2020年6月5日金曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第5章_1

 メフメト軍との戦いから帰還してより、バラザフはまたアジャリアの傍で勤務するようになった。アジャリアの傍で働くのは近侍ハーディル として仕えていた少年時代以来である。
「戦いは敵兵を倒せばよいというものではない。城邑アルムドゥヌ を強引に奪い取ればよいというものでもない。敵も味方も出来うる限り死なせない事が最上だ。隊将は武技だけ持っていてもいかん。わかるな、バラザフ」
 勿論、バラザフにとっては言われるまでも無い極めて基本的な事柄ではあるが、アジャリアから慈愛を込めて含むように諭されると、その言葉が千金の価値があるように感じられるのだった。それはアジャリアから得られる知恵は漏らさず貪欲に吸収していこうとバラザフは常日頃から思っているからである。
 バラザフ・シルバ、二十五歳。ズヴィアド・シェワルナゼから戦術、城邑アルムドゥヌ 建設を習っていた懐かしき時代は、すでに十年も昔の事である。
 バーレーン要塞包囲から退却戦に勝利して帰還してすぐに宣言したように、平時に戻る暇を与える事無くクウェート侵攻を命令した。
「先の戦いで皆が疲れきっている事はわしも重々承知しておる。しかし、好機はメフメト軍が怯んでいる今、一瞬の時しかないのだ」
 大鳥ルァフ から毟り取った羽根がずっと生えずにいるだろうとは楽観出来ない。
「今しかクウェート侵攻を再開出来ないのだ」
 本当は味方の誰よりも将兵の疲労が分かっているアジャリアなのである。しかし、ここは配下に負担を掛けてでも断行したい計画で、ここまでそうなるように盤面を動かしてきたつもりだ。
 大鳥ルァフ の羽根が治らぬうちにクウェート獲得を成しえなければ、ナーシリーヤのファリド・レイスは、きっとバスラにまで手を伸ばしてくるに相違ない。急がなければ、その後も力を持つ者がどんどん後続し、勢力図は刻々と塗り替えられてゆくのである。
「思慮深きバラザフの事だ。わしが拙速に過ぎるように見えるであろう」
 出征の慌しさに全軍が包まれる中、アジャリアとバラザフだけになる事があった。
「決して拙速には見えません。アジャリア様のお言葉通りクウェート侵攻は今しかないでしょう。そうでなければ先の激戦が全て無駄になってしまいますから」
「戦略的な事では無いのだ。そうさな、言うなれば生き方よ。わしもそろそろ五十。命の尊さが自分でよく分かってきたと思える」
 戦いの前とはとても思えない程穏やかに好好爺は語る。
「お前はまだ若く勢いがある。わしはこの歳になって思うのは、これまで何を成して来たか、死ぬまで何を成すことが出来るのか、だ」
 アジャリアは真っ直ぐバラザフに向き直り、
「わしは生き切るぞ。せいぜい後五十年だ」
 と哄笑した。
 もちろんバラザフにとってはアジャリアのこの心境も彼の吸収すべき教材であると思っている。だが、実際それを理解するのは難しい。バラザフの中でアジャリアは正に神で、その神がこう ずる事は有り得なかった。
 アジャリアは後五十年と言ったが、彼自身にとってはこれは明らかな冗談でも、バラザフは現実的な数字として受け止めた。
「いずれにしても時は限られているのだ。よって、このクウェートをその限られた時の中で成し得ておきたい」
 アジャリアはここまで自身の心根を吐き出し、
「全軍出撃!」
 と気勢溢れる指揮官の顔に戻った。
 クウェートの南、沿岸沿いのカフジに前線の陣を置いてこの城邑アルムドゥヌ を包囲した。今回の前線の将軍はアジャリアの甥であるサイード・テミヤトがその任に就いている。
 アジャール軍がカフジの地に至るのはこれで三度目である。ハラドからリヤドを経由してカフジまでの行軍はおよそ二週間である。季節は冬の入り口に入り、酷暑と対照にあるこの時期は昼間は過ごしやすい。
 カフジから海岸沿いに進めばクウェートへは二日の距離であり、このカフジの城邑アルムドゥヌ を含めて南のメフメト軍を勢力圏を背にする格好である。
 以前にここを奪取して撤退と同時にアジャール軍が放棄したカフジは、再びメフメト軍の勢力下にあった。カフジの太守はファントマサラサティ・メフメトという者で、カウシーン・メフメトの弟である。
 アジャール軍はカフジの包囲を調え、夜になってバラザフは現地の案内人を連れて周囲の視察に出かけた。
 海岸に出て砂浜を歩いていると円錐状の物体がいくつも設置されているのを見つけた。
「何だあれは。メフメト軍の新しい罠か」
 案内人に尋ねると、円錐は砂蟹カボレヤ が巣穴を作るときに掘った砂を積んだものなのだという。よく見ると円錐状のそれは確かに積まれた砂で、恐る恐る足で蹴ると簡単に崩れた。
 内陸で生まれ育ったバラザフにとっては海洋の生き物のこうした生態はとても珍しいものだった。
 アジャリアは奇策百出の頭脳から、九頭海蛇アダル に喩えられるが、彼らは砂の海に棲む九頭海蛇アダル であって、本物の海とは実はあまり近しい存在ではないのである。

※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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