2021年3月5日金曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第5章_10

  バラザフは風を切って本陣から出てくると、

「フート。ファリドの動向を正確に掴んできてくれ。少しでも情報を得たら報告に戻るように」

 フートが部下を連れて風となって消えた。

 一人のアサシンが情報を持って戻ってきたのは、およそ一刻後の事である。

「敵の諜報部隊の主将は確かにファリド・レイス自身です。そして副将がイクティフーズ・カイフ。シャトルアラブ川を川沿いに下りハンマール湖の北辺りにまで来ています」

 ナジャルサミキ・アシュールの部隊は三万。今ではアジャール軍の中で最強の軍団である。ナジャルサミキはバラザフからその旨を受けて、全軍に臨戦態勢に入るよう命じた。

 バラザフとナジャルサミキが待ち受けている事をファリドは知らない。二万の将兵を率いて偵察だというのに警戒無く進軍してくる。バラザフの方は川辺の少し窪んだ場所に部隊を待ち伏せさせていた。弓隊を準備してある。

 ファリド・レイスという人物は慎重かつ粗忽な人物で、この時はその粗忽さがもろに現れて、偵察部隊の先頭に自身を置いていた。

 ――ヒュッ!

 と、ファリドの頭上に風を切る音が聞こえた。鳥梟の類であろうと上を見たレイス軍が、風切りの音の主が飛矢だとわかった時、すでに彼はすでに矢の雨の中でそれらを浴びていた。

 驚いたファリドは馬から転げ落ちて這い蹲って逃げようとしたが、この矢の雨の中、どちらに行けば命を拾えるのか全くわからない。ファリドの頭上から飛矢が襲いかかったとき、近侍していたイクティフーズ・カイフが外套アヴァー をファリドの上にかざ し、電光石火の速さで引いた。鏃が外套アヴァー に刺さった瞬間に、横に引き、害を免れる、達人にのみ出来る神技しんぎ であった。

 が、外套アヴァー に次々と矢が刺さり、この状況も長くはもちそうにない。イクティフーズはファリドを庇いながら後方を退いていった。其間、周りの兵士達の身体に弓矢が突き刺さり、次々と斃れてゆく。

「イクティフーズ! 最早生き残れん。武器を取って前に出るぞ!」

 イクティフーズの必死の護衛にもかかわらず、ほぼ絶念したファリドは喚いた。

「戦況をよく見られよ! 味方は敵の矢でほぼ全滅、前に進んでも冥府の門しかありませぬ。このイクティフーズがここで持ち堪える故、ファリド様は下がって命を拾われよ!」

 ファリドを叱咤すると、イクティフーズはファリドを馬上に戻して馬をはし らせた。あとは馬に任せる他無い。

 恐慌に陥っているレイス軍に、バラザフは騎馬兵を率いて斬り込みをかけた。さらにバラザフの後からアジャール軍最強のアシュール軍が騎馬部隊を前にして突撃をかける。

 砂塵が巻き起こり河川に沿って流れ、レイス軍を覆う。さらに水の方へ下りて、ざくざくと濡れた砂地を蹴り、アジャール軍がレイス軍を襲った。

 川辺に満ちる音は、鯨波、吶喊、馬が飛沫をあげる音、いなな き。バラザフは、退いてゆくレイス兵を掃討する形で、両手の諸刃短剣ジャンビア で、手当たり次第に斬り捨てていった。

 進むバラザフの前に一人の騎士が行く手を塞いだ。

「我が名はイクティフーズ・カイフ! これ以上進むとあらばここを貴様の死地と成すぞ!」

 ここまで退きながら猛攻を撃退していたイクティフーズの部隊が俄かに反転し、追撃してくるアジャール軍目掛けて反撃に駆けた。

 バラザフとイクティフーズ、それぞれの得物がすれ違いざまにぶつかり火花を散らす。

 両者は馬を反転させ、刃を交える事、五合、六合――。だが、息を弾ませながらも両者ともまだ馬上に在った。

「アジャール軍の謀将アルハイラト バラザフ・シルバ。その諸刃短剣ジャンビア 共々忘れぬぞ!」

「ファリドの槍、イクティフーズ・カイフか……。こちらもその名は忘れぬ」

 そして、バラザフは辺りの照顧を促すように、

「この混戦では互いに一騎打ちなど出来る状況ではない。勝負は次に預けておきたいと思うが」

「我はファリド様をお逃しするのが即今の使命。ここで決着をつけぬも異存なし。次までに死ぬなよ」

 と、イクティフーズは散らばっている兵を纏めて隊列を整えて押し寄せてくるアシュール軍への防備の姿勢を見せた。バラザフも自分の配下を集合させると、アシュール軍に合流した。

 互角に見えていた両者の戦いだったが、バラザフの方はかなり息も乱れ、後数回、刃を合せていれば、イクティフーズの槍がバラザフの心の臓を貫いていたかもしれなかった。

 戦場で敵同士という形で初めて顔を合わせた二人であったが、後に世代が代わった時、バラザフの長子サーミザフが、ファリド・レイスの孫娘を娶り、ファリドから領地を認められる事になるのだが、この娘の父親がイクティフーズ・カイフなのである。

 この時点でイクティフーズ・カイフ、二十四歳。バラザフ・シルバ、二十六歳。

 イクティフーズ・カイフは若さに似合わず、この撤退戦で類稀なる指揮能力を発揮した。自身が古今無双の勇将であったという事もある。

 単隊での防衛は柔らかき所を衝かれると、一瞬の内に部隊が壊滅する。だが、イクティフーズは徐々に部隊の戦力を削られながらも、持ち堪えて見せた。

 ファリドが視界から消え、戦線を離脱出来たのを確認すると、攻め来るアジャール軍に後退攻撃し、反撃しつつ撤退を成功させたのである。

 このイクティフーズ戦いぶりを見ていた、敵であるアジャール軍からも褒め称える声が聞こえてきた。


 ――ファリド・レイスに神は二つの勿体無い恩寵を与えた。

 ――イクティフーズ・カイフと彼のカウザ だ。


 この言葉が、やがて全体の歌となり戦場に響いた。


 ――ファリド・レイスに神は二つの勿体無い恩寵を与えた。

 ――イクティフーズ・カイフと彼のカウザ だ。


 イクティフーズのカウザ には二本の角が飾られていた。その飾りの角が炎を象形しており、それが彼の武威を一層華やかに衆目に映した。イクティフーズの優れている武具はカウザ だけではなく、彼の持つ槍もそうなのだが、この戦いではアジャール軍はその鋭さを殆ど味わわないで済んでいる。

 ファリドを逃す事には成功したレイス軍ではあったが、どの道崩壊を免れる道は無さそうである。押し返そうにも衆寡の差は明らかで、残された兵力も疲弊しきっていた。

「掃討戦のさらに掃討戦だ。退却するイクティフーズ・カイフの部隊に追撃をかけて、ファリド・レイスもここで討ち取ってやる」

 もはや勝ちの見えた戦いに、ナジャルサミキは意気込んだ。勢いがアジャール軍に味方している。

 戦いには慎重さをもって臨むバラザフだが、アシュール軍の追撃には賛成である。

 バラザフが部隊と共に駆けようとしたとき、後方で戦いの太鼓タブル が打たれた。だが、それは突撃を意味するものではない。退けというのである。

 ――なんだとっ。

 バラザフもナジャルサミキもこの撤退指示が信じられない。後方を見遣るとアジャリアの言葉を持って走り回っている伝令が見えた。

「アジャリア様から言葉を伝えに参った!」

 バラザフとナジャルサミキの姿を遠方より認めて伝令は声を張り上げた。

「追撃はならぬ。死を覚悟した敵を追えばこちらも無用に痛手を被る。二人の手柄此度はこれで十二分、との事である」

 伝令は、アジャリアの文言をそのまま伝えたようである。

「無理を承知した……」

 ナジャルサミキは不満をあらわにしたが、アジャリアの絶対命令を無視する事は出来ない。全軍に退却指示が出された。

 同じようにバラザフも配下に退却を指示するとともに、損害状況の調査を命じた。

「負傷者、二十名。戦死者は一人もおりません」

 その言葉はバラザフを安堵させたが、今度はアシュール軍の損害の方が気にかかる。

「アシュール軍、負傷者、一千名。戦死者、百五十名」

「レイス軍の損害はどうか」

「まだ詳細は把握しきれておりませんが、戦死者、五千名。負傷者は、ほぼ全員かと」

「確かに十二分な戦果だな」

 そして、配下を代表してフートに、

「今回の戦果はシルバ・アサシンの働きによるものが大きい。皆に分け与えよ」

 と、金貨を与え、

「肉もその他の食料も我が隊の荷隊カールヴァーン の分は好きにして良いぞ」

 と大盤振る舞いをした。

「俺がもっと出世して領地を殖やせたら、フートにも城邑アルムドゥヌ の一つくらい持たせてやりたいと思っているのだ」

 この時、遠くで雷鼓が鳴り震天して伝わってきた。空を見上げると、紫電が光るのが見えた。暗雲が立ち込めて、地上に雹雨をもたらさんとしていた。

「冷えそうだな。アジャリア様のお身体が心配だ。また体調を崩されなければよいが」

 バラザフの意図に反して、暗雲は刻々と深まってゆく。

 バラザフは身につけている武具の重みを感じた。初陣のとき初めて武器を持ち鎧を着たとき感じた重みではない。


 ――疲れたな。


 そして、いやな暗さだと思った。

 次に脳裏には、今日戦ったイクティフーズ・カイフの姿が浮かんだ。身も心も強い武人だった。あのままやり合っていれば、武技では確かに自分はあの男には敵わなかったはずだ。

 ここまで猛進してきたバラザフの歩みが少しだけ緩んだ。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。


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