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2020年5月5日火曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第4章_10

 フートが走り去ってから一刻――。アッシャブートからフートを通して報告があげられた。
「メフメト軍はアジャール軍が待ち伏せを迂回すると読んでいる。そのためバーレーンからの本隊と合流待ち待機場所からは動かない」
 バラザフはこの情報を、メフメト兄弟は城邑アルムドゥヌ の防衛戦でアジャール軍から手酷くやられているのでシアサカウシンから、
 ――こちらから仕掛けるな。
 との命令が出されていると解釈した。
 まだフートからの情報はある。
「敵味方の諜報戦が熾烈です」
 配下のシルバアサシンが各方面で必ずシーフジンと遭遇しているが、今の所戦闘は回避出来ていると続けた。
「シーフジンもアジャール軍の情報をもぎ取ろうと躍起になっております」
「フート、予め戦闘を許可しておく。この場合こちらの情報を守るのが優先される。敵の情報を取れなくとも良いから、各自の判断で始末して構わない」
「承知」
 作戦とアジャリアの意図を鑑みると、別働隊の情報だけは何としても秘さねばならないのだ。
 結局、シーフジンとの戦闘が多発した。
 シーフジンに対応するには、彼らの移動力を封じる事が肝要である。ここでシルバアサシンの連携の良さが活きた。
 ある所では網を張り、ある所では縄を巡らせ、砂地に伏せて、シーフジンの足を止めに掛かった。それで各所でシルバアサシンとシーフジンとの戦闘に発展した。
 ここで判ったのは、シーフジンは先にオクトブートと遭遇して霧消してしまった者のように、捕縛されたからといって皆が皆、消えるわけではないという事である。
 フートは配下全員に、
「モハメド・シーフジンはカウシーン・メフメトの傍近くで勤めているという話だ。よって戦場には出てきてはいないと見ていい。モハメドに統率されればシーフジンの連携も侮れぬものになるだろうが、各々ばらばらであれば我等シルバアサシンが奴等相手に危うくなる事は無い」
 と自身の思惑を伝えてある。中には消えてしまう奴もいるであろうが、シーフジンの中で唯一恐るべきは首領のモハメドであるとフートは考えている。
 バラザフは、これらのを情報を取りまとめる事から、別働隊のワリィ・シャアバーンよりも先陣に居るアブドゥルマレク・ハリティへの情報伝達が優先されると判断した。アジャリアへの報告には弟のレブザフが走っている。
 レブザフが持ってきた情報はアジャリアを喜ばせた。
「待ち伏せておきながらメフメト兄弟は我等が戦闘を回避すると読み違えたか。ふふ……、九頭海蛇アダル から通り一遍等の知恵が出るわけがあるまい。わしは定石を外すことも中てる事も出来るのだ」
 そしてハリティを急がせるようにアジャリアからバラザフへの指示を持ってまたレブザフは駆けた。敵が油断している今が攻め時である。
 アジャール軍のこの動きを見たメフメト兄弟は、傍から見ても分かるくらいに青ざめた。先の戦いで自分達がアジャリアに敵わない事は証明されてしまっているのである。
 アジャリアの言葉通り待ち伏せておきながら、彼らはアジャール軍との遭遇を想定していなかった。
「何故、アジャリアがこちらに向ってくるのだ!」
「あれもまたアジャリアの幻影タサルール とやらではないのか。こちらに影を当てて本隊は砂漠を横断して通り過ぎるに違いない」
 アジャール軍によって混乱させられているのは、上だけでなく下の諸将もである。ここに召集された意味を知らない彼らは、
 ――アジャール軍と戦う事になるとは。
 ――アジャール軍に交戦の意思は無いらしい。
 と噂して浮き足立った。
 その通り上からも彼らは命令されており、言われた地点へ布陣すればアジャール軍は迂回して通り、後はバーレーンのメフメト軍主力が追撃し、そこから挟撃にうつればよいと一応安心させれていたのである。
 シルバアサシンや、アジャール軍のアサシンはこれを衝いた。流言を用いてこの噂により真実味を持たせたので、メフメト軍の将兵の間では、いよいよ、
 ――アジャール軍は迂回路を取る。
 との情報が浸透しきっていった。
 内部に流言がこれ以上拡散して、より困難な状況に陥るよりは、
「まだ勝機のあるうちに事に挑もう。向ってくるアジャール軍に先手を打つ」
 と、ソコルルとメフメト兄弟は、先制攻撃の方針を決めた。
 同時にこの情報は、バラザフのもとへ流れてゆく。バラザフは先陣に居るアブドゥルマレク・ハリティの所へ向う途中でこれを受けて、敵がアジャール軍を迎え撃つ構えになっている事をアブドゥルマレクへ知らせるために馬の脚を速めた。
「伝令将のバラザフ・シルバだ。そこを通してくれ!」
 暗闇を照らす松明を持つ兵の間をバラザフは駆けて通る。
「ハリティ殿、アジャリア様からの伝言を持って参った!」
 バラザフは、敵の動き、アジャリアの指示に加えて、先ほど入ったメフメト軍が交戦の構えを見せているという情報をアブドゥルマレクへ伝えたところで新たな伝令が駆け込んできた。
 ――メフメト軍、火砲ザッラーカ を発射!
「怯えた威嚇射撃だ。あの場所からはこちらに火砲ザッラーカ は届かん。どちらにしろ交戦する気のようだな。バラザフ、全軍に戦闘の準備をさせてくれ」
 先鋒の本部のアブドゥルマレクの陣を出て、最前線へ向けてバラザフは走った。一番前に配置されているのはハッターン・アルシャムラニという将である。
 アルシャムラニに伝令を終えた所で再びメフメト軍の火砲ザッラーカ が一斉射撃された。
「今度はかなり近いな」
 火砲ザッラーカ が宵闇の空の赤く焼いているのが見えた。おそらく今の発射で全て撃ってきたはずだ。
 ――予備の発射を残しておいて反撃される危険はあるが、しかし、
「次の発射までに一気に仕掛けるぞ!」
 メフメト兄弟にそこまでの機知は無いとバラザフは判断した。急場、伝令将の任に就いてはいるが、バラザフは部隊を率いる身分である。伝令の間にも常に彼の部隊は随行してきており、バラザフは弓兵に先ほど炎が見えて明るくなった場所を指して攻撃を命じ、騎馬兵は自身と共に突撃するように指示した。万が一次の火砲ザッラーカ が来た時に備えて、また以前のように砂袋投げて炎を防ぐ手配も忘れなかった。
 闇夜の空を弓矢がはし って裂いた。準備に時間のかかる火砲ザッラーカ と比べて、弓矢での攻撃は連射も出来るし、急場の小回りも利く。
 音から判断して弓兵の攻撃は効いているようだ。
「好機! 一気に押し掛けるぞ!」
 伝令将でありながら、その場に居合わせた都合で、バラザフが最初の切り口を作る形になった。
 馬上で両手に諸刃短剣ジャンビア を持って構える。そして、灯明がある位置を目指して駆けた。火砲ザッラーカ を敵が撃ってきたために攻め時が生じただけである。悠長に構える時間は無かった。
「敵を見つけたらとにかく斬れ! もたもたしているとこちらが火砲ザッラーカ の炎の馳走にあずかる事になるぞ!」
 暗闇故の同士討ちも回避するよう指示した。当然ながら同士討ちというものは、進行方向が交わるから発生するものである。よって扇状に各自が斬り進んでいけば味方とはぶつからないという一応の理屈である。言葉で敵味方を判別する方法もあるが、今回はこの方法を採った。
 先に斬り込んでいった者らに続いて、手持ちの矢を撃ち終えた弓兵も得物を抜いて攻撃に入った。
 予想通り火砲ザッラーカ は一斉射撃した後で、反撃らしい反撃も無く敵部隊は俄かに崩壊した。
 一人、バラザフに斬りかかってくる者があった。質の良い装備から火砲ザッラーカ 隊の隊長であると思われた。
 相手は素早く剣を突き出してバラザフを仕留めようとするが、その切っ先は全てバラザフの諸刃短剣ジャンビア なされ、最後には左の刃で大きく弾かれた隙に、右の刃で心の臓を貫かれ絶命した。
 すぐに周りを警戒し視界を巡らせてみると、各自、敵の殲滅を終えた部下達が集結している所である。兵等が集まってきた場所では二人が刃を交えている最中であった。どちらかが味方でどちらかが敵である。
 その片方の頭にあるカウザ と両手の諸刃短剣ジャンビア からバラザフだと判断し、彼が敵将を仕留めた瞬間、歓声が沸き起こり、その渦は周囲のハッターン・アルシャムラニの部隊にも伝播していった。
 ――見事!
 と手柄を寿ことほ ぐ声まで聞こえてくる。
「十分に働く事が出来た。この場はアルシャムラニ殿の部隊に任せて我等は伝令の任に戻る」
 バラザフが自部隊に退却を命じた所に、アルシャムラニ隊がやってきて入れ替わり、陣地を確保した。アジャール軍の陣地が一歩進んだ形になる。
「さすがはバラザフ・シルバ。伝令の任にありながらその機転で緒戦を制してしまうとは」
「いえ、行きがかり上、巻き込まれたに過ぎません」
 全方面で剣が交わり始めた。バラザフの戦いがきっかけとなったのである。
 両軍の火砲ザッラーカ が火を噴いて、夜の砂漠を明るくした。
 アジャール軍が分隊して稼動しているため、メフメト軍もこれに対して隊を分けて対応しなくてはならない。ハリティの部隊は敵を斬りながら圧している。士気は十分である。
 戦戈は荷隊カールヴァーン を護衛しているナワフ・オワイランの部隊にも及んだ。
「積荷を死守せよ! 守りきるのだ!」
ナワフは必死に叫ぶ。こちらは劣勢を強いられていた。
 敵の放った弓矢に荷隊カールヴァーン の護衛隊の小隊長の一人が眉間を射抜かれた。途端に配下の兵が悲鳴をあげて慌てふためき始める。戦線の弱まった所に敵兵が殺到した。
 ナワフは部下を怒喝しながら敵を必死に防ぐ。小隊長を失った部隊を急いで他の小隊長の指揮下に入れた。
「守りきるのだ! 勝てない敵ではない!」
 隊列が乱れ、敵味方が入り混じっている。誰もが暗闇の中、剣を振り回していた。
 乱戦が一刻ほど続いた後、別働していた部隊を連れてワリィ・シャアバーンが荷隊カールヴァーン の加勢に駆け付けた。すでに自分の持ち場の敵は片付けている。
 奮って抗戦する荷隊カールヴァーン を押し切れなかったメフメト軍は、背後にワリィ・シャアバーンが部隊が俄かに出現し、前後から挟まれる形となった。
 七万のワリィ・シャアバーン隊が鯨波を伴ってメフメト軍を圧殺しにかかった。
 メフメト軍の数は十三万。数ではかなり有利に見えるが、その実、メフメト勢力圏内から集まった烏合の衆で、あわよくば脱走の機会を窺う兵もいるほどである。
 結局の所、まともに戦意があるのはメフメト兄弟とソコルルとその他数名のみで、あとは兵を束ねる隊長格でさえ、後ずさり始める始末である。メフメト兄弟の命令を待たず、ほとんどの将兵が戦場を離れようとしている。その点ではアジャリアに侮られ、雛鳥ファルフ と揶揄されているとはいえ、メフメト兄弟はまだ将として資格があるといえた。
 まもなく夜が明ける。
 旦日シュルーク が地平より顔を出し、戦場の砂を橙色とうしょく に染める。
 始めに挟撃を仕組んでいたメフメト軍は、現前、アジャール軍に挟撃されているという事態である。
「御兄弟、これ以上の戦闘は無用と思われる。戦死は回避すべきです。撤退命令を出すべきです」
 大局眼を持つソコルルでも、この不利は押し返せないと見た。今、アジャール軍の勢いは強すぎる。
「ここに至っては犠牲がさらに増えるばかり。撤退命令を」
 ついにメフメト兄弟から撤退命令が出された。ただでさえ逃げたがっていた将兵らは、形振り構わず散り散りになって姿を消していった。
 そのメフメト兵をアジャールの騎馬兵が、駱駝騎兵が掃討を始める。
「神が我等の勝利を望まれた」
 戦況を見つめていたアジャリアの口から安堵の声が漏れた。その安堵も束の間、すぐに、
「バラザフ!」
 声を大にして呼び声をあげた。
荷隊カールヴァーン と全軍の被害状況を確認せよ」
 いまだアジャリアは勝利に落着してはいられなかった。先に彼が申し渡したとおり荷隊カールヴァーン が無事でなければ彼らの帰還はかなわない。
 バラザフは馬を駆けた。戦いが始まる前と違って、朝に降りた露が今度は腕に冷たく感じられた。
 ある場所でフートが立ち尽くしていた。足元に物言わぬ身体が数多転がっている。
「何があった。フート」
 フートはすでにここには無い心でバラザフに答えた。
「モハメド・シーフジンが出ました……。奴は……。奴は怪異です」
「こちらが戦いを制したのか」
「こちらが倒したのは九人、こちらは六人殺されました」
 バラザフは再度足元の死体に目をやった。その数は十四である。
「一人足りないようだが」
「私です。私はここで死んだのだ」
「だがフートは俺の目の前で現に生きているではないか」
「モハメドは私をやれた。喉下に刃を突きつけ、そしてやらずに消えていったのです」
 バラザフの前に立つフートはただ肉体が生きているだけのようで、心と魂が剥離しかかっている。だが今放心を求めれば或いはまだ間に合うかもしれない。
「ならば大死とせよ。今、絶後に蘇り今まで以上に奮起せよ。フートはもう死んだ!」
「は……」
 バラザフの言葉はひとまずフートの心に救いを与えたが、まだフートが力を戻すには至らなかった。生きる屍になりかけているフートを言葉の剣で斬り、バラザフはフートにそう言ってやる他なかったのである。
「本当は我等が完全に優勢でした」
 フートはバラザフのため何とか先程まで起きていた戦いを述懐した。
「戦いが終わった瞬間、モハメドが現れました。奴は私の配下を一瞬で屠り、最後に私は青い煙を見たのです」
「なるほどな……」
 つまり、シーフジンが前線での敗戦をカウシーン・メフメトに報告するために出てきており、フートの命をわざと取らなかったのはバラザフに恐怖を伝えるためで、
 ――シーフジンとメフメトを侮るな。
 という釘刺しのようなものであろう。バラザフの方にはまだ、そう分析する冷静さが残っていた。
 この惨状の現場に各方面に散っていたフートの配下が戻ってきて、皆、一様に驚嘆した。
「一体何が……」
「モハメド・シーフジンが出たそうだ」
 胸詰まらせるフートの代わりにバラザフが答えた。
 フートの配下達は、
「いかにモハメド・シーフジンが伝説のアサシンでもシルバアサシンの総力なら倒せるのではないか」
「姿を見ても正体が分からぬでは倒す方策が立たん」
「だが首領が生き残れたのは幸いだった」
 と口から出る言葉は様々であるものの、心の内は同一に暗澹としたものである。
「シーフジンと対決する時が迫っているのかもしれない。その時までにフートの指示によく従い各々力を蓄えるように」
 バラザフはフートの顔を立ててやるのを忘れなかった。
「バラザフ様の言葉通りシーフジンとの対決は回避出来ぬだろう。それは逆に仲間の仇を返す機会が与えれるという事だ」
 ようやくフートがアサシンの首領の顔に戻ってきた。
 モハメド・シーフジンの方は、戦線情報を把握を望むカウシーンの指示を受けて、配下を遣わさずに自身が前線に赴いていたのである。
 報告に戻ろうと駆けるモハメドの視界に配下のシーフジンとシルバアサシンの戦闘が目に入り、シルバアサシンを次々に斬って帰ってきた。
「戦線にて我等メフメト軍は敗北。戦後、アジャール軍はリヤドに向けて退却し始めている模様」
 報告するモハメドの顔色はメフメトから仮面のせいで分からない。その口から出る声も、ただ事実を淡々と述べるのみである。
「こちらは手痛くやられたであろうな」
「アジャール軍が把握した情報を借りるならばメフメト軍の戦死者は三万二千、負傷者は数え切れず」
「向こうはどうだ」
「戦死者三千、負傷者六千」
「負けるにしても負け方が酷すぎるな」
「あくまでアジャール軍の情報ですが」
「いずれ愚息等も帰還するであろう。それで再度確かめよう」
 敗戦から命拾した者らが語る言葉によって、カウシーンはモハメド・シーフジンの報告に誤りは無かった事を知らされた。
「息子達よ。父はアジャリアと初めて対決し、そして負けた。大きな戦いであったなぁ……」
 カウシーンは寂しく笑い、細めた目をおぼろげに遠くに遣った。
 俯いて物も言えぬ息子達の中で、シアサカウシンだけが、
「父上は大鳥ルァフ なのです。大鳥ルァフ は地に墜ちる事は無い。墜とされたのは我等だ!」
 父カウシーンの敗北を否定し、最後まで大鳥ルァフ であらしめようとした。翼で飛べない自分達の代わりに、父だけでも大鳥ルァフ として飛翔していてくれれば、それでメフメトの誇りが守れるような気がずっとしていた。同じ思いは後ろのムスタファ、バヤズィトにも当然あった。
「それは違うぞシアサカウシン。大鳥ルァフ といえども土から生まれた物であろうよ。ならば翼を風に永遠に乗せている事など出来ぬのが道理なのだ。アジャリアはカウシーンに圧勝した。この先そう語り継がれてゆく事だろう」
 それを聞くシアサカウシンにもはや言葉は無かった。あるのは自分達の不甲斐無さで父の名を貶めてしまった事への無念だけである。
「我等は義人と世間で称されるサラディンをあてにし過ぎたのだな」
 カウシーンの見る西の海の先には広大な砂の大地が広がり、さらにその先に今日の太陽が沈もうとしている。
「父の死後は、ベイ軍とはそれで手切れとせよ。義侠心は確かに価値ある物だ。しかしこの世でそれより価値ある物は生き残るための力だ。父が死んだらアジャール軍を頼れ」
「はい……」
「あの九頭海蛇アダル の懐に潜り込んで背中に乗ってやれ。乗り心地は最悪だろうがな」
 愉快そうに笑うカウシーンは、最後にはやり切ったという清々しい顔になっていた。
 数年後、大鳥ルァフは 地に降りて羽根をゆっくりと静かに休めた。そしてシアサカウシンは父カウシーンの言葉を守り、アジャール軍との同盟を成立させた。これもアジャリアのクウェート侵攻を再開する上で盤に組み込まれる事になる。
「あれだけ叩きのめしておけば、メフメト軍がわしの行く手を阻む事はないだろうからな」
 ハラドに帰還したアジャリアは早速、全軍にクウェート侵攻の方針を示した。
 先の戦功でバラザフはさらに昇格し、配下が増員され、弟のレブザフも配下を与えられ、兄とは独立した百名程の自分の小隊を持つ事が出来るようになった。
 息子達の出世を聞いた父のエルザフは、
「あの苦境の頃の死なぬ覚悟がここで生きてきた」
 と彼ら以上に喜びを噛み締めていた。

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2020年2月5日水曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第4章_7

 アジャール軍は全軍でハサーに進んでいる。
 シアサカウシンは本格的な追撃に入るため軍容を整えていた。
 ところが追撃に燃えるシアサカウシンを嘲うかのように、二十万のアジャール軍はハサーの傍まで寄せて、またもや転進したのである。
「全軍、西だ。このまま皆でリヤドに帰還するぞ!」
 アジャリアの指示が下達した。
「ハサーを獲得する目的ではなかったのですか」
「ハサー獲得も上辺うわべ の陽を見せたに過ぎん。これで十分にメフメト軍を揺さぶりをかける事が出来たはず」
 目的を十二分に達成したにもかかわらず、アジャリアの表情が晴れていないと傍のアブドゥルマレク・ハリティは見た。
 今回のメフメト軍との戦いが布石であるならば、それはクウェート攻略のために他ならない。だが、ハリティの見たアジャリアの顔色にはそれだけでない苦さが出ている。
「帰還の道は間違いなく血路だ、アブドゥルマレク。メフメト軍は大鳥ルァフ と化してわしらを食いに追ってくるぞ。各隊に情報収集を怠らないようにして進軍するように命じよ」
 ――アジャール軍、ハサーに向う。
 シアサカウシンの方ではこの報を受けた上で、これからの方針をカウシーンにまず上申した。
「ハサー近辺を封鎖してアジャリア軍を包囲殲滅するのが良いと思われます」
 確かに盤面にはハサーに封じられて大鳥ルァフ の翼に被われて啄ばまれてゆく図が出来上がっているようではある。故にシアサカウシンのこの考えは常識的判断と言えた。
 だがカウシーンは、これに否やをとなえた。
「だがな、シアサカウシン。アジャリアの性格を考えるとサラディンと同じわだち に車輪を落とす事は無いはずだ。包囲殲滅にはこの父も反対はすまい。だがハサーというのは虚報に違いない。おそらくアジャリアはハラド、あるいはリヤドに退却しようとしている。メフメト軍全てを連携してその逃げ道を潰してやろうぞ」
「しかし、そう考えるとハサーは虚報であるという我等の裏をかいてくるような気にもなってきますが」
「そうだな。であるから後は当主であるお前が判断するが良い」
 結局シアサカウシンはカウシーンの方針を採った。
 そしてカウシーンの読みどおり、アジャール軍の進軍がハサーの手前で西に折れた。後は一直線にリヤドに向う道である。
「お前はそういう奴だ、アジャリアよ」
 カウシーンの顔に僅かに笑みが浮かんだ。肉体が老いても頭は老廃していなかった事を喜ぶ笑みである。友が自分が知る友であってくれた事も嬉しかった。
 その下でシアサカウシンの方はアジャール軍挟撃のために実務的に動き回らなくてはならない。弟達、領内の諸将との包囲、連携のための使者が行き交う。
 それらの一人が、シルバアサシンの手に捕縛された。
 書状を持ったメフメト家の使者がバラザフの所へ連行された。網を張っていたのは、オクトブートである。
 使者が携えていた書状には、
 ――ハサーの西に部隊を急行させバーレーン要塞からの主力部隊と挟撃する。
 という作戦内容が書かれていた。
「各所に自分達だけがわかる目印をつけて砂漠を往来していたようです。シーフジンを使者として遣わなかったのが幸いしました」
 バラザフは褒美としてオクトブートに金貨と肉とを与えた。褒美として価値のある金貨の他に、肉は戦場ですぐに労いになる。
「水と果物はレブザフに言って荷駄から持っていけ」
 当然、酒は与えられない。オクトブートは速やかに退去した。口にこそ出さないものの顔には褒美に満足した清清しさがある。
 バラザフは、捕らえた使者と書状をアジャリアに差し出した。
「カウシーン殿がわしの意図を読んだのだ。シアサカウシンはきっとハサーで我等を包囲するつもりだっただろう。ともあれ、退く先に軍を回されるのはいかにもまずいな。挟撃に嵌まり込んで進退を見失わないようにせねば」
 ――決戦の時が近づきつつあるな。
 アジャリアは、すぐにバラザフに諸将を集めさせた。軍議である。
「バラザフ、お前には伝令将として動いてもらう。時間が無い。即刻稼動してくれ」
 ここまでバラザフの部隊はカトゥマルの部隊に所属する形で動いてきたので、この再編措置はアジャリアの口からカトゥマルに伝えられた。
 今の戦局での主目的は帰還・・ である。よってメフメト軍との戦闘が起こるとすれば、それは敵が退路に立ち塞がってきたときであり、遭遇戦となる事が予想される。これまでのように時と場所を握る事は出来ず、敵兵のみならず宵闇も敵に回るかもしれない。
 よって伝令の任に就く将は智勇兼備でなければならず、用兵の機微を頭の中で描ける者でなくてはならない。九頭海蛇アダル であるアジャリア軍の中を血液のように巡らなければならず、これがしかと機能出来ないと頭や手足がばらばらに動き出す。
 ――困難で心労の強い役目だ。
「既に西方面に敵兵力が集まっているだろう。フート、情報収集に今まで以上に動いてくれ」
 今回のバラザフが受けた伝令の役目は、ただの伝令ではなく敵との遭遇が大いに予想される、戦闘込みの仕事である。兵を殆ど連れず戦うのは腕の立つ武人でなくては務まらない。
 この戦場にはシルバアサシンの他に、アジャール軍のアサシン、アジャリア直属の間者ジャースース も諜報のために放たれてはいるが、それらはバラザフの管轄下ではなく、彼らに指示を下して用いる事は出来ない。従ってシルバアサシンの働きぶりが、バラザフの伝令将の役目に直結する事になる。
「バーレーンより繰り出される兵はおそらく二十万。これをカウシーンとシアサカウシンで分隊して、西へ進む我が軍の先に回して絡めてくるはず。アジャリア様はこの二十万の稼動には時が掛かると読んでいる。つまりこの時を利用して敵の全軍を同時に相手するのを回避するのが我等の生き残りの胡麻シムシム 。門扉を開けるという意味だ」
 バラザフの詳説を弟のレブザフや配下の部隊長が神妙に聞いている。あれだけメフメト軍を翻弄した後の退却である。皆、この血路を活路とせねばならぬと理解していた。
「おそらく路線は今言った方向に定まる。いや、そこに必ずもっていく。フート、そのために情報を掻き集めるのだ」
 皆、言葉無く拝している。が、バラザフには、彼らに自分の意が浸透していっているのが感得された。
「昔、アジャール軍とベイ軍との間に大戦争があった。今回の戦いの熾烈さもそれと同等か、それを上回る事になろう。死なぬ覚悟が要るぞ! 味方との連携を疎かにせず戦死者を一人も出すな!」
 バラザフは激戦が訪れる事を読んで、配下に死なぬ覚悟を説いた。もちろんアジャリアも激戦を予測している。しかし、その危機感はまだ軍全体に伝播しきっていない。
 ――西にメフメト軍の陣を発見。すでに配置は済んでいる模様。
「予想以上に迅速だな。全員、大鳥ルァフ の背にでも乗って飛んできたか」
 偵察の者の報告に対してアジャリアは冗談交じりに余裕の態度で応えてはいるが、心の奥の顔は額に汗を浮かべている。メフメト軍の動きが予想以上に迅速なのは事実なのである。
 続いてアジャリアは偵察の者にバーレーンからの本隊の動きを問うたが、こちらにはまだ動きは無く、こちらの方は思ったより遅いようであった。
「わしにまだ武運がある証拠だ。この遅れは我等にとって僥倖となったわ」
 バーレーン要塞の主力がまだ出撃していないのが分かったアジャリアの安心感は大きい。
 一方、西に回りこんだ敵部隊の様子も大いに気になる所である。
 その部隊の数は十三万。ハサーのムスタファ・メフメト、ダンマームのバヤズィト・メフメト、さらにムバッラズの街の太守ソコルル・メフメトなどメフメト軍の諸将が集結している、と偵察は報告した。
 アジャリアの横で一緒に報告を聞いていたバラザフは、自分の背筋が冷たくなるのをはっきり自覚した。あれだけメフメト軍を叩いたのに、まだこれだけの戦力が残っている。主力が来ないまでも十三万を相手にするだけでも下手を打つとこちらがやられる。

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2019年10月5日土曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第3章_14

 カウシーンはダンマームとハサーの城邑アルムドゥヌ にそれぞれ二男と三男を配している。これらにアジャール軍の侵攻に急ぎ備えるようにと命令した。いずれもバーレーン要塞への緩衝となる重要拠点である。
 アジャール軍の方では、バラザフが先鋒のカトゥマルの部隊と合流していた。
「アジャリア様の命でカトゥマル様の部隊を追ってきた次第です」
「おう、バラザフ。我等にも定められた行程がある故、お前が後ろから来ているのに気付いていても途中で待ってやれなかった。許してほしい」
「昔からカトゥマル様は足が速かったですから」
「何、あれでも俺は加減していたぞ」
「追う方は堪りませんよ」
 幼少時の同じ感覚を持った二人の会話は哄笑に変わった。この幼少時の幼い感覚にはナウワーフも含まれている。彼らは主家と家来という間柄でありながら、今でも冗談が言い合える仲である。
「バラザフは昔から知恵が回ったな。そんなお前に尋ねたいのだが」
「何か問題でも生じましたか」
「いや、問題が生じたという事ではない。カウシーン・メフメトという人物を戦う前に知っておきたいと思ったのだ」
「カウシーン殿ですか」
「うむ。父アジャリア・アジャールに匹敵する智勇の将という、世で言われている情報くらいしか分らない」
「私の持っている情報もそれと変わりありませぬ。一応父が申していましたのは……」
 バラザフは、父エルザフから聞いていた、カウシーン・メフメト像を語った。戦い方や交渉のやり方についてを、特にメフメト家のジュバイル獲得がカウシーンの活躍に依る所が大きい事を、押して伝えた。
「戦局を左右させ得る力があるという事だな。父に匹敵すると評価されるのも頷ける」
「戦いにおいて勝つための筋道という物が定まっているのかどうかはわかりませんが、戦略、戦術、外交、どれをとってもアジャリア様のやり方と酷似しているように思えるのです」
 アジャリアとカウシーンが似ていると話して、バラザフは自分も彼らのやり方を模倣しようとしている事に気付いた。やはり勝つための一定の法則はあるように思える。だが、今は頭の中でその方法論を形成してゆく時間は無く、自分等の本分を務め切らねばならない。
「父アジャリアに戦いで勝たなければいけないようなものではないか」
「その言葉は言い得ています。それほどの強敵であるが故に私も寒気がします」
 二組の人馬は離れ、バラザフは後ろの自分の部隊に戻っていった。バラザフは東の空に目を遣った。あの空の下に海があり、そこにバーレーン要塞が在る。
 その空にネスル が誇らしげに飛んでいるのが見える。ネスル は見る見る巨大化し大鳥ルァフ となり空を覆った。
 ――大鳥ルァフ よ。我等の九頭海蛇アダル の首はお前まで届いて吞み込んでやるぞ!
 自分は九頭海蛇アダル の手足だ。大鳥ルァフ に睨まれ背中に悪寒が走る。反面、もし自分が九頭海蛇アダル の頭として稼動出来たなら、どのように大鳥ルァフ を食い殺してやろうかという戦術的な楽しみもある。
「あの時もそうだったかもしれん」
 バラザフはベイ軍との死闘において、主将になったつもりで戦場の動きを見つめている若き日の自分を思い出した。すでに父親になったとはいえ昔日を懐かしむには些か若すぎる謀将アルハイラト である。

※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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2019年9月25日水曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第3章_13

 アルカルジにアジャール軍集結。この情報がすぐバーレーンに届いた。
「何で素直にクウェートに行かんのだ!」
 新たにメフメト軍の統領となったシアサカウシンの頭の中は怒りと混乱で入り乱れた。
 難攻不落のバーレーン要塞を本気で攻撃するまいと思っていた。万が一来たとして、ジュバイルの城邑アルムドゥヌ 辺りからのはずであった。
「あの揺さぶるようなやり方が気に入らん」
「ではそれに揺さぶられてはならんぞ」
 すでに九頭海蛇アダル の術中に嵌っているシアサカウシンにカウシーンが話して看た。
「同じ高さで観ては九頭海蛇アダル の頭の一つが見えるのが精々だ。だが、上から観れば九頭海蛇アダル蚯蚓ドゥダ に見える。もっともあれは化け物蚯蚓だがな」
「あれが化け物蚯蚓であれば、父上はそれを啄ばむ大鳥ルァフ でしょう」
「その賛辞は嬉しいが父は老いた。長くは飛べぬ大鳥ルァフ よ。父はお前にこのバーレーンの空を飛んで欲しいのよ」
 偉大なる父を大鳥ルァフ に喩えたシアサカウシンは自らが成鳥となって久しく、名目上はメフメト軍の総帥として当主を継いでいる。だが客観的に見ても、親の欲目で見てもシアサカウシンが大鳥ルァフ としてバーレーンを制空する器とは評価出来ない。
 それでも親として子に期待せぬ事など所詮無理な事であり、老いたりとはいえ自分の命ある限りは我が子と一族を守りたいと、ついつい政務軍務の口を挟んでしまうカウシーンなのである。今は迫り来る化け物蚯蚓にこの地を食い散らかされるのを防がねばならない。
 上から観ろと子を諭し、大鳥ルァフ と称されただけあって、カウシーンの目にはアジャリアの意図が徐々に浮かび上がって見えてきた。
「シアサカウシン」
 虚空を真っ直ぐと見つめたままカウシーンはアジャリアの意図を描こうとする。
「アジャリアの狙いはこの父よ」
「父上を?」
「この父の命……というより、力比べよ。どちらが強いか、知恵が回るか、根気が上回るか。同盟に安居して我等はこれまでぶつかって来なかった。大鳥ルァフ九頭海蛇アダル 、ここで雌雄を決してみたいと父にも思えて来たぞ」
「父上……」
 血が沸き立ち震える父を、シアサカウシンは仰羨していた。まさにバーレーンを制空する大鳥ルァフ を眼前に見ていた。
「こちらも全力をぶつけてやりましょう」
「そうだな。あの九頭海蛇アダル がどのような奇策を出して、このバーレーンを落とそうとするのか楽しみなってきたわ。情報を拾え。アサシン、間者ジャースース を増員してアジャール軍の動きを追うのだ」
 父の威風に薫陶され性を成して、シアサカウシンの身体にも闘気が宿り始めた。
 カウシーンにはこれが自分の最後の戦いのなると分った。故、たとえ僭越になろうとも戦いの指揮権をやる気になっているシアサカウシンから自分に戻して戦おうと決めた。
 シアサカウシンに大鳥ルァフ の羽根のひとひらでも有していればよかった。見上げるような感覚や、地に足を着けて横を観る目も必要な時はある。民情を把握して民の暮らしを平らけく安らけくせんとする時がそれである。が、今地を這っていては九頭海蛇アダル に踏み潰されるか、いずれかの頭に呑みこまれて終わる。シアサカウシンを活かしてやるのは平安が訪れてからでよい。
 カウシーンも元々は土の如く地に有った。その土には戦場の薫りが浸み付き、鶏ではなく大鳥ルァフ に大きく焼きあがった。無論、戦場はその製陶を唯見過ごすという事はせず、言うなれば傷物として出来上がった。やがて陶の大鳥ルァフ は命となり、バーレーンの空を飛んだ。その意味ではシアサカウシンは父を的確に観て評したと言える。
 その目でアジャリア・アジャールを観て欲しい。だから、
 ――味方は活かせても敵は殺せぬ。
 というのが父カウシーンのシアサカウシンに対する評である。
 ジュバイル、バーレーン、ドーハ、マスカットにかけて、メフメト家は、ペルシャ湾、オマーン湾の南側の湾岸を支配下に置いている。サバーハ家の客将であったカウシーンの祖父がサバーハ軍の後ろ盾を得て、この地を支配するに至った。カウシーンの今までで一番大きな戦いダンマームでの戦いである。ダンマームはこの時まだ他の有力首長の支配下であって、相手はメフメト軍の十倍以上の威を誇っていた。これをカウシーンの活躍で追い出しアルカルジまで退かせる事に成功した。カウシーンが二十歳の時である。アルカルジもこのときはまだアジャール家の支配ではなかった。
「もうあの時の力は残っていない。だが、アジャリアと最後の対決となれば、ジュバイルの戦いの記憶が我が血をたぎ らせずにはおかぬ」
 ぐっと力の篭るカウシーンの腕は傷跡だらけである。その腕を見つめ、それからシアサカウシンを見遣った。

※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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