塔に上ったファリドは三十万の大軍が威風堂々としてこちらに向かってくるのは見つめている。そこには不安も彼と共にあったが、そればかりでなく恐怖が彼の闇の
季節は冬に移ろうとしている。降雨の前兆である肌に沁みる風が吹いてきて、空には黒雲が立ち込めてきた。
アジャリアは伝令を走らせた。
「ここで一転する。全軍を西へ向けよ!」
ナーシリーヤの手前まできて、三十万のアジャール軍は反転して西へ行軍し始めた。
「わけがわからない……」
アジャール軍三十万のナーシリーヤで迎え撃つ悲愴な覚悟決めていたファリドは、一変、自分を眼中から掃ったかのように背を向けて戻っていくアジャリアの行動を見て、呆然とした。
戦わずに済んだ安心よりも、むしろ理解不能な事態に混乱を深めた。
「帰ると見せかけて迂回してナーシリーヤを包囲するつもりでは」
とファリドは色々と思慮を巡らせずにはいられなかった。
だが、まさにそれこそがアジャリアの意図する所であり、元々気の短いファリドの頭に着実に疲労感を溜めさせていたのである。
「なぁ、イクティフーズ。アジャリアは何を考えているんだ。我々を怯えさせたと思ったら、今度は無視して帰っていくぞ。また包囲されるかもしれんし、どう対処すべきなのだ」
「アジャリアが奇行に出るときは、裏に策略があるときです。ファリド様が読んだとおり包囲の可能性も十分ありえます。どちらにしても今は動くべき時ではありません」
「そうだな。今は静観が一番だ。そうだそうだ」
焦る自分を抑え込むようにファリドはイクティフーズの言葉を自分に納得させた。
この時点ではファリドは篭城の構えを解かずに、
ところがハイレディンから派遣された援軍の態度がファリドを逆上させた。
「無駄死にせずに済んだ。ハイレディン様から戦闘は不要と言われていたが、アジャリアが仕掛けてきていてたらレイス軍の道連れになるところだった」
こう安堵の声を漏らしたのはハイレディン配下の将軍のマァニア・ムアッリムである。さらにマァニアは自分の兵士に武具を解いて休息するように言って臨戦態勢を解除してしまった。
「アジャール軍に無視され、さらには味方の援軍であるフサイン軍まで俺を侮っている。ここまで馬鹿にされたらアジャール軍と戦わねば怒りが収まらん!」
もはやファリドの怒りは、いつものようにポアチャを齧るどころではなかった。
「イクティフーズ!」
ファリドは大声で叫んだ。
「アジャリアの奴は俺たちが追う意地など無いと思って無防備でいやがる。味方まで俺が戦わないと思っている。あの厭味な後姿に齧り付いてやらねば気が済まんのだ!」
ファリド・レイスは普段は家臣の言葉を重んじる性分である。だが一度頭に血が上ると、隠れていた猪突な性格が顔を出す。
――またファリド様は冷静さを失っておられる。
イクティフーズや普段から傍で仕えている家臣らには、ファリドの頭が熱でやられているのは見ただけでわかるのだが、ファリド自身は、自分が、
――今この時も戦機を読んで判断し、的確な指示を出しているのだ。
という方向違いの自信を持っていた。
イクティフーズは、今レイス軍がアジャール軍と交戦した場合、敵のいいように痛めつけられる事は必至であるから、ファリドの血気を抑えるべきであるし、彼自身そう判断していた。だが、ファリドのように表情には出さないものの、アジャール軍の人を馬鹿にした態度はイクティフーズ自身も相当頭にきていた。
よって、主君と共に死に花を咲かせるつもりで、
「ファリド様、今こそアジャリアの傲慢な背中に齧り付いてやりましょう。一気に中央を衝けば、あるいは穴を開ける事も可能でしょう」
と出撃に従った。
一方、アジャリアはアジャリアで、
「バラザフ、わしは三年間ファリド・レイスに持ち続けてきた陰鬱をここで叩きつけてやるつもりよ」
と、すでに陣容を整えて息巻いていた。ファリドを引っ張り出して、それこそこちらのいいように痛めつけてやるつもりでいたのである。
ファリド・レイスはこれまでアジャリアの戦略であるバスラ、およびクウェート攻略を、ベイ家やメフメト家と同盟して阻害してきた。それがアジャリアの言にある三年である。
時、乱世となれば領土獲得の機会は平等である。だが、アジャリアはそうは考えていなかった。平等であるという事は当然頭でわかってはいるが、彼とファリドの間にその平等は有り得ないというのがアジャリアの価値観である。
これを言葉ではなく感覚として持ち続けているだけに、アジャリアのファリドに対する怒りは粘りを含んだしつこさがあった。
こうしたアジャリアの人間臭い本音はバラザフに対してのみ吐けるもので、バラザフの方でもアジャリアの言葉の裏に、臭いを嗅ぎ付けるのが半ば習性となっていた。
アジャリアはいつものようにファリドの
そして、
――稀に残虐性を見せるものだな。
と、この頃ようやく気づき始めていた。
アジャール軍が態勢を整え直したときに、サイード・テミヤトの部隊を先陣に配して、その後ろに
今回はファヌアルクト・アジャールにも別働隊の一隊を任せている。その左右を、最早アジャール軍の編成の定石となったアブドゥルマレク・ハリティ、ワリィ・シャアバーンの二人の古豪で固めて、若い将を補うように配慮した。
そしてナジャルサミキ・アシュールを最後尾に配置して、アジャール軍は悠々と進軍していった。
後ろから背中を見ていたファリドの目には、腹を満たした
「あのまま西へ進んでサマーワに帰るつもりだな。いつも俺は囲まれてばかりだから、アジャリアがサマーワに入城した瞬間に今度はこちらが包囲してやろうか」
ファリドはアジャリアが優勢をたのみに隙を見せているのだと思い込んだ。だが、背中を見せて西へ進む
※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。
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