2022年2月5日土曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第7章_5

  アジャール軍の天幕ハイマ は今熱気を帯びている。毎日のように激論が行き交っていた。

 親族派閥のサイード・テミヤト、ナジャルサミキ・アシュールらが総攻めを強く促し、これにカトゥマルの従兄弟であるファヌアルクトも賛同した。

「テミヤト殿には前の戦い、つまりサフワーン攻略の実績がある。さらには敵将ムアッリムの寝返りの受け皿になり、すでに功績を立てたと言える。敵陣のムアッリムの持ち場の所から攻め込めば、敵は倍なりといえども抵抗する暇も無いはず」

 これがファヌアルクトがテミヤトの総攻撃論を推す理由である。

 古豪派閥のシャアバーン、ハリティ、オワイランらの重臣たちは総攻撃には乗り気では無い。というよりやはりここでも慎重であった。

「ムアッリムの寝返りはまだ確定ではない。これがアジャリア様であったなら、事実が固まってから戦いに出るはずだ。未だ戦機熟せず。その上敵の陣容も掴めずというのだから、軽挙は命取りになるぞ」

「貴公らは私が敵に騙されていると、そう申すのか!」

 テミヤトが立ち上がって怒声を発した。いつもは後詰で後進の将軍たちの危うきを見張っているテミヤトが、自分が主立って進める仕事に埋没して慎重さを失っていた。この一言で全てが斥けられ議論は締められた。

「インシャラー!」

 カトゥマルは仕方なくこれで、儀式の香壇の前で出陣の誓いをすることになり、諸将もこれにならった。

 総攻撃の日――。

 長雨がようやく上がり、朝から日が出ている。本来の夏の猛暑が戻ってきていて、まだそれほど高く昇っていない太陽が地上の砂を熱した。

 カトゥマルの本体は五万。本陣を奥に置いて構えた。

 先陣はワリィ・シャアバーンである。総攻めに反対してテミヤトと溝を深めていた。

 シャアバーンが行く先の風を切る。昇る太陽を背負うような形である。シャアバーンの部隊の前に敵の防塁の間からボクオンが歩兵隊が三千ほど率いて前に出てきた。

「おそらく陽動だ。過度に踏み込むなよ」

 この時、左側から攻めていたテミヤトの部隊がムアッリム隊に計画済みの戦いを仕掛けた。テミヤト隊の戦いの太鼓タブル が雨上がりの周囲によく響いた。

 テミヤト隊の太鼓タブル はシャアバーン隊の兵の耳にもよく届いた。シャアバーンの指示が部隊に下達し終わる前に、兵が太鼓タブル を攻撃指示として解釈し、先頭の騎馬兵等がレイス軍の歩兵を蹂躙した。

 勢いのついた騎馬兵は、その流れでレイス軍の防塁を苛烈にも抜けきろうとした。レイス軍の防塁まであと一歩の所まで迫ったとき――。

 先頭の一団が炎に包まれたかと思うと、一瞬で黒こげになって人馬共に地にどっと倒れ伏した。レイス軍による火砲ザッラーカ の一斉射撃であった。

 出だしから悪い流れになった。だが、シャアバーンは古豪と言われるだけあり、劣勢に動じず兵を鼓舞した。

「これしきで狼狽うろた えるな! 歩兵の騎乗を許可する。乗り手のいない馬があればそれに乗って、防塁を越えよ!」

 その言葉を後に置くように、シャアバーンの高く跳び上がり、率先して斬り込んだ。陥穽を越え、土塁を越えたとき、目に映るものにシャアバーンは愕然となった。

 今、越えてきた土塁、陥穽と同じものが行く手を阻んでいる。さらにその奥にもまた同様の防衛線が設けられているのが見えた。

「このままではまずい。本隊の突撃を止めなければ」

 だが、本隊に危機を報せようにも、この狭い足場から助走もせずに、今渡ってきた元の場所に戻るの不可能に近い。

 進退窮まっている間に、第二の防衛線の奥から火砲ザッラーカ の炎が噴きつけられてくる。シャアバーンの周りでは部下達が次々に炎に焼かれゆく。

 ――ここまでか。

 潔く覚悟決めた時、紅蓮の炎がシャアバーンを包んだ――。

 この壮絶なシャアバーンの最期を、アジャール軍は誰も知らない。後続の騎馬兵をどんどん送り出していた。

 カトゥマルの本陣でも混乱は起きていた。足場がぬかるんでいる。昨日までの雨で砂が水を目いっぱい吸い込んでいて、足で踏むと水が滲みだし、一歩一歩が崩れる。このせいで偵察が出せず本陣では戦況を把握出来ない状況が続いている。

 本陣に参謀として仕えているバラザフが何かしら采配を具申しようにも、材料となる情報が無くては捌き様が無かった。

 ――自分の目で実際を見る他無い。

 前に出て戦場を見渡し、バラザフは左側の異変に気がついた。異変というよりは進展が無い。ムアッリム隊が守備している箇所を皮切りに、そこからフサイン軍の内部へ斬り込むべきであったテミヤト隊が、ムアッリム隊の前で居竦いすく んでいた。

「フート、テミヤト隊の様子がおかしい。すぐに把握してくるんだ」

 バラザフは、カウザ を深く被って臨戦態勢に入った。

「テミヤト隊は、ムアッリム隊の守備に歯が立たず、間を空けて様子を見ているようです」

「畜生、何が功績だ! まるで駄目ではないか!」

 ムアッリムの寝返りという虚報を掴まされ、ハイレディンに謀られたのである。バラザフがこれを報告しようとすると、カトゥマルも今それに気付いたという。

「退きましょう、カトゥマル様。即時撤退して持ち直しを図るべきです!」

 バラザフの具申をカトゥマルは即決で容れて、退却を全軍に下達した。ところが切り結んでいる状態から戦線を離脱しようにも、足場の悪さがそれを困難にさせていた。ばしゃばしゃと飛沫をあげる音、怒号、悲鳴――。あらゆる音が退却指示の伝達を妨げた。

 この戦況の中、動きの悪いテミヤト隊に業を煮やしてマァニア・ムアッリムの防衛線に、バラザフの兄、アキザフ・シルバ、メルキザフ・シルバの部隊が突撃した。

 二人の部隊は一つ目のカンダク を越え、そこに構えていた火砲ザッラーカ 兵を片端から切り伏せて、次の壕に迫った。

 退き時の戦況を遠目に探るバラザフの目に、兄達の部隊が奥へ消えてゆく姿が映った。

 ――長兄、次兄、必ず生きて戻ってください。

 武人としては決して範とはいえない思いだが、それが家族に対するバラザフに偽らざる心だった。

 フサイン軍の陣に果敢に突撃をかけているのはバラザフの兄達ばかりではない。ある将は正面突破しようと何度も攻撃を繰り返して進退しているが、その数を減らしていき、部隊を痩せ細らせていた。

 アジャール軍の多くが苦戦する中、戦巧者のナワフ・オワイランは二つ目のカンダク と土塁を突破し、三つ目も越えそうな勢いを見せたが、敵兵の防御の堅さと反攻の強さに難渋していた。

 固唾を呑んで戦況を見つめるバラザフの耳に信じ難い報告が入った。

「ハイブリ様、戦死!」

 近侍ハーディル として共に年少からアジャリアに仕え、第一の親友であったナウワーフである。

 ――あのナウワーフが、ここで死んだというのか!

 自分と共に必死に走ったきた仲間が命を落とした事がバラザフには信じられなかった。

 だが、神はバラザフの悲しみをそこまででとど めておいてはくれなかった。一番恐れていた報がもたらされた。

「アキザフ・シルバ様、メルキザフ・シルバ様、戦死!」

 その瞬間、バラザフは自分の目の前に冥界の門が開かれたかのように感じた。光が見えなくなった。時がバラザフだけを置いて流れていた。

 この間にもアジャール軍の本陣には、名のある将軍達の戦死の報が続々と流れてくる。皆、古豪の武人の名ばかりである。戦力としてはおそらく五分である。だが、アジャール軍はどこの戦線でも圧倒的に不利な戦いを強いられている。

「カトゥマル様、退却です! 今付いて来れる者だけでも生き延びさせるのです!」

 バラザフはようやく息を吹き返して軍師の目に戻った。カトゥマルは前線で戦っている将兵を見捨てるに忍びず、退却を迷っていた。そこへ、

「カトゥマル様だけでも何卒退却を。全滅だけは回避せねばなりません。ハリティ、オワイランの二人が敵の追撃を食い止めます!」

 オワイラン、ハリティの部隊の遣いが、飛び込んでくるなり、涙ながらに叫んだ。

 名将が数多命を散らすこうした激戦の中で、テミヤト隊はとうに後方に退避していた。カトゥマルに報告もしていないという始末である。

 バラザフは、下士官にカトゥマルを連れて行かせて、オワイラン、ハリティの部隊の遣いに、

「カトゥマル様には退避していただく。両将軍の武運を祈る。カトゥマル様はこのバラザフ・シルバが責任をもってハラドへ生還させる故、ブライダーで落ち合うようにと、伝えてくれ!」

 と答えて、本人達のつもりでその手を固く握った。

 ムサンナの死闘の一日がもうすぐ終わろうとしている。

「防塁に囲まれて我等の本領が発揮できなかった」

「悔しくて死ぬに死ねん」

 ハリティとオワイランは、アジャール軍の力を出し切れなかった悔しさを自分達に向けていた。

「だが、追撃してくるとなれば、この防塁から敵は出て来ざるを得まい」

「後はあのシルバの若造に任せてもうひと暴れしようぞ」

 ハリティもオワイランも、そして散っていったシャアバーンも、アジャリア・アジャールから戦いの息吹を吹き込まれている。

「まともにやり合えば我等は無敵ぞ」

 というのは決して自惚れではないのである。

 レイス、フサインの本陣にカトゥマル退却の報が寄せられると、追撃の軍が繰り出された。

 ハリティ、オワイランは生存している将兵を再編した。まだ一万五千、戦える数である。

「我等アジャールが冥府の門を開いてくれる! フサイン、レイス軍を道連れに、冥府でアジャリア様に再びお仕えしようぞ!」


 ――インシャラー!!


 ハリティ隊、オワイラン隊の吶喊とっかん が大きく響いた。

 フサシン軍、レイス軍の追撃の兵力は五万。 

「兵士諸君、最後の教練だ。寡兵での戦い方というものを教える」

 ハリティ隊が最後尾、つまり敵の真正面に出た。

 追撃部隊の先頭の兵力を少し削り、すこし切り結んですぐに後ろに下がるという戦術である。

 ハリティ隊が下がると、すぐにオワイラン隊が出て敵の戦力を齧り取ってゆく。

 だが、ハリティ隊、オワイラン隊も無傷のままではいられない。一人また一人と敵の刃に倒れ、最後には全てが大軍の波に飲み込まれていった。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。


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