2020年9月5日土曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第5章_4

 年明けてカーラム暦992年――。クウェートを押さえた後も、アジャール軍とサバーハ軍の対立は相変わらず続いていた。サバーハ軍に所属する各城邑アルムドゥヌ の太守達の中には、ハサン・アルオタイビようにアジャール家に臣従するを潔しとせぬ者等も少なからずいた。名門としての意地もある。
 アジャリアの本当の意味でのクウェート制覇は、これらの攻伐無くしては成し得なかった。
 ブービヤーン島――。ペルシャ湾に浮かぶ島でクウェートからは北へ徒歩で半日の距離である。太守にはマダトジャイド・ザマーンという者が就いていて、サバーハ軍の中でも名うての猛将として知られていた。アジャリアは、次の攻撃目標をこのブービヤーン島と定め、また侵攻の命を下した。
 アジャリアはハサン・アルオタイビの時と同様に、降伏の使者を送ったが、ザマーンは降伏勧告を受諾せず、
 ――敵に返答するには剣!
 と降伏の意思の無い事を態度で明示した。
「であるならば、こちらも相応の対し方をするまでだ」
 アジャリアはブービヤーン島を強攻めする方針で即応した。アジャリアは手練手管で城邑アルムドゥヌ を落とすのを得意とするが、ここぞという時に強攻めで押す苛烈さも人一倍である。
 アジャール軍の押しは強かった。ブービヤーン島の攻防は三日続いたが、一兵士の目から見てもアルオタイビ側の劣勢は明らかで、無駄死にを嫌がったブービヤーン島の兵士が、アジャール軍の包囲の隙間から戦線離脱していき、ブービヤーン島にもアジャール軍の旗が立てられた。アルオタイビ配下の兵等が逃げていった逃げ道も、敢えてアジャリアが空けさせておいたのであった。
 ブービヤーン島の戦いではバラザフも島へ渡り前線で両手の諸刃短剣ジャンビア を振るった。アジャール軍の攻勢は強く、残ったブービヤーン側の抵抗も激しかったが、その分だけ城門に屍を多く積む事となった。
 最後の抵抗でもアジャール軍に叩かれたブービヤーン兵の士気は下がり、門の中へ退却してゆく。この後を追ってバラザフは一団を率いて、城内へ突入した。
 ――バラザフ・シルバ殿、見事突入を果たしブービヤーンを占拠した模様!
 アジャリアの本陣にバラザフの戦功を伝える伝令の声が響く。この攻城戦でもバラザフ・シルバの手柄であると軍全体に知らしめるものだった。
 アジャリアはバラザフの能力も手柄も十分認識している。それゆえ幼少の頃より近侍ハーディル として引き立て、この若さで小さいながらも城邑アルムドゥヌ を持たせてやり厚遇してきている。
 だが近年のみのバラザフの戦功に限っても、アジャリアが、
 ――それでは褒賞が足りていないのではないか。
 とバラザフの論功行賞を見直さなくてはならない時期にきていた。
「バラザフのそのカウザ も手柄と共に数多の戦塵を被ってきた。お前の戦功を称えて新たなカウザ を贈る。是非受け取ってもらいたい」
「神に讃えあれ。この上なき下賜に御礼申し上げます」
 カウザ は鉄の基調であり額を巻く様に黄金があしらわれ額の中心に孔雀石マラキート象嵌ぞうがん が施されている。明らかにアジャリアがエドゥアルドを意識して造らせたものであり、そこから胸中の像がエドゥアルドの姿に発展したバラザフは胸を熱くした。

※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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(2020.10.05公開予定)

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2020年8月5日水曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第5章_3

 カフジの城邑アルムドゥヌ を押さえたアジャリアは、バラザフにクウェートへの使者を命じた。
「クウェートは今、主君であるバシャール・サバーハの代わりに、太守を置いてハサン・アルオタイビという者が治めている。このハサンに城邑アルムドゥヌ を譲渡するよう説得し、加えてハサンを我等アジャアール軍の将として迎え入れる用意があると伝えるのだ。バラザフでなければ手落ちとなり得る重要な任務だ。頼んだぞ」
 クウェートへ向うバラザフの顔からは血の気がひいていた。最悪、捕縛されて殺されるかもしれない。
 ――やられる時はハサンと相打ちにして果ててやる。
 刺客として送られたアサシンのような覚悟の、アジャリア軍使者バラザフ・シルバである。
 バラザフは単身、クウェートの城邑アルムドゥヌ の奥へ招かれた。連れてきた配下の者には奥へ進む許可が下りなかったのである。
「溌剌とした若者が来たものだ。カフジの攻城はその若い将の手柄だと私は聞いている」
 ハサンと会見し、ファリド・レイスの所へ遣いにいったときのように、バラザフは使者として若輩扱いされた。だが、今回はなめられたとは感じなかった。相手は見た所明らかに自分より年長者であるし、ファリドのように言葉に侮りの色が見えない。何より今の自分には心の余裕が無い。
 バラザフは顔を強張らせたままアジャリアからの手紙をハサンの側近を通じて渡した。後はアジャリアが言っていた言葉をそのまま伝える事しか出来なかった。
「アジャリア殿の御申し出を受ける事にしよう。私にはこのクウェートの城邑アルムドゥヌ の兵と民を護る責任がある。今のサバーハ家は風前の灯火だが、九頭海蛇アダル の肉体の一部となれば吹き消される心配も無かろう」
 ハサンがこう返事した瞬間、クウェートはアジャール軍の所属となった。
「良き手柄だ、バラザフ。お前の説得を見込んだわしはやはり正しかった」
 殆ど説得らしい説得も出来なかったバラザフは、アジャリアの賛辞にただ頭を垂れる他無かった。
 アジャリアはクウェートの城邑アルムドゥヌ を獲得出来た事を十分な成果と受け止め、この年の軍事行動をここまでとし、本拠地であるハラドに引き上げた。

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2020年7月5日日曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第5章_2

 次の朝、アジャリアはカフジ包囲戦の方針を発表した。
「カフジ攻撃をカトゥマルを隊長として、ファヌアルクト、バラザフ等に任せる」
 そして、ここカフジの城邑アルムドゥヌ がメフメト軍のクウェートにおける重要拠点であるとして、メフメト軍に士気をさらに下げる必要性を説き、此度は落城を要すると命じた。
 冬季、気温は夏季と比べてぐっと下がるが、それでも水が凍りつく程の寒さは有り得ず、クウェートは海からの暖かい風を受ける。気温は過ごし易いが、強さとなると風の表情は穏やかではない。
 アジャール軍の若手の将軍達はこの強風に目を付けた。まず城壁の外側に火を放ちカフジの城邑アルムドゥヌ を焼く。当然これだけでは殆ど打撃を与えられないので、火矢を放ち同時に中も火攻めしようと考えた。火矢を横からの風に乗せて流す形である。
 この作戦を責任者であるサイード・テミヤトに奏上し、許可が下りると、火攻めの火がつけられた。
 炎は城内に燃え広がった。東の風で炎がカフジの城邑アルムドゥヌ を西へ西へ燃やしていく。西の城壁が内と外からの火に挟まれ、灼熱の地獄に等しきものになった。
「今に熱に耐え切れず、守兵が西門を開けるはず。出てきた者を迎え撃ち、投降する者は受け入れる。炎が下火になったらファヌアルクト殿は一万の兵で門から突入を」
 バラザフの言葉通り、門が開かれると兵も住民もなだれを打って出てきた。殆どの者が抵抗せずに投降し、この投降の受け入れはカトゥマルとバラザフがやった。
 バラザフがこの差配として、突入の役にファヌアルクトをあてて、カトゥマルを行かせなかったのは、猪突なカトゥマルに、総大将としての後詰的な役割も覚えてもらいたかったからである。煩雑な手間は無いが敵味方の呼吸を把握せねばならない。突撃して押すのでもなく突撃を防ぐのでもなく、先程まで敵であった者等を受け止めるのである。
 今でもアジャリアから重用されている自分は、カトゥマルが当主となったときには参謀アラミリナ として、今以上に重きを成しているはずだ。勿論、自己陶酔は割り引いて考えているつもりではある。
 そしてバラザフはファヌアルクトの方にも手配りは忘れていない。炎が弱まるのを待ってからとはいえ、燃える城邑アルムドゥヌ の中に突撃をかけるのであるから、これは危険な任務である。ファヌアルクトが火炎や伏兵など、何らかの危機に晒されたときのために、退路となる出口の安全確保を配下のシルバアサシンに指示を下してした。
 突入するファヌアルクトに、残ったメフメト兵が火砲ザッラーカ で仕掛けてくるが、すでに統率を欠いているようで、一斉射撃してくるのなやり方はしてこなかった。シルバアサシンが火砲ザッラーカ 兵を一人ずつ仕留めて、ファヌアルクトに降り掛かる危険を排除してゆく。ファヌアルクトはメフメト兵の掃討に頭がいっぱいで、脇でこのような補助が行われているのには気付いていないようである。
 槍を振り上げるファヌアルクトの顔は炎に赤く照らされ、歓声と火炎とがカフジの天を衝いた。その猪突ぶりが少し前のカトゥマルとそっくりでバラザフは、今までカトゥマル程は接点のなかったファヌアルクトに、戦いの最中、少し親好をおぼえたのだった。
 ファヌアルクトの突入組の背中を自身の配下であるシルバアサシンに任せていたが、カトゥマルの後詰の方がある程度片付くと、やはり前線が気になり始め、陰ながらファヌアルクトを見守っていたというわけである。
 そして、後は危なげないだろうと判断すると、バラザフは前線を後にしてカトゥマルの下へ戻っていった。
 ともあれ、ファヌアルクト隊の突入で、カフジの城邑アルムドゥヌ の西半分の区画を制圧する事が出来た。
 東区画は、火が燃え広がっていった西区画と逆に位置する事になる。城外からの火攻めはあったものの、守備兵に守りを放棄させる程の打撃には至らず、依然として防御、抗戦の構えを見せていた。
「万が一、バーレーンから援軍が出てきて城の内外から掎角されては堪らないな」
「ええ、前回の戦いでかなり痛めつけたとはいえ、それくらいの兵力はまだ残っているでしょう」
 角のある獣を捕える際、獣の後足をとるのが掎で、前から角をとるのを角である。カフジの城邑アルムドゥヌ に角を衝いている間に、足を捕まれて自由を奪われる危険は否定出来ない。
「バラザフ。日暮れまでにカフジを陥とせ。半分までくれば後は強攻めでも良かろう」
「インシャラー」
 カトゥマルの命に応じながら、バラザフは、
 ――段々、似てきたな。
 と内心では、にやりとしていた。
 急ぎこれをサイード・テミヤトにあげねばならないが、遣いの者が許可を持って戻ってくるのを待つ時間は無く、報告に人を出すと同時に攻めを実行する必要がある。行き違いが生じる可能性もあるが、それを今カトゥマルに告げても意気を挫くだけになるとバラザフは判断した。
 半刻後、カトゥマルとバラザフはカフジの城邑アルムドゥヌ の東の海上に居た。
「何だあれは。メフメト軍の新しい罠か」
 船上から早速例の円錐状の物体をカトゥマルが見つけた。
「あれらは砂蟹カボレヤ の巣穴ですよ」
砂蟹カボレヤ か。さすがバラザフは何でもよく知っているものだ」
 さらりと自分の知識であるかのように披露して、抜け目無く評価を稼ぐバラザフだが、彼自身、そんなものは昨夜知ったばかりである。
「それはそうと、バラザフ。こちら側は連中の防備は手薄のようだな」
「どうしてそう思われます」
砂蟹カボレヤ が巣穴を作るくらいだ。誰も見回りになど来ていないのだろう」
「なるほど……。確かにそうですな」
 カトゥマルの洞察を聞いて、バラザフは、血は争えるものではないなと思った。
「こちら側は殆ど足場が無く、濡れた砂に足を取られるので攻められるとは思っていないのでしょう」
「そうだな。だが向こう側と挟み撃てば話は別だろう」
「向こうのファヌアルクト殿と挟撃を呼応させるとなると、また遣いに時間を要しますが」
「いや、その必要はないさ。そろそろだろう」
 カトゥマルがそう言うと敵を挟んで向こう側から鯨波が上がるのが聞こえてきた。
「先にファヌアルクト殿に手回しをされていたのですか」
「いや、ファヌアルクト殿の性格を考えると待ちきれず仕掛ける頃だと思った。俺がそうだから分かる」
「まことに血は……、いえ、何でもありません」
「何か言ったか。バラザフ、矢を射掛けろ。火矢ではなく普通のだ」
 バラザフからカトゥマルの配下隊に指示が下ると、兵等が船上から放射状に射撃攻撃が始めた。正面から攻撃するファヌアルクト隊のための援護射撃である。
「今回のカトゥマル様の洞察、見事でございました」
「バラザフの知恵にばかり頼ってはいられないからな。それに、俺もお前もズヴィアド先生の弟子であるわけだしな」
「ズヴィアド先生が一門を開いていれば、我々は先生の同じ門下生という事ですね」
「そういう事だ。猪突な俺ばかり見て忘れていただろう」
 カトゥマルとバラザフは今でもこうした冗談が言い合える関係である。バラザフの言葉のように、生前のズヴィアド・シェワルナゼは教師でもなく、また宗教的に認可された師でもなく、彼らにとっての「先生」であった。ズヴィアドが先生として彼らに教授したのは、言うまでも無く戦場における戦術である。
 カフジの兵がファヌアルクト隊に手一杯になっている隙に、カトゥマルの部隊は城壁に梯子を掛けて、東側の区画のおよそ半分を占拠した。ほぼ無人の場所に兵を送り込んで奪取する事は、この上なく容易い事であった。
 カフジの太守が防備を固めている、残された最後の区画の前でカトゥマル隊とファヌアルクト隊は合流を果たし、カフジの攻城戦はいよいよ大詰めを迎えようとしている。
「カトゥマル様、この奥で指揮を執るのはカウシーン・メフメトの弟のファントマサラサティです。それを考慮すると今までが順調過ぎたように思えます。特に火砲ザッラーカ の一斉射撃が危惧されます」
「もっともだな。だが一度得られた勢いは貴重な力だ。前に使っていたあれ・・ を備えながら、このままゆくぞ」
「インシャラー。共に冥府までも!」
 カトゥマル隊の勢い・・は確かに凄まじい力となった。カフジ城内に出現した九頭海蛇アダル は敵の精鋭までも呑み込んでいった。
 対火砲ザッラーカ 用の砂袋を用いるまでもなく、恐ろしいほどの速さでカフジは陥落したのであった。
 アジャリアは、
「カトゥマル、ファヌアルクト、それにバラザフ。カフジの攻城、申し分の無い手柄である」
 と、短いながらも、現実味のある褒辞を垂れた。
 アジャリアは実は長子アンナムルを欠いた事を気に病んでいた。だが猪突なだけの愚息と先々を危ぶんでいたカトゥマルが、案外戦術の面でも、バラザフには及ばないものの、それなりに成長している事で、アジャール軍の展望が明るくなった気がして、嬉しさで虚飾が一切削ぎ落とされて出た言葉であった。
 アジャリアは余程嬉しかったらしく、バラザフを褒めるはずで父のエルザフに後で送った手紙に、バラザフの手柄に絡ませながら、随所にカトゥマルの名を出して、エルザフを笑わせた。
 家名を自らの名として帯びるアジャリアも、こういう時には人並みの父親エビ なのであった。老境を深める程、人は公から個へ還ってゆく。

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2020年6月5日金曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第5章_1

 メフメト軍との戦いから帰還してより、バラザフはまたアジャリアの傍で勤務するようになった。アジャリアの傍で働くのは近侍ハーディル として仕えていた少年時代以来である。
「戦いは敵兵を倒せばよいというものではない。城邑アルムドゥヌ を強引に奪い取ればよいというものでもない。敵も味方も出来うる限り死なせない事が最上だ。隊将は武技だけ持っていてもいかん。わかるな、バラザフ」
 勿論、バラザフにとっては言われるまでも無い極めて基本的な事柄ではあるが、アジャリアから慈愛を込めて含むように諭されると、その言葉が千金の価値があるように感じられるのだった。それはアジャリアから得られる知恵は漏らさず貪欲に吸収していこうとバラザフは常日頃から思っているからである。
 バラザフ・シルバ、二十五歳。ズヴィアド・シェワルナゼから戦術、城邑アルムドゥヌ 建設を習っていた懐かしき時代は、すでに十年も昔の事である。
 バーレーン要塞包囲から退却戦に勝利して帰還してすぐに宣言したように、平時に戻る暇を与える事無くクウェート侵攻を命令した。
「先の戦いで皆が疲れきっている事はわしも重々承知しておる。しかし、好機はメフメト軍が怯んでいる今、一瞬の時しかないのだ」
 大鳥ルァフ から毟り取った羽根がずっと生えずにいるだろうとは楽観出来ない。
「今しかクウェート侵攻を再開出来ないのだ」
 本当は味方の誰よりも将兵の疲労が分かっているアジャリアなのである。しかし、ここは配下に負担を掛けてでも断行したい計画で、ここまでそうなるように盤面を動かしてきたつもりだ。
 大鳥ルァフ の羽根が治らぬうちにクウェート獲得を成しえなければ、ナーシリーヤのファリド・レイスは、きっとバスラにまで手を伸ばしてくるに相違ない。急がなければ、その後も力を持つ者がどんどん後続し、勢力図は刻々と塗り替えられてゆくのである。
「思慮深きバラザフの事だ。わしが拙速に過ぎるように見えるであろう」
 出征の慌しさに全軍が包まれる中、アジャリアとバラザフだけになる事があった。
「決して拙速には見えません。アジャリア様のお言葉通りクウェート侵攻は今しかないでしょう。そうでなければ先の激戦が全て無駄になってしまいますから」
「戦略的な事では無いのだ。そうさな、言うなれば生き方よ。わしもそろそろ五十。命の尊さが自分でよく分かってきたと思える」
 戦いの前とはとても思えない程穏やかに好好爺は語る。
「お前はまだ若く勢いがある。わしはこの歳になって思うのは、これまで何を成して来たか、死ぬまで何を成すことが出来るのか、だ」
 アジャリアは真っ直ぐバラザフに向き直り、
「わしは生き切るぞ。せいぜい後五十年だ」
 と哄笑した。
 もちろんバラザフにとってはアジャリアのこの心境も彼の吸収すべき教材であると思っている。だが、実際それを理解するのは難しい。バラザフの中でアジャリアは正に神で、その神がこう ずる事は有り得なかった。
 アジャリアは後五十年と言ったが、彼自身にとってはこれは明らかな冗談でも、バラザフは現実的な数字として受け止めた。
「いずれにしても時は限られているのだ。よって、このクウェートをその限られた時の中で成し得ておきたい」
 アジャリアはここまで自身の心根を吐き出し、
「全軍出撃!」
 と気勢溢れる指揮官の顔に戻った。
 クウェートの南、沿岸沿いのカフジに前線の陣を置いてこの城邑アルムドゥヌ を包囲した。今回の前線の将軍はアジャリアの甥であるサイード・テミヤトがその任に就いている。
 アジャール軍がカフジの地に至るのはこれで三度目である。ハラドからリヤドを経由してカフジまでの行軍はおよそ二週間である。季節は冬の入り口に入り、酷暑と対照にあるこの時期は昼間は過ごしやすい。
 カフジから海岸沿いに進めばクウェートへは二日の距離であり、このカフジの城邑アルムドゥヌ を含めて南のメフメト軍を勢力圏を背にする格好である。
 以前にここを奪取して撤退と同時にアジャール軍が放棄したカフジは、再びメフメト軍の勢力下にあった。カフジの太守はファントマサラサティ・メフメトという者で、カウシーン・メフメトの弟である。
 アジャール軍はカフジの包囲を調え、夜になってバラザフは現地の案内人を連れて周囲の視察に出かけた。
 海岸に出て砂浜を歩いていると円錐状の物体がいくつも設置されているのを見つけた。
「何だあれは。メフメト軍の新しい罠か」
 案内人に尋ねると、円錐は砂蟹カボレヤ が巣穴を作るときに掘った砂を積んだものなのだという。よく見ると円錐状のそれは確かに積まれた砂で、恐る恐る足で蹴ると簡単に崩れた。
 内陸で生まれ育ったバラザフにとっては海洋の生き物のこうした生態はとても珍しいものだった。
 アジャリアは奇策百出の頭脳から、九頭海蛇アダル に喩えられるが、彼らは砂の海に棲む九頭海蛇アダル であって、本物の海とは実はあまり近しい存在ではないのである。

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2020年5月5日火曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第4章_10

 フートが走り去ってから一刻――。アッシャブートからフートを通して報告があげられた。
「メフメト軍はアジャール軍が待ち伏せを迂回すると読んでいる。そのためバーレーンからの本隊と合流待ち待機場所からは動かない」
 バラザフはこの情報を、メフメト兄弟は城邑アルムドゥヌ の防衛戦でアジャール軍から手酷くやられているのでシアサカウシンから、
 ――こちらから仕掛けるな。
 との命令が出されていると解釈した。
 まだフートからの情報はある。
「敵味方の諜報戦が熾烈です」
 配下のシルバアサシンが各方面で必ずシーフジンと遭遇しているが、今の所戦闘は回避出来ていると続けた。
「シーフジンもアジャール軍の情報をもぎ取ろうと躍起になっております」
「フート、予め戦闘を許可しておく。この場合こちらの情報を守るのが優先される。敵の情報を取れなくとも良いから、各自の判断で始末して構わない」
「承知」
 作戦とアジャリアの意図を鑑みると、別働隊の情報だけは何としても秘さねばならないのだ。
 結局、シーフジンとの戦闘が多発した。
 シーフジンに対応するには、彼らの移動力を封じる事が肝要である。ここでシルバアサシンの連携の良さが活きた。
 ある所では網を張り、ある所では縄を巡らせ、砂地に伏せて、シーフジンの足を止めに掛かった。それで各所でシルバアサシンとシーフジンとの戦闘に発展した。
 ここで判ったのは、シーフジンは先にオクトブートと遭遇して霧消してしまった者のように、捕縛されたからといって皆が皆、消えるわけではないという事である。
 フートは配下全員に、
「モハメド・シーフジンはカウシーン・メフメトの傍近くで勤めているという話だ。よって戦場には出てきてはいないと見ていい。モハメドに統率されればシーフジンの連携も侮れぬものになるだろうが、各々ばらばらであれば我等シルバアサシンが奴等相手に危うくなる事は無い」
 と自身の思惑を伝えてある。中には消えてしまう奴もいるであろうが、シーフジンの中で唯一恐るべきは首領のモハメドであるとフートは考えている。
 バラザフは、これらのを情報を取りまとめる事から、別働隊のワリィ・シャアバーンよりも先陣に居るアブドゥルマレク・ハリティへの情報伝達が優先されると判断した。アジャリアへの報告には弟のレブザフが走っている。
 レブザフが持ってきた情報はアジャリアを喜ばせた。
「待ち伏せておきながらメフメト兄弟は我等が戦闘を回避すると読み違えたか。ふふ……、九頭海蛇アダル から通り一遍等の知恵が出るわけがあるまい。わしは定石を外すことも中てる事も出来るのだ」
 そしてハリティを急がせるようにアジャリアからバラザフへの指示を持ってまたレブザフは駆けた。敵が油断している今が攻め時である。
 アジャール軍のこの動きを見たメフメト兄弟は、傍から見ても分かるくらいに青ざめた。先の戦いで自分達がアジャリアに敵わない事は証明されてしまっているのである。
 アジャリアの言葉通り待ち伏せておきながら、彼らはアジャール軍との遭遇を想定していなかった。
「何故、アジャリアがこちらに向ってくるのだ!」
「あれもまたアジャリアの幻影タサルール とやらではないのか。こちらに影を当てて本隊は砂漠を横断して通り過ぎるに違いない」
 アジャール軍によって混乱させられているのは、上だけでなく下の諸将もである。ここに召集された意味を知らない彼らは、
 ――アジャール軍と戦う事になるとは。
 ――アジャール軍に交戦の意思は無いらしい。
 と噂して浮き足立った。
 その通り上からも彼らは命令されており、言われた地点へ布陣すればアジャール軍は迂回して通り、後はバーレーンのメフメト軍主力が追撃し、そこから挟撃にうつればよいと一応安心させれていたのである。
 シルバアサシンや、アジャール軍のアサシンはこれを衝いた。流言を用いてこの噂により真実味を持たせたので、メフメト軍の将兵の間では、いよいよ、
 ――アジャール軍は迂回路を取る。
 との情報が浸透しきっていった。
 内部に流言がこれ以上拡散して、より困難な状況に陥るよりは、
「まだ勝機のあるうちに事に挑もう。向ってくるアジャール軍に先手を打つ」
 と、ソコルルとメフメト兄弟は、先制攻撃の方針を決めた。
 同時にこの情報は、バラザフのもとへ流れてゆく。バラザフは先陣に居るアブドゥルマレク・ハリティの所へ向う途中でこれを受けて、敵がアジャール軍を迎え撃つ構えになっている事をアブドゥルマレクへ知らせるために馬の脚を速めた。
「伝令将のバラザフ・シルバだ。そこを通してくれ!」
 暗闇を照らす松明を持つ兵の間をバラザフは駆けて通る。
「ハリティ殿、アジャリア様からの伝言を持って参った!」
 バラザフは、敵の動き、アジャリアの指示に加えて、先ほど入ったメフメト軍が交戦の構えを見せているという情報をアブドゥルマレクへ伝えたところで新たな伝令が駆け込んできた。
 ――メフメト軍、火砲ザッラーカ を発射!
「怯えた威嚇射撃だ。あの場所からはこちらに火砲ザッラーカ は届かん。どちらにしろ交戦する気のようだな。バラザフ、全軍に戦闘の準備をさせてくれ」
 先鋒の本部のアブドゥルマレクの陣を出て、最前線へ向けてバラザフは走った。一番前に配置されているのはハッターン・アルシャムラニという将である。
 アルシャムラニに伝令を終えた所で再びメフメト軍の火砲ザッラーカ が一斉射撃された。
「今度はかなり近いな」
 火砲ザッラーカ が宵闇の空の赤く焼いているのが見えた。おそらく今の発射で全て撃ってきたはずだ。
 ――予備の発射を残しておいて反撃される危険はあるが、しかし、
「次の発射までに一気に仕掛けるぞ!」
 メフメト兄弟にそこまでの機知は無いとバラザフは判断した。急場、伝令将の任に就いてはいるが、バラザフは部隊を率いる身分である。伝令の間にも常に彼の部隊は随行してきており、バラザフは弓兵に先ほど炎が見えて明るくなった場所を指して攻撃を命じ、騎馬兵は自身と共に突撃するように指示した。万が一次の火砲ザッラーカ が来た時に備えて、また以前のように砂袋投げて炎を防ぐ手配も忘れなかった。
 闇夜の空を弓矢がはし って裂いた。準備に時間のかかる火砲ザッラーカ と比べて、弓矢での攻撃は連射も出来るし、急場の小回りも利く。
 音から判断して弓兵の攻撃は効いているようだ。
「好機! 一気に押し掛けるぞ!」
 伝令将でありながら、その場に居合わせた都合で、バラザフが最初の切り口を作る形になった。
 馬上で両手に諸刃短剣ジャンビア を持って構える。そして、灯明がある位置を目指して駆けた。火砲ザッラーカ を敵が撃ってきたために攻め時が生じただけである。悠長に構える時間は無かった。
「敵を見つけたらとにかく斬れ! もたもたしているとこちらが火砲ザッラーカ の炎の馳走にあずかる事になるぞ!」
 暗闇故の同士討ちも回避するよう指示した。当然ながら同士討ちというものは、進行方向が交わるから発生するものである。よって扇状に各自が斬り進んでいけば味方とはぶつからないという一応の理屈である。言葉で敵味方を判別する方法もあるが、今回はこの方法を採った。
 先に斬り込んでいった者らに続いて、手持ちの矢を撃ち終えた弓兵も得物を抜いて攻撃に入った。
 予想通り火砲ザッラーカ は一斉射撃した後で、反撃らしい反撃も無く敵部隊は俄かに崩壊した。
 一人、バラザフに斬りかかってくる者があった。質の良い装備から火砲ザッラーカ 隊の隊長であると思われた。
 相手は素早く剣を突き出してバラザフを仕留めようとするが、その切っ先は全てバラザフの諸刃短剣ジャンビア なされ、最後には左の刃で大きく弾かれた隙に、右の刃で心の臓を貫かれ絶命した。
 すぐに周りを警戒し視界を巡らせてみると、各自、敵の殲滅を終えた部下達が集結している所である。兵等が集まってきた場所では二人が刃を交えている最中であった。どちらかが味方でどちらかが敵である。
 その片方の頭にあるカウザ と両手の諸刃短剣ジャンビア からバラザフだと判断し、彼が敵将を仕留めた瞬間、歓声が沸き起こり、その渦は周囲のハッターン・アルシャムラニの部隊にも伝播していった。
 ――見事!
 と手柄を寿ことほ ぐ声まで聞こえてくる。
「十分に働く事が出来た。この場はアルシャムラニ殿の部隊に任せて我等は伝令の任に戻る」
 バラザフが自部隊に退却を命じた所に、アルシャムラニ隊がやってきて入れ替わり、陣地を確保した。アジャール軍の陣地が一歩進んだ形になる。
「さすがはバラザフ・シルバ。伝令の任にありながらその機転で緒戦を制してしまうとは」
「いえ、行きがかり上、巻き込まれたに過ぎません」
 全方面で剣が交わり始めた。バラザフの戦いがきっかけとなったのである。
 両軍の火砲ザッラーカ が火を噴いて、夜の砂漠を明るくした。
 アジャール軍が分隊して稼動しているため、メフメト軍もこれに対して隊を分けて対応しなくてはならない。ハリティの部隊は敵を斬りながら圧している。士気は十分である。
 戦戈は荷隊カールヴァーン を護衛しているナワフ・オワイランの部隊にも及んだ。
「積荷を死守せよ! 守りきるのだ!」
ナワフは必死に叫ぶ。こちらは劣勢を強いられていた。
 敵の放った弓矢に荷隊カールヴァーン の護衛隊の小隊長の一人が眉間を射抜かれた。途端に配下の兵が悲鳴をあげて慌てふためき始める。戦線の弱まった所に敵兵が殺到した。
 ナワフは部下を怒喝しながら敵を必死に防ぐ。小隊長を失った部隊を急いで他の小隊長の指揮下に入れた。
「守りきるのだ! 勝てない敵ではない!」
 隊列が乱れ、敵味方が入り混じっている。誰もが暗闇の中、剣を振り回していた。
 乱戦が一刻ほど続いた後、別働していた部隊を連れてワリィ・シャアバーンが荷隊カールヴァーン の加勢に駆け付けた。すでに自分の持ち場の敵は片付けている。
 奮って抗戦する荷隊カールヴァーン を押し切れなかったメフメト軍は、背後にワリィ・シャアバーンが部隊が俄かに出現し、前後から挟まれる形となった。
 七万のワリィ・シャアバーン隊が鯨波を伴ってメフメト軍を圧殺しにかかった。
 メフメト軍の数は十三万。数ではかなり有利に見えるが、その実、メフメト勢力圏内から集まった烏合の衆で、あわよくば脱走の機会を窺う兵もいるほどである。
 結局の所、まともに戦意があるのはメフメト兄弟とソコルルとその他数名のみで、あとは兵を束ねる隊長格でさえ、後ずさり始める始末である。メフメト兄弟の命令を待たず、ほとんどの将兵が戦場を離れようとしている。その点ではアジャリアに侮られ、雛鳥ファルフ と揶揄されているとはいえ、メフメト兄弟はまだ将として資格があるといえた。
 まもなく夜が明ける。
 旦日シュルーク が地平より顔を出し、戦場の砂を橙色とうしょく に染める。
 始めに挟撃を仕組んでいたメフメト軍は、現前、アジャール軍に挟撃されているという事態である。
「御兄弟、これ以上の戦闘は無用と思われる。戦死は回避すべきです。撤退命令を出すべきです」
 大局眼を持つソコルルでも、この不利は押し返せないと見た。今、アジャール軍の勢いは強すぎる。
「ここに至っては犠牲がさらに増えるばかり。撤退命令を」
 ついにメフメト兄弟から撤退命令が出された。ただでさえ逃げたがっていた将兵らは、形振り構わず散り散りになって姿を消していった。
 そのメフメト兵をアジャールの騎馬兵が、駱駝騎兵が掃討を始める。
「神が我等の勝利を望まれた」
 戦況を見つめていたアジャリアの口から安堵の声が漏れた。その安堵も束の間、すぐに、
「バラザフ!」
 声を大にして呼び声をあげた。
荷隊カールヴァーン と全軍の被害状況を確認せよ」
 いまだアジャリアは勝利に落着してはいられなかった。先に彼が申し渡したとおり荷隊カールヴァーン が無事でなければ彼らの帰還はかなわない。
 バラザフは馬を駆けた。戦いが始まる前と違って、朝に降りた露が今度は腕に冷たく感じられた。
 ある場所でフートが立ち尽くしていた。足元に物言わぬ身体が数多転がっている。
「何があった。フート」
 フートはすでにここには無い心でバラザフに答えた。
「モハメド・シーフジンが出ました……。奴は……。奴は怪異です」
「こちらが戦いを制したのか」
「こちらが倒したのは九人、こちらは六人殺されました」
 バラザフは再度足元の死体に目をやった。その数は十四である。
「一人足りないようだが」
「私です。私はここで死んだのだ」
「だがフートは俺の目の前で現に生きているではないか」
「モハメドは私をやれた。喉下に刃を突きつけ、そしてやらずに消えていったのです」
 バラザフの前に立つフートはただ肉体が生きているだけのようで、心と魂が剥離しかかっている。だが今放心を求めれば或いはまだ間に合うかもしれない。
「ならば大死とせよ。今、絶後に蘇り今まで以上に奮起せよ。フートはもう死んだ!」
「は……」
 バラザフの言葉はひとまずフートの心に救いを与えたが、まだフートが力を戻すには至らなかった。生きる屍になりかけているフートを言葉の剣で斬り、バラザフはフートにそう言ってやる他なかったのである。
「本当は我等が完全に優勢でした」
 フートはバラザフのため何とか先程まで起きていた戦いを述懐した。
「戦いが終わった瞬間、モハメドが現れました。奴は私の配下を一瞬で屠り、最後に私は青い煙を見たのです」
「なるほどな……」
 つまり、シーフジンが前線での敗戦をカウシーン・メフメトに報告するために出てきており、フートの命をわざと取らなかったのはバラザフに恐怖を伝えるためで、
 ――シーフジンとメフメトを侮るな。
 という釘刺しのようなものであろう。バラザフの方にはまだ、そう分析する冷静さが残っていた。
 この惨状の現場に各方面に散っていたフートの配下が戻ってきて、皆、一様に驚嘆した。
「一体何が……」
「モハメド・シーフジンが出たそうだ」
 胸詰まらせるフートの代わりにバラザフが答えた。
 フートの配下達は、
「いかにモハメド・シーフジンが伝説のアサシンでもシルバアサシンの総力なら倒せるのではないか」
「姿を見ても正体が分からぬでは倒す方策が立たん」
「だが首領が生き残れたのは幸いだった」
 と口から出る言葉は様々であるものの、心の内は同一に暗澹としたものである。
「シーフジンと対決する時が迫っているのかもしれない。その時までにフートの指示によく従い各々力を蓄えるように」
 バラザフはフートの顔を立ててやるのを忘れなかった。
「バラザフ様の言葉通りシーフジンとの対決は回避出来ぬだろう。それは逆に仲間の仇を返す機会が与えれるという事だ」
 ようやくフートがアサシンの首領の顔に戻ってきた。
 モハメド・シーフジンの方は、戦線情報を把握を望むカウシーンの指示を受けて、配下を遣わさずに自身が前線に赴いていたのである。
 報告に戻ろうと駆けるモハメドの視界に配下のシーフジンとシルバアサシンの戦闘が目に入り、シルバアサシンを次々に斬って帰ってきた。
「戦線にて我等メフメト軍は敗北。戦後、アジャール軍はリヤドに向けて退却し始めている模様」
 報告するモハメドの顔色はメフメトから仮面のせいで分からない。その口から出る声も、ただ事実を淡々と述べるのみである。
「こちらは手痛くやられたであろうな」
「アジャール軍が把握した情報を借りるならばメフメト軍の戦死者は三万二千、負傷者は数え切れず」
「向こうはどうだ」
「戦死者三千、負傷者六千」
「負けるにしても負け方が酷すぎるな」
「あくまでアジャール軍の情報ですが」
「いずれ愚息等も帰還するであろう。それで再度確かめよう」
 敗戦から命拾した者らが語る言葉によって、カウシーンはモハメド・シーフジンの報告に誤りは無かった事を知らされた。
「息子達よ。父はアジャリアと初めて対決し、そして負けた。大きな戦いであったなぁ……」
 カウシーンは寂しく笑い、細めた目をおぼろげに遠くに遣った。
 俯いて物も言えぬ息子達の中で、シアサカウシンだけが、
「父上は大鳥ルァフ なのです。大鳥ルァフ は地に墜ちる事は無い。墜とされたのは我等だ!」
 父カウシーンの敗北を否定し、最後まで大鳥ルァフ であらしめようとした。翼で飛べない自分達の代わりに、父だけでも大鳥ルァフ として飛翔していてくれれば、それでメフメトの誇りが守れるような気がずっとしていた。同じ思いは後ろのムスタファ、バヤズィトにも当然あった。
「それは違うぞシアサカウシン。大鳥ルァフ といえども土から生まれた物であろうよ。ならば翼を風に永遠に乗せている事など出来ぬのが道理なのだ。アジャリアはカウシーンに圧勝した。この先そう語り継がれてゆく事だろう」
 それを聞くシアサカウシンにもはや言葉は無かった。あるのは自分達の不甲斐無さで父の名を貶めてしまった事への無念だけである。
「我等は義人と世間で称されるサラディンをあてにし過ぎたのだな」
 カウシーンの見る西の海の先には広大な砂の大地が広がり、さらにその先に今日の太陽が沈もうとしている。
「父の死後は、ベイ軍とはそれで手切れとせよ。義侠心は確かに価値ある物だ。しかしこの世でそれより価値ある物は生き残るための力だ。父が死んだらアジャール軍を頼れ」
「はい……」
「あの九頭海蛇アダル の懐に潜り込んで背中に乗ってやれ。乗り心地は最悪だろうがな」
 愉快そうに笑うカウシーンは、最後にはやり切ったという清々しい顔になっていた。
 数年後、大鳥ルァフは 地に降りて羽根をゆっくりと静かに休めた。そしてシアサカウシンは父カウシーンの言葉を守り、アジャール軍との同盟を成立させた。これもアジャリアのクウェート侵攻を再開する上で盤に組み込まれる事になる。
「あれだけ叩きのめしておけば、メフメト軍がわしの行く手を阻む事はないだろうからな」
 ハラドに帰還したアジャリアは早速、全軍にクウェート侵攻の方針を示した。
 先の戦功でバラザフはさらに昇格し、配下が増員され、弟のレブザフも配下を与えられ、兄とは独立した百名程の自分の小隊を持つ事が出来るようになった。
 息子達の出世を聞いた父のエルザフは、
「あの苦境の頃の死なぬ覚悟がここで生きてきた」
 と彼ら以上に喜びを噛み締めていた。

※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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2020年4月5日日曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第4章_9

 前線にアジャリアが最も信を置くアブドゥルマレク・ハリティを出している。挟撃の別働隊にも信頼出来るワリィ・シャアバーンを行かせ、重要な荷隊カールヴァーン を熟練のナワフ・オワイランに護らせている。これ以上に無い本気の布陣なのである。
 アジャリア本隊を含めた大きく分けて三つの隊が稼動し始めた。
 年の瀬まで残り一月程。普通に暮らす分には暑さが猛威を振るうのが収まった程度で過ごしやすい気温と言えるが、伝令に高速で駆けるバラザフにとって、当たる風は彼の熱を少なからず奪ってゆく。だが、それにも負けぬくらいバラザフの身体は高揚で熱量の塊となっていた。頭も耳も熱くなり思考を妨げられそうになっている所を、風は顔の熱を冷ましてくれた。被っていたカウザ を後ろに脱ぐ。
「フート、配下に待ち伏せのメフメト軍の偵察をさせてくれ」
「承知」
 バラザフは今までに無いくらい情報を渇望していた。バラザフの任務はアジャリアの命を諸将に正確に伝達し、作戦通り厳密に将兵を稼動させる事である。その任務を間違いなく遂行するために、戦場全体が見える情報を得て、頭の中で図を描いておきたい。その情報を集めるために、自身の目だけでは到底足りぬというわけである。
 アジャリアはシルバアサシンの活躍まで見込んでバラザフをこの任に当てたのかもしれないが、今のバラザフにアジャリアの心中まで見通す余裕は無かった。
「シーフジンに用心するのだ」
 今度は使者と書状を捕らえた時のようには、簡単にはいかないはずである。
 バラザフは実際にシーフジンを見たことは無い。だが、シーフジンと呼ばれるアサシン集団はすでに彼の心に恐れの影を落としている。
「殿が言われたとおりシーフジンとシルバアサシンは同門のようなもの。実力にさほど差は無し。心配召されるな」
 バラザフの横に寄せて一緒に走っていたフートは、命令を遂行するためそのまま離れて消えた。
 粒の大きく有能なアサシンがフートの配下には多い。投げ網捕獲のオクトブートもその一人である。他にはアッシャブート、クッド、アジャリース、マハールという名の知れた者がいた。各々が異能ともいえる特技を持ち、武器の扱い、道具の扱い、移動の足も速く情報を握る頭の回転も速かったので、アサシンの長であるフートも大層頼りにしており、彼らの下にさらに配下のアサシンを与えていた。

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2020年3月5日木曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第4章_8

 ソコルル・メフメトはクウェートのサバーハ家に所属していた軍人である。正確には彼の父がサバーハ家の将だったのだが、ナムルサシャジャリ・アジャールの時代のハラドに攻め入り、逆に討たれた。その機にソコルルはサバーハ家から離れ、メフメト軍に身を寄せた。
 ソコルルはカウシーン・メフメトが百万のジュバイル軍を破って城邑アルムドゥヌ を獲得した際にも戦功があり、その勇猛さを将来的にアブナムバシャールに見込まれて、メフメト家の娘と娶わせてもらい、メフメト一門の者になった。
 ソコルルは戦場ではいつも最前線に居た。常に先頭を走り今日まで戦死せずに歴戦の中で生き抜いてこれたのは、彼が単に剛勇だけの軍人ではなく大局眼も持ち合わせていたからに他ならない。敵から恐れられる人物で世代の違うバラザフでもソコルル・メフメトという名を知っている。
 ――退き口にあのソコルル・メフメトとぶつかる。
 ただでさえ死闘が予想されるこの退却戦の戦場に、さらに一人死神イラルマウト が立ち塞がった形である。
 だがアジャリアの口から出た言葉に恐れの色は微塵も無かった。
「このアジャリアの好敵手であるカウシーン殿さえバーレーン要塞に篭もって、わしとの対決を回避したのだ。それなのに先の戦いでハサー、ダンマームの城邑アルムドゥヌ で外に出て来れなかったバヤズィトやムスタファなどの雛鳥ファルフ 共が今更我等に歯向かうとは物を知らぬか!」
 アジャリアはこの大喝に意味を持たせている。敵の配置はすでに済んでいる上に、その指揮をソコルル・メフメトが執っている事は味方の将兵もすでに知っているだろう。だがその事で味方の士気の低下を許してしまえば、勝てる戦いにも勝てなくなる。
 バラザフも瞬時にアジャリアの大喝からその意を酌んだ。アジャリアのこの気持ちを理解したのはバラザフだけではなく、アブドゥルマレク・ハリティも、
「このような戦いは言わば我等の勝ちの型である。ハラドに、そしてリヤドに我等は覇を唱えて来た。雛鳥ファルフ 共に負けるなどアジャール軍の恥と知れ!」
 と大声で軍議の座を鼓舞すると、それに応を唱えて歓声が沸き起こった。

 ――インシャラー!

 ワリィ・シャアバーンが神に勝利を誓うと、またこれに諸将が声を被せた。

 ――インシャラー!!

 味方の士気が否が応にも上がる。気付けばバラザフも諸刃短剣ジャンビア の柄を掴む手に汗も握っていた。
「進撃を再開する。では諸将、抜かりなく」
 アジャリアの声色にはすでに普段の落ち着きが戻っているように聞こえる。もはやアジャリアはただ帰るつもりではなくなっている。行く先に居るメフメト軍を撃破し、リヤドへの退却を確実なものとした上で、後から来るカウシーン・メフメトと直接対決をして勝ってやろうと思い定めていた。
 ――今の我等には迅速さが最も必要だ。
 部隊長格、いや一領主に出世した今でも、アジャリアの発する気を感得する習慣はバラザフから抜けていない。
 アジャリアの今回の作戦でいつもと違うのはバラザフに伝令将にした事だけではない。兵站の荷隊カールヴァーン の隊長にに熟練のナワフ・オワイランを配置した。
荷隊カールヴァーン の隊長をナワフ・オワイランに任せる」
 このアジャリアの命令をナワフは始めは承服出来なかった。
「このナワフ・オワイランが何故荷隊カールヴァーン なのです。アジャリア様はこのナワフを戦闘には役不足と見ておられるのか」
 荷隊カールヴァーン の隊長という役目を屈辱として受け取ったナワフは真っ赤に逆上している。これに対してアジャリアは言葉に理と情を込めて命令の意味をナワフに説く。
「役不足――。全くの逆である。現状、熟練のお前でなければ荷隊カールヴァーン は安心して任せられぬ。砂漠を横断して帰るのだぞ。戦闘に勝利しても荷隊カールヴァーン がやられたら我等は餓えて砂漠に骨を埋める事になるぞ。サラディン・ベイが百万の軍勢を以ってしてもバーレーン要塞攻略に失敗したのは何故だと思うか。それはな、荷隊カールヴァーン が奪われたからなのだ。荷隊カールヴァーン を失ったベイ軍は水で固めていた砂が渇いて崩れるように数を減らしていったのだ。わしにサラディンのような恥をかかせてくれるなよ、ナワフ」
 アジャリアの理と情はナワフの心にしっかりと浸透していった。
「バラザフにも伝令将を任せている。重ねて言うが荷隊カールヴァーン をお前の実力で守り通す事が肝要だ。バラザフはわしの命に疑問を挟む事は無かったぞ」
 最後はそれとなく他者と比較して煽り、アジャリアはナワフの自尊心の炎を風で扇いだ。
「バラザフ」
「は!」
「ワリィ・シャアバーンの部隊を十に分割して別働隊として前線へ行かせている。全ての小隊長に伝令せよ」
「は!」
「我等の行く先にメフメト軍が待ち伏せしている。北に遠回りして敵の背後に回れ。全速力で進撃するように伝えよ」
 ワリィ・シャアバーンには七万の兵が割り振られている。これを十に分けて各小隊におよそ七千の兵を置いた。わざわざ分隊したのは敵の罠に嵌って一網打尽になるのを防ぐため、迅速な移動を可能にするため、そしてこのように挟撃の任務を与えるためである。
「わしも本隊を分隊して東からメフメト軍を挟む。ここでの迅速さが明暗を分けるぞ。バーレーンからの本隊がここに至れば、その時我等の敗北は決まる」
 伝令にバラザフは走る。
 アジャリア本隊から西のメフメト軍が待ち伏せている地点まで行軍時間は半日、バーレーンからこの地点までは一日と少しである。挟撃の軍容を完成させ、そこから数刻で勝敗を決めねばならなかった。

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2020年2月5日水曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第4章_7

 アジャール軍は全軍でハサーに進んでいる。
 シアサカウシンは本格的な追撃に入るため軍容を整えていた。
 ところが追撃に燃えるシアサカウシンを嘲うかのように、二十万のアジャール軍はハサーの傍まで寄せて、またもや転進したのである。
「全軍、西だ。このまま皆でリヤドに帰還するぞ!」
 アジャリアの指示が下達した。
「ハサーを獲得する目的ではなかったのですか」
「ハサー獲得も上辺うわべ の陽を見せたに過ぎん。これで十分にメフメト軍を揺さぶりをかける事が出来たはず」
 目的を十二分に達成したにもかかわらず、アジャリアの表情が晴れていないと傍のアブドゥルマレク・ハリティは見た。
 今回のメフメト軍との戦いが布石であるならば、それはクウェート攻略のために他ならない。だが、ハリティの見たアジャリアの顔色にはそれだけでない苦さが出ている。
「帰還の道は間違いなく血路だ、アブドゥルマレク。メフメト軍は大鳥ルァフ と化してわしらを食いに追ってくるぞ。各隊に情報収集を怠らないようにして進軍するように命じよ」
 ――アジャール軍、ハサーに向う。
 シアサカウシンの方ではこの報を受けた上で、これからの方針をカウシーンにまず上申した。
「ハサー近辺を封鎖してアジャリア軍を包囲殲滅するのが良いと思われます」
 確かに盤面にはハサーに封じられて大鳥ルァフ の翼に被われて啄ばまれてゆく図が出来上がっているようではある。故にシアサカウシンのこの考えは常識的判断と言えた。
 だがカウシーンは、これに否やをとなえた。
「だがな、シアサカウシン。アジャリアの性格を考えるとサラディンと同じわだち に車輪を落とす事は無いはずだ。包囲殲滅にはこの父も反対はすまい。だがハサーというのは虚報に違いない。おそらくアジャリアはハラド、あるいはリヤドに退却しようとしている。メフメト軍全てを連携してその逃げ道を潰してやろうぞ」
「しかし、そう考えるとハサーは虚報であるという我等の裏をかいてくるような気にもなってきますが」
「そうだな。であるから後は当主であるお前が判断するが良い」
 結局シアサカウシンはカウシーンの方針を採った。
 そしてカウシーンの読みどおり、アジャール軍の進軍がハサーの手前で西に折れた。後は一直線にリヤドに向う道である。
「お前はそういう奴だ、アジャリアよ」
 カウシーンの顔に僅かに笑みが浮かんだ。肉体が老いても頭は老廃していなかった事を喜ぶ笑みである。友が自分が知る友であってくれた事も嬉しかった。
 その下でシアサカウシンの方はアジャール軍挟撃のために実務的に動き回らなくてはならない。弟達、領内の諸将との包囲、連携のための使者が行き交う。
 それらの一人が、シルバアサシンの手に捕縛された。
 書状を持ったメフメト家の使者がバラザフの所へ連行された。網を張っていたのは、オクトブートである。
 使者が携えていた書状には、
 ――ハサーの西に部隊を急行させバーレーン要塞からの主力部隊と挟撃する。
 という作戦内容が書かれていた。
「各所に自分達だけがわかる目印をつけて砂漠を往来していたようです。シーフジンを使者として遣わなかったのが幸いしました」
 バラザフは褒美としてオクトブートに金貨と肉とを与えた。褒美として価値のある金貨の他に、肉は戦場ですぐに労いになる。
「水と果物はレブザフに言って荷駄から持っていけ」
 当然、酒は与えられない。オクトブートは速やかに退去した。口にこそ出さないものの顔には褒美に満足した清清しさがある。
 バラザフは、捕らえた使者と書状をアジャリアに差し出した。
「カウシーン殿がわしの意図を読んだのだ。シアサカウシンはきっとハサーで我等を包囲するつもりだっただろう。ともあれ、退く先に軍を回されるのはいかにもまずいな。挟撃に嵌まり込んで進退を見失わないようにせねば」
 ――決戦の時が近づきつつあるな。
 アジャリアは、すぐにバラザフに諸将を集めさせた。軍議である。
「バラザフ、お前には伝令将として動いてもらう。時間が無い。即刻稼動してくれ」
 ここまでバラザフの部隊はカトゥマルの部隊に所属する形で動いてきたので、この再編措置はアジャリアの口からカトゥマルに伝えられた。
 今の戦局での主目的は帰還・・ である。よってメフメト軍との戦闘が起こるとすれば、それは敵が退路に立ち塞がってきたときであり、遭遇戦となる事が予想される。これまでのように時と場所を握る事は出来ず、敵兵のみならず宵闇も敵に回るかもしれない。
 よって伝令の任に就く将は智勇兼備でなければならず、用兵の機微を頭の中で描ける者でなくてはならない。九頭海蛇アダル であるアジャリア軍の中を血液のように巡らなければならず、これがしかと機能出来ないと頭や手足がばらばらに動き出す。
 ――困難で心労の強い役目だ。
「既に西方面に敵兵力が集まっているだろう。フート、情報収集に今まで以上に動いてくれ」
 今回のバラザフが受けた伝令の役目は、ただの伝令ではなく敵との遭遇が大いに予想される、戦闘込みの仕事である。兵を殆ど連れず戦うのは腕の立つ武人でなくては務まらない。
 この戦場にはシルバアサシンの他に、アジャール軍のアサシン、アジャリア直属の間者ジャースース も諜報のために放たれてはいるが、それらはバラザフの管轄下ではなく、彼らに指示を下して用いる事は出来ない。従ってシルバアサシンの働きぶりが、バラザフの伝令将の役目に直結する事になる。
「バーレーンより繰り出される兵はおそらく二十万。これをカウシーンとシアサカウシンで分隊して、西へ進む我が軍の先に回して絡めてくるはず。アジャリア様はこの二十万の稼動には時が掛かると読んでいる。つまりこの時を利用して敵の全軍を同時に相手するのを回避するのが我等の生き残りの胡麻シムシム 。門扉を開けるという意味だ」
 バラザフの詳説を弟のレブザフや配下の部隊長が神妙に聞いている。あれだけメフメト軍を翻弄した後の退却である。皆、この血路を活路とせねばならぬと理解していた。
「おそらく路線は今言った方向に定まる。いや、そこに必ずもっていく。フート、そのために情報を掻き集めるのだ」
 皆、言葉無く拝している。が、バラザフには、彼らに自分の意が浸透していっているのが感得された。
「昔、アジャール軍とベイ軍との間に大戦争があった。今回の戦いの熾烈さもそれと同等か、それを上回る事になろう。死なぬ覚悟が要るぞ! 味方との連携を疎かにせず戦死者を一人も出すな!」
 バラザフは激戦が訪れる事を読んで、配下に死なぬ覚悟を説いた。もちろんアジャリアも激戦を予測している。しかし、その危機感はまだ軍全体に伝播しきっていない。
 ――西にメフメト軍の陣を発見。すでに配置は済んでいる模様。
「予想以上に迅速だな。全員、大鳥ルァフ の背にでも乗って飛んできたか」
 偵察の者の報告に対してアジャリアは冗談交じりに余裕の態度で応えてはいるが、心の奥の顔は額に汗を浮かべている。メフメト軍の動きが予想以上に迅速なのは事実なのである。
 続いてアジャリアは偵察の者にバーレーンからの本隊の動きを問うたが、こちらにはまだ動きは無く、こちらの方は思ったより遅いようであった。
「わしにまだ武運がある証拠だ。この遅れは我等にとって僥倖となったわ」
 バーレーン要塞の主力がまだ出撃していないのが分かったアジャリアの安心感は大きい。
 一方、西に回りこんだ敵部隊の様子も大いに気になる所である。
 その部隊の数は十三万。ハサーのムスタファ・メフメト、ダンマームのバヤズィト・メフメト、さらにムバッラズの街の太守ソコルル・メフメトなどメフメト軍の諸将が集結している、と偵察は報告した。
 アジャリアの横で一緒に報告を聞いていたバラザフは、自分の背筋が冷たくなるのをはっきり自覚した。あれだけメフメト軍を叩いたのに、まだこれだけの戦力が残っている。主力が来ないまでも十三万を相手にするだけでも下手を打つとこちらがやられる。

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2020年1月25日土曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第4章_6

 翌朝、突如アジャリアから全軍命令が発せられた。
「バーレーン要塞の包囲を解除。島に渡った兵も撤退させよ。ハサーまで戻るぞ」
 転進に転進でバラザフですらアジャリアの意図が分からなくなりかけていた。そこへアジャリアはハサーに向うと言うのである。
「何故、ハサーなのか。どうしてサラディン・ベイのバーレーン要塞をなぞるのだ」
 アジャリアについて軍略を学び、模倣して、バラザフの中でアジャリアの思考の型が出来上がりつつあった。アジャリアであれば、サラディンと同じ轍を踏むまいとするはずではないか。
 バラザフが周囲に飛ばしているフートの配下からは、楽観視出来ない情報がいくつも集まってきている。
 これらをまとめると、バーレーン要塞を包囲するアジャール軍を挟撃するために、ハサーやダンマームなどの各城邑アルムドゥヌ が援軍が集まりつつある、という事になった。
「すでにアジャリア様は知っているだろうが伝えておくべきだろうか」
 遣いのために弟のレブザフを呼ぶと彼は伝えるべきでないと言い出した。
「すでにアジャリア様もこの情報を入手しているならば、わざわざ伝える必要はありません」
「なぜそう思う」
「シルバ家が必要以上にアジャリア様から警戒されるからです。もはや我等が使える事を家中に誇示して地位を上げる時期ではないかと」
「うむ……」
 レブザフの言葉にバラザフは考え込んでしまった。レブザフの考えには一理ある。父エルザフがアジャール家に臣従した当時であれば実力を誇示し、居場所を作っていく必要があったが、今のアジャール家中でのシルバ家の地位を考えると、レブザフの言うとおり主家から睨まれないように身を屈める場合も確かにある。アジャリアの言動を見るに、今情報を上げねば進退窮まるというものでも無さそうではある。しかし――、
「やはりカトゥマル様の耳には入れておこう」
 カトゥマルの口から出た情報であれば、アジャリアにシルバ家が警戒される事もないだろうし、もしこの情報が手柄になればシルバ家の働きを後からカトゥマルが認識すれば良い事になる。知己のカトゥマルでれば、その辺の事は酌んでくれるはずだとバラザフは判断した。
 ――アジャリアが包囲を解いてハサーに向う。
 この情報を持って、メフメト軍のアサシンであるシーフジンがバーレーンにすぐに走った。
「アジャリアはまたハサーに戻るだと?」
 すでにハサーなどからこちらへ援軍が向けられている。シアサカウシンは、これがアジャール軍を包囲して殲滅出来る好機と判断した。
九頭海蛇アダル を揚げる大網を仕掛けてやろう!」
 ハサー、ダンマーム等々、今までの戦いで手も足も出ず押さえ込まれた反動から、バーレーンの守備兵等は退却していくアジャール軍を、指示なく熾烈に追撃した。シアサカウシンにもこれを制止するつもりは無い。
 アジャール兵達は追いすがる敵に対して後退攻撃し、あるいは後ろ手に武器を振って、よく逃げ切った。

※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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2020年1月15日水曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第4章_5

 ついにバーレーン要塞をアジャール軍が包囲し始めた。二十万の兵が海を渡り、あるいは手前の沿岸で包囲の陣を整えている。
 サラディン・ベイはメフメト軍から何度も援使を迎えているが、義人サラディンとても自勢力を滅亡させるような危険を冒す事は難しかった。メッカのザルハーカ教横超地橋派の蜂起で、そこを突破出来ぬのもあるし、その蜂起を裏で糸を引いているのがアジャリア・アジャールで、アジャール側からはサラディンがアジャール軍を攻撃しなければ、ザルハーカ教の方は抑えるようにしておくとの密約があった上に、カイロのベイ軍へ糧秣が送られてきていた。
 今、カイロは飢饉である。アジャール家に対して、人民を飢えさせないようにしてくれた恩を仇で返す事の出来ないサラディンは、メフメト軍の援使を邪険にしないながらも、これに現実的な協力を示すわけにはいかなかったのである。
 ――ベイ軍は頼りにならない。
 シアサカウシンはカウシーンから何度も言われた。
 カウシーンにはサラディンが動けない理由がわかっていた。だとしても彼は自分の方に肩入れしないサラディンを感情的に許せていない。
 こうした手回しの良いアジャリアでさえ、いざバーレーン要塞を目の前に仰いだ時、その広大さに一瞬言葉が詰まった。しかし、そこは稀代に智将らしく盤上の遊戯をどう崩そうか考えて愉しむような気持ちになり、
「バーレーン要塞は古代より建て増しされきたそうだが、おそらく我等の代こそ一番眼福の相応しい姿だろう」
 と傍に居るワリィ・シャアバーンに冗談を言う余裕を見せ始めていた。
 アジャリアはバーレーン要塞を西の対岸から見ているが、それでも海の向こうから要塞の威風は迫ってくるものがある。すでに要塞の堂宇に彼らは居るといっても差し支えない。
 バーレーン要塞は三十を越える大小の群島の中の一番大きい島に建つ。砂漠と石灰岩の島々だが、北部に砂漠緑地ワッハ があり、そこのマナーマという城邑アルムドゥヌ が要塞の中核を成している。
 そして、当然周囲の海が天然の濠の役割をはたし外敵を阻んでいる。
「大きい。実に大きい。これを陥落させるには普通なら数年の時を要するであろう」
 ここに至ってなおアジャリアの真の目的は眼前には無い。サラディンが攻略出来なかったこの要塞を我が物にしてみたいという思いは確かにある。だがそれで彼と同じ失敗をするまいという思いのほうが強く、
 ――あわよくば攻略しよう。
 という慎重さを懐に抱えた、屈曲した攻城戦に挑もうとしていた。
 ハサーとダンマーム、この二つの城邑アルムドゥヌ にしても収穫出来れば、戦果としては上の上であるが、メフメト軍の威勢を削ぎ、アジャール軍の気炎を上げる事が出来たので、第一の目的は十分に達成されている。
 アジャリアはまたクウェート攻略に出たいと思っている。
 ――アジャール軍恐るべし。
 そういう感情を今の内に植えつけておけば、次のクウェート攻略でメフメト軍が横槍を入れてくる事はまずないだろう、というのがアジャリアの目論見なのである。

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2020年1月5日日曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第4章_4

 同刻、オクトブートと呼ばれるアサシンが疾走する者を一人発見した。このアサシンはオクトブート のように投げ網で標的を捕獲する業を持っているのでその名で呼ばれる。
 オクトブートの目に捕捉されたのは、言わずと知れたシーフジンで、バーレーン要塞に向けてバヤズィトより伝言を命じられた彼である。
 オクトブートにとっては捕捉は即ち捕獲を意味する。その目で捕捉して網から逃れた者はいまだ居ない。網を構成する主たる綱に支線の綱が幾つも派生していて、逃れられない仕組みになっている。
 捕らえたならば標的の生殺與奪はオクトブートが握る。標的捕縛の命が出ていれば獲物は上に差し出されるが、そうでなければオクトブート の足に捕まった獲物はその場で餌食になる。
 ――これは!
 シーフジンが気付いた時にはすでにオクトブート の足は視界いっぱいに広がり彼を包み込もうとしていた。
 オクトブートの網は完全に獲物を捕らえた。が、網を引き締めて手繰り寄せようと引いた彼に手には、網の中の獲物の重さが全く感じられなかった。
「消えた……?」
 網が投げられた瞬間まで獲物が居た・・ 場所には、青い煙が漂い、そしてもう薄れて消え行こうとしている。
「シルバアサシンだな」
 捕らえられたはずのシーフジンは少し離れた所に現れ、地に足を着けた。オクトブートはシーフジンの問いには答えず、
「シーフジンだな。今確かに捕らえたはずだが、やはりシーフジンの捕獲は困難だというのは噂どおりだな」
 その言葉が終わらぬうちに、シーフジンに再度網を投げかけた。網の捕縛が収束しシーフジンに絡み付こうとする。が、シーフジンもまた先ほどのように捕まる瞬間にその身を煙と化し、捕縛を逃れ、また出現した。
「今、お前が言った通りだ。我等シーフジンの捕縛は困難、いや不可能と知れ」
「捕縛出来ぬなら消えてもらうしかあるまいな」
 オクトブートは今度も言葉を仕舞わずシーフジンに網を投げた。シーフジンもこれまた同じように煙となって姿を消す。同じ手で捕縛し損ねるオクトブートだが、狙いは次の刹那にあった。
 シーフジンが姿を現し始める場所を見定めると、短剣を抜いて強く踏み込んだ。
「消えてもらうと言っただろう」
 オクトブートの短剣はシーフジンの心の臓を刺し貫かんとする寸前で、手首を捕まれ、血を滴らせている。止めを刺す力を込め、圧し切った刃がシーフジンの胸を貫いた。ところが絶命してその場に斃れるはずのシーフジンは、あの青い煙となって姿を薄れさせてゆき、今度は現れる事はなかった。
「煙のように掴めない輩だ。モハメドは配下を本当に魔人ジン に変えてしまうとでもいうのか」
 オクトブートは確かに血のついた短剣を見つめるも、今起きた不可思議に、この世ならざる物を感じざるを得なかった。そして、そう感じた彼自身も報告のためその場から姿を消した。シーフジンにしてもシルバアサシンにしても、バラザフが彼らを同門・・ と表現したように、世人の働きとは隔絶された異能の世界に生きる人外なのである。

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