2021年12月5日日曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第7章_3

  バスラはシャットゥルアラブ川の右岸にある港湾都市である。穀物や棗椰子タマル などの輸出港でもあり、都市内に整備された運河が、バスラの産業製品である棗椰子タマル の品質向上にも役立っている。

「この城邑アルムドゥヌ は北にシャットゥルアラブ川が流れているから向こう側から攻撃するには無理がある。南のバスラ運河沿いに布陣してじっくり攻めるしかないな」

 バラザフは今回の戦いでは、城邑アルムドゥヌ の包囲は有効な手段ではないと考えていた。

「敵味方ともに、このバスラ運河が攻防の鍵となる。敵の弱った部分を見つけて商人のダウ船で渡河できれば、そこから一気に攻略が進むのだが」

 だがカトゥマルはバラザフを参謀としては採用しなかった。

「今回の戦いはテミヤト殿の能力を十二分に活かしたい。諸将もテミヤト殿の指揮下に従属するものとする。シルバ殿は、レイス軍、フサイン軍の動きを注視し、別働隊として臨機に対応してもらいたい」

 という具合にテミヤトを前に推していた。

 主戦闘から外れているバラザフだったが、その間にも彼の脳は戦略的な思考をやめない。

 ――アサシンの能力を活用し、新たな部隊を創設出来ないか。

 この方法論をずっと探っていた。

 アジャリアが世を去り、カトゥマルの代になったと同時に、世界にも新時代が開かれていくのではないか、という予感がしていた。そして、新時代に適応出来るアサシンが要る。

 ――情報を獲得しなければならない。

 そして、

 ――そこに速さが求められる。

 つまり、

 ――アサシンをもっともっと増やさなくてはならない。

 アサシンを活かしきって、敵を掻き乱すには、獲得した情報をアサシン部隊の中でさば けなくてはいけない。とすると――、

「アサシン部隊自体に頭脳が必要だな」

 どこの軍団でも個々の力量によって情報を集めるようなアサシンは必ず居た。それを部隊として連携した戦法を取れるようになれば、戦力は格段に向上するはずなのだ。

 メフメト家のシーフジンの軍団の事が、バラザフの脳裏に浮かんだ。だが、シーフジンはメフメト家に抱えられているとはいえ、棟梁モハメド・シーフジンが動かしている軍団である。バラザフが志向するのは、シルバ家の一部隊としてのアサシン軍団の設立であった。

 バラザフは、リヤド、アルカルジなどを中心にしてアサシンの人材を広範囲に募るようにシルバアサシンの長のフートに命じた。このとき、部隊としてのアサシンを欲しているバラザフが求める人数は千人は超えていた。

 この時期、ハイレディン・フサインは火砲ザッラーカ を大量に導入した新たな軍団編成を目指していた。今まで弓兵で編成していた部分にも火砲ザッラーカ を装備させて、武器の扱い方に慣れさせる練兵の手間を大幅に削減した。火砲ザッラーカ は扱い方さえ覚えさせれば、鍛錬の必要はかなり少なく出来るからである。この頃ハイレディンが導入した火砲ザッラーカ の数は一万以上であった。

 しかし、未だ小城邑アルムドゥヌ を拝領しているだけのバラザフには、ハイレディンのように火砲ザッラーカ を自前で導入するとか、職業軍人を常に抱えておけるような力は無かった。

 小領主の身の丈に合った部隊編成、新戦法の開発をするより道は無い。

 バラザフの部隊創生の主軸には、アサシンを十二分に活かすというものがある。戦術には正奇の二つがある。将兵を使って普通に戦うのが正に据えるとすれば、バラザフの創案にあるアサシンを使った戦いは奇の位置に置かれる事になる。正奇の相まって戦いの勝利に安定性が生まれる。

「つまりだな、フート」

 アサシンの長にバラザフは、アサシン軍団創生を実際事例を前に置いて説明を始めた。

「今、カトゥマル様がバスラの城邑アルムドゥヌ を攻城しているだろう。そして、バグダードからハイレディンがレイス軍に援軍を出してきたとする」

 フートは、いつもはあまり無駄な口を開かない主人の言葉に熱がこもっているの感じて、興味深くこれを聞いていた。

「手薄になった敵の城邑アルムドゥヌ にアサシンを五百人くらい潜入させて、あちこちで放火すると敵はどう出ると思う」

「残った守衛部隊が出てきますな」

「その通り。詰め所から出撃してきた所を、城内に埋伏させておいた者に攻撃させる。この役に二千名ほどをあてておくのだ。伏兵に慌てた守衛部隊は一旦退却するはずだ」

「そうですな。なるほど見えてきました。そこから刺さりこむのですな」

「その通り。詰め所や本部に退却する敵兵に紛れて、こちらの兵を入り込ませて中を攻撃する。援軍を出している間にバグダードの城邑アルムドゥヌ は陥落してしまうという絡繰からくり なのだ」

「なるほど、これは我等アサシンが培ってきた力の撰修せんしゅう といえるでしょうな」

 バラザフの戦術をフートがこう評したように、今語られた戦い方はアサシンのこれまでの戦い方の総纏めである。アサシンの力を認め、これまで以上の活躍の場を与えようとしてくれている主人にフートの好感は素直に上がった。

 反面、複雑さも増すだけに、目的到達には誰も経験した事の無い険しさがある。創生するとはそういうことである。

 具体的には、今までの稼動単位が一人、または数人の集団だったものが、軍団に格上げされることで兵卒の部隊と同等の連携度が求められる事になるはずである。

「軍団になるといってもアサシンは奇で、歩兵、騎兵が正だ。正が主軸になるのは言うまでも無い。フートは面白くないかもしれないが、絡繰からくりの部品のような動きをしなければならないのは今までと変わらない。敵からも味方からも情報を集めてきて、それを捌く。その情報を活用して敵をかき乱し、正の者を巧みに勝たせる。名誉は得られないが重要な役割なのだ。これが今後のシルバ家の戦法となっていくであろう」

 このバラザフの言葉が、バラザフの子供達のこれからの戦い方も決定する事になった。

 特に次男のムザフ・シルバは父バラザフがつけた道を轍のように通って、最初の情報収集、次の段で後方撹乱をして、多勢に無勢という戦いでも勝ちにつなげてゆく型を確立していった。

 ハイレディンの火砲ザッラーカ の運用度を上げた軍団編成は、すぐに各地の勢力で模倣されてゆくが、バラザフのこの正奇両用の新たな軍略は、バラザフにしか運用出来ず、万人による模倣はとても適うものではなかった。アサシンの力を余すところ無く引き出す部隊の新編は、大量の火砲ザッラーカ が火を噴くような派手さはなかったが、シルバ家個有の戦術になった。

 至急、フートはバラザフの求めに応えるべく、リヤド、アルカルジを駆け巡り、新軍団に入隊する面々をバラザフの前に連れてきた。

 それぞれのアサシンがすでに百名ほどの配下を持っている。

「シムカ・アブ・サイフと申します。元はアジャール家に抱えられていたアサシンで、その後、御父上のエルザフ・シルバ様の配下となりました。梶木の名のとおりシーフジンにも劣らぬ速さと自負しております」

「シムク・アルターラス。得意技は、隠密タサルール 。姿を消して城に忍び込みます。元エルザフ様の配下です」

 バラザフの前に並ぶ顔には見慣れた者もあった。フートと一緒に戦ってきたフート、クッドサルディーンアジャリースアスカマリィ の面々である。さらに、

「ロビヤーンと申します。周りから何故か海老ロビヤーン と呼ばれておりました。城内を撹乱する技を持っております。エルザフ様に雇われた事も十五回ほど」

「ハッバール。煙の烏賊ハッバール 。墨ではなく煙で姿を隠します」

「ルブスタル」

「ジャンブリ」

「大海老と小海老であります」

 ルブスタルの方が付け加えた。この二人は配下を連れていなかった。

「我等の特技も移動。そして砂や木に潜む事もできます」

「ロビヤーンとは何か繋がりがあるのか?」

「いえ、フート殿の命名にて、特に関係は。アサシンは名前が隠れればそれでよいかと」

 その後、彼等を何気なく観察していると、実際の兄弟かはさておき、ルブスタルが兄、ジャンブリが弟として親密に行動しいるらしい。

 そして、最後にバラザフの前に出てきたのが、

「おお、ケルシュ殿も我が軍団に参画してくれたのか」

 バラザフもケルシュは顔見知りの仲であった。自然とバラザフの顔にも笑みが浮かぶ。ケルシュはリヤド周辺の集落出身で、アジャール軍でアサシン団を束ねる棟梁の一人だった事もある。

 配下を敵の城に潜入できるように育成し、自分も潜入能力には長けていた。アサシンの中の古豪である。アジャール家中の身分からいえば、バラザフと同等か、それよりもやや上の人物である。

「俺が今動かせる配下は二百名。どいつもそれぞれ異能を持った奴ばかり。フートから話を持ちかけられて、面白そうだから乗らせてもらった。俺が選んだ者達、皆、バラザフ殿を満足させられるはずだ」

 明瞭だが遠くに響かず、余人に漏れない。そんな声である。

 バラザフは最初の稼動人員を千名として、アサシン団を抱える事にした。そして、アサシン団の長を二人置いた。一人はケルシュ、もう一人は今までと同様、フートを任命した。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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2021年11月5日金曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第7章_2

  カーラム暦996年中頃、カトゥマルはアジャリアの弟のサッタームをアジャリアに偽装し挙兵した。本人不在の幻影タサルール 作戦である。

 この挙兵はアルカルジに攻めてきたサラディン・ベイに対するものである。サラディンはアジャリアの生存を疑わしく思い、一度叩いてみて出方を確かめてみようというものであった。これと同時に、ハイレディン・フサインがバグダードから再び勢力拡大に動き始めていた。

 アルカルジでは病に伏しているエルザフの跡をバラザフの兄アキザフが継いでいた。そのアキザフよりこれらの急報を含めた報告が入ってきた。

「サラディンもハイレディンも、なめたまねをしてくれる。戦ってみればアジャリア様の生存がわかるというのなら、それでは勝てぬのだと教えてやろうではないか」

 これには諸将も異論無く一つにまとまった。煽るようなこの二者に対して応戦せぬでは、アジャリアの死を悟らせてしまう事にもなるからである。

 カトゥマルは、二つの戦線を同時にさばく事とし、アルカルジとバグダードに向けて出兵した。陣中のサッタームはアジャリアである事になっている。

 ――アジャリア・アジャール自ら出師。

 この報をどう判断したかは明らかにせず、サラディンの方は武器をおさめて馬を返して去っていった。

 カトゥマルは、アルカルジに出していた軍を転進させて、バグダードの方に向かわせた。こうした転進を織り交ぜた行軍こそがアジャリアの模倣なのであった。

 カトゥマルの当主としての戦争は緒からいい具合に運んだ。アブラス隊とともにアキザフ・シルバが先陣を駆けてフサイン軍を縦となく横となく蹴散らして勝利した。

「見事だ。さすがにシルバ家は当主がかわっても相変わらず強い」

 カトゥマルは本陣でアキザフ等の活躍を見ていて、そのとき近侍していたバラザフにも信頼を込めた笑みをおくった。カトゥマルの笑顔にバラザフも素直に頷いた。

 ――カトゥマル様ほど戦場で嬉しそうな顔をする方もいないな。

 人が死ぬ戦場で、溌剌としているカトゥマルを見て、彼の真の居場所のようなものをバラザフは感得していた。

 ハラドにいるときの最近のカトゥマルは沈鬱な表情を浮かべていることが多い。その重苦しさが、戦場に出ていると一切感じられない。戦場に出ると要らぬ苔を削ぎ落としたような清清しさになるのである。

 バグダードからハイレディンが出たときにはカトゥマルはすでに着陣していた。

「以前より速くなっているではないか。アジャリア殿の死は虚報に違いない。いや、こうして惑わす事がアジャリア殿のやり方だった気もするぞ」

 カトゥマルの迅速さにハイレディンは驚き、恐怖すら芽生えつつあった。

 カトゥマルがアジャリアを模倣出来たのは速さばかりではない。兵力を消耗しない、アジャリアらしい策略を駆使して、フサイン軍、レイス軍の城邑アルムドゥヌ を時間の後先もわからぬほど、どんどん飲み込んでいった。

「強くなっている。アジャリア様の御霊が乗り移ったかのような強さ」

 カトゥマルの強さにはバラザフも驚いていた。これまでは猪突な大将としか思っていなかっただけに、カトゥマルの統率力、指揮力を見直さざるを得なかった。と同時に、今では九頭海蛇アダル の頭の一つとなっているバラザフは、すぐ横の一番大きな首を無意識に好敵手として凝視していた。

 本陣でカトゥマルを見つめていると、カトゥマルの戦術のアジャリアと僅かな違いも浮かび上がって見えてきた。カトゥマルのやり方は、押せると見たら徹底的に押して敵を下す、押しの強い戦いである。アジャリアと比較すると、このやり方は蛮勇といえるかもしれない。

 勇猛果敢である事はそれ自体が強さである。だが、突き進む強さが強ければ強いほど、敵の刃に触れる回数も圧倒的に跳ね上がる。

 ――やはり戦場でのカトゥマル様は危うい。

 バラザフの危惧をよそに、カトゥマルは目の前の壁を砕くかのよう戦い方を続けた。

 今回、バラザフは監視役としてカトゥマルの本陣で、諸将の賞罰を管理していたので、前線に出ることは少なかったが、カトゥマルの用兵で戦列に入る事も多少あった。

 敵の小規模な城邑アルムドゥヌ は、千人ぐらいの戦力して持っていない。

 敵の正面に前線の兵士を当てて、バラザフは配下を三百人率いて城邑アルムドゥヌ の裏に忍び寄った。配下の中にはシルバアサシンの長、フートの顔もある。フートは城邑アルムドゥヌ の中を調査して、警備が薄い所から潜入して、混乱の渦に陥れる。

 城邑アルムドゥヌ 内の混乱が最高潮に達したあたりで、バラザフと配下が裏門を一気に叩いて突破し、中になだれ込む。ここで無駄な斬り合いが発生しないよう、投降する者を受け入れられるように、バラザフは配下をしっかり統率した。この辺りがバラザフが諸将と比較して抜きん出て巧みな要素といえた。

 部隊の統率者が討たれれば兵士は動けなくなる。そこを狙い目に敵の隊長格の者を見つけて倒し、敵味方の損害を最小限に抑えるのである。

 敵将の獲物がバラザフの諸刃短剣ジャンビア で防がれたときが、もう片方の諸刃短剣ジャンビア で敵将が討ち取られるときであった。

「隊長は討ち取ったぞ! 命を粗末にせず投降せよ!」

 投降を促すとともに、敵将の血のついた諸刃短剣ジャンビア をこれ見よがしに掲げる。

 このやり方で投降しない敵兵はいなかった。これがバラザフの小規模戦闘での勝利の型として出来上がっていた。

 いかにすれば戦意が高揚するのか、低迷するのか。アジャリアの軍に従軍して戦場にてそれを肌で感じ取ってきた事が、将軍としてのバラザフの能力の形成につながっていた。

 バラザフは夜戦にも強さを発揮した。

 ――夜に敵が奇襲にくるぞ。

 城邑アルムドゥヌ の内側に潜入した数人の間者ジャースース 達は、方々で吹いて回って守備兵の恐れを喚起し、各所に放火した。

 城邑アルムドゥヌ の混乱が高まると間者ジャースース 達は離脱して、次にバラザフを先頭に少数の強兵が襲い掛かる。

 小規模な城邑アルムドゥヌ は、この手口で落とされたものが多かった。

「カトゥマル・アジャール。アジャリア以上に恐ろしい大将だ。たった三日でこちらの城邑アルムドゥヌ が二十も奪われた」

 カトゥマルの猛攻にはハイレディンといえども手出し敵わず、バグダードに篭って今はこの勢いを見極める他なかった。

 この戦いの間、アジャール家中におけるカトゥマル立場が強くなっていた。

「戦場の真中においてこそカトゥマル様は活きるのだ」

 バラザフがそう思ったように、戦場ではアジャール家はカトゥマルを中心にひとつにまとまった。しかし、ハラドに帰ると主君の不在を守っていたモグベルなどの側近派閥が大きな顔をするようになって、戦場ではカトゥマルに引き付けられていた古豪派閥の家臣等との亀裂がまた表出してしまう。

 これはカトゥマルの意思で古豪との溝を作るというよりも、側近派閥に融和性がないゆえに出来てしまう溝なので、カトゥマル自身では処置のしようがなかった。

 こうした溝を埋めるためにバラザフは、またカトゥマルを戦場に置こうと考えた。

「今のカトゥマルには勢いがあります。今のうちにこれを活かしてナーシリーヤ方面の攻略を再開しては」

「うむ。正に我が意である。アジャリア様が落とせなかった城邑アルムドゥヌ も、今の俺ならば可能であろう」

 と、カトゥマルも強く同意した。

 ところが、この出征にシャアバーン、ハリティ等、古豪派閥の家臣は、表向きはアジャリアが生存している事になっていて、目だった行動をする事によって、アジャリアの死が外にもばれてしまう危険が高まる事を理由に反対した。それでもカトゥマルが強く出征路線を打ち出してくるので、古豪派閥もこれに折れるしかなかった。

「シルバ。今回はテミヤト殿に先陣を任せようと思う。異論はあるか」

 今までバラザフと呼んでいたのを、カトゥマルはシルバ・・・ と呼んだ。無意識的に幼馴染という関係から抜け出し、公の人間になっていた。また、先鋒を・シャアバーン、ハリティにしなかった事も、カトゥマルが戦巧者である事を表していた。

 ――カトゥマル様は本当に戦争の事になると神がかる方だな。

 バラザフは、カトゥマルの采配と戦いでの神智に感心していた。

 出征の方策をカトゥマルから求められたときの案として、テミヤトを先鋒に推す事はバラザフも考えていた。クウェート方面のある小さな城邑アルムドゥヌ をテミヤトが領地として与えられていた事が理由の一つ。もう一つは、先鋒を古豪派閥ではなくアジャール家親族派閥から選任する事によって、家中でのテミヤトの格を上げて、なおかつ先のように戦争によってアジャール家がまとめる事を見込んだためである。カトゥマルの意図もこれに異なる部分は無かった。

 かつてアジャリアとの関係がそうであったように、カトゥマルとバラザフの関係も黙したまま互いに了解出来る領域が多い。幼馴染だからこそ分かる距離感というものはあるものである。

 テミヤトの部隊を先頭にアジャール軍がバスラに雪崩れ込んだ。アジャリアは生前、バスラ方面も鋭意攻略してきたが、バスラの城邑アルムドゥヌ 自体には手をつけてこなかった。バスラからファリド・レイスの本拠地であるナーシリーヤまで、西北西に約二日の行軍距離である。ナーシリーヤやクウェート等を繋ぐ、主要道の交点でもある。

 ――エルザフ・シルバ、危篤。

 ハラドを発つ直前にアルカルジからバラザフのもとにこの報せが入った。不安が無いといえば、それははっきりと嘘である。だが、バラザフは表情には出さなかった。

「父上の快復を祈る」

 とだけバラザフは兄アキザフにあてた手紙を送った。しかし、この手紙がアルカルジに着く前に、父エルザフは病にて霊籍の人となっていた。数日の後、シルバアサシンによって父エルザフの死がバラザフに報告された。

 アジャリアの死。父エルザフの死。敬愛した二人の、続いた二つの大きな死は、バラザフの心に大きな衝撃を与えた。一方で人の命の有限と、あらゆる命に死は避けえぬ宿命なのだという事も二人の死から学んだ。

「アジャリア様は限りある命を生き切ると言っていた。その中で何を成すかが大事であるとも。死を意識して尊き命を巧く運んでいかなくてはな」

 あの時のアジャリアの言葉の意味がわかり始めていた。


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2021年10月5日火曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第7章_1

  バラザフの所に弟のレブザフが来た。

「兄上、アジャリア様が亡くなったとの噂を聞きました。数年の間、自分の死を秘すようにアジャリア様に言い残したとも。兄上なら全て知っているのでは」

 アジャール家の武官として役に就いているレブザフであったが、アジャリアの死を知らされる身分ではなかった。だが、この隠匿はあっけないほどの速さで家中に拡散しつつあった。それでもカトゥマルも含めて重臣等は、

 ――アジャリア様は病気で療養中である。

 と、かたく なに外にも内にもアジャリア生存を装い続けた。

「レブザフ。アジャリア様を死んだ事にするとは不敬である。アジャリア様は病気。そして療養中だ。それが現実なのだ」

 この間にも公ではアジャリアが出なけばならない式典等が発生する。こうした時、式典の場には弟であるサッタームがアジャリアの席の腰を下ろす事になった。

 ――アジャリア様は病気の中、強いて公の場に出ている。

 という現実を作り出すためである。

 数年の間、自分の死を秘すようにとアジャリアは遺言した。この数年という時間を、家臣の間では三年の間と認識して、これを共有する事となり、サッタームをはじめとするアジャリアが創った幻影タサルール 達を、本人が出るべき場所へ出していた。

 一応、形の上ではアジャリア体制を維持している一方で、アジャリアのたった一人の後継者であるカトゥマルが、アジャール家での発言権を強めていった事は自然な流れだった。同時に、サッド・モグベルなどの自分の側近が重きを成すような、人材配置にしていった。

「彼らは知恵もあるし、血筋もよい。政治力も申し分ない。だが、その政治力に比重が偏るゆえ、戦術的な思考の出来る古豪のシャアバーン、ハリティ、オワイラン殿と溝が生じてしまう」

 バラザフの口から懸念が漏れた。

 自分にとってはカトゥマルとは、主家でありながら親友だと思っていた。お互いに自分の考えを言い合える距離で過ごしていたので、最近のカトゥマルが事あるごとに側近の力で解決しようとして、古参の武将との間に立ち入れない一線を引いてしまっているように見えて、危うきを感じていた。

 カトゥマルの母はリヤドの太守の娘である。母の生家であるリヤドで育てられたカトゥマルは、アジャリアの長男アンナムルが死んだ後、アジャリアの後継者となった今でも、アジャール家内では、「リヤド太守カトゥマル・アジャール」の印象がどうしても強く残っている。

 この印象のためにアジャリアが亡くなってカトゥマルが新たな当主になっても、言い得ぬ違和感を皆に持たれてしまうのである。

 カトゥマルが家臣団からぞんざいに扱われたという事は無かった。だが、モグベルなどの側近の台頭に不満を持つ家臣は徐々にこの頃から増え始めていった。

 バラザフは、この亀裂を傍観することにした。

「俺は実際の執事サーキン の役を賜っているわけではない。カトゥマル様のためになる事、アジャール家のためになる仕事だけを考えていればいいのだ」

 と早い段階で自分の立ち位置を定めていた。そうする事が亡きアジャリアに対する自分の報恩であると信じていた。

 他方で、カトゥマルの側近たちはそうは考えなかった。カトゥマルのため、アジャール家のためと考えるより先に、

 ――いかにカトゥマル様に自分をよく見せるか。

 ――自分の出世のためにカトゥマルの出方にどう処世するか。

 という腹の中に金貨の受け皿を備えているような勤め方をしていた。主人の恩寵によって急に位が上がった者によくある思考である。

 アジャリアの時代は、九頭海蛇アダル の頭は、長の頭によって統率されていた。家臣団の中で臨機に頭に数えれる者が替わるにせよ、ばらばらな動きはしていなかった。

 ところが、カトゥマルの代になった途端、カトゥマル側近の派閥、古豪の派閥、そしてテミヤト、アシュール、アブラスといったアジャール家親族の派閥に分かれた。大きな派閥はこの三つなのだが、九頭海蛇アダル の頭には首の細いものあり、目鼻の無いものありで、九頭海蛇アダル と形容するに相応しくない態になりつつあったが、さすがに酒樽の頭を突っ込んで酔いつぶれているものは無かった。

 親族派閥は、古豪派閥に肩入れしたら、次の日は側近派閥の肩を持つというような安定感の無い動きをして、側近派閥はカトゥマルの視野を塞いで家中の裁定から遠ざけようとした。

 カトゥマルに耳ざわりのよい言葉だけを入れて、側近派閥の支配権を拡張しようという、これまた王座に寄生する者にありがちな型であった。

 カトゥマルの目は閉ざされても、バラザフの目からは全体が見えすぎるほど見えた。

 ――側近派閥は欲得剥き出しでうんざりする。

 こうした思いをバラザフは内に抱え込んでおく他無かった。

 昔のバラザフとカトゥマルであるならば、歯に衣着せる事なく考えを言い合えた。せめて自分が一歳でも年長であるならば、衷心を以って諫言する事も出来たろうにとバラザフは思う。

「アジャリア様が作ろうとしてアジャール家は、こんなものではなかったはずだ」

 早くも巨星が堕ちた弱りがアジャール家に見え始めていた。


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2021年9月5日日曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第6章_6

  アジャール軍は野営のこの地から動かぬまま、新旧の年を遷った。カーラム暦995年になってすぐ、アジャリアは床から重い身を起こして、全軍に再出発を命じた。

 主君の病みと、長期による野営で動けぬまま倦み始めていた三十万の将兵は、進軍と聞いて歓喜の声を上げた。

「アジャリア様の快癒、我等家来共は皆喜んでおります」

 アジャリアの病状の重さを知らぬ一般の仕官は、再出発の命がアジャリアの快癒を意味するものととらえてカトゥマルに賀辞を贈る者も少なくなかった。ウルクの遺跡でレイス軍に勝利した時の賑わいが久々にアジャール軍に戻ってきている。

「次の目標はルマイサだ。皆には、わしのせいでルマイサを目前にして歯がゆい思いをさせて済まなかった。ルマイサは包囲して飲み水を断水させれば陥落までさほど時は要さないだろう」

 再出発の軍議で諸将を安堵させて、アジャリアは彼が指揮鞭としている革盾アダーガ の柄を高々と振り上げた。

 この動きの切れに主君の威信を感じた三十万の将兵は大きな川となってルマイサを目指した。さほど遠くない行軍である。

 ルマイサの太守は四千の兵で城邑アルムドゥヌ に立て篭もっている。

 アジャリアは出発前にルマイサを断水させると言った。いつも通り城邑アルムドゥヌ を包囲して、周囲の水源から隔絶させる他、地下から空洞を掘って井戸水を抜く手筈になっている。城外で普通の井戸の深さまで掘り進めてから、次に横に掘ってゆく。掘った所から水がしみ出てくれば当たりである。当たるまで範囲を拡げて掘ってゆくのだ。

 井戸水の断水作戦に加えて、アジャリアはこの穴を攻撃に利用しようと考えている。サマーワ攻撃の際にハリティとシャアバーンが警戒していた事を、今回は自分達がやってみようというのである。そのため今回は最初から採掘職人を連れてきていた。

 これと似た方法に坑道戦というものがある。相手の砦、城邑アルムドゥヌ の地下へ空洞を掘り進み、空洞を支えていた柱に火をつけて重さで下に落とす。あるいは火薬で爆破して施設を崩壊させる作戦だが、今回は掘った穴から兵士を侵入させようとしているので、これとは似て非なるものである。

 わざわざ採掘職人に仕事させて、作戦の手間をかけるのは、この手法でれば落城させるのに、敵味方の将兵の消耗を極力回避出来るからである。

 アジャリアは動かない。ルマイサを包囲したまま、採掘職人達が空洞を掘り終わるのをじっと待っている。敵の兵力は四千、たった一押しすれば済む事だろう。しかし、アジャリアはそれをしようとせず、一ヶ月の間辛抱した。

 この一ヶ月は待つ一ヶ月であると同時にアジャリアの病にも進行の時間を与えてしまっていた。

 バラザフの目に映るアジャリアは日を追うごとに痩せてゆく。それどころか小さくなっていくようにすら見える。

 ――これではエルサレムに上るなど夢想ではないか。

 バラザフの中でその思いが日々に増幅されていくのも無理からぬ事である。

「バラザフ、ルマイサは落とせたか」

 アジャリアは野営地で病臥して、意識が戻るとバラザフにこう尋ねる。一日一日がこれだけになっていた。

「あと少しです。採掘職人達が良い仕事をしておりますゆえ」

 答えるバラザフの方ではこれが定型句になっていた。

 冬の最中、一ヶ月の時間をかけて、アジャール軍はルマイサを落とした。城邑アルムドゥヌ の将兵らはほぼ無抵抗で武器を捨ててアジャール軍の縛についた。同時に――、

 アジャリアは死を隣にして冥府の門の前で眠っていた。

「これはいけませんね……」

 アジャリアの加減を診た侍医は首を横に振った。

「アジャリア様の今の病状では、これ以上進むのは限界です。ハラドに帰還するのがよろしい。ゆっくりとです」

「バラザフ、主だった将だけ秘密で集めてくれ」

「承知」

 アジャリアの意識は戻らない。食事を一切摂ることが出来ず、体中の肉が落ちきっている。戦況を尋ねる言葉ももうその口から発せられなくなっていた。

 カトゥマルの命で本陣に合議のため諸将が呼ばれた。

「エルサレムを目指すのはこれまでではないか」

 まずアブドゥルマレク・ハリティがアジャリアの重篤を理由に撤退案を出し、何人かもこれに賛同する者があった。

 ワリィ・シャアバーンはここまでを黙って聞いている。

「ナーシリーヤを抜いて、サマーワ、ルマイサを得てここまで来れたのだ。バグダードさえ攻略出来ればエルサレムまでの道が通ったも同然。アジャリア様には養生していただくとして、先鋒だけで行く手を片付けてゆくのはどうであろうか」

 言葉は穏やかながらナワフ・オワイランは継続路線を主張すると、これへの異見がサイード・テミヤトの口から出た。

「アジャリア様の意識は戻られぬままだ。ここで養生していただいても快復の望みは薄い。ハラドまで、せめてリヤドまで戻って療養に専心していただくのがよい」

 これにカトゥマルが我が意という風に大きく頷いた。

「カトゥマル様のご存念を家臣にお示しください」

 バラザフがカトゥマルに促すと、諸将の視線が一斉にカトゥマルに注がれた。

「私も帰還第一と考える。ハラドに戻って療養していただきたい。ハリティ殿、テミヤト殿と同じ意見である」

「これで合議は決定ですな」

 バラザフがカトゥマルの言葉が総意となるように閉めた。だが、ここで初めてシャアバーンが口を開いた。

「ハラドに戻ってアジャリア様の意識が戻られた時に、何と伝えたらよいか。アジャリア様の意識が無いうちに勝手に撤退した事になってしまうからな……」

 シャアバーンの言葉に対して、誰も何も言えなかった。アジャリアの病状を鑑みれば帰還が正論だが、名目上、指揮権上ではシャアバーンの言葉もまた正論なのである。それぞれが一国を束ねてもやっていける程の頭脳から出された意見だけに、それぞれの言葉に聞くべき理があり、道は容易には定まらなかった。

 諸将を沈黙させてしまったシャアバーンが再び口を開いた。

「ハラドへの帰還が諸君の決定であるのならば、私がアジャリア様に、エルサレムまで後少しと報告しておく」

 刹那、

 ――一体何を言い出す!

 という全員の視線がシャアバーンに集まった。

「アジャリア様に嘘を報告するとおっしゃるのか」

 血の気のひいた顔でナジャルサミキ・アシュールが、皆の不安を言葉に表した。

「然様。だがそれしか道はあるまい。アジャリア様は図西とせい を諦めない。一方、我等家臣団は一度ハラドに帰還し、アジャリア様の養生を第一として、再度、エルサレムを目指すべきと考えている」

 シャアバーンは、この流れで相違無き事を、一旦確認するように諸将を見回すと、

「ここはアジャリア様を騙してでも御身体を案じるべきであろう。虚偽のとが は、このワリィ・シャアバーンが一切引き受ける。重大な決定である故、合議が一つにまとまらねばならぬ。合議の流れが帰還という方向だから、私もそれに従うまで。後は諸君もこのシャアバーンの嘘に合わせて上手く装っていただきたい」

 最早、これに異見を述べる者は誰も居なかった。シャアバーンがアジャリアに嘘を報告するという事に、最終的に皆が黙ってそれを認めた。エルサレムとハラド、進退いずれにしてもアジャリアの命脈は途中で尽きてしまうであろうと、口にこそ出さないものの誰もが思っていた。ならば、

 ――騙してでもアジャリア様の渇望を満たしてあげたい。

 アジャリアはつくづく家臣に愛されていた。

 アジャリアの本営に極力に作業が悟られぬよう、アジャール軍は静かに撤退を進めた。

 サマーワから三週間、行軍と野営を繰り返し、アジャール軍はリヤド近くまで戻ってきた。深夜、

「バラザフ、バラザフはいるか……」

 意識の戻ったアジャリアはバラザフを呼んだ。

「アジャリア様。バラザフでございます」

「バラザフ、今どこまで進んでおる」

「カトゥマル様のご活躍でバグダードを陥落させ、逗留しているところです」

「なるほど……。ではカスピ海も近いということだな」

「そのとおりです。行軍は順調にて、アジャリア様のご心配には一切及びません」

 そう答えるバラザフの目には涙がたまっていた。

「ご苦労であった。心配ないようだな……」

 アジャリアは、再び深い眠りに入っていった。

 季節は春らしくなっていた。あちこちで花が顔を見せ、雨でできた水地には駱駝ジャマル が水遊びをする姿が見られた。

 明日にはリヤドという所まできて、アジャリアは意識を戻し、

「花を見せてくれまいか……」

 と近侍ハーディル の者に乞うた。

 シャアバーン、ハリティも傍に近侍していて、駕籠パランクァン の帳をまくった。カトゥマルも隊をとめて傍まで来ていた。

「ああ……。やはりリヤドの菜の花は美しい」

 視界に広がる瑞々しき春の黄に迎えられアジャリアは感嘆をもらした。

 一同、くず折れて地に手を突いて嗚咽と共に落涙していた。

「アジャリア様……」

「ああ。わかっていたよ。リヤドの菜の花の顔は少しやさしいのだ」

 アジャリアの身体を支えるバラザフの手が震えた。満面の黄に童子トフラ のように素直に喜ぶアジャリアは、本当に小さくなっていた。

「わかっていたとも。わしは初めからわかっていた。だが、知らないふりをしてきた。お前達のわしへの思いやりを受け取らなければ無粋だからなぁ……」

 アジャリアの顔には満面の笑みが浮かんでいる。

「ああ……。風が、すずしい……」

 一点の濁り無き幸福感がアジャリアを包んでいた――。


== カーラム暦995年 ==

アジャリア・アジャール、リヤドから冥府に入る。

享年五十三歳。


 バラザフがこよなく敬愛したアジャリア・アジャールは冥府の籍の人となり、同時にバラザフの心の中を占めていた大部分が虚ろな穴となった。

 だが、バラザフは冥府の呼び声によく耐えた。

「俺がアジャリア様の遺徳を護る。俺が自分で考えて、俺がやるんだ」

 この試練と決意がバラザフの人となりをさらに練った。

 エドゥアルドとズヴィアドを失った時も、辛さが骨身にしみた。だが、今回の痛みはそれ以上だ。心のばねを強くせねば押し潰されてしまいそうだった。

「昇ってやる。上に昇ってやるぞ。地位も実力も、全てだ!」

 バラザフ・シルバ、二十七歳。才溢れるこの若き将は、ここまで得たものが多かったかわりに、失ったものも多かった。

 バラザフの息子達は二人ともハラド生まれ、ハラド育ちである。長男サーミザフ八歳、二男ムザフ七歳。二人は父の涙をまだ知らず、ハラドで無邪気に遊んでいる。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。


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2021年8月5日木曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第6章_5

  冬はただアジャリアに寒さに耐える事のみを強いたのではなかった。冷え込んだ日々の中にも、季節は暖かで穏やかな表情を見せる事もあり、それがアジャリアとバラザフが二人で話せる安らぎの一瞬であった。

「アジャリア様の人材を見極める目をご教授下さい」

「一つある。それは生命だ」

「生命……」

「うむ。東方に馬の生命力を観て名馬を見分ける目利きがいたという。その者の眼中には雌雄の別無く、毛並みの色も無く、肉付きも関係無い」

 語るアジャリアの真諦しんてい を捉えようとバラザフは必至に食い入って聞いている。穏やかな光に包まれたアジャリアはバラザフにとってはまさに賢哲であった。

「近づいてよく観てみるのだ。一方で闇であったものが、また一方では光となる。強い生命力は伸びて、広がってゆく」

「闇も用い得るのでしょうか」

「闇に目を凝らすと、その中に明るい闇と、暗い闇がある。カトゥマルは猪突で先行き不安であるが、武人としては有能であるといえよう。また、シャアバーンやハリティのような古豪の名将であっても、見方によっては暗く見える事もあろう。人を人材として選り分けるのではない。その生命力を伸ばしてやるのだ」

 バラザフはアジャリアの途方も無い深さと高さを知った気がした。正直、今までアジャリアに付随するように学んできた自分が、ここに至って新たな物を得られるとは思っていなかっただけに、遠ざかる流星を追っているかのような心地がして、追いつこうとする心がここで折れてしまいそうで、バラザフは必死に心中で暗闘した。

 神話では九頭海蛇アダル は首を斬られてもその傷跡から首がいくらでも生えてくるために、傷跡を焼かれて倒された。バラザフはこの無限に生え続ける九頭海蛇アダル の首の一つになっているつもりでいた。長たる首は勿論アジャリアだが、自分もそれに並んでいると感じていた。だが、バラザフに真諦しんてい を語るアジャリアは九頭海蛇アダル の胴体から離れて、光を帯びて流星のごとく天駆ける至高となろうとしている。

 アルハイラト・ジャンビア。アジャリアの知恵を後継した者としてバラザフは後にこう称され、九頭海蛇アダル という喩えも徐々に彼の息子に対する言葉へと遷ってゆくのだが、その彼も今はまだ流星の尾をかろうじて掴まんとする追尾者なのである。

「アジャリア様の用人の真諦しんてい 、このバラザフの生涯の宝とさせていただきます」

 とバラザフはここで一呼吸置いた。追うからには消えて見えなくなるまで追いすがって得られる物を全て得なくてはならない。

「さらにもう一つお尋ねしたいのです。いえ、もう一つというより、もう一度戦術の根底を教えていただきたいのです」

 離れた首は流星となりやがて消え行く。だが、九頭海蛇アダル さえ得ておけば、自分が胴体になっていれば、いずれ首は生えうるとバラザフは思い始めている。

「戦術の根底には三つ」

 すなわち――、頭脳、謀計、戦術と、戦術の根底の中で戦術自体の優先度を一番最後に据えた。

「剣を振るのは最終手段だとおっしゃるのですか」

「勿論だ。謀で敵を陥れずとも、剣によって相手を沈めずとも、言葉によって安鎮がかなう事がこの世に多々あるが、世人には気付かれ難いものなのだ」

 攻城においても、強攻めする以前に言葉で敵の投降を促し、次の手段として謀計で敵を無力化して、最後の最後に強攻め力攻めするものである。先の手段を尽くした上で強攻めが活きるという事でもある。

「バラザフ、兵を率いる将軍に知恵があれば兵は活かされる。国家を構成するものはそれぞれ家族であり、家族を構成しているのは個々の人なのだ。当たり前であるが故に常に気に留めておかねばならぬ事である。構成する人が居なくなれば国家は国家たりえなくなる。民族もな……」

 ここまでバラザフに言い聞かせて、アジャリアは瞑目し、深く長い息を吐いた。会話による疲労がアジャリアを克しつつあると感じたバラザフが礼だけして下がろうとしたとき、アジャリアの問いがバラザフを呼び止めた。

「バラザフ、お前のアマル を聞かせて欲しいのだ」

 バラザフは、かっと目を見開いた。アマル という言葉にアジャリアの中に確かに父を見た。あの時持っていたアマル は今も心中に確かに在る。

「私の、アマル は――。未来を視る眼を欲する事。それが私の幼少の頃よりのアマル でした。渇望し、その方向を向かい歩み続ける強さが必要であると、父に説かれました」

「やはり、エルザフは正しい。わしは、未来を視る眼とは、自分が見たい未来を視る眼だと思う。未来を視たいと皆が思うだろう。未来が視得れば多く富めるからだ。だが、その富の意味は人によって違う。視たい未来も異なる。わしが視たい未来。バラザフの視たい未来。少しずつ人によって違うはずだ……」

 バラザフはアジャリアに微笑んでいた。静かに、穏やかな動作でアジャリアのもとを辞するその笑顔からは涙が一筋だけ流れていた。

 冬の日和は柔らかくアジャリアを包んでいた。遠ざかってから振り返るバラザフには、アジャリアの日和を楽しむ姿が、童子トフラ のように無邪気に、そして、小さく見えた――。


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2021年7月5日月曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第6章_4

  ファリドはただひたすら馬にしがみついていた。その主人を乗せて馬はただひたすら駆けた。

 ――ここで落馬したら終わる。

 それだけがファリドの思考を支配していた。

 ――火砲ザッラーカ の爆音が聞こえてくる。

 ――今、弓矢が耳を掠めていかなかったか。

 死の淵に立たされ、ファリドの耳には幻聴が鳴り響いていた。

「あの者は槍で刺されて死んだ。あの者は頭を割られて死んだ。皆、死んだ……、死んだ……、死んだ……」

 目の前で近侍ハーディル 達が戦死していく光景がむざむざと脳裏によみがえってくる。掃討のため追ってきていたアジャール軍の騎兵はいつの間にか一人も居なくなっていた。

「もう暮れていたのか。光も見えないし、寒い……」

 ひとまず身の危険が去った事を知ったファリドは、ここでようやく周りの夜を感知した。替わりに今度は緩慢なる恐怖がゆっくりとファリドの心身に染み入ってくる。

「死んでいない。辛うじて命は拾えたようだ」

 すでにファリドの傍には誰一人、近侍していない。

 ファリドを仕留めようと追撃していたバラザフは、レイス軍の歩兵、騎兵により度重なる妨害によって、標的を見失っていた。

「また逃げられた」

 バラザフの方もファリドへの猛追が失敗に終わったのに気づくと、今度は宵闇が意識されて、身の危険を感じ始め焦りが生まれていた。

 命からがらナーシリーヤへ戻ったファリドは、

「城門は閉めなくともよい……」

 と力無く奥へ引き取っていった。

 ファリドが生還してから程無くして、暗き空を震天させる太鼓タブル の轟音と共に、追撃のアジャール軍がナーシリーヤに姿を現した。

 これから攻城に掛かろうと思っていたシャアバーンとハリティが城門を見れば、松明に照らされて開け放たれているのが認められた。

 どうせこのまま立て篭もっても寡兵では守り通せぬと諦めて、篭城の構えをとらなかったファリドだったが、このやるならやってくれという態度が、シャアバーンとハリティには、

 ――レイス軍に策謀あり。

 と映り、ナーシリーヤを攻略せず、二人は隊を退かせた。

 ファリドが生還したナーシリーヤに遅れて「ファリド戦死」の報が入ってきた。この報を受けた将は当然、ファリドの生還を知っているので、誤報もたらしたこの伝令を怒鳴り飛ばしたが、戦況が戦況だけに叱責はこれにとどめた。

 この将はこの一件をファリドに上げなかったが、どこからかこれがファリド自身の耳に入った。

 ファリドはこれを怒らなかったし、ポアチャも吐き捨てなかった。後にファリドはこの一件を「ファリド戦死」の宗教文字で自分の顔を象らせた独自の貨幣を造らせて、自身への戒めとした。

 ファリドの負け戦に巻き込まれた形となったハイレディン配下の将軍のマァニア・ムアッリムは、アジャール大軍を見た瞬間に恐怖に支配され、一度は前線に出るも、敵を一合もせずに部隊を退かせて、バグダードに向けて逃げ戻ってしまった。

 宵闇の前に見えていた黒雲は水滴を成して地表へ落ち、続く水滴は次第に冷たさを増して雹となった。

 今回もレイス軍は負け、アジャール軍が勝った。だが天が与える冷たさは両者に公平である。

 翌朝までに雹と雨は去った。宵闇の幕で覆い隠されていた地上の冥界が、昇る日によって徐々に曝され始めた。

 闇は人が見なくてもよい物を隠していてくれた。数多の肉塊となってしまった物に、沙漠狐ファナカサクルネスルハダア の中の屍食の者等が群がっている。それらの口に入っているのは殆ど、レイス軍の将兵である。

 レイス軍の戦死者は一万三千。負傷者は五万にも上る。

「我が軍の被害状況はどうであった」

「死傷者、計四千名との報告を受けております。私の目視でも同程度と思われます」

 戦後の被害を確認するアジャリアにバラザフは答えた。ファリドの追尾の過程で受けた傷から血が流れていた。軽傷だがその数は多い。

「治療のため負傷者を後方に下げよ。死者の弔いは念入りにしてやり、家族への年金を忘れぬよう。家族が軍籍にある者は格上げさせてやるように」

 バラザフの配下は負傷した者が多少いたものの、戦死者は一人もいなかった。

 ウルクに陣を張ったままアジャリアは次の一夜を野営してから、サマーワの城邑アルムドゥヌ に入った。

 次の日、サマーワから北へ向けて進発し、半日ほど進んでルマイサの辺りにさしかかった所でアジャリアの部隊が急に止まった。

 バラザフはアジャリアに呼ばれた。本陣ではアジャリアが横たわっていた。

「ここまで進んで来てしまったが、エルサレムにはまだまだ届かない。身体が重くて地に引かれて前に進む事が出来ないのだ。悔しいが、しばらくここで駐留する故、皆にそう伝えるように。すこし戻ればサマーワだが……、それすら動く事もかなわぬ」

 この先のルマイサを攻め取る予定であったため、シャアバーンやハリティが先行していた。彼らに早く情報を伝える必要がある。バラザフは、役は賜っていないものの、実質、アジャリアの執事サーキン としての働きをこなしている。

 バラザフがアジャリア本陣から出て行く時に、丁度、カトゥマルが呼ばれて入ってきた。

「アジャリア様の病状は?」

「前向きにとらえる事はとても出来ない状態かと」

「進軍は続けられぬのだな」

「ここで駐留するとの事でした。とても動ける状態ではありません……」

 カトゥマルがアジャリアの陣屋に入ると、侍医までもが陣屋の外に出された。

 ――いよいよ重大な話をするに至ったのだ。

 と、バラザフは察した。

 これ以降、アジャリアの体調は行きつ戻りつ、病魔とじりじりした闘いを続けていた。

 今は冬である。冷え込みは厳しく、砂漠であっても雪が降る事がある季節なのだ。そして寒さは日増しにアジャリアの体力を奪っていった。

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2021年6月5日土曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第6章_3

  ウルク――。サマーワの東のワルカ遺跡は、かつてそう呼ばれたユーフラテス川沿いに成立した都市国家であった。神話の時代ともいえる旧年より幾度の興亡を繰り返したウルクは、最後の衰退と共に都市が放棄され、今は城郭が残るのみである。

 アジャール軍を追ってここまでやってきたファリドは、アジャールの軍隊が視界に見当たらないので、サマーワに帰還したものだと判断した。

 そしてサマーワの包囲戦に入るためウルクに野営を張って、火砲ザッラーカ の手入れを急がせた。今まで煮え湯を飲まされてきたアジャール軍に一泡吹かせてやる機会巡り来たとあって、ファリドを始めレイス軍の将兵はこの包囲戦に乗り気であったが、フサインの援軍の士気はいまいち上がらない。

「サマーワから迎撃隊が出てこないのだ。アジャリアめ、俺が怖気づいて追ってこれないと思っていやがるな」

 兵士たちに昼食を与え、武具の手入れも入念に行わせ、満を持して、

「強者とて慢心すればこうなるのだ!」

 ファリドが自ら鬨の声を上げ、包囲を号令した瞬間――、レイス軍は九頭海蛇アダル の腹に飲み込まれた。


「何だ。何が起こっているんだ!?」

 これからサマーワの城邑アルムドゥヌ を包囲してやろうと息巻いていた矢先、レイス軍はアジャール軍にぐるりと取り囲まれた。軍の外縁から兵が討ち取られる悲鳴が数多聞こえてくる。あんぐりと口を開けて周りに忙しなく頭を回すファリド。だが、その頭は、虚ろに開かれた口から指示を出させる程には機能していない――。

 状況が飲み込めぬまま死にゆくレイス軍に反して、アジャール軍の方では、バラザフが気にしているのは戦況よりもアジャリアの体調の事ばかりである。

「冷え込んできた。雨が降ってきそうだな」

 この出征中に体調を崩してから、一度もハラドに帰還していないのである。 

「体調はいかがですか、アジャリア様」

「わしはこのとおり元気だぞ」

「一度ハラドに戻られて休まれるべきかと」

「うむ、ひと段落ついたらな。今はあのファリドの小僧を相手するのが楽しい」

 この会話の間に、アシュール隊からの偵察からバラザフに情報が上げられた。今はバラザフはアジャリアの執事サーキン に等しい存在である。

「アシュール隊からファリド軍の陣容を報告してきました」

稲妻バラク であったと?」

「はい。アジャリア様の稲妻バラク を真似てサマーワを包囲するつもりであったようです」

 次にはフートも報告に入ってきた。

「我が軍がファリド軍を包囲して、稲妻バラク が崩れたというのだな?」

「そのとおりです」

「偽装退却の際にアシュール隊を最後尾にしていたのだ。ファリド軍は最初からアシュールの強兵に叩かれる事になろう」

 聞く前から報告される内容が全て分かっているかのようなアジャリアである。

 アジャール軍は陣容の先を尖らせるように変形させ、並列錐ミスカブ の形をとって、アシュールの強兵が敵陣を穿つ格好となった。その左右には統率力の強いハリティ隊、シャアバーン隊がきて、さらにその後ろに武勇で鳴るカトゥマル隊、オワイラン隊が続いている。

 レイス軍はサマーワを包囲してアジャール軍を干上がらせるつもりであったが、気づけば自分たちが囲まれていた。此度こそ勝ち戦だと思っていたのに、いつもどおり包囲されて風前の灯になっていた。

 レイス軍の騎兵ファーリス は、なんとか血路を開こうと決死の突撃をかけるが、先陣のアシュール隊に易々と討ち取られていった。

 アジャリアの手から指揮鞭代わりの革盾アダーガ が振り下ろされた。戦いの太鼓タブル が響いた。

 ――そのまま押せ。

 という事を全軍に伝達しているのであるが、その響きにはアジャリア軍の余裕が感じられる。

 アシュール隊の投擲部隊二千名が前に出てタスラムを投げつけた。これに当たったレイス軍の騎馬兵が数百名落馬した。

 投擲部隊はタスラムを投げ終わると後ろへ引き、次に火砲ザッラーカ 隊が前に出て炎を敵に浴びせた。

 レイス軍にも火砲ザッラーカ は配備されてはいた。だが、これから包囲する局面を想定していただけに、レイス軍の火砲ザッラーカ は後ろに控えていて、そのまま自分たちが包囲され密集状態によって火砲ザッラーカ は封滅されてしまっていた。

 完全に弱り目のレイス軍に対してアジャール軍は容赦せず、弓隊から矢の雨が注がれた。レイス軍の円の中心に矢が刺さってゆく。

 太鼓タブル の拍が短くなった。ついに、

 ――総攻撃。

 である。

 空も大地も紅く染まっている。

 この状況では総攻撃の太鼓タブル も、アジャール軍にとっては宵祭りの始まりを合図しているようなものである。

 今アシュール隊と正面で剣を交えているのは、レイス軍サーズマカ・ゴウデの部隊である。ゴウデの部隊は一万二千。押しつぶされそうな所まで押し込まれたものの、ここに至って奮起し、アシュールの部隊を押し返し始めた。

「いいぞゴウデ。もっと押し込め!」

 ゴウデ隊の勢いを見てファリドは、調子付いて命令した。

 だが、このゴウデ隊の勢いすらもアジャリアに仕組まれたものだった。

 ゴウデ隊が徐々に押して優勢になるように見せたのは、アジャリアの計画であり、ゴウデ隊を本体から隔絶させる狙いがあるのだが、レイス軍は全くわかっていなかった。

 アシュール隊が徐々に後ろに引いて退却すると、そこにシャアバーン隊四万五千が出てきて突出したゴウデ隊を包囲した。

 シャアバーン隊の特徴は駱駝騎兵である。砂地で機動に優れる

駱駝騎兵は狙った獲物は逃がさない。ゴウデ隊は一人、また一人と確実に数が削れてゆく。

 このゴウデ隊の死地にイクティフーズ・カイフが救援に駆けつけてきて、シャアバーン隊の横腹を突く形となった。

 受け持ちが一隊増えて、苦戦になりそうなシャアバーン隊だったが、アジャール軍からはハリティ隊が出てきて、シャアバーン隊の後方から追突撃を仕掛けた。

 最初に包囲を意図して敷いたレイス軍の稲妻バラク も、死の雲の中で虚しく霧散しようとしている。

 この乱戦にレイス軍から後詰の二隊が参戦して、乱戦の度合いはさらに深まっていった。

「アジャリア様、このバラザフも前線へ出させてください!」

 武人たちの熱き戦いを遠目に、むらむらとし始めたバラザフはアジャリアに自身の出陣許可を願い出た。

「まったく。初陣の若造でもないというのに。だが、お前のたぎ る血をこのまま抑え付けておくのも酷というものか。よかろう。その諸刃短剣ジャンビア の刃を敵の血で染めて参れ!」

  アジャリアはバラザフの戦意を飼い殺しにはしなかった。バラザフは素早く馬上に上がり、配下に号令した。

「見てのとおり夜戦となる。友軍相撃に厳に注意し手柄になりそうな敵を狙っていけ。命を無駄にするなよ!」

 馬で駆けて進むと、カトゥマルやナワフも前線に参戦する所であった。

「バラザフも来たか!」

「いかにカトゥマル様といえども戦場での獲物は譲れません」

「その壮語、後で後悔するなよ。アジャリアの剣の切れ味を後ろで眺めているがよい!」

「なら実力差を埋めるのが公平だ。先に行かせてもらいますよ!」

「あ、こら! 待たんか!」

 馴れ合いながら共に馬を進めて、カトゥマルとバラザフはレイス軍のボクオン隊に遭遇した。敵の側面である。

 まずバラザフが諸刃短剣ジャンビア で斬り込んだ。バラザフに斬られた騎馬兵が馬から落ちると、配下の兵がこれにとどめを刺す。さらにもう一人上等な武具の者を見つけてこれに切り込み、馬から下りて一対一で戦い、二、三度刃を交え、バラザフの諸刃短剣ジャンビア が相手の頚を一閃した。

「先に取られたか!」

 バラザフが先に手柄を立てたのを見てカトゥマルは悔しさを隠さなかった。二人とも純粋のこの競争を楽しんでいた。

 バラザフが次に探すのは、さらに立派なあの二本の角が飾られたカウザ である。イクティフーズ・カイフとまた勝負したいとずっと思っていた。だが、あの二本角のカウザ は視界には見つからない。この間にもバラザフの眼前ではレイス軍の騎馬兵が次々とアジャール軍の刃にかけられて戦死してゆくが、好敵手を求めて視線をはし らせる彼の眼には全く映っていない。

 と、イクティフーズ・カイフを捜しているその眼にレイス軍の本陣が見えた。

「カトゥマル様、レイス軍の本陣が見えました。ファリドの首を頂く好機! 一応お教えしましたので先に行かせてもらいますよ。では!」

 バラザフはファリドの本陣目掛けて疾駆した。今度はカトゥマルも待てとは言わなかった。敵軍の大将は目前である。味方同士の手柄争いで戦機を崩しては何の得にもならない。だが、

 ――あえて譲る必要もない。

 バラザフを追う形になってカトゥマルも駆ける。この二人が率いる数万も主達に付いてファリド本体に突撃した。

 こうした前線の熱気は後方で指揮するアジャリアには感得出来ない。不動、諜報よりの報告を受けて、自軍が疑いなき優勢にある事のみを知る。それだけでよい。

「バラザフは楽しんでおるか」

「は。カトゥマル様と一緒に駆けておられます」

「戦場は馬の遠出ではないぞ、まったく」

 責任ある将という身分なれば蛮勇は本来忌むべき事である。だがアジャリアは内心この二人の武人としての能力を愛していたし、次期当主となるカトゥマルと、その片腕になるバラザフの親交が良好である事も嬉しく思っていた。

 バラザフは駆けてファリドの本体に迫る。ファリドの近侍ハーディル が主君を護らんと、槍で突きを入れてくる。今、バラザフの獲物はファリド一人で、他は避けてファリドとの距離を近づけていった。

 ファリドを護衛していた近侍ハーディル 達の屍が徐々に増えてゆく。

 ――ここで戦死してやる!

 頭の熱くなったファリドは、馬に飛び乗って乱戦の中へ単騎駆けしようとした所を、一人の家臣が身体を張って制止した。

「我が命ファリド様のために散らせて見せます。ですから、ファリド様はナーシリーヤまで生き延びてください!」

 そう言うとその武侠ともいうべき家臣はファリドの馬をナーシリーヤへ向けて疾駆させた。

 このファリドの戦線離脱がバラザフに見えていた。

「ファリドが逃亡した! 皆、追って討ち取れ!」

 そう味方に檄を飛ばして、自身が先頭を切ってファリドを追撃しようとしたバラザフだが、レイス軍の槍兵が横一列に並んでゆく手を阻んでいる。

 だが、踏みとどまるべきこの状況で、バラザフは槍兵の列に突っ込んだ。まさに蛮勇というべき力で手近な敵兵の槍をへし折り、突破口の開けた瞬間、後ろから味方の部隊がレイス軍の槍兵の列を押し潰していった。

「戦場では戦機こそ大事。流れがこちらにあれば、そして慢心しなければ、流れには裏切られないものだ」

 近侍ハーディル として仕えていた頃よりアジャリアの傍で戦場で培ってきた経験である。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。


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2021年5月5日水曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第6章_2

  塔に上ったファリドは三十万の大軍が威風堂々としてこちらに向かってくるのは見つめている。そこには不安も彼と共にあったが、そればかりでなく恐怖が彼の闇の近侍ハーディル として憑いていた。だが、傍にいるのは彼の不幸を見物している闇の存在のみならず、最大の味方、最良の友、若きイクティフーズ・カイフがそこに一緒に居てくれている。

 季節は冬に移ろうとしている。降雨の前兆である肌に沁みる風が吹いてきて、空には黒雲が立ち込めてきた。

 アジャリアは伝令を走らせた。

「ここで一転する。全軍を西へ向けよ!」

 ナーシリーヤの手前まできて、三十万のアジャール軍は反転して西へ行軍し始めた。

「わけがわからない……」

 アジャール軍三十万のナーシリーヤで迎え撃つ悲愴な覚悟決めていたファリドは、一変、自分を眼中から掃ったかのように背を向けて戻っていくアジャリアの行動を見て、呆然とした。

 戦わずに済んだ安心よりも、むしろ理解不能な事態に混乱を深めた。

「帰ると見せかけて迂回してナーシリーヤを包囲するつもりでは」

 とファリドは色々と思慮を巡らせずにはいられなかった。

 だが、まさにそれこそがアジャリアの意図する所であり、元々気の短いファリドの頭に着実に疲労感を溜めさせていたのである。

「なぁ、イクティフーズ。アジャリアは何を考えているんだ。我々を怯えさせたと思ったら、今度は無視して帰っていくぞ。また包囲されるかもしれんし、どう対処すべきなのだ」

「アジャリアが奇行に出るときは、裏に策略があるときです。ファリド様が読んだとおり包囲の可能性も十分ありえます。どちらにしても今は動くべき時ではありません」

「そうだな。今は静観が一番だ。そうだそうだ」

 焦る自分を抑え込むようにファリドはイクティフーズの言葉を自分に納得させた。

 この時点ではファリドは篭城の構えを解かずに、九頭海蛇アダル の巨体が通り過ぎてくれるのを、ただただ静かに待とうと思っていた。

 ところがハイレディンから派遣された援軍の態度がファリドを逆上させた。

「無駄死にせずに済んだ。ハイレディン様から戦闘は不要と言われていたが、アジャリアが仕掛けてきていてたらレイス軍の道連れになるところだった」

 こう安堵の声を漏らしたのはハイレディン配下の将軍のマァニア・ムアッリムである。さらにマァニアは自分の兵士に武具を解いて休息するように言って臨戦態勢を解除してしまった。

「アジャール軍に無視され、さらには味方の援軍であるフサイン軍まで俺を侮っている。ここまで馬鹿にされたらアジャール軍と戦わねば怒りが収まらん!」

 もはやファリドの怒りは、いつものようにポアチャを齧るどころではなかった。

「イクティフーズ!」

 ファリドは大声で叫んだ。

「アジャリアの奴は俺たちが追う意地など無いと思って無防備でいやがる。味方まで俺が戦わないと思っている。あの厭味な後姿に齧り付いてやらねば気が済まんのだ!」

 ファリド・レイスは普段は家臣の言葉を重んじる性分である。だが一度頭に血が上ると、隠れていた猪突な性格が顔を出す。

 ――またファリド様は冷静さを失っておられる。

 イクティフーズや普段から傍で仕えている家臣らには、ファリドの頭が熱でやられているのは見ただけでわかるのだが、ファリド自身は、自分が、

 ――今この時も戦機を読んで判断し、的確な指示を出しているのだ。

 という方向違いの自信を持っていた。

 イクティフーズは、今レイス軍がアジャール軍と交戦した場合、敵のいいように痛めつけられる事は必至であるから、ファリドの血気を抑えるべきであるし、彼自身そう判断していた。だが、ファリドのように表情には出さないものの、アジャール軍の人を馬鹿にした態度はイクティフーズ自身も相当頭にきていた。

 よって、主君と共に死に花を咲かせるつもりで、

「ファリド様、今こそアジャリアの傲慢な背中に齧り付いてやりましょう。一気に中央を衝けば、あるいは穴を開ける事も可能でしょう」

 と出撃に従った。

 一方、アジャリアはアジャリアで、

「バラザフ、わしは三年間ファリド・レイスに持ち続けてきた陰鬱をここで叩きつけてやるつもりよ」

 と、すでに陣容を整えて息巻いていた。ファリドを引っ張り出して、それこそこちらのいいように痛めつけてやるつもりでいたのである。

 ファリド・レイスはこれまでアジャリアの戦略であるバスラ、およびクウェート攻略を、ベイ家やメフメト家と同盟して阻害してきた。それがアジャリアの言にある三年である。

 時、乱世となれば領土獲得の機会は平等である。だが、アジャリアはそうは考えていなかった。平等であるという事は当然頭でわかってはいるが、彼とファリドの間にその平等は有り得ないというのがアジャリアの価値観である。

 これを言葉ではなく感覚として持ち続けているだけに、アジャリアのファリドに対する怒りは粘りを含んだしつこさがあった。

 こうしたアジャリアの人間臭い本音はバラザフに対してのみ吐けるもので、バラザフの方でもアジャリアの言葉の裏に、臭いを嗅ぎ付けるのが半ば習性となっていた。

 アジャリアはいつものようにファリドの小僧・・ とは言わなかった。そこにファリド自身のみならず、レイス軍全体を邪魔者と認定して、一斉排除しようとする血生臭さをバラザフは微かに感得したのである。アシュールと一緒に、レイス軍を蹴散らそうとしたとき、すんで の所で制止したのも、ここで一気に痛めつけてやりたかったからなのだとわかった。

 そして、

 ――稀に残虐性を見せるものだな。

 と、この頃ようやく気づき始めていた。

 アジャール軍が態勢を整え直したときに、サイード・テミヤトの部隊を先陣に配して、その後ろに荷隊カールヴァーン を従属させた。その後ろにアジャリア本陣を配置して、その左右にはカトゥマル・アジャール、ナワフ・オワイランの部隊を置いた。

 今回はファヌアルクト・アジャールにも別働隊の一隊を任せている。その左右を、最早アジャール軍の編成の定石となったアブドゥルマレク・ハリティ、ワリィ・シャアバーンの二人の古豪で固めて、若い将を補うように配慮した。

 そしてナジャルサミキ・アシュールを最後尾に配置して、アジャール軍は悠々と進軍していった。

 後ろから背中を見ていたファリドの目には、腹を満たした九頭海蛇アダル が余裕の態度でのしのしと巣穴に戻っていくように映った。

「あのまま西へ進んでサマーワに帰るつもりだな。いつも俺は囲まれてばかりだから、アジャリアがサマーワに入城した瞬間に今度はこちらが包囲してやろうか」

 ファリドはアジャリアが優勢をたのみに隙を見せているのだと思い込んだ。だが、背中を見せて西へ進む九頭海蛇アダル は腹など満たしてはいなかった。食欲旺盛な九頭海蛇アダル は巣穴になど戻らずどこかへ消えた。


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2021年4月5日月曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第6章_1

  ファリドは、アジャール軍によって設けれた死地から何とか命を拾った。だが、これと同時にアジャール軍の方では別働隊としてナーシリーヤの東側の攻略にあたっていたワリィ・シャアバーンが、レイス軍の城邑アルムドゥヌ を間断も無い程に陥落させていった。中には城邑アルムドゥヌ が落ちるまでに僅か半刻という驚くべき速さの攻城もあった。

 加えてワリィは、近くの城邑アルムドゥヌ を陥落させ、そこに自分の兵力を分隊して支配下に置いた。アジャリアが計路としていた敵の支配域の分断が成功したのである。

 アジャリアの本隊は敵の分断のために稼動していた、アシュール隊と合流して、さらにこれにシャアバーン隊を合流させた。

「バラザフ、全軍を集結させろ。場所はナーシリーヤの西、サマーワ。わしらも移動の準備をせよ」

 相変わらずせわ しなく移動するアジャリアだったが、こうした大規模な移動が繰り返される事によって、レイス軍同士の連絡を断ち、もし偵察がいれば駆逐する事で自軍の情報を護りつつ敵を攪乱する効果が出ていた。

「サマーワを足下に置いておくことで、バグダード攻略の拠点に出来るし、後はナーシリーヤを落とせば、サマーワ、ナーシリーヤ、バスラと繋がり、リヤドまでの退路を確保出来るのだ」

 サマーワからナーシリーヤまでは東へおよそ二日の行軍、ナーシリーヤからバスラまではおよそ三日の道のりである。後はクウェートまで戻り南下すれば、リヤドまでの道は半分を消化出来た事になり、補給路も確保できて、これらを地図上で結ぶとアジャール軍の版図が大いに拡大する事がわかる。

 太守の退去という形でアジャール軍は一度サマーワの攻略に成功しているため、戦術において難は無いだろうと判断したアジャリアは力で単純に押していこうと考えたが、アブドゥルマレク・ハリティ、ワリィ・シャアバーンの二人が城邑アルムドゥヌ の包囲を上申した事により、この方法を採る事になった。

 アジャリアが慎重に城を包囲してから落とすやり方をバラザフは何度も見てきた。言い換えるとバラザフにとって包囲戦というやり方は、アジャリアの戦術であるという印象があり、ハリティ、シャアバーンという古豪の将軍らのやり方をここで見ておける良い機会だと思って、実に興味津々で見守っていた。

「枯れ井戸から横穴を掘って隣の城邑アルムドゥヌ と繋いで逃げ道を造るという方法を聞いたことがある」

「サマーワの周りにはナーシリーヤの他にも小さな城邑アルムドゥヌ がたくさんある。サマーワから抜け出た兵士がそれらから奇襲してくると我等が挟まれる事になってしまうな」

「今から全ての城邑アルムドゥヌ の井戸を調べる時間は無いな」

「サマーワを包囲する他に、奇襲を警戒して全方位に防衛線を用意しておこう」

「うむ。承知した」

 この会話を聞いていたバラザフは背筋に冷たいものが走った。若い世代の将であるバラザフはそんな事例は聞いたことが無かったし、もし、その枯れ井戸作戦を敵が実行してきていたら、危ない事になっていたであろう戦いが過去の記憶からいくつも蘇ってきていた。サイード・テミヤトなどの れた将軍が常にバラザフら若い将軍が力を遺憾無く発揮出来るよう、後方で見守っていてくれていたという事になる。戦術の面だけでもまだまだ先陣に学ぶべき事は多いと知った。

 サマーワは一ヶ月近く粘り強い防衛を見せた。この攻防を続ける間にもアジャリアは何度か相手方に降伏を促してきたが、それも無駄と知るとついに総攻撃の命令を下した。

 事ここに至り、ようやくサマーワの太守が降伏したいと言い出したので、カトゥマルを制圧隊長としてアジャール軍が城内に踏み込むと、包囲によって水と食料を絶たれたサマーワ兵等が、まさに死に際という感じで横たわっていた。

 これと同時にアジャール軍の別働隊としてサッド・モグベルがフサイン軍の要所カルバラーの攻略にかかっていた。

「バグダードにほど近いカルバラー。困難な仕事だがモグベルには何とか成功してもらいたいものだ」

 アジャリアが待つのはカルバラー攻略の吉報である。アジャリアの言葉通りカルバラーからバグダードまでは僅かに一日。フサイン軍との対決にも、また後方への退路としても獲得しておきたい城邑アルムドゥヌ である。

 バラザフ・シルバはこれまで自分の知略を他者に優るものと自負していた。この世においてもはや学ぶべき見上げるべき存在はアジャリアが唯一であると思っていた。が、先のワリィ・シャアバーンとアブドゥルマレク・ハリティの作戦というか手配り目配りを目の当たりにして、

 ――まだまだ他人に学ぶべき事は多すぎるものだ。

 と思い直した事から、今回のサッド・モグベルの戦術に興味を持って見ていた。サッド・モグベルも学ぶべき対象になったのである。

「この堅城からどうやって敵兵を引っ張り出すか。それとも策を用いて自滅さえていくのか。どちらにしても力押しで行く事は有り得ないだろうな」

 遠くからサッドの戦術を想い描いてみるバラザフだが、決め手となるものを彼の頭脳は導き出せなかった。

 その答えをサッドは意外な所から引っ張り出してきた。

 カルバラーの太守はハイレディン・フサインの臣である。覇王ハイレディンと言われる彼にとっても、アジャール軍はまだまだ恐るべき相手である。そのハイレディンが先のアジャール軍とレイス軍との戦いを見て、

 ――アジャール家に臣従する事を決意した。

 ため、カルバラーの城邑アルムドゥヌ も速やかにそれに従い開城せよ、というものであった。勿論、虚報である。

 カルバラーを調べさせていたアサシンから情報が入ってきた。

「カルバラーはハイレディン降伏の報を信じたということか」

「そのようで。いずれにしても戦いを避けるいい口実になるかと」

 同じ情報はアジャリアのもとにも上げられた。

「今回のサッド・モグベルの奇策は見事であった。カルバラーの城邑アルムドゥヌ を手に入れられた事は我が軍にとって大きい。これでレイス軍、フサイン軍を蹴散らしてやれるのう」

 カルバラーを支配下に収めたアジャール軍は城邑アルムドゥヌ を出て城壁の外で防備を固めた。バラザフのもとにはシルバアサシンから新たな情報が立て続けに入ってくる。

「レイス軍にハイレディン・フサインからの援軍三万が合流し、合わせて十万がナーシリーヤを出立」

 アジャリアはこのカルバラーでレイス軍を迎え撃つ心積もりでいる。

 ――今度こそレイス軍を逃がすまい。

 とバラザフは東の地平を睨んでいる。

 だが、三十万のアジャール軍がすでに待ち伏せていると見るや、ファリドは大慌てでナーシリーヤへ踵を返し始めた。

「またポアチャだな」

 食欲があろうとなかろうと、苛立って麺麭ポアチャ を齧っている、あるいは吐き出しているファリドの滑稽な姿をバラザフは想像していた。見苦しさもあそこまでいくと、逆に見物みもの である。

「ファリド・レイスという男はいつもアジャリア様の戦術に右往左往させられているのだな」

 ファリドの方ではフサイン家からの援軍と合わせた十万の兵を城邑アルムドゥヌ に篭城させて、

「何があっても城邑アルムドゥヌ の外に出るものか」

 と、卑屈さの色合いのある決意をしていた。

 ハイレディンの方でも、

「アジャール軍と剣を交えるのは自刎に等しい。嵐の後に晴れが来る僥倖をひたすら待て」

 とファリドに指示してきており、フサイン家の援軍の長にも、

「戦闘は不要。戦力の維持を最優先せよ」

 と守備一貫の命令をしていた。

 ナーシリーヤは、城邑アルムドゥヌ の領域の西から南東にかけてユーフラテス川が流れる。ファリドが城邑アルムドゥヌ に篭り守りの態勢に居るのであれば、川は護りの味方となるであろう。

 だが、敵はあのハイレディンですら恐れたアジャール軍三十万なのである。果たして川という味方もどれほど通用するものか――。苦い思いを身に染みさせてきた弱者にいつも付き惑う、漠然とした不安がそこにあった。


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2021年3月5日金曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第5章_10

  バラザフは風を切って本陣から出てくると、

「フート。ファリドの動向を正確に掴んできてくれ。少しでも情報を得たら報告に戻るように」

 フートが部下を連れて風となって消えた。

 一人のアサシンが情報を持って戻ってきたのは、およそ一刻後の事である。

「敵の諜報部隊の主将は確かにファリド・レイス自身です。そして副将がイクティフーズ・カイフ。シャトルアラブ川を川沿いに下りハンマール湖の北辺りにまで来ています」

 ナジャルサミキ・アシュールの部隊は三万。今ではアジャール軍の中で最強の軍団である。ナジャルサミキはバラザフからその旨を受けて、全軍に臨戦態勢に入るよう命じた。

 バラザフとナジャルサミキが待ち受けている事をファリドは知らない。二万の将兵を率いて偵察だというのに警戒無く進軍してくる。バラザフの方は川辺の少し窪んだ場所に部隊を待ち伏せさせていた。弓隊を準備してある。

 ファリド・レイスという人物は慎重かつ粗忽な人物で、この時はその粗忽さがもろに現れて、偵察部隊の先頭に自身を置いていた。

 ――ヒュッ!

 と、ファリドの頭上に風を切る音が聞こえた。鳥梟の類であろうと上を見たレイス軍が、風切りの音の主が飛矢だとわかった時、すでに彼はすでに矢の雨の中でそれらを浴びていた。

 驚いたファリドは馬から転げ落ちて這い蹲って逃げようとしたが、この矢の雨の中、どちらに行けば命を拾えるのか全くわからない。ファリドの頭上から飛矢が襲いかかったとき、近侍していたイクティフーズ・カイフが外套アヴァー をファリドの上にかざ し、電光石火の速さで引いた。鏃が外套アヴァー に刺さった瞬間に、横に引き、害を免れる、達人にのみ出来る神技しんぎ であった。

 が、外套アヴァー に次々と矢が刺さり、この状況も長くはもちそうにない。イクティフーズはファリドを庇いながら後方を退いていった。其間、周りの兵士達の身体に弓矢が突き刺さり、次々と斃れてゆく。

「イクティフーズ! 最早生き残れん。武器を取って前に出るぞ!」

 イクティフーズの必死の護衛にもかかわらず、ほぼ絶念したファリドは喚いた。

「戦況をよく見られよ! 味方は敵の矢でほぼ全滅、前に進んでも冥府の門しかありませぬ。このイクティフーズがここで持ち堪える故、ファリド様は下がって命を拾われよ!」

 ファリドを叱咤すると、イクティフーズはファリドを馬上に戻して馬をはし らせた。あとは馬に任せる他無い。

 恐慌に陥っているレイス軍に、バラザフは騎馬兵を率いて斬り込みをかけた。さらにバラザフの後からアジャール軍最強のアシュール軍が騎馬部隊を前にして突撃をかける。

 砂塵が巻き起こり河川に沿って流れ、レイス軍を覆う。さらに水の方へ下りて、ざくざくと濡れた砂地を蹴り、アジャール軍がレイス軍を襲った。

 川辺に満ちる音は、鯨波、吶喊、馬が飛沫をあげる音、いなな き。バラザフは、退いてゆくレイス兵を掃討する形で、両手の諸刃短剣ジャンビア で、手当たり次第に斬り捨てていった。

 進むバラザフの前に一人の騎士が行く手を塞いだ。

「我が名はイクティフーズ・カイフ! これ以上進むとあらばここを貴様の死地と成すぞ!」

 ここまで退きながら猛攻を撃退していたイクティフーズの部隊が俄かに反転し、追撃してくるアジャール軍目掛けて反撃に駆けた。

 バラザフとイクティフーズ、それぞれの得物がすれ違いざまにぶつかり火花を散らす。

 両者は馬を反転させ、刃を交える事、五合、六合――。だが、息を弾ませながらも両者ともまだ馬上に在った。

「アジャール軍の謀将アルハイラト バラザフ・シルバ。その諸刃短剣ジャンビア 共々忘れぬぞ!」

「ファリドの槍、イクティフーズ・カイフか……。こちらもその名は忘れぬ」

 そして、バラザフは辺りの照顧を促すように、

「この混戦では互いに一騎打ちなど出来る状況ではない。勝負は次に預けておきたいと思うが」

「我はファリド様をお逃しするのが即今の使命。ここで決着をつけぬも異存なし。次までに死ぬなよ」

 と、イクティフーズは散らばっている兵を纏めて隊列を整えて押し寄せてくるアシュール軍への防備の姿勢を見せた。バラザフも自分の配下を集合させると、アシュール軍に合流した。

 互角に見えていた両者の戦いだったが、バラザフの方はかなり息も乱れ、後数回、刃を合せていれば、イクティフーズの槍がバラザフの心の臓を貫いていたかもしれなかった。

 戦場で敵同士という形で初めて顔を合わせた二人であったが、後に世代が代わった時、バラザフの長子サーミザフが、ファリド・レイスの孫娘を娶り、ファリドから領地を認められる事になるのだが、この娘の父親がイクティフーズ・カイフなのである。

 この時点でイクティフーズ・カイフ、二十四歳。バラザフ・シルバ、二十六歳。

 イクティフーズ・カイフは若さに似合わず、この撤退戦で類稀なる指揮能力を発揮した。自身が古今無双の勇将であったという事もある。

 単隊での防衛は柔らかき所を衝かれると、一瞬の内に部隊が壊滅する。だが、イクティフーズは徐々に部隊の戦力を削られながらも、持ち堪えて見せた。

 ファリドが視界から消え、戦線を離脱出来たのを確認すると、攻め来るアジャール軍に後退攻撃し、反撃しつつ撤退を成功させたのである。

 このイクティフーズ戦いぶりを見ていた、敵であるアジャール軍からも褒め称える声が聞こえてきた。


 ――ファリド・レイスに神は二つの勿体無い恩寵を与えた。

 ――イクティフーズ・カイフと彼のカウザ だ。


 この言葉が、やがて全体の歌となり戦場に響いた。


 ――ファリド・レイスに神は二つの勿体無い恩寵を与えた。

 ――イクティフーズ・カイフと彼のカウザ だ。


 イクティフーズのカウザ には二本の角が飾られていた。その飾りの角が炎を象形しており、それが彼の武威を一層華やかに衆目に映した。イクティフーズの優れている武具はカウザ だけではなく、彼の持つ槍もそうなのだが、この戦いではアジャール軍はその鋭さを殆ど味わわないで済んでいる。

 ファリドを逃す事には成功したレイス軍ではあったが、どの道崩壊を免れる道は無さそうである。押し返そうにも衆寡の差は明らかで、残された兵力も疲弊しきっていた。

「掃討戦のさらに掃討戦だ。退却するイクティフーズ・カイフの部隊に追撃をかけて、ファリド・レイスもここで討ち取ってやる」

 もはや勝ちの見えた戦いに、ナジャルサミキは意気込んだ。勢いがアジャール軍に味方している。

 戦いには慎重さをもって臨むバラザフだが、アシュール軍の追撃には賛成である。

 バラザフが部隊と共に駆けようとしたとき、後方で戦いの太鼓タブル が打たれた。だが、それは突撃を意味するものではない。退けというのである。

 ――なんだとっ。

 バラザフもナジャルサミキもこの撤退指示が信じられない。後方を見遣るとアジャリアの言葉を持って走り回っている伝令が見えた。

「アジャリア様から言葉を伝えに参った!」

 バラザフとナジャルサミキの姿を遠方より認めて伝令は声を張り上げた。

「追撃はならぬ。死を覚悟した敵を追えばこちらも無用に痛手を被る。二人の手柄此度はこれで十二分、との事である」

 伝令は、アジャリアの文言をそのまま伝えたようである。

「無理を承知した……」

 ナジャルサミキは不満をあらわにしたが、アジャリアの絶対命令を無視する事は出来ない。全軍に退却指示が出された。

 同じようにバラザフも配下に退却を指示するとともに、損害状況の調査を命じた。

「負傷者、二十名。戦死者は一人もおりません」

 その言葉はバラザフを安堵させたが、今度はアシュール軍の損害の方が気にかかる。

「アシュール軍、負傷者、一千名。戦死者、百五十名」

「レイス軍の損害はどうか」

「まだ詳細は把握しきれておりませんが、戦死者、五千名。負傷者は、ほぼ全員かと」

「確かに十二分な戦果だな」

 そして、配下を代表してフートに、

「今回の戦果はシルバ・アサシンの働きによるものが大きい。皆に分け与えよ」

 と、金貨を与え、

「肉もその他の食料も我が隊の荷隊カールヴァーン の分は好きにして良いぞ」

 と大盤振る舞いをした。

「俺がもっと出世して領地を殖やせたら、フートにも城邑アルムドゥヌ の一つくらい持たせてやりたいと思っているのだ」

 この時、遠くで雷鼓が鳴り震天して伝わってきた。空を見上げると、紫電が光るのが見えた。暗雲が立ち込めて、地上に雹雨をもたらさんとしていた。

「冷えそうだな。アジャリア様のお身体が心配だ。また体調を崩されなければよいが」

 バラザフの意図に反して、暗雲は刻々と深まってゆく。

 バラザフは身につけている武具の重みを感じた。初陣のとき初めて武器を持ち鎧を着たとき感じた重みではない。


 ――疲れたな。


 そして、いやな暗さだと思った。

 次に脳裏には、今日戦ったイクティフーズ・カイフの姿が浮かんだ。身も心も強い武人だった。あのままやり合っていれば、武技では確かに自分はあの男には敵わなかったはずだ。

 ここまで猛進してきたバラザフの歩みが少しだけ緩んだ。


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2021年2月5日金曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第5章_9

  一月程経過し、涼やかな風が少しく吹くようになると、アジャリアの体調は回復の兆しを見せた。バラザフは、

 ――やはり酷暑が堪えたのだ。

 と、アジャリアの回復を喜んだが、食欲は戻ったものの、痩身は元の体格には戻る事はなかった。

 アジャリア自身は、

 ――そろそろ冥府の籍にわしの名が記される頃だ。

 と死期が近い事を悟り始めていた。

「今少し保たせてもらえまいか……」

 アジャリアはとにかくエルサレムに行きたかった。エルサレムに上って大宰相サドラザム のスィン家を輔弼する。でなければ、自身が大宰相サドラザム の位に就いて政務を執らねばならぬ。そうでなければ今の戦戈の入り乱れた世を安んずる事など出来ぬのだ。それまでは――、

「保たせなければならぬ」

 さらに半月程経ち、アジャール軍はエルサレムへ進発した。この時期あたりから、作物の類は夏季が最盛期の物から徐々に主役を降りてゆく。

 ワリィ・シャアバーンが今回も先陣を務める事になった。彼の配下の将兵は五万。リヤド近くのブライダーではサッド・モグベルがワリィの合流を待っている。ここにも五万の兵力が置かれている。

 アジャリアの本隊がハラドを発った。威風堂々とした九頭海蛇アダル が砂の海をのして進む。勿論、その一番の主の頭は本物・・ である。アジャリアの麾下にも五万の兵を編成した。

 アジャリア麾下の五万の中にバラザフの顔もあった。今回の出征で、バラザフはアジャリアの傍で務めようと決めていた。

 その他の部隊編成は、ナジャルサミキ・アシュール隊三万、アブドゥルマレク・ハリティ隊二万、カトゥマルのリヤド軍団三万、ナワフ・オワイラン隊四万、サイード・テミヤト隊三万と、総勢三十万を超す大軍である。さらにメフメト軍からも二万の援軍が送られてきている。

 メフメト軍との同盟が成ったとはいえ、後方のアルカルジは地方の諸族の向背が定まらぬ上にベイ軍の手出しが懸念される地域であり、ここをエルザフ・シルバ、アキザフ・シルバに押さえてもらい、自領北部のアラーをトルキ・アルサウドに守衛させて後ろを任せてから出立である。

 エルサレムへの道を、アジャリアは最短を採らなかった。

 アジャリアが通ろうとする道というのは、まずハラドからリヤドへと自領を西へ移動するアジャール軍の常套の行軍路から、さらに西へ進みブライダーを経由して、そこから一気に北上してナーシリーヤからエルサレムを目指すという道順である。

「ブライダーまで行ったのならアルサウド殿の居るアラーは、ジャウフを通ってそのまま西進すればエルサレムには近いのではないか」

 バラザフは、アジャリアの行軍路の意図をはかりかねていたが、思案の中、急に頭の奥に最短を採らなかった理由が浮かんできた。

「分かった。やはりアジャリア様は背後を気にされているのだ。最短で往けばナーシリーヤ、バスラのレイス軍を放置したままになる。となると、ハイレディンと雌雄を決する際にファリドが邪魔になってくるのだな」

 バラザフの推測は当たっていた。アジャリアはブライダーに着いてから軍団を三つに分けた。

「シャアバーンは別働隊として迂回し、かつ先行せよ」

 アジャリアは、シャアバーンには迂回してナーシリーヤに向うように、そして諜報を出してレイス軍の諜報を駆逐しながら進軍するように指示し、モグベルの部隊にはハイレディンへの威圧を目的とした上でのルトバの城邑アルムドゥヌ 制圧を命じた。ハイレディンの拠点のバグダードの西側にルトバは在る。

「そしてわしが本隊を率いて北上し、バスラの城邑アルムドゥヌ に入る手筈とする」

 バラザフの配下のシルバアサシンも、アジャリア本隊の諜報として動いている。隊が行軍する先々でレイス軍の諜報を始末するために、全方位に彼らは駆けている。

 バラザフは、アジャリアから賜ったカウザ を被って傍近くに勤めている。

「バラザフ、今わしら本隊はバスラを目指しているわけだが、その間のレイス軍の拠点をいくつか取ってゆく。理由はわかるな」

 アジャリアとバラザフの間には、しばしば、教練のような会話が交わされる。バラザフの脳裏には進軍先の地勢が描かれ、精一杯頭を回転させて、アジャリアの戦略的意図を考察した。

 アジャリアの計路の中には、アジャール軍の総帥がカトゥマルになる時代を想定して、バラザフをカトゥマルの参謀アラミリナ 、あるいは大臣ワジール として育成し、知識と知恵を今の内に注入しておこうというものがある。

 バラザフの方でも、平野や砂漠での戦い方、攻城と篭城のやり方、外交面を含めた戦略など、アジャリアの脳内にある財産を総じて自分の物にしたいというアマル を抱きながら日々を邁進しているので、二人の意志は絶妙に裏で合わさっていたといえる。

「我が愚才でアジャリア様のお考えを図るのは僭越ではありますが、バスラの南にあるズバイルを我が軍の拠点として今一度固め直すおつもりであると」

「そうだ。では、更にそれはなにゆえか」

「これらの城邑アルムドゥヌ の南にはレイス軍の拠点のサフワーンが在り、これを獲得できればバスラ、クウェート間、さらには東のブービヤーン島との拠点連携を図る事が出来るからです」

「バラザフよ、その心計は賞賛に値するぞ。我が意もお前の言葉通りである。つまりは、小さな拠点でも確実に手中に収めておく事が肝要となるのだ」

 とアジャリアはこの戦略性を説いた。だが、二人はこうした小さな城邑アルムドゥヌ を取るのに、戦術的には大した手間が要るとは考えていなかった。これらの城邑アルムドゥヌ の兵力はおよそ五千程度で、三十万の大軍で圧殺すれば余計な被害を出さずに、自ずと降伏を引き出す事が出来るはずである。

 この見込みは当たり、アジャール軍が城邑アルムドゥヌ を包囲すると、多くの将兵が投降してきて降伏勧告はすんなり通る事となった。敵味方共に無血のまま城邑アルムドゥヌ の獲得に成功したのである。

 これを聞いてファリド・レイスの頭は大いに混乱した。これらの城邑アルムドゥヌ がアジャール軍に落ちた事で、サバーハ家から独立後に獲得した領土を殆ど失ったからである。

「自分でアジャール軍の数を目で見てくる」

 こう言い出したら最後、非妥協的になってしまうファリドは二万の将兵を大偵察部隊に動員して出動した。偵察には多くても三百人で部隊を構成すれば十分足りるのであるが、主将自らが偵察に出るとなっては、一軍そのものを偵察部隊として稼動させなければならない。

 ――ファリド・レイスが偵察に動いてる。

 という情報がすぐバラザフに知らされた。

「それは確かなのだな、フート」

「ファリド自身が出る前に諜報を出しておりましたが、それとシルバアサシンが遭遇し、撃退する途中でその内の一人を捕縛しました。その者から出た情報です」

 バラザフがそれをアジャリアに上げると、アジャリアは口に僅かに笑いを浮かべて、こう命じた。

「ファリドの小僧が自ら偵察に出たがっているのであれば、それを待ち受けて、あわよくば始末してしまおう」

 アジャリアはバラザフを切り込み隊として、それにアシュール隊を付けて行かせた。後の煩わしさを今ここで消化しておけるかもしれない。だが、後の大戦に備えて強行な攻めはせぬようにと最後に加えた。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。


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2021年1月1日金曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第5章_8

  バサの城邑アルムドゥヌ の城門は全て固く閉ざされ、ファリドは一歩も動かぬ姿勢を見せた。配下の者等にもアジャール軍のいかなる陥穽にかかる事の無きよう、篭城の姿勢を守る事を厳達した。すでにその声色も恐慌の色で満ちている。

 一方、攻める方のアジャリアは余裕である。  

「ファリドの小僧、ポオチャを頬張るのも忘れて、また身体が引き締まるであろう。さて、強攻めをして怪我でもさせられてはかなわぬから、ゆっくり絞めてからハラドに帰るとするか」

 アジャリアはバサの城邑アルムドゥヌ から脱出してくる民たちを自陣で歓待して、兵士達には城壁の外からファリドを挑発させておいて、それを見物させた。

 ――ポアチャ! ポアチャ! ポアチャ!

 単純だがファリドにとってはこの上なく効果的な挑発である。

 バラザフの脳裏に浮かぶファリドは真っ赤に上気して、物を投げつけ、蹴飛ばし、大暴れしていて、実に滑稽な姿であった。思い出し笑いを配下に見られると自身が恥ずかしいので我慢はしてはいるが、どうしてもバラザフの口吻からは笑いが漏れて仕方なかった。

 笑いを堪えるのに必死だったのはバラザフだけではない。バサの城邑アルムドゥヌ の内側で、ファリドの傍に仕える家臣は、目の前に主君がいるため、先程来の惨敗を忘れたかのように、今は腹の中の笑いと必死で戦っていた。

 ファリドは――、ポアチャは持っていなかった。だが、バラザフの脳裏に出現した姿とさほど遠からぬ容態で、怒りに突き動かされ、一人の大乱闘を踏んでいた。周りの備品がどんどん破壊されてゆく。

「あの……ポアチャ、お持ちしましょうか?」

「要らぬわ! アジャリアめ、人をこけにしやがって!」

 ファリドに対してのみ通用する侮辱だけに、その効き目は大きかった。

 この頃のアルカルジに居るバラザフの父エルザフは、長男とともに城邑アルムドゥヌ の守衛に勤めながらも、周辺のまだ自分達に与力していない小さい城邑アルムドゥヌ をしっかり手中に収めていた。シルバ家のやり方らしく、力攻めせず知恵でこれを取り込む事に成功している。

 地道にアジャール家の自勢力を肥えさせてゆくシルバ家の活動は、アジャリアの信任をさらに篤くし、功労が称えられるとともに、

 ――アルカルジの近辺の諸事、随意にされたし。

 とまで言わしめたのであった。

 アジャリアのエルサレム獲得の戦略路線はほぼ固まりつつあった。

 同年、カウシーン・メフメトが没し、メフメト家ではカウシーンが遺した言葉通り、サラディン・ベイとの同盟を破棄して、アジャール家との再同盟を方針を出してきた。この事はアジャリアにとっては都合が好く、東側の戦線に配慮する必要が無くなった。盤面がアジャリアの大望を果たせる状況に整ってきていた。

 カーラム暦994年、炎節――。アジャリアが俄かに病臥した。エルサレム侵攻のための兵を動かそうとの沙汰の後の事である。

「ここ数年、食欲の無い日々が続いていたのだ。地に身体が引かれるのを感じる。横なっていても沈んでいくような感じがするのだ」

 海老クライディス の殻を盛って見せていたのも、側近と計って健やかなる自分を見せるために、芝居を演じていたのであった。健康面で不安がある事を家臣達に見せては、遠征に支障をきたす。それはまだ側近にしか知らせていない。

 バラザフは、アジャリアの体調不良はこの猛暑のせいであろうと思って見ていた。ファリド・レイスに劣らぬほどふくよかだったアジャリアの姿は、バラザフが会う度に肉が落ちているように見える。

「アジャリア様、この酷暑はご自身の身体に障ります。涼風の吹き始める頃に、また軍を編成し直しては」

 しかし、アジャリアはその意見には肯首せず、

「もう少しで食欲も元に戻りそうだ。本来ならすぐにでも出陣したい所なのだ。各部隊、荷隊カールヴァーン も含めすぐに出られるように怠り無く準備しておくように」

 と覇気の無い声で命令した。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。


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