ウルク――。サマーワの東のワルカ遺跡は、かつてそう呼ばれたユーフラテス川沿いに成立した都市国家であった。神話の時代ともいえる旧年より幾度の興亡を繰り返したウルクは、最後の衰退と共に都市が放棄され、今は城郭が残るのみである。
アジャール軍を追ってここまでやってきたファリドは、アジャールの軍隊が視界に見当たらないので、サマーワに帰還したものだと判断した。
そしてサマーワの包囲戦に入るためウルクに野営を張って、
「サマーワから迎撃隊が出てこないのだ。アジャリアめ、俺が怖気づいて追ってこれないと思っていやがるな」
兵士たちに昼食を与え、武具の手入れも入念に行わせ、満を持して、
「強者とて慢心すればこうなるのだ!」
ファリドが自ら鬨の声を上げ、包囲を号令した瞬間――、レイス軍は
「何だ。何が起こっているんだ!?」
これからサマーワの
状況が飲み込めぬまま死にゆくレイス軍に反して、アジャール軍の方では、バラザフが気にしているのは戦況よりもアジャリアの体調の事ばかりである。
「冷え込んできた。雨が降ってきそうだな」
この出征中に体調を崩してから、一度もハラドに帰還していないのである。
「体調はいかがですか、アジャリア様」
「わしはこのとおり元気だぞ」
「一度ハラドに戻られて休まれるべきかと」
「うむ、ひと段落ついたらな。今はあのファリドの小僧を相手するのが楽しい」
この会話の間に、アシュール隊からの偵察からバラザフに情報が上げられた。今はバラザフはアジャリアの
「アシュール隊からファリド軍の陣容を報告してきました」
「
「はい。アジャリア様の
次にはフートも報告に入ってきた。
「我が軍がファリド軍を包囲して、
「そのとおりです」
「偽装退却の際にアシュール隊を最後尾にしていたのだ。ファリド軍は最初からアシュールの強兵に叩かれる事になろう」
聞く前から報告される内容が全て分かっているかのようなアジャリアである。
アジャール軍は陣容の先を尖らせるように変形させ、
レイス軍はサマーワを包囲してアジャール軍を干上がらせるつもりであったが、気づけば自分たちが囲まれていた。此度こそ勝ち戦だと思っていたのに、いつもどおり包囲されて風前の灯になっていた。
レイス軍の
アジャリアの手から指揮鞭代わりの
――そのまま押せ。
という事を全軍に伝達しているのであるが、その響きにはアジャリア軍の余裕が感じられる。
アシュール隊の投擲部隊二千名が前に出てタスラムを投げつけた。これに当たったレイス軍の騎馬兵が数百名落馬した。
投擲部隊はタスラムを投げ終わると後ろへ引き、次に
レイス軍にも
完全に弱り目のレイス軍に対してアジャール軍は容赦せず、弓隊から矢の雨が注がれた。レイス軍の円の中心に矢が刺さってゆく。
――総攻撃。
である。
空も大地も紅く染まっている。
この状況では総攻撃の
今アシュール隊と正面で剣を交えているのは、レイス軍サーズマカ・ゴウデの部隊である。ゴウデの部隊は一万二千。押しつぶされそうな所まで押し込まれたものの、ここに至って奮起し、アシュールの部隊を押し返し始めた。
「いいぞゴウデ。もっと押し込め!」
ゴウデ隊の勢いを見てファリドは、調子付いて命令した。
だが、このゴウデ隊の勢いすらもアジャリアに仕組まれたものだった。
ゴウデ隊が徐々に押して優勢になるように見せたのは、アジャリアの計画であり、ゴウデ隊を本体から隔絶させる狙いがあるのだが、レイス軍は全くわかっていなかった。
アシュール隊が徐々に後ろに引いて退却すると、そこにシャアバーン隊四万五千が出てきて突出したゴウデ隊を包囲した。
シャアバーン隊の特徴は駱駝騎兵である。砂地で機動に優れる
駱駝騎兵は狙った獲物は逃がさない。ゴウデ隊は一人、また一人と確実に数が削れてゆく。
このゴウデ隊の死地にイクティフーズ・カイフが救援に駆けつけてきて、シャアバーン隊の横腹を突く形となった。
受け持ちが一隊増えて、苦戦になりそうなシャアバーン隊だったが、アジャール軍からはハリティ隊が出てきて、シャアバーン隊の後方から追突撃を仕掛けた。
最初に包囲を意図して敷いたレイス軍の
この乱戦にレイス軍から後詰の二隊が参戦して、乱戦の度合いはさらに深まっていった。
「アジャリア様、このバラザフも前線へ出させてください!」
武人たちの熱き戦いを遠目に、むらむらとし始めたバラザフはアジャリアに自身の出陣許可を願い出た。
「まったく。初陣の若造でもないというのに。だが、お前の
アジャリアはバラザフの戦意を飼い殺しにはしなかった。バラザフは素早く馬上に上がり、配下に号令した。
「見てのとおり夜戦となる。友軍相撃に厳に注意し手柄になりそうな敵を狙っていけ。命を無駄にするなよ!」
馬で駆けて進むと、カトゥマルやナワフも前線に参戦する所であった。
「バラザフも来たか!」
「いかにカトゥマル様といえども戦場での獲物は譲れません」
「その壮語、後で後悔するなよ。アジャリアの剣の切れ味を後ろで眺めているがよい!」
「なら実力差を埋めるのが公平だ。先に行かせてもらいますよ!」
「あ、こら! 待たんか!」
馴れ合いながら共に馬を進めて、カトゥマルとバラザフはレイス軍のボクオン隊に遭遇した。敵の側面である。
まずバラザフが
「先に取られたか!」
バラザフが先に手柄を立てたのを見てカトゥマルは悔しさを隠さなかった。二人とも純粋のこの競争を楽しんでいた。
バラザフが次に探すのは、さらに立派なあの二本の角が飾られた
と、イクティフーズ・カイフを捜しているその眼にレイス軍の本陣が見えた。
「カトゥマル様、レイス軍の本陣が見えました。ファリドの首を頂く好機! 一応お教えしましたので先に行かせてもらいますよ。では!」
バラザフはファリドの本陣目掛けて疾駆した。今度はカトゥマルも待てとは言わなかった。敵軍の大将は目前である。味方同士の手柄争いで戦機を崩しては何の得にもならない。だが、
――あえて譲る必要もない。
バラザフを追う形になってカトゥマルも駆ける。この二人が率いる数万も主達に付いてファリド本体に突撃した。
こうした前線の熱気は後方で指揮するアジャリアには感得出来ない。不動、諜報よりの報告を受けて、自軍が疑いなき優勢にある事のみを知る。それだけでよい。
「バラザフは楽しんでおるか」
「は。カトゥマル様と一緒に駆けておられます」
「戦場は馬の遠出ではないぞ、まったく」
責任ある将という身分なれば蛮勇は本来忌むべき事である。だがアジャリアは内心この二人の武人としての能力を愛していたし、次期当主となるカトゥマルと、その片腕になるバラザフの親交が良好である事も嬉しく思っていた。
バラザフは駆けてファリドの本体に迫る。ファリドの
ファリドを護衛していた
――ここで戦死してやる!
頭の熱くなったファリドは、馬に飛び乗って乱戦の中へ単騎駆けしようとした所を、一人の家臣が身体を張って制止した。
「我が命ファリド様のために散らせて見せます。ですから、ファリド様はナーシリーヤまで生き延びてください!」
そう言うとその武侠ともいうべき家臣はファリドの馬をナーシリーヤへ向けて疾駆させた。
このファリドの戦線離脱がバラザフに見えていた。
「ファリドが逃亡した! 皆、追って討ち取れ!」
そう味方に檄を飛ばして、自身が先頭を切ってファリドを追撃しようとしたバラザフだが、レイス軍の槍兵が横一列に並んでゆく手を阻んでいる。
だが、踏みとどまるべきこの状況で、バラザフは槍兵の列に突っ込んだ。まさに蛮勇というべき力で手近な敵兵の槍をへし折り、突破口の開けた瞬間、後ろから味方の部隊がレイス軍の槍兵の列を押し潰していった。
「戦場では戦機こそ大事。流れがこちらにあれば、そして慢心しなければ、流れには裏切られないものだ」
※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。
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