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2020年5月5日火曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第4章_10

 フートが走り去ってから一刻――。アッシャブートからフートを通して報告があげられた。
「メフメト軍はアジャール軍が待ち伏せを迂回すると読んでいる。そのためバーレーンからの本隊と合流待ち待機場所からは動かない」
 バラザフはこの情報を、メフメト兄弟は城邑アルムドゥヌ の防衛戦でアジャール軍から手酷くやられているのでシアサカウシンから、
 ――こちらから仕掛けるな。
 との命令が出されていると解釈した。
 まだフートからの情報はある。
「敵味方の諜報戦が熾烈です」
 配下のシルバアサシンが各方面で必ずシーフジンと遭遇しているが、今の所戦闘は回避出来ていると続けた。
「シーフジンもアジャール軍の情報をもぎ取ろうと躍起になっております」
「フート、予め戦闘を許可しておく。この場合こちらの情報を守るのが優先される。敵の情報を取れなくとも良いから、各自の判断で始末して構わない」
「承知」
 作戦とアジャリアの意図を鑑みると、別働隊の情報だけは何としても秘さねばならないのだ。
 結局、シーフジンとの戦闘が多発した。
 シーフジンに対応するには、彼らの移動力を封じる事が肝要である。ここでシルバアサシンの連携の良さが活きた。
 ある所では網を張り、ある所では縄を巡らせ、砂地に伏せて、シーフジンの足を止めに掛かった。それで各所でシルバアサシンとシーフジンとの戦闘に発展した。
 ここで判ったのは、シーフジンは先にオクトブートと遭遇して霧消してしまった者のように、捕縛されたからといって皆が皆、消えるわけではないという事である。
 フートは配下全員に、
「モハメド・シーフジンはカウシーン・メフメトの傍近くで勤めているという話だ。よって戦場には出てきてはいないと見ていい。モハメドに統率されればシーフジンの連携も侮れぬものになるだろうが、各々ばらばらであれば我等シルバアサシンが奴等相手に危うくなる事は無い」
 と自身の思惑を伝えてある。中には消えてしまう奴もいるであろうが、シーフジンの中で唯一恐るべきは首領のモハメドであるとフートは考えている。
 バラザフは、これらのを情報を取りまとめる事から、別働隊のワリィ・シャアバーンよりも先陣に居るアブドゥルマレク・ハリティへの情報伝達が優先されると判断した。アジャリアへの報告には弟のレブザフが走っている。
 レブザフが持ってきた情報はアジャリアを喜ばせた。
「待ち伏せておきながらメフメト兄弟は我等が戦闘を回避すると読み違えたか。ふふ……、九頭海蛇アダル から通り一遍等の知恵が出るわけがあるまい。わしは定石を外すことも中てる事も出来るのだ」
 そしてハリティを急がせるようにアジャリアからバラザフへの指示を持ってまたレブザフは駆けた。敵が油断している今が攻め時である。
 アジャール軍のこの動きを見たメフメト兄弟は、傍から見ても分かるくらいに青ざめた。先の戦いで自分達がアジャリアに敵わない事は証明されてしまっているのである。
 アジャリアの言葉通り待ち伏せておきながら、彼らはアジャール軍との遭遇を想定していなかった。
「何故、アジャリアがこちらに向ってくるのだ!」
「あれもまたアジャリアの幻影タサルール とやらではないのか。こちらに影を当てて本隊は砂漠を横断して通り過ぎるに違いない」
 アジャール軍によって混乱させられているのは、上だけでなく下の諸将もである。ここに召集された意味を知らない彼らは、
 ――アジャール軍と戦う事になるとは。
 ――アジャール軍に交戦の意思は無いらしい。
 と噂して浮き足立った。
 その通り上からも彼らは命令されており、言われた地点へ布陣すればアジャール軍は迂回して通り、後はバーレーンのメフメト軍主力が追撃し、そこから挟撃にうつればよいと一応安心させれていたのである。
 シルバアサシンや、アジャール軍のアサシンはこれを衝いた。流言を用いてこの噂により真実味を持たせたので、メフメト軍の将兵の間では、いよいよ、
 ――アジャール軍は迂回路を取る。
 との情報が浸透しきっていった。
 内部に流言がこれ以上拡散して、より困難な状況に陥るよりは、
「まだ勝機のあるうちに事に挑もう。向ってくるアジャール軍に先手を打つ」
 と、ソコルルとメフメト兄弟は、先制攻撃の方針を決めた。
 同時にこの情報は、バラザフのもとへ流れてゆく。バラザフは先陣に居るアブドゥルマレク・ハリティの所へ向う途中でこれを受けて、敵がアジャール軍を迎え撃つ構えになっている事をアブドゥルマレクへ知らせるために馬の脚を速めた。
「伝令将のバラザフ・シルバだ。そこを通してくれ!」
 暗闇を照らす松明を持つ兵の間をバラザフは駆けて通る。
「ハリティ殿、アジャリア様からの伝言を持って参った!」
 バラザフは、敵の動き、アジャリアの指示に加えて、先ほど入ったメフメト軍が交戦の構えを見せているという情報をアブドゥルマレクへ伝えたところで新たな伝令が駆け込んできた。
 ――メフメト軍、火砲ザッラーカ を発射!
「怯えた威嚇射撃だ。あの場所からはこちらに火砲ザッラーカ は届かん。どちらにしろ交戦する気のようだな。バラザフ、全軍に戦闘の準備をさせてくれ」
 先鋒の本部のアブドゥルマレクの陣を出て、最前線へ向けてバラザフは走った。一番前に配置されているのはハッターン・アルシャムラニという将である。
 アルシャムラニに伝令を終えた所で再びメフメト軍の火砲ザッラーカ が一斉射撃された。
「今度はかなり近いな」
 火砲ザッラーカ が宵闇の空の赤く焼いているのが見えた。おそらく今の発射で全て撃ってきたはずだ。
 ――予備の発射を残しておいて反撃される危険はあるが、しかし、
「次の発射までに一気に仕掛けるぞ!」
 メフメト兄弟にそこまでの機知は無いとバラザフは判断した。急場、伝令将の任に就いてはいるが、バラザフは部隊を率いる身分である。伝令の間にも常に彼の部隊は随行してきており、バラザフは弓兵に先ほど炎が見えて明るくなった場所を指して攻撃を命じ、騎馬兵は自身と共に突撃するように指示した。万が一次の火砲ザッラーカ が来た時に備えて、また以前のように砂袋投げて炎を防ぐ手配も忘れなかった。
 闇夜の空を弓矢がはし って裂いた。準備に時間のかかる火砲ザッラーカ と比べて、弓矢での攻撃は連射も出来るし、急場の小回りも利く。
 音から判断して弓兵の攻撃は効いているようだ。
「好機! 一気に押し掛けるぞ!」
 伝令将でありながら、その場に居合わせた都合で、バラザフが最初の切り口を作る形になった。
 馬上で両手に諸刃短剣ジャンビア を持って構える。そして、灯明がある位置を目指して駆けた。火砲ザッラーカ を敵が撃ってきたために攻め時が生じただけである。悠長に構える時間は無かった。
「敵を見つけたらとにかく斬れ! もたもたしているとこちらが火砲ザッラーカ の炎の馳走にあずかる事になるぞ!」
 暗闇故の同士討ちも回避するよう指示した。当然ながら同士討ちというものは、進行方向が交わるから発生するものである。よって扇状に各自が斬り進んでいけば味方とはぶつからないという一応の理屈である。言葉で敵味方を判別する方法もあるが、今回はこの方法を採った。
 先に斬り込んでいった者らに続いて、手持ちの矢を撃ち終えた弓兵も得物を抜いて攻撃に入った。
 予想通り火砲ザッラーカ は一斉射撃した後で、反撃らしい反撃も無く敵部隊は俄かに崩壊した。
 一人、バラザフに斬りかかってくる者があった。質の良い装備から火砲ザッラーカ 隊の隊長であると思われた。
 相手は素早く剣を突き出してバラザフを仕留めようとするが、その切っ先は全てバラザフの諸刃短剣ジャンビア なされ、最後には左の刃で大きく弾かれた隙に、右の刃で心の臓を貫かれ絶命した。
 すぐに周りを警戒し視界を巡らせてみると、各自、敵の殲滅を終えた部下達が集結している所である。兵等が集まってきた場所では二人が刃を交えている最中であった。どちらかが味方でどちらかが敵である。
 その片方の頭にあるカウザ と両手の諸刃短剣ジャンビア からバラザフだと判断し、彼が敵将を仕留めた瞬間、歓声が沸き起こり、その渦は周囲のハッターン・アルシャムラニの部隊にも伝播していった。
 ――見事!
 と手柄を寿ことほ ぐ声まで聞こえてくる。
「十分に働く事が出来た。この場はアルシャムラニ殿の部隊に任せて我等は伝令の任に戻る」
 バラザフが自部隊に退却を命じた所に、アルシャムラニ隊がやってきて入れ替わり、陣地を確保した。アジャール軍の陣地が一歩進んだ形になる。
「さすがはバラザフ・シルバ。伝令の任にありながらその機転で緒戦を制してしまうとは」
「いえ、行きがかり上、巻き込まれたに過ぎません」
 全方面で剣が交わり始めた。バラザフの戦いがきっかけとなったのである。
 両軍の火砲ザッラーカ が火を噴いて、夜の砂漠を明るくした。
 アジャール軍が分隊して稼動しているため、メフメト軍もこれに対して隊を分けて対応しなくてはならない。ハリティの部隊は敵を斬りながら圧している。士気は十分である。
 戦戈は荷隊カールヴァーン を護衛しているナワフ・オワイランの部隊にも及んだ。
「積荷を死守せよ! 守りきるのだ!」
ナワフは必死に叫ぶ。こちらは劣勢を強いられていた。
 敵の放った弓矢に荷隊カールヴァーン の護衛隊の小隊長の一人が眉間を射抜かれた。途端に配下の兵が悲鳴をあげて慌てふためき始める。戦線の弱まった所に敵兵が殺到した。
 ナワフは部下を怒喝しながら敵を必死に防ぐ。小隊長を失った部隊を急いで他の小隊長の指揮下に入れた。
「守りきるのだ! 勝てない敵ではない!」
 隊列が乱れ、敵味方が入り混じっている。誰もが暗闇の中、剣を振り回していた。
 乱戦が一刻ほど続いた後、別働していた部隊を連れてワリィ・シャアバーンが荷隊カールヴァーン の加勢に駆け付けた。すでに自分の持ち場の敵は片付けている。
 奮って抗戦する荷隊カールヴァーン を押し切れなかったメフメト軍は、背後にワリィ・シャアバーンが部隊が俄かに出現し、前後から挟まれる形となった。
 七万のワリィ・シャアバーン隊が鯨波を伴ってメフメト軍を圧殺しにかかった。
 メフメト軍の数は十三万。数ではかなり有利に見えるが、その実、メフメト勢力圏内から集まった烏合の衆で、あわよくば脱走の機会を窺う兵もいるほどである。
 結局の所、まともに戦意があるのはメフメト兄弟とソコルルとその他数名のみで、あとは兵を束ねる隊長格でさえ、後ずさり始める始末である。メフメト兄弟の命令を待たず、ほとんどの将兵が戦場を離れようとしている。その点ではアジャリアに侮られ、雛鳥ファルフ と揶揄されているとはいえ、メフメト兄弟はまだ将として資格があるといえた。
 まもなく夜が明ける。
 旦日シュルーク が地平より顔を出し、戦場の砂を橙色とうしょく に染める。
 始めに挟撃を仕組んでいたメフメト軍は、現前、アジャール軍に挟撃されているという事態である。
「御兄弟、これ以上の戦闘は無用と思われる。戦死は回避すべきです。撤退命令を出すべきです」
 大局眼を持つソコルルでも、この不利は押し返せないと見た。今、アジャール軍の勢いは強すぎる。
「ここに至っては犠牲がさらに増えるばかり。撤退命令を」
 ついにメフメト兄弟から撤退命令が出された。ただでさえ逃げたがっていた将兵らは、形振り構わず散り散りになって姿を消していった。
 そのメフメト兵をアジャールの騎馬兵が、駱駝騎兵が掃討を始める。
「神が我等の勝利を望まれた」
 戦況を見つめていたアジャリアの口から安堵の声が漏れた。その安堵も束の間、すぐに、
「バラザフ!」
 声を大にして呼び声をあげた。
荷隊カールヴァーン と全軍の被害状況を確認せよ」
 いまだアジャリアは勝利に落着してはいられなかった。先に彼が申し渡したとおり荷隊カールヴァーン が無事でなければ彼らの帰還はかなわない。
 バラザフは馬を駆けた。戦いが始まる前と違って、朝に降りた露が今度は腕に冷たく感じられた。
 ある場所でフートが立ち尽くしていた。足元に物言わぬ身体が数多転がっている。
「何があった。フート」
 フートはすでにここには無い心でバラザフに答えた。
「モハメド・シーフジンが出ました……。奴は……。奴は怪異です」
「こちらが戦いを制したのか」
「こちらが倒したのは九人、こちらは六人殺されました」
 バラザフは再度足元の死体に目をやった。その数は十四である。
「一人足りないようだが」
「私です。私はここで死んだのだ」
「だがフートは俺の目の前で現に生きているではないか」
「モハメドは私をやれた。喉下に刃を突きつけ、そしてやらずに消えていったのです」
 バラザフの前に立つフートはただ肉体が生きているだけのようで、心と魂が剥離しかかっている。だが今放心を求めれば或いはまだ間に合うかもしれない。
「ならば大死とせよ。今、絶後に蘇り今まで以上に奮起せよ。フートはもう死んだ!」
「は……」
 バラザフの言葉はひとまずフートの心に救いを与えたが、まだフートが力を戻すには至らなかった。生きる屍になりかけているフートを言葉の剣で斬り、バラザフはフートにそう言ってやる他なかったのである。
「本当は我等が完全に優勢でした」
 フートはバラザフのため何とか先程まで起きていた戦いを述懐した。
「戦いが終わった瞬間、モハメドが現れました。奴は私の配下を一瞬で屠り、最後に私は青い煙を見たのです」
「なるほどな……」
 つまり、シーフジンが前線での敗戦をカウシーン・メフメトに報告するために出てきており、フートの命をわざと取らなかったのはバラザフに恐怖を伝えるためで、
 ――シーフジンとメフメトを侮るな。
 という釘刺しのようなものであろう。バラザフの方にはまだ、そう分析する冷静さが残っていた。
 この惨状の現場に各方面に散っていたフートの配下が戻ってきて、皆、一様に驚嘆した。
「一体何が……」
「モハメド・シーフジンが出たそうだ」
 胸詰まらせるフートの代わりにバラザフが答えた。
 フートの配下達は、
「いかにモハメド・シーフジンが伝説のアサシンでもシルバアサシンの総力なら倒せるのではないか」
「姿を見ても正体が分からぬでは倒す方策が立たん」
「だが首領が生き残れたのは幸いだった」
 と口から出る言葉は様々であるものの、心の内は同一に暗澹としたものである。
「シーフジンと対決する時が迫っているのかもしれない。その時までにフートの指示によく従い各々力を蓄えるように」
 バラザフはフートの顔を立ててやるのを忘れなかった。
「バラザフ様の言葉通りシーフジンとの対決は回避出来ぬだろう。それは逆に仲間の仇を返す機会が与えれるという事だ」
 ようやくフートがアサシンの首領の顔に戻ってきた。
 モハメド・シーフジンの方は、戦線情報を把握を望むカウシーンの指示を受けて、配下を遣わさずに自身が前線に赴いていたのである。
 報告に戻ろうと駆けるモハメドの視界に配下のシーフジンとシルバアサシンの戦闘が目に入り、シルバアサシンを次々に斬って帰ってきた。
「戦線にて我等メフメト軍は敗北。戦後、アジャール軍はリヤドに向けて退却し始めている模様」
 報告するモハメドの顔色はメフメトから仮面のせいで分からない。その口から出る声も、ただ事実を淡々と述べるのみである。
「こちらは手痛くやられたであろうな」
「アジャール軍が把握した情報を借りるならばメフメト軍の戦死者は三万二千、負傷者は数え切れず」
「向こうはどうだ」
「戦死者三千、負傷者六千」
「負けるにしても負け方が酷すぎるな」
「あくまでアジャール軍の情報ですが」
「いずれ愚息等も帰還するであろう。それで再度確かめよう」
 敗戦から命拾した者らが語る言葉によって、カウシーンはモハメド・シーフジンの報告に誤りは無かった事を知らされた。
「息子達よ。父はアジャリアと初めて対決し、そして負けた。大きな戦いであったなぁ……」
 カウシーンは寂しく笑い、細めた目をおぼろげに遠くに遣った。
 俯いて物も言えぬ息子達の中で、シアサカウシンだけが、
「父上は大鳥ルァフ なのです。大鳥ルァフ は地に墜ちる事は無い。墜とされたのは我等だ!」
 父カウシーンの敗北を否定し、最後まで大鳥ルァフ であらしめようとした。翼で飛べない自分達の代わりに、父だけでも大鳥ルァフ として飛翔していてくれれば、それでメフメトの誇りが守れるような気がずっとしていた。同じ思いは後ろのムスタファ、バヤズィトにも当然あった。
「それは違うぞシアサカウシン。大鳥ルァフ といえども土から生まれた物であろうよ。ならば翼を風に永遠に乗せている事など出来ぬのが道理なのだ。アジャリアはカウシーンに圧勝した。この先そう語り継がれてゆく事だろう」
 それを聞くシアサカウシンにもはや言葉は無かった。あるのは自分達の不甲斐無さで父の名を貶めてしまった事への無念だけである。
「我等は義人と世間で称されるサラディンをあてにし過ぎたのだな」
 カウシーンの見る西の海の先には広大な砂の大地が広がり、さらにその先に今日の太陽が沈もうとしている。
「父の死後は、ベイ軍とはそれで手切れとせよ。義侠心は確かに価値ある物だ。しかしこの世でそれより価値ある物は生き残るための力だ。父が死んだらアジャール軍を頼れ」
「はい……」
「あの九頭海蛇アダル の懐に潜り込んで背中に乗ってやれ。乗り心地は最悪だろうがな」
 愉快そうに笑うカウシーンは、最後にはやり切ったという清々しい顔になっていた。
 数年後、大鳥ルァフは 地に降りて羽根をゆっくりと静かに休めた。そしてシアサカウシンは父カウシーンの言葉を守り、アジャール軍との同盟を成立させた。これもアジャリアのクウェート侵攻を再開する上で盤に組み込まれる事になる。
「あれだけ叩きのめしておけば、メフメト軍がわしの行く手を阻む事はないだろうからな」
 ハラドに帰還したアジャリアは早速、全軍にクウェート侵攻の方針を示した。
 先の戦功でバラザフはさらに昇格し、配下が増員され、弟のレブザフも配下を与えられ、兄とは独立した百名程の自分の小隊を持つ事が出来るようになった。
 息子達の出世を聞いた父のエルザフは、
「あの苦境の頃の死なぬ覚悟がここで生きてきた」
 と彼ら以上に喜びを噛み締めていた。

※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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(2020.06.05公開予定)

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2019年11月25日月曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第3章_19

 ハサーの包囲はナビール・ムフティという家来の部隊に任せて、自身はダンマームへ向けて出発した。アジャリアはダンマームの攻撃もカトゥマルに任せるつもりでいる。
「カトゥマル、ダンマーム攻撃でもお前が指揮を執るのだ。もちろんバラザフも一緒ににな。それとファヌアルクトを副将とする」
 ファヌアルクト・アジャール。ベイ軍との戦争で戦死したエドゥアルド・アジャールの息子であり、その名に猫の牙の意味を持つ彼は、その名の如く素早く敵を仕留めるの攻撃を得意としている。が、人を殺めた事はまだ無い。カトゥマルにとっては従兄弟であり弟のような間柄である。バラザフにとっては敬愛していた師匠の子供という事になる。カトゥマル同様、アジャリアの剣として武勇を賞賛されてはいるが、その実、猪突な性格で周囲を困らせる事もしばしばである。
 ダンマームはバーレーン要塞の西の対岸にあり、要塞の緩衝の役割を持つ拠点である。ペルシャ湾では一、二を争う貿易港で現代経済の中心地の一つであるアル・コバールと連携され、リヤドとも繋がっている。経済活動は農業、酪農を中心に行われている。
 太守はカウシーン・メフメトの子バヤズィト・メフメトが務めている。バヤズィト・メフメト、二十五歳。カトゥマル・アジャール、二十五歳。今、ダンマームの守備に二万の兵が充てられていて、しかもつわもの揃いである。太守バヤズィトも戦いの指揮に関しては、腕に覚えがある。だが、アジャリア・アジャールが二十万の大軍で接近していると知らされて、その自信は翳り始めていた。何をされるかわかったものではない。
 目下、アジャール軍のナジ・アシュールと一万の兵らが陣を張り始めているのが見える。バヤズィトの認識ではアジャリア本隊はまだハサーに居る事になっている。
 ――アジャリアがやってくる前にこいつらだけでも片付けよう。
 アジャリアさえ居なければまだやり様はいくらでもあるはずであった。
「あそこに居るアジャリアはおそらく幻影タサルール とやらだろう。勝てるうちに勝っておく」
 到着して間もないアシュール軍を、ダンマームの兵が襲った。しかし、敵の一万に一万五千を当てて戦ったにも関わらず、メフメト軍は崩れて城内へ逃げ込んだ。
 ――アシュール軍に居るアジャリアは本物だ。
 という認識をダンマーム側は持つようになり、それが報告としてバーレーン要塞にも伝えられた。ここでも幻影タサルール 効果が出始めている。
 ダンマームの緒戦の勝利はアジャリアの機嫌を大いに良くし、彼の食指をまた進ませた。
「カトゥマル。一週間でダンマームを陥とせ。アシュールの強兵を頼みとすれば強攻めでも良かろう」
 これにカトゥマルも大きく頷いた。元より猪突な性格の彼であるから、アジャリアのこの意に異を挟むものではなかった。傍で聞いていたバラザフもアジャリアの意向ならばと、攻撃の準備に入った。とはいえ城邑アルムドゥヌ 攻めるのはいつもながら楽観視は出来ない。バラザフは自分の部隊に十倍の敵と戦う覚悟を持つよう引き締めた。
「強攻めは無駄死にせよという意味ではないからな。奇策を用いぬというだけだぞ」
 両軍の矢が飛び交い、火砲ザッラーカ が火を噴いた。
「城の区画を少しずつ削るように取っていきましょう」
「だが父上は一週間で陥とせと仰せであった」
「十分出来うる時間かと存じますが」
 この日のうちに城から打って出る部隊があり、カトゥマル自らが単騎駆でこの隊を打ち破った。
「アジャリアの剣、カトゥマル・アジャールぞ! 冥府を希望する者は我が前へ出よ!」
 その後は乱戦になった。敵兵を跳ね飛ばして進み、敵将に一騎打ちを仕掛ける様は猪突な彼の性格をそのまま現していると言ってよかった。
 このカトゥマルの暴走ともとれる奮闘は結果として敵の意気を挫き、味方の士気は大いにあがった。補佐としてついているバラザフにとっては冷や汗ものだったが、幼馴染のカトゥマルが手柄を立てる雄姿を見て、心晴れやかになる部分も少なからずあった。
 カトゥマルと同じ毛色のファヌアルクトもこれに手放しで喜び、
 ――次は自分が単騎で駆けてやろう。
 と意気込んだ。
 バラザフはこの機に城内に退却する敵兵と共に中へ乱入した。先陣に出て戦うカトゥマルに触発され、闘志に火がついたのである。シルバ軍は逃げ込む城の兵の直後に付けて、気付かれないまま楽々と門を潜り、一区画を突破した。その辺り、闘志の火の中にバラザフは彼らしい冷静さも隠し持っていた。
 一つ目の広場に出た所で、
火砲ザッラーカ に備えよ」
 と注意を喚起した。城内で火砲ザッラーカ の集中砲火を浴びて一網打尽にされる危険がある事は最初に危惧したとおりである。ここまで突入してきたのも見込みの要素が大きい。
 部隊に防衛線を準備させている間に、城内の地勢を見渡すと奥の塔の上で質の良さそうなコラジン を着た若い将が自ら火砲ザッラーカ を構え砲口をこちらに向けている。
 ――あれが太守のバヤズィトだな!
 咄嗟にそう判断したバラザフは、腰の諸刃短剣ジャンビア を抜いて、バヤズィトを思しき人物目掛けて、目一杯力を込めて投げつけた。
 放たれた諸刃短剣ジャンビア はバヤズィトではなく彼の構えている火砲ザッラーカ の砲口へ入った。火砲ザッラーカ の火は外へ噴かず諸刃短剣ジャンビア のせいでこもる様に暴発して、爆炎がバヤズィトを包んだ。
 バヤズィトは近侍の者に介抱されて、そのまま姿を消した。
「狙い外したが案外届くものだろう」
「兄上、あの諸刃短剣ジャンビア は」
 バラザフの持つ諸刃短剣ジャンビア の貴重さをレブザフは知っている。
「数あわせで買った一本だ。それ以外はどれも失うわけにはいかぬ代物だから」
「咄嗟に一本を選ぶとは」
「普段からこれを抜くように訓練していただけさ」
 バラザフは空になった諸刃短剣ジャンビア の鞘を軽く叩いた。
「とはいえ、男の誇りである諸刃短剣ジャンビア を投げつける事自体、あまり感心は出来ませんよ」
「今後は常に投槍ビルムン の者でも待機させておくか」
 バラザフはほとんど気にしていない。
「おそらくバヤズィトは大火傷を負っただろうから、しばらく指揮は執れないだろう」
 そして先に命じておいた火砲ザッラーカ 対策の砂袋と防衛の隊列が整ったところで、奥の区画の門が開き敵の火砲ザッラーカ がまたもや火を噴いてきた。
「砂は投げなくていい。積み上げて門を塞いでしまえ」
 と、炎による攻撃を封じてから、
「弓兵、塀越しに矢を射掛けてやれ」
 三百人の弓兵が上に向って矢を乱射する。バラザフ部隊に所属する弓兵達も委細心得ていて、門の向こう側の敵兵に当たるように、天を射抜くような角度で弓矢を構えて放ち続ける。
 シルバの弓兵は城内の火砲ザッラーカ 隊を駆逐した。火砲ザッラーカ 部隊は前方が塞がれ、どうしたものか往生しているうちに、上から矢の雨が降ってきて、為す術無く自分の身体を矢に晒す他なかった。
「期限まであと残すところあと一日だが、我等の盛んな攻撃でダンマームもあとは中央だけだな」
 カトゥマルもバラザフも戦果に大いに満足していた。
 しかし、ここに至ってアジャリアの口から退却の命が出た。アジャリア本陣では三人のアジャリア・アジャールが威風堂々として座している。
 ――アジャリア様が三人も居るぞ。
 諸将は自分達の目に映るこの信じがたい状況について囁き合っているが、アジャリアはこれに一切取り合う様子も無く、
「今日までのダンマーム攻撃の戦果とは何か。敵に恐怖を植え付けた事である。これはバーレーン要塞の布石と心得よ」
 と改めて諸将に方針を訓示して、
「カトゥマル、静かにダンマームの包囲を解除せよ。今宵の内にダンマームを去るぞ」
 と即時撤退を命じたのである。
 明朝、全身火傷の身体を包帯に包んだバヤズィトは、痛みを我慢しながら指揮に出ようとしていた。
九頭海蛇アダル はどうした…」
九頭海蛇アダル などおりません」
「そうではない。アジャール軍だ。奴等から何としてでもこのダンマームを死守しなければ……」
 塔に登ってバヤズィトが見た物は、一週間前と同じ砂漠の静かな朝靄だけであった。

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2019年11月15日金曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第3章_18

 アジャリアが想定したとおり、宵闇に城内から偵察兵が出てきた。これがバラザフが手配しておいたアサシンの罠に掛かった。アサシンの長はフート、つまり鯱と呼ばれている。元々、父エルザフに仕えていたが、現在シルバのアサシン団の半数がこのフートと共にバラザフの配下として働いている。
「メフメトの偵察兵を捕獲……」
 フートはいかにも裏舞台で生きる者らしく静かにバラザフに報告を入れた。
「何か吐いたか」
「五百名程で出撃してくる模様」
「それは俺たちで対処しよう。お前達は配置に戻れ」
 その情報をすぐにカトゥマルに入れて、迎え撃つ備えをしなければならない。
「日が昇る前に来そうか」
「おそらく」
「俺も出撃する」
「それはなりません」
 バラザフは、参戦するつもりでいるカトゥマルを、小規模戦闘には総大将は出るべきではないとして制した。まだカトゥマルにはアジャリアの剣として戦っていた武人として気質が抜けない。バラザフにアジャール軍の系譜である事を再認識させられて、ここは彼らに任せておく他なかった。
「こちらが待ち構えているのは向こうも承知だ。その上で出てくるのだから敵は死力を尽くして来るぞ」
 ――火砲ザッラーカ ! 一気に撃て!
 バラザフが配下を引き締めたその時、城内から火砲ザッラーカ が火を噴いてきた。
「慌てず砂袋投げ掛けてやれ」
 兵達が射線に向けて砂の詰まった袋を投げる。袋は空中で火の玉となり砂が舞った。無数の砂粒が拡散して霧のように膜になり炎を防ぎ熱を吸収している。撒き散らす砂の中で、袋の一つが爆破した。
「誰だ! 間違って小麦粉を投げた奴は」
 どうやら準備の段階で糧秣の袋が一つ紛れてしまったようだ。その炎もやがて舞う砂に呑み込まれ消し去られていった。誰に対してというわけでもなく兵を怒鳴りつけたバラザフだったが、内心に怒りは無い。火砲ザッラーカ の炎を巧く防ぎ、緒戦から上首尾である事への高揚の顕れである。
 やがて炎が途切れ、敵が門扉を大きく開き、百名程が打って出てくるのを機に、
「今だ! 矢を射かけよ!」 
 と反撃を命じた。
 門から出てくる敵に真横に射られた矢が突き刺さってゆく。ほぼ狙撃の形に近い。
 バラザフは弓兵を百人ずつ三部隊を編成していた。この三部隊で射撃稼動を循環させ、メフメト軍を襲う弓矢の凪は生じなかった。
 幸運にも撃ち漏らされて弓隊に一矢報いんと突撃をかける者も、脇に配置されたアサシンの投擲で着実に始末されていった。
 当然、バラザフは定石である槍兵も用意している。二百名の槍兵が門の傍で転倒している敵兵に止めを刺さんと襲い掛かる。その横を次の火砲ザッラーカ に備えて砂袋を携えた軽歩兵が駆け抜けてゆく。
 ――これしきの小競り合いでは少しの損害も出したくないからな。
 奇策という程の戦術ではない。だがバラザフは一手一手を細やかに指示して、味方を一人も死なせなかった。門の所には百を越える骸がある。それらはすべてメフメト兵で生者は全てアジャール兵である。
「これで十分だ! 一旦退くぞ」
 僅かに生き残った敵兵が城内に退却してゆく。良い戦果だとバラザフは認識していた。ここで逃げてゆく敵兵と一緒に門内へ駆け込んで攻撃するという手もある。だがバラザフはその戦術を取らなかった。
「門が開いている内に駆け込まないのですか?」
 例によってレブザフが尋ねる。
「うむ。敵が先に火砲ザッラーカ を使ってくれたのが幸いした。あれを知らずに城内に駆け込んでいれば、門を閉められて今頃集中砲火で一網打尽になっていたところだな」
「ついていましたね」
「ついていた。全てを想定しきるのは至難だからな」
 この時、フートの配下が城内へ駆け込んで様子を窺って来た。そして城内では火砲ザッラーカ が構えられ、弓兵も多数待機していると、バラザフの予想を裏付ける報告をした。
「手際の良い見事な戦術だった。見た目は小競り合いだがこの勝利は大きな意味を持つだろう」
 レブザフを通して報告を受けたカトゥマルは満足な様子を隠さず表した。
「俺はバラザフの活躍が我が事のように嬉しい。勿論父上もお喜びだった」
 アジャール軍の士気が上がる一方で、この一戦でメフメト軍の士気は一層低下し、中から突進してくる気概はすっかり失せてしまったようである。だがアジャール軍はおとなしくなったメフメト軍を黙って囲んでおけばよいというわけにはいかず、ベイ軍やバーレーンのメフメト軍からの援軍を相手した小戦闘はしなければならなかった。
 アジャリアはこれらの戦闘の勝利に満足しつつ、ついに自らも稼動体勢に入った。
「ハサーの包囲はここまでだ。次はダンマームに向う。ナジ・アシュールが待っている頃合だ」
「ダンマーム攻略に入るのですか」
 傍に仕えていたワリィ・シャアバーンが尋ねた。
「取れるものなら取っておきたい。が、強攻めは不要。ハサーと同様にダンマームもアジャール軍に手出しが出来なかったと、バーレーンのカウシーンとシアサカウシンに知らしめるのが目的だ」
 ――アジャリア様の狙いがハサーでもダンマームでもないとは思っていたが。
 ――さりとてバーレーン要塞を本気で攻撃するとも思えんな。
 事ここに至ってもアジャリアの真意が読めず、ワリィとアブドゥルマレクは囁き合っていた。
 ――カウシーン・メフメト殿にこれから会いにゆくのだ。
 アジャリアは記憶の中のカウシーン・メフメトという人物と対面しようとした。が、
「傷だらけだったのは憶えているが、なぜか目鼻がちっとも思い出せんな……」
 ――この方はアジャリア様だったはずだが、いつの間にやら幻影タサルール と入れ替わったのか?
「お前たち。わしは本物のアジャリア様ぞ。ん?」
 ワリィとアブドゥルマレクの囁きをアジャリアは愉悦を含んで窘めた。
 ――今、アジャリア と仰ったぞ。
 ――だが、あの自信はご本人の物に他ならぬ気がする。
 もはや重臣達ですら真実が分からなくなっていた。二人は臣下としてはいささか不敬な程、アジャリアをじっと観察している。
「面白くなってきた。ダンマームで待つアシュールの部隊にもわしが居る。メフメト軍の目にはこれはど映るだろうか」
 悪戯を仕掛けてその成果を待つ悪童のようにアジャリアは一人笑っている。

※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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2019年1月10日木曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第1章_14

 アジャリアの戦法の独特なものとしてタスラム部隊がある。歩兵の懐に石膏で出来た投擲武器を持たせ、敵と遭遇したときに渾身の力でこれを投げつけるのである。
 物をぶつけられて怯んだ、また、タスラムの石膏の破片で視界が遮られた敵に槍兵が突撃をかけ、出だしの敵味方の士気に差をつける。そして士気の下がった敵はたちまちのうちに駱駝騎兵の餌食になる寸法である。
 このタスラム部隊の戦法は、部隊が偵察等において少数かつ単独で敵に遭遇したときにも有効であり、タスラムを投げた後、歩兵自身が素早く抜刀して斬り込めばよく、数で不利な場合は逃走の生存率が著しく高まる。
 駱駝騎兵を率いるのはヤルバガ・シャアバーン、ワリィ・シャアバーンの兄弟である。さらにその後ろに精鋭のアジャール騎馬隊がずらりと並んだ。
 そして、それらを援護する者として火砲ザッラーカを装備した駱駝騎兵を各所に配置した。
 アジャリアは、本陣の天幕ハイマから出て、革盾アダーガの柄を立て悠然と椅子に座った。

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