2021年7月5日月曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第6章_4

  ファリドはただひたすら馬にしがみついていた。その主人を乗せて馬はただひたすら駆けた。

 ――ここで落馬したら終わる。

 それだけがファリドの思考を支配していた。

 ――火砲ザッラーカ の爆音が聞こえてくる。

 ――今、弓矢が耳を掠めていかなかったか。

 死の淵に立たされ、ファリドの耳には幻聴が鳴り響いていた。

「あの者は槍で刺されて死んだ。あの者は頭を割られて死んだ。皆、死んだ……、死んだ……、死んだ……」

 目の前で近侍ハーディル 達が戦死していく光景がむざむざと脳裏によみがえってくる。掃討のため追ってきていたアジャール軍の騎兵はいつの間にか一人も居なくなっていた。

「もう暮れていたのか。光も見えないし、寒い……」

 ひとまず身の危険が去った事を知ったファリドは、ここでようやく周りの夜を感知した。替わりに今度は緩慢なる恐怖がゆっくりとファリドの心身に染み入ってくる。

「死んでいない。辛うじて命は拾えたようだ」

 すでにファリドの傍には誰一人、近侍していない。

 ファリドを仕留めようと追撃していたバラザフは、レイス軍の歩兵、騎兵により度重なる妨害によって、標的を見失っていた。

「また逃げられた」

 バラザフの方もファリドへの猛追が失敗に終わったのに気づくと、今度は宵闇が意識されて、身の危険を感じ始め焦りが生まれていた。

 命からがらナーシリーヤへ戻ったファリドは、

「城門は閉めなくともよい……」

 と力無く奥へ引き取っていった。

 ファリドが生還してから程無くして、暗き空を震天させる太鼓タブル の轟音と共に、追撃のアジャール軍がナーシリーヤに姿を現した。

 これから攻城に掛かろうと思っていたシャアバーンとハリティが城門を見れば、松明に照らされて開け放たれているのが認められた。

 どうせこのまま立て篭もっても寡兵では守り通せぬと諦めて、篭城の構えをとらなかったファリドだったが、このやるならやってくれという態度が、シャアバーンとハリティには、

 ――レイス軍に策謀あり。

 と映り、ナーシリーヤを攻略せず、二人は隊を退かせた。

 ファリドが生還したナーシリーヤに遅れて「ファリド戦死」の報が入ってきた。この報を受けた将は当然、ファリドの生還を知っているので、誤報もたらしたこの伝令を怒鳴り飛ばしたが、戦況が戦況だけに叱責はこれにとどめた。

 この将はこの一件をファリドに上げなかったが、どこからかこれがファリド自身の耳に入った。

 ファリドはこれを怒らなかったし、ポアチャも吐き捨てなかった。後にファリドはこの一件を「ファリド戦死」の宗教文字で自分の顔を象らせた独自の貨幣を造らせて、自身への戒めとした。

 ファリドの負け戦に巻き込まれた形となったハイレディン配下の将軍のマァニア・ムアッリムは、アジャール大軍を見た瞬間に恐怖に支配され、一度は前線に出るも、敵を一合もせずに部隊を退かせて、バグダードに向けて逃げ戻ってしまった。

 宵闇の前に見えていた黒雲は水滴を成して地表へ落ち、続く水滴は次第に冷たさを増して雹となった。

 今回もレイス軍は負け、アジャール軍が勝った。だが天が与える冷たさは両者に公平である。

 翌朝までに雹と雨は去った。宵闇の幕で覆い隠されていた地上の冥界が、昇る日によって徐々に曝され始めた。

 闇は人が見なくてもよい物を隠していてくれた。数多の肉塊となってしまった物に、沙漠狐ファナカサクルネスルハダア の中の屍食の者等が群がっている。それらの口に入っているのは殆ど、レイス軍の将兵である。

 レイス軍の戦死者は一万三千。負傷者は五万にも上る。

「我が軍の被害状況はどうであった」

「死傷者、計四千名との報告を受けております。私の目視でも同程度と思われます」

 戦後の被害を確認するアジャリアにバラザフは答えた。ファリドの追尾の過程で受けた傷から血が流れていた。軽傷だがその数は多い。

「治療のため負傷者を後方に下げよ。死者の弔いは念入りにしてやり、家族への年金を忘れぬよう。家族が軍籍にある者は格上げさせてやるように」

 バラザフの配下は負傷した者が多少いたものの、戦死者は一人もいなかった。

 ウルクに陣を張ったままアジャリアは次の一夜を野営してから、サマーワの城邑アルムドゥヌ に入った。

 次の日、サマーワから北へ向けて進発し、半日ほど進んでルマイサの辺りにさしかかった所でアジャリアの部隊が急に止まった。

 バラザフはアジャリアに呼ばれた。本陣ではアジャリアが横たわっていた。

「ここまで進んで来てしまったが、エルサレムにはまだまだ届かない。身体が重くて地に引かれて前に進む事が出来ないのだ。悔しいが、しばらくここで駐留する故、皆にそう伝えるように。すこし戻ればサマーワだが……、それすら動く事もかなわぬ」

 この先のルマイサを攻め取る予定であったため、シャアバーンやハリティが先行していた。彼らに早く情報を伝える必要がある。バラザフは、役は賜っていないものの、実質、アジャリアの執事サーキン としての働きをこなしている。

 バラザフがアジャリア本陣から出て行く時に、丁度、カトゥマルが呼ばれて入ってきた。

「アジャリア様の病状は?」

「前向きにとらえる事はとても出来ない状態かと」

「進軍は続けられぬのだな」

「ここで駐留するとの事でした。とても動ける状態ではありません……」

 カトゥマルがアジャリアの陣屋に入ると、侍医までもが陣屋の外に出された。

 ――いよいよ重大な話をするに至ったのだ。

 と、バラザフは察した。

 これ以降、アジャリアの体調は行きつ戻りつ、病魔とじりじりした闘いを続けていた。

 今は冬である。冷え込みは厳しく、砂漠であっても雪が降る事がある季節なのだ。そして寒さは日増しにアジャリアの体力を奪っていった。

※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。


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