝利に満足しつつ、ついに自らも稼動体勢に入った。
「ハサーの包囲はここまでだ。次はダンマームに向う。ナジ・アシュールが待っている頃合だ」
「ダンマーム攻略に入るのですか」
 傍に仕えていたワリィ・シャアバーンが尋ねた。
「取れるものなら取っておきたい。が、強攻めは不要。ハサーと同様にダンマームもアジャール軍に手出しが出来なかったと、バーレーンのカウシーンとシアサカウシンに知らしめるのが目的だ」
 ――アジャリア様の狙いがハサーでもダンマームでもないとは思っていたが。
 ――さりとてバーレーン要塞を本気で攻撃するとも思えんな。
 事ここに至ってもアジャリアの真意が読めず、ワリィとアブドゥルマレクは囁き合っていた。
 ――カウシーン・メフメト殿にこれから会いにゆくのだ。
 アジャリアは記憶の中のカウシーン・メフメトという人物と対面しようとした。が、
「傷だらけだったのは憶えているが、なぜか目鼻がちっとも思い出せんな……」
 ――この方はアジャリア様だったはずだが、いつの間にやら幻影タサルール と入れ替わったのか?
「お前たち。わしは本物のアジャリア様ぞ。ん?」
 ワリィとアブドゥルマレクの囁きをアジャリアは愉悦を含んで窘めた。
 ――今、アジャリア と仰ったぞ。
 ――だが、あの自信はご本人の物に他ならぬ気がする。
 もはや重臣達ですら真実が分からなくなっていた。二人は臣下としてはいささか不敬な程、アジャリアをじっと観察している。
「面白くなってきた。ダンマームで待つアシュールの部隊にもわしが居る。メフメト軍の目にはこれはど映るだろうか」
 悪戯を仕掛けてその成果を待つ悪童のようにアジャリアは一人笑っている。

※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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2019年10月25日金曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第3章_16

 アジャリアはアルカルジからサルワに転進してくる前に、アキザフ・シルバとその配下に対して、サラディンの奇襲に備えるように指示だけしておいて、子細は任せる事とした。流れとしてはシルバ軍もハサーに随行するように見せて、すぐにアルカルジの防衛に戻している。そしてナジ・アシュールという将に、
「わしの幻影タサルール をアシュール軍の大将としダンマームの城邑アルムドゥヌ の攻撃せよ」
 と命じた。
 つまりナジ・アシュールはアジャリアの幻影タサルールを見破れるか試験され、その運用を任される数少ない将に選ばれたという事になる。アシュール軍は負け知らずのアジャール軍の中でも最強の部類に入る。その強兵をアジャリア・アジャール自身が指揮しているという事実が作り上げられた。
 ――アジャリアがアシュール軍を率いてダンマームに向っている。
 そう報告されたシアサカウシンは目の前が真っ白になった。頭が焼かれそうである。
 シアサカウシンが報告を受けた時には、アシュール軍のダンマームの城邑アルムドゥヌ を包囲し始めていた。それを指揮しているのはアジャリア・アジャール自身であると、メフメト軍は受け取った。
 それが幻影タサルール とは、まだメフメトの間者ジャースース は掴んでいなかった。つまり表面上は、バーレーン要塞のすぐ対岸に、すでにアジャリアが出現しているという状況である。
 幻影タサルール で、バーレーンとダンマームを混乱に陥れる一方で、アジャリア本人はハサーの城邑アルムドゥヌ に現れた。
 本隊の差配をカトゥマルに任せる前に、アジャリアは大まかな方針だけは伝えた。
「ハサーの攻略は不要。向こうも打って出ないようにカウシーン殿から命令されているはずだ」
「ハサーの太守はカウシーン殿の子のムスタファと聞いていますが、我等が恐れる相手ではないのでは」
「そうだ。だから守備に専心するように命じられている。言い換えれば砦に篭れば大将の多少の役不足は補えるという事だ」
「バラザフはカウシーン殿を警戒すべき以外は何も申しておりませんでしたが」
「カトゥマルよ。臣下の献策に耳を傾ける事は上に立つ者の美徳といえる。またバラザフの言葉も聞くに値する。だが、バラザフの言葉の言いなりになってはならぬぞ。託宣ではなくあくまで献策に過ぎぬ事を忘れるな」
「心得ました」
「勿論、バラザフはお前にとってもわしにとっても信の置ける臣だ。しかし心の奥で少し離れて観る目を持たねばならぬ」
「はい……」
「では、そろそろ軍議せよ」
「父上は軍議には出ないのですか」
「大略は今言った通りだ。後は任せる。それにあまりわしが口を出し過ぎると、他のわし・・ とすぐ見分けがついてしまうからな」
「わかりました」
 話を終えカトゥマルが天幕ハイマ から出ると、丁度バラザフが偵察から戻って来て馬から降りる所だった。
「やはり守りは堅いか」
「はい。少なくとも向こうから仕掛けてくる気配はありませんね」
「ハサーは無理に攻め取らなくてもいい」
「やはり、然様ですか」
「だが、やはり取れるものなら取っておきたい。強攻めせずにここ押さえられぬものか」
「ここが主目的であれば、寝返りを仕込んで時を待ちますが、いかがしますか」
「いや……やめておこう。ここは武威を示すだけにする」
「御意に沿えず申し訳ありません」
「いや、お前が謝る事ではない」
「では兵を損なわないよう手配して参ります」
「任せたぞ……」
 すでにアジャリアの意を受けているかのようなバラザフの態度に、カトゥマルは自分の軍略の至らなさを意識せずにはいられなかった。
「バラザフ……。友として俺から離れずにいてほしい」
「お戯れを。カトゥマル様の足からは逃げられませんよ」
 冗談で返し走り去っていくバラザフに、カトゥマルは笑ったが、目の奥は熱くなっていた。
 感傷的になるカトゥマルの心を余所に、バラザフは実務的に動き回らねばならない。
「味方を損傷せず、敵を怯えさえなければな」
 まず、ハサーの城邑アルムドゥヌ の周囲に布陣するアジャール軍の囲みを幾重にも厚くさせた。
「ここを本気で取るならまたアサシンを使うんだがな」
 敵中に忍び込むという命がけの仕事をさせるだけにアサシンの運用には金が要る。まずは慎重に包囲しておく他ない。この先、アジャリアがどのようにしてバーレーン要塞を陥落させるのかも気になる所である。
 ハサーの城邑アルムドゥヌ 。城壁の上から外を見渡せばアジャール軍の兵で埋め尽くされ、天幕ハイマ がいくつも見える。
「アジャリア・アジャールが来た。このハサーの城邑アルムドゥヌ にこれほど多くの敵兵の押し寄せた事はない。私の戦経験の中で一番の難事だ」
 太守のムスタファ・メフメトは全身が強張っていた。

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2019年9月15日日曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第3章_12

 風はバラザフが読んだように吹き始めた。
「戦いの主軸をリヤドとする。アルカルジ周辺からメフメト勢を締め出すのだ」
 この命令もアジャリアの攪乱作戦の内に入っている。アジャリアの一連の動きを鑑みて、メフメト軍は、
 ――アジャリアの本当の狙いはクウェートである。
 と判じた。よってクウェートの南のジュバイル辺りに守備に力を注いだ。アジャリアはさらにその裏をかいてアルカルジ周辺に全戦力を投入と言うのである。
 シルバ家にはアルカルジ、ハウタットバニタミム等の防衛を維持した上でアジャリア本隊に合流する部隊を賄うよう指示された。全軍がリヤドを経由してアルカルジの戦いに当たる。余力を残さぬ戦いになりそうである。
 出征の儀が閉められた。
 伝令が各方面へ一斉に走り出す。先発の軍はカトゥマル・アジャール。カトゥマルは新たにアジャール家の系譜の主としてハラドに遷っていた。
「バラザフはカトゥマルの先発隊と連動するように。アルカルジへ入ったら太守であるお前の父や兄にベイ軍とメフメト軍の連携を阻害するように指示し、それを伝えたらお前はバーレーン要塞攻略に参戦せよ。本軍は日を分けて出陣させてゆく」
 アジャリアは今回の戦いで全ての隠密タサルール を活用し切ってやろうと思っている。

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2019年8月5日月曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第3章_8

 隠密タサルール を用いた「アジャリア効果」は、予想以上に高かった。サッタームの部隊の兵等の吶喊は天を衝いた。
 ――アジャリア・アジャールが来た!
 それだけで守備兵の手足は強張り、腰は引けた。どんな卑劣な手で謀殺されるか分ったものではない。
 圧倒的士気の差でカフジを陥落させたサッタームは、兵を分割してベルシャ湾を南下してそのまま二、三の城邑アルムドゥヌ を落としてある程度補給線を繋ぐ事が出来た。
 南下を続けた部隊はジュバイルの城邑アルムドゥヌ の攻撃に入った。サッタームの部隊に連動して移動していたバラザフは反対側に回り攻城に加わった。
 城壁の上に並ぶ守備兵を見てバラザフは、これまでと少し違う事に気付いた。弓兵の間に盾兵を配備している。こちらの弓隊からの攻撃から城内を守る狙いがあるようだ。
「レブザフ、投槍ビルムン を用意させろ」
「おお、使う場面が出てきたのですね」
「うむ。一つ思いついたから試してみたい」
 レブザフは、 荷隊カールヴァーン から投槍ビルムン を手配し、強肩の者を部隊から百名程選んで投槍ビルムン 隊を編成した。

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2019年7月25日木曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第3章_7

 ファリド・レイスにアジャール軍のクウェート侵攻の報が入った。
 サバーハ家と手を結んだ事で彼らの主拠点であるバスラにレイス軍の兵を置いておけたファリドだったが、これを退かせて急ぎサフワーンの街の防衛に充てた。
 アジャリア軍の強兵共が押し寄せてくる。しかもそれをアジャリアが自ら率いてくるのである。兵を分散したままでこれに勝てる道理がなかった。利口な選択が出来れば傷口は小さくて済む。
 折角、ファリドとの間にバスラに帰れる渡りをつけたバシャールだが、アジャリアを恐れてまだバスラに戻れていない状態である。
「まさに幻影タサルール 作戦が利いていると言えるだろう」
 クウェートへ向けて進軍する道すがら、バラザフはそう考えていた。
 アジャリアはサッタームにクウェートとは別の南部のカフジの街に向わせた。クウェートからは徒歩で二日程の距離である。言うまでも無くサッタームは幻影タサルール としてアジャリアに化けている。
 クウェートの中心からサッタームを離して配置したのは意味がある。
「街は無理に得ようとするな。自分の存在を誇示すれば十分だ」
 クウェートからここまで南に離れていれば、そこから更に南側はすでにメフメト家の目の届く範囲に入る。つまりサバーハ軍とメフメト軍の間に幻影タサルール であるサッタームを置く事で両者を牽制する狙いがある。無論、挟撃される危険はあるが、今のサバーハ軍にその気概は無いとアジャリアは見ていた。ここは前回の撤退で荷隊カールヴァーン が奇襲を受けた場所でもあった。

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2019年7月15日月曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第3章_6

 アジャリア自身はハラドから動かない。だが彼は諜報組織の活動によって、カラビヤート内外の情報を網羅出来ていた。
 アジャリア幻影タサルール 計画は、こうした諜報活動とは別の新機軸の計画である。アジャール家を九頭海蛇アダル にする。アジャール家の版図が胴であれば、アジャリアは頭である。
 体調を崩した際の当座の手当として戦場に出すならば、幻影タサルール は一人居れば足りる。しかしアジャリアの心計はそのようなありきたりのものではなく、九頭海蛇アダル の頭のように各戦場にアジャリア・アジャールを出現させてみたいのである。
 敵にとっては抜け目の無いアジャリア自らが戦場に出てくる事は迷惑この上無く、逆に味方にとっては万人の戦力を得たに等しく、将兵の士気高揚が大いに期待出来る。
 ――アジャリア・アジャールが自ら出陣している。
 全ての戦況において、これを作り出したいとアジャリアは思っている。常にアジャリア軍が十二分の実力を発揮出来れば、押しも踏ん張りも利く。効率よく戦いを進める戦場を想像して、アジャリアの食はまた進んだ。
 ファリド・レイスがサバーハ家からバスラ南の街サフワーンを譲渡された。ファリドに取り損ねたサフワーンをやるのには、バスラから追い出される形となったバシャール・サバーハを無事にバスラに戻して復権させる後ろ盾になってほしいという意図がある。
 以前にファリド・レイスを利用してクウェートに侵攻したアジャリアだが、此度もこれを皮切りにクウェート攻略を再開した。
「あの小僧、わしを差し置いてバスラを取るとは」
 バスラにバシャール・サバーハを帰還させたといっても、サバーハの今の力と、サバーハ家とレイス家が和解した事、ファリドが大手を振ってサフワーンを手中に収めた事を考えると、事実上バスラ周辺の地域がファリド・レイスの支配下になったといってよかった。
 アジャリアはバラザフがファリドを、
 ――若さに苔の生えたような男
 と評したのを思い出した。
「まさにあれだな!」
 自分の事は棚に上げ、それを白い幕で隠して、アジャリアはファリドの老獪さを蔑んだ。若者が老獪さを身につけている事、というより領土獲得で出し抜かれたのが我慢ならなかった。が、自分のそれは許されるのである。
「お前の見立ては正しかったようだ、バラザフ。ファリド・レイスは若さに苔の生えたような男、いや、苔そのものじゃ!」
 さすがにそこまで自分は言い過ぎていないと思ったバラザフだが、アジャリアがレイス軍をバスラ近辺から締め出そうとするのを、その怒気から感じ取っていた。
 ――岩から苔を剥がす、という事なのか?
 そして、クウェートに再度侵攻するという流れになっている。
幻影タサルール の手配はバラザフに任せる。サッタームの準備も手伝ってやってくれ」
 まずアジャリアは弟であるサッタームを幻影タサルール として戦場に出した。幻影タサルール 作戦を知るものはアジャール軍の中でも、ワリィ・シャアバーン、アブドゥルマレク・ハリティ、そしてバラザフ・シルバのみである。

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2019年7月5日金曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第3章_5

 速やかにバラザフの下から、アルカルジの兄達へ遣いが送られた。本家のシルバ家はずっと臨戦態勢にある。
「バラザフを通して、アジャリア様の替え玉を捜せとの指示が出ました」
 手紙を受け取ったエルザフは、アキザフ等に主旨を伝えた。
「戦いに明け暮れる日々が続くでしょう。アジャリア様はついにエルサレムに上る事を決断したようです」
「なぜ、その決断が分るのです」
「それは――」
 普通大将格が幻影タサルール を必要とするのは、身代わりとして本人の命が取られるのを回避するためである。だが、アジャリアはそれを複数人用意せよという。これはアジャリアが軍の多方面展開を意図している事に他ならず、シルバ家がアルカルジで威勢を保ち続けている間に、クウェート、バスラに出征して、レイス軍、メフメト軍とやり合うつもりでいる。これらの戦いにアジャリア・・・・ が前線に出る事が出来れば、味方の将兵の戦意を高揚させ、敵の威勢を抑制出来ると、バラザフは説明した。
「アジャリア様は、通常、守りのための幻影タサルール を攻めの作戦に用いようとしている……。まったく底の知れぬ方です」
「神出鬼没のアジャリア・アジャールが九頭海蛇アダル の頭のように各方面の戦場に出現するわけですね」
 さすがにシルバ家の当主となっただけあって、アキザフはエルザフの説き明かしを飲み込むのも早かった。
「父上、幻影タサルール を攻めに使うというのは我等シルバ軍にも応用出来るのではありませんか」
「それは困難でしょう。頭は増やせても我がシルバ家だけでは胴を俄かに肥えさせる事はできません」
「今はそうでしょうが、手札の一枚として憶えておいて損はありません」
 まだ衰えを知らぬ者の展望の明るさがそこにあった。
「それよりもバラザフ。今はアジャリア様の事です」
 すでに老獪となった謀将アルハイラト は目の前の現実を見通して言う。
「アジャリア様の野心は余りに大きい。ひょっとすると……」
「ひょっとすると?」
「アジャリア様はあのバーレーン要塞を攻略するつもりかもしれません」
「あの難攻不落のバーレーン要塞を!?」
「ええ」
「あの要塞はサラディン・ベイがネフド砂漠の首長等を引き連れて、百万の大軍を以ってしても傷一つ付けられなかったのに……」
 バーレーン要塞はマナーマの西のバーレーン島北部に位置し、ペルシア湾に面している。白い要塞はずしりと体躯を誇り、下でも白く輝く砂が太陽によって輝きその重量をしっかりと支えている。
 ここにはディルムンの古代の港と首都があったと伝わっている。その名に「遺丘」という意味を持ち、建物が建てられる事で砂丘が盛り上がり、時代を経てそれが砂に埋もれてゆく。今のバーレーン要塞の下には古い時代と文化が層を成して眠っているのである。
 燃える水――つまり油はまだ無く、真珠と漁業を産業の主軸としている。
 東西を結ぶ海上貿易の要所として重要性を持つが、その地位は周辺都市の発展度合いによって上下するものである。ここを押さえる事が出来れば、西側の勢力は後は海峡を抜けるだけで東のアルヒンドに進出が可能となり、東側からすれば西へ抜け切って、政治と経済の中心に自勢力の旗を立てられるのである。
 その戦略的に重要な地理条件というものが、年を経るにつれて、バーレーン要塞を自ずと堅牢にさせていった。
「もちろん、アジャリア様も十分それを理解してバーレーン要塞攻略に臨むのでしょう」
 アジャリアの意図を読むエルザフの言葉は確信めいている。
「父上、どうしてそこまで自信がお有りなのです」
アマル ですよ。私もかつては今のアジャリア様のような大きなアマル を抱いていました。シルバ家の領土回復を願っていた時代でさえ、その先があった」
「そのアマル に照らして見たというわけですね」
「そうです。おそらくアジャリア様のバーレーン要塞攻略は撹乱のためでしょう」
 最早、エルザフの中ではアジャリアのバーレーン要塞攻略は確定していた。
「陥落させる事には本気ではない、と」
「我々のクウェート侵攻は去年の時点でほぼ成功していました。メフメト軍に横腹を衝かれない様に、この辺りで押さえ込む必要があります」
「ついにカウシーン・メフメト殿と決着をつけるのですね」
「その前段階としてバーレーン要塞を封鎖してからになるでしょう。その作戦をベイ軍に阻害されないよう、我等シルバ軍はアルカルジを守らなくてはなりません」
「バラザフからのアジャリア様の幻影タサルール 探索の件、急がねばなりませんね」
 アジャリア・アジャールという人は用間の最たる巧者である。
 彼は、争覇の気運が高まると共に、職掌の多様性において発展を遂げていったアサシン達、言い換えると暗殺者カーティル間者ジャースース の糸を引くように使った。敵国での情報収集、国内の民情把握、要人の警護、密書の遣いという具合に分化していった彼らの職掌を細やかに使いこなし、彼らの頭目を信の置けるアブドゥルマレク・ハリティの管轄とした。
 彼らは商人、学者、僧侶、時には他勢力の役人に化けて各地に配置された。その数二千。恐るべき情報量がアジャリアの下に寄せられるのである。

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2019年6月25日火曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第3章_4

 これでほぼ全ての重臣たちが幻影タサルール と分らなかったわけであるから、その効果は十分に実証されたといえる。
 アジャリアの口からは、幻影タサルール 探索の他にもう一つ意外な指示が出た。
「この仕掛けをエルザフ、アキザフに話しておいてくれ」
「わざわざ、父や兄にばらしてしまうのですか?」
「そうだ。シルバ家はアサシンを多く召抱えておる。それならばいずれ露見してから不信感を抱かれるより、真意を伝えておいたほうがよい」
「そうですね」
幻影タサルール の探索にはアサシンを用いてもよい。奴等の技量はこの務めに足る」
 シルバ家を戦力として見込んで方針を立てていたように、シルバアサシンもアジャリアの計画にすでに組み込まれていた。

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2019年6月15日土曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第3章_3

 アジャリアの顔に焦りが見て取れる。言葉を返さず静止を解かないアジャリアにバラザフはさらに押しをかけた。
「貴方はアジャリア様の弟のサッターム様ですね。違和感を隠すための夜間の呼び出しとお察ししますが、どうなのです」
 サッタームを侮っているというわけでもないが、同じ主家筋でもバラザフの尊敬はアジャリアに対するそれほど強くはない。二人の間に言葉は流れないまま、僅かに通る風が燃料灯ミスバハ の灯火を揺らした。
 バラザフの背後の扉の後ろから噴き出す声が二人に沈黙に割って入り、それは大笑となってもう一人のアジャリア・アジャールが部屋に入ってきた。紛れもなく本人の気だとバラザフにはすぐ感得出来た。昨今の体格を以って自ずと威が示される姿である。
 十年以上、つまり今までの人生の半分以上をアジャリアの近侍ハーディル として務めた身である。アジャリアの発してきた気が自分に染み付いているのだ。本人を見分ける事など当然とバラザフは自負している。
「アジャリア様、一応お尋ねしますがこれは何なのでしょうか」
 にやりとしながらバラザフはアジャリアを見た。父エルザフに対するような距離感である。
「さすがはバラザフよ。よく見分した事だ」
 見破られた事がアジャリアには嬉しいらしい。
「主座に居るのがわしではない事ばかりか、正体がサッタームであるのも看破するとは、恐れ入るのう」
「他の者であれば、お戯れと疑われてしまいます」
「いや、普通はそれすら気付かぬのよ。お前が見破ることが出来て安心したわ」
「見破れるかどうか試したと?」
「うむ。お前の言った通りサッタームにはわしの幻影タサルール を務めてもらう。無論、実の弟を無駄死にさせるつもりはないが」
 燃料灯ミスバハ の灯火は今は揺れ動いていない。
「実はわしの幻影タサルール が後何人か欲しい。それでこの仕掛けを見破れるかどうか、一人ずつ呼び出して試していたわけよ」
「それを後ろか覗いていたのですね」
「気付いておったか」
燃料灯ミスバハ の火が揺れておりましたから。隙間風が通っている証拠です」
「参ったな、これは」
 アジャリアの仕掛けを見破れる者でなければ、幻影タサルール となる者を捜す任務を任せられない。バラザフの他には、ワリィ・シャアバーン、アブドゥルマレク・ハリティ、トルキ・アルサウドがサッタームをアジャリアの幻影タサルール と看破していた。が、バラザフの洞察力はアジャリアの予想の上をいっていた。

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2019年6月5日水曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第3章_2

 カーラム暦991年中頃、再びクウェートに侵攻するとアジャリアは宣言した。アジャリアの奇策は家臣たちの虚も衝いた。だが、彼の今回の意図は領土獲得には無い。 
 進発の差し迫ったある夜、バラザフは一人でハラドのアジャリア邸に来るように言われた。呼ばれた事自体、他に漏らすなとも言われている。おそらくクウェートに侵攻に関する何らかの重大な指示があるのだろうとバラザフは予想していた。
 折りしもその夜は新月。この時期の遅い日没を待ってバラザフは、ヒジラートファディーアのシルバ邸を出た。光の無い中、馬で駆けきらなければ、日の出に間に合わないし、朝までアジャリアを待たせるわけにはいかない。急がねばならなかった。
「急に呼び出した済まなかった、バラザフ」
「わざわざ月の無い夜を選ばれたのですね」
「うむ……まあな」
 燃料灯ミスバハ の薄い光に照らされる主人を見て、バラザフは、
 ――おや、
 と思った。
 アジャリア様は最近過食気味で体格が良くなったが、また痩せたのか。それに返す言葉に明瞭な切れが無い。僅かだが遅いと感じる。
「今夜、バラザフとどうしても密語の必要があってな」
「ええ、勿論」
 奇妙ではある。だが、呼ばれて来ている以上、これ自体がアジャリアの意図であると見なければならない。
「前にクウェートに侵攻した際にワシはお前に荷隊カールヴァーン の護衛を命じたな」
「はい」
「メフメト軍のアサシン団に奇襲されたときに、シルバ家で召抱えているアサシンで対応したと聞いているが」
「仰せのとおりです」
 一つ一つ確かめるような聞き方をしてくる。いつものアジャリアのように言外の会話が成り立たない。
 とうとう我慢出来ずバラザフのほうから質した。
「アジャリア様に対して余りに無礼とは存じますがどうかご容赦を。今夜のアジャリア様はいつもと纏われている気が違います。」
 微かに揺らめいていたアジャリアの気がぴしりと静止した。
「貴方はアジャリア様の幻影タサルール なのでは」
 アサシンの中には任務のために隠密タサルール という術を用いて、姿や音を消す者がいるが、バラザフは目の前のアジャリアが偽物であると見て、わざと幻影タサルール という人として認定しない言葉を使った。幻影タサルール という役目は言葉通り、消される・・・・ 事が多いからである。

※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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