tag:blogger.com,1999:blog-43147573888300946582024-03-14T03:12:34.612+09:00ファンタジー小説『カラビヤートシリーズ』仮想アラビア世界「カラビヤート」を舞台としたファンタジー小説。Blog authorhttp://www.blogger.com/profile/05104770986712427544noreply@blogger.comBlogger140125tag:blogger.com,1999:blog-4314757388830094658.post-64317826802481918302024-03-05T05:55:00.091+09:002024-03-05T05:55:00.138+09:00『アルハイラト・ジャンビア』最終章<p> レイス軍は、必勝を期待して挑んだリヤド攻略戦で、類を見ないほど惨敗した。</p><p>「我等の敗北が世人に広まれば、レイス連合全体に動揺が伝播するのではないか……」</p><p> ファルダハーンは、決戦の場に召集された連合軍の向背を案じた。</p><p> 逆にバラザフは、この戦いで自軍が大勝した事が衆口に乗れば、自軍が所属するエルエトレビー連合の士気は上がり、レイス連合に背を向けてこちらに同心してくる諸侯が後を絶たない状況になるのは必然だと思っていた。それくらいの事はしたという自信がある。</p><p>「ファルダハーンがこのまま負けを背負ったままファリドの本軍に合流する事はないだろう」</p><p> だが、ファルダハーンに付いている知恵袋のイクティカード・カイフは、</p><p>「これ以上リヤド攻略に拘泥していては、エルエトレビーとの決戦に間に合わなくなります。我等にリヤドは取れないのです。ファリド様がマスカットを出てから、すでにかなり経っています。ルトバにファルダハーン様が来ない事に痺れを切らしているはずです」</p><p>「だが、このままシルバ軍に勝ちを与えたまま放置するのはいかがなものか」</p><p> それではと、イクティカードはリヤド攻略に重臣を二部隊ほど残して抑えさせておき、リヤド攻略は終わっていないという事にして、ファルダハーンに行軍再開を納得させた。</p><p> 岩山の難路を往くという事になった。リヤドから離れて戦線離脱した今になっても、バラザフ・シルバがいつどこで追っ手を差し向けてくるか、それならまだよしとしても、また得体の知れない妖術の類で罠にはめられてはたまったものではない。レイス軍にとって、もはやバラザフ・シルバの戦術というものは、不可視の<ruby><rb>幻影</rb><rp></rp><rt>タサルール</rt><rp></rp></ruby>
のような認識である。</p><p> かつてアジャリアが自分の身代わりになる者達を<ruby><rb>幻影</rb><rp></rp><rt>タサルール</rt><rp></rp></ruby>
と呼んで使っていたが、バラザフのそれは大分様子が異なる。</p><p>「リヤドで疲弊した上にこの難路か……」</p><p> 一週間も道らしい道を進む事ができず、ファルダハーンは嫌気が差していた。負け戦の後ならばなおさらである。</p><p> バラザフの方はといえば、リヤドに四十万の大軍を一週間も足止めさせた事に十分過ぎるほどの成果を感じていた。ファルダハーンやイクティカードが懸念したとおり、</p><p>「本当はもう一段階くらいレイス軍を陥れてやりたかったが」</p><p> と、バラザフは追撃の意欲はあったものの、自軍の寡兵ぶりを鑑みると、自身の手腕だけで突き進むわけにもいかず自制した。リヤドの周りには、未だファルダハーンの配下が陣を張って残留している。リヤドもまだ自由になったわけではないのである。</p><p>「父上の意図が全て通りましたね。レイスの兵共が流した涙を壷に貯めて量ってやりたい所です」</p><p> 先のバラザフの罵倒に影響されてか、ムザフも俄かに辛辣になった。</p><p>「そうだな。俺達が参戦できる局面はここまでだ。後はベイ軍の挙兵を期待し、アッバース軍、ラフサンジャーニー軍の旗色次第でも戦況が動くだろう。ハーシム殿にも今回のリヤドでの攻防戦を手紙で書いておいた。四十万というレイス軍の主力をリヤドに延々と足止めさせたのだから、我等の功績はエルエトレビー軍の中では決して小さなものではないと思うがな」</p><p> 戦果を実感しながらも、バラザフの頭の中では、すでに次の手を打つ事を考えている。それにはまず、</p><p>「両軍の対決がどれほど時間がかかるか」</p><p> を読まなくてはならない。本音を言えば、どれだけ時間を掛けてくれるか、だった。対決に要する時間が延びていくほどバラザフにとっては益多き事になる。</p><p> ――最後の勝ちはこの俺がもらうぞ。</p><p> バラザフの中で、そうした願望は少しずつ燃焼を強めている。</p><p> かつて、バラザフは<ruby><rb>大宰相</rb><rp></rp><rt>サドラザム</rt><rp></rp></ruby>
アミル・アブダーラに自分は未来を視る目が欲しいと打ち明け、アミルによってその見る先にある物を得る事こそ、本当の<ruby><rb>志</rb><rp></rp><rt>アマル</rt><rp></rp></ruby>
だと開眼した。そして、今、その<ruby><rb>志</rb><rp></rp><rt>アマル</rt><rp></rp></ruby>
は、確実に自分の方へ近づきつつある――。</p><p>「フート、良い事を思いついたぞ。アサシンを使ってレイス軍がリヤドでシルバ軍に大敗したと、方々に言いふらさせるのだ。各勢力に使者を送るのは当然だが、それより先にベイ、アッバース、ラフサンジャーニー、そして、レイス連合、エルエトレビー連合全ての諸侯にシルバ軍の大勝利を触れ回るのだ、カラビヤート全土、いや、世界にシルバありと言わしめるのだ」</p><p> 雨の少ないこの土地に、どういうわけか日照りが少ない。夏の暑さもまだ残る中、この夜も雨が勢いを増して降り始めた。</p><p> エルエトレビー軍がハウラーン・ワジに向かっている。アブー・カマールを出たエルエトレビー軍の兵士達は行軍の間、音を立てて降り注ぐ大粒の雨に身体を濡らした。</p><p>「このアブー・カマールを素通りするだと?」</p><p> レイス連合がアブー・カマールに攻撃せずそのままベイルートに向かうと聞いて、アブダーラ連合の実際の統帥権を握るハーシムは、ハウラーン・ワジをレイス連合が通る辺りで食い止めようと城を出てきたのである。</p><p> この情報はファリドが流した偽情報であり、ハウラーン・ワジで決戦に挑みたいと考えていたのは、ファリドの方である。</p><p> 決戦の場に先に到着したエルエトレビー連合は、夜が明ける前に布陣を終え、後から来たレイス連合は丘の方に拠点を布設した。</p><p> この時すでにハーシム・エルエトレビーの所には、バラザフがリヤドの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
で一週間もレイス軍を足止めしたという情報がもたらされていた。</p><p>「今、レイス軍を叩けば間に合うわけだな」</p><p> 遅参しているファルダハーン軍がここまで到達しないうちに決着をつけたいと思ったのも、ハーシムにここまで軍を動かせた理由の一つである。</p><p> フートが人選して送り込んだアサシンは当然腕のよい者達ばかりで、彼らは、</p><p>「ファルダハーン・レイス殿の軍勢がリヤドでやられた。レイス軍の主力がリヤドでシルバ軍に惨敗してしまったんだ」</p><p> と、レイス連合の陣にもしっかり入り込んで、レイス軍リヤドで惨敗の報を方々で撒き散らした。</p><p>「四十万のうち半分がやられたという事だ。生存の各隊も負傷者ばかりかかえて、ここまで来ても足を引っ張るだけだ」</p><p> 半分事実であるだけに、この流言はレイス連合の諸侯の向背を揺るがせ始めていた。</p><p>「こんな事で、勝てるのか……」</p><p> レイス連合の中でファリド・レイスの狼狽が最も顕著であった。すでにハウラーン・ワジで決着をつけるべく全軍に移動命令を下してしまっているのである。その直後にこの流言が厄介事となって飛び回っているのだ。</p><p> それでも、ここに居るファリド・レイスは、若い時アジャリア・アジャールにいい様に手玉に取られて赫怒していた彼ではない。抜かり無く裏でエルエトレビー連合にも手を回し、マブフート家、サバグ、アリ等の諸侯に必死に数百通も手紙を送り続けていた。</p><p>「こいつらは必ず我に寝返る」</p><p> そう見込んでいるからこそ、筆を持つ手に汗をも握り、力も入る。ハウラーン・ワジでレイス連合が勝つには、これらの諸侯の寝返りは必要条件であった。</p><p> ワジという地形は間欠泉で曇りやすい。が、この朝のハウラーン・ワジには特に濃い霧が立ち込めた。</p><p> 濃霧の中、レイス連合、エルエトレビー連合、両軍が鯨波を上げて互いに激突した。</p><p> ――この戦いは長引く。</p><p> この戦場に居合わせた誰もがそう思っていた。しかし――。</p><p> 確かに激戦は発生した。だが、それは日が沈むまでに決着した。レイス連合が決戦に勝利したのである。</p><p> 決戦の舞台から遥か離れたリヤドで、同じ落日を見るバラザフとムザフも、この結末は予想だにしていなかった。</p><p> フートが差し向けたシルバ・アサシンはこの戦場に十人ほど散っていて、両軍二百万の大軍がぶつかるこの決戦の顛末を見届けていた。</p><p> ハーシム・エルエトレビーの部隊が敵陣に押し込み蹴散らした。バフラーン・ガリワウも勇戦を演じながらも押し潰されるように戦場に散った。ハーフィド・マブフートはエルエトレビー連合を裏切り、サバグ軍、アリは何故か不戦を決め込んだ。</p><p> アサシン達は、戦況をいち早くリヤドに伝達するため、一人ずつリヤドに向かって駆けた。その報告の任に就いたアサシン達の中には、メフメト家が滅亡したした後シルバの配下となったシーフジンの生き残りの顔もあった。</p><p> エルエトレビーの連合のカーセム・ホシュルー、アウグスティヌス・ゼンギンの軍が全滅したとき、アサシンの最後の一人が地を蹴った。このときにアリは、ファリドの陣を中央突破して戦場離脱していた。</p><p>「ハウラーンでの決戦はファリド連合の勝利!」</p><p> リヤドの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
が、この報が世界で一番早く受け取った。</p><p> バラザフがこの報により衝撃を受けたと同時に、紫電が直下した。轟音と共に落ちたそれは青い火柱となり、横に壁を成した。レイスの死霊達の燐光は、怨恨の炎の壁となり、今度はバラザフの未来を阻まんとするかのようである。</p><p>「これはレイス軍の流した虚報ではないのか。二百万だぞ。何故、そのような大軍が戦ってたった一日で決戦が終わるのだ。まったく信じられん……」</p><p> 何故こうなったのか、どこで読み間違えたのか。バラザフは頭の中に浮かぶ条件を全て整理してみようと懊悩したが、いくつもの仮定が浮かびそれらが渦のように激しく回るだけである。</p><p>「父上、ハーシム殿が惨敗したそうです……」</p><p> 馳せ込んでくると同時に報告するバラザフに、虚空に泳いでいた目をゆっくりとムザフに向けて、</p><p>「すでに聞いている」</p><p> とだけ答えた。</p><p>「それともうひとつ」</p><p> ムザフは、ザラン・ベイがカイロから出ず、<ruby><rb>執事</rb><rp></rp><rt>サーキン</rt><rp></rp></ruby>
のナギーブ・ハルブも主戦論を撤回し<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
にて篭城に等しい構えを見せていると伝えた。</p><p>「結局俺は未来が視えなかった」</p><p> ムザフは言葉に詰まり答えなかった。</p><p>「俺は未来が視えなかった。いや、見えていたのだ。あのファリドに一度、俺は<ruby><rb>皇帝</rb><rp></rp><rt>インバラトゥール</rt><rp>)</rp></ruby>
を見た事がある。だが、それは有り得ぬと思った。どうしても納得できなかった」</p><p> バラザフは虚空の中に何かを見ていた。</p><p>「戦いには勝った。だが俺達は負けた。レイス軍の主力をここで足止めしてやり、あいつらは決戦には間に合わなかった。だが、それは盤面のひと隅に過ぎなかったんだ」</p><p> そして所属母体となっているエルエトレビーの連合が敗北した。それも僅か一日の内にである。</p><p>「今や俺達も敗軍の将となったわけだ。これで中央に居座る事になるファリドから、何らかの沙汰が来るのを待つしか無くなった」</p><p> ムザフの眼前に座る父は、ハウラーンでの顛末を聞いてから俄かに枯れて萎んでしまったかのようである。</p><p>「ですが我々は結局ファリド・レイスに、いえ、時代の奔流に勝ちました」</p><p>「うむ……?」</p><p>「兄上をレイス軍の配下に行かせた事で父上はシルバ家を存続させる事に成功しました」</p><p>「だが、それはサーミザフがファリドを好いたからだろう」</p><p>「兄上の中に居る父上が、バラザフ・シルバがそうさせたのです」</p><p> ここでようやくバラザフの目にムザフの姿が映った。そして、諦めと満足が入り混じった笑みを口に浮かべて、そのまま瞑目した。</p><p> ――疲れた……休みたい……。</p><p> バラザフ・シルバは生まれて初めて考えるという事をやめた。</p><p> 一方で勝ったはずのレイスのファルダハーン軍は、決戦が起きた当日には、まだラフハーの辺りに居た。リヤドでの惨敗で将兵は疲れきっていた。士気も低い。よって行軍速度はかなり鈍いものである。</p><p> 三日後、アラーの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
で決戦終結の報を受けた。</p><p>「終わった!? 負けてしまったのか!?」</p><p> なにしろ主力である肝心の自分達が決戦場に間に合わなかったのである。ファルダハーンが、こう早とちりしたのも無理からぬ事であった。</p><p> 勝利したレイス軍では、諸侯、各将に褒賞するために戦功が論じられている。そんな中、サーミザフ・シルバにとっては本当の戦いが始まっていた。彼の戦いは実に孤独極まりなく、</p><p>「我が父、バラザフ・シルバ、レイス軍に槍を向けた事、死罪も当然な罪ながら、今回このサーミザフが少しでも功有りと賞与下さるならば、父バラザフ・シルバの助命を希います」</p><p> と、父と弟の助命を、シルバ家の風当たりの強いレイス軍の中で切に嘆願した。</p><p> ファリドは、サーミザフの事は気に入っていたし、レイス軍の中でも彼自身の評判は悪くなく、生真面目で裏に含みの無い信に足る武人と評価されている。それでも、さすがにこの嘆願はファリドに首を立てには振らないだろうと、論功の場に居た誰もが思った。</p><p> だが、ファリドは、驚くほどあっさり、</p><p>「サーミザフ、いやこれからはシルバ殿と呼ぶべきだな。今回の戦功は評価に値すると思う。リヤドの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
で我等レイス軍は散々にやられた。貴公がアラーの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の陥落させて守り通したのは、我等レイス軍の中で唯一目を背けなくて済む戦功である。肉親の情に従えば、父、弟と計ってこのファリドに弓引いたとしてもおかしくはなかった。バラザフ・シルバには殺しても殺し足りぬほど、今まで煮え湯を飲まされ続けてきたが、貴公の助命嘆願を受け容れる事とする」</p><p> と願いを聞いたが、サーミザフはすぐに愁眉を開くというわけにはいかなかった。まだ何かありそうだと、ファリドの心の動きを感得していた。</p><p>「だがな、サーミザフよ……」</p><p> 来たな、とサーミザフは覚悟した。</p><p>「リヤドにバラザフを置いておいては、このファリドの気が安らぐ事がないのは貴公にもわかるな。そこでバラザフの土地勘の利かぬ遠方へ隠棲させるというのであれば、バラザフは殺さぬ。弟のムザフも、バラザフと共にジーザーン辺りに送るように手配せよ」</p><p>「インシャラー!」</p><p> もっと重い処断があるだろうと心痛していたサーミザフは、感涙して応を唱えた。</p><p> 急いて退去しようとするサーミザフに、ファリドは、</p><p>「待て。まだあるぞ」</p><p> 今度こそ、サーミザフは凍りついた。ジーザーンで父と兄を処刑するよう申し渡されるのだと顔を強く<ruby><rb>顰</rb><rp></rp><rt>しか</rt><rp></rp></ruby>
めた。</p><p>「バラザフを退去させるとリヤドが空く。そこでサーミザフ・シルバが今のアルカルジの太守の任と、リヤドを兼任する事とする。どちらかに代行を置く等、子細の人事は貴公に任せる」</p><p> サーミザフの身体に衝撃が走った。無論、恐怖心によるそれではない。本来、サーミザフのリヤドでの功程度であれば、父と弟の助命嘆願だけ相殺されるのが妥当な処分であるため、この領地加増は過分といえる。</p><p> バラザフがあえてサーミザフを招き入れるように、アラーの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
に入れておいた事で、大盤のお釣りがきたのである。</p><p> 感涙したり、肝胆を氷結されたりと、心中慌しい事この上無いサーミザフだったが、ともあれ彼の独りの戦いは終わった。</p><p> バラザフとムザフのジーザーンへの旅が始まった。付き従う家臣は百六十名。これまで中核を占めていた重臣達はすべてサーミザフに預けて、アルカルジに残す事にした。バラザフに従う百六十名は下人に見えて、実は殆どがアサシンであった。</p><p> 明日は出立という夜、バラザフ、サーミザフ、ムザフは三人で、<ruby><rb>茶</rb><rp></rp><rt>シャイ</rt><rp></rp></ruby>
を楽しんでいた。</p><p>「東のアルヒンドから取り寄せた<ruby><rb>茶</rb><rp></rp><rt>シャイ</rt><rp></rp></ruby>
だ」</p><p> 自分で淹れた<ruby><rb>茶</rb><rp></rp><rt>シャイ</rt><rp></rp></ruby>
をバラザフは、二人に差し出した。</p><p>「父上はアルヒンドにまで手を出していたのですか」</p><p> 父と弟の助命嘆願の一件で一皮脱皮した感のあるサーミザフは、<ruby><rb>茶</rb><rp></rp><rt>シャイ</rt><rp></rp></ruby>
に口をつけながら、意外と落ち着いて父に尋ねた。</p><p>「いや、実は亡き<ruby><rb>大宰相</rb><rp></rp><rt>サドラザム</rt><rp></rp></ruby>
殿の好意で、居城に招かれてより<ruby><rb>茶</rb><rp></rp><rt>シャイ</rt><rp></rp></ruby>
を送ってもらっていたのだ。次の<ruby><rb>大宰相</rb><rp></rp><rt>サドラザム</rt><rp></rp></ruby>
、まあ、それには十中八九ファリドが就くだろうが、奴は何か送りつけてくるかな」</p><p>「送ってくるとすればポアチャではないですかな」</p><p>「そうか。ポアチャを送ってくるか!」</p><p> サーミザフの言葉に、バラザフもムザフも大笑いした。意表をつかれたという事もあった。いつの間に冗談に言える男になっていたのか。そんな思いである。</p><p>「俺達はレイス軍四十万をリヤドに引き付けて、そして見事に撃退した。小規模勢力といえども一大軍事力として世界中が我等シルバ軍を認識したはずだ。そして、サーミザフを諸侯に位上げするという結果も残せた。そう、結果を残したんだ」</p><p> バラザフの言葉に、サーミザフを首を縦に振って返すしかできなかった。</p><p>「俺達はこれからジーザーンで暮らす事になる。これも奇遇の成せるわざか、実は、俺は勝ったらファリドを追放するならジーザーン辺りにしようと決めていたんだ」</p><p> バラザフの目尻に滴がこぼれずに光っている。その皺はリヤドでの戦いの前よりも深く、黒くなったようだった。</p><p> ジーザーンへの道すがらムザフは、</p><p>「やはり、兄上の中には父上が居ました」</p><p> と、何気なく語りだした。</p><p>「サーミザフが諸侯の席に仲間入りした事か」</p><p>「いえ、それもありますが、出立の前夜三人で饗応した時です。父上と兄上の座る姿が実にそっくりでした」</p><p>「そうか」</p><p> バラザフのその返事には満足とまではいかなくとも、最早、悔恨の色は残っていなかった。</p><p> バラザフの一行は、ジーザーンの太守に挨拶を済ませ、そこでしばらく預かられてから、山の上の寺院の<ruby><rb>伽藍</rb><rp></rp><rt>がらん</rt><rp></rp></ruby>
を一部間借りする事となった。</p><p> バラザフにとって戦いの無いジーザーンでの時は、十年が一睡のように呆気なく流れた。</p><p> 十年の流れは世から人も連れ去った。シルバアサシンの二頭だったフートもケルシュも今や冥府に籍を置いていた。</p><p> 小勢力といえども領地持ちであった頃はまだよかった。ジーザーンに来てからは暮らし向きが困窮する事もしばしばで、父子を始め、家来に至るまで飢える事もあった。</p><p> 貧しさは反面、知恵も生んだ。</p><p> バラザフの旧知の者が、ナザールボンジュウと呼ばれるガラス製の魔除けの製法をもたらしてくれて、それをムザフが教則化し、皆で生産できるようにした。それで凌いで今日まで生きれてこれたのであった。シルバ家の「死なぬ覚悟」が二人の生きる意志を碧く形作った。</p><p> バラザフとムザフが追放されている間に中央ではファリド・レイスが遂に<ruby><rb>大宰相</rb><rp></rp><rt>サドラザム</rt><rp></rp></ruby>
になり、政治と時代の舵を握っていた。バラザフとムザフはレイス家による政権が安定していくのを遠くから眺めながらも、世界から波乱の種がすっかり拭い去れてはいないと観測している。そのために生活を切り詰めて、蓄えを作り、密かに武器を貯蔵した。</p><p>「戦いが無くならない限り俺の出番も尽きる事はないはずだ」</p><p> ジーザーンの生活はバラザフに着実に老いを与えている。だが心の底の<ruby><rb>志</rb><rp></rp><rt>アマル</rt><rp></rp></ruby>
まで枯らしきったわけではなく、むしろそれは湧き出ずる泉のごとく確実に存在していた。世相も彼にとって絶望に尽きるものではなく、<ruby><rb>アミル城</rb><rp></rp><rt>クァリートアミール</rt><rp></rp></ruby>
では、カマール・アブダーラが幼年から成人の入り口に入りつつあり、その<ruby><rb>完成</rb><rp></rp><rt>カマール</rt><rp></rp></ruby>を待ち焦がれる諸侯もこの時点では少なくなかったのである。</p><p> そしてある年の寒さが緩み始める季節、急にバラザフが倒れた。病床の傍につき父を看るムザフに、</p><p>「ハーシムが除かれても、アブダーラ家とレイス家の溝は埋まるまいな」</p><p>「はい。戦火の煙がここまで漂ってくる気すらしますが、実際、本格的に戦端が開かれるまでに三年はかかるかと」</p><p>「三年か。それまで俺はもたぬな」</p><p>「生きてください父上、アルハイラト・ジャンビアが再びベイルートに現れるのをアブダーラ勢は皆心待ちにしておりましょう」</p><p>「だが、三年はさすがに無理だ。だからお前に策を授けておく」</p><p>「拝聴致します」</p><p>「アブダーラ軍とレイス軍が交戦状態なったならば、お前はまず<ruby><rb>アミル城</rb><rp></rp><rt>クァリートアミール</rt><rp></rp></ruby>
に向かうのだろう」</p><p>「然り。私は父上以上に亡き<ruby><rb>大宰相</rb><rp></rp><rt>サドラザム</rt><rp></rp></ruby>
に大恩を受けた身ゆえ」</p><p>「ならばそれを推すような策にしてやろう」</p><p> おそらくこれがバラザフからムザフへの最初で最後の策謀伝授になろう。この父子は昔から気は絶妙に合ったものの、何かを教え、また請うという事は今まで一度も無かった。</p><p>「<ruby><rb>アミル城</rb><rp></rp><rt>クァリートアミール</rt><rp></rp></ruby>
から二十万の兵をハウラーン・ワジに行かせる。わざわざレイス軍が勝利したハウラーンに行かせるんだ」</p><p>「それでファリドはシルバ軍に策謀ありと勘繰る」</p><p>「そうだ。奴等が対応策を話し合っている間に西に引き返し、山に挟まれた適当な隘路を探して、工兵、火薬、何でも使って道を封鎖しろ。一度も戦う事無くアブダーラ家古参の諸侯を味方につけろ。奴等の心が揺らいだ所をこちらに引き込むんだ」</p><p> 卒倒した時には両目の行き先がまとまらなかったバラザフだったが、戦略を講ずる時の彼はまさにアルハイラト・ジャンビアとして瞬時に蘇生し、視線にも口吻にも力が入る。</p><p>「旧エルエトレビー連合を今度は正式にアブダーラ連合として再統合するのだ。エルサレムの要所である<ruby><rb>縫目の塔</rb><rp></rp><rt>ブルジュ・キヤト</rt><rp>)</rp></ruby>
にも火をかけよ。そして<ruby><rb>アミル城</rb><rp></rp><rt>クァリートアミール</rt><rp></rp></ruby>
に篭城するのだ。拠点を固めて安定したあたりで今度や夜襲に転じて敵の疲労と混乱を狙ってゆく。そこでカマール公の署名で各地のアブダーラ家の古参の諸侯に書状を送る。ハウラーン・ワジの戦いでファリドがやったようにな。それで敵方は自分の味方を信用出来なくなる。そこまでいけば後は旗色が替わるのを待つだけだ」</p><p>「要するに今度は私がハウラーン・ワジのファリドの立ち居地に立つのですね」</p><p>「そうだ。間違いなくこれでアブダーラとレイスの抗争は終息する」</p><p> ここまで勢いよく語り終え、バラザフは長く息を漏らした。</p><p>「俺の目論見では、アブダーラ、レイス、そこにシルバが加わって鼎立抗争になるはずだったんだが、まあ……うまくいかんものだな」</p><p>「そうですね……」</p><p>「それからな」</p><p> バラザフは先ほどまでよりさらに声を落とした。</p><p>「<ruby><rb>アミル城</rb><rp></rp><rt>クァリートアミール</rt><rp></rp></ruby>
に入ったら<ruby><rb>双頭蛇</rb><rp></rp><rt>ザッハーク</rt><rp></rp></ruby>
の像を探せ」</p><p>「そこには何が」</p><p>「知らん」</p><p>「は?」</p><p>「アミル殿がそれを探せと言っていただけだ」</p><p>「私には何も」</p><p>「お前なら何か知っているだろうと思って、敵がお前の身辺を探るからだろう。だから秘密を分割して俺とお前に託したんじゃないのか。レオにも十分用心しろよ」</p><p>「レオが……まさかと思います」</p><p>「ああ、信じられるうちはしっかり信じてやれ。だが、刺客は必ずくるぞ」</p><p>「はい」</p><p> だが、アサシンとしてはあまりに純粋無垢で、しかも弟のように可愛がっているレオ・アジャールを、ムザフはどうしても疑う気持ちになれなかった。</p><p> 夕刻、急な豪雨が降って、何事も無かったように去った。</p><p> バラザフの容態は奇跡的に回復した。いそいそと旅支度をするバラザフを見てムザフは驚いた。</p><p>「まだ起き上がってはなりません。また倒れたらどうするのです。それに旅支度などして一体どこへ」</p><p>「ムザフ、今夜中にジーザーンを引き払うぞ。というか脱出する」</p><p>「<ruby><rb>アミル城</rb><rp></rp><rt>クァリートアミール</rt><rp></rp></ruby>
に行くのですか」</p><p>「お前はな」</p><p>「では父上はどこへ」</p><p>「まだ決めてない」</p><p>「決めてないって……」</p><p>「決めてはいないが、あちこちに出没してファリドに一泡も二泡も吹かせてやるつもりだ」</p><p> バラザフは最後に四本の<ruby><rb>諸刃短剣</rb><rp></rp><rt>ジャンビア</rt><rp></rp></ruby>
を身につけ旅装を終えた。</p><p>「最後に、レイスとアブダーラに戦端が開かれたときの事だ。あの作戦もこのバラザフ・シルバの名を以って味方が信義を持ち、敵が謀略を危惧する。だが、お前の知名度はまだまだ低い。実力は俺以上であっても、世人の認識あっての信頼なのだ。お前を若造と見て侮る者もいるだろう」</p><p>「心得ております」</p><p>「だがな、何も悪びれる必要はないぞ。世評に一喜一憂するな。俺はああは言ったがな、配下を信じてやれ。それ以上に自分自身もな。それを以って角と成し突き進むのがシルバの戦い方だ。</p><p>わかっているな、ムザフ。死なぬ覚悟だぞ。臆病になって逃亡する事ではないのだ。それがシルバの家風、いや、この俺の遺言だ」</p><p>「承りました。我等シルバ軍はその言葉を戦場まで持って行きます」</p><p>「それから――」</p><p> と、バラザフはムザフに問うた。</p><p>「お前は未来を視る眼を欲しいと思うか」</p><p>「もちろん欲しいです。幼少の頃より欲しておりました」</p><p>「そうか、お前もそうか。俺もそうだった。未来を、先々を見通す眼が欲しかったんだ」</p><p> 喜色を帯びたバラザフの視線は俄かに遠くへ飛んだ。</p><p>「だが、結局、俺には未来を視る資格はなかったらしい」</p><p>「そんな事はありませんよ。父上のその眼が無ければ、シルバ家もそしてアジャール家ですらこの乱世の砂塵に揉み消されてしまっていたはずです」</p><p>「本当にそうであろうか」</p><p>「はい。人はいつでも波の上に居られるわけではありません。また波間から<ruby><rb>九頭海蛇</rb><rp></rp><rt>アダル</rt><rp></rp></ruby>
が出現する。そんな時代を創ろうではありませんか」</p><p>「そうだな……」</p><p> バラザフはムザフにさっと背を向けると、颯爽とジーザーンを離れた。別れの言葉も言えずに来てしまったのは、涙と<ruby><rb>洟</rb><rp></rp><rt>はな</rt><rp></rp></ruby>
で濡れきった醜態を見られたくなかったからである。</p><p> バラザフは歩いた。ひたすら歩き続け、歩くという事に没頭していた。不思議と疲れは全く感じなかった――。</p><p> 歩くだけ歩いてふと我に返ったバラザフの眼前に見覚えのある瑞々しき黄色が広がっていた。</p><p>「ここは……リヤドか」</p><p> 菜の花の黄色はあの日と同じ美しさで、バラザフを迎えた。</p><p>「ああ……。やはりリヤドの菜の花は美しい」</p><p> 遠くから訪れた風が、花の淡い香りとともにバラザフの頬をやさしく撫でる。</p><p><br /></p><p> ――ああ……。風が、すずしい……。</p><p><br /></p><p> 菜の花に魅入られたバラザフはゆっくりと一歩一歩へ踏み出し、吸い込まれるように奥へ姿を消した。</p><p> これ以降のカラビヤートに史書にバラザフ・シルバが出てくる事は二度と無かった――。</p><div style="text-align: right;">(完)</div><div style="text-align: right;"><br /></div>Blog authorhttp://www.blogger.com/profile/05104770986712427544noreply@blogger.com0サウジアラビア リヤド Riyadh24.7135517 46.6752957-5.9558014924486677 11.519045700000007 55.382904892448664 81.831545699999992tag:blogger.com,1999:blog-4314757388830094658.post-6692815359940168272023-07-05T05:55:00.001+09:002023-07-19T03:54:34.954+09:00『アルハイラト・ジャンビア』第11章_3<p> ついにファリドはマスカットを進発した。この情報はすぐさまアサシンによってバラザフ、ムザフに報告された。</p><p> この時点でレイス軍の八十三万の兵力は三分割された形となり、ベイ軍進攻対策としてスウィーキー・レイスに十三万、ファリドの本軍三十二万が西進し、さらにファルダハーンが三十八万を率いてリヤドへ向かいつつ、そこから迂回してルトバを目指しそこで合流する手筈となっていた。</p><p>「ファリドの奴、やはりこちらに一軍を差し向けて来たぞ。ファルダハーンの三十八万をこちらに当ててきた。今日まで整備してきた<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
で存分に相手してやろう」</p><p> ファリドは、目付けとして重臣のイクティカード・カイフをファルダハーンの傍に置いた。ファルダハーン・レイスはこの時二十一歳の若輩で、ファリドの心配も頷ける。心配性のファリドがファルダハーンの所へ遣った重臣はイクティカードだけでなく、スィンダ・ボクオン、タヌナド・ファイヤド、フアード・アズィーズ等、レイス軍古参の勇将達の精強な部隊をファルダハーン軍に編入して、武力強化も念入りに施した。</p><p>「我等が途上に退かずに居座るのはシルバ軍だけだ。しかも我等は三十八万の大兵を率いてきている。いくらアルハイラト・ジャンビアと知謀を畏れられたバラザフ・シルバでもまともな戦いは出来ないだろう。抗戦を示すならばリヤド、ハイルの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
ごと踏み潰す。従わなくば剣だ」</p><p> すでにファルダハーンの目前には、これからのリヤドの戦いは映っておらず、手早く雑事を済ませてファリドと合流しようと余裕の笑みを見せていた。目付けであるイクティカードも、部隊担当のボクオン、ファイヤドも同じように戦況を見ていたので、ファルダハーンの余裕を若輩の油断と批難する事は出来ない。</p><p> ファルダハーン軍の行軍は速く、すでにリヤドの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の間近まで迫り、近日中には包囲を完成させそうな勢いである。</p><p>「ムザフ、レイス軍が来た。ハーシムの奴が戦勝後我等の領地の加増を保証してくれているとはいえ万が一もあるし、アミル殿の時のように他の諸侯に難癖をつけられないとも限らない。今のうちの取れる砦を自分達で取っておこう」</p><p>「それには私も同意です。丁度私も同じ事を考えていました。近くに防衛拠点が増えるとリヤドの防衛度も向上します」</p><p>「ムザフ、俺が一つでも砦を落としてこよう。まだまだ前線での腕は衰えてはいないぞ」</p><p> そういってバラザフは、腰の<ruby><rb>諸刃短剣</rb><rp></rp><rt>ジャンビア</rt><rp></rp></ruby>
に手をかけた。成人の折、アジャリア、エドゥアルド、そして父エルザフから<ruby><rb>諸刃短剣</rb><rp></rp><rt>ジャンビア</rt><rp></rp></ruby>
を贈られて以来、バラザフの腰周りは四本の短剣で賑わっていたが、アジャリアとエドゥアルドの<ruby><rb>諸刃短剣</rb><rp></rp><rt>ジャンビア</rt><rp></rp></ruby>
は今日まで敵の血を吸った事は無かった。</p><p>「父上の武技はよく承知しておりますが、レイス軍到達まで今は時間がありません。私がすぐに砦を落としてきましょう」</p><p> そう言って、ムザフは素早く騎乗すると、</p><p>「レオ。騎馬兵のみでいいので急いで編成して後から来てください。私は先に行っていますよ」</p><p> レオは手早く五百騎を編成して先に行ったムザフを追った。バラザフも三百名の<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>隊を編成して、レオに付けた。</p><p>「ムザフもまだまだだな。騎馬兵だけで手詰まりになったらどうするのか」</p><p> 息子や若手の僅かに詰めの甘い部分を見つけて、やはり俺が居なくてはだめだと、老兵にありがちな満足感をバラザフは感じていた。</p><p> 夜の暗闇はムザフ隊の夜襲を援けた。しかも、ムザフの方はレオ・アジャールなどのアサシンを先に行かせて、暗闇の中でも猛進出来るように先の障碍が無いか探らせて、地の利の一端を得ていた。</p><p> ムザフの攻城策はそれだけではない。砦の中に配下を何人も潜入させておいて、要所に配されている兵士を香で無力化していた。室内で用いる場合ではないので昏睡に至らしめる事までは出来なかったが、守備兵の頭が朦朧とする状態になればそれで十分であった。</p><p> ムザフが猛進する道には見張りの兵が居たが、彼等も皆レオ・アジャール達によって取り除かれてしまっていた。</p><p> これらの処方でムザフは、敵の砦に至るまでに無人の道をただ突き進んできたのである。守備兵は皆、起居も意のままにならぬ有様だ。</p><p> ムザフ隊が門前に馬を並べると、中から城門が静々と開いた。ムザフは追いついてきた<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
隊に着火させ、放火を備えさせた。</p><p> 騎兵部隊が城門から突入する。砦の兵士は千人くらい居たがどの眼もはっきりと開かず、自分達が赫々と燃えるような武具を纏った連中にすっかり取り囲まれているという事だけようやく理解は出来た。</p><p>「シルバ軍のムザフがこの砦をいただきにきた。砦も貴公等も包囲されている。手向かいするならば、<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
の炎が貴公等の身を焼いて今夜の灯火と成すぞ」</p><p> 砦の兵士は皆、得物を手放した。頭は朦朧とし、手足に力も入らぬでは、とても戦うどころではなかった。</p><p>「賢明な判断だ。死なぬ覚悟を尊ばれよ」</p><p> 砦の千名の兵士達は捕虜として扱われリヤドの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
に送られた。そして砦には騎馬兵二百名、<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
兵三百名が守備として置かれた。</p><p>「レオ、ここは貴方に任せます。すぐに歩兵をここに編入します。予め旗に使える物を千程準備しておいてください」</p><p> ムザフもバラザフもこの砦を活かした擬態を考えていた。</p><p> リヤドの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の城壁から外を見渡すと遠くに砂塵が巻き起こっているのが見えた。砦を奪取して次の日の事である。</p><p>「低く広く広がった砂塵だ。相当大軍の客が来たぞ」</p><p>「我等シルバ家の旗もあります。兄上の部隊も参加しているようです」</p><p>「三十八万。さすがに壮観だ。ウルクでアジャリア様が動かした兵でさえあそこまで多くはなかった。あのような大軍の指揮を執ってみたいものだ」</p><p> 大軍の総帥権を握ってみたいという思いは昔からバラザフの憧れであった。ムザフにも父のこの本音が自ずと漏尽してきて、気持ちを一つにしていた。</p><p> リヤドの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の守備兵は二万。この数で外のおよそ四十万の大軍を防ぐのである。</p><p> 一方、ファルダハーンは、リヤドの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を視界に微かに認める距離で陣を布いた。</p><p>「昔、レイス軍に煮え湯を飲ませてくれたバラザフ・シルバを冥府の住人にしてやろうぞ」</p><p> 昔とは十五年前リヤド城を攻囲して、結局敗退した時の戦いの事で、その屈辱を返上してやろうとファルダハーンは、息巻いていた。</p><p>「ファルダハーン様。リヤドを攻略する事自体は容易ですが、今の我々は時を惜しまねばなりません。ファリド様の本軍との合流に遅れるわけにはいきませんから、降伏を勧める使者を遣わしましょう」</p><p>イクティカード・カイフの進言をファルダハーンは素直に容れた。その使者としてはバラザフの長男であるサーミザフが良いと、ファルダハーン軍の首脳陣は判断し、彼を遣わす事になった。</p><p> サーミザフは射手に弓矢を浴びせられる事もなく、リヤドの門前まで馬を進めた。</p><p>「サーミザフ、レイス軍から離脱して来たのか」</p><p>「そんな訳が無いでしょう。父上がレイス軍に降伏するように使者として来たのです」</p><p>「何だ、これ俺に降伏勧告とは。まあ良い。これから軍議を開いて降伏勧告とやらを容れるかどうか決める。明日こちらから使者を出すからお前はファルダハーンの陣に戻れ」</p><p> 正直者のサーミザフは、自分が相手を偽らぬと同様に相手の言葉にも偽りが無いとして全てを肯定してしまう。まして実の父の口から出た言葉である。これに疑いを差し挟むという理屈はサーミザフには有り得ず、使者としての自分の役目は上々だと信じてファルダハーンの陣に帰った。</p><p> だが、バラザフからの使者は来ない。</p><p> 次の日になっても、またその次の日になってもバラザフからの使者がファルダハーンの本陣に姿を現す事は無かった。バラザフには、降伏勧告を受け容れる事はおろか、律儀に返事してやるつもりも無かった。</p><p> ファルダハーンもサーミザフの報告を受けて黙って待っていたが、使者はやって来ず、しびれを切らして自分の方から再度使者を送った。使者には二千人の部隊を付けている。</p><p>「シルバ殿、降伏するか否か」</p><p>「降伏か。するわけがないだろう」</p><p>「返答の使者を寄越すはずだったのでは」</p><p>「よいか。俺とムザフはエルエトレビー軍に付くと決めたのだ。お前等のような恥知らずと違って大義に従っている」</p><p>「我等を好き放題愚弄するにも程がありますぞ」</p><p>「さっさと帰れ。帰ってレイスの小僧に、シルバ軍にとってお前の四十万の兵力など四千と変わらぬと言ってやるがいい。十五年前、お前の父親と同じように泥を被らせてやるぞ」</p><p> 使者は真っ赤になって怒ったが黙って席を払って出て行った。怒りのやり場のない使者は、戻ってバラザフの罵倒をそのままファルダハーンに伝えてしまった。</p><p> ファルダハーンは父ファリドからはそれほど短気の性質を受け継いでいなかったものの、これにはさすがに激怒した。冷静さが売りのイクティカード・カイフですら怒りに上気していた。</p><p> ファルダハーンの陣に揃って馬を繋ぐ諸侯も、言葉になって出るのはシルバ軍に対する怒りばかりである。</p><p>「バラザフ・シルバ、ここで討つべし! 踏み潰してリヤドの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
ごと砂に埋めてしまおうぞ!」</p><p> 主戦論が大勢を占めるファルダハーンの陣の中で、一人イクティカードの頭だけが冷静さを取り戻し、沈着に進言した。</p><p>「ファルダハーン様、リヤドまでやって来てなんですが、今ここを奪取する利は薄いと存じます。包囲の兵員だけを残して、ファリド様との合流地点に向かいましょう」</p><p> とイクティカードは老兵として目付けに付いている真価を発揮した。</p><p>「これを懸念していたから使者を怒らせておいたのだがなぁ……」</p><p> ファルダハーンとレイス軍を挑発しておいて、リヤドの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
に張り付かせておこうというのがバラザフの計画だった。</p><p> バラザフは城壁の外の耕作地、放牧地も焼き討ちに遭うだろうと想定していたので、住民を早めに城内へ退避させるなり、他の<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
に移すなりしていた。</p><p> 結局、ファルダハーンはイクティカードの進言を容れて、総攻撃は行わない方針に決めた。</p><p>「もう一度だけ降伏勧告をしておこう。それで利かなければ包囲の兵だけ残して、本軍との合流に向かうぞ」</p><p> バラザフのアサシンはここにも配置されていた。それで次に来る使者が最後通告であること、そしてそれが不首尾に終われば、<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を包囲したまま主力は決戦の舞台へ向かうとファルダハーンが方針決定したと、バラザフは使者が来る前に知り得た。</p><p>「それでは、使者にはもっとファルダハーンが怒るようにひと働きしてもらわねばなるまい」</p><p> 馬に乗って使者がこちらに向かってきているのが見えた。</p><p>「レイス軍は四十万といえども驢馬の尻尾の毛ほどの価値も無い。奴等の毛で<ruby><rb>襟巻</rb><rp></rp><rt>ワシャア</rt><rp></rp></ruby>
でも編んでやろうか。レイスは弱いがシルバは強いぞ。ウルクで負けてリヤドでも負ける。負け癖のついたレイス軍。このリヤドの兵力がいくらか知っているか。たったの二万だ。その二万に腰が引けるからお前等は降伏勧告を何度もしてくるわけだ。戦え、戦え、戦え。ファルダハーンは自分の剣で手を切るのが怖くて、剣も抜けないか」</p><p> 最早稚気とも言える罵詈雑言をありったけ浴びせた後、バラザフは、自ら<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
を担いで、使者に罵倒のみならず火炎まで浴びせてしまったのだった。</p><p> 火だるまになった使者は、砂地を転げ周り消火して何とか一命は取りとめ、一目散に退却した。それをシルバ軍の兵があからさまに笑いたてた。</p><p> これが引き金となって、リヤドの周辺の砦からも鯨波があがり、相当な数のシルバ軍の旗が各城壁に棚引いた。</p><p>「シルバ軍は寡兵だったはずでは――」</p><p> ファルダハーンは、四十万の自軍を包囲されたような状況に呑まれてしまった。そこへ全身火傷を負った使者が戻ってきて、報告にならないような呻きでファルダハーンに何事か訴えた。</p><p> ここまでよく自制してきたファルダハーンの辛棒が折れた。</p><p>「総攻撃だ。リヤドを踏み潰してくれる!」</p><p> ファルダハーンは、ついにバラザフの挑発にかかってしまった。</p><p>「本陣を押し出すぞ」</p><p> ファルダハーンは、土地勘のあるサーミザフに諮り、リヤドの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
が上から見える高台に陣を移すことにした。</p><p>「ムザフ。ようやくファルダハーンの小僧が意地を見せてきたぞ。砦を取っておいたのが利いてきたようだ」</p><p> 先の砦の奪取は、戦闘としての価値ではなく、少数の遣い者に連結した旗を振らせて、レイス軍に対して視覚的な圧力を加えるためのものだったのである。</p><p> 口に含んで吹き付けられた水が霧散して細かく動き回るごとく、レイス軍の動きは忙しい。バラザフの目から見えればレイス軍の将兵など水滴ほど小さなものでしかない。</p><p>「うむ。向こうでシルバ軍の旗も移動しているな。サーミザフはきっとハイルの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
に向かうはずだぞ」</p><p> バラザフは、レイス軍の兵まで自分の意図通りに動かしているつもりになっていた。シルバ軍にやられやすいように、レイス軍を動かせばいいのだと、未来を視る眼に自信を越えた確信を持っている。</p><p>「レイス軍はまず周辺の<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
と砦を攻略してから、このリヤドの備えを削ぎ落として、全軍攻撃の命令を出してくると思うが、ムザフの見立てはどうか」</p><p>「兄上の動向を鑑みるに、父上の読みどおりになるかと」</p><p>「うむ。ムザフ、お前はここを抜けてアルカルジを押さえに行ってくれマスカットへ少しでも近くなるほうが、ファルダハーンの小僧を圧迫出来る。それとハイルの方にはレオ・アジャールを派遣して適当に敵の相手をしたら拠点を放棄して離脱させろ。サーミザフにそのままハイルを取らせればいい」</p><p> あれだけ念入りに改修して産業まで興したハイルをバラザフは放棄するという。ハイルが陥落すれば、おそらくそのままサーミザフの預かりとなり、サーミザフは守備隊としてそこに留められるはずである。そのように事が動いてくれればシルバ家の家族同士で斬り合いする必要は生じない。</p><p> バラザフの先を視る眼は、戦いに競り勝つ事のみならず、大局眼で戦術ではなく戦略を視ていた。</p><p> ムザフがリヤドを出てその日の夕刻、偵察の者から報告が入ってきた。タヌナド・ファイヤドがムザフに押さえに行かせた砦に向かっている。三万の部隊を編成しているという。</p><p> そして、ハイル方面の報告も、レオ・アジャールが計画通り<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を放棄して退却の最中であると伝えてきた。</p><p> さらに、各方面の砦にボクオン隊二万等、レイス軍から別働隊が編成され本隊から分散しているとの情報があがってきた。無論、バラザフの想定からは少しも逸脱するものは無く、間者の入れ替わりの報告も確認程度でしかない。</p><p> これら一つ一つの対応にも全く焦りが無い。やるべき事は予め決めていた。配下には作戦実行の最終確認だけすればいい。</p><p> ムザフの相手をさせられたレイス軍はいつもどおり苦戦していた。このときのムザフの戦術は、高所から岩を転がしたり、城壁から石を投げたり、<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
で一斉に炎を浴びせたりと、ファイヤド隊をシルバ軍らしく苦しめた。</p><p> 今回の戦いで視覚効果は彼等の手札となったようで、砦全体にシルバ軍の旗を立てて、拡声器で<ruby><rb>礼拝合図</rb><rp></rp><rt>アザーン</rt><rp></rp></ruby>
ではなく吶喊を敵に浴びせた。砦全体にシルバ軍の威圧が響く。</p><p> 耳も目も敵の威圧に屈してしまったように、ファイヤド隊の動きは目に見えて鈍った。すでに三分の一程も戦力を失ってしまっている事もある。</p><p> ムザフは<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
を放射させて、砦から出た。だが、もう敵を狙う必要はない。この方面の防衛線はこれにて締めである。そして、砦の守備を実際に解除してリヤドの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
に急いで帰還した。</p><p> 別方面の砦、すなわちボクオン隊等のレイス軍の別働隊が向かっているシルバ軍の各拠点に、二千人の兵力を配置してある。高低差があるのが特徴で、いたるところに落石が仕掛けられ、穴に落ちれば、これまた槍が林立していて命を拾う事は難しい。</p><p> 規模は大きくない砦であるため、大略を考えれば放置しておいてもよく、また奪取したとて彩のある収益は見込めない。それでもレイス軍はリヤドの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
のために周りを削ぐのだと躍起になり、案の定、穴に落ちて槍で身を刺し貫かれる事になった。</p><p> レイス軍も正攻法で砦は落ちぬと理解したのか、夜襲をかけて攻略をはかるも、夜間の見張りに少しでも人が見つかると、<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
から一気に炎が噴き出されて近づく事すら容易ではない。</p><p> リヤドと周辺の砦を巻き込んだ多方面攻防戦は、ここまでで一日。どう見てもレイス軍が負けている。バラザフの目論見通りに全てが動いていた。</p><p> レイス軍古参であるイクティカード・カイフは、ファリド・レイスの若く拙い時代からレイス家を支えてきただけあって、シルバ軍の出方に頭を抱えてしまうような事は無いものの、ここまで上手くいかないとやはり面白くはない。</p><p> 彼が表に渋面を作りながら次に目を付けたのは、畑――である。</p><p> 短い雨の季節が終わろうとしている。リヤドの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の外にも、収穫時期を迎えた穀類がよく実っていた。麦の穂は昨日までの雨の雫を朝陽に照らして輝いている。</p><p>「畑の作物を手短に刈り取ってしまえ。残りは良い頃合で火をつけて畑を焼いてしまうのだ。さすがのシルバ軍でも慌てて城壁から出て止めに来るに違いないから、その時に打撃を与えればよい」</p><p> 古来、攻城戦で畑を焼いて敵の食料を断つという手はしばしば行われてきた。だが、これすらもバラザフは見透かしていた。</p><p> レイス軍は歩兵が一時帰農したような格好で畑に足を踏み入れた。シルバ軍をおびき出す目的ではあるのだが、目の前の黄金色に実る麦は、刈り取れば我が物にしてよいとイクティカードから許されているので兵士達の顔色は明るい。そして、その後ろの方に城外に出てくるシルバ軍を包囲殲滅するための五万の軍隊が息を潜めていた。</p><p> ついにリヤドの正面の門が開いた。間をおかず<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
が出てきて全体放火を何度も仕掛けた。</p><p>「頭の方を狙え。畑を出来るだけ燃やさないようにしろよ」</p><p> 収穫に頭がいっぱいだったレイスの帰農兵達は伏せる間もないまま大火傷を負った。雨後の晴天がバラザフのこの作戦に味方している。</p><p> バラザフの奇策はこれで終わらない。騎馬兵が五百程城外に突出して槍を振り回した。</p><p>「仕留めずともよい。帰農兵を薙いで威圧したらすぐに城内駆け込んで来るんだ。残りは俺達でやる」</p><p> バラザフは赤い水牛、アッサールアハマル隊をレオ・アジャールに指揮させて繰り出した。</p><p>「今回は囮ですね。敵の刃を掠らせもしませんよ」</p><p> 門から突進してきたアッサールアハマル隊に度肝を抜かれたレイス軍だが、この騎馬兵の数が少ないと見るや、五万の大兵で圧殺出来ると見込んで押し返してきた。</p><p>「敵が出てくるのはこちらの計画通りなのだ。シルバ軍を一人も帰すなよ!」</p><p> だが、アッサールアハマル隊は、レイスの帰農兵の鼻先までの距離に来て、手綱を引いて素早く迂回した。これにレイス軍は食いついてしまった。敵にようやく接触出来たのだ。この機を逃すまいとレイス軍は意気を揚げてアッサールアハマル隊の背中を追いかけていた。</p><p>「いかん。またバラザフの罠だ。追ってはいかん!」</p><p> イクティカードは自軍の突進を大声で制止したが、シルバ軍の粘り強い反攻に昨日まで抑圧されてきたレイス軍の追撃は止まらなかった。要らない所でこれ以上無いくらいに士気が上がってしまったのである。</p><p> リヤドの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の門が緩やかに閉められていく。アッサールアハマル隊を率いたレオ・アジャールは最後までレイス軍を振り切ったのである。</p><p> 普段、士気の上がりにくいレイス軍も、闘争心に火がつくと命じられもしないのに自分から城壁を登りにかかった。城壁の上ではすでに<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
が煙を立ち上らせて数百ほど待ち構えている。</p><p> <ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
から炎が噴き出され城壁に殺到していたレイス軍の兵士達は多くが黒こげになり、残りは上方からの落石攻撃で下に落とされた。</p><p> まずは足の速い少数部隊で敵を突いておいて、それを追撃にかかった敵を誘引して、まとめて倒すのはバラザフ・シルバの勝ち方の一つの型である。</p><p>「十五年くらいこのやり方でレイス軍に当たっているが、誰もこれに気付かないのだろうか」</p><p> 学ばない者は未来が見えないし読めない。同じ事を組織的に繰り返すレイス軍の無能の態に、バラザフの心中は憐憫と侮蔑であい半ばした。</p><p> だが、レイス軍の中にもこの学習能力の無さを自覚した者が一人だけ居た。バラザフの罠に気付いていち早く制止をかけたイクティカード・カイフである。</p><p>「またバラザフにしてやられたではないか」</p><p> 人は集団に成ると慎重さを欠く。冷静さも無くなる。</p><p> 自分達が大軍であるゆえ負ける事は無いのだという感覚が、繰り返し土を嘗めさせられてもシルバ軍を過小評価してしまう。言葉としてではなく、感覚として自分達の中に存在する故、自覚出来ないのである。</p><p> バラザフの放火に味方した晴天は、また雲の帳に隠れた。</p><p>「偵察に行くぞ。五百騎位連れていこうと思うが、お前もどうだ」</p><p> バラザフはムザフに問うたが、答えは聞かなくても分かっている。</p><p>「行きましょう。愉快な事になりそうです」</p><p> この二人の意見が食い違う事は滅多になかった。ムザフの方でもバラザフが次に何を言い出すのか大概知っていた。</p><p>「レオ。また<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
を城壁に準備させておいてください。そして、敵がいつ来ても撃てるように常に着火を」</p><p> バラザフは偵察と言ってもただ行って見て帰ってくるつもりはなく、実際に剣を交えて相手の強さを探ってやろうと思っている。五百騎を連れた二人が門の外に出る。</p><p> アッサールアハマルの赤い行軍は、レイス軍の本陣からも見えた。それはよく目立つ。</p><p>「我がバラザフ・シルバを仕留めてくれよう」</p><p> ファルダハーンは自ら<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
を担いでバラザフのアッサールアハマルの隊を追いかけた。挑発に乗りやすいのがレイス家の血なのかもしれない。旗下の部隊も同様に<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
を携えてファルダハーンを追うしかない。</p><p> ファルダハーンを筆頭に五百の<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
が火を噴いた。本営以外のレイスの部隊からも遅れて放火される。</p><p> バラザフは、馬を退かせてそのまま反転した。ムザフはバラザフの部隊の最後尾で追撃の敵を槍で薙ぎ払い、突き倒して着実に撤退している。</p><p> リヤドの門に馳せ込んだバラザフは、レオに頃合を知らせた。ムザフは、レイス軍がしっかり追って来るように距離を開けすぎず、わざわざ戻っては敵中を掻き回して、また退くという事をやった。</p><p> 昨日と同じ、というより数十年来の愚をレイス軍はまたやろうとしている。彼等はシルバ軍の罠に気付かず、追って来て、気付いた時にはリヤドの城壁が目の前にあった。</p><p>「またやられた!」</p><p> 兵の中の誰かが叫んだ。だが、それは余りに遅すぎた。</p><p> リヤドの門が開くと中から現れたのは三百人の一隊とした<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
が三隊である。レイス軍は一斉放火にただ焼かれるしかなかった。</p><p> 煙が風で吹き払われると、全身火傷を負ったレイスの兵達が転げ回る姿が露になった。死傷者は数百名と見える。</p><p> さらに先ほど城内に収容したアッサールアハマル隊も出た。煉獄の中に命を繋いだレイス軍の兵士も、結局、アッサールアハマルの槍に貫かれて、拾いかけた命も瞬時に奪われていった。</p><p> さらにバラザフは締めも厳しい。槍を持った歩兵が出撃して徹底的に生存者を潰していった。</p><p>「ムザフ、五千はやったと思うが、どうだろうか」</p><p>「昨日の戦果も併せると二万以上になります。短期でこれほどの戦果を上げるなど、我等シルバ軍でなくては不可能な事ですよ」</p><p> ファルダハーンは若き日のファリドさながらに、自陣の物を所構わず蹴散らして大立ち回りを踏んだ。ポアチャが口に含まれていないのが不自然なほどそっくりであった。</p><p>「イクティカード、明日は総攻めするぞ! これ以上止めるなよ」</p><p>「総攻めはいけません。たとえ成功しても引き上げるのに時間がかかって集合に間に合うわけがありません。ファリド様はもうルトバに到着してお待ちのはずです」</p><p> イクティカードが淡々と正論を述べるだけ、ファルダハーンにはイクティカードが自分の意思を汲まず軽んじていると感じられて、角も生えんばかりの勢いである。</p><p>「そろそろファルダハーンの小僧も堪え切れずに総攻撃に踏み切るはずだ」</p><p> 明日には来るはずだとバラザフは確信している。自分でやっておきながら可哀想になるくらいファルダハーンを愚弄してきた。</p><p>「これで怒らずに居られたら余程大物だろうさ」</p><p>「イクティカード・カイフとファルダハーンの身分が逆なら大変な事になっていました」</p><p>「ムザフ、川の上流で水を止めてから油を流せ」</p><p>「川を炎の壁に変えるのですね。他の砦の差配はどうします」</p><p>「今、ケルシュが向かっている。アサシンだけで部隊編成をして、別に稼動させる」</p><p> 次の日、最初に城門から出てきたのはムザフの武具を装備した、レオ・アジャールである。</p><p> かつてアジャリアが替わり蓑として自分とよく似た人物を<ruby><rb>幻影</rb><rp></rp><rt>タサルール</rt><rp></rp></ruby>
として用いたように、レオもムザフという役を上手に演じた。</p><p> これに対して、連日手ひどくやられたレイス軍は、これには手を出さず切歯扼腕してこれを見つめている。</p><p>「まずはレイス軍は様子見だろうな」</p><p> これもバラザフの読みにしっかりと入っていた。</p><p>「レオ、今日のレイスはいつもと違うレイスだ。無闇に突っ込んではこないだろうから、そこを利用しろ。こちらから正面を突いても用心し過ぎて反撃すらしてこないはずだ。だからファルダハーンに飛び切りの罵倒を与えて、砂を掴んで兵等の顔に撒いてやれ。それでまた怒り出せば上々だ」</p><p> まるで敵将であるバラザフに命じられたかのようにレイス軍の兵士はじっと身構えて反撃もしてこない。レオもバラザフの示した手順の通りに罵倒し、砂をかけた。</p><p> ファルダハーンも罵倒までは何とか堪えたものの、麾下の兵士が顔面に砂をかけられて、顔をしかめて耐えているのを見て、眉一つ動かさぬまま彼の脳は最高に怒張した。</p><p>「やる――」</p><p> この一言でレイス軍が再び攻撃に転じた。が、レイス軍の動きはファルダハーンよりも前のめりで、一隊が<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
仕掛け、しかもレオの率いるシルバ軍の後を追った。</p><p>「出ていいなら我等も出るぞ」</p><p> スィンダ・ボクオン、フアード・アズィーズ等の部隊が先に行った一隊を追う形になった。</p><p> レオは、上手く後ろに続くレイス軍を掃いながら、リヤドまで下がって来ている。だが、追撃のレイス軍は大軍である。この後退でシルバ軍にも戦死者が出た。</p><p> 今まで空を切るような戦いを強いられてきたレイス軍も、今回ばかりは良い感触を得たらしく、勢いはさらに勝って追撃はとまらない。</p><p> シルバ軍にとってこの後退は筋書き通りであるが、士気の上がったレイス軍の切先は鋭い。レオはもう後ろを振り返らず、真っ直ぐリヤドの城門へ馳せた。</p><p> かつてアラーの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の大改築を行い、それ以前にはカトゥマルの頼みでアジャール家最後の砦のタウディヒヤの建築を主幹したバラザフである。当然、リヤドにも色々な仕掛けをしてある。</p><p> まず<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の中は迷路になっている。敵兵が迷い込むと同じ所を何度も周回したり、あるいは螺旋状の道に迷い込むと奥で詰まってしまい、部隊全体が進退窮まるように作ってあった。通行を妨げる柵もやたら多い。</p><p> リヤドに駆け込んだレイス軍の兵士達はまたもや堪えなければならなかった。おそらく中央にバラザフ等は居ると思われるのだが、目指す先が見えているのに道に沿って巡らされるばかりで、一行に核心に至る事は出来ない。バラザフの方でもただレイス軍の兵士にリヤドを散策させるつもりなどなく、あちこちに少数の兵を潜ませておいて、上から矢が放ち横から槍で腹を衝かせた。</p><p> それでもレイス軍の兵士は苦難の道程を進まねばならない。そして、その苦難の末ようやく内側の城門の前まで来れたのに、城壁からの落石、投石に見舞われた。最早定番となったシルバ軍の勝ちの型であり、すなわちレイス軍にとっては負けの型であった。攻城に挑んだレイス軍の兵士はここでほぼ全滅した。</p><p>「これ以上傷口を拡げるわけにはいかん。すぐに下がるぞ」</p><p> レイス軍の将の口から撤退が出ると今度は、開門して中からシルバ軍が追撃にかかった。レイス軍は前後の敵味方で<ruby><rb>支</rb><rp></rp><rt>つか</rt><rp></rp></ruby>
えて完全に進退窮まっている。</p><p> 先も後も詰まったといってもレイス軍が大軍である事には変わりなく、犠牲の出た上にもそれらを越してシルバ軍へ押し寄せてきた。城門の下の濠に落ちた者も這い上がって城壁を登ろうとしている。</p><p>「油の臭いがする――」</p><p> レイス軍の兵の一人がそう気付いたとき、火の川が彼等を一瞬の内に呑み込んだ。ムザフが先にせき止めておいた川に砂漠に漏れ出ている黒い油を流し込んでいたのだった。川だった場所は今燃え上がり炎の壁となっている。</p><p> リヤドの城兵もこの炎の川を最初から心得ていて、炎が迫る前に焼かれない場所へそれぞれ立脚した。</p><p> 炎の川に包まれてリヤドは炎の城になった。確かに炎の壁が出来た事によってレイス軍を寄せ付けぬ防御となるのだが、これでは自分で自分の城を火攻めしているに等しい。だが、そこは心計の深いバラザフらしく、上流から流す油を適度に加減して、<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
や、商人宅、民家に燃え移る前に油が燃え尽きるようにしてあった。そして、その油が燃え尽きたあたりで再び川の<ruby><rb>堰</rb><rp></rp><rt>せき</rt><rp></rp></ruby>
を切って消火する手筈になっている。</p><p> レイス軍の兵士にもこの火攻めで生き残った者も大勢いた。何しろ大軍であるから、確率的に生き残れる者もそれだけ多くなる。火の手が弱まり、生存者が再び城壁をよじ登ろうとしたとき――。</p><p> 濠を流すように大水が横から押し寄せた。水ばかりでなく、大岩、巨木までもが含まれた濁流である。当然、レイス軍は恐慌状態に陥った。今度こそ逃げ場がない。</p><p> それでも運あって命を拾える者はいたが、そこに炎の壁作戦を終えたムザフ隊が戻ってきて、稀有の幸運も一瞬で摘み取られてしまった。レイス軍の背後には別働隊として分隊しておいたケルシュの部隊が挟撃に加わって一方的な殺戮を演じた。</p><p> 一方でレイス軍の後詰や本軍でもこれらの一連は信じられない光景として映った。意気揚々と攻城をしかけていたのが、一転、殲滅される側に立たされた。</p><p> リヤドの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の中にも周りにも濠がある事はわかっていた。濠を越えるのに難があれば、早めに引き上げの指示を出そうと決めていたが、兵達は意気が上がって城壁を登ろうとしている。</p><p> 今度こそ、シルバ軍に勝ったと思った。</p><p> だが、濠から一瞬で炎の壁が出現し、兵等を焼いて消え去ったかと思えば、今度は大水が押し寄せてきて、生存者を押し流し、あるいは水底へ誘う。</p><p> 救援に行こうにも大水で遮られて最前線に寄り付く事も出来ない。いきなり出現した川の向こうで、味方がバラザフ、ムザフが指揮するシルバ軍の強兵に一方的に殺されていく。ただ、それを傍観している他ないのである。</p><p> レイス軍からハイルの守備を任され、その場で暫定的な太守になったサーミザフからも、これらの様子はよく見えていた。驚きのあまり見開く両目に、父バラザフの戦い方が凄絶に映った。</p><p>「情け容赦ない……それしか言葉が出ない」</p><p> そう漏らしながら、サーミザフには一つ気付いた事があった。それはこのハイルの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を父バラザフが無抵抗で自分に譲ってくれたという事である。同時に、その意味する所も理解した。</p><p>「レイス家の者同士が剣を交えなくても済むように。父上は私と部下をこのハイルに入れて命を拾わせたのだな……」</p><p> このリヤドへの攻城戦だけで、レイス軍の戦死者は四万にのぼった。バラザフの配慮が無ければ、この中にサーミザフの主従も含まれてもおかしくはなかった。</p><p>「それぞれの部隊が勝手に押し出したのは明らかな軍律違反なのだぞ」</p><p> それでなくとも、ここに来てから負けを重ねてしまっているのである。イクティカード・カイフは、諸将の責任問題をきつく言及した。この落とし前をつけるという形で、ボクオン隊他、諸部隊から隊長格が処刑されるという犠牲まで出た。</p><p> 責任問題に対する処分としてこれらは当然であるとしても、珍しく士気が自発的に上がっていたレイス軍は、急激に消沈し、冷えていった。</p><p>「嬉しい誤算というやつだ」</p><p> 実戦での戦果に加えて、レイス軍の戦力をさらに削ぐ事が出来たのである。バラザフは作戦の成功を喜んだ。</p><p> 次の日は、また雨になった。風で横に舞うような霧雨である。</p><p> バラザフはその霧雨の中、正面の門から出てきた。頭にはアジャリアから下賜された、額に<ruby><rb>孔雀石</rb><rp></rp><rt>マラキート</rt><rp></rp></ruby>
の<ruby><rb>象嵌</rb><rp></rp><rt>ぞうがん</rt><rp></rp></ruby>
が施されたあの<ruby><rb>兜</rb><rp></rp><rt>カウザ</rt><rp></rp></ruby>
を被っている。一万の将兵を率いていた。城内の方にも一万の兵を残してムザフに全権を与えた。</p><p>「万が一にも俺がこいつら相手に死ぬ事は有り得んが、リヤドはムザフに任せてきた。ファルダハーンの小僧には策略抜きでシルバ軍の戦いを見せてやろうじゃないか」</p><p> バラザフが連れた一万のうち、千騎がアッサールアハマルの精鋭である。彼等はバラザフを中心に<ruby><rb>並列錐</rb><rp></rp><rt>ミスカブ</rt><rp></rp></ruby>
の突撃陣形をとった。だが、まだ突撃はかけない。後ろの歩兵の行軍速度に合わせて、頃合まで近づいて一気に抜くのだ。</p><p> 霧雨の中に、焼かれて赤く光る巨大な鉄塊が、ずしりずしりと濡れた砂を踏み固めて押し進んでいるように見える。レイス軍の本陣からも、ハイルを守備しているサーミザフ隊からも、この燃える赤はよく視界に映えた。</p><p>「バラザフ・シルバが出てきたぞ!」</p><p>「いや、あれは先年亡くなられたアジャリア様じゃないのか」</p><p>「俺はハウタットバニタミムの入城行進を思い出したぞ」</p><p> 今でもアジャール家の元家臣はレイス軍の中にも結構居る。皆が数十年も昔のアジャール家全盛期を目の前の光景と重ねた。</p><p>「ファルダハーン様、今度こそ手出ししてはいけませんぞ」</p><p> イクティカードは、ファルダハーンに釘を刺しておかなくてはならない。イクティカードにそう制止されるまでも無く、ファルダハーンの意気はレイス軍全体の消沈の気を全て吸い取ってきたかのように、萎んでいたので、イクティカードが手出し無用の方針を決定してくれた事は、むしろ決断を強いられるよりはありがたかったのである。</p><p> だが、その沈みきった心も数刻も経って少し落ち着くと、今度は、</p><p> ――誰か我が軍の中にシルバ軍に一泡吹かせる事の出来る勇者はいないのか。</p><p> と、苛立ちがまたもや小さな火となって揺れ始めている。</p><p>「ファルダハーン様、我が軍に知恵の回る猛者が居れば、今日までの敗戦はひとつまみ程の損害で済まされていたはずです」</p><p> 口に出していないファルダハーンを読心したかのように、イクティカードは再度釘刺しを忘れなかった。</p><p> バラザフの部隊は、そのすぐ後ろにアッサールアハマル、その後ろに歩兵隊、そして最後に千人程の<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
兵が続いた。<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
にはすでに火が付いている。</p><p> バラザフはファルダハーンの本陣までやってきて大音声で叫んだ。</p><p>「我はリヤド領主バラザフ・シルバ。レイス軍にひとつ提案があるからまずは聞け!」</p><p> レイス軍では将軍格から兵卒に至るまで、息を呑んでバラザフの次の言葉を待っている。</p><p>「こちらはたったの二万、それに対してお前達レイス軍は四十万だ。二十倍だ。いいか、二十倍だぞ。それを我等シルバ軍が相手になると言っているのだ。今日、決着を着ける。これで手合わせせぬというのなら、レイス軍は数だけ揃えた<ruby><rb>駱駝</rb><rp></rp><rt>ジャマル</rt><rp></rp></ruby>
の糞の塊だとカラビヤート中、噂が広まるだろうな」</p><p> バラザフの喩えの汚さにシルバ軍の兵卒すら眉を寄せて苦笑したのだから、当然、ファルダハーンは怒った。怒ってはみたものの、レイス軍は前進出来る状態になかった。眼前に、昨日の炎の壁作戦の余剰で出来た川が横たわっていた。</p><p> 川の手前にレイス軍は、<ruby><rb>稲妻</rb><rp></rp><rt>バラク</rt><rp></rp></ruby>
のおうとつのある陣形で構えている。一方、バラザフの方はリヤドを出てきた時から<ruby><rb>並列錐</rb><rp></rp><rt>ミスカブ</rt><rp></rp></ruby>
の隊列を組んでいる。何故、並列かといえば、バラザフを中心に機に応じて、部隊を左右に分隊できるからである。左右に分かれたとき、<ruby><rb>並列錐</rb><rp></rp><rt>ミスカブ</rt><rp></rp></ruby>
は、<ruby><rb>双頭蛇</rb><rp></rp><rt>ザッハーク</rt><rp></rp></ruby>
に変形した事になる。四十万のレイス軍に対して、シルバ軍の二万など小隊扱いであり、それゆえ、間の<ruby><rb>群飛雁</rb><rp></rp><rt>イウザ</rt><rp>)</rp></ruby>
、<ruby><rb>稲妻</rb><rp></rp><rt>バラク</rt><rp></rp></ruby>
の形体を飛ばして変形してもよいとバラザフは考えていた。</p><p>「まぁ、どちらでもよいわ」</p><p> バラザフにとっては、ファルダハーンを怒らせて戦いに引きずりだせば、痛恨の一撃を与えてやれる自信がある。そのために、自分が囮として最前線に出てきて、しかもリヤドの兵力を半分もこちらに割いてきた。</p><p>「かのサラディン・ベイの戦法にも似ているようだが……」</p><p> と気付いたのはハイルのサーミザフである。彼はバラザフから昔日、ベイ軍との決戦に参加した見聞を聞かされていた、その記憶の中に素早く探りをいれ、当時のサラディンの突撃陣形を父が再現しているのだと理解した。</p><p>「アジャリア様だけでなく、サラディンまで自分の力にしてしまったのか」</p><p> レイス軍のボクオン、アズィーズ、ファイヤドのような古豪でも、眼前のバラザフの戦闘隊形を危険視していた。目の前には川も横たわっている。大軍を自在に動かす事はできず、動けない間にバラザフの知謀に陥れられる不安を拭い去る事ができるのなら、それは無謀の猪突者だけだ。</p><p>「バラザフ・シルバ自身が出てきたのだ。陥穽が仕込んであるに決まっている。とはいえ、先手を打つこともできぬ……」</p><p> そうした恐怖が増幅していくのは当然である。</p><p>「さあ、来ないなら行くぞ。シルバ軍を相手にするという事はアジャリア・アジャールに狩られる事だと知れ」</p><p> バラザフは<ruby><rb>諸刃短剣</rb><rp></rp><rt>ジャンビア</rt><rp></rp></ruby>
を一本抜いて、そのまま敵陣へ、鋭く、真っ直ぐ指し示した。いつもの武器として扱っている方ではなく、アジャリアから下賜された<ruby><rb>翠玉</rb><rp></rp><rt>ズムッルド</rt><rp></rp></ruby>
の<ruby><rb>象嵌</rb><rp></rp><rt>ぞうがん</rt><rp></rp></ruby>
の宝物である。</p><p> 歩兵五百が河川に居並んだ。アジャリアの独特の戦法だったタスラム部隊である。歩兵が膏で出来た投擲武器を持ち、渾身の力でこれを投げつける敵を怯ませるのである。</p><p> 戦いの<ruby><rb>太鼓</rb><rp></rp><rt>タブル</rt><rp>)</rp></ruby>
が打たれた。すぐさま歩兵がタスラムを敵目掛けて投げつける。レイス軍の前線の兵士達は、タスラムにやられて頭部から血を流し、次々と卒倒していく。しかも割れたタスラムの石膏破片が粉塵となって視界を遮るのである。</p><p> アジャリアの時代から、このタスラム戦法は敵に厭忌されてきた。やられる方からすればそれほど鬱陶しい攻撃であった。</p><p> レイス兵が逃げ散りそうになっているのを見て、バラザフは次の手を合図した。タスラム部隊が下がって、次に<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
隊が前面に出てきた。</p><p> <ruby><rb>太鼓</rb><rp></rp><rt>タブル</rt><rp>)</rp></ruby>
の拍子が変わり、一千の<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
が火を噴いた。すでに、ここまででレイス軍には六百程の死傷者が出ている。</p><p> しかし、レイス軍の反応は薄い。逃げ惑うような反応は見せはしても、反撃に出てくるまでの押し返しは無い。懲りているのである。もはや両軍にとって定番となりつつある煽られてよりの反撃は、入り乱れた戦いの陥りやすく、即ち、これも定番のレイス軍の敗北を誘引する。</p><p> バラザフの合図で、詰めの弓兵が出てきた。</p><p> 川から進んでこれないレイス軍の頭の上から矢の雨が浴びせられた。</p><p>「ポアチャから<ruby><rb>駱駝</rb><rp></rp><rt>ジャマル</rt><rp></rp></ruby>
の糞が生まれたか!」</p><p> 精一杯悪態を込めて罵声を放ち、バラザフが手綱を引いてリヤドに戻ろうとした、その時、レイス軍の中から<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
を撃つ者があった。炎はバラザフの所まで至らなかったが、その引き金で、レイス軍の勘気余った者らが水を掻いてバラザフの後を追おうとした。それを見て残りの前列の歩兵も皆、水に浸かって押し出していく。俄かに大兵が殺到したので、元々、舟が無くとも渡れる水量だった川の流れが止まった。</p><p> 命令違反ではある。だが、ファルダハーンは兵達の自発的な押し出しに、自身の意気もまたもや上がって、</p><p>「そのまま疾駆するのだ!」</p><p> と、状況を良い風に受け取って喜んでいた。</p><p> バラザフは、またすぐに迂回して前後反転し、<ruby><rb>並列錐</rb><rp></rp><rt>ミスカブ</rt><rp></rp></ruby>
を整え直した。隊が細分化され、錐がさらに鋭さを増した形である。</p><p> レイス軍の先頭が川を渡り終え、今度こそバラザフの部隊を包囲したと確信したとき、</p><p>「待て、油のにおいが――」</p><p> 流れのせき止められた川は、再び炎の壁と化し、押し出してきたレイス軍の歩兵の大半が一瞬で焼死した。今度は、バラザフの傍にいたケルシュが、この仕掛けを発動させたのだった。フートも一枚噛んでいて、川の水がとまったのを見て濠に油を流し込んで、仕込みをしていた。フートは今回で引退を決めていて、アサシン軍団を指揮に現場に立った。</p><p> 二度目の炎の壁で数千の歩兵の焼死体ができた。</p><p>「終わりましたな……」</p><p> イクティカードはファルダハーンにわざと聞こえるように呟いた。落胆というより、諦めと嫌気の交じった呟き、ため息である。</p><p> バラザフは、戦果を自分の目で確認して、満足して後ろに退いた。</p><p> 後にファリド列伝ともいうべき記録が、レイス家に編まれる事になるが、そこにすら、</p><p> ――シルバ家とのリヤドにおける戦いで、我が軍百害で足らず。</p><p> と、自虐されてしまうほど、この戦いでレイス軍は見事に崩れたのである。</p><div><div><br /></div><div>※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。</div><div><br /></div><div>次へ進む</div><div>(最終章2024.03.05公開予定)</div><div><br /></div><div>【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html</a></div><div><br /></div><div>前に戻る</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2023/05/A-Jambiya11-2.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2023/05/A-Jambiya11-2.html</a></div><div><br /></div><div>『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html</a></div></div><div><br /></div>Blog authorhttp://www.blogger.com/profile/05104770986712427544noreply@blogger.com0サウジアラビア リヤド24.7135517 46.6752957-3.5966821361788455 11.5190457 53.023785536178849 81.831545699999992tag:blogger.com,1999:blog-4314757388830094658.post-47733125811740598392023-05-05T05:55:00.044+09:002023-07-05T13:18:47.326+09:00『アルハイラト・ジャンビア』第11章_2<p> 暑さが酷くなってきた。</p><p> ファリドは、諸将にカイロ征伐を通達した。そして、自身も領土に帰って、戦いの準備を配下に忙しく指示した。レイス軍にシルバ軍の情報は入らないのに、逆の情報はすぐに流れる。</p><p>「クウェートには、ファルダハーン・レイス、バスラにはカロウ・タレミ、シャア・アッバース、ケルマーンにはミールホセイン・ラフサンジャーニーが軍隊を揃えている。レイス軍のベイルートに駐在している軍団にも諸侯が合流するらしい」</p><p>「ベイルートの諸侯の面々は」</p><p>「ムサバハー、タリヤニ、サルマスィー、ティトー、バギロフなど武官派閥の連中に加えて、ナサ・アフラク、パヤム・ベイザー、ラウフ・タラート、サアド・ウトゥーブ等等。ファリド自身は<ruby><rb>アミル城</rb><rp></rp><rt>クァリートアミール</rt><rp></rp></ruby>
を出てベツレヘムに入り、守将にジャハーン・ズバイディーを置いたらしい」</p><p> バラザフとムザフは次々と寄せられる報告を聞いて、胸を躍らせていた。</p><p>「有事に身を置いてこそ生きがいを得られるとは我ながら難儀な性分だ」</p><p>「まったくです」</p><p> 二人の口端に苦笑いが漏れる。</p><p> 今、この瞬間もシルバ軍は名義上、レイス軍の配下に置かれているわけで、当然、バラザフ・シルバにもカイロ出征に軍を出すように下達されている。しかも、その使者は長男のサーミザフである。</p><p> ファリドは、まずはシルバ軍に対してクウェートに集合するように促した。</p><p>「父上、ムザフ。私もシルバ軍の武官として出るつもりです。先にハウタットバニタミムに戻って軍容を整えておきます」</p><p> これにはバラザフも当惑してしまった。</p><p> サーミザフは、純粋にファリドの配下として、シルバ軍はレイス軍に忠誠を尽くすものだと思い込んでおり、その前提で話を進めてしまっていた。</p><p> 父バラザフが裏でハーシムやナギーブ等の反レイスの連合と繋がっているなどとは夢にも思っていない。どこまでも真っ正直、実直なサーミザフの性根が、今のバラザフを困らせないわけがなかった。</p><p> ――こいつに裏を明かせば板ばさみになって苦しめる事になるな。</p><p> バラザフは、サーミザフには反レイス連合との繋がりなど、一切におわせずに、レイス軍に合流する支度を始めた。</p><p> この頃、バクーの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
のハーシムの方は、</p><p>「ファリドがベイとハルブの誘い出しに乗った。ベイルートをファリドが離れたのはまたとない好機。ようやく毒のある枯葉を切り落とせるぞ」</p><p>「確かに毒はありますな。枯葉というよりアブダーラ家にへばり付く古苔と言えましょう」</p><p>「バラザフ・シルバ殿の手紙にもそのように書いてあった」</p><p> ファリド評について皮肉りながら、ハーシムと重臣モジュタバー・ミーナーヴァンドは声を上げて大笑いした。どこでも、そしてどこまでいってもファリド・レイスという男は笑いのねたであった。この笑いには自分達の思惑通りに事が運んでいるという満足感も含まれている。</p><p> 元々、人望のあまりないハーシムであったが、この時彼に味方する諸侯は意外に多く、ベイ軍、シルバ軍の他に、ハーシムにはカーセム・ホシュルー、ジャービル・ジャファリ、バフラーン・ガリワウ、アマル・カアワール、ディーナー・ムーアリミー、デイシャ・バリクチスなどがハーシム主催の連合に加わっていた。</p><p> サーミザフは先に軍備を整えハウタットバニタミムを進発した。サーミザフの部隊は迷わずクウェートへ向かっている。バラザフとムザフは、その一日後、リヤドの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を出た。ここでバラザフにハーシム等保守連合がファリドの革新連合に対して正式に宣戦布告したと報告を受けていた。ハーシムの軍、ファリドの軍両方について詳細な情報までは得られていないのだが、大略で観ればバラザフを満足させるには十分な条件が揃っていた。</p><p>「この状況でリヤド、アルカルジのバラザフ・シルバが我等の方に旗色を示せば、それが契機となってこちらにつく諸侯も増えるはずだ。アルハイラト・ジャンビアと言われたバラザフ・シルバだ。我等の中であの知謀を越える者はいまい。ベイ軍のナギーブ・ハルブまで我等についているのだ。我等が戦略でレイス軍に劣るという事はありえないだろう」</p><p> ファリド・レイス包囲網完成。ハーシムはそう確信した。</p><p> 二週間程経つと、今度は<ruby><rb>カマールの友人達</rb><rp></rp><rt>アスディカ・カマール</rt><rp></rp></ruby>
として、エルエトレビー、カアワール、ムーアリミー達がファリド・レイス本人に弾劾上を送りつけると同時に、諸侯にはファリド討伐を訴える檄文を送った。</p><p> アブダーラ家保守連合、つまりハーシム側の連合は総帥にジャービル・ジャファリが担がれて、<ruby><rb>アミル城</rb><rp></rp><rt>クァリートアミール</rt><rp></rp></ruby>
に入城した。</p><p> <ruby><rb>アミル城</rb><rp></rp><rt>クァリートアミール</rt><rp></rp></ruby>
にはせ参じる諸侯は一気に増えた。ムンターザルダービク・ジャファリ、アウニ・サバグ、タビット・アリ、ハーフィド・マブフート、ジャメル・ユースフ、トールマン・グリバス、アウグスティヌス・ゼンギンが反レイス連合に名を連ねた。</p><p>「現在、<ruby><rb>アミル城</rb><rp></rp><rt>クァリートアミール</rt><rp></rp></ruby>
に集まった戦力だけでも九十三万に上ります!」</p><p> 報告を受け、ハーシムが悦に入るのも無理からぬ大戦力である。</p><p> 翌日、ホシュルーとマブフートの軍がファリド側のベツレヘムを取り囲んだ。ベツレヘムには守将としてジャハーン・ズバイディーが置かれていた。</p><p> 保守軍と革新軍の戦端が開かれた瞬間である。</p><p>「今の所、保守軍およびベイ軍、シルバ軍でレイス軍の包囲網が完成すれば俺達が勝つ公算が非常に高い。だが、戦争の見込みに絶対などというものは絶対に無い。レイス軍が跳ね返してくる事だってありうる。その時はハーシムを見限って知らぬ顔でレイスの軍門に居残る。シルバ家存亡の潮目だ。よく読んで動かねばな」</p><p> 隣で馬を進めるムザフにだけ聞こえる声でバラザフは囁いた。前にバラザフとムザフが同じ戦場に出たのはリヤドの戦いである。その時にはレイス軍を痛い目に遭わせて追い払ったのだ。</p><p> ベツレヘムの攻囲から数日して、バラザフのもとにオルガがハーシムから使者を連れてきた。バラザフはカフジの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
に来ていた。このまま北へ進軍すればファリドと諸将が待つクウェートの中心地には一日で到着出来る距離である。</p><p> バラザフは使者からの手紙を受け取った。手紙にはハーシム・エルエトレビーとバフラーン・ガリワウの名前がある。</p><p> そこに書かれている言葉はバラザフの血液を頭の大いに巡らすのを促した。一気に最後まで読み進め、それを隣に居るムザフにも見せる。手渡された手紙をムザフも読むが、ムザフの反応は落ち着いていて、言葉と内容を慎重に吟味している。</p><p>「この手紙に書いてある事が全て本当であれば、エルエトレビーの軍は百万以上という事になります。これに対してレイス軍は本軍を加えて百十万と算定出来ます」</p><p> ムザフの計算は速く、手紙の内容から両軍の戦力を一瞬で数値化した。さすがのバラザフにもこのような異能は無かった。</p><p>「間違いなく、カラビヤートを二分する大戦争になるでしょう。問題は、両軍がどこで激突するのか……」</p><p>「ムザフ、今すぐサーミザフを呼べ。クウェートで俺達の到着を待っているはずだ。大事な話があるので、重大な相談があるから至急カフジまで来るように言え」</p><p> ムザフによってすぐに使者が、サーミザフのもとへ遣わされた。サーミザフはカフジに来るなり、バラザフからハーシムからの手紙を見せられ、全身に氷のような寒さが走って彼の体温を奪った。これを見たときのバラザフの反応とは正反対である。</p><p>「ハーシムが軍を起こしたのか……」</p><p>「サーミザフ、もうわかるな。大事な話とはこれだ。シルバ軍はどちらに味方すべきか。生死の分水嶺だ」</p><p>「父上、私の答えは最初から決まっています。シルバ軍はレイス軍の配下なのです。筋を通してこのままレイス軍の陣営に参陣すべきなのです。ファリド様も父上の到着を待ち焦がれております!」</p><p> サーミザフの性格からすれば当然の答えで、また正論過ぎるほど正論であった。是が非でも父バラザフをファリドから遠ざけてはならず、その強い意志は、いつになく強い語気に顕れていた。</p><p> バラザフは、まだこれには返答しない。</p><p> そして次にムザフの意見を促した。</p><p>「私はハーシム殿に味方すべきだと思います。父上のご判断はどうなるとしても、私はこれまでの半生をアミル様の育てられました。さらにバフラーン・ガリワウ殿は私の舅なのです。兄上のファリド殿に味方すべきという正論も決して否定は出来ません。しかも兄上もファリド殿の重臣中の重臣イクティフーズ・カイフ殿が舅だ。兄上は兄上でハーシム殿に味方出来る理由が無いのです。ここから結論するとすれば、我々兄弟が敵味方に分かれる他、道は無いと思われます。すでにそれぞれ別の未来を持ってしまったのです」</p><p> バラザフ自身はどちらに付くかもう決めていた。</p><p> バラザフは、サーミザフとムザフ双方にそれぞれ顔を向け、そして瞑目に入った。</p><p>「極めて難時である。だが、どちらに付くかここで決める。サーミザフ、お前だけレイス軍に戻れ。俺とムザフはハーシムに付く。こうしておけば、結果がどうあれ、シルバ家は必ず生き残れる。お前はすぐにファリドの所へ戻り、ハーシムの挙兵と俺の謀反を報告するのだ。次に会うのは戦場になるだろう。そして――」</p><p> 一息だけつき、</p><p>「死ぬなよ」</p><p> そういってバラザフはサーミザフを送り出した。サーミザフの背中が遠くなり、傍に居るムザフに語った。</p><p>「歴史も国も問わず、こうした生き残り方は幾度も繰り返されきたはずだ。家族と別れるのは辛いが、これで俺が世に戦いを挑める好機が巡ってきた。あちこちから戦火が起こるぞ。今度こそ未来を視る眼の先を手に入れてやる」</p><p> ムザフはたまに父の口から未来を視る眼という言葉が出てくる</p><p>訳は知らなかった。しかし、五十を越えたバラザフの身体から闘気が発せられているのだけはよくわかった。</p><p>「よし、すぐにリヤドに戻るぞ。ここでレイス連合の動向をよく見極めて、それ次第で<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を防衛するか、ハーシム連合に合流するかが決まる」</p><p> サーミザフがクウェートに戻ると、先にベツレヘムのズバイディーの使者がファリドの陣に来ていて、ハーシムが挙兵した事を伝えた。</p><p> ファリドはこれを聞いて驚くどころか、満足な笑みを顔いっぱいに顕して、重臣のイクティカード・カイフに顔を向けた。</p><p>「ようやくハーシム・エルエトレビーが挙兵した」</p><p> ファリドは、ハーシムの挙兵を辛抱強く待ち続けていた。</p><p> サーミザフは、ファリドにハーシムの挙兵と、父バラザフの謀反を報告した。そればかりかシルバ家で話し合って、家を二分して生き残るという結論に至ったのだと、真っ正直に全て話した。</p><p> ファリドは、サーミザフが父親より自分に加担すると決めた事、全て隠さず自分に話してくれた事を素直に喜んだ。</p><p>「バラザフが敵に回ったのは痛手だが、サーミザフだけでも戻ってきてくれ心底嬉しく思う。ありがとう――」</p><p> ファリドはサーミザフの両手を握ってまで喜んだ。そして、</p><p>「アルカルジ、そしてバラザフが所有しているリヤドもサーミザフの所領として認める」</p><p> と今まで以上の厚遇を俄かに宣言した。</p><p> この時点でバラザフの経路はまず狙いの一歩を進めたという事になる。</p><p> ファリドは大略の戦争としてはハーシムを相手にしているが、</p><p>局地戦という面ではバラザフが好敵手となっている。二人の辣腕家によって知謀が水面下で火花を散らす。バラザフもファリドも最終的に欲する物は世の覇権なのである。</p><p> クウェートに設置されているレイス軍の本営では、寄り集まった諸侯が皆ファリドに加担すると言質を供した。それ以前に人質も出している。クウェートへの参陣要請を拒否し、しかも反旗を翻したのバラザフ・シルバ、ムザフ・シルバの親子ばかりであり、他の全員がファリド・レイスの尖兵となると気勢を上げた。世の覇権をファリド・レイスが完全に手中に収める前に、売れる恩は売れる時に売らねばならぬ、という功名心でぎらついた者が並み居る。クウェートの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
は、そんな姿をしていた。</p><p> 未来の権力者に尻尾を振る群雄達を背中で嗤いながら、バラザフとムザフは、言い切った。</p><p>「ファリド・レイスは悪辣なり。最後の最後までカマール様のために反逆者を征討する戦争なのだと諸侯を騙しとおした。それがわかっていて付いて行く奴等もみんな古苔だ」</p><p> サーミザフと別れ威勢よくカフジの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を出てきた、バラザフとムザフとバラザフだったが、どうにもバラザフの様子がおかしい事がムザフは気になっていた。</p><p> 一行がリヤドに戻る道に入った頃である。バラザフが、</p><p>「サーミザフの子等に会っておきたくなった」</p><p> と言い出した。サーミザフの子は当然バラザフにとっては自分の孫にあたる。</p><p> 急遽、軍旅をハウタットバニタミムに向けたものの、ハウタットの城門は固く閉ざされていて、バラザフが門を開けるように促しても守兵は何も反応しない。</p><p> 途方に暮れていた所、門の上にサーミザフの妻レベッカが現れて、槍を振り回して不動の構えで上から見下ろした。あのイクティフーズが被っていた、炎を象形した二本角の<ruby><rb>兜</rb><rp></rp><rt>カウザ</rt><rp></rp></ruby>
と同じものを被っている。こちらは女性用に仕立てられたようで、やや小さめであった。</p><p>「バラザフ殿がいかに舅殿といえども、夫サーミザフの敵に回ったお方を、この<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
には一歩たりともお通しは出来ません!」</p><p> レベッカの怒気にバラザフは口端を歪めて笑って応じるしかなかった。</p><p>「まったく、あいつには負けるよ。さすがは、あのイクティフーズ・カイフ殿の娘だ。父親の気性を受け継ぎ烈女となったか。城の護りも堅いわ」</p><p> 諦めてバラザフが城門に背を向けて立ち去ろうとしたその時――。</p><p> 背後で城門の開く音がして、レベッカが姿を現した。</p><p>「先ほどはご無礼を。ですがやはりこの門より内に入れる事は適いません。せめて、子供達と再会の場はご用意させていただきます」</p><p> そう言ってレベッカは、リャンカの伽藍跡を面会の場に指定した。リャンカ寺院は、カトゥマルの妻リャンカがハラドの高僧ナデイユ師に、ザルハーカの法を授けられた事を起因に、リャンカがナデイユ師のために建てさせたゆえ、リャンカの名がつく。だが、リャンカ寺院は、フサイン軍の襲撃を受け伽藍は焼け落ち今は廃墟となっている。リャンカも、ナデイユも、そしてハイレディン・フサインも、もうこの世の者ではない。</p><p> バラザフは息子の妻の親身な態度に感謝して、リャンカの伽藍跡へ馬を向けた。</p><p> 孫達と再会を喜び合って別れを済ませると、バラザフはリヤドへの道を急いだ。ここから二日はかかる予定である。</p><p> すでにこの時、バラザフはファリドの動向を、未来を見る眼で走査していて、それ以外の事は彼の脳裏から消え去っていた。それしか考えられなくなっていた。</p><p> そのバラザフの隣にはもう一人バラザフが居る。ムザフは、エルサレム、ベイルート、レイス軍、ベイ軍、アッバース軍など、情報収集路線を多岐に広げて、それらを見事に捌いた。<ruby><rb>間者</rb><rp></rp><rt>ジャースース</rt><rp></rp></ruby>
を縦横無尽に使いこなす態は、昔のバラザフそのものであった。</p><p> バラザフは、未来を読んだ。</p><p>「八十三万。これはレイス軍のみの戦力だ。そのうち十万、あるいは二十万はベイ軍の進攻を防止するために割くはず。つまり、ハーシムとの決戦に連れて行ける戦力は多くても七十万ということになる」</p><p> 考えているうちにまた新たな要素が思い浮かぶ。</p><p>「レイス軍の尖兵となった諸侯も六十万くらいはいる。これもハーシム軍にぶつけるだろう」</p><p> そこに大軍を進行させるレイス軍の課題が浮かび上がってくる。</p><p>「レイス軍はどこに宿営させるのか。一気に移動させるのか、段階的な移動になるのか。一気に行くとすれば、どこの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
ならば大軍を収容出来るか」</p><p> バラザフは、都市機能、市民生活等の要素を考慮した結果、レイス軍はエルサレムへの行軍過程の問題から、段階的な終結になるだろうと予想した。</p><p>「となると、クウェートを進発した後軍隊を三つくらいに分隊し、バスラ、ナーシリーヤ、ナジャフ、バグダードの路線を、先発隊から順に移動と駐留を繰り返して進むしかない。あるいは路線をそれぞれ変えるという手もあるな。その内一隊くらいはリヤドに押し出してくるかもしれない」</p><p> 来るのが諸侯の軍になるか、レイス軍になるか。それは分からない。ハーシムと決着をつけるだけならリヤドはレイス軍の盤外に外しても戦略としては十分成り立つ。だが――。</p><p>「レイス軍は必ずリヤドに来る」</p><p> それが、理屈の次元を超えたバラザフの勘であった。</p><p>「つまり、俺達はリヤドを空けておくわけにはいかないという事だな」</p><p> アジャリアであれば一度リヤドを捨て、好機が巡ってきた頃に再度取り返す。そんな手も打てたであろうが、シルバ軍には、そのように流動的に動かせる組織力は無い。情報力だけが力である。</p><p> さらにバラザフはハーシム側の動きも予想する手間を取らなければならない。味方ではあるのだが、ファリドのようにバラザフは味方の統帥権は持っておらず、また、献策も求められていない。</p><p>「そもそも、このまま行くと両軍はどこで激突するのか」</p><p> 戦力は自由にはならないが、考え方に関してはバラザフはアジャリアの思考を大いに活用した。大略の流動的な動きを、未来を見る眼で読み解く。両軍において、これに関してはバラザフを越える武人は誰一人居ない。</p><p> 視野を広域に広げれば、そのような大局眼を持った武人はもう一人だけいた。トリポリの君主、ヨシュア・タリヤニである。</p><p> ヨシュアはアミルの生前、トリポリの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を拝領して今に至る。が、ヨシュアは今回のハーシムとファリドの争いに今の所無関係を決め込んでいる。</p><p>「ハウラーンの<ruby><rb>涸谷</rb><rp></rp><rt>ワジ</rt><rp></rp></ruby>
だな」</p><p> バラザフは、ハーシムとヨシュアがここで激突すると確信した。</p><p>「反レイス連合軍といっても、実際の作戦はハーシムが決めるのだ」</p><p> リヤドに帰還して数日というもの、バラザフは自室に一人で閉じこもって作戦を考えていた。その前に両軍の流動が読めなければ話にならないので、貫徹して両者を見比べていた。そして、ようやく部屋から出てきてムザフに説き始めたのである。</p><p>「ファリドはじっくりやる攻城戦より野戦の方を得意としている。あくまであいつの中で得意というだけだ」</p><p> これを裏付ける過去はいくらでもあった。まず第一に挙げられるのはウルクでのレイス軍の惨敗である。挙げればきりがないほど、バラザフはアジャール家の武官時代にファリドの負けぶりを幾度と無く目撃してきたのだ。ゆえに、バラザフは武人としての技量はファリドなどより自分が数段格上だと思っている。またこれを否定する人間もおそらく誰も居ない。</p><p>「それでファリドは自分の得意な野戦に事を運んでいきたいが、ハーシムはアブー・カマールに篭城するはずだ。もしここが陥落しても西へ逃げればベイルートだし、北へ行けばハーシムの本拠地であるカスピ海バクーの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
がある。どちらも一週間逃げ切れば退避出来る。アブー・カマールにレイス軍を張り付かせておけば、時間の経過とともにレイス軍からハーシム側へ旗色を替える輩も必ず出てくる。とどめにカマール様が自ら戦場に出てくればアブダーラの古参の武官は先を争って反レイス連合の陣に馬をつなぐだろう」</p><p> バラザフは、ハーシムの側についているものの、このようにハーシムがあっさり勝ってしまうのは、それはそれで都合が悪い。アブダーラの政権が確たるものとして固まってしまう。つまりバラザフとしてはハーシム、ファリド双方が食い合って共倒れしてほしいわけだが、さすがにそこまでの魂胆は、相手がムザフであっても話す事はできなった。 </p><p> ――共倒れとはいかなくとも、せめて両軍の進退が窮まって数ヶ月固まってくれれば。 </p><p> 主戦場が他に移る事になる。</p><p> カイロのベイ家が周辺と戦争になるか、一連の同盟を作る。ヨシュア・タリヤニはトリポリ周辺の諸侯と戦い、自勢力でも何でも作ってくれればいい。</p><p> その戦場が分散した時間がバラザフの好機となる。シルバ軍はバラザフとムザフでリヤド、ハラド、アルカルジをこの際全て手に入れてしまう。アジャール家再興を大義として自分の野心の上に掲げておけば、旧アジャール軍の武官を束ねて勢力を拡大する。そこまで強くなれればアジャリアが企図した西進を、バラザフの旗の下で成す事が出来る。</p><p> 本来、レイス軍とエルエトレビー軍の激突となるはずだった戦いが、広域戦乱として飛び火していく。</p><p> 世界的な戦火の中、その火に照らされながら、中央の政権にシルバ軍の旗を立てる。新生シルバ軍の覇権ともいうべき作戦壮図がバラザフの中で生き生きと描かれていた。</p><p><br /></p><p>「インシャラー!」</p><p> 何に対するインシャラーなのか、バラザフは燃え上がった。</p><p> レイス軍とエルエトレビー軍の大戦争は、バラザフにとって好機である。しかも、ただ大乱になるだけではない。自分が覇権を握れるような盤面が整っていた。</p><p> バラザフはムザフにも本当の裏の裏の野心は説かず、戦況の先行きだけを示した。</p><p>「今まで攻城戦であれだけ失敗を重ねてきたファリドだ。さすがに攻囲での不利を自覚しているに違いない。あらゆる手段を講じてハーシムを野戦の場に誘引するはずだ。その手段までは細かく読めないが、ハーシムが誘いに乗った場合、決戦の場は、ハウラーンの<ruby><rb>涸谷</rb><rp></rp><rt>ワジ</rt><rp>)</rp></ruby>
になると結論出来る」</p><p> バラザフの解き明かしを聞きながらムザフは地図から目を離さずにいた。</p><p>「ですが、父上。なぜ<ruby><rb>涸谷</rb><rp></rp><rt>ワジ</rt><rp>)</rp></ruby>
のような湿気があり不安定な地形を選ぶのですか。しかも、両軍とも。他にいくらでも平地、平地が得られなければ砂漠も有り得ましょう」</p><p>「人気取りさ」</p><p>「人気取り」</p><p>「うむ。どちらが勝っても一気に覇権の座は得られない。ハーシムにはアブダーラ家を弑逆するつもりは毛頭無いし、ファリドにしてもハーシムを倒したからといって即、<ruby><rb>大宰相</rb><rp></rp><rt>サドラザム</rt><rp></rp></ruby>
の地位を得られるとは限らない。だから農地や村落が荒れるような地形は避けたいわけだ。両軍とも連合として編成されていて一枚岩ではないから、大義を失すると後々厄介になるのさ」</p><p> この辺りがバラザフの大略を読むに勝れた所で、戦場での作戦手腕だけに頼る武人、軍師達の一つ、二つ上を行っていた。</p><p>「本拠地であるバクーから近い分、あの辺りの土地勘はハーシムの方にあるだろう。岩陰に部隊を隠しておいてファリドだけを狙い撃ちする事も出来る」</p><p>「岩が多く、道が筋状に別れているという事は、挟撃が発生しやすい地形でもありますね」</p><p>「野戦になったとしも、ハウラーンならハーシムに優位に働くだろう」</p><p>「ハウラーンでの戦いが長引いてくれなければ、我等シルバ軍にとってはよくないですね」</p><p>「それもあるが、俺はハーシムの采配自体を心配しているよ。あいつは確か、名が上がるような戦勝は一度も経験していないはずだ。だからハーシムが総司令としてしっかり指揮力を発揮出来るのかどうか」</p><p>「臣下の心を掌握しきれていないという点でも、ハーシム殿が百万の大軍の総司令としての器として耐え得るものなのか、これも不安要素ではあります」</p><p>「まあ、数ヶ月にわたる長丁場になるのは間違いない。百万対百万の大戦だからな。この盤面での我等の手は、分隊して西進するレイス軍の一軍をこちらに引き寄せて、ハウラーンに向かう戦力を少しでも削ぎ落とす事だ。ハウラーンでの決戦、我等も楽しませてもらわないとな」</p><p> そして、バラザフは篭城する事で引き付けたレイス軍に対処すると決めた。</p><p> 配下のアサシンが情報を持ってきて、ムザフがそれを吟味する。すると驚いた事に、そこから出てきた答えは、両軍の流動を明解に示したバラザフの予知と結果がほぼ同じになった。</p><p>「父上は裏付け無しに正確に未来を読み取ったというのか」</p><p> アルハイラト・ジャンビアと言われるバラザフ・シルバ。息子であっても戦略家としての神威ともいうべき切れ味を、再認識させられる事はまだまだある。</p><p>「このハーシムでは、バラザフ・シルバの知謀には未だ届かず、敵に回さなくてよかったと痛感している」</p><p> バラザフに宛てたハーシムの手紙である。</p><p> バラザフはムザフにハーシムの手紙を見せた。その口には苦笑いがなぜか浮かんでいる。</p><p>「シルバ家の今の所領に加えて、ハラド、リヤド全域を領土として認める、と書いてありますね」</p><p>「レイス軍が勝てば、ハラド、リヤドはサーミザフのものに、エルエトレビー軍が勝てば俺達のものになる。どっちも品物を仕入れる前に売る約束をしているようなものだぞ」</p><p> バラザフは、自分で喩えて、これが気に入ったらしく、今度は素直に笑った。</p><p> この年の酷暑過ぎ、雨の季節が訪れようとしていた。レイス軍の諸将はクウェートの駐留をやめ、ついに<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を出て西へ進み始めた。そのうちの一軍はバラザフが予見したとおりリヤドに向けて派遣された。</p><p> 二週間で彼等はバグダードに到達した。急ぎすぎない無理の無い行軍といえる。レイス軍の配下として動いている諸侯に、中央に勤務しているそれぞれの家の家臣が主君に報告を入れる。</p><p> ――ベツレヘムがエルエトレビー軍に落とされた。</p><p> どこの主従も報告の内容はほぼ一緒である。</p><p> 諸侯の中に迷いが出始める者がいた。今からエルエトレビー軍に加勢すればまだ重用されるに間に合うのではと、心揺り動かされる者も少なくなかった。今頃合流しているはずのレイス軍の主力部隊がまだ自分達の見える場所にすら居ない事も、動揺を促した原因の一つである。</p><p> 今、ファリドは本拠地であるマスカットに居た。極めて多忙であった。</p><p> ザラン・ベイが本腰を入れてレイス軍攻撃に乗り出してくるのか。それの真意と動静を確実に知っておきたかった。</p><p> カイロからマスカットまでは最短距離でも二ヶ月近くかかる。しかも他勢力圏内をいくつも通過して来なければならないのだが、その通過する他勢力圏の正中に居るのが、よりによってシルバ軍であった。これまでのバラザフ・シルバのやり方を鑑みると、レイス軍とエルエトレビー軍の戦いが長引いた場合、バラザフがリヤドにベイ軍を引き入れて、マスカットを急襲するという事は十分に考えられた。しかも、それより以西のメッカの動向もわからない。</p><p> マスカット滞在中にファリドは出来る限りの手を打っておきたかった。ザランに直接降伏勧告を行ったり、懐柔のための条件も提示したりした。</p><p>「アッバース殿は御自身の本拠地であるバンダルアバスからクウェートまでを監視体制に置き、ベイ軍の動きを見張られよ。攻め入るには及ばぬ故、ベイ軍がシルバ領の入る間に後詰の方から食われるかもしれぬという警戒心を持たせれば上々。クウェートに十三万の兵力を置いておくから、ベイ軍が攻めてきたらそれを使って防ぐのだ」</p><p> こうして配下に幾つも指示を出してベイ軍の進攻を阻止しておいてた。シルバ軍とベイ軍を接触させない事がベイ軍対策の第一であった。</p><p> まだまだ手を打っておかなければ西進のための準備を終える事は出来ないファリドは、エルエトレビー軍に付くことを表明しているマブフート軍、サバグ軍、カアワール軍、ムーアリミー軍にも筆を休めず手紙を書き続けレイス軍へ付くように工作に精を出した。</p><div><div><br /></div><div>※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。</div><div><br /></div><div>次へ進む</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2023/04/A-Jambiya11-3.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2023/04/A-Jambiya11-3.html</a></div><div><br /></div><div>【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html</a></div><div><br /></div><div>前に戻る</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2023/04/A-Jambiya11-1.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2023/04/A-Jambiya11-1.html</a></div><div><br /></div><div>『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html</a></div></div><div><br /></div>Blog authorhttp://www.blogger.com/profile/05104770986712427544noreply@blogger.com0ベツレヘム31.7053821 35.20244253.3951482638211559 0.046192499999996528 60.015615936178847 70.358692499999989tag:blogger.com,1999:blog-4314757388830094658.post-55617874912526084552023-04-05T05:55:00.039+09:002023-05-05T10:46:20.816+09:00『アルハイラト・ジャンビア』第11章_1<p> バラザフはリヤドで書面に筆を走らせていた。リヤドに戻ってから、こういう事務的な忙しさに追われる日々である。書面の内容はといえば、事務的な世事や時節の事柄を書き連ねて、それを<ruby><rb>擬装</rb><rp></rp><rt>タムウィ</rt><rp></rp></ruby>
として本件は所々に手短に記した。つまり手短に書かれている事は殺伐とした内容でもあるわけであり、反面、大半の余分な部分でバラザフは詩的な表現記述を楽しんだ。</p><p> そして、真に核心に触れた手紙は、実力と仁義を信じられるアサシン軍団に持たせた。このように伝達方法を二つに分けたのも戦略としての<ruby><rb>擬装</rb><rp></rp><rt>タムウィ</rt><rp></rp></ruby>
である。</p><p> バラザフも頭に大分白いものが増えた。同様にフートやケルシュも、もう若くはない。よって若手のアサシン、<ruby><rb>間者</rb><rp></rp><rt>ジャースース</rt><rp></rp></ruby>
が、バラザフの遠隔作業のために篤実に働いた。かつてアサシンとして実働していたフートは、今ではバラザフの<ruby><rb>執事</rb><rp></rp><rt>サーキン</rt><rp></rp></ruby>
のような仕事をしている。ケルシュは、リヤド近くに領地を与えられ、太守としての役割を果たすようになっていた。</p><p> バラザフの手足になっているアサシンは、組織的にはムザフの部下であるという事になっている。ムザフは頭は切れるがその物腰は柔らかい。それで部下からは主君の息子という感じではなく、棟梁あるいは兄貴という感覚で慕われていた。</p><p> バラザフが育ててきたシルバアサシンは、今、世代交代の時期を迎えている。ムザフを中心とした第二世代の波が来ているのである。</p><p> その中で注目されるのがレオ・アジャールという若手のアサシンである。アサシン団のシムク・アルターラスの手で赤子の時から育てられたのだが、何と、かのアジャリア・アジャールの血を引いているという噂があった。アジャリアは彼の祖父にあたるらしいが、詳細は周囲には明かされなかった。バラザフもムザフもこのレオを可愛がって育てた。</p><p> シムク・アルターラス亡き後は、アサシン団の中心に居たルブスタル、ジャンブリの二人が師匠となって、アサシンとしてのあらゆる技法を教えた。結果、今ではレオ・アジャールの実力はシルバアサシン団随一のものになっている。</p><p>「レオ・アジャール、カイロのベイ家<ruby><rb>執事</rb><rp></rp><rt>サーキン</rt><rp></rp></ruby>
ナギーブ・ハルブ殿にこの手紙を渡せ。言うまでもないが必ず本人に直接渡すのだ」</p><p> レオと並んで主な任務をこなせるアサシンが居た。女のアサシンで名をオルガという。オルガもレオと同じくシムク・アルターラスに育てられ、レオとは姉弟同然である。亜麻色の髪を持つ相当な美人だが、素性はレオ以上に不明な事ばかりで、陰に隠して明かさないという事ではなく、名前以外の事が今日に至るまで本人にも判明出来ていない。</p><p>「オルガは、ハーシム・エルエトレビー殿の本拠地であるバクーの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
に行ってくれ。カスピ海の傍だ」</p><p> バラザフの与える任務は重い。だが、こういった過負荷な仕事でも移動力に長けた二人は平然と受けた。バラザフにとって本心から頼もしいと思える新世代である。</p><p> バラザフ・シルバ、五十四歳。ムザフ・シルバ、三十六歳。この二人のシルバ軍の棟梁は戦略的なかみ合わせが非常に良い。今の趨勢をどう見るか、それに対してどのように対処するのか。二人の方針は同和する所が多い。</p><p>「ファリド・レイスが何故周囲を振り回してまで先を急ぐのかムザフには見えているだろう」</p><p>「寄る年波ですよ。ファリド殿も八十を越えたとか。だからこそ、今まで慎重な素振りを見せていたのを、今になって<ruby><rb>翻</rb><rp></rp><rt>ひるがえ</rt><rp></rp></ruby>
すのです」</p><p>「今のままでもファリド・レイスは実質的な執政者だ。安定した政権を望むなら、昨今、巻き起こしてきたように戦争を誘発する所業に出る必要はないのではないか」</p><p>「安定した政権というのであれば、それは結局アブダーラ家の政権としての安定です。<ruby><rb>大宰相</rb><rp></rp><rt>サドラザム</rt><rp></rp></ruby>
の地位を何としてでもレイス家のものにしたいと思えばこそ、戦乱の渦に世を巻き込んで諸侯の出方を見極めて、アブダーラ家を追い落とそうとするのです」</p><p>「ムザフの見解、まさに核心を衝いていると言える。俺も同じ考えだよ。ファリドのやり口は悪徳商人が自分の懐だけに金貨を貯めこむような感じだ。自分に利する世に対して信義を以って報いるという事がないのだ」</p><p> 同じような会話が、バクーのエルエトレビー家でも、カイロのベイ家でも行われていた。</p><p> ――我等の信義を神はお望みだ。</p><p> 彼等のファリド・レイスの悪行に対する信義は、まずは理念の段階で団結している。</p><p> <ruby><rb>大宰相</rb><rp></rp><rt>サドラザム</rt><rp></rp></ruby>
の地位もさることながら、今ファリドが渇望しているのは戦乱である。まず戦乱の渦に世間を巻き込まなければ何も始まらなかった。</p><p> その渦に最初に巻き込まれたのは、ザラン・ベイである。</p><p>「ベイ侯には、政権より召集の命を何度も出した。これに従わないのはカマール様さらには聖皇に対する反逆の意があるからであろう」</p><p> と詰問する内容の手紙がファリドからザランに送られた。これに対してザランも負けていない。</p><p>「馬鹿を言うな。このザランにカマール様への謀反の心があるはずがない。他人よりも己の心を明日の朝、井戸にでも川にでも行って洗ってくるがいい」</p><p> ベイ家からの応酬はこれに終わらず、ハルブ個人からもファリドへ挑発の手紙を送った。</p><p>「ファリド・レイス。ザラン・ベイと、このナギーブ・ハルブが若造だと思って侮ると承知せぬぞ。ベイルートおよびエルサレムへの召集には応じないとは一言も言っていない。ベイ家にはベイ家の事情がある。それを知っていながら、ベイ家の不参を以って反逆者扱いするなど無礼にも程がある。ザランが反逆者であるならファリド・レイスは大逆人である。世から誅せらるべきはファリド・レイスである。ザラン・ベイのカマール様への忠心はカラビヤートに並ぶべきものなし。いずれに<ruby><rb>咎</rb><rp></rp><rt>とが</rt><rp></rp></ruby>
があるのかはっきりさせてやろうではないか。ファリドでもいい、愚息のファルダハーンでもいい。戦下手のレイス軍の相手をベイ軍がしてやろう」</p><p> 実に長い手紙である。</p><p> これらの写しは同盟相手であるシルバ家にも届けられた。</p><p>「さすがの俺もここまで叩きつけてやれないな」</p><p>「しかも、他人の子を愚息呼ばわりですからね……」</p><p> 小気味よくザランとナギーブの読みながらも、バラザフもムザフも驚きを隠せなかった。</p><p> かかってこいと言わんばかりのベイ家の胆力がバラザフには羨ましかった。これまでの人生、特にアジャリアを失った後は、バラザフにとって戦いとは、大勢力との正面衝突をいかに回避して勝つかという事に神経を尖らせてきた。</p><p> そういう押しも押されもせぬ安定を求めていたからこそ、戦乱の世に躍り出て、活躍の舞台で大立ち回りを演じてやろうと息巻いていたのだった。</p><p> 戦争に挑む自分の動機が、ザランやナギーブよりも、むしろファリドに近いと自覚してしまった事も、バラザフを内心では動揺させた。</p><p>「ファリドのやつ、あまりに憤って、ハイレディンのように髪の毛が真っ赤になっているのではないか」</p><p>「最高に怒っているでしょう。ベイ家にあのように豪胆に言い放たれますと、我等シルバ家だけが真の<ruby><rb>士族</rb><rp></rp><rt>アスケリ</rt><rp></rp></ruby>
ではないと省みる価値もあるというものです」</p><p>「そうだな……」</p><p> バラザフは、まだこの時は表立ってレイス軍に反旗を翻す事はできないでいた。今の所は流れを見定めておきたい。</p><p> しかし、裏ではハーシムやナギーブとの手紙のやり取りをしきりに重ねて、さらには、ムザフの舅であるバフラーン・ガリワウと連絡を取り合うなどして、密盟の幅を拡げつつあった。</p><p> ここまで裏でバラザフが大きく暗躍していても、レイス軍にはまったく気取られていないかった。バラザフは配下のアサシンの優秀さに援けられていた。</p><p><br /></p><p>※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。</p><p><br /></p><p>次へ進む</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2023/05/A-Jambiya11-2.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2023/05/A-Jambiya11-2.html</a></p><p><br /></p><p>【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html</a></p><p><br /></p><p>前に戻る</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2023/01/A-Jambiya10-3.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2023/01/A-Jambiya10-3.html</a></p><p><br /></p><p>『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html</a></p><div><br /></div>Blog authorhttp://www.blogger.com/profile/05104770986712427544noreply@blogger.com0エジプト カイロ県 カイロ30.0444196 31.23571161.7341857638211557 -3.9205384000000016 58.35465343617885 66.3919616tag:blogger.com,1999:blog-4314757388830094658.post-30541369810900753382023-03-05T05:55:00.074+09:002023-04-05T13:27:12.889+09:00『アルハイラト・ジャンビア』第10章_3<p> 翌日、謁見の間で二人は諸将の前で正式な会見をしたが、口上は決まった物にとどめ、意識の通じ合いをお互いに目で確認したのみである。</p><p> 明日にはベイルートを発つという夜、バラザフはまたアミルの所に呼ばれた。</p><p>「今回のメフメト軍の討伐はバラザフの活躍による所が大きい。改めて礼を言いたい。そしてもう一働きしてもらいたくて今夜呼んだのだ。戦争ではないのだが、あのファリド・レイスの動きを常に見張っていてほしいのだ。アルカルジ、リヤド、マスカットに至るまで俺の目になって見張ってほしい」</p><p> アミルの目から鋭気を注ぎ込まれたような感じを受けて、バラザフは、この言葉にただ黙って頭を下げた。</p><p> 今夜もアミルはバラザフを茶でもてなした。</p><p> 先日はアミルに自分の<ruby><rb>志</rb><rp></rp><rt>アマル</rt><rp></rp></ruby>
を一方的に掘り起こされてしまったので、バラザフは今度は自分の方から問うてみたかった。</p><p>「先日、<ruby><rb>大宰相</rb><rp></rp><rt>サドラザム</rt><rp></rp></ruby>
殿は我が<ruby><rb>志</rb><rp></rp><rt>アマル</rt><rp></rp></ruby>
を指し示されましたが、<ruby><rb>大宰相</rb><rp></rp><rt>サドラザム</rt><rp></rp></ruby>
殿も<ruby><rb>志</rb><rp></rp><rt>アマル</rt><rp></rp></ruby>
をお持ちであれば是非お聞かせ願いたく存じます」</p><p>「<ruby><rb>志</rb><rp></rp><rt>アマル</rt><rp></rp></ruby>
か。俺も勿論<ruby><rb>志</rb><rp></rp><rt>アマル</rt><rp></rp></ruby>
を持った。それもいくつもな」</p><p>「それらを悉く自分の物とされたのですか」</p><p>「いや、自分の物になったものも、自分から離れて星と化したものもある。実はな、<ruby><rb>大宰相</rb><rp></rp><rt>サドラザム</rt><rp></rp></ruby>
などという高位は一度も望んだ事は無かったのだ。知っての通り俺は<ruby><rb>平民</rb><rp></rp><rt>レアラー</rt><rp></rp></ruby>
の出で、そればかりか、日々の食い物に事欠く有様だったよ。<ruby><rb>童子</rb><rp></rp><rt>トフラ</rt><rp></rp></ruby>
の頃、空腹で眠れず夜空を見上げた事があった。丸い月がポアチャに見えてきてな……」</p><p> 昔を懐かしみアミルは柔和で少し寂しげな笑みを浮かべている。バラザフの方はポアチャと聞いてにやにやしている。いつの間にか親しみのある言葉になっていた。</p><p>「私は未来を視る眼が欲しいと幼少よりずっと思っておりました」</p><p>「だが、人の視る未来には限りがあるな」</p><p>「そうなのです。<ruby><rb>大宰相</rb><rp></rp><rt>サドラザム</rt><rp></rp></ruby>
殿でしたら、未来を視る眼をどのようにして自分のものとされるのですか」</p><p>「そうだな。お前に<ruby><rb>札占術</rb><rp></rp><rt>タリーカ</rt><rp></rp></ruby>
で占ってもらおうか。だが、それでは俺が手に入れた事にはならないな」</p><p> その先の答えをバラザフは渇望して待ち続けている。アジャリアが死んでから他の人間に訓告求めるのは、これが初めてである。</p><p>「未来を視る眼の更にその先を視るさ」</p><p>「そのために結局は未来を視る眼が要るのでは」</p><p>「いや、そうではない。未来を視る眼といっても結局はそれは何かのために手段だよ。家族を護るとか、戦争に勝つとか、雨雲の明日の行方を知るとか、女性の心情を掴むとかな。つまりそれらを手にする事が出来れば、未来を視る眼の更にその先を行った事になる。勿論、未来を知れた方が事は楽に運ぶだろう。だが、未来を知っても何も出来ない事だってあると俺は思うんだ」</p><p> バラザフは、このアミルの答えに憧れだったアジャリアの道理に似たものを感じた。そしてアジャリアと似たアミルにバラザフが距離を置きたがる道理など無かった。</p><p> アミルはもう少しだけ言葉を重ねた。</p><p>「バラザフ。男は大人になっても結局皆<ruby><rb>童子</rb><rp></rp><rt>トフラ</rt><rp></rp></ruby>
だよ。<ruby><rb>志</rb><rp></rp><rt>アマル</rt><rp></rp></ruby>
を持つというのも言い換えれば<ruby><rb>童子</rb><rp></rp><rt>トフラ</rt><rp></rp></ruby>
で在り続ける事さ。だから<ruby><rb>童子</rb><rp></rp><rt>トフラ</rt><rp></rp></ruby>
で無くなってしまった人間は魅力が無く、つまらなくなってしまうのかもしれないな」</p><p> 魅力が無く、つまらない。自身がポアチャと揶揄する、その典型的な人間の顔をバラザフは想像した。</p><p>「<ruby><rb>童子</rb><rp></rp><rt>トフラ</rt><rp></rp></ruby>
だから<ruby><rb>志</rb><rp></rp><rt>アマル</rt><rp></rp></ruby>
を持てる。未来を視る眼でも、食べ物でも、何でもそうだ。<ruby><rb>志</rb><rp></rp><rt>アマル</rt><rp></rp></ruby>
を心で指し続ける人間が、人を惹き付ける人間だと俺は思うんだ」</p><p> アミルのこの言葉は、今口にした熱い茶と共にバラザフの中へ深く染み入っていった。この後もバラザフとアミルのやり取りは頻繁に行われるようになる。</p><p> リヤドに帰ったバラザフを弟のレブザフが迎えた。</p><p>「サーミザフもそろそろ所帯を持つ年頃だ。嫁をもらってはどうかと、レイス様に勧められました」</p><p>「ふむ、それもそうだな」</p><p>「レイス様が、イクティフーズ・カイフ殿を自分の養女にして、サーミザフと縁組をしたいと言っているのだが、話を進めてもよろしいですか」</p><p>「イクティフーズ・カイフ殿というと、ファリド・レイスに与えられた勿体無い神の恩寵と称えられた、あのイクティフーズ・カイフの事だな」</p><p>「はい、炎の二本角飾りの<ruby><rb>兜</rb><rp></rp><rt>カウザ</rt><rp></rp></ruby>
の、レイス家の<ruby><rb>執事</rb><rp></rp><rt>サーキン</rt><rp></rp></ruby>
の一人の」</p><p>「いやいや、知っているさ。俺は昔一度だけ直接戦った事があるんだ。強かった。武勇勝れる武人だった」</p><p>「おお、そうでした。それで、そのカイフ家の女性がサーミザフの妻として名が挙がっているのです」</p><p>「あのカイフ殿は俺は嫌いではない。彼の娘であれば大丈夫だと思う。それにレイス殿の養女として縁組するのだから、サーミザフにとってはレイス軍の中で栄達を得たに等しい。この縁組、承知したと伝えてくれ」</p><p> ファリドの底巧みとしては、ハウタットバニタミムの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
をサーミザフの預かりにしておいて、婚姻関係を以ってレイス軍に取り込んでしまおうという事なのだが、バラザフはこれをよく見抜いた上で、それもまたよしと、この婚姻を認めた。</p><p>「バラザフの長男のサーミザフが所帯を持ったか。ではムザフにも何か話を持ってきてやらないとな」</p><p> アミルは、サーミザフの縁組の話を聞いて、ムザフにも妻帯を勧め、候補を挙げた。</p><p>「当家の重臣でアリーシの<ruby><rb>郡長官</rb><rp></rp><rt>アライベイ</rt><rp></rp></ruby>
バフラーン・ガリワウは知っているな。そのバフラーンに年の離れた妹がいるのだが、名をハーレフという。その娘はどうだ」</p><p> バフラーン・ガリワウはアミルの片腕ハーシム・エルエトレビーの刎頸の友である。</p><p>「バフラーンに大軍を預ければ、百万といえども一人も無駄死にさせぬだろう」</p><p> アミルにもその戦略的才能を愛され、このように賞賛されたが、惜しくも体中の皮膚が崩れていく難病にかかり、全身を包帯で覆っている。</p><p> バラザフ、ムザフ父子共々、この結婚に素直に首を縦にふった。このようにバラザフの子、サーミザフ、ムザフが結婚するのを待っていたかのように、二人の任官をエルサレムの聖皇に推した。サーミザフは<ruby><rb>郡長官</rb><rp></rp><rt>アライベイ</rt><rp></rp></ruby>
に、<ruby><rb>監督官</rb><rp></rp><rt>ダルガチ</rt><rp></rp></ruby>
に任官された。いずれも実際の権力基盤に比して過分の出世である。</p><p> この時期、アミルは政権に威服したオスマンオウル家の領土であるイスタンブルを拠点に、地中海を渡ってナポリまで遠征しようと考えていた。</p><p> ナポリ遠征のための将兵が続々とイスタンブルに集結している。バラフは、サーミザフ、ムザフを伴いイスタンブルに入ったアミルを訪れた。シルバ軍総勢七万で来ている。</p><p> アミルもすっかり老境の入っていたが、頭も言語もまだまだ明瞭である。</p><p>「シルバ軍は今回の遠征に参加しなくてもよいぞ。レイス軍もカラビヤートに内乱が起きぬよう残るように命じてある。シルバ軍も同様だ。つまりは、わかるな」</p><p> バラザフは、シルバ軍が出兵を免れたのは、レイス軍を見張るためなのだと、アミルの真意を察した。</p><p> 世間ではアミル・アブダーラはすでに老廃していると言っているが、実際のアミルは、要点は外さないくらいには頭はしっかり働いている。</p><p>「承知しました。<ruby><rb>大宰相</rb><rp></rp><rt>サドラザム</rt><rp></rp></ruby>
殿の命によりシルバ軍は内乱防止の任に就きます」</p><p>「頼んだぞ。シルバ殿でなければこの微妙な仕事は出来ん」</p><p> 結局、このナポリ遠征は失敗に終わり、得るものも無く将兵は引き上げてきた。対外的には益無き事で終わっただけで済んだが、内部には文官派閥と武官派閥に大きな亀裂が生じた。滅びる前のアジャール家と似たような構造になってしまったといえる。</p><p> さらに悪いことには、アミルが体調を崩して伏せるようになると、<ruby><rb>大宰相</rb><rp></rp><rt>サドラザム</rt><rp></rp></ruby>
に任官されているアブダーラ家の跡目は一体誰になるのか、という論争が水面下で始まった。</p><p>「レイス殿がいい」</p><p>「サリド・マンスール殿のほうがいい。実力もあるしアミル様の親友だ」</p><p>「何を言う。アミル様の御子息のカマール・アブダーラ様を脇に追いやる道理がどこにある」</p><p> と、経世論は様々に分かれ、誰が敵で誰が味方かという探り合いが始まった。こうした世の流れに注視しつつも、バラザフには内にもっと憂いがあった。</p><p> ハウタットバニタミムの太守などを務めてきた一族の長老的存在のイフラマ・アルマライが、カーラム暦1019年に世を去ったのである。アルマライ家は、息子であるアスファトイフラムが当主となっていたが、バラザフにとって叔父であり、重臣でもあるイフラマを失った事で、心中へ走った衝撃は決して小さいものではなかったのである。</p><p> カーラム暦1020年、病の床に居たアミル・アブダーラがついに病死する。</p><p> アミルは死ぬ数日前から、</p><p>「ザッハークの像を……」</p><p> と息をするのも苦しそうに繰り返して、謎めいた言葉を遺言のように残したが、周囲に侍る者達も一時は気にしたものの、日が経つにつれ、</p><p>「あれは死ぬ前の錯乱だったのだろう」</p><p> と謎は忘却され、各人が跡目をめぐる派閥のいずれかの流れに巻き込まれていくことになる。</p><p> バラザフによってアミルとの思い出は彼が淹れてくれた茶の味である。</p><p>「思えば、あれほど茶が美味いことはなかった」</p><p> 権力者に競り勝たんとする闘争心が湧いてくるのがバラザフである。アミルが生きているときは、いつかこいつを越えてやろうという好敵手を見るような目が無くはなかったが、彼が世を去ってしまうと、むしろ無性に懐かしく、会いたいという気持ちが募った。</p><p> アミル亡き後、治から乱へ世界の気が蠢き出しつつある。</p><p>「今まで軍制を整えて、領土を無難に切り盛りしてきたのがここでやっと活かされる」</p><p> アミルの病死は、バラザフにも辛いものとなってしまったが、それはそれと、風向きを見定めてこれを喜んだ。</p><p>「また世は戦乱に逆戻りだ。俺が活躍出来る舞台がきっと与えられるはずなんだ」</p><p> バラザフは、今こそ自分も覇権争いに名を上げて、未来を視る目を活かす時だと、信じきったようだった。</p><p> 時は二年経過して、カーラム暦1022年――。この年がバラザフ・シルバ、ファリド・レイス双方によって、生き方の最も密度の濃い時間となっていく。</p><p> アミルが世を去って数ヶ月くらい経つと、ファリドはアミルが生前に敷いておいた、<ruby><rb>王の友</rb><rp></rp><rt>シャーヤール</rt><rp></rp></ruby>
という執政組織と、その下部組織としての<ruby><rb>カマールの友人達</rb><rp></rp><rt>アスディカ・カマール</rt><rp></rp></ruby>
の体制方針を蔑ろにする態度を鮮明にするようになった。</p><p> ファリド・レイス、サリド・マンスール、ジャービル・ジャファリ、ザラン・ベイ、カーセム・ホシュルー。彼等が<ruby><rb>王の友</rb><rp></rp><rt>シャーヤール</rt><rp></rp></ruby>
の総代を構成し、ファリドはこの機関の筆頭的立場にある。そして、<ruby><rb>カマールの友人達</rb><rp></rp><rt>アスディカ・カマール</rt><rp></rp></ruby>
はこの上部機関の決議事項を政策化して、<ruby><rb>大宰相</rb><rp></rp><rt>サドラザム</rt><rp></rp></ruby>
となったカマール・アブダーラを、文字通り介添えするように補佐する役目を担っていて、この長官にはハーシム・エルエトレビーが就いていた。</p><p> <ruby><rb>王の友</rb><rp></rp><rt>シャーヤール</rt><rp></rp></ruby>
の総代の中ではサリド・マンスールがアミルの生前に最も信頼されており、文官、武官全ての評判がよかったが、病に伏せて政治に参加する機会が減り、他の三人も老獪となってきたファリドに太刀打ち適わず、いわば自動的な流れでファリドが<ruby><rb>王の友</rb><rp></rp><rt>シャーヤール</rt><rp></rp></ruby>
の筆頭格になっていったのであった。</p><p> レイス家が、アブダーラ家に同和せぬ姿勢を示すという事は、シルバ家もその社会構造に沿って二分される事を意味する。サーミザフは、ハウタットバニタミム領に自分の家臣を太守として置いて、自分はベツレヘムにレイス家が設置した政務館に勤仕するようになった。一方、ムザフはアミルの死後、自動的に<ruby><rb>近侍</rb><rp></rp><rt>ハーディル</rt><rp></rp></ruby>
の任を解かれて、リヤドに戻っていた。</p><p> ファリドが取った体制方針を蔑ろにする態度というのは自身の派閥の形成と強化である。アブダーラ政権下において諸侯の勝手な同盟は禁止されている。にもかかわらず、ファリドは自分の机の引き出しから物を出すように、傍に居る人間に他家と婚姻同名を結ばせて、リヤド、アルカルジなどの人事の配置換えも勝手に行った。</p><p> これらの自分を法とするファリドの手口に、ハーシム・エルエトレビーが批難の舌鋒を向けた。だが、バラザフはファリドの行動が別の狙いをもって行われていると見抜いた。</p><p>「傍若無人に振舞っても誰が言う事を聞いてくれるのか、誰が牙をむいてくるのか。そうやって敵味方を今のうちに識別しているんだ。あの苔爺の老獪さ。間違いなくアブダーラ家の後釜を狙っているぞ」 </p><p> この頃、バラザフはファリドをポアチャと呼ばなくなっていた。若い頃の間抜けなファリドを馬鹿にしたあだ名ではなく、今の老獪さを皮肉る呼び方に変わりつつあり、鼻につくと思いながらも、彼の実力を認め始めていた。</p><p> 次男のムザフは、<ruby><rb>大宰相</rb><rp></rp><rt>サドラザム</rt><rp></rp></ruby>
アミルの<ruby><rb>近侍</rb><rp></rp><rt>ハーディル</rt><rp></rp></ruby>
として働いていたので、自身の心情はアブダーラ家寄りになっている。ムザフにしてもファリドの謀略は義憤をもって対すべき行為であった。</p><p>「<ruby><rb>大宰相</rb><rp></rp><rt>サドラザム</rt><rp></rp></ruby>
の位に在ったのは他でもないアミル様だ。ファリド・レイスはその臣下の籍に過ぎないはずではないか」</p><p> <ruby><rb>近侍</rb><rp></rp><rt>ハーディル</rt><rp></rp></ruby>
として仕えていたといっても、その実、アミルのムザフへの扱いは養子に対するそれに近く、数々の朝恩を受けていたので、アブダーラ家へ義理立てる心情が生じたのも当然のことである。</p><p>「ハーシムの奴も、さっさとファリドを倒す心を固めればいいのだ。暗殺でも夜襲でも何でもいい。ファリドの生死で、アブダーラ家の生死も決まる。もちろん生死逆にだ」</p><p> バラザフが今、ハーシムに求めるのは、ファリドと戦争を起こすか、暗殺するかして、ファリドをこの世から排除する事である。それによって、自分が覇権を狙う舞台に立てると期待した。だが、バラザフがこのように自分の野心を彼自身、いまだにレイス軍の下部組織の構成員としてのしがらみから脱しきれていない。</p><p> そして病に臥せっていたサリド・マンスールがついに世を去った。カーラム暦1021年、寒い季節の終わりが見え始めた頃である。ファリドの横暴を抑制出来る最実力者を失ったハーシム達の大いに落胆した。</p><p> そして、その夜――。</p><p> アミルの懐刀だったハーシムを危機が襲った。政敵であるファリドから襲われたのではない。アミルの生前より政権内では、文官派閥と武官派閥の折り合いの悪さが顕著になっていたが、文官派閥の筆頭であるハーシムを、武官派閥の連中が殺害を企てた。この企てに参加した武官はナミル・カリル、アドナン・ムサバハー、ガジ・タリヤニなど。追い詰められたハーシムは、仇敵であるレイス邸に助けを求めた。</p><p>「とりあえず助けて、後で使いどころを考えるか」</p><p> 門前に居るハーシムを中へ迎え入れるようファリドは家人に命じた。程なくして武官派閥の連中がレイス邸に押しかけて、ハーシムの身柄を要求するが、ファリドは柔和にもこれを拒絶し、ハーシムに対しては助命の見返りとしてベイルートからの退去を要求した。</p><p> この経緯をアサシンがリヤドまで報告した。バラザフには、ファリドのハーシムの使い方がよく読めていた。</p><p>「ムザフ、ファリド・レイスが何故ハーシムを救ったかわかるか」</p><p>「文官派閥と武官派閥の亀裂をもっと深めるためですね」</p><p>「その通りだ。今ハーシムが死ねば、アブダーラ家は一つにまとまりファリドに牙を剥くようになるかもしれない。そうならないようにアブダーラ家の遺臣同士で争わせ弱体化を謀っているのだ」</p><p> さらにバラザフは、ムザフにその後の経過を語って聞かせた。ファリドはハーシムを政治の中心から遠ざけた後すぐに、メッカ南部ベツレヘムに本拠を置いて、<ruby><rb>大宰相</rb><rp></rp><rt>サドラザム</rt><rp></rp></ruby>
カマール・アブダーラの補佐として自らを<ruby><rb>宰相</rb><rp></rp><rt>ペルヴァーネ</rt><rp></rp></ruby>
の位に置いた。もちろんカマールの補佐というのは建前である事は皆が周知する所であり、世間ではファリド・レイスを実際の執政者として扱うようになっていった。</p><p> ファリドは、アブラーラ家弱体の手を緩めなかった。</p><p>「サリド・マンスールの息子サヌービルは、スタニスラフ・ザデー達と結託して、このファリド・レイスを除こうと企てた疑いあり」</p><p> ファリドは、この偽情報を流言として流した。</p><p> サヌービルにはこのような事実は無く、この噂は本人とっては降って湧いた災難だった。</p><p> サヌービルは、早速ファリドに対して噂は事実無根である事を釈明して、その証として自分の母スノウバラを、ファリドの本拠地であるオマーン地方のマスカットに人質に出した。</p><p> ベツレヘムにおいて大手を振って、あれこれと手を打つファリドは、それだけでは足りず、今度はベイルートの<ruby><rb>アミル城</rb><rp></rp><rt>クァリートアミール</rt><rp></rp></ruby>
の城郭の中に自分の拠点を造ってしまった。</p><p>「あの苔爺め。ここまで悪臭が届いてくるようだ。呆れて物も言えぬ」</p><p> ここまでいくと戦略、策謀という言葉の範疇に収まりきらない、ファリドの個人的なわがままの域に達しているのだとバラザフは思った。実際、今のファリドは大手を振る、というより振り回している。執政の座を得るためには何でもするという感じだ。</p><p>「やはり、<ruby><rb>志</rb><rp></rp><rt>アマル</rt><rp></rp></ruby>
を持っていない人間は、力を持ったときに出てくる色合いが汚すぎる。俺もアルハイラト・ジャンビアと呼ばれ、策略で鳴らしたきた口だが、あそこまで汚いやり方はできない」</p><p> そして、すでにこの時ファリドの魔手は、さらに南へも伸び始めていた。</p><p> カーラム暦1022年、ファリドはザラン・ベイが召喚の命に従わない事をを理由に、討伐を発会して<ruby><rb>アミル城</rb><rp></rp><rt>クァリートアミール</rt><rp></rp></ruby>
の自分の拠点に諸侯を集めた。</p><div><div><br /></div><div>※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。</div><div><br /></div><div>次へ進む</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2023/04/A-Jambiya11-1.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2023/04/A-Jambiya11-1.html</a></div><div><br /></div><div>【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html</a></div><div><br /></div><div>前に戻る</div><div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2022/12/A-Jambiya10-2.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2022/12/A-Jambiya10-2.html</a></div></div><div><br /></div><div>『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html</a></div></div><div><br /></div>Blog authorhttp://www.blogger.com/profile/05104770986712427544noreply@blogger.com0レバノン ベイルート33.8937913 35.50177675.5835574638211511 0.34552670000000063 62.204025136178842 70.6580267tag:blogger.com,1999:blog-4314757388830094658.post-31552869607676845412023-02-05T05:55:00.046+09:002023-03-05T13:58:55.623+09:00『アルハイラト・ジャンビア』第10章_2<p> 翌年、すぐにアミルはカラビヤートの諸侯にメフメト征討のために軍を出すように命じた。ファリドやバラザフにも出兵の命令が下った。</p><p> アミルがバーレーン要塞を包囲するために指揮した兵の数は二百万。広域にわたって周辺の<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
に兵を分散させねば軍容を維持する事すら困難な数である。</p><p> バラザフは三万の兵を率いてバーレーン要塞攻略戦に参加し、サリド・マンスールの部隊と合流した。サリド・マンスールはアミル・アブダーラの腹心であり盟友でもある人物である。この部隊には、ザラン・ベイ、アアジム・ダルウィーシュが所属し、サリドが部隊長を務める。</p><p> 兵力的のは申し分の戦いだが、メフメトを相手にするのにバラザフが懸念している事が一つだけある。</p><p>「あのシーフジンにはどう対処すべきか」</p><p> カウシーン・メフメトが世を去ると同時に、モハメド・シーフジンの話も衆口に乗らなくなっている。カウシーンのようにシーフジンを巧みに統率する者が居なくなったからであろうが、メフメト家が滅亡の淵に立たされているこの戦いで、シーフジンが傍観を決め込むとは考えにくい。</p><p>「今のシーフジンはバーレーンの防衛の任務を果たすのがやっとで、アルカルジにまで手出しするに至らなかったようです」</p><p>「なんだ、そうだったのか」</p><p> シルバアサシンにシーフジンについて調べさせ、ひとまず安心を得たバラザフである。</p><p> ファリド・レイスも今回の戦いに参戦し、包囲網に加わっている。ファリドは一計を思いつきサーミザフを一度自分の指揮下から外してバラザフの部隊に所属させた。</p><p> マンスール隊はメフメト軍バーレーン要塞の近くの砦を包囲している。バラザフはマンスールにハサーの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の攻略を進言し、自身と息子のサーミザフをその攻略担当に自薦した。</p><p>「ひとつくらい敵の<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を取っておかねば、<ruby><rb>大宰相</rb><rp></rp><rt>サドラザム</rt><rp></rp></ruby>
から怠慢の烙印を押されてしまいますゆえ」</p><p> そう言ってハサーに向かうバラザフだが、武功を立てねばならぬというような焦りは全くない。</p><p>「サーミザフ。昔アジャリア様や我が父エルザフがここに篭城したメフメト軍の太守ラエド・アレウィを攻めた。名将アレウィ相手に三日で<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を落とした。だがな、俺はここを一日で取るぞ」</p><p> 名将ラエド・アレウィは今はもう居ない。</p><p> バラザフは、シルバアサシン団のフート、ケルシュの二本柱を呼んだ。</p><p>「中の敵は二百万の兵力を恐れて縮みあがっている。その恐れを我等の力にせよ。城内で火を放ち、夜間に虚言を撒き散らして自滅を誘え。太守と話をつける時間がない。計略だけでやるぞ」</p><p> バラザフの言葉が終わると同時にシルバアサシンは、四方八方に散開した。</p><p> バラザフ等本隊は、<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を包囲して城内に攻め込める姿勢で機会を待っている。</p><p>「<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
隊はいつでも火を噴けるようにしておけよ。城内に炎が見えたら、それに機を合わせて射撃するのだ。千人ずつに三分して、射撃の手を絶やすなよ」</p><p> ここまで部下はバラザフの指示通りに動いている。それは城内での経過も順調だという事でもある。</p><p> 砂漠では雨は長続きするものではない。とはいえ、</p><p>「こういう時に限って雨に狙われるものだからな」</p><p> 雨量が少しずつ増えてくる時期である事から、バラザフは急な降雨で<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
の放火が阻まれはしまいかと気にしていた。若い時から彼は戦場で雲の流れが自然と気にかかる。バラザフが戦いで雨に計画を阻まれた事はなかったが、雨を気にする癖はそのままで今に至っている。悪いことではない。</p><p> そろそろ中でケルシュが率いるアサシン団が活躍し始める頃だ。城内は騒然となり、時を置かずしてあちこちで炎が夜空を紅く照らし始めた。</p><p>「頃合だ。<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
発射!」</p><p> 城壁を越えて<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
の炎が夜空をより明るく見せた。それで十分であった。</p><p> 最後の放火が行われた時には、城内の混乱は最高潮に達していた。バラザフは手元に残っていたアサシンを稼動させて、城壁を昇らせた。城内のアサシンと歩兵が連携して内側から正面を開門する。</p><p> 次に赤い水牛、アッサールアハマルの出番である。前回のレイス軍との戦いで出番を得た赤い武具の部隊は、その後もシルバ軍で常設される事となったが、前回と異なるのは馬ではなく水牛に騎乗している点である。これにはレイス軍の方ではなく、自分の方が本元のアッサールアハマルなのだと、世間に認識させるバラザフの狙いがあった。</p><p> そういった大義名分の自他の意識が、戦場で勝敗を分ける事が多々ある。短期で水牛を飼いならす苦労はあったが、将兵の士気の高揚には見合う苦労だとバラザフは考えている。</p><p> 突入したアッサールアハマルが雄雄しく雄叫びを上げる。バラザフ自身も突入部隊に参加した。こういう時に本陣で座って待っては居られない人である。</p><p> 城内の兵士は抗戦してくる者は皆無だった。バラザフは、この<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
に自分の権限でサーミザフを太守として置き、自身は早々と引き上げ明朝にはマンスール隊に復命していた。</p><p> サリドは一晩で<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を一つ陥落させて来て、平然と明朝の軍議の席に座っているバラザフを、幻影であるかのようにしげしげと見ていた。</p><p>「隊長殿、この<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
も手早く片付けて<ruby><rb>大宰相</rb><rp></rp><rt>サドラザム</rt><rp></rp></ruby>
殿へのよき土産にしたいものですな」</p><p> サリドの不思議そうな顔に比してバラザフは飄々たるものである。</p><p>「噂以上の戦巧者だ。噂といえばシルバ殿は風変わりな配下を持っているとか」</p><p> サリドが指すのはシルバアサシンとも、昨夜の水牛のアッサールアハマルとも取れるが、バラザフはそれには微笑で返したのみであった。</p><p> 今、バラザフを含むサリド・マンスールの部隊が包囲しているのは、バーレーン要塞の支城ともいうべき<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
で、昨夜バラザフが落とした場所よりは若干規模が大きい。またここの守将はマフーズ・ハザニという武官で、メフメト軍の古豪として有名である。</p><p>「今、我等はバーレーン要塞を落とす事を目的として、この<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を包囲しております。さらにその前段階として周囲の砦を確実に攻め取ってはいかがか」</p><p> バラザフの献策にサリドもザランも同意した。</p><p>「では、折角ここに錚錚たる顔ぶれが集まっているのだから、諸将が一件ずつ担当して周囲の砦を落とすのはどうかな」</p><p> アアジム・ダルウィーシュが締めにこう案を出して軍議は決まった。</p><p> こうして各将は四、五の砦、<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を落としていったが、急がずに二週間時間をかけ、バラザフもそれに歩調を合わせた。いよいよ、孤立したマフーズ・ハザニだったが、三日は抗戦を維持したものの、最終的には降伏するしか手段は無く、マンスール部隊の管轄の戦いはこれで終わった。</p><p> 周囲の戦力が全て剥ぎ取られて、難攻不落のバーレーン要塞も落ち、メフメト軍は降伏した。さらに海峡を渡った先のバンダルアバス方面もアブダーラ軍の威令の下に置いて、アミル・アブダーラが、ついにカラビヤート全土を手中に収めたのであった。</p><p> メフメト軍が支配していたバーレーン要塞や、オマーン地方はファリド・レイスの支配下に置かれたが、その替わりファリドはナーシリーヤ、バスラ、クウェートなど、馴染み深い本拠地をアミルに取り上げられてしまった。</p><p> 本当にしぶしぶファリドは、新たな領土であるオマーン地方のマスカットを本拠として領地運営を開始した。</p><p> ハウタットバニタミムに関してはアミルからシルバ家に返還するようにとの命令が出た。</p><p> これにファリドは巧みに対応した。ハウタットバニタミムはシルバ家の返還する。だが、その相手はバラザフではなく長男のサーミザフにするというのである。サーミザフは現在はレイス軍の武官となっているため、ハウタットバニタミムがシルバ領になっても、実質的にはレイス軍の領土とも言えてしまう。</p><p>「ふざけるなよ」</p><p> バラザフにはこれは受け入れがたかったが、結局自分の死後シルバ家はサーミザフが当主となるのだからと、承服した。</p><p>「相変わらず苔の生えたような奴だ」</p><p> 外交上は調和を保ちつつも、バラザフの心中ではファリドとの間の溝がますます深まっていった。</p><p> 同年、酷暑が去りゆき逆に寒さが目立つようになってきた頃、アミルから客としてベイルートに招くという使者がやってきたので、バラザフはそれに応じた。</p><p> ――世間の噂通り本当に鼻の大きい奴だ。</p><p> 応接間でアミルに対面したバラザフは、まずそう感じた。謁見の間でアミルが来るのを待っていたら、<ruby><rb>近侍</rb><rp></rp><rt>ハーディル</rt><rp></rp></ruby>
にこちらに通されたのであった。</p><p>「バラザフ・シルバ殿、よく参られた。日頃から未来を視る眼が欲しいと願っているとか。それが自分の<ruby><rb>志</rb><rp></rp><rt>アマル</rt><rp></rp></ruby>
なのだと」</p><p>「はあ……」</p><p> 自分からこの話題を出すことは確かにある。だが、相手の方から、しかも初対面の相手から切り出されて、いきなり調子を狂わされるバラザフである。</p><p>「初対面の相手にこんな事を言われて驚かせてしまったようだな。済まん済まん。東のアルヒンドから取り寄せた<ruby><rb>茶</rb><rp></rp><rt>シャイ</rt><rp></rp></ruby>
だ。これでも飲んで気を休めてくれ。皆、俺が淹れた<ruby><rb>茶</rb><rp></rp><rt>シャイ</rt><rp></rp></ruby>
は美味いと言ってくれるのだ」</p><p> すでに良い具合に熱せられた茶器から茶を注いで、アミルは<ruby><rb>茶</rb><rp></rp><rt>シャイ</rt><rp></rp></ruby>
を差し出した。</p><p>「それでは頂きます」</p><p> ゆっくりと熱い<ruby><rb>茶</rb><rp></rp><rt>シャイ</rt><rp></rp></ruby>
を口に含むバラザフ。</p><p>「いい味であろう」</p><p>「はい。心が休まっていきますな」</p><p> こいつにはやけに味方が多いようだが、この茶のせいもあるのではないかとバラザフは思った。視線を落とした自分の顔が碗の中で波紋に揺れている。</p><p>「ところでバラザフ」</p><p>「はい」</p><p> アミルはバラザフに少し膝を寄せてきた。</p><p>「お前の未来を視る眼とは、これであろう」</p><p> そう言って敷物の下から引き出してきたのは、バラザフがいつも先行きを占っている<ruby><rb>札占術</rb><rp></rp><rt>タリーカ</rt><rp></rp></ruby>
の札である。</p><p>「これで俺の未来を見て欲しいというのではない。相談したいのはこれさ」</p><p> アミルが山の一番上から捲った札をバラザフに見せた。札は<ruby><rb>皇帝</rb><rp></rp><rt>インバラトゥール</rt><rp>)</rp></ruby>
である。</p><p> 熱い<ruby><rb>茶</rb><rp></rp><rt>シャイ</rt><rp></rp></ruby>
を飲んだばかりだというのに、バラザフの額からは冷や汗がゆっくりと流れ落ちる。アミルがこの札に喩えてファリド・レイスの事を言っているのであろう。それはつまりアミルの耳目はバラザフの所にまで届いているという事になる。しかも随分昔からだ。</p><p>「どうしてそれを」</p><p>「配下に目端の利く爺がいてな。そいつがどういうわけか俺の事を気に入ってくれてな。あちこち飛び回ってくれている。まあそれはいいだろう」</p><p> アミルは黙してバラザフのファリドの評を促すように目を覗き込んでいる。</p><p>「これは<ruby><rb>大宰相</rb><rp></rp><rt>サドラザム</rt><rp></rp></ruby>
殿はすでにご存知の事かもしれませんが、昔、アジャリア公がご存命の頃にも同じ事を聞かれました」</p><p>「ふむ、それで」</p><p>「ここだけの話にしていただきたいのですが、その時私はファリド殿を若さに苔の生えたような男と、率直に自分の感想をアジャリア様に申し上げたのです」</p><p>「それは面白いな!」</p><p> 楽しめる物が大好きなアミルは、この喩えに哄笑した。</p><p>「ですが、今のファリド殿は若者というには、いささか貫禄が過ぎるようで、その評価はいかがなものかと」</p><p>「それでは今のファリドは一体何なのだ」</p><p>「古苔で充たされた洞窟かと」</p><p>「苔だらけになってしまったではないか」</p><p>「はい。ハウタットバニタミムを愚息のサーミザフの預かりにすると言い出したとき、昔のファリド・レイスではないと思いました。老獪といいますか世知に長けてきたといいますか、若い頃よりアジャリア様に叩きのめされて強くなったいったように思えます」</p><p>「なるほどな……」</p><p> バラザフの話を聞き終えたアミルは、頭の中でゆっくりと記憶を探り、それが今の話と繋がったかのように、納得している風だ。</p><p>「さすがはアルハイラト・ジャンビア。あのアジャリア・アジャールの片腕といわれただけの事はある。お前のような切れ者を敵には回したくないものだな。それに――」</p><p> アミルはゆっくり腰をあげ、</p><p>「今日は久々に楽しい話が出来た。俺の事もたくさん話して聞かせたいが、政務もあるし今日はこれまでだ。また必ず会おう」</p><p> そう言いながらバラザフに笑みを与え室を後にした。</p><p>「飄々として捉えどころがないが、何故か憎めない奴だ」</p><p> アミルの気のおけない雰囲気に、バラザフはいつの間にか、存念を全て話してしまったという感じだが、後にはすっきりとした気持ちが心中に残って、ほんの少し残っていた<ruby><rb>茶</rb><rp></rp><rt>シャイ</rt><rp></rp></ruby>
を飲み干した。</p><div><br /></div><div><div>※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。</div><div><br /></div><div>次へ進む</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2023/01/A-Jambiya10-3.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2023/01/A-Jambiya10-3.html</a></div><div><br /></div><div>【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html</a></div><div><br /></div><div>前に戻る</div><div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2023/01/A-Jambiya10-1.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2023/01/A-Jambiya10-1.html</a></div></div><div><br /></div><div>『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html</a></div></div><div><br /></div>Blog authorhttp://www.blogger.com/profile/05104770986712427544noreply@blogger.com0892 3618, Karbabad, バーレーン26.2330953 50.5198657-2.0771385361788468 15.363615699999997 54.543329136178841 85.6761157tag:blogger.com,1999:blog-4314757388830094658.post-85111168400237243692023-01-05T05:55:00.040+09:002023-02-05T13:20:27.918+09:00『アルハイラト・ジャンビア』第10章_1<p> バラザフが名声を得たりといえども、相変わらずアミル・アブダーラが続いている。</p><p> <ruby><rb>大宰相</rb><rp></rp><rt>サドラザム</rt><rp></rp></ruby>
になり、一気に中央の政治の権益を自分に集めようとしているアミルの所に庇護を求める諸侯が増え、中央の威令に服す<ruby><rb>士族</rb><rp></rp><rt>アスケリ</rt><rp></rp></ruby>
の数も日増しに増えている。</p><p> だがそのアミルでも一筋縄でいかない者等がいる。ナーシリーヤのレイス家、ドーハ、バーレーン、オマーンに威を張るメフメト家がそれであった。</p><p>「一つでも手を焼いているのに、あいつ等は同盟しているからな。ナーシリーヤからオマーンまでは光の届かぬ黒き大地だよ。それと比べて、レイス、メフメトの大軍に一歩も退かず逆に撃退したバラザフ・シルバは、今後も気にかけてやりたいものだ」</p><p> 本人の居ない所でアミルはバラザフに賀詞を連ねた。バラザフの方でもアミルへの臣従を嫌がらず、ベイ家にも頼んでムザフをアミルの所に派遣武官として置いてもらえるようにした。</p><p> アミル・アブダーラという中央政権の庇護を得るようになり、バラザフの日々の暮らしの中に剣戟の音が聞こえなくなって、しばらく経った。</p><p> ところがその穏和な生活を再び乱す事が起こった。カーラム暦1008年、ついにファリド・レイスが中央政権に威服した。つまりファリド・レイスがアミル・アブダーラの下についたという事で、カラビヤート全体を趨勢を鑑みれば平和への筋道となるのだが、これがシルバ家を大いに揺さぶる事になる。</p><p> ファリドはアミルと距離を縮めたのをいい事に、今まで自分に辛酸をなめさせてきたバラザフの評価を、ここぞとばかりに貶める態度に出た。亡きアジャリアに手痛い目に遭わされ続けた恨みもある。さらには、シルバ家を罵って、同盟相手であるメフメト家の評価を相対的に上げようという狙いもあった。</p><p>「このカラビヤートにバラザフ・シルバ程の食わせ物はおりません。バラザフは一度メフメト家に従ったかと思えば、裏切ってベイ家とも結託していた。さらに奴の悪事を紐解けば、ハイレディン・フサイン殿に臣従した際も、ハイレディン様がヘブロンで死んだ途端、私ファリド・レイスを裏切った。ハイルの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を改修する際にも我がレイス家は大いにシルバ家を支援したのです。差し伸べた我が手を咬む如く、ハウタットバニタミムの所有の件で裏切った」</p><p> 本音でバラザフを恨んでいるので、ファリドの弁舌は熱を帯びつつ滑らかに回る。</p><p>「そして、またベイ家と結んだかと思えば、今度はアミル様の下に付くという。これを食わせ物と呼ばぬならこの世に食わせ物など一人もおりますまい。バラザフ・シルバは自分が生き残るために他人の肉でも食うのですぞ」</p><p> これだけの弁を生み出す如くファリドの頭に血が巡っていれば、かつてアジャリアに叩きのめされる事も無かったはずである。</p><p>「アルハイラト・ジャンビア。確かにそう世間に賞賛されるだけに頭はあります。ですが、知恵が人の全てではない。バラザフは知恵の使い方がいかにもまずく、いつ庇護者を裏切るとも知れず油断なりません。今、その気苦労をアミル様が抱えておられるかと思うと、このファリド・レイス、アミル様が不憫でなりなせん」</p><p> アミル・アブダーラは<ruby><rb>平民</rb><rp></rp><rt>レアラー</rt><rp></rp></ruby>
の、しかもかなりの貧しさから<ruby><rb>大宰相</rb><rp></rp><rt>サドラザム</rt><rp></rp></ruby>
にまで身を起こした男である。その出世の過程の早い段階で、他人の気色を窺うという特技を身に着けていた。よって、これらのファリドの訴えも、恨みつらみが目いっぱい盛られていると冷静に見ながらも、脳内の半分では、</p><p> ――ファリドのバラザフ・シルバ評も全く聞き流す事は出来ぬ。</p><p> とバラザフへの警戒心も同時に持っていた。</p><p>「レイス殿の言い分はよくわかった。貴殿はこのアミルに何を求める」</p><p>「アミル様に何かを要求するなど僭越ではあります。ですがハウタットバニタミムをメフメト家に返還するように、シルバ家に命じるのが政道に適う事かと。いわばシルバ家はハウタットバニタミムの所有権を自分で喧伝しているだけなのです。政道の道理が示されればメフメト家も自ずと威令に服す事でしょう」</p><p> ファリドとの会見が終わったアミルは、まずザラン・ベイとの路線を固めた。</p><p>「バラザフ・シルバの動向に注意されたし。顔に二面あり」</p><p> とバラザフへ気を許しすぎるなと、アミルは手紙でザランに釘をさしておいた。</p><p> そしてもう一通差出人不明で、</p><p>「レイス軍とシルバ軍との戦争にて、バラザフ・シルバに肩入れせぬよう」</p><p> と書かれた手紙がザランのもとに届いた。無論、アミルの手紙と一緒にである。</p><p> ファリドの話と、他から伝聞するバラザフの知謀をアミルは評価したが、その高評はバラザフの能力への警戒心へと作り変えられていった。</p><p> また大勢としてはシルバ軍は少しも恐ろしい相手ではない。レイス軍が自分の所についたこの状況では、バラザフ・シルバとは個人の能力さえ注意しておけばよく、ファリドの気色を損なわないように懐柔する方が今は大事といえた。</p><p> バラザフを心の中で少し距離を置く一方で、息子のムザフのひととなりをアミルは愛した。ファリド・レイスとの折衝からシルバ家の扱いに影響が出るが、アミルはムザフを気遣ってそのような事情は一切告げなかった。</p><p>「ムザフは、賢くてその上、実直だな。ハーシム・エルエトレビーとは、着物の表地と裏地のようだ」</p><p> ムザフの存在を自身の懐刀であるハーシム・エルエトレビーと対にするような形で評価した。</p><p> ハーシムは知謀に切れ味はあるものの人当たりはよくない。一方ムザフは穏和で人を生かす知謀を持つ。アミルはこの二者の才知の在り方どちらも好んで傍に置いた。</p><p> ――アミル様は父上によく似ている。</p><p> ムザフはアミルに仕官して、そのように見えてきた。無論、面貌ではなく、人格は能力的な面である。</p><p> 二人とも困難に直面した際には、それを前向きにとらえ闇を光に換えていこうとする。結果、憂慮していて点が逆に長所、実績となって残る。また、対人的にも賞罰両刀を使い分け人との垣根を取り払い距離を縮める。</p><p> 二人には異なる点もある、とムザフは思う。</p><p> アミルには、<ruby><rb>平民</rb><rp></rp><rt>レアラー</rt><rp></rp></ruby>
として育った経験からか、羞恥心はあまり無く、生き抜くために恥をかく事を嫌がらない。バラザフの方は、上からどんな重石を乗せられようとも持ち上げてやるぞ、という心魂の剛直さがあった。</p><p> ここまでのレイス軍とシルバ軍の角の突合せを見ていて、アミルが取った処方は、シルバ軍をレイス軍の下につけるというものである。このまま放っておけばファリドが再びバラザフの所に攻め入るのは時間の問題だろうから、平定しかかっているカラビヤートがまた加熱する事というアブダーラ家にとって好ましくない状況になる。</p><p> よって、この処方は全体の熱を冷ますと同時に、他家の軍制に介入してアブダーラ家の威令によってレイス軍、シルバ軍を組成するという形を取りたかったためでもある。</p><p>「アミルめ、シルバ家をレイス家の格下に置きやがった」</p><p> バラザフは、勢力関係を計算してシルバ家の処遇を決めたアミルを憎んだ。他家の勢力争いに乗じて裾野を拡大していく点では自分もアミルと同じ見方をしているのだが、自分は圧迫される勢力なのだから、したたかでいて良いのだとバラザフは思っている。</p><p>「それだけではないぞ。現在のシルバ領のうちハウタットバニタミムの周辺地域をメフメト軍に献上せよと言う。その我等への補填をレイス軍に一任し、アルカルジ、リヤドのみ所領据え置きにして良いと言ってきている」</p><p> まとめるとシルバ家はアミルの命令によってレイス家の下に付かされたばかりか、所領までもメフメト家に取られたという事になる。</p><p> そしてファリドがアミルの命令に従ってシルバ家に与えたのがナーシリーヤの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の傍のガラフという場所である。ナーシリーヤの近くにあるので拠点として価値は低くはない。</p><p> だが、シルバ家がここを実効支配するのはほぼ不可能に近い話である。本拠地となるアルカルジ、リヤドからはあまりに遠く、他家の支配地をいくつも通りながら行き来せねばならない。またナーシリーヤの傍である事は常にレイス家に見張られている事にもなるので、ファリドが変な気をおこせばいつでも奪取されてしまうのだ。</p><p> シルバ家がここから得られるのは実質、僅かな租税だけで、それも輸送のための人員の賄いに配ってしまえば、ほとんど残らない。</p><p>「アミルの命令で痛手は受けたが、メフメト家の主張も通らなかった。アルカルジを全部寄越せといっていた所をハウタットバニタミムを所領するだけに止められた。アルカルジ、リヤドを我等が押さえているから、カイロやメッカの往来で得られる利はシルバ軍だけのものだ」</p><p> 現実に光をあてて見なければやっていられない。重臣たちに話すバラザフの言葉には、素直に負けを認めたくない色が滲み出ている。</p><p>「これだけで終わりにはしないぞ、あのメフメトはな。また悪巧みを仕組んでくるに決まっている。防衛により一層留意せよ」</p><p> 取られた部分は今は諦める他ないが、ハウタットバニタミムの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
でも周辺にはまだシルバ軍が実効支配出来る砦も残っている。そうした拠点を今までハウタットを任せていたイフラマ・アルマライの預かりにして、諸将を従来の配置どおりにして、バラザフはメフメト軍への警戒を説いた。</p><p> しばらくして、バラザフは自分の方から暗躍を始めた。弟のレブザフの縁故から長男のサーミザフをファリド・レイスの所へ送り込んだ。</p><p>「アミル様の指示によるとはいえ、レイス軍の従属となったからには、保証として誰かをレイス軍へ預けた方が関係が悪化せずに済むと思われます。待遇はこのレブザフが良きように計らっておきます」</p><p> このように書かれた手紙がレブザフから送られてきたのがきっかけである。</p><p> バラザフはアブダーラ家から呼び戻して、今回も次男のムザフに赴任させようと思っていたが、サーミザフが自らこの任を買って出たのである。</p><p> サーミザフという若者は生真面目な性格であると同時に、弟想い、家族想いである。レブザフは自分が待遇を保証するとは言ってはいるが、これまでのシルバ家とレイス家のややこしい関係を考えると、今アミル・アブダーラの寵愛を受けているムザフが、それ以上に良く扱われる事は考えにくい。</p><p> また、対等ではないにしても、今やカラビヤート最強となっている<ruby><rb>大宰相</rb><rp></rp><rt>サドラザム</rt><rp></rp></ruby>
のアブダーラ家との繋がりを自ら断ってしまうのは惜しい。またその道筋をつけてくれたベイ家の顔にも泥を塗る事にもなってしまう。生真面目な彼の性格がそれを良しとしなかった。</p><p>「俺はお前を他所に出すのは反対だぞ」</p><p> サーミザフの意向を聞いて、バラザフはすぐに反対した。バラザフの中では、長男のサーミザフを次期シルバ家当主にしようという考えがあったからである。</p><p>「ムザフはアミル・アブダーラ様の<ruby><rb>近侍</rb><rp></rp><rt>ハーディル</rt><rp></rp></ruby>
として可愛がられているとか。実力者に<ruby><rb>近侍</rb><rp></rp><rt>ハーディル</rt><rp></rp></ruby>
として仕える者がその後の出世において道が開けているのは父上が一番ご存知のはず。ファリド・レイス様は派手さは無いものの地道な方であり、ハイレディンに臣従するかのようにじっと堪忍してつきあった性格は、今後付き合っていくのに信用に値するでしょう。シルバ家の今後の事を考えた場合も、私がレイス軍に、弟がアブダーラ軍に仕官しておく事は有益です」</p><p> 若造だと思っていたがいつの間にか言うようになったとバラザフは思った。それだけサーミザフの話は的を射ていて、聞くべき理があった。</p><p> ――レブザフの奴もファリドについて同じような事を言っていたな。</p><p> レイス家に赴く前の妙に溌剌としたレブザフの姿がバラザフの脳裏に映った。</p><p>「お前の言う事ももっともだ。お前がレイス家に行くのならば、そこでシルバ家の陣地を拡げてこい」</p><p> この人らしいしたたかさである。</p><p> ――レブザフのようにサーミザフの方が俺よりファリドと気が合うかもしれない。</p><p> レブザフと似たサーミザフの言葉の先に、ファリドとの関係が少し見えた。</p><p> ファリド・レイスは今では元サバーハ家の領土であるクウェートを本拠地としている。クウェートに赴くサーミザフには、バラザフも一緒に付いた。</p><p> 会見の席でファリドはバラザフに対してはにこりともしなかったが、サーミザフには笑顔を絶やさなかった。</p><p> ――サーミザフが上手くファリドと付き合っていけそうで、俺も少しだけ心配事が減った。</p><p> ファリドの自分へのとげとげしさは気にもしていない。</p><p> 会見はそのままサーミザフ歓迎の宴席となった。その席でバラザフは、ファリドにひとつだけ尋ねた。</p><p>「レイス殿に<ruby><rb>志</rb><rp></rp><rt>アマル</rt><rp></rp></ruby>
というものがあればお聞かせ願いたい」</p><p> 名目上彼の下に置かれても、レイス様と呼ばないバラザフの剛腹さである。</p><p> 答えるファリドにもバラザフへの無愛想には、ぶれが無い。</p><p>「<ruby><rb>志</rb><rp></rp><rt>アマル</rt><rp></rp></ruby>
という言葉すら浮かんだ事が無い。そんな物を許してくれる程、俺の現実は甘くは無かった」</p><p> ここまでは想定どおりだったが、バラザフはもう一歩踏み込んでみた。</p><p>「私は未来を視る眼が欲しいと思いつづけておりました。<ruby><rb>童子</rb><rp></rp><rt>トフラ</rt><rp></rp></ruby>
の頃よりずっとです。今でも欲しております」</p><p>「それは<ruby><rb>志</rb><rp></rp><rt>アマル</rt><rp></rp></ruby>
であって貴公にとっては幸せな事だろう。そんな物は現実には在り得ないからだ。<ruby><rb>志</rb><rp></rp><rt>アマル</rt><rp></rp></ruby>
として心の中に大事に大事にしまっておかれるがよい」</p><p> バラザフは、そこまでで言葉を発するのをやめた。この人物には未来は見えないという蔑みもあったし、怒りが湧いてこなかったのは、ファリドがサーミザフを大事にしてくれるだろうと、少しだけ好感を持てたからだろう。サーミザフに対して心配事が無くなった。今はそれだけである。</p><p> 心配事という物は一つ減れば、またすぐに新しい心配事が生じるものである。</p><p> カーラム暦1011年秋、メフメト軍のハウタットバニタミムの太守が、近くのシルバ領の砦を陥落させ、シルバ側の守将もこの戦いで戦死した。</p><p>「メフメトのやつめ許せん。俺の政治に服さぬ乱暴に出るならば、メフメト軍を滅亡まで追い込んでやらねばならない」</p><p> バラザフ以上にアミルは頭にきていた。折角、メフメトの顔も立てて<ruby><rb>大宰相</rb><rp></rp><rt>サドラザム</rt><rp></rp></ruby>
として裁判の労を執ってやったのに、それに不承知であると言う様な今回の挙兵である。裁定に不承知であるならば、その時に申し立てねばならない。それを後になって騙すような形でシルバ領に押し入って砦を落とすというのは、世の摂理を乱す許されざる事であった。</p><p> 一旦、事はここで霧散したものの、アミルの中ではメフメト家を威令に服さぬ不忠者という扱いになり、メフメト征討に大義を被せた。</p><div><div><br /></div><div>※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。</div><div><br /></div><div>次へ進む</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2022/12/A-Jambiya10-2.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2022/12/A-Jambiya10-2.html</a></div><div><br /></div><div>【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html</a></div><div><br /></div><div>前に戻る</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2022/12/blog-post.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2022/12/blog-post.html</a></div><div><br /></div><div>『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html</a></div></div><div><br /></div>Blog authorhttp://www.blogger.com/profile/05104770986712427544noreply@blogger.com0レバノン ベイルート33.8937913 35.50177675.5835574638211511 0.34552670000000063 62.204025136178842 70.6580267tag:blogger.com,1999:blog-4314757388830094658.post-64982778578951068342022-12-05T05:55:00.066+09:002023-01-05T06:24:40.947+09:00『アルハイラト・ジャンビア』第9章_5<p> カーラム暦1007年になると、早くもレイス軍とメフメト軍の同盟にひびが入り始めた。</p><p> メフメト軍の言い分は、ファリド・レイスが先の盟約に準じて領土分割を行っていないという旨である。</p><p>「シルバ。さっさとアルカルジをメフメト軍に明け渡せ」</p><p> ファリドの命令を持った使者がバラザフのもとを訪れた。</p><p>「あのポアチャ、やはり我等との約束を不履行にしたな」</p><p> バラザフの中には若い頃からファリドの人格を侮蔑する部分がある。自分より格下だと思っているから、自分より道義上優れているはずもなく、約束は守れない男だと認定していた。</p><p> 少なくともその認定は、この局面では当たっていたといえる。</p><p> 不都合な事とはいえ、自分の読みどおりになっている現実を直視しているバラザフの頭は、しっかり怜悧さを保っている。</p><p>「シルバ家はファリドの言いなりになる必要は全く無い」</p><p> と家中には言い放ち、ファリドからの使者には、</p><p>「レイス殿からの証文にはこう書いてあるぞ。アルカルジはシルバ領と認め、ハラド、リヤドもシルバ家の随意に、と。ほら、これだ」</p><p> こう言ってファリドからの証文を突きつけた。</p><p> また別の使者には、</p><p>「リヤドは元々レイス領ではなく、シルバ家が戦功によって獲得した領地なのだ」</p><p> と一切譲歩せぬぞという態度をとったりした。</p><p> ファリドの方では、先のシルバ家からの同盟申し入れ以降、バラザフは自分の臣下になったものだと思っていた。彼我の勢力差を鑑みればファリドがそう認識したのは当然である。</p><p> 幾度と無く命令違反を犯したバラザフに対して、持てる全ての怒気をぶつけた。</p><p>「こうなったら無理矢理にでもリヤドを取るぞ。バラザフ・シルバ、あの無礼者も殺しても構わんぞ!」</p><p> ここまでもバラザフの筋書き通りになっていた。</p><p>「どうせ兵力にまかせて押し寄せてくるに決まっている」</p><p> バラザフの話は敵の出方を説明する事から、それゆえハイルの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を大幅増築しておいたのだと、家臣たちの不安を取り除く方に流れていった。</p><p> 内を固めたらすぐに外である。</p><p> レイス軍との雲行きが怪しくなってくると、バラザフは矛先を向けてきていたザラン・ベイに擦り寄っていった。</p><p> ザランはナギーブ・ハルブに<ruby><rb>諮</rb><rt>はか</rt><rp></rp></ruby>
ってシルバ軍との同盟を認めた。</p><p>「アルカルジからシルバ軍が消滅すれば、アルカルジはメフメトのものに、リヤド辺りはレイスの切り取りになるはず。<ruby><rb>貪食</rb><rp></rp><rt>たんしょく</rt><rp></rp></ruby>
な彼らがそれで満足するはずもなく、必ずこちらに押し寄せてくるはず」</p><p> とナギーブ・ハルブは趨勢を読んだ上で、シルバ軍を味方につけて貸しを作り上手く活用しようと考えた。</p><p>「さらに我等ベイ家はアブダーラ家と同盟関係にあり、世の全体的な同盟関係に照らし合わせて見ても、レイス軍、メフメト軍を敵として扱っても問題ありません」</p><p> ザランはハルブの言葉に正当性を認めて、これに同意した。</p><p> この同盟に裏の無い事の証として、バラザフは次男のムザフをベイ家に差し出した。</p><p> ムザフ・シルバ以下二百名の主従がカイロへ発った。</p><p> 間も無くムザフと対面したザランの対応が、ハルブを驚かせる事になった。笑いを知らないと言われるザランがにこやかに談笑している。幼少から仕えるハルブも、ザランのこのような姿は一度も見た事が無かった。</p><p> ハルブを驚かせる事はまだあった。自分の勢力圏内にムザフに小領であるが領地を与えた。そしてレイス軍やメフメト軍との抗争が勃発したときにはベイ軍からシルバ軍へ十万の援軍を出す、と約束してしまった。</p><p>「有事においては少しでもシルバ領に近い場所がよいだろうな」</p><p> ザランは、しばらくムザフをカイロに逗留させた後、アラーの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
に任地として赴かせた。まるで大切な賓客を扱うようであった。</p><p> バラザフはベイ家のムザフに対する一連の対応に、感謝はしていたものの、さらに欲深さが顔を覗かせていた。</p><p>「ベイ家と昵懇にしておけば、ベイと今親密であるアミル・アブダーラにも近づく事が出来る。きっと俺の狙い通りになるぞ」</p><p> バラザフは近臣のイフラマ、メストしか周りに居ないときに、自分の本音を話した。二人は改めてバラザフの読みの先の長さに驚いた。</p><p>「全てはアジャリア様の知恵だ。あの方の知恵を応用すれば、万機に対応出来る」</p><p> アジャール家から独立してから自分が何か新しい存在へと進化しているという自覚がバラザフにある。</p><p>「レブザフ、レイス家とは今後長く関係は続かないだろう。お前は進退をどうする。俺はファリド・レイスは好きじゃないが、お前との相性はいいようだ。シルバ家とベイ家が再び同盟関係になった事をファリドに知らせるもよし。アルカルジからファリドのもとへ行くのもお前の自由なのだぞ」</p><p> バラザフは自分とファリドの両方を立てねばならない弟を気遣って言った。</p><p>「それでは私はレイス殿の所へ行くよ、兄上。万が一兄上が負けても私がレイス家に臣従していれば、シルバ家の滅亡だけは回避出来る」</p><p>「そうだな。レブザフ。シルバ家自体の存続を論じるとなると、俺とお前が別々に繁栄を図った方が得かもしれない」</p><p> 家の滅亡の危機を分散して回避する。このやり方は後になってバラザフの長男サーミザフと、バラザフ、次男ムザフをして、シルバ家を敢えて二分させる事になる。</p><p> バラザフはレイス家にレブザフを行かせた後、ハウタットバニタミムからメスト・シルバを呼んだ。そして、メストをフートのアサシン団に護衛させて、ベイルートに密使として送り出した。</p><p>「ザラン・ベイがアミルへの謁見を世話してくれる手筈になっている」</p><p> バラザフが謁見という言葉を使うほど、この時すでにアミル・アブダーラは中央の政治で頂点に立ちつつあった。</p><p>「アミル・アブダーラ様は、シルバ家がアブダーラ家を通して任官を求めるとは殊勝の限りである。今後はベイ家に直属し世の安寧に尽力するように。アブダーラ家からの援助は惜しまぬ、と笑みを絶やさずおっしゃいました」</p><p> メストが持ち帰ってきたアミルからの手紙にも、</p><p> ――援軍については心配あるべからず。</p><p> と記されてあった。</p><p> 暑さが盛りになる頃――。</p><p> アサシンの情報収集によって、バラザフのもとに、</p><p> ――ファリド・レイス、出陣の号令。</p><p> の情報が寄せられてきた。その後も諜報はレイス軍の動きを細かく掴んでは、報告をあげてくる。</p><p>「先鋒の武官はアルカフス、レイスなど。旧アジャール軍の将兵で編成された軍団です」</p><p>「レイス軍からはムフリスラーラミ・ボクオン、ジャハーン・ズバイディーが八万の兵を率いて出撃」</p><p> 状況は緊迫している。だがバラザフは無性に嬉しかった。決して血が流れる事を好むわけではなかったが、</p><p> ――戦いが無いと干上がってしまいそうでかなわん。</p><p> と、いつの間にか戦いの中でこそ生き生きとしていられる人格になってしまっていた。当然、このような状況では高揚し、自然と笑みも浮かぶ。</p><p> バラザフの脳は効率よく稼動している。それが心地よい。自身の手足も忙しなく働かせながら、家臣たちに次々に指示を与えてゆく。</p><p>「ハイルの防備を怠るなよ。アルマライ領はアスファトイフラム・アルマライの判断に任せる。サーミザフはこの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
で防衛せよ。リヤド、ハラドにあるシルバ領の砦にはそれぞれ百名ずつの部隊で守備に入れ」</p><p> アミル・アブダーラとやり取りしてから、月が一巡していた。</p><p> レイス軍は来た。ハイルの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
郊外に集まってそれぞれ陣を布き始めた。</p><p>「ハイルなど一気に潰してくれるぞ」</p><p> 若い頃、負け続きであったファリド・レイスがこんな自信に満ちた言葉を口にできるのには、一応、裏づけがある。ナジャフであのアミル・アブダーラと戦って勝てた事が自信に繋がった。よって、彼の気炎にも勢いがある。</p><p> だが、そんな事はバラザフは十分承知している。これを活用しようという腹である。</p><p>「自信、自負、驕慢、油断。そんな物はこのバラザフ・シルバが掌中で転がしてくれようぞ」</p><p> バラザフの言うとおり勢いのある時こそ油断が生まれ、それを衝いて寡兵が勝つのは戦術の定石である。多勢に無勢。まさに今回はその条件なのだ。さらに地理的条件も活かしたい。</p><p>「狭まった所に敵を引き寄せて、隠れていた兵に奇襲させる。これが今回の戦いの肝だから、一兵卒に至るまで下達を怠るなよ。そして、やけになって死なぬ覚悟を忘れるな」</p><p> とバラザフは無謀な戦いを戒めた。</p><p> 次男のムザフがこの戦いに駆けつけていた。レイス軍に包囲される前に、アラーの街からハイルまで帰ってきたのである。</p><p>「今は少しでも戦力が欲しいだろうとナギーブ・ハルブ殿が帰郷を許可してくれました。さらにザラン様が二万の兵を援軍にアラーへ手配してくれています」</p><p>「インシャラー。なんとも、ありがたい事だ」</p><p>「早速ですが父上、この戦いを私の初陣にさせていただきたい」</p><p>「今は経験を酌量している余裕もない。容易ならざる任務だがあえて出来るかとは問わぬぞ」</p><p> 夜明け。レイス軍ではボクオンなどの陣が動いた。</p><p>「とにかく押せ。一日で落とすのだ」</p><p> ボクオンは数で押し切る戦い方をするつもりである。勢いがあった。一息つくごとにアサシンがレイス軍の動向を報告してくる。</p><p> ムザフはバラザフから二千の精鋭部隊を任された。ムザフがバラザフより与えられた任務は敵の囮である。</p><p> 部隊の兵卒は皆赤色の武具を装備していた。しかも赤の鮮やかさにこだわって何度も重ね塗りをさせた具足だ。</p><p>「いいか、ムザフ。後退攻撃だ。戦いながら下がるのだ。小数の兵で敵を突いてはすぐ逃げる。これを繰り返して門まで敵を引っ張ってこい。そしてすぐに中に逃げ込め」</p><p> ムザフは赤い武具に身を包み、先頭にはの<ruby><rb>兜</rb><rp></rp><rt>カウザ</rt><rp></rp></ruby>
を掲げた従卒を行かせる。堂々と<ruby><rb>太鼓</rb><rp></rp><rt>タブル</rt><rp>)</rp></ruby>
を鳴らさせて門から一行は出てきた。出撃というより行進である。</p><div style="text-align: left;"><span style="color: #444444;"> <span face="Helvetica, "Hiragino Kaku Gothic Pro", "ヒラギノ角ゴ Pro W3", メイリオ, Meiryo, "MS Pゴシック", HirakakuProN-W3, sans-serif">片や出撃、</span><span face="Helvetica, Hiragino Kaku Gothic Pro, ヒラギノ角ゴ Pro W3, メイリオ, Meiryo, MS Pゴシック, HirakakuProN-W3, sans-serif">片</span><span face="Helvetica, "Hiragino Kaku Gothic Pro", "ヒラギノ角ゴ Pro W3", メイリオ, Meiryo, "MS Pゴシック", HirakakuProN-W3, sans-serif">や入場と進む方向は異なるも、バラザフのハウタットバニタミム入城の風景が、さながらに再現された。</span></span></div><p> ムザフ・シルバの初めての出撃だ。息子の晴れの舞台に思わずバラザフの頬も緩む。</p><p> 威風堂々と出てくるムザフの火炎の一団には、敵であるレイス軍からも歓声が上がった。</p><p> レイス軍の中にも昔日を知る者は多い。そうでなくとも赤い水牛、アッサールアハマルの強さは伝説にまでなって知れ渡っている。無論かつてのアッサールアハマルの構成員は、ほぼ全員ファリドの重臣であるイブン・サリムの管轄下にあり、ムザフの部隊は模倣である。だがたとえ模倣であっても、将兵の旧い戦いの記憶が赤いムザフの部隊をアッサールアハマルに見せるのだった。</p><p> 隊長格に目をやれば、赤に身を包んだ美麗な若者が熱くも爽快な気炎を放っている。</p><p> 敵味方問わず、戦場は盛り上がった。</p><p> 最初に仕掛けたのはムザフの方であった。ムザフの部隊から矢が射掛けられ、槍兵が突撃する。レイス軍でこれを受けるのはズバイディーの部隊である。</p><p>「<ruby><rb>童子</rb><rp></rp><rt>トフラ</rt><rp></rp></ruby>
、悪いが手柄を立てさせてもらうぞ!」</p><p>ズバイディーの大軍がムザフ一人に集中した。無論、ムザフはもう<ruby><rb>童子</rb><rp></rp><rt>トフラ</rt><rp></rp></ruby>
などという年齢ではない。戦功にぎらついている敵の下士官が若造を罵倒しただけである。</p><p> ムザフは敵兵を近くまで寄せて槍で薙いで数人を払い倒し、即座に後退した。そして、追ってくる敵をわざわざ待って数人を倒して敵をかき乱してから後ろに退く事を繰り返した。</p><p> ここまでムザフの部隊に犠牲は出ていない。負傷者は別の兵士に運ばせて必ず救った。</p><p> そろそろ背後に城門が見えてくる。</p><p>「よし、あと一回だ」</p><p> ムザフはまた追っ手を散らして、すばやく城門から中へ逃げ込んだ。</p><p> ムザフ隊の罠にズバイディー隊は見事に掛かってしまった。ズバイディー隊のうち戦闘の五千名ほどが、子供の喧嘩程度の戦いで、少しずつ後ろに下がるムザフを、</p><p> ――これならそのうち捕まえられる。</p><p> と錯覚して、シルバ側の城門の前まで追ってきてしまっていた。</p><p> 爆音が聞こえた、と認識したときには、ズバイディー隊の兵は火達磨になっていた。燃え上がる人体が地を転げまわる。シルバ兵による<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
の一斉掃射である。</p><p> この<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
による攻撃で、ズバイディー隊は瞬時に千名ほどの将兵を失った。</p><p> 再び門が開いた。</p><p> ムザフ隊の赤を纏う兵士が中から飛び出してきて、すでに壊滅状態にあるズバイディー隊の掃討にかかった。逃げる方向も見失っているズバイディー隊がムザフ隊の餌食になるのに長く時間は要しなかった。敵が戦力として機能していないが故に出来る戦い方である。</p><p> やるべき事だけ済ませて、ムザフ隊は速やかに城内に撤収した。</p><p> しかし、生き残ったズバイディーが城に目を遣ると、開門したままになっている。</p><p>「シルバの奴等、やはり我等の数に恐れをなして慌てて門を閉め忘れているぞ」</p><p> この好機で今しがたの雪辱を果たしてやろう、という気持ちがどうしても湧いてきてしまう。</p><p>「突入するぞ!」</p><p> ズバイディー隊の一人が声を上げると、すぐにその後を鯨波が追った。ハイルの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
に満ちる鼓舞、吶喊、罵倒。勢いよく突入したズバイディー隊を待っていたのはバラザフが仕組んだ罠である。水辺を改良した濠に、寓話の鼠のようにズバイディー兵は突入の勢いを殺せず、やってきた順に皆落ちていってしまう。</p><p>「<ruby><rb>砂漠緑地</rb><rp></rp><rt>ワッハ</rt><rp></rp></ruby>
に目をつけて手を加えておいて正解だったな」</p><p> そろそろ濠が落ちた兵卒でいっぱいになって、脱出を試みてよじ登ろうとする者が出始めている。</p><p>「俺からの餞別だ。釣りは要らんから受け取れ」</p><p> 今度は濠に落ちた兵卒の頭上から丸太、岩石、とにかく重量のある物がどんどん降ってくる。頭上から落下物によって反撃の気概をもって上を望んでいた者達も再び濠の水に落とされていく。こうなるとズバイディー隊は、ここから逃げ出す事しか考えられなくなってしまう。</p><p> バラザフは塔に高く松明を掲げた。これが合図になってサーミザフとアスファトイフラムは防衛していた砦を飛び出して、平地で待ち伏せにかかった。</p><p> そこをバラザフとムザフのシルバ本隊に追撃されたズバイディー隊が、息を切らせてやってくる。ズバイディー隊は待ち伏せのサーミザフ隊に奇襲され、そこに追いついたシルバ本隊も加わった。シルバ軍はズバイディー隊を包囲し、確実に殲滅していった。</p><p> そこに援軍の忠世・ボクオンがやってくるなり咄嗟に叫んだ。</p><p>「レイス軍の将兵は腰抜けばかりだ! こんな奴等に禄を出すなどファリド様がお可哀想だ!」</p><p> ボクオンが死の淵で恐れおののいて物も言えぬ味方を罵倒した如く、レイス軍の兵士にはもはや戦う気概は消え失せてしまっていた。</p><p> 危機から逃れようとするレイス軍の醜態はそれだけにとどまらず、シルバ軍の罠ではない天然の水辺に落ちて溺れて、流されてしまう者まであった。</p><p> レイス軍は、攻めてきてわずか一日で三万もの兵力を失い、負傷者は五万とも十万とも見積もられた。</p><p> ひとまずはバラザフの戦術によってシルバ軍は勝てた。</p><p> だが、今のレイス軍はかつてアジャリアに完膚無きまでやられて黙っていたレイス軍ではない。レイス軍は軍議を開いて、ハイルの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の防備を無力化するよう方針転換した。</p><p> 周りの砦を一つ一つ潰していく。砦の次は濠の水抜きを謀る。少しずつハイルの防御力を剥ぎ取っていこうというわけである。</p><p>「レイス軍はハイルの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の周辺から落としに掛かる様子」</p><p> 折角立てレイス軍の作戦もアサシンによって、バラザフの所にすぐに漏れてきてしまう。</p><p>「それでは、さっそく砦を固めさせてもらうか」</p><p> 周辺の砦にバラザフの指示を受けた部隊が向かう。その後の援護部隊としてサーミザフに一万の兵を預けて向かわせた。</p><p>「ムザフはアッサールアハマルの率いて水路に沿って進み敵の背後に回れ。いきなり敵の背後に出現したように見せかけるのだぞ」</p><p>「父上は」</p><p>「俺はベイ軍の援軍をここで待ってから、戦機が熟した頃合で一気に打って出るぞ」</p><p> 諜報が新たな情報をあげてきた。</p><p>「イブン・サリムの部隊五万が援軍としてレイス本軍に合流!」</p><p> この情報を受けてもバラザフは、あらかじめ計算に入ったいたように落ち着いていた。</p><p>「奴等の驚く顔がここから見れなくて残念だ。ムザフのアッサールアハマルを見たときの奴等の顔をな」</p><p> バラザフの方ではイブン・サリムが自分の部隊をアッサールアハマルの伝統の赤を継いで戦っている事をわかっていた。だが、アッサールアハマルの兵卒等を編入しても、自分ほどその威力を使いこなせまいと、バラザフはレイス軍の赤い部隊を下に見ていた。</p><p>「俺も<ruby><rb>兜</rb><rp></rp><rt>カウザ</rt><rp></rp></ruby>
を被る時がきたな」</p><p> バラザフは大軍に膨れ上がったレイス軍と対等にやり合うには、シルバ本隊が出陣するしかないと、アジャリアから下賜されたあの<ruby><rb>孔雀石</rb><rp></rp><rt>マラキート</rt><rp></rp></ruby>
の<ruby><rb>象嵌</rb><rp></rp><rt>ぞうがん</rt><rp></rp></ruby>
が施された<ruby><rb>兜</rb><rp></rp><rt>カウザ</rt><rp></rp></ruby>
を手元に寄せた。</p><p> 折角ムザフがアッサールアハマルで上げた士気である。これを活用しない手は無い。バラザフはハウタットバニタミムの行進を再現した。</p><p> 旧事を知るメスト・シルバなどの重臣達は脳裏にあるバラザフの勇姿が、目の前でそのまま蘇って感涙すらしていた。</p><p>「あれこそ我等のアルハイラト・ジャンビアのお姿だ!」</p><p> 自身の出陣を堂々と演出したバラザフは、一万の兵を引き連れて進んだ。<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
兵も三千連れてきている。</p><p> バラザフの背中をアサシンのケルシュとフートが護っている。軽快に動き回れるアサシン軍団も一緒だ。そしてこのアサシン軍団でレイス軍の後尾を掻き乱してやるつもりである。</p><p> レイス軍は、バラザフ自身が出撃したのを見て、この戦いで勝負に出てくると感じた。</p><p>「野戦なら数でまさるこちらが有利。戦力差を思い知らせるこの上ない機会だ」</p><p> レイス軍の兵力は十二万。これを半分に割って片方を周辺砦の攻略に、片方でバラザフのシルバ本軍を押し潰すと、レイス軍の首脳陣は方針を決めた。</p><p> ところが、レイス軍の士気は上がらない。緒戦で手痛い目にあわされた事から、またシルバ軍が何か仕掛けてくるのではないかという警戒心が戦意の高揚を鈍らせていた。経験から学習出来る者なら当然の反応であった。</p><p> それでも行けと命じられれば将兵は行くしかない。小規模な戦闘が発生したが、その間にも、</p><p> ――レイス軍が後方から挟撃を受けている。</p><p> ――シルバの<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
で味方が次々とやられた。</p><p> ――今夜あたり夜襲があるぞ。</p><p> などと流言飛語が飛び交うので、レイス軍は夜間ですらろくな眠りも得られず、病む者が続出した。もちろん、シルバのアサシンが偽情報を噂で流したのである。</p><p> 現状を重く見たイブン・サリムが味方を鼓舞するも、その声は一兵卒にまでは及ばない。上手く攻められないレイス軍の鈍い出方によって戦況の進展は滞りつつあった。</p><p>「これは長引きそうだ」</p><p> バラザフは長期戦を覚悟して<ruby><rb>兜</rb><rp></rp><rt>カウザ</rt><rp></rp></ruby>
を深く被った。</p><p> ところが、それから時を置かずして、レイス軍は急に退却していった。エルサレム、ベイルート、クウェート、バグダードに潜伏させておいたアサシンが一斉に同じ情報を持ってきた事によって、事の原因がわかった。</p><p>「アミル・アブダーラがレイス家の重臣、サーズマカ・ゴウデを一族ごと引き抜いたそうです」</p><p> バラザフの眼前にファリドの血の気の失せた顔が浮かんで消えた。</p><p> しばらくして、今度はハウタットバニタミムにメフメト軍が攻めてきた。</p><p>「レイスもメフメトも連携の定石すら出来んとは。逆に張り合いがないな」</p><p>「レイス軍は自分達だけでここを取って、旨味を一人で得ようと考えたのでしょう」</p><p>「それでレイス軍が失敗したから、それを利用してメフメト軍が旨味にありつこうというわけですな」</p><p> バラザフ、サーミザフ、ムザフの親子三人は額を寄せ合って眉をひそめて、敵を哀れむとも、侮蔑するともつかない顔で表情を浮かべていた。</p><p> 一応、メフメト軍は先のレイス軍の戦い方から学んだようである。三十八万という大軍を一気に指揮して押し寄せてきた。</p><p>「今のメフメト軍に我等が恐れる者は居ないな」</p><p> バラザフはハウタットバニタミムの攻め手はどいつも役不足だと判じ、</p><p>「ここには二万くらい兵を置いておけば大丈夫だ」</p><p> と戦況を読んだが、手抜かり無きようベイ軍にも援軍を要請した。ザラン・ベイはこれに応じて五万の将兵を援軍として送った。</p><p> メフメト軍はハウタットバニタミムに手出しできたのは一度、二度きりで、後は<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
で焼き払われて、数百名の死傷者を出してこの戦いを終局とした。やはりメフメト軍もレイス軍と同じく、一切戦功をあげる事無く、結局、手ぶらで総退却するしかなかった。</p><p> ――ナジャフの戦いで当代の覇者アミル・アブダーラを破ったレイス軍も凄かったが、そのレイス軍を小勢で追い払った者がいるそうだ。</p><p> ――レイス軍の相手をして、さらに四十万のメフメト軍を一歩も寄せ付けなかったというぞ。</p><p> ――どこにそんな英雄がいたんだ。</p><p> ――アルカルジの君主バラザフ・シルバだそうだ。</p><p> ――あのアジャリア・アジャールの側近でアルハイラト・ジャンビアと尊称する者も少なくないとか。 </p><p> バラザフの勇名はカラビヤート全域に轟いた。シルバ軍は戦乱の英雄としてこの後永く口碑に残る。</p><div><div><br /></div><div>※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。</div><div><br /></div><div>次へ進む</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2023/01/A-Jambiya10-1.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2023/01/A-Jambiya10-1.html</a></div><div><br /></div><div>【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html</a></div><div><br /></div><div>前に戻る</div><div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2022/10/A-Jambiya9-4.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2022/10/A-Jambiya9-4.html</a></div></div><div><br /></div><div>『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html</a></div></div><div><br /></div>Blog authorhttp://www.blogger.com/profile/05104770986712427544noreply@blogger.com0Howtat Bani Tamim サウジアラビア23.525188 46.8446611-4.7850458361788455 11.688411100000003 51.835421836178845 82.0009111tag:blogger.com,1999:blog-4314757388830094658.post-33702098081244270482022-11-05T05:55:00.035+09:002022-12-05T18:48:24.411+09:00『アルハイラト・ジャンビア』第9章_4<p> ハラド、リヤド、そしてアルカルジ。アジャール家の旧領は、諸侯の領地争奪戦の間で激しく揺さぶられている。無論、そこに手を伸ばそうとしているのは、レイス家、メフメト家である。さらにはベイ家までもが戦乱を生き残るために領土獲得という路線を打ち出してきていた。</p><p> この三家の中でもハラドの獲得で激しくぶつかっているのが、レイス家と、メフメト家で、両軍の衝突があちこちで発生した。</p><p> セリム・メフメトは、</p><p>「ハラドの支配権はアジャリアの孫の自分にある」</p><p> と大いに喧伝した。</p><p> これは領土獲得のための欺瞞ではなく、実際にセリム・メフメトは、アジャリアの娘の子である。</p><p> この主張に対するだけの名分を持ち合わせていないファリドは、アジャリア家遺臣を多数雇用して、彼等の土地勘と人脈を活用して巧みに戦争を展開していった。</p><p> 戦いはレイス軍がじわりじわりと優勢に進んでゆく。この風向きをずっとバラザフは眺めていた。そして、風向きがレイス軍に有利と見るや、ファリド・レイスに味方しようと決めた。</p><p>「ですが、バラザフ様。すでにメフメト軍ともベイ軍とも同盟関係にある我等がレイス軍にまで距離を縮めるとなると、シルバ家が世に軽く見られます」</p><p> 家臣の言い分はもっともである。これら三家はそれぞれ敵対関係にあり、シルバ軍だけがその全てに対して良い顔するという事は、どこかで下手を打てば、その瞬間全て矛先がこちらに向けられる危険を孕んでいる。だが、バラザフはこの訴えを自己の肯定を以って柔和に斥けた。</p><p>「これこそがバラザフ・シルバの戦略の真骨頂だ。この方法こそが俺達のような小勢力を滅亡から救うのだ。心配ない」</p><p> こう言ってバラザフは、レイス軍への使者に、また弟のレブザフを立てた。</p><p> レブザフは、現在レイス軍の武官となっている、元アジャリア家の家臣のつてでレイス軍につきたいという旨を伝えた。</p><p>「あのシルバ家が我等に臣従するというのか」</p><p> ファリドは余程嬉しかったのか、早速レブザフに直接面会し、丁重に迎えた。</p><p>「昔、貴公の兄のバラザフ・シルバに一度だけ会った事がある。あの時はアジャリア殿の使者としてであった。いかにも切れ者という面貌だったのを憶えている。そこから我等はシルバ軍に手痛い目に遭わされ始めたな」</p><p> 表情に棘を作らないように努めているファリドだが、積年の仇を所々で刺してくる。レブザフはシルバ軍の売込みで出来るだけ値を吊り上げるため、アジャール軍在籍時代に、シルバ軍がメフメト軍やレイス軍と戦って立て功績を、整然と述べた。</p><p> レブザフの語りを聞いていたファリドは、突如、</p><p>「貴公、レブザフ・シルバと言ったな。話を聞いていて貴公が欲しくなった」</p><p> とシルバ家の与力を認める前に、目の前のレブザフを家臣に誘った。</p><p> ファリドはバラザフに、</p><p> ――若さに苔の生えたような男。</p><p> と言わしめた程、彼等の相性はほぼ最悪に近い。</p><p> その相性で言うならば、ファリドとレブザフは組み合わせが良かった。少なくともファリドの方ではレブザフを気に入ったようである。</p><p>「レブザフ、レイス軍の武官になってくれるなら、貴公を<ruby><rb>藩主</rb><rp></rp><rt>ラジャー</rt><rp></rp></ruby>
に任官するようにエルサレムの聖皇に働きかけてやってもよいぞ。今のレイス家はそれくらいの力はある。勿論、レイス家からも十分な禄を出す」</p><p> 今まで何度もバラザフの遣いで方々に外交に出向いて、淡々と人物を見てきた。あのアジャリアですらも、兄よりもある種、冷ややかな視線で観察していたレブザフも、これには心を動かされた。感激したといってよい。</p><p> 今までレブザフは相手からバラザフ・シルバの使者として見られてきたが、レブザフ・シルバとして人物そのものに入れ込んできた者はファリドが初めてだったかもしれない。初対面の自分を破格の待遇で迎えると言ってくれている事が、彼の誠実さを表していると思った。</p><p>「ファリド殿がレブザフを気に入ってくれたか。シルバ家とレイス家の関係も築いていけそうだ。交渉ご苦労であった」</p><p> バラザフは、素直に外交上の成功を喜んだ。</p><p>「兄上、レイス殿が私をレイス軍の武官にと望んでいるのです」</p><p>「うむ。それもいいだろう。シルバ家にとってレブザフ以上の外交の人材は居ないゆえ、大きな損失ではあるが、ファリド殿の厚遇を袖にするわけにもいかないだろう。だが、レブザフよ。右か左か迷ったときは、必ずシルバ家のためになる判断をしてくれ」</p><p>「もちろんです。しかし、まだシルバ軍での残務処理がありますので、残りの仕事片付けてから移籍致します」</p><p> レブザフがファリドから取り付けてきた約定は、レブザフ本人のみならず、シルバ家にも良い待遇であった。アルカルジのシルバ領をこれまでどおり認め、ハラド、リヤドに関してもシルバ軍の随意で良いというものである。</p><p>「シルバ軍が、レイス軍の下についただと!」</p><p> シアサカウシン、セリムのメフメト親子は、バラザフのやり口に恐慌した。当然の反応といえる。</p><p> メフメト家は、これをシルバ家の裏切りと受け取った。</p><p>「あちらがそのつもりならば、こちらにもやり方というものがある」</p><p> 早速、メフメト軍は、アルカルジを端から切り取ろうと、軍隊を派遣してきた。</p><p> カイロのザラン・ベイもバラザフの外交処方は背信行為であるとして、シルバ家へ侵略の動きを見せてきた。</p><p> 当初、恐れていた挟撃を受けた形になったが、それでもバラザフは落ち着いたままである。</p><p>「当然予想していたよ。メフメトもベイも想定どおりの反応を見せてきた。だからレイス軍を選んだわけだ。心配ない」</p><p> これまでバラザフは、アルカルジ、リヤドと自分の活動圏の支配権を賭けの担保にするように、諸侯、諸族との外交的な折衝において優位性を得てきたので、その点に関しては実績に裏付けられた矜持があった。支配領域に比してシルバ軍の組織としての勢力は弱い。</p><p> 兵力の多寡を覆して、大勢力と同等の立場で渡り合うには、心の奥底に燃ゆる気根と剛勇さを持ち続けるしか無い。表向きは臣従したような形にはなっても、相手が大勢力であろうとも自分は対等の立場であり、君主個人の能力では必ず相手より優っているはずだという思いがバラザフの中にある。</p><p>「おい、リヤドに新しい<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を造るぞ」</p><p> シルバ家の家臣達は、バラザフの突飛な策案に毎度の事ながら面食らった。レイス軍に付くと言い出したかと思えば、今度は<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を手がけるというのだから、彼等が驚くのも無理は無かった。</p><p>「正確にはハイルの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を新しくする。アルカルジやリヤドからは一週間もかかるから急な援軍を差し向ける事も出来ないし、我らには多くの軍を常に抱えておける力はない。昔のように小勢が寄せてきたのを撃退すれば良い時代ではなくなっているから、<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
自体が小さいと、防衛して耐えているうちに味方の戦局から置き去りにされるのだ」</p><p> アルカルジ、リヤド、ブライダーと西北に道が伸びており、ハイルはその道の先にある<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
である。その先も各地に道は伸びてゆくので、押さえを疎かに出来ない場所ではある。</p><p>「拠点の戦略的価値を向上させる。規模を広げて大きくするぞ」</p><p> ハイルの西にごつごつとした岩場がある、切り立った高い山ではないが、足場が悪く進軍に難儀しそうな場所である。そこを起点に城壁を築き、足場の悪い岩肌に難儀して行軍してくる敵を弓矢などで撃退すればよい。その基本的な在り様の今までどおり活用して、バラザフはハイルを東へ、あるいは南北へ拡張していった。</p><p>「ここからジャウフ、ラフハー、メディナに繋がる」</p><p>「三方を睨める位置だが、また三方から攻められる位置でもあるのう」</p><p> 叔父のイフラマがバラザフの意図を解して言葉にした。</p><p>「その通りです。そして折角<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を拡張したのに、兵を養えぬでは無用の事となるのです。よって、糧秣確保のための畑と、さらにそのための貯水が必要になってくる」</p><p> バラザフは、ハイルの周辺に点在する小さな<ruby><rb>砂漠緑地</rb><rp></rp><rt>ワッハ</rt><rp>)</rp></ruby>
を基に水源を整備して、<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の中にもいくつも溜池を作った。</p><p>「<ruby><rb>井戸</rb><rp></rp><rt>ファラジ</rt><rp></rp></ruby>
の整備も当然必要だ。防衛線になったら水が枯渇するから、<ruby><rb>井戸</rb><rp></rp><rt>ファラジ</rt><rp></rp></ruby>
は各部署ごとに作ろう。そしてそのうちの一つは枯れ井戸にする」</p><p> この一つに水を通さないようにするのは、抜け道にするためである。</p><p> バラザフは<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の砦としての機能ばかりを重視していたわけではない。各門に通じる道の脇に商業区を整備し、布類の商人を多く置いた。煉瓦の工場や、金属加工の鍛冶職人も抱えた。</p><p> 産業として鷹匠達への業務援助も行った。</p><p> 古くからカラビヤードでは鷹狩りが男子の嗜みとされていて、近頃では権威の象徴とされる向きもある。男達が<ruby><rb>鷹</rb><rp></rp><rt>サクル</rt><rp></rp></ruby>
を連れて<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を離れ、砂漠に入ってゆき、鷹狩りを楽しむ光景もよく見られる。</p><p> <ruby><rb>鷹</rb><rp></rp><rt>サクル</rt><rp></rp></ruby>
は高価なものでは、<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
と天秤に掛けられる程の値がつく。王族、貴族が戦争で捕虜になった際にも身代金代わりに要求される事すらある。</p><p> <ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の整備に併せるように、バラザフは軍制改革にも着手した。</p><p>「ハイレディン・フサインがやったように専業武官を増強する」</p><p> カトゥマルも生前、フサイン軍の勢力に圧されて軍制改革の必要性に迫られていた。それを成そうとバラザフは躍起になっていたが、一方で家臣達はこの軍制改革に不安を抱いていた。専業武官の増加は、農業人口の減少に繋がる。シルバ軍のような小勢力がそれを実行可能なのかどうか。家臣達の不安はそれに尽きる。</p><p> ハイルの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の大幅な改築に現場が賑わう中、レイス軍とメフメト軍の間で突如として戦いが止んだ、との情報が入ってきた。</p><p>「ハラド、リヤドをレイス軍のものに、アルカルジからオマーンまでをメフメト家の随意にする。その保証として両家の間に婚姻同盟が結ばれる、という取り決めです」</p><p> この情報をアサシンのケルシュの部下が探ってきた。</p><p>「そんな事だと思った。あのファリドが豪腕を奮えるわけがないからな。外交上の抜け道があれば、すぐに飛びつくのさ」</p><p> バラザフは、むしろ両家の同盟を面白がって見ていた。</p><p>「ハイルの築城を急がせろ。叔父上、急ぎハウタットバニタミムに太守として就いてくれ」</p><p> そして、イフラマ・アルマライの下に長男のサーミザフとメスト・シルバを付けて防衛の任を与えた。</p><p> ハイルに大きな<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
が出来上がった。シルバ家が抱えて維持していくにはやや困難ではあるが、ハイル、リヤド、アルカルジ、ハラドが一連してシルバ領となった。</p><p> ハイレディン死後、中央でも時代は停滞していない。</p><p> ハイレディンの寵愛を受けて出世した遺臣のアミル・アブダーラが、他のフサイン軍の遺臣達を統御して、ハイレディンの盟友であったファリドと対立を深めた。</p><p> 両家の軍団は、バグダードの南、ナジャフで衝突。この戦いにレイス軍が勝利した。</p><p>「また世の風向きが荒れてきたな」</p><p> バラザフの胸中には若者のような期待感がある。自分の知略を思う存分活用出来るような気がしていた。</p><p>「戦乱になれば俺の時代も巡ってくる」</p><p> バラザフの気炎はアジャリアの下に居た時以上に、アルハイラト・ジャンビアとして煌々としている。</p><div><div><br /></div><div>※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。</div><div><br /></div><div>次へ進む</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2022/12/blog-post.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2022/12/blog-post.html</a></div><div><br /></div><div>【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html</a></div><div><br /></div><div>前に戻る</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2022/10/A-Jambiya9-3.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2022/10/A-Jambiya9-3.html</a></div><div><br /></div><div>『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html</a></div></div><div><br /></div>Blog authorhttp://www.blogger.com/profile/05104770986712427544noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4314757388830094658.post-13878594350891258332022-10-05T05:55:00.014+09:002022-11-05T14:16:33.723+09:00『アルハイラト・ジャンビア』第9章_3<p> シルバ軍のメフメト軍に対する臣従は本心からではない。メフメト軍からやってきた使者に与えた答えは、</p><p> ――不戦。</p><p> である。</p><p> 結局バラザフは、ハイレディンが斃れた後、一滴も血を流さず回復したアルカルジを始めとするシルバ領から兵を退去させず、実効支配を続けた。メフメト軍に対する対処は、剣を向ける事はしない。それ以上でも以下でもない。</p><p>「カイロが攻勢に出たようだ」</p><p> リヤドを拠点にカイロの情報収集にあたっていたアサシンのケルシュが、いつもどおり静かな様子を崩さずに報告にやってきた。</p><p> 十万の兵力がザラン・ベイから送り込まれて、アラーの街など、数箇所の集落を取った。現状の周辺勢力の均衡を鑑みると、リヤドの北西部が、全てベイ軍の所領になるのを止められる者は周囲にはいない。</p><p> すでにザランからバラザフへ降伏勧告の使者が送られてきている。ハイルはもともと、シルバ軍がデアイエ軍を追い出して手に入れた所領である。ベイ軍はアラーを取った後、次の標的としてのハイルをこちらによこせと言ってきている。</p><p> ザランは、</p><p>「従わなくば剣」</p><p> と交渉に強い押しを見せてきた。</p><p> メフメト軍と、ベイ軍。両者に連携は無いものの、シルバ軍は大勢力二つから挟撃を受ける形になってしまった。</p><p> ここでもバラザフは、</p><p> ――不戦。</p><p> と答えた。</p><p> 臣従しているようでしていない。相手の攻撃対象にされないように言葉で相手の剣先を逸らしたに過ぎない。</p><p>「大勢力の間で揉まれるのはシルバ家の宿業だ」</p><p> 父エルザフもアジャール家との距離を調節しながら生き延びていたなと、小勢力の苦患を自身も受け止めざるを得なかった。</p><p>「何がアルハイラト・ジャンビアだ、<ruby><rb>九頭海蛇</rb><rp></rp><rt>アダル</rt><rp></rp></ruby>
の頭だ。蜥蜴の尾が切られて蠢いているだけじゃないか」</p><p> 半分やけになって自虐的な言葉を自分に投げつけるバラザフだが、リヤド、ハイルのシルバ軍をベイ軍寄りに、アルカルジのシルバ軍をメフメト軍に味方させる事で、シルバ家の滅亡を辛うじて回避させる事が出来たのである。</p><p>「このような荒波の中で、小船で乗り切るような危ない生き方をいつまでも続けたくはないな」</p><p> アジャール家について生きていく事に疑問を持ってこなかったバラザフにとっては、今が小勢力の痛みを真に感じてしまう時であった。</p><p> バラザフは、シルバ家の一員として迎えるべくアジャール家の遺臣をアデル・アシュールに指示した。アデルは、タウディヒヤから退去する折、シルバ家に随行してきて、アジャール家滅亡と同時に正式にシルバ軍の武官として在籍する事となった。</p><p>「アジャール家の遺臣にあたってみてわかったのですが、ファリド・レイスがハイレディンが死んだ後に、ハラドにまで出てきてメフメト軍と主導権争いをしている模様です。ファリドはアジャール家の遺臣達にしきりに接触して、レイス軍に抱え込もうとしいます」</p><p> アデルは、アジャール家遺臣の獲得が、ファリド・レイスに先を越されていると、ほのめかす報告をした。</p><p> アジャール家の遺臣といえば、バラザフのようにアジャリアの息吹の込められた、豪腕で規律も正しい武官ばかりである。多少の兵力差はわけもなく跳ね返してしまうような、場所を選ばずに使える者がそろっていた。</p><p> 今は野に下っているが、登用すれば大幅な戦力強化につながる事は間違いなかった。</p><p>「アデル、ポアチャの奴にだけ美味い所を持っていかれてはいかんぞ」</p><p>「ポアチャが、何か?」</p><p>「いや、何でもない。こちらも登用に躍起にならなければならない」</p><p> アジャール家滅亡後もその遺臣達は、ほぼ全てが次の仕官口にありついていた。ファリド・レイスは九千人以上をレイス軍の戦力として獲得した。</p><p>「アジャリア家に居た頃と同じ待遇で構わない」</p><p> とファリドは、領地と禄の保証を受け合ったため、ファリド軍への再仕官の希望者が殺到した。</p><p> ファリドはこれらアジャール家の再仕官者から、勇者を選抜して赤い水牛、アッサールアハマルと名づけて精鋭部隊を編成した。そして、重臣のイブン・サリムの管轄としたが、その構成員の多くはワリィ・シャアバーンの部隊に所属していた生き残りの猛者達である。</p><p> アジャール遺臣の他の再仕官先は、メフメト軍の所属になった者が千名。ベイ軍にも百名ほどが雇用された。</p><p> バラザフも、この人材獲得合戦で二千名もの優秀な将兵を得る事が出来た。これはレイス軍よりもシルバ軍に所属したいと願った者が多かった事による。バラザフがアジャール家滅亡の瀬戸際にあって、カトゥマルを自領にて受け入れてフサイン軍に抗戦しようとして、大義を周囲に示したのが、ここで利いてきたのであった。</p><p> 新たにシルバ軍に仕官した者には両家の子息が多い。子息といってもすでに成人している次世代の若者であるが、アジャール家の<ruby><rb>執事</rb><rp></rp><rt>サーキン</rt><rp></rp></ruby>
を務めたヤッセル・ガリーや、勇将ナワフ・オワイランの子などが、さらにその家臣も連れてシルバ家の与力となった。後の活躍が期待できる武官が多数増えたのである。</p><p> そして、リヤド周辺の諸族もバラザフをアジャール家遺臣の盟主に仰いだ。それらに抱えられていたアサシンの生き残りも雇用した。</p><p> かねてよりバラザフは、アサシン軍団の新制を目論んでいたが、新しく軍団を形作る構成要素として彼等は重要な手札となった。</p><p>※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。</p><p><br /></p><p>次へ進む</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2022/10/A-Jambiya9-4.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2022/10/A-Jambiya9-4.html</a></p><p><br /></p><p>【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html</a></p><p><br /></p><p>前に戻る</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2022/07/A-Jambiya9-2.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2022/07/A-Jambiya9-2.html</a></p><p><br /></p><p>『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html</a></p><div><br /></div>Blog authorhttp://www.blogger.com/profile/05104770986712427544noreply@blogger.com0サウジアラビア アル カルジ24.1576043 47.3247876-4.1526295361788463 12.1685376 52.467838136178841 82.481037600000008tag:blogger.com,1999:blog-4314757388830094658.post-63221435087513806732022-09-05T05:55:00.035+09:002022-10-05T06:07:39.115+09:00『アルハイラト・ジャンビア』第9章_2<p> 三ヶ月後――。</p><p> ハイレディン・フサインが死んだ。</p><p> この報はカラビヤート全土を震撼させた。驚愕を表に現した数多の中にバラザフの顔もあった。</p><p>「ハイレディンの奴、俺にあれだけ大きな顔をしておいてあっさり死んでしまったのか」</p><p> ハイレディンはエルサレムから南に少し離れたヘブロンという場所で休養中に、家来のバシア・シドラという武官に急襲されて、戦の備えの殆どしていなかったのが憂いとなって、炎に包まれて世を去った。</p><p> 覇王ハイレディンのもと、力で一統されかかっていた世の秩序が崩れ始めた。</p><p> 影響が各地に出るのも早かった。</p><p> カトゥマルを見捨てたサイード・テミヤトが何者かに殺害され、ハラドに太守として置かれていたフマーム・ブーンジャーは、アジャール軍の残党によって惨殺された。</p><p> 力でフサイン軍に押さえれれていた各地の<ruby><rb>士族</rb><rp></rp><rt>アスケリ</rt><rp></rp></ruby>
達が、一斉にハイレディンの遺臣達に襲い掛かった。</p><p> シルバ家存続に砕身してくれたルーズベ・ターリクも例外ではなかった。フサイン軍に臣従を誓っていた各地の諸族達は、ハイレディンさえ居なければフサイン軍など恐れるに足りないと、ターリク軍の支配権の放棄を求めた。</p><p>「早くバグダードに戻ってハイレディン様の仇を討たねばならぬときに」</p><p> ルーズベを取り巻く環境はそれを許さなかった。周りに味方は殆ど居ないのである。</p><p>「叔父上、メスト。ターリク殿を護るのだ!」</p><p> ルーズベが進退窮まっているのを見て、バラザフは家族にルーズベの護衛を命じた。</p><p> ハイレディンによる支配が除かれてから、今後、大乱になるのは必至と見た。ターリクが本拠地に帰った後も再会出来る保証はどこにもない。ここで恩義を返しておきたかった。</p><p> バラザフは、ハイレディンがヘブロンで斃れたのを、神の思し召しとまで喜んだが、一方で、アルカルジに諸族に取り囲まれてしまったルーズベをアルカルジから逃れさせるのに、何とか力を尽くしてやりたいと思っていた。</p><p>「今のアルカルジに駐屯する十八万のターリク軍も、バグダードに戻るまでに急な行軍で大半が脱落するはずだ。叔父上は兵二万を連れてターリク殿の護衛を。抜け目の無いメフメト軍が死肉を食らいにくるかもしれないからな」</p><p> ルーズベが居なければ、間違いなくシルバ家はハイレディンに圧殺されていた。フサイン家との対外交渉において、ルーズベはシルバ家の救世主となった。バラザフにとってルーズベ・ターリクだけがフサイン軍の武官の中で別格になっていた。</p><p>「シルバ殿の御厚情に感謝致します。今ここで私はアルカルジ、リヤドの支配権を放棄する。この混乱の中故、獲得の保証は出来ぬが、シルバ軍に後を全て委ねる」</p><p> 別れ際にバラザフの手を握るルーズベの手に力がこもった。</p><p> ルーズベの行く手を、メフメト軍が十重二十重に妨害して、三万もの兵力がその戦いで散っていった。</p><p> イフラマはルーズベをシルバ軍の影響の及ぶぎりぎりの所まで護衛して復命した。この任務でシルバ軍で命を落とした者は一人もいない。</p><p> ターリクが去ると、アルカルジの実質的支配者はバラザフ・シルバという事になるが、一時でも手を離れた地域は空白地となっていた。特にハウタットバニタミムは所有するに有益でありながらも、この混乱の中でしばらく放置されている<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
である。他にもいくつも領主を失った小領が点在していた。</p><p>「せっかくの好機だ。ハウタットバニタミムを取り返すぞ。ターリク殿も言っていた。この地域はこのバラザフ・シルバの随意である」</p><p> 領土獲得にバラザフは燃えた。</p><p> さっそくバラザフはハウタットバニタミムの攻略を開始した。</p><p> 攻略といっても領主の居ない<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
に反抗など無い。ただ入城して旗を立て、支配を宣言しただけである。</p><p> こうして空いてしまった残りの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
も、支配と防衛を宣言し、住民を安堵させ、シルバ領を復旧させた。</p><p> バラザフが言ったように抜け目の無いメフメト軍は、ハイレディン死亡という火事場の混乱の中で、出来るだけ自家の領土を増やしてやろうと、またもやアルカルジに手を伸ばそうとしていた。ターリク軍に襲い掛かったのも、あわよくば当主を亡き者にして混乱の生じたターリク領を横奪せんと目論んだからである。</p><p> アルカルジの攻略にメフメト軍からは、ムスタファ・メフメトが出てきた。バーレーン要塞のシアサカウシン、セリムの親子も、これにつられる形で兵を出してきた。</p><p> ターリク軍が完全に退去すると、押し寄せてきたメフメト軍の相手をシルバ軍が引き受ける戦いとなった。</p><p>「独立したのはいいが、まだまだシルバ軍だけでは対外勢力には圧されてしまうな」</p><p> メフメト軍の大軍と戦って勝てる見通しが立たないと判断すると、バラザフはメフメト軍に臣従する擬態を取ろうと考えた。すでにアルカルジの殆どの諸族がメフメト軍に尾を振ってしまっていた。シルバ軍の兵力だけでは抵抗は敵わない。</p><p>「今叩けない手には接吻そして後でその手の骨折を祈れ、と言う。今のシルバ軍のためにあるような言葉だ。詭弁、詭術、策謀。何でもいい。多少の<ruby><rb>禍</rb><rp></rp><rt>まが</rt><rp></rp></ruby>
を積んでも生き残らなければならない。シルバ家を滅亡させて人を養う責任を果たす事が出来なければ、そのほうが余程大きな禍となってしまう」</p><p> 次男のムザフにバラザフはこう教えた。</p><p>「武人としての誇りは大事。生き残る事はもっと大事だ。死なぬ覚悟が要るのだ。根底に武人の誇りを堅持して、死なぬ覚悟を立てるのだ。わかったか」</p><p> 熱弁する父の姿がムザフには輝いて見えた。</p><p>「カトゥマル様が亡くなった時、未来を視る眼を欲する事が自分の<ruby><rb>志</rb><rp></rp><rt>アマル</rt><rp></rp></ruby>
なのだと、俺は改めて痛切に感じた。未来を見て世を手玉に取りたいとか、そういう事ではない。この俺がアルハイラト・ジャンビアとして自分の才知を出し切るという事なんだ」</p><p>「父上が御自分の才知を大事にされている事がよくわかりました」</p><p>「そうか」</p><p>「ですが父上が求めている<ruby><rb>志</rb><rp></rp><rt>アマル</rt><rp></rp></ruby>
というのは、未来を視る眼などではないと思います」</p><p>「では何を求めているとうのだ」</p><p>「覇権です」</p><p> バラザフは、ムザフの言葉に心の臓が抉り出されたような気がした。外交の場でならともかく、まだまだ<ruby><rb>童子</rb><rp></rp><rt>トフラ</rt><rp></rp></ruby>
と思っていた我が子の前では心を防御などしておらず、完全に意表を衝かれた。</p><p>「確かに父上は世の者等からアルハイラト・ジャンビアと称される程の智将です。ですが、父上が本当になりたいものはアジャリア様だと思うのです。アジャリア様やカトゥマル様が通った道をゆくのなら、その先には必ず覇権があるはずです」</p><p> ムザフは、バラザフが心中に秘していた野心を完全に言葉にして表出させてしまった。まだ我見に少ない少年だからこそ逆に透徹した見方が出来るものである。</p><p>「確かに俺はアジャリア様の背中を追って生きていた。そしてアジャリア様亡き後も、何とかカトゥマル様をエルサレムに上らせて覇権を得る補佐をしようと思っていた。ハイレディン殿にしてもそうだ。慢心をバシア・シドラに衝かれなければ、カラビヤートを全て手に入れる手前で没する事もなかった。今、カラビヤートは戦乱に戻り先が見えない。俺がアルカルジを統帥して、リヤドやバーレーンを手中に収めるまで、時間が残されているかもわからない。だが、お前の言うとおり俺の中には争覇に乗り出す野心がずっとあったのだ」</p><p> 今まで秘していた自分の野心に気付いた。その弾みで次男のムザフに、バラザフは心中を全て吐き出してしまった。そして知らぬ間に我が子が<ruby><rb>童子</rb><rp></rp><rt>トフラ</rt><rp></rp></ruby>
から成人の入り口まで成長していたのだと意識せざるを得なかった。</p><p><br /></p><p>※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。</p><p><br /></p><p>次へ進む</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2022/10/A-Jambiya9-3.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2022/10/A-Jambiya9-3.html</a></p><p><br /></p><p>【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html</a></p><p><br /></p><p>前に戻る</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2022/07/A-Jambiya9-1.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2022/07/A-Jambiya9-1.html</a></p><p><br /></p><p>『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html</a></p><div><br /></div>Blog authorhttp://www.blogger.com/profile/05104770986712427544noreply@blogger.com0Howtat Bani Tamim サウジアラビア23.525188 46.8446611-4.7850458361788455 11.688411100000003 51.835421836178845 82.0009111tag:blogger.com,1999:blog-4314757388830094658.post-76894426286521325592022-08-05T05:55:00.031+09:002022-09-05T07:01:02.576+09:00『アルハイラト・ジャンビア』第9章_1<p> バラザフの人格が一変した。無論、主家滅亡が原因である。シルバ家の家来の者達にもそれがわかった。</p><p> ――シルバ家を拡大するのだ。</p><p> 元々、バラザフの中にそうした積水のように溜まって力を秘蔵したものがあった。それが頼みとするのは自分の知謀のみ、という形で表出してきたのであった。</p><p> 今、シルバ家にとって急務の問題がいくつもある。ハイレディン攻勢への対策、ベイ家への対応、メフメト家との関係構築の方針、これら全てが今度の対策として大事な事であった。</p><p>「<ruby><rb>九頭海蛇</rb><rp></rp><rt>アダル</rt><rp></rp></ruby>
の漂流を一日でも早く止めるのだ」</p><p> 頭を酷使して策を出した後、バラザフはそれをすぐに実施した。</p><p> 先の対外問題にあげられた中で、ハイレディンに対する策は一番にやらなければならない。ハイレディンは、アジャール家を滅亡させて、憂いがなくなった後で自分に寄ってきたナジャルサミキ・アシュールの血族を悉く処刑し、ハラドの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
にカトゥマルを討ち取ったフマーム・ブーンジャーを太守として入れた。</p><p> ブーンジャーはハラドに赴任すると、アジャールの残党を大規模に駆り込みにかかった。ハイレディンの命あっての事である。</p><p> 戦の火種はまだアルカルジには及んでいない。ハイレディンの軍勢はアルカルジまでは到達していなかったものの、ハイレディンが、旧アジャール領のリヤド、アルカルジの獲得に気炎を上げるであろう事は誰にでも予想できた。</p><p>「フサイン軍の武官にルーズベ・ターリクという人物がいる。そいつがアルカルジの<ruby><rb>知事</rb><rp></rp><rt>サンジャク・ベイ</rt><rp></rp></ruby>
に任官されて、このアルカルジとリヤドを封地として与えられるらしい」</p><p> 家臣に直近の情勢を示すバラザフが、隠すことなく顔をしかめるのも当然の事で、フサイン軍はすでに勝者として、現存のシルバ家やその他の諸侯の都合を一切無視して、領地の割り当てを差配していた。</p><p>「そのターリクとかいう奴から手紙がきたわけだが……、無抵抗にフサイン軍に臣従するなら、今のシルバ家の領土を保証すると言って来ている。真偽を見定めるため、皆の意見を聞きたい」</p><p> まずイフラマ・アルマライがハイレディンに対して思う所を語った。</p><p>「ハイレディンという名は常に冷酷無比という印象と共に各地に飛んでおる。つまり、一度敵対した者は永代憎み続けるという事じゃ。そのような者がシルバ領を保証するなどと言うわけが無いと思うがのう」</p><p>「ベイ家、メフメト家と我等が今一度結託出来れば、フサイン軍に一矢報いる事も夢ではありません。バラザフ様が戦うと仰せられるならば、我等も喜んで随行致します」</p><p> メスト・シルバもアルマライと同調して、降伏よりも抗戦の意思の方が強いようである。</p><p>「私が使者に立ちましょう。要はこの手紙を送ってきたターリク殿と、ハイレディンの我等と結ぶ意思に偽りが無いのか知れればよい話だ」</p><p> 弟のレブザフが使者として志願した。</p><p>「皆がハイレディンの真意を気にかけているのはよくわかった。レブザフの言うとおり直接探ってみなくては、先に進めないな」</p><p> 軍議の内容にバラザフは一定の安堵感を得ていた。</p><p> ハイレディンの意図は未だ不明といえども、シルバ家としては、対外的にも意識のまとまりが感じられる軍議であった。アジャール家であのような悲劇が起きた後なので、シルバ家でも裏切り者が出るのではと気を尖らせていた。</p><p> バラザフの心中では、万が一裏切り者が出れば、その者を粛清して篭城の構えを取るつもりであったが、この分だと、それも口に出さずに済みそうである。</p><p>「レブザフ、ターリク殿へ使者を命じる。フサイン軍としての意向をはっきり確かめてきてくれ。抗戦するにしても、臣従するにしても、それでこれからの関係が決まる」</p><p> レブザフを使者として遣わす事として軍議は解散した。</p><p>「フート、ルーズベ・ターリクという人物について知っておきたい。フサイン軍とは今まで接触が無かったせいで、武官についても情報が少ない。出自、性格、過去の判断など全てだ。急いで調査してきてくれ」</p><p> バラザフに命じられたフートは、すでに少しばかりターリクの情報を仕入れていた。</p><p>「ターリク殿はハラドの出身の武官です」</p><p> ルーズベ・ターリクの出自はハラドで、<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
の扱いに長けていて、ハイレディンに信用されている人物であり、若輩の頃より側近として取り立てられていた。ハイレディンは、アジャール家を滅亡させた後、メフメト軍や、それ以東の諸侯の征討の采配をこのルーズベ・ターリクに一任している。</p><p> 武勇に優れた武官で、知謀も欠けていない。知勇を具有するという点においてはバラザフに通じるものが、少なからずあるらしい。さらには義理人情にも通じ、敵味方の人心収攬の術も心得ているという。</p><p> そのルーズベ・ターリクがハサーの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
に入った。配下に八万の兵を連れている。距離を少しあけてアルカルジの様子を探っているようでもある。</p><p>「ハサーやこのアルカルジでも小領主は皆、すでにターリク殿に臣従を意を示した様子。領地保証の嘆願をしているようです」</p><p> バラザフの心中はほぼこのフートの報告で確定した。ハサーに向けてレブザフが使者として派遣された。</p><p> ハサーまで出向いてきたレブザフをルーズベはまず褒詞で迎えた。</p><p>「敵とはいえ不義理な家臣によって滅亡の憂き目に遭ったアジャール家を不憫に思っておりました。反面、一門に属していないシルバ家が最後までカトゥマル殿を衷心を以って支えた。この戦乱の世に在りながらも、義理を重んじる武人と、我が主ハイレディンもシルバ家の格を重く量っておりました」</p><p> シルバ家を高く評価されて悪い気はしないレブザフだが、今、彼等の間で最も重要な事は、領地が保証されるか否か、この一点である。</p><p>「それに関しては手紙に書いたとおりです。ハイレディン様もシルバ家の領地を奪うつもりは無いので安心されよ」</p><p> シルバ家には良い事を吹き込んだルーズベだが、当然、腹の内には彼なりの計算があった。</p><p> これからの彼の任務はメフメト軍を斬り従える事と、これ以東へのフサイン軍の更なる進出である。それを考えると盤上にアルカルジを敵として置くのは得策ではなく、巧く臣従させて、抗戦に出てくるのを予防するのが良いと判断した。残り火に手を突っ込んで要らぬ火傷を負う必要もあるまいと、警戒を緩めずにいた。ルーズベとしてはここは何としても、賛辞を惜しまずシルバ軍を自分の手札に加えておきたかった。</p><p> 一方で、バラザフの方もルーズベのこうした内情を見抜いていた。レブザフを送る前から、フサイン軍を取り巻く環境を鑑みると、押し潰してくるような強行には出て来まいと予想していた。</p><p>「まずはハイレディン様への謁見を薦める。もしそちらにその気があれば、私が間に入って取り計らうがどうだろうか」</p><p> バラザフが直接ハイレディンの拝謁を得るように、ルーズベはレブザフを誘った。</p><p> ハイレディンは今リヤドに居る。</p><p> バラザフはひとまずルーズベの提案を容れて、レブザフを連れてリヤドに出向いた。</p><p> ハイレディンの方ではバラザフに引見する準備をしていたのだが、直前になってバラザフは気分がすぐれぬと言って、拝謁を取りやめた。</p><p> ハイレディンにはレブザフだけを会わせたが、レブザフの前に姿を現したハイレディンは当然ながら、赫怒していた。</p><p> ――シルバ家を誅伐する!</p><p> と口まで出掛かっているハイレディンをルーズベが上手くなだめてくれて、何とか謁見の体裁を整えてくれていたのであった。</p><p> バラザフが仮病を使ってハイレディンへの謁見を中止したのは、この謁見がその場でフサイン軍とシルバ軍の戦端が開かれる場になってしまう事を危惧しての事である。</p><p> ハイレディンの真意を探っていた分、シルバ家の臣従は他の諸侯と比べて遅い。ハイレディンがその遅参を問責するのは目に見えていた。</p><p>「カトゥマルの生死不明の内に敵に降伏するのは武人としては不義理、と俺は答えるだろう」</p><p> カトゥマルが無事であったなら、フサイン軍と敵対するつもりであったのかと、また問い詰められる。</p><p>「最後の一兵までフサイン軍に噛み付いて死んでいくでしょうと、叩きつけてやるさ」</p><p>「それでは、忠誠を誓いに来たはずが、その場で交戦状態となってしまいますよ」</p><p> とレブザフが息巻くバラザフを制止した。謁見の場で諸共誅殺される事も十分有り得る。弁が立つ故に逆にハイレディンの怒りを最大限まで引き出してしまう事が予想された。</p><p> こうしてバラザフは近くの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
に逗留しておとなしくしていた方がよいと判断した。</p><p> そしてそこまで成り行きをルーズベに隠さず述べておいたのである。</p><p> 先の言のとおり、ハイレディンへの謁見の仲介の労はルーズベが担ってくれた。ルーズベと共に貢物を携えたレブザフがハイレディンに拝謁した。</p><p> バラザフ本人が出向いて来ない事にハイレディンはまだ怒っていたが、貢物の中身を見てみてその怒りは失せたようであった。</p><p> 貢物が素晴らしかったとか、気に入ったという事ではない。中央の政治で威風を吹かせているハイレディンにとって、シルバ家が捧げた品々には、はっきり言って目を見張るような物は無かった。</p><p> この貢物にハイレディンが見たのは、シルバ家が富貴に優れず、何とか地方で踏ん張っている弱小勢力の姿であり、今自分が誅伐を命じれば一夜にして地上から消えるような者等を、あえて自分の配下として生かしておく戯れのような考えが浮かんでいた。</p><p>「生意気な奴だ。だが、たまにこういう遊びもいい。シルバ家の臣従を許す。そのかわり東方攻略の際にはシルバ軍を最前線に送るからな」</p><p> この一言で、ひとまずハイレディンの矛先がシルバ家から逸れた。しかし、全て無事というような上手い具合にはいかず、シルバ家の所領はアルカルジを含めた幾つかの小領だけで、後は大幅に減封されてしまった。減封された分の領土はルーズベの親類の武官を遣ってハイレディンの息のかかかる所領とされた。</p><p> 一朝にして独立勢力になったシルバ家は、一夕にしてまたフサイン家の武官という立場になってしまった。</p><p> とはいえフサイン軍は強大である。この支配下にあれば、これで対外的には、強敵に怯える日々から開放されると思われた。</p><p>「また他勢力の武官に落ちてしまったのは悔しいが、シルバ家滅亡を回避出来るよう立ち回ってくれたターリク殿には義理で応じなければならないな」</p><p> バラザフは、今後のルーズベ・ターリクの政治に与力するつもりでいた。</p><p><br /></p><p>※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。</p><p><br /></p><p>次へ進む</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2022/07/A-Jambiya9-2.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2022/07/A-Jambiya9-2.html</a></p><p><br /></p><p>【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html</a></p><p><br /></p><p>前に戻る</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2022/04/A-Jambiya8-4.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2022/04/A-Jambiya8-4.html</a></p><p><br /></p><p>『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html</a></p><div><br /></div>Blog authorhttp://www.blogger.com/profile/05104770986712427544noreply@blogger.com0サウジアラビア フフーフ25.380026 49.5887652-2.9302078361788446 14.432515199999997 53.690259836178846 84.7450152tag:blogger.com,1999:blog-4314757388830094658.post-57130565820200441592022-07-05T05:55:00.062+09:002022-08-07T15:57:00.839+09:00『アルハイラト・ジャンビア』第8章_4<p> カーラム暦1003年冬、工夫達が、まだ<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の細かな手直しをしている中、カトゥマルと家臣の主だった者達がタウディヒヤに入った。</p><p> 人より野生の方がこうした環境の変化に敏感で、カトゥマルがタウディヒヤに拠点を遷したときには、水を求めて動物達が集まってきていた。無論、住民の市井の営みもすでに始まっている。</p><p> バラザフもカトゥマルの移転に伴い、自分の家族をタウディヒヤに移り住まわせていた。奥方、サーミザフ、ムザフ、娘達、家臣、<ruby><rb>近侍</rb><rp></rp><rt>ハーディル</rt><rp></rp></ruby>
、<ruby><rb>侍女</rb><rp></rp><rt>ハーディマ</rt><rp></rp></ruby>
と、バラザフの家族主従だけでも五十名がここに移転した。この時期の旅は寒い。</p><p> 移転後もバラザフは忙しくアルカルジに戻ったりして、ケルシュが集めてきた情報を受けていた。翌年、カーラム暦1004年、年頭が少し過ぎた頃である。</p><p>「ハイレディン・フサイン、ファリド・レイス連合軍が再びアジャール軍への攻勢に出る様子。これに伴ったサイード・テミヤト、ナワズ・アブラスなどアジャール家親族の者等が次々とフサイン、レイス側に裏切りを約定しているようです!」</p><p> あまりの事、すぐに全てを信じるのは危険な情報である。が、それを裏付ける報告が、フートからもあがってきた。</p><p>「シアサカウシン・メフメト、セリムへも、ハイレディンからアジャール攻めの派兵協力要請がいっております。このメフメト軍へ宛てた手紙に書かれております。我が配下が密使より奪い取ったものです」</p><p> バラザフがその手紙を確認すると、確かにハイレディンの封蝋が押されている。</p><p>「昔、<ruby><rb>大宰相</rb><rp></rp><rt>サドラザム</rt><rp></rp></ruby>
であるハリーフ・スィンがフサイン軍包囲網を諸侯に呼びかけた事があった。それと同じ事をハイレディンはアジャール軍にしようとしているのだ」</p><p> 今のハラドとアジャール軍を囲んでいる環境を鑑みると、どうしても悲観的な見方は避けられなかった。</p><p>「これはアジャール家の危機だ!」</p><p> バラザフは急ぎセリム・メフメトに宛てた手紙をしたためフートに持たせた。</p><p> 中にはこのように書いてある。</p><p>「現在、メフメト軍、アジャール軍の間の同盟は決裂状態にあるが、カトゥマルがハラドを放棄した時は、カトゥマルの妻リャンカ夫人の<ruby><rb>縁</rb><rp></rp><rt>えにし</rt><rp></rp></ruby>
でカトゥマルとアジャール軍を援助してもらいたい。この場合、シルバ家もメフメト軍に従軍してもよい」</p><p> カトゥマルの妻はリャンカといって、シアサカウシン・メフメトの妹である。これが政略結婚である事は明らかながら、二人の夫婦仲はよかった。</p><p> 折角の生きた縁である。これを活用せぬ手はないとバラザフは考えた。</p><p> そしてもう一通、</p><p>「近々、フサイン、レイス連合軍が、アジャール軍に対して最終決戦を仕掛けてくるであろう。万が一アジャール軍が負けた時は、カトゥマルの夫人の縁にて夫妻をベイ家にて<ruby><rb>匿</rb><rp></rp><rt>かくま</rt><rp></rp></ruby>
ってもらいたい」</p><p> という、アジャール軍の同盟相手であるザラン・ベイに向けた手紙をケルシュに持たせた。</p><p> これもザランの妻としてカトゥマルの妹を嫁がせた縁を活かそうとしたのである。</p><p> そしてバラザフ自身も、アジャール軍がフサイン、レイス連合軍に敗北したとしても、アルカルジ一帯の自身の勢力基盤を守りきり、カトゥマルを自領にて最後まで支援しようと心に決めている。</p><p> すでにバラザフの中には、</p><p> ――アジャール軍敗北。</p><p> の後の防護策が様々に描かれていた。</p><p>「あのタウディヒヤの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
は、そう簡単には落とせないようには作ってはいるが……」</p><p> 自分が守将としてタウディヒヤに篭城して守ってもよいとも思っている。しかし、テミヤト、アブラスなどのアジャール家親族の者等が寝返ってしまったのは、智将バラザフにとっても不安材料としては決して小さなものではなかった。</p><p>「メスト、しばらくアルカルジの仔細を任せる。俺はこれからタウディヒヤに援軍に行かねばならない。そして――」</p><p> バラザフは、アルカルジの<ruby><rb>執事</rb><rp></rp><rt>サーキン</rt><rp></rp></ruby>
メストに、タウディヒヤに住まわせている家族を、アルカルジに戻す場合や、カトゥマルを此処に落とす場合を考慮して、受け入れの準備をしておくように命じた。</p><p> バグダードから五十万というフサイン・レイス連合軍が出た。カルバラー、ナジャフを経由して、恐ろしい速さでリヤドまで侵攻してきた。</p><p> 途中で剣戟の音は鳴らなかった。どの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
も集落もフサイン・レイス連合軍が押し寄せるやいなや降参の意を表した。この大軍相手では無理からぬ事であった。</p><p> カトゥマルの方では本格的にハイレディンに対する前に、しなければならない戦いが幾つもあった。</p><p> かねてよりフサイン側に寝返りを約していたナワズ・アブラスが、ここで反乱の兵を起こしたため、この鎮圧に十万の兵を編成して対応した。</p><p> カトゥマルは、リヤド近くの小領に陣を布くも、フサイン軍の先鋒の攻撃は激しく、防ぎきれずに後退を余儀なくされた。</p><p> 初めからアジャール軍を取り巻く空気は重い。これを受けて軍議となった。</p><p> 軍議の席にサイード・テミヤトは居ない。ファヌアルクトも自領に戻っていて軍議には出てこなかった。カトゥマルを囲むように諸将が座り、軍議を取り仕切る位置にはナジャルサミキ・アシュールがいた。バラザフは、カトゥマルに面する場所に腰を下ろしている。</p><p>「タウディヒヤを死んでも守りきるか、撤退するか。皆の存念を聞きたい」</p><p> カトゥマルが皆に尋ねると、一番先にカトゥマルの長男のシシワト・アジャールが血気を上げて叫んだ。</p><p>「タウディヒヤを死守すべし! それで死んでも構わん!」</p><p> が、場に同調の声は上がらない。</p><p> 次にナジャルサミキ・アシュールが案を出した。</p><p>「カトゥマル様ご家族共々、我が所領へ参られたらよろしいではないか」</p><p> これには賛成意見が出た。アシュールの所領であれば、タウディヒヤから近く、撤退した後も守りきれるだろうというのが賛成の理由であった。</p><p> バラザフは自分が主幹として建設に携ったタウディヒヤを死んでも守りきると言い切ってくれた事に<ruby><rb>衷心</rb><rp></rp><rt>ちゅうしん</rt><rp></rp></ruby>
を揺さぶられていた。撤退となれば、せっかく自分が造ったタウディヒヤは一度も使われる事なく、敵に落ちるか破壊されてしまうのである。</p><p> とはいえ戦略的にも篭城が上策とは思われない。シシワト、アシュール以外の口からは、これ以上案は出てこないと見て、バラザフが長い沈黙から、各将に言葉を圧すように口を開いた。</p><p>「カトゥマル様主従には我がアルカルジに来ていただくのが良く、またこちらにはその用意がある。当方とベイ軍との間でカトゥマル様への支援を交渉中であり、近くにはファヌアルクト・アジャール殿の拠点もある。アルカルジであれば五年は持ちこたえられる条件は揃っているので、ここで再興の時間を稼ぎ、メフメト軍を再度味方につけるにも光明が見え始めるであろう」</p><p> カトゥマルの中では、バラザフの案とアシュールの案がぶつかっていた。</p><p>「バラザフ殿の言われるとおりメフメト軍との関係を修復するのであれば、メフメト軍に近いアシュール領の方がよい」</p><p> という者がいた。</p><p> メフメト家に近くなるという言葉で、カトゥマルは落ち延びる先をアシュール領に決めた。</p><p> メフメト家出身の夫人を何とか無事に生き残らせたいと、夫人を思い遣って、メフメト軍に近いほうに決断したのである。だが、この後皮肉にも、人として持っていてしかるべき心に従ったカトゥマルの決断は、アジャール家存続には仇ととなった。</p><p> 軍議はこれで決まった。皆、大急ぎで引き上げの手筈を整えなくてはならない。</p><p>「カトゥマル様、どうかご無事で。私はアルカルジに帰還しハイレディンを迎え撃つ支度を致します。万が一、アシュール領が落とされた時は、アルカルジはいつでもカトゥマル様をお待ち申しております」</p><p> 皆が撤退の準備に駆け回る中、バラザフは静かにカトゥマルのもとへ寄っていって言葉を手向けた。</p><p> バラザフのこの言葉に感涙したカトゥマルは、手を取って答えた。</p><p>「親族の者や、家伝の家臣等がアジャール軍から相次いで離反していく中で、バラザフだけは私の味方でいてくれた。戦乱の世に在る中でこれほど嬉しい存在は無かったのだ。おそらくこれが最後の別れだ、兄弟。折角造ってくれたこのタウディヒヤを一度も使うこと無く棄て行くのはとても残念だが、これも妻のためなのだ。わかってくれ……」</p><p> バラザフもカトゥマルの手をさらに強く握り返した。</p><p>「バラザフ、家族もここから引き払うのだ。アジャール家の巻き添えにしてはならない」</p><p> カトゥマルの言葉どおりこれが二人の間の最後の言葉となった。</p><p> 昼間でも冷え込む。冬はまだ長い。バラザフは家族と家来を連れてタウディヒヤを出た。この一行に弟のレブザフと、ブライダーの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
から脱出してきたアデル・アシュールという武将が加わった。ナジャルサミキ・アシュールと系譜の異なる者で、バラザフの長女を嫁にもらいシルバ家の一族となっている。</p><p> アルカルジに戻る途上で一度軍議となった。これからの方針を一同確認しておかなければならない。</p><p>「カトゥマル様は当分の間はアシュール領に留まられる。アルカルジへ来られなかったのは残念だが、あそこなら数年は守れる。アルカルジにお迎えするのは、事態が鎮静してからでもよい。アジャール、ベイ、メフメトが連合すれば、どれだけハイレディンの勢力が肥大しようとも、この防衛線を突破する事などかなわぬ」</p><p> かつてアジャリアが地理上に点と点を結んで面としての勢力図を構築したように、アルカルジ、カイロ、バーレーンを主軸とした大連合を想定した。</p><p> その下地としてシルバ家の領土も拡大しておく必要があり、自勢力の拡大はアジャール家の役に立つものだと確信して、この壮図にバラザフは闘志を燃やした。だが――、</p><p> この時すでにカトゥマルはこの世の者ではなかった。</p><p>「カトゥマル様が、戦死されました!」</p><p> この悲報の方がバラザフ達より先にアルカルジに着いていた。</p><p>「御子息シシワト様、御夫人もともに自害されました」</p><p> 信じたくない言葉であった。</p><p>「ははは……それは虚報だ。フサイン方の<ruby><rb>間者</rb><rp></rp><rt>ジャースース</rt><rp></rp></ruby>
が嘘を流したに決まっている。そもそも、カトゥマル様はアシュール領で警護されているのに、早期に戦死に至るわけではないではないか」</p><p>「そのアシュール殿に弑逆されたのです」</p><p>「そんな馬鹿な!」</p><p> バラザフはしばらく物が言えなかった。</p><p> ナジャルサミキは、アジャール家親族の者ですらカトゥマルに背を向ける中、最後まで忠誠を尽くすと誓ったのである。</p><p>「乱世の人の向背は不定なのは当たり前だ。だが……。だが、しかし! ここまでの不義理が許されるのか!」</p><p> この時ほどバラザフの中で他人に対する不信が増大した事は無かった。</p><p>「カトゥマル様の側近の連中はどうしたのだ」</p><p>「ハラドに着いた途端姿をくらます者、カトゥマル様戦死する前に居なくなる者と様々ですが、皆逃げ散った様子」</p><p> アブラス、テミヤトが去った。アシュールも裏切った。さらにカトゥマルの傍で専横の限りを尽くしてきたと言ってもよい側近連中の脱走。</p><p>「無念であられた事だろう……」</p><p> バラザフは、<ruby><rb>頊然</rb><rp></rp><rt>ぎょくぜん</rt><rp></rp></ruby>
としてしばらく自我を投げ放ってしまっていた。</p><p>「これで俺が思い描いていた、対ハイレディン防衛線も意味を成さなくなった。だが、今後はシルバ家存続のために自己の実力のみを信じて戦乱を生き抜かなくてはならない」</p><p> アジャール滅亡という一大事は、バラザフに自分の知謀と実力だけが頼りなのだという思いを強くさせた。<ruby><rb>九頭海蛇</rb><rp></rp><rt>アダル</rt><rp></rp></ruby>
の巨体が突如として消え去り、頭だけが宙に浮いたが、他の頭が浮遊してゆく中、一番の頭はしぶとく生き残っていった。</p><p> 無残な結果を報告を受けただけで納得しきれなかったバラザフは、アサシン等を遣ってカトゥマルの死出の真相を調べさせた。</p><p> カトゥマルの一団は最後に五百名程残った。これは<ruby><rb>侍女</rb><rp></rp><rt>ハーディマ</rt><rp></rp></ruby>
等、非戦闘員も多く含まれる数なので、実際には戦える人間はもっと少なかったであろう。これをフサイン・レイス軍の二万が囲んだ。</p><p>「まことに激しい戦いだったそうです。カトゥマル様の一団は全員が戦死。対する連合軍の戦死者は三千、負傷者は四千。各調べからの照らし合わせで確かな数のようです」</p><p> カトゥマル一団の最後の奮戦がバラザフの目に浮かんだ。それがバラザフのせめてもの救いとなった。</p><p>「カトゥマル様は、アジャリアの剣カトゥマル・アジャールとして生き切ったのだ」</p><p> 四十倍の敵に三割もの損害を与えたのだ。バラザフでなくとも、このカトゥマルの最後の奮戦を悪く言う者はいなかった。</p><p><br /></p><p> ――カーラム暦1004年アジャール家滅亡。カトゥマル・アジャール享年三十七歳。</p><p><br /></p><p> 幼少の頃よりバラザフは、アジャール家、アジャリア、カトゥマルに寄り添って生きてきた。いわばアジャール家そのものがバラザフの生き方であった。それが今、消えた。</p><p> そうしたバラザフの空虚、陰鬱を無視するかのように後ろから呼ぶ者がいた。アルカルジの<ruby><rb>執事</rb><rp></rp><rt>サーキン</rt><rp></rp></ruby>
メスト・シルバであった。</p><p>「アジャール家が滅びた今、バラザフ様はアジャール軍の武官ではなくなりました。アルカルジは勿論、旧アジャール領の領主となられたのです」</p><p>「不敬が過ぎるぞ!」</p><p> 憤ってメストに詰め寄ろうとしたが、距離を縮めずともバラザフにはメストが両目を濡らしているのがわかった。それほどまでにメストは泣いていた。</p><p>「バラザフ様にとってアジャール家がどれほど大切だったかは我々も承知しております。しかし、主家を失ったバラザフ様はご自身が独立君主になられました。そのバラザフ様に我等家臣は冥府まで随行しようと覚悟しているのです」</p><p> 陪臣である彼等は、主家であるアジャール家の者よりも、バラザフに期待する所の方が大きく、またバラザフもそれだけの器量を持ち合わせていた。</p><p>「シルバ家独立は父や兄達の悲願であった。それを俺が果たしたのだ。お前達はそう考えろと言うのだな」</p><p> メスト達の想いをバラザフは受け取った。</p><p> 家臣等の前では感傷から抜け出した風に装ったバラザフではあったが、主家の滅亡によって実現した独立は何とも寒々しいものがある。</p><p> アジャール家が滅亡して、シルバ家は対外的な垣根を失い、直接風雨に晒される事になる。独立するとはそういう事である。</p><p>「俺がシルバ家の当主になったときもこうだった」</p><p> この声はすでにシルバ家独立に沸き立っている家臣達には聞こえていなかった。</p><p> 冥府まで供をする覚悟があるとメストが言ったように、バラザフも今まで以上の覚悟が必要なのだと自覚した。この者達とアルカルジ、そしてアジャール旧領を護る責任が生まれたのである。</p><p> <ruby><rb>駱駝</rb><rp></rp><rt>ジャマル</rt><rp></rp></ruby>
の背に荷を担わせた、商人の<ruby><rb>荷隊</rb><rp></rp><rt>カールヴァーン</rt><rp></rp></ruby>
が長い列を成して、<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の門から出て行くのが見えた。</p><p> 時代の潮目に置かれた時、いつもバラザフは未来を視る眼が欲しいという自分の<ruby><rb>志</rb><rp></rp><rt>アマル</rt><rp></rp></ruby>
を痛切に自覚する。</p><p>「人の世の未来とは人の目に見えぬ程、遠く深いものなのだな……」</p><p> そう呟いて、そっと<ruby><rb>札占術</rb><rp></rp><rt>タリーカ</rt><rp></rp></ruby>
の札を卓の奥に押し込んで、引き出しを閉めた。</p><p> バラザフ・シルバ三十六歳。</p><p> 季節に暖かい日が少しずつ増え始めた頃である。</p><div><div>※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。</div><div><br /></div><div>次へ進む</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2022/07/A-Jambiya9-1.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2022/07/A-Jambiya9-1.html</a></div><div><br /></div><div>【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html</a></div><div><br /></div><div>前に戻る</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2022/04/A-Jambiya8-3.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2022/04/A-Jambiya8-3.html</a></div><div><br /></div><div>『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html</a></div></div><div><br /></div>Blog authorhttp://www.blogger.com/profile/05104770986712427544noreply@blogger.com0At Tawdihiyah サウジアラビア24.2072022 48.045634-4.1030316361788444 12.889384 52.51743603617885 83.201884tag:blogger.com,1999:blog-4314757388830094658.post-79276351453235068222022-06-05T05:55:00.056+09:002022-07-05T07:29:31.336+09:00『アルハイラト・ジャンビア』第8章_3<p> シルバ軍がハウタットバニタミムを落とした三ヵ月後、カトゥマルが突如としてアルカルジから攻略戦線を拡げると言い出した。</p><p>「シルバ軍には先陣を切るようにお達しが出ている。フサインやレイスの攻撃を警戒していなければならない今時期に何故だ」</p><p> アルカルジをシルバ軍が押さえているのであるから、先駆けを命じられるのはよいとしても、バラザフにはこれは唐突な指示であるような印象を与えた。</p><p> いざメフメト軍の<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を攻める段階になると、カトゥマルにしては珍しく、知略を使う攻め方をバラザフに問うた。</p><p>「バラザフ、このような小規模の<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
は強攻めで取る事も出来なくはないだろう。だが、今は戦力を極力温存したいのだ。策略で落とす方法は何か無いか」</p><p> バラザフもカトゥマルのこの方策は間違っていないと思った。十万の兵でアジャール軍が<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を包囲しているものの、相手の防御姿勢は堅調で、一気には落とせないと見通していたからである。</p><p> バラザフは、今回、一緒に先陣の任にあるファヌアルクト・アジャールと方策の合議に入った。といっても合議が必要な込み入った案件も無く、バラザフの中でほぼ全て策定出来ていたが、先陣のもう一人の責任者であるファヌアルクトの面目を潰さないように配慮したに過ぎない。</p><p>「さすがはバラザフ殿。その策で行きましょう!」</p><p> ファヌアルクトは猪突な性格が良い方向に伸びて、実直な好青年に成長していた。バラザフは恩師であるエドゥアルド・アジャールが大好きだった。そのエドゥアルドの遺児であるファヌアルクトに、バラザフは少し年の離れた弟のような情愛が湧いて、彼の行く末にも期待していた。</p><p>「昔からアジャール軍は大海を往く<ruby><rb>九頭海蛇</rb><rp></rp><rt>アダル</rt><rp></rp></ruby>
に喩えられています。シルバ殿の知略は正しくその<ruby><rb>九頭海蛇</rb><rp></rp><rt>アダル</rt><rp></rp></ruby>
の頭です。貴方の策なら間違いない」</p><p>「まだその策を示してはいませんよ」</p><p>「大丈夫です」</p><p>「では、敵を誘引する事にしよう。大軍である故こちらの軍紀が緩んでいるように見せるのです」</p><p> バラザフが示した策をファヌアルクトは、素直に実行した。自分から策を生み出す事は無かったが、この青年は昔から作戦遂行能力は高い。</p><p> 城内から矢頃すれすれに部隊を布陣させて、ファヌアルクトは配下の将兵に武器を放擲させ、防具なども一切外して横になって休息を取らせた。まさに、だらけきっているぞという姿をありありと見せつけたのである。</p><p> その上で、ファヌアルクトは、<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の中まで届くように声を張り上げて、</p><p>「お前達、怠慢が過ぎるぞ! 今、敵が出てきたら我等はひとたまりもないぞ!」</p><p> と横になっている兵卒等の上に怒声を投げかけた。</p><p> バラザフに示された作戦内容をファヌアルクトの主従は、敵に気取られる事なく巧くこなした。これがファヌアルクトの統率力が一定の水準を越えているとの、アジャール軍内での評価にもつながる。</p><p> ファヌアルクトの部隊に作戦の表を任せておいて、バラザフの方では裏で動いた。シルバアサシンを城内に送り込んでまた言葉巧みに城兵の行動をこちらの意図通りに制御していた。</p><p> ――アジャール軍はこちらが打って出る事は無いと思っているから、しばらく城攻めの気配はないぞ。</p><p> ――じっとしれいれば今のところは安全だ。そのうちメフメト軍が援軍に来て援けてくれるはずだ。</p><p> <ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の外ではファヌアルクトに倦怠感を演出させる一方で、中では急場の意識を削いで、ゆるりとメフメト軍の援軍を待つように手なずけた。</p><p> 当然ながらメフメト軍の援軍は来ない。次の日もファヌアルクトの部隊は昨日と同じく緩慢な動きを見せている。</p><p> そして、城内の兵士等が援軍への期待が不信に変わり始めた頃、</p><p> ――メフメト軍の援軍はアジャール軍の別働隊に阻害されてここまでたどり着けないらしい。</p><p> ――援軍を進めないようにしている間に、我等の水源を断って日干しにする策略らしいぞ。</p><p> と、城内のアサシンは、今度は焦燥感を掻き立てる噂を流した。この流言は城内の兵によく利いた。</p><p> <ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の外に目を向けてみれば、よく見える距離でアジャール軍が十分な食事を与えられて、満腹に満足する表情を食事のたびに浮かべている。武具すら投げ出して、余裕この上無い。</p><p> 長期戦への準備のため、<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の中では食料割り当てが厳しく、中の兵士は自分達の空腹と外の満腹感が対比されて、精神的に堪えてきた。</p><p>「畜生。アジャール軍の奴等ゆっくり食事なんか摂りやがって」</p><p>「ここ数日武器を持った奴の姿を見ない。あいつなんか横になりっぱなしだ」</p><p>「油断しているアジャール軍を今叩いて、食料を頂戴したらどうだ」</p><p> 空腹に耐えに耐えている所へ、豊かに食事している姿を見せ付けられては、城内の兵士に、このように打って出よう、打って出たいという気運が高まっていくのは当然の事であった。</p><p> バラザフの狙い通り敵はアジャール軍は悠長に休み続けると思い込んでいる。</p><p> <ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の上空の突如として火柱が昇った。戦火のそれではなく、ケルシュが城兵が攻撃に転化する事を中から信号を発してきたのである。</p><p> バラザフは自らファヌアルクトの部隊に駆け寄って叫んだ。</p><p>「中から敵が出てくるぞ! 武器を拾って迎撃の準備をしろ!」</p><p> ややあって目視で見張っていた兵も敵の動きを察知して味方に報知してきた。</p><p>「門が開いた! 打って出てくるぞ!」</p><p> ファヌアルクトの部隊は武器だけ拾って起き上がった。もう防具を装備する時間は無い。敵の誘引に成功した反面、危険度の高い戦いとなる。</p><p> 敵が攻めに転じた時、弓矢や<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
を使ってこなかったので、この賭けはまずアジャール軍側に有利になった。</p><p> ファヌアルクト自身も槍を携え敵を迎撃した。彼も鎧を身に着けていない。後ろからバラザフが援護しているが、彼もまた軽装である。バラザフは得意の<ruby><rb>諸刃短剣</rb><rp></rp><rt>ジャンビア</rt><rp></rp></ruby>
を振り回して叫んだ。</p><p>「落ち着いて敵の剣筋を見ろ! こちらのほうが圧倒的に多いのだ。慌てなければ死なずに済む戦いだぞ!」</p><p> そういう彼は<ruby><rb>諸刃短剣</rb><rp></rp><rt>ジャンビア</rt><rp></rp></ruby>
で左右の敵を受けている。</p><p> バラザフの言ったように、兵力差を活かした戦い方でファヌアルクト、バラザフの部隊は着実に優勢に事を運んでいった。</p><p> 数えにして千程の時間が経過した。敵兵の一団は潰走し始め、中には武器を放り出して一目散に逃げる者もいた。</p><p> ここまで来ると後は押し潰すだけで、アジャール軍は城内に逃げる兵と共に中へ奔流となって流れ込んだ。</p><p> その奔流の先頭にバラザフがいた。こういうときのバラザフは智将から猛将に一変する。当たる先から敵兵が<ruby><rb>諸刃短剣</rb><rp></rp><rt>ジャンビア</rt><rp></rp></ruby>
の血祭りに上げられ悲鳴と共に倒れ伏してゆく。</p><p> 敵兵が押し出して来てから、<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
が陥落するまで半刻も無かった。</p><p> この戦いでの勇猛さが衆口に乗って周辺諸族に広まり、アジャール軍の威風は高揚した。</p><p>「シルバの勇猛さは同じ武人として誇らしい事この上無い。バラザフの勇猛さを一番良く分かっているのは、ずっと傍で見てきた私なのだ。さらに、それ以上に今回の作戦は見事だった。この地上にもはや<ruby><rb>九頭海蛇</rb><rp></rp><rt>アダル</rt><rp></rp></ruby>
の頭がバラザフ・シルバである事に異論をはさむ者はいまい」</p><p> カトゥマルは満足げに、ファヌアルクトと同様にバラザフの智勇を<ruby><rb>九頭海蛇</rb><rp></rp><rt>アダル</rt><rp></rp></ruby>
の頭として賞賛するのであった。アジャール軍の中ではすでに自分達を世評と同じように<ruby><rb>九頭海蛇</rb><rp></rp><rt>アダル</rt><rp></rp></ruby>
に喩える事が一般的になっていた。</p><p> その夜――。</p><p> カトゥマルの方から供も連れずにバラザフの陣の<ruby><rb>天幕</rb><rp></rp><rt>ハイマ</rt><rp></rp></ruby>
を訪れた。</p><p>「バラザフにやってもらいたい仕事があるのだ」</p><p> アジャール家の当主に就いてからカトゥマルはバラザフを家名で呼んでいた。今、こうして旧友として名前でバラザフを呼んだが、その声には懐かしさよりも、空虚な響きしか無い。</p><p>「カトゥマル様の方から私を訪れずとも、私は呼びつけて下さればよろしかったのです。それはさておき、如何なるご用件で」</p><p> カトゥマルの空虚な雰囲気が表情にあらわれてきた。疲れている様子である。</p><p>「新しい<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
建設を総務してほしいのだ」</p><p>「新しい<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を」</p><p>「うむ。ハラドを放棄する」</p><p>「どういう事です」</p><p>「今のハラドを棄てて<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を新設したいと考えている。その総務をバラザフに任せたい。ズヴィアド・シェワルナゼ、エルザフ・シルバから築城技術を仕込まれたアブドゥルマレク・ハリティはもう居ない。今のアジャール軍を見渡せば、すでに築城技術を持つ武官はそなたしか居なくなっていたのだ」</p><p> バラザフは黙ったままカトゥマルの話に耳を傾けていた。カトゥマルから出ている疲労感から、話はそれだけではないと察したのである。</p><p>「私がアジャール家を継いでから、古豪と呼ばれる猛者達が相次いで世を去ったと思えば、今度は側近と親族の派閥が反目している」</p><p> カトゥマルは、アジャール家の現状を染み出るような言葉で、バラザフに語った。家臣の派閥同士の諍いが元で、自分がやろうとしている組織、経済、軍制等々の新生が思うように下の者の協力が得られないというのである。</p><p>「あまつさえ、ハイレディンの勢力は日増しに増長を続けるばかりなのだ。このような打つ手なしという状況が続けばアジャール家が時の流れから孤立してしまうのは目に見えている。我等が生き残ってゆくには確執の無い新たな場所でアジャール家を生まれ変わらせる必要があるのだ」</p><p> 切羽詰ったカトゥマルの言葉であった。</p><p>「それを余人に漏らさぬようにお一人でここまで参られたわけですか」</p><p>「うむ、そうなのだが……」</p><p> カトゥマルの歯切れの悪さから、バラザフには果たしてこの密事が二人だけのものになるのかどうか、という疑いを持った。そしてやや思案し、</p><p>「<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
新設の任、引き受けましょう。私の方から言うのも障りがありますが、カトゥマル様とは兄弟に等しき幼馴染。アジャリア様にも手塩にかけて育てていただいた、このバラザフ・シルバ。ここでカトゥマル様の頼みを断れば、冥府でこっぴどくアジャリア様に叱られましょう」</p><p> 役を受けると供に、バラザフはカトゥマルに笑みで返した。</p><p> 主命として下達すれば済むものをそうせずに、わざわざ自ら頼みに来る腰の低さに昔のような親しさを感じた。確かに事を漏らさぬという意図はあっての事だろう。だが、カトゥマルの態度からバラザフは、やはりこの人は一族を率いる身分になっても、</p><p> ――驕慢とは別の世界に在る人だ。</p><p> と感じていた。</p><p> そして自分の持てる知識を全て、この<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
新設に注ぎ込もうと心に決めたのである。</p><p> カトゥマルとバラザフが、<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
新設にここと決めた場所は、ハラドの旧<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
から西に行軍距離で二日程の距離にあるタウディヒヤという集落のある場所で、大まかな工程としては、この集落を城壁で囲み城<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
にしてしまうというものである。</p><p> 住民に給金を払って労働力として稼動させて、<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
が完成すれば住民は新首都民になり、ハラドからも移住を受け入れる手筈である。</p><p> このタウディヒヤは、ハラドとアルカルジのちょうど中間点にあたり、タウディヒヤからはアルカルジを挟んですぐリヤドとの行き来が可能になる。カトゥマルの中に、故郷であるリヤドに新首都を近づけたいという心境があったかどうかは、彼はそれは表には出さなかった。</p><p> タウディヒヤの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の新設のため、活動拠点を現地に遷さなければならないバラザフは、アルカルジ等の所領の仕置を、イフラマ・アルマライなどの信頼出来る血縁者の家臣に委任する措置をとった。</p><p>「あまり大きく作りすぎても、また移設という事も有り得るから規模の策定が難しい点だな」</p><p> バラザフが<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の規模に深慮しているのは、防衛上の理由もある。大きすぎると警備の目が行き届かないし、内通者の発見も遅れる。小さすぎると兵員の常駐が困難になり、そもそも砦としての用を成さない。</p><p> また視点を戦闘に置くならば、攻守の均衡の取れた備えがよく、一般論でありながら、最も実現が難しい事であった。</p><p> また、生前ズヴィアド・シェワルナゼは築城について、</p><p>「<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
はそれ自体が巨大な生き物だ。中に住む人が生き延びられなくては機能しないものだ。生きるうえで一番大事な物は水だ」</p><p> と、教えていた。</p><p> 水源の確保はどこの集落でも重要課題である。が、政策としての水源確保をせず、遠くに水を汲みに行かせるなどして、住民の負担とする諸族も多い。</p><p> まず<ruby><rb>井戸</rb><rp></rp><rt>ファラジ</rt><rp></rp></ruby>
を掘って現存のものよりさらに数を増やし、貯水溝を用意しようと考えた。そして、</p><p> ――水源。</p><p> である。</p><p> タウディヒヤの周辺には水源となり得るような、<ruby><rb>砂漠緑地</rb><rp></rp><rt>ワッハ</rt><rp>)</rp></ruby>
は無い。それゆえに今まで集落が<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
にまで発展してこなかったといえるのだが、バラザフは、タウディヒヤの水源を自領のアルカルジから引いてこようと考えた。</p><p> 水を共有する事は命を共有する事である。バラザフが、カトゥマルを主君以上に、兄弟として信頼としている表れであった。</p><p> ここまで決まった所で、労働力の供給が開始された。</p><p>「カトゥマル様、これがタウディヒヤの完成予定図となります」</p><p> カトゥマルが絵図に目を落としている横で、バラザフは得意気な顔をしている。</p><p>「もうお気づきでしょう」</p><p> カトゥマルは図を凝視している。そして、</p><p>「これは、まるでハラドの再現ではないか」</p><p>「その通りです。ハラドの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
をそのまま移写し、各区割りを模倣して建設する予定です」</p><p> 区画構成をハラドと同じくした事で、今までの防備訓練様式をそのままあてる事が出来、今までハラドを防衛していた兵員の負担も軽減される。</p><p>「新機を得て活路を見出そうというカトゥマル様の意図を汲ませていただくと同時に、旧臣が新体制に振り落とされぬよう配慮した設計になっております」</p><p> そして、引いてきた水を城壁の外に貯水溝と濠を兼ねて備えておくことによって、農産の発展が期待でき、水に<ruby><rb>水牛</rb><rp></rp><rt>ジャムス</rt><rp></rp></ruby>
や<ruby><rb>駱駝</rb><rp></rp><rt>ジャマル</rt><rp></rp></ruby>
などの動物が集まってきて、これらを捕獲すれば、住民にとっても益多き事になるのだと説明した。</p><p> 最後にバラザフは、全てを変えてしまうのではなく、旧き物からの微妙な変化が、新しき風を吹かせる要になるのではないかと、自分の意見を付言した。</p><p> 時代の急速な流れがカトゥマル・アジャールという一指導者に与えた時間はそれほど長くはない。カトゥマルとバラザフは、タウディヒヤの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の建設を大急ぎで進めて完成させた。</p><p> ハラドの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
という防備の一つの体系として確立していたものを模造したため、急ごしらえにしては、しっかりと砦としての用を成すものが出来上がった。</p><div><div><br /></div><div>※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。</div><div><br /></div><div>次へ進む</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2022/04/A-Jambiya8-4.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2022/04/A-Jambiya8-4.html</a></div><div><br /></div><div>【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html</a></div><div><br /></div><div>前に戻る</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2022/03/A-Jambiya8-2.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2022/03/A-Jambiya8-2.html</a></div><div><br /></div><div>『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html</a></div><div><br /></div></div>Blog authorhttp://www.blogger.com/profile/05104770986712427544noreply@blogger.com0At Tawdihiyah サウジアラビア24.2072022 48.045634-4.1030316361788444 12.889384 52.51743603617885 83.201884tag:blogger.com,1999:blog-4314757388830094658.post-56957745954150064632022-05-05T05:55:00.086+09:002022-06-13T18:17:51.057+09:00『アルハイラト・ジャンビア』第8章_2<p> カーラム暦1001年秋、ザラン・ベイにカトゥマルの妹が嫁いだ。バラザフもアジャール側の随員としてこの婚礼の儀に加わっていた。ここでザランと彼の参謀のナギーブ・ハルブと初めて顔を合わせた。</p><p> この時、バラザフ・シルバ、二十三歳、ザラン・ベイ、二十四歳。ナギーブ・ハルブはまだ十九歳である。</p><p> 自分と同年代の者がすでに国を束ねている。二人の若き指導者にバラザフは興味を持った。</p><p>「カイロの義人サラディン・ベイの薫育を受け、信頼をおいたハルブが自分より若い士官だったとは」</p><p> 十九歳、その頃の自分は今のハルブの格には及ばないかもしれないというのが正直な感想である。ハルブも<ruby><rb>謀将</rb><rp></rp><rt>アルハイラト</rt><rp></rp></ruby>
と呼ばれてもおかしくない程、これから逸話を歴史の上に幾つも刻んでゆく将である。だが、バラザフと会った今時期には目を見張るような活躍はない。それなのに若さを削ぎ落としてしまったかのような深みが、その人格の奥にある。過日、バラザフがファリド・レイスを「若さに苔の生えたような男」と評したのとは別種の老成である。</p><p> そして、</p><p> ――低くて深く響きのある声だ。</p><p> と表面上の印象を受けた。</p><p>「バラザフ・シルバさんですね。アジャリア公の息吹を受けたアルハイラト・ジャンビアの名前はカイロまで届いておりますよ」</p><p> ハルブは、バラザフをこのように当たり障りの無い褒め方をした。</p><p>「この新規の同盟関係が両家にとって多幸である事を当家も願っております」</p><p> バラザフも定型句のような返答をハルブに返しておいたが、二つの道が交わったこの先に何が待ち受けているのかは、アルハイラト・ジャンビアといえども、見通す事は困難であった。しかし、少なくともアルカルジ一帯の仕置に関して、ベイ家が干渉してくる事が無くなるのは、状況は好転したと受け取っていいはずである。</p><p> カトゥマルは、これより後のベイ軍に関する外交処理の全権をバラザフに与えて、一任した。</p><p> 意識をハルブに戻すと、向こうはこちらをじっと見つめている。瞳の中を覗き込んできるような凝視である。針金のような張り詰めた視線、さりとて<ruby><rb>邪視</rb><rp></rp><rt>アイヤナアルハサド</rt><rp>)</rp></ruby>
とも違う。不思議な目つきだが、少なくとも体裁を見ているのとは異なる事だけは確かなようであった。</p><p> こちらも相手の内心を探ってやろうと、瞳を覗き込んでみるものの、針金の視線で圧してくるので、心の身動きが取れない。</p><p> ここで意固地に踏ん張る意味も無い。バラザフは肩の力を抜いて思考を解除した。</p><p>「アジャリア公に因んで、このバラザフをお褒め頂けるとは、小官にとっては、この上ない喜びです」</p><p>「アジャリア公の懐刀、アルハイラト・ジャンビアの切先がこちらに向けられぬ事無く済んで、ほっとしております」</p><p> ナギーブが口に笑みを浮かべ、バラザフも笑った。</p><p>「我等アジャール軍も、強兵のベイ軍を味方につける事ができて、厄介な敵が減って、此度の同盟をありがたく思っております」</p><p> これは本音であった。</p><p> 次いで、バラザフは、ザランへ言上を向け直して、</p><p>「ただ、災厄がまだ残っております。シアサカウシン・メフメト殿の事です。昨年、我等のアルカルジ周辺を現れてハウタットバニタミムをまんまと手中に収めてしまいました」</p><p> 滅多に笑顔を見せないザランは、バラザフの口上に対しても、<ruby><rb>厳</rb><rp></rp><rt>いかめ</rt><rp></rp></ruby>
しく無言でただ肯首したのみでった。戦いに出るより、人に愛想を見せる事の方が余程至難な人なのである。</p><p> バラザフの口上にあるように、カイロ擾乱の発生の後、同盟関係であったアジャール軍とメフメト軍の間に険悪な情調が充満していた。</p><p> その情調を体現するかのようにメフメトは、アジャールの領土にまで食指を伸ばしつつある。</p><p>「ハウタットバニタミムには八千の兵が置かれ守備しています。カトゥマル公から我がシルバ家に対して、早々にハウタットバニタミムを攻撃して奪取するように命が下っておりまして、これから城攻めに入りますので、それをベイ家にも承認していただきたい」</p><p> ザランは、厳しい面容を保っていたが、ナギーブを一瞥した。ナギーブの口から言葉は無い。</p><p>「その件、ベイ家も承認する。アルカルジ方面の領土獲得はシルバ家の随意にするがよい。アジャール殿にもそのように伝えてくれ」</p><p> 実際に兵をもらわずとも、ベイ家とアジャール家、大勢力が二つも後ろ盾になっているという事実だけでも、万敵を怯ませるには十分な材料である。</p><p>「アジャール家と結んだからというわけではありませんが、今ベイ家は、レイス、フサインとの外交処理に多忙なのです。アルカルジ方面が敵に取られるよりは、味方であるシルバ家に押さえておいてもらえれば、我々にも安心感が広まるというものです」</p><p> シルバ家のハウタットバニタミム攻略に関してナギーブはこのように結んだ。</p><p> バラザフは、アジャール家、ベイ家双方の承認を得た。これは盤面をアルカルジ近辺に絞って戦えばよい事になり、寡兵を自らの知謀によって大戦力に化けさせるバラザフには、格好の舞台が与えられたといってよい。</p><p> この地方の一番の要点であるアルカルジをシルバ軍が押さえているとはいえ、ハウタットバニタミムの地理的価値も軽視出来るものではない。</p><p> リヤド、ハラドに接しているのはもとより、オマーンやジュバイルにも通じている。ハウタットバニタミムばかりでなくアルカルジの地方全体が各地の接点となる。だからこそ、メフメトが手を伸ばしてくる事も出来るのである。</p><p> アジャール軍がハウタットバニタミムを攻略するのは二度目である。アジャリアの時代からアジャール軍は、大略を推し進めるために、一度獲得した<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を敢えて放棄するという事は何度も行ってきた。</p><p> 兵力の分散を極力回避し、<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の経営のために要する兵員や食料を抑えるためである。</p><p> ハウタットはアジャリアの攻略の主軸が北に遷されるとともに、戦略的価値が低下し放棄され、アルカルジの別の族が入っていた。そこをメフメト軍に攻略された。</p><p> ハウタットバニタミムの周りには<ruby><rb>涸れ谷</rb><rp></rp><rt>ワジ</rt><rp>)</rp></ruby>
が点在している。雨が続くとこれが天然の<ruby><rb>濠</rb><rp></rp><rt>カンダク</rt><rp></rp></ruby>
になる守りの一役を担う。今、その利を使っているのが、メフメト軍である。</p><p> アジャール軍の方針がエルサレムへの進攻を手控えて、守りに重点を置くようになり、ハウタットの戦略的価値が再び上がってきた今、是非とも押さえておきたい<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
なのである。</p><p> バラザフは以前にここでの攻城のとき、<ruby><rb>間者</rb><rp></rp><rt>ジャースース</rt><rp></rp></ruby>
を用いて、敵を撹乱して戦功を上げた。つまり、</p><p>「今回はその手は通じないと見たほうよいかもな」</p><p> 抜け目の無いメフメト軍の事である。当然、当時のハウタットの下士官を探し出して、昔日のバラザフがここで用いた戦法も知っていよう。</p><p> <ruby><rb>涸れ谷</rb><rp></rp><rt>ワジ</rt><rp>)</rp></ruby>
の増水によって自陣が呑み込まれる事を、父エルザフは危惧していた。そして、今でも城壁から降ってくる矢の雨も、十分に留意しなければいけない点の一つである。</p><p>「つまりは水に飲まれなければいいのだ」</p><p> 次の日、手配された<ruby><rb>間者</rb><rp></rp><rt>ジャースース</rt><rp></rp></ruby>
が大量の板と丸太の載せて現れた。</p><p>「よし、簡単な足場を作るぞ」</p><p> 工兵達の作業が始まる。工兵達は丸太を砂地に深く打ちつけ、その上に板を乗せて固定する。それだけである。</p><p>「板と丸太の固定だけは抜かりなくやっておいてくれよ」</p><p> 次の日の昼前には、敵の矢頃の外あたり、味方の陣の前面に野外演劇場のような足場が出来た。最前に板が敷かれればそれで十分である。</p><p>「足場の準備はできた。フート、<ruby><rb>投槍</rb><rp></rp><rt>ビルムン</rt><rp></rp></ruby>
を用意してくれ」</p><p>「<ruby><rb>投槍</rb><rp></rp><rt>ビルムン</rt><rp></rp></ruby>
ですか。ジュバイルを攻撃した時以来見ておりませんが。私も正式に配属されるのは此度が初めて故、まだ積荷まで把握し切れていないのです」</p><p>「しくじったな……。あれからレブザフの<ruby><rb>荷隊</rb><rp></rp><rt>カールヴァーン</rt><rp></rp></ruby>
から移していなかったのか」</p><p> レブザフの所へ使いを遣って<ruby><rb>投槍</rb><rp></rp><rt>ビルムン</rt><rp></rp></ruby>
を手配しても早くても届くのは明日になるだろう。それまで待機するよう各隊に下達しようとした所へ、</p><p>「遠くから小規模の<ruby><rb>間者</rb><rp></rp><rt>ジャースース</rt><rp></rp></ruby>
がこちらへ向かってきております」</p><p>「どこの者だ」</p><p>「敵ではないようですが……」</p><p> バラザフ達が相手の出方を伺っていると、</p><p>「お久しぶりです、兄上」</p><p>「レブザフではないか。どうしてここに。今、丁度お前に使い送るところだったのだ」</p><p>「ええ、そうでしょう」</p><p> レブザフは夢に、亡きエドゥアルド・アジャールが現れたのだと言う。レブザフはバラザフと違って生前エドゥアルドとはそれほどの親交は無い。そのエドゥアルドの、</p><p> ――バラザフ……足場……。</p><p> という言葉だけが、目を覚ましたレブザフの脳裏に妙に残った。そして足場という言葉から、バラザフがまた<ruby><rb>投槍</rb><rp></rp><rt>ビルムン</rt><rp></rp></ruby>
使った戦術を考えているのだと、思い至ったと言う。</p><p> バラザフは、エドゥアルドから自分の成人の祝いとして貰った<ruby><rb>孔雀石</rb><rp></rp><rt>マラキート</rt><rp></rp></ruby>
の<ruby><rb>象嵌</rb><rp></rp><rt>ぞうがん</rt><rp></rp></ruby>
が施されている、あの<ruby><rb>諸刃短剣</rb><rp></rp><rt>ジャンビア</rt><rp></rp></ruby>
を見つめた。</p><p>「たしか、<ruby><rb>孔雀石</rb><rp></rp><rt>マラキート</rt><rp></rp></ruby>
の加護で、戦場で仲間の援けを得られるのだったか……」</p><p> 死してなお子を想うのエドゥアルドの親心のようなものを感じ、バラザフはじわりと両目を潤ませた。そして、レブザフの兄弟愛にも心奥で感謝した。親しい者には感謝の言葉というものは、なかなか素直に出せないものである。</p><p>「兄上、水に近いこの場所をわざわざ選んだのですか」</p><p>「うむ。以前俺は父上、兄上達とハウタットを包囲したとき、この北側を担当したのだ」</p><p>「ええ」</p><p>「その時俺は<ruby><rb>間者</rb><rp></rp><rt>ジャースース</rt><rp></rp></ruby>
を使って北側の櫓を落として、そこから突破口を開いた」</p><p>「同じ手を使うと?」</p><p>「また同じ手を使うかのように偽装したのさ」</p><p>「なるほど!」</p><p>「敵はきっと俺が<ruby><rb>間者</rb><rp></rp><rt>ジャースース</rt><rp></rp></ruby>
を使ってくると思っている。夜間の警備も厳重にするだろう。その分疲労が溜まる」</p><p>「そこへ<ruby><rb>投槍</rb><rp></rp><rt>ビルムン</rt><rp></rp></ruby>
というわけですか」</p><p> レブザフは<ruby><rb>投槍</rb><rp></rp><rt>ビルムン</rt><rp></rp></ruby>
だけでなく、それを投げる強肩の兵もしっかり連れてきていた。</p><p> <ruby><rb>投槍</rb><rp></rp><rt>ビルムン</rt><rp></rp></ruby>
部隊は、用意された足場に踏ん張り、城壁の兵を次々と仕留めていった。が、それだけでは十分ではない。</p><p> バラザフが足場となる橋を架けさせたもう一つの理由が、周囲から寄せる水を避けるためである。すでに北側の城壁の下には水が流れ込み<ruby><rb>濠</rb><rp></rp><rt>カンダク</rt><rp></rp></ruby>
を成している。せっかく城壁の兵を倒しても、これを渡るのに難儀している間に、残存の兵から上から攻撃されては、<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の攻略どころではない。</p><p>「今、<ruby><rb>間者</rb><rp></rp><rt>ジャースース</rt><rp></rp></ruby>
を潜入させれば、容易に開門出来よう。こちらは今回は正攻法で攻めると思っている裏をかくのだ。敵の出方を予測する事、これが俺の未来を視る眼であると思っている」</p><p> 此度の戦いに一緒に出陣してきていた長男のサーミザフは、父の言葉を教練のように聞き入っていた。だが、実直そのものであるサーミザフには、父バラザフの戦術は分からない事だらけである。特に敵の裏をかくという、正攻法から離れてゆく奇法に、不確かな危うさを、この頃から感じていた。</p><p> 確かに父バラザフの未来を視る眼は当たる。だが、その未来を覆すさらに大きな未来に呑み込むように襲われたとしたら、シルバ家のような小船は一瞬で沈んでしまうのではないか。生真面目な人間の抱え込む苦労がそこにある。</p><p> バラザフが初めて総大将として采配を振るう舞台が、この二度目のハウタットバニタミムの攻略戦となった。</p><p> 今までもアジャール軍は、バラザフの発案によって動いている部分はあった。だが、それも上の裁可あっての事であり、上にはカトゥマルの判断を仰ぎ、後方ではテミヤトなどの目付けが、バラザフ等若い将に手抜かりが無いか常に見張っていた。</p><p> 先のハイレディンとの戦いにおけるテミヤトの一連の行動から、バラザフは、これまで後方で監督していたテミヤトに好感を持てなくなっている。それもあって、今、自由に采配を振るっているという実感は大きなものなっていた。</p><p>「<ruby><rb>投槍</rb><rp></rp><rt>ビルムン</rt><rp></rp></ruby>
で打撃は十分与えた。後は力で押すか、<ruby><rb>間者</rb><rp></rp><rt>ジャースース</rt><rp></rp></ruby>
を使うか、の二択にしてしまってもよいのだが」</p><p> バラザフは答えを急がず明日の朝までに結論する事にして、その晩は眠りについた。</p><p> 夜明け間近き頃――。バラザフの枕元に寄せてあるアジャリアから下賜された<ruby><rb>諸刃短剣</rb><rp></rp><rt>ジャンビア</rt><rp></rp></ruby>
に<ruby><rb>象嵌</rb><rp></rp><rt>ぞうがん</rt><rp></rp></ruby>
された<ruby><rb>翠玉</rb><rp></rp><rt>ズムッルド</rt><rp></rp></ruby>
が淡い光を発し始めた。それと共鳴するかのようにエドゥアルドの<ruby><rb>孔雀石</rb><rp></rp><rt>マラキート</rt><rp></rp></ruby>
も光る。</p><p> 光はゆっくりと拡がり一つの光になると、そこにアジャリアとエドゥアルドの姿が映し出された。</p><p> ――バラザフが総大将となる日が来ようとはな。</p><p> ――何を言います、兄上。我等の弟子なのです。これでも遅いくらいですぞ。</p><p> ――いやいや、わしは出世は遅い方が大成すると思うがの。</p><p> ――今回は力攻めはするなと言いたいのですかな。</p><p> ――そうじゃな。バラザフの初の采配だ。無事に勝たせてやりたい。</p><p> ――バラザフ。我等はそろそろ行く。自分の力を巧く活かせよ……。</p><p>「アジャリア様! エドゥアルド様!」</p><p> まだ靄掛かる脳裏に二人の言葉が残響する。</p><p>「夢……か……」</p><p> 二つの象嵌から返す光は朝露のものだけではなかった。</p><p> 朝一の軍議でバラザフは、</p><p>「シルバアサシンを潜入させる」</p><p> と方針をを下に示した。</p><p>「亡きアジャリア公、エドゥアルド様のご遺志である」</p><p> 夜明けに現れたアジャリアとエドゥアルドの言葉を受けての事であるが、下の者にとってはその意味は、亡きアジャリア公の戦術を踏襲するのだ、というくらいにしか理解出来ていなかったであろう。</p><p> ハウタットバニタミムの将兵にとっては足下に築かれたシルバ軍の足場と、<ruby><rb>投槍</rb><rp></rp><rt>ビルムン</rt><rp></rp></ruby>
の攻撃が強く印象付けられている。</p><p>「またあの長槍を投げてくるか、城壁に圧しをかけてくるのだ」</p><p> と、正攻法的な防備を固める姿勢を見せた。</p><p> バラザフは、これをシルバアサシンの使いどころと見た。</p><p> ケルシュ部隊の特技は城への潜入である。数名ずつの班に分けて、夜の闇と共に中に侵入した。すぐさま流言が流れ始める。</p><p> ――シルバ軍の大将は投降する敵兵は手にかけないらしいぞ。</p><p> ――兵士だけではなく将官の命も保証されるらしい。</p><p> ――そればかりか褒美まで与えられるらしい。</p><p> ――手向かいすればアジャール軍十万で我等を皆殺しに来るらしいぞ。</p><p> 流言が十分に飛び回ったあたりで、バラザフはハウタットの太守に降伏を勧告した。それに加えて太守の配下にも黄金を贈り、さらにその下の仕官にも、ケルシュに金貨を配らせた。ナギーブ・ハルブがカトゥマルとその配下に<ruby><rb>賂</rb><rp></rp><rt>まいない</rt><rp></rp></ruby>
をしたのと同じやり口である。</p><p> これで城内の守衛の意気は大いに低下した。</p><p> シルバ軍に対して徹底抗戦を訴える士官は少数派になり、降伏した方が痛手を受けなくて済むという言葉が、一様に衆口に乗るようになってきた。仕官の中にはすでにシルバ軍から黄金を受け取った者もいるという噂も、兵卒間が顔合わせると口に出る、合言葉のようになっている。</p><p> 城内の流言作戦も熟してきた。城内には充つる空気は、降伏後、自分達の処遇はどうなるのか、それだけである。太守ですら戦う意欲を失くしている。それでも降伏に踏み切れないのは、メフメト軍に帰参した際に立つ瀬が無くなる事を恐れているからに過ぎない。</p><p> ここで一押しと、バラザフは周辺の諸族からハウタットの副将に転身している者達に声を掛けた。</p><p>「今降伏すれば全て水に流そう」</p><p> 太守にこれ以上の義理立ては不要と、副将等は降伏を受け容れた。バラザフはさっさとその者たちと配下の将兵達を、ハウタット周辺の彼等の封地に還した。領地安堵を約束するとともにハウタットの実効戦力を削ぎ落としたのである。</p><p> 主だった将兵が離脱した事で、ハウタットバニタミムの防衛機能は皆無となり、太守はやむなく<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を明け渡し、野に下っていった。</p><p>「<ruby><rb>投槍</rb><rp></rp><rt>ビルムン</rt><rp></rp></ruby>
と金貨で<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
が落ちた」</p><p> ハウタット側は一度も抵抗らしい抵抗すらさせて貰えなかったという事でになる。</p><p>「ハウタットには明日入城する事にしよう。その前に――」</p><p> バラザフは、配下に城内の安全を念入りに確かめさせた。古来、城の明け渡しに事件は付き物である。</p><p> 翌日はバラザフは、堂々と<ruby><rb>太鼓</rb><rp></rp><rt>タブル</rt><rp>)</rp></ruby>
を鳴らさせて、正面の門から入城した。</p><p>「サーミザフ、戦争は犠牲少なくして勝つ事が大切だ。知恵を駆使して勝つ。力押しで勝つのは上策ではないのだ」</p><p> バラザフは入城行進で傍らに馬を進める長男に話した。</p><p>「一兵の損失も出さず、また負傷者も一人も出さず。そのような戦術が仕官として将軍として目指す究極かもしれない」</p><p> バラザフのハウタットバニタミム入城に従う兵は、騎馬兵三千、歩兵二万である。今回連れてきたのはアルカルジのシルバ軍であり、バラザフはリヤドにも手持ちの兵を残してきているので、今のシルバ軍の総戦力は三万前後まで成長していた。</p><p> バラザフの周囲には従卒が四人、前に二人、後ろに二人、彼の<ruby><rb>諸刃短剣</rb><rp></rp><rt>ジャンビア</rt><rp></rp></ruby>
を天に向けて高く戴剣して、先頭にはアジャリアから下賜された、あの<ruby><rb>孔雀石</rb><rp></rp><rt>マラキート</rt><rp></rp></ruby>
の象嵌の<ruby><rb>兜</rb><rp></rp><rt>カウザ</rt><rp></rp></ruby>
を掲げた者が行く。こうした式典には普通、真っ直ぐな直刀を天に向けるものなので、そこに<ruby><rb>諸刃短剣</rb><rp></rp><rt>ジャンビア</rt><rp></rp></ruby>
を用いたのは些か異様な光景だということはできる。</p><p>「バラザフがハウタットバニタミムを陥落させたのか。私ですらそのような威風堂々たる行進の主役になった事などないのに、何とも羨ましい限りだ」</p><p> バラザフのハウタットバニタミム入城の風景を、ハラドにて伝え聞いたカトゥマルは、我が事のように満足げに大きく頷いた。</p><p>「ハウタットの奪取がようやく成った。だが、それよりも私はバラザフの初の指揮が成功した事の方が嬉しいぞ!」</p><p> そしてハウタットバニタミム奪取成功を祝す使者をバラザフに遣った。使者はハウタットの太守をバラザフが自領と兼任せよとの辞令も持ってきている。カトゥマル・アジャール公認でハウタットバニタミムをシルバ軍の領土と認めたに等しい。</p><p> 事実、このハウタットバニタミムの入城行進が、アルカルジを始めハウタットを含めた周辺地域の支配者は、バラザフ・シルバであると示すものとなった。</p><p> そして、この領域こそがバラザフがシルバ家を一地方の領主として独立を可能にする重要基盤となるのである。</p><p>「まだまだ周辺にはシルバ家に従わぬ小族や<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
も多い。だが、この地方の支配者は、このバラザフ・シルバである事に異論を挟む者はもはや居ないであろう」</p><p> ハラドにいる奥方と次男のムザフに、バラザフが手紙でこう記したように、今回の入城行進はこの一帯におけるシルバ軍の示威行動となった。</p><p> 奥方もムザフも、バラザフからの手紙を何度も読み返しては目を輝かせていた。二人の眼前には自信に満ちた父バラザフの勇姿が映っており、二人ともバラザフの鬼才をよく知っていたため、彼が思う存分采配を振るえる事を喜んだ。</p><p> この時、次男のムザフ・シルバは十三歳、男子であれば、兄が戦場で父の隣で馬を並べているのを羨望してもおかしくない歳である。</p><p> カトゥマルからハウタットバニタミムの支配を任されたバラザフは、親族の者を太守の任にあたらせ、長男のサーミザフをまたハラドに帰還させる事にした。</p><p> この旅でバラザフは叔父のイフラマ・アルマライに頼んで、サーミザフの護衛のため一緒にハラドまで帰ってもらうようにした。イフラマもシルバ家の男子として歴戦を生き抜いてきた者らしく、サーミザフをハラドまで護衛するくらいの任はどうという事は無い。今回の旅の彼の苦労は別の所にあった。</p><p> 彼は道すがら、ずっとサーミザフから質問攻めにされ、シルバ家の古事を語り続けるはめになった。一つ語り終えるとすぐに次の問いが来る。持っている記憶を残らず引き出されるような感じであった。</p><p>「シルバ家はリヤドの周辺地方の小領の領主だったのだが、さらに古くはシルバの名から分かるように、西のアルブルトガールまたはブルトガールという異国から渡ってきた一族なのだ」</p><p> 生真面目な性格が人の形を成しているようなサーミザフは、その形成を崩さずに、イフラマの話を一心に聞き入っている。生真面目な彼が自家の来歴を詳細に知っておこうと思ったのは当然であり、その引き出しをイフラマに求めたのはこれまた当然の事であった。</p><p> なにしろ父バラザフは、自分が物心つく前から常に戦場を駆けている。主家のアジャリア自身が求めたものにせよ、アジャール軍は常に波乱の中になり、バラザフもその荒波に揉まれる小船の一双であった。</p><p> ムサンナでの敗戦以降は特に家中の緊迫が高まり、バラザフはたまに家に戻ってきても、なかなか戦場での険を解く事が出来ずにいた。親子が胸襟を開いて語らう機会を作ってこれなかったのである。</p><p> だが、そんな父をサーミザフは憎いとは思わない。むしろ主家を守るため、そしてシルバ家を守り抜くため奔走している父の背中を見て、そこに尊敬の念を感じていた。</p><p> だからこそシルバ家の事をもっと知っておきたいと、生真面目の彼の中に、ある種責任感のようなものが発生していた。知ってさえいれば父の通った足跡を追える。</p><p> そうした思いを抱え続けていたとき、サーミザフはイフラマという親族の長老を捕まえる事が出来た。彼にとっては好機であった。</p><p> サーミザフは、父バラザフは戦いのときは、アサシンのフートやケルシュを重用しているが、親族の中ではイフラマに一番信を置いていると、彼なりに観察していた。</p><p>「そなたも自分の目で見てきて分かると思うが、シルバ家は盛んなりといえども、まだまだアジャール家のような大領主にはかなわん。家の記録などという物はアジャール家のような大勢力が持つ物だ。<ruby><rb>士族</rb><rp></rp><rt>アスケリ</rt><rp></rp></ruby>
といえどもシルバ家は生き抜くのに精一杯だった。来歴などという大層な物は、リヤドに来てから、そしてお前の祖父のエルザフがアジャール家で力を付けてから、自然に付いてきた物なのだよ」</p><p>「シルバ家の出自はリヤドではなかったのですか」</p><p>「勿論リヤドだとも。語り継げる記憶や記録の範囲では確かにシルバ家はリヤド出身という事になるんだ。ブルトガールから来たという先の話も、シルバという家の姓から推し量っているに過ぎないのだよ」</p><p> その後もサーミザフはイフラマの記憶からシルバ家にまつわる事を引き出し続けた。が、やはり一番印象に残ったのはシルバ家の出自が遠く異国の地かもしれないという部分であり、アジャール軍屈指の<ruby><rb>士族</rb><rp></rp><rt>アスケリ</rt><rp></rp></ruby>
の家柄と思っていたシルバ家も、案外、近年に勃興して来た新勢力に過ぎないという事である。そこに悔しさは無い。自分が生まれてからのシルバ家については、アジャール軍内で重用されている記憶しかない。だが、自分の立ち居地が、祖父の代辺りから苦労を重ねてきた結果の足場なのだと理解したとき、この真面目な若者の胸中に湧いてきたのは、祖先への感謝の念なのであった。</p><p> アルカルジとハウタットバニタミムの間には小さな集落がいくつもある。リヤドにおけるシルバ家発祥の地もその集落の中のひとつだとイフラマは言う。</p><p>「リヤドと一言に言っても広いからな。城壁を持たぬ集落も星の数ほどある。人の暮らしは何も城壁が全てというわけではない。<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を幾つも持たせて貰えた今でも、わしらはその地を放り出さず管理しているのだよ」</p><p>「ですが、父上は先日ハウタットバニタミムに入城した折、やっと俺の故郷を取り戻したと言っておりました」</p><p>「それはだな。シルバの発祥はさっきも言ったように小さな集落であったが、ナムルサシャジャリ・アジャール殿の時代、つまりアジャリア公の父上の代で、アジャール、デアイエの連合軍に攻撃されて、シルバ家は件の小領を追われた。そして流れ着いたのがアルカルジのハウタットバニタミムの辺りだったのだ。すでにシルバ家の者がそこに根を下ろしていた事もあって、そなたの祖父のエルザフ殿も、しらばくはここに安住出来た。そして、エルザフ殿はそこで嫁をもらって、父であるバラザフ殿が生まれた。それでハウタットバニタミムがバラザフ殿にとっては、故郷、あるいは旧領という事になるのだよ」</p><p> 実際に見てきたイフラマの話を聞き、サーミザフは人の生きてきた時間の長さは貴重なものだと思った。</p><p>「そういう事であれば、私の出自もリヤドや、アルカルジ一帯にまたがった広い範囲に関わっていると言えるのではないでしょうか」</p><p>「その通りだよ。シルバ家の長男であるサーミザフ殿の立場は重いものだ。何しろ各地で生きた我等の血筋の者たち、その者たちが地に足を張って、食らってきた命を全て背負う事になるのだからな」</p><p> ――食らってきた命を継承する。</p><p> シルバ家の血脈のみならず、自分が生きるという事が自分をこの世に有らしめてきた全てを継承する事になるのだと、サーミザフの心の中に、穏やかなるも熱い決意が興った。この決意がその後のサーミザフの生き方の全てをも決めてしまう事になる。</p><p> アルカルジとハウタットバニタミムを中心に地方をまとめて手中に収めたシルバ軍が次に取り組むべき課題は外交である。</p><p>「ベイと同盟関係にあるとはいえ、昨日今日結ばれた関係が明日には崩れるという事はよくあるものだ。アジャリア様がしたように万が一に備えて間に位置するメッカへの手回しが必要だろう。カトゥマル様へも具申するつもりだが、シルバ家独自の外交経路を構築しておきたい」</p><p> バラザフはその先駆けの使者として従兄弟のメスト・シルバという物をメッカに遣わした。バラザフと同じように兄達をベイ家との戦いで亡くし、自家を継承していた。</p><p> 新たに外交経路を築くという事は、商売でいえば新たな顧客開拓である。これまで対外的な方針はアジャール家のやり方に従ってきたが、シルバ家が一つの勢力として確立した今、アジャール家を始め、各所との折り合いをつけた上での外交となるので、これまでの対外策とは、また違った険しさがある。</p><p> そしてメストはその後もシルバ家の<ruby><rb>執事</rb><rp></rp><rt>サーキン</rt><rp></rp></ruby>
の一人としてバラザフに与力した。</p><div><div><br /></div><div>※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。</div><div><br /></div><div>次へ進む</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2022/04/A-Jambiya8-3.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2022/04/A-Jambiya8-3.html</a></div><div><br /></div><div>【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html</a></div><div><br /></div><div>前に戻る</div><div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2022/04/A-Jambiya8-1.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2022/04/A-Jambiya8-1.html</a></div></div><div><br /></div><div><br /></div><div>『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html</a></div></div><div><br /></div>Blog authorhttp://www.blogger.com/profile/05104770986712427544noreply@blogger.com0エジプト カイロ県 カイロ30.0444196 31.23571161.7341857638211557 -3.9205384000000016 58.35465343617885 66.3919616tag:blogger.com,1999:blog-4314757388830094658.post-60991872943850164922022-04-05T05:55:00.055+09:002022-05-05T18:29:37.300+09:00『アルハイラト・ジャンビア』第8章_1<p> ――カーラム暦1000年サラディン・ベイ死亡。死因は心臓麻痺。</p><p> ベイ家の当主サラディン・ベイが死んだ。サラディンの死は心臓麻痺によるものと世間には広まった。だが奇妙な事にサラディンの遺体の首には刃物で斬られた跡あった。</p><p> それはさておき、サラディンの死が、カイロの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を含むその周辺のミスル地方に、<ruby><rb>擾乱</rb><rp></rp><rt>じょうらん</rt><rp>)</rp></ruby>
に直結するであろう事を、この時に家臣団の誰もが予想した。</p><p> サラディン・ベイには実子がなく、養子が二人いるのみである。</p><p> 養子の一人はサラディンの甥のザラン・ベイである。ベイ家の血に連なる者で慕う部下も少なくない。</p><p> もう一人はベイ軍とメフメト軍が同盟した際に交換武官としてベイ軍に所属したオグズ・メフメトである。カウシーン・メフメトの末のほうの子らしいが、サラディンは殊更彼の素性を掘り起こそうとしはしなかった。</p><p> サラディンが見た所、オグズには武人としての良質な芽があり、これを間違えて育てなければ、きっとベイ軍の力となるだろう。たとえオグズがメフメト家に還ったとしても、人一人、一人前に育て上げ実家に戻し、自分としての義が立てばそれでいいと、</p><p>サラディンは考えて、オグズも自分の養子とした。</p><p> サラディンは、ザランを後継者として、ベイ家とカイロとミスル地方の領土を継がせるつもりでいたが、その事をはっきり周知する前に冥府の住人となってしまったのである。</p><p> サラディンが死して日が経つごとに、皆が予見した<ruby><rb>擾乱</rb><rp></rp><rt>じょうらん</rt><rp>)</rp></ruby>が少しずつ形になって表出し始めている。</p><p>「ベイ家が内乱状態にあるだと?」</p><p> アジャール家では、アラーの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の太守、トルキ・アルサウドが初めにこの情報を入手した。そして・アルサウドは最初にアルカルジのバラザフにこれを報せた。</p><p>「フート、お前の配下を全て連れてカイロに潜入してくれ。次のベイ家の当主はどちらになるのか。カイロの行く先はどうなるのか。その目で見て見澄ましてくるのだ」</p><p> 次いで、ケルシュにも命じた。</p><p>「メフメト家の動向も知っておきたい。おそらくシーフジンが稼動しいるだろうから警戒が必要だ。今はアジャール軍とメフメト軍は同盟状態にあるが、有事とは得てしてこういう変事から起こるものだからな」</p><p> さらに、</p><p>「シムク・アルターラスを配下と共に俺の下に戻しておいてくれ」</p><p> と、配下のアサシンに戦闘任務ではなく、元々の役割であった諜報任務を与えた。</p><p>「カイロへ出征する可能性も考えられる。戦いの支度もぬかりなく済ませておくように」</p><p> カイロ擾乱は、バラザフの頭脳と体躯を活発に使役させた。しかし、こうした慌しさの中でバラザフは、逆に生命力を湧き上がらせていた。<ruby><rb>謀士</rb><rp></rp><rt>アルハイラト</rt><rp></rp></ruby>
としての光が目に戻りつつある。バラザフの頭は血がよく巡って、心地よく放熱している。</p><p> バラザフの重臣にイフラマ・アルマライという人物がいる。バラザフの叔父であり、熱血と冷徹が同居したようなイフラマは、淡々と戦支度を進めている。</p><p>「バラザフ。もし戦争が勃発したらサーミザフを初陣に出す良い機会だと思うのだが」</p><p>「サーミザフも十二歳。戦場を知っても良い歳かもしれません。私もアジャリア様の<ruby><rb>近侍</rb><rp></rp><rt>ハーディル</rt><rp></rp></ruby>
として戦場に出たのはそれくらいの歳でした」</p><p>「ベイ軍とのあの戦いか。初めて戦場に出るには、あれは重い戦いであったな」</p><p> イフラマの脳裏にあの激闘の光景が浮かんだ。バラザフはあの激闘を乗り越えて立派に成人して今は将軍の一人になった。だが、もし戦いが起こって、それがあのような惨状を呈した場合、サーミザフも同じように乗り切れるのか。不安は湧いてくるが自分が言い出してしまっただけに、イフラマはサーミザフの出陣を取り下げる事が出来なかった。</p><p>「サーミザフ、次の戦いでお前を連れていく事になった」</p><p> バラザフは、長男サーミザフ、二男ムザフの二人を前に並べて、サーミザフの出陣を言い渡した。黙って頷くサーミザフを、ムザフが羨ましそうな顔をして見つめている。ムザフのその姿にバラザフは自身の幼少期を見た。</p><p> アジャール家にとってカイロ擾乱は、ムサンナの敗戦での捲土重来を期せるまたとない好機となりうる。カトゥマルは十五万の兵と共に進発した。このカトゥマルの出兵の背景には、メフメト家も一枚噛んでいて、メフメト軍は現在盟約を結んでいるアジャール家にカイロへの出兵を要請したのであった。</p><p> 大きく二つに割れたベイ家の片割れ、オグズの妹が今のカトゥマルの妻になっている事も背後にあって、カトゥマルはこの出兵の目的をひとまずオグズに肩入れするためとしている。</p><p> カトゥマルは北西に進軍してジャウフまで進み、そこから西へ向かって、スエズに至った。ここまで来ればカイロまで一両日、遅くても三日で到達する。</p><p> これと同時にシアサカウシン・メフメトの方でもカイロ擾乱を自勢力の拡大の機会ととらえて、ベイ軍が手出ししてこないうちに、アルカルジの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
近辺のアジャール軍の勢力下にある地域を、縫うように避けて、何とか実入りを得ようと軍勢を派遣した。</p><p> シアサカウシンが目をつけたのはハウタットバニタミムの地である。シアサカウシンも派兵の目的をオグズに味方するためとして、カイロとは何の関係も無いこの地に押し寄せてきていた。</p><p>「メフメト軍がハウタットバニタミムに進攻し周辺に勢力を拡大しているようです」</p><p> バラザフは、ケルシュの配下が持ってきたこの情報に驚かされた。当然、カトゥマルの気色もよくない。</p><p>「アルカルジに手を出すというような背信行為は、メフメト軍の同盟破約ではないか」</p><p>「いえ、ハウタットバニタミムは我がアジャール軍の支配下にないため、辛うじて同盟破約にはあたりません。ですが……」</p><p>「何とも<ruby><rb>狡辛</rb><rp></rp><rt>こすから</rt><rp></rp></ruby>いな」</p><p>「ええ」</p><p>「同盟状態が維持されているとはいえ、そこから掌を返されては、すぐにアルカルジ諸共、一帯が席巻されるぞ」</p><p>「防諜に手抜かりはありません。ご安心を」</p><p> バラザフには、メフメト軍がさらなる進攻、それこそ背信行為に出てくるであろう事は容易に想像出来た。よって、ケルシュに、</p><p> ――シアサカウシンはカイロの弟のオグズと組んでハウタットバニタミムを挟んで乗っ取りに来る。</p><p> とハウタットバニタミムの諸族を、ザラン・ベイの側につくという名目で、対メフメト軍の勢力として布石させた。カイロから遠く離れたアルカルジ、そしてハウタットバニタミムの地でも、形の上ではあるが、オグズ対ザランの構図が作り上げられた事になる。予想していなかった自勢力への抵抗で、アルカルジを含めて周辺を一気に席巻しようとしていたシアサカウシンの進攻の壮図はハウタットバニタミムまでで終わった。</p><p> その頃、カイロでは状況に進展が無く行き詰った状態にあった。そこへアジャール軍が乱入してきたので、ザランと彼の参謀のナギーブ・ハルブの気勢は、急速に弱まった。この状況でアジャール軍をカイロに入れてしまえば、カイロの支配権は完全にアジャール軍の手に落ちるからである。そして、メフメト軍、アジャール軍が裏で糸を引いている事を考慮しても、ベイ家の当主としてオグズがカイロの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の統治権を握るだろう事は容易に予想出来る。</p><p> カイロ入りしているフートは、</p><p> ――ザラン、ナギーブ・ハルブともに、アジャール軍との同盟の意図あり。</p><p> と、バラザフに報告した。</p><p>「ザラン側では、同盟や降伏を本気で考えなければ、滅亡まで追い込まれると読んでいるのだな」</p><p> そして、メフメト軍の方に<ruby><rb>間者</rb><rp></rp><rt>ジャースース</rt><rp></rp></ruby>
として出しているケルシュからは、</p><p> ――シアサカウシンはこの機にアルカルジを取る意気を、まだ捨てていない。</p><p> という情報がバラザフの所へ上げられてきている。</p><p> 次いで、</p><p> ――オグズへの支援、カイロでの差配をアジャール軍に押し付けて、アルカルジを奪取する野心あり。</p><p> との詳細も送られてきた。</p><p>「さて、この双方をどう<ruby><rb>捌</rb><rp></rp><rt>さば</rt><rp>)</rp></ruby>
くか……」</p><p> バラザフは、二方面の情勢を測った。</p><p>「ザランから同盟を模索する使者が来るのは間違いない。カトゥマル様に講和に意思があるかどうか」</p><p> バラザフが読んだとおり、ハルブの使者が、カトゥマルの<ruby><rb>天幕</rb><rp></rp><rt>ハイマ</rt><rp>)</rp></ruby>
に遣わされてきた。</p><p> ザラン側の使者は、まずアジャール軍との和平の意思があるとし、</p><p>「フサイン軍、レイス軍との同盟関係を破棄する。アジャール軍とベイ軍で新たな同盟関係を構築し、リヤド、アルカルジ近辺のベイ軍所有の<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
から手を引く。さらにカトゥマルの妹をザランの妻として迎え入れたい」</p><p> と条件を示してきた。</p><p> 続いてやってきた使者は、</p><p>「アジャール軍に対して従属同盟であってもよい。フサイン軍、レイス軍に対しても、アジャール軍の盾となって戦う覚悟もある」</p><p> と、さらに譲歩した条件まで提示してきた。が、この過度に譲歩された講和条件は、地理的条件を加味すると、エルサレムへの進攻を手控えている今のアジャール軍の盾となるような位置に、カイロに居るベイ軍が割って入るなどという事は現実的には、有り得ない事ではある。</p><p> 意地でもアジャール軍との抗争を回避したいザラン軍は、これでもかというように、カトゥマルと側近達へ、次の使者には、金塊とアレクサンドリアの金細工を大量に持たせて<ruby><rb>遣</rb><rp></rp><rt>よこ</rt><rp></rp></ruby>
してきた。</p><p>「さすがにここまで来ると露骨だとは思うが、ザランが提示してきた条件は我々にはこの上ないものばかりだ。妹とザランの縁が決まれば、ザラン・ベイと我々は縁戚という事になる。これからの力関係によっては、ナワズ・アブラスのようにアジャール家の親族派の家臣になる事も十分考えられる」</p><p> ザラン・ベイという人は義人サラディンに似て、外交での化かしあい好むような狡知の人ではない。参謀であるハルブに、そこまで言ってのけねばアジャール軍との講和は成らないと言われて、このような講和条件を裁可したにすぎない。ハルブにしても相手を騙すような手段を普段から好んでいたわけではないが、ザランとベイ家を存続するために何をすべきかという窮状において、割り切って考えられる頭を持っていた。</p><p> こうしてカトゥマルは、使者とのやり取りをバラザフに説明した上で、和平の受け入れる意思を示した。</p><p>「だが、ザランと講和するとなればオグズを裏切る事になるので、上手く話がまとまるように持っていきたいのだが」</p><p>「であれば、ザランとオグズが和議を結ぶように、我等が調停に入るようにすれば、両方に義理立て出来、また両方に恩を売った事になるでしょう」</p><p> アジャール軍としては方向性が決まり、ザランとの講和も成立した。</p><p> カイロは元の調和へ向けて歩みだしたように見えた。しかし、ベイ家の家臣の中には、ザランがアジャールと手を結んだ事に不満を持つ勢力が発生し、こらがオグズ側について、再びカイロは擾乱状態に陥った。</p><p> そして次の年。ザランに追い詰められたオグズが自決し、多くの犠牲が出したカイロ擾乱は、これをもって終結したのである。</p><p> これらの経緯を、フート、ケルシュ率いるアサシン団がバラザフに順次報告していた。</p><p><br /></p><p>※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。</p><p><br /></p><p>次へ進む</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2022/03/A-Jambiya8-2.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2022/03/A-Jambiya8-2.html</a></p><p><br /></p><p>【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html</a></p><p><br /></p><p>前に戻る</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2022/02/A-Jambiya7-6.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2022/02/A-Jambiya7-6.html</a></p><p><br /></p><p>『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html</a></p><div><br /></div>Blog authorhttp://www.blogger.com/profile/05104770986712427544noreply@blogger.com0エジプト カイロ県 カイロ30.0444196 31.23571161.7341857638211557 -3.9205384000000016 58.35465343617885 66.3919616tag:blogger.com,1999:blog-4314757388830094658.post-70193764439620779682022-03-05T05:55:00.026+09:002022-04-05T15:05:50.908+09:00『アルハイラト・ジャンビア』第7章_6<p> ハリティ隊、オワイラン隊の最後の奮戦をバラザフの配下のフートが見ていた。彼等の最期を見届けるためと、この戦い方を主人のために覚えるためである。</p><p> バラザフはさすが自他認めるカトゥマルだけあって、フートの状況説明だけで、寡兵対多兵の戦術を自分の身にすると同時に、主人思いの配下の機転に感謝した。そして、このハリティ、オワイランの最後の教練は、バラザフの戦術の型となってゆく。</p><p> この戦争でのアジャール軍の戦死者は十万人。その中には稀代の名将達も数多く含まれている。</p><p> フサイン、レイス連合軍の戦死者は六万人。こちらは将官の戦死者はさほど多くはなかった。この半数がハリティ、オワイランの最後の戦いで討ち取られた者である。</p><p> 三重の壕、三重の土塁、裏切りの虚報、<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
兵による一斉砲撃。打てる手は全て打ったという感の連合軍だったが、そこまでして辛うじて無敵のアジャール軍との勝ちに漕ぎ着けたのである。</p><p> バラザフは、ハラドに生還して反省する事が深かった。</p><p>「配下の労を費やしてアサシン団を編成したのに、今回の戦争で俺は彼等を活かす事が出来なかった。崩れたときにどう戦うのか俺はまるでわかっていなかったのだ」</p><p> そして、</p><p> ――やはり未来を視る眼が欲しい。</p><p> と思った。</p><p> バラザフは、この敗戦自体をも自分の身にしようとした。</p><p>「ハイレディンの壕、土塁。あれは言うなれば<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を攻めるような堅さだった。これに対するハリティ、オワイラン隊の戦術は攻防の均衡が取れていた。<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の攻めに強く守りに強い。さらに平地でも強い戦術を創らなければ」</p><p> ムサンナでの敗戦は、バラザフがこれまで以上に<ruby><rb>謀将</rb><rp></rp><rt>アルハイラト</rt><rp></rp></ruby>
として極まってゆく契機となった。</p><p> アジャール軍は、アブドゥルマレク・ハリティやワリィ・シャアバーンなどの、アジャリア・アジャール生存中に、直にその息吹を受けた名将達を一瞬にして亡失した。アジャール家の支柱となれる将軍の数は極めて少ない。切れ味のよい軍師もいない。</p><p> カトゥマルが、この先を託すのはバラザフ等、若い世代の将軍である。次世代の中でもバラザフは、アジャリアの時代から一部の間で「アルハイラト・ジャンビア」と称される、鬼才を隠さぬ存在だった。アジャリアの息吹を受けた度合いは誰よりも強いのである。</p><p> アジャール軍の負け方は、これ以上無いほどひどいものだった。それでもハイレディンの方では、クウェート、リヤド、ハラド方面に進攻する気配を見せなかった。</p><p> 知恵を絞るだけ絞って、準備を万端にした上で、しかもアジャール軍が思惑通りに動いてくれた。それでもアジャール軍の全滅には至らなかったし、こちらも六万の兵力を損失したのである。</p><p> ハイレディンが、</p><p> ――カトゥマルは侮れぬ。</p><p> と、これ以上の踏み込みを思いとどめたのも、決して慎重すぎる采配ではない。</p><p> ハラド方、アジャール軍の戦力を大分叩く事が出来た。アジャリア時代に、手も足も出なかったアジャール軍相手に戦った事を思えば、十分な戦果であった。</p><p> 酷暑が僅かに退き始めた頃、カトゥマルがバラザフを召呼した。まずカトゥマルはバラザフに詫びた。</p><p>「ムサンナでの敗戦で、バラザフの兄を二人とも戦死させたのは私の責任だ。あの二人無くしてアルカルジの防衛も、<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
も立ち行かぬ事も我が軍にとっては大きな痛手となっている」</p><p> カトゥマルがバラザフに対してこの言葉を発するのは初めてではない。生還した際も、バラザフがハラド勤務の際に顔を合わすときも、カトゥマルはバラザフに詫びの言葉が思わず出てしまう。</p><p>「実は今日は別件なのだ。アラーの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
のトルキ・アルサウドによる助言なのだが、バラザフを正式にシルバ家の当主として認定しようと思うのだ」</p><p> 兄二人が戦死して後継者は二人、バラザフと末弟のレブザフだが、三男のバラザフを後継者にするのが正当ではないか、という事であった。</p><p>「まさかそのような件であったとは……」</p><p> 少し当惑したバラザフは思案し、</p><p>「当主を失ったシルバ家をこのまま放置するわけにもいきません。兄達の死によって繰り上がる形ではありますが、シルバ家を継承して責任を果たさせていただきます」</p><p>「うむ、なによりだ」</p><p>「そうとなれば、アルカルジの情勢もまた混迷する危険もありますので、防備に今まで以上に注力せねばなりません」</p><p>「それに関しても私もアルサウド殿も意見は一致している。それが心配でアルサウド殿もバラザフをシルバ家の当主に推していたのだ」</p><p>「今私が所領しているヒジラートファディーアの支配はいかが致しましょう」</p><p>「名目上はバラザフが太守を兼任し、誰か<ruby><rb>副官</rb><rp></rp><rt>アルムアウィン</rt><rp></rp></ruby>
を遣って政務をさせるように」</p><p>「以前であれば弟のレブザフを行かせるところですが、彼も今では所領持ちゆえ、何とか人選してみましょう」</p><p>「すまぬが、そうしてくれ」</p><p> ひとまずバラザフはヒジラートファディーアの地に戻った。</p><p> シルバ家の当主になるというのは、小さい頃からの叶わぬ夢であった。勇猛果敢で人望がある。そんな兄が二人も上にいて、同時にこの世を去った。</p><p> 兄達の不幸の上に自分の夢が叶えれらた。そんな思いしか浮かばない。</p><p> 欲するという事はつまり<ruby><rb>志</rb><rp></rp><rt>アマル</rt><rp></rp></ruby>
なのだと父エルザフは言った。</p><p>「俺はこんな形を望んでいたんじゃない!」</p><p> バラザフは一人自室で声をあげて号泣した。</p><p> 翌朝、バラザフは顔に差す日の暖かみで目を覚ました。一人泣き濡れたまま疲れて眠ってしまったようだ。</p><p> バラザフ・シルバ、二十九歳。</p><p> バラザフはカトゥマルにアルカルジにシルバ家の当主として赴任する事を報告して、<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
に向かった。</p><p> アルカルジでバラザフは家臣団に、兄のアキザフに代わって自分が当主になった事を宣言しなくてはならない。そして家臣の所領も、職柄も旧来のままにする事とした。</p><p>「フート、ケルシュ。俺が正式にシルバ家の当主になったことで、そなた達も正式にシルバ家の武官という事になった。ついてはシルバアサシン団を強化したい。具体的には少数精鋭をいくつか編成したいと考えているので、また働いてほしい」</p><p> バラザフはシルバ家の当主となっても、アルカルジの防衛だけでなく、今までのようにカトゥマルのためにハラドに出仕しなくてはならない。</p><p> アジャール家が沈下していく環境の中で、バラザフの存在は大きくなってきている。</p><p><br /></p><p>※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。</p><p><br /></p><p>次へ進む</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2022/04/A-Jambiya8-1.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2022/04/A-Jambiya8-1.html</a></p><p><br /></p><p>【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html</a></p><p><br /></p><p>前に戻る</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2022/01/A-Jambiya7-5.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2022/01/A-Jambiya7-5.html</a></p><p><br /></p><p>『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html</a></p><div><br /></div>Blog authorhttp://www.blogger.com/profile/05104770986712427544noreply@blogger.com0イラク ムサンナ29.9133171 45.2993862000000081.603083263821155 10.143136200000008 58.223550936178846 80.455636200000015tag:blogger.com,1999:blog-4314757388830094658.post-31190738918947872242022-02-05T05:55:00.067+09:002022-03-05T09:21:22.988+09:00『アルハイラト・ジャンビア』第7章_5<p> アジャール軍の<ruby><rb>天幕</rb><rp></rp><rt>ハイマ</rt><rp>)</rp></ruby>
は今熱気を帯びている。毎日のように激論が行き交っていた。</p><p> 親族派閥のサイード・テミヤト、ナジャルサミキ・アシュールらが総攻めを強く促し、これにカトゥマルの従兄弟であるファヌアルクトも賛同した。</p><p>「テミヤト殿には前の戦い、つまりサフワーン攻略の実績がある。さらには敵将ムアッリムの寝返りの受け皿になり、すでに功績を立てたと言える。敵陣のムアッリムの持ち場の所から攻め込めば、敵は倍なりといえども抵抗する暇も無いはず」</p><p> これがファヌアルクトがテミヤトの総攻撃論を推す理由である。</p><p> 古豪派閥のシャアバーン、ハリティ、オワイランらの重臣たちは総攻撃には乗り気では無い。というよりやはりここでも慎重であった。</p><p>「ムアッリムの寝返りはまだ確定ではない。これがアジャリア様であったなら、事実が固まってから戦いに出るはずだ。未だ戦機熟せず。その上敵の陣容も掴めずというのだから、軽挙は命取りになるぞ」</p><p>「貴公らは私が敵に騙されていると、そう申すのか!」</p><p> テミヤトが立ち上がって怒声を発した。いつもは後詰で後進の将軍たちの危うきを見張っているテミヤトが、自分が主立って進める仕事に埋没して慎重さを失っていた。この一言で全てが斥けられ議論は締められた。</p><p>「インシャラー!」</p><p> カトゥマルは仕方なくこれで、儀式の香壇の前で出陣の誓いをすることになり、諸将もこれにならった。</p><p> 総攻撃の日――。</p><p> 長雨がようやく上がり、朝から日が出ている。本来の夏の猛暑が戻ってきていて、まだそれほど高く昇っていない太陽が地上の砂を熱した。</p><p> カトゥマルの本体は五万。本陣を奥に置いて構えた。</p><p> 先陣はワリィ・シャアバーンである。総攻めに反対してテミヤトと溝を深めていた。</p><p> シャアバーンが行く先の風を切る。昇る太陽を背負うような形である。シャアバーンの部隊の前に敵の防塁の間からボクオンが歩兵隊が三千ほど率いて前に出てきた。</p><p>「おそらく陽動だ。過度に踏み込むなよ」</p><p> この時、左側から攻めていたテミヤトの部隊がムアッリム隊に計画済みの戦いを仕掛けた。テミヤト隊の戦いの<ruby><rb>太鼓</rb><rp></rp><rt>タブル</rt><rp>)</rp></ruby>
が雨上がりの周囲によく響いた。</p><p> テミヤト隊の<ruby><rb>太鼓</rb><rp></rp><rt>タブル</rt><rp>)</rp></ruby>
はシャアバーン隊の兵の耳にもよく届いた。シャアバーンの指示が部隊に下達し終わる前に、兵が<ruby><rb>太鼓</rb><rp></rp><rt>タブル</rt><rp>)</rp></ruby>
を攻撃指示として解釈し、先頭の騎馬兵等がレイス軍の歩兵を蹂躙した。</p><p> 勢いのついた騎馬兵は、その流れでレイス軍の防塁を苛烈にも抜けきろうとした。レイス軍の防塁まであと一歩の所まで迫ったとき――。</p><p> 先頭の一団が炎に包まれたかと思うと、一瞬で黒こげになって人馬共に地にどっと倒れ伏した。レイス軍による<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
の一斉射撃であった。</p><p> 出だしから悪い流れになった。だが、シャアバーンは古豪と言われるだけあり、劣勢に動じず兵を鼓舞した。</p><p>「これしきで<ruby><rb>狼狽</rb><rp></rp><rt>うろた</rt><rp></rp></ruby>
えるな! 歩兵の騎乗を許可する。乗り手のいない馬があればそれに乗って、防塁を越えよ!」</p><p> その言葉を後に置くように、シャアバーンの高く跳び上がり、率先して斬り込んだ。陥穽を越え、土塁を越えたとき、目に映るものにシャアバーンは愕然となった。</p><p> 今、越えてきた土塁、陥穽と同じものが行く手を阻んでいる。さらにその奥にもまた同様の防衛線が設けられているのが見えた。</p><p>「このままではまずい。本隊の突撃を止めなければ」</p><p> だが、本隊に危機を報せようにも、この狭い足場から助走もせずに、今渡ってきた元の場所に戻るの不可能に近い。</p><p> 進退窮まっている間に、第二の防衛線の奥から<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
の炎が噴きつけられてくる。シャアバーンの周りでは部下達が次々に炎に焼かれゆく。</p><p> ――ここまでか。</p><p> 潔く覚悟決めた時、紅蓮の炎がシャアバーンを包んだ――。</p><p> この壮絶なシャアバーンの最期を、アジャール軍は誰も知らない。後続の騎馬兵をどんどん送り出していた。</p><p> カトゥマルの本陣でも混乱は起きていた。足場がぬかるんでいる。昨日までの雨で砂が水を目いっぱい吸い込んでいて、足で踏むと水が滲みだし、一歩一歩が崩れる。このせいで偵察が出せず本陣では戦況を把握出来ない状況が続いている。</p><p> 本陣に参謀として仕えているバラザフが何かしら采配を具申しようにも、材料となる情報が無くては捌き様が無かった。</p><p> ――自分の目で実際を見る他無い。</p><p> 前に出て戦場を見渡し、バラザフは左側の異変に気がついた。異変というよりは進展が無い。ムアッリム隊が守備している箇所を皮切りに、そこからフサイン軍の内部へ斬り込むべきであったテミヤト隊が、ムアッリム隊の前で<ruby><rb>居竦</rb><rp></rp><rt>いすく</rt><rp></rp></ruby>
んでいた。</p><p>「フート、テミヤト隊の様子がおかしい。すぐに把握してくるんだ」</p><p> バラザフは、<ruby><rb>兜</rb><rp></rp><rt>カウザ</rt><rp></rp></ruby>
を深く被って臨戦態勢に入った。</p><p>「テミヤト隊は、ムアッリム隊の守備に歯が立たず、間を空けて様子を見ているようです」</p><p>「畜生、何が功績だ! まるで駄目ではないか!」</p><p> ムアッリムの寝返りという虚報を掴まされ、ハイレディンに謀られたのである。バラザフがこれを報告しようとすると、カトゥマルも今それに気付いたという。</p><p>「退きましょう、カトゥマル様。即時撤退して持ち直しを図るべきです!」</p><p> バラザフの具申をカトゥマルは即決で容れて、退却を全軍に下達した。ところが切り結んでいる状態から戦線を離脱しようにも、足場の悪さがそれを困難にさせていた。ばしゃばしゃと飛沫をあげる音、怒号、悲鳴――。あらゆる音が退却指示の伝達を妨げた。</p><p> この戦況の中、動きの悪いテミヤト隊に業を煮やしてマァニア・ムアッリムの防衛線に、バラザフの兄、アキザフ・シルバ、メルキザフ・シルバの部隊が突撃した。</p><p> 二人の部隊は一つ目の<ruby><rb>濠</rb><rp></rp><rt>カンダク</rt><rp></rp></ruby>
を越え、そこに構えていた<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
兵を片端から切り伏せて、次の壕に迫った。</p><p> 退き時の戦況を遠目に探るバラザフの目に、兄達の部隊が奥へ消えてゆく姿が映った。</p><p> ――長兄、次兄、必ず生きて戻ってください。</p><p> 武人としては決して範とはいえない思いだが、それが家族に対するバラザフに偽らざる心だった。</p><p> フサイン軍の陣に果敢に突撃をかけているのはバラザフの兄達ばかりではない。ある将は正面突破しようと何度も攻撃を繰り返して進退しているが、その数を減らしていき、部隊を痩せ細らせていた。</p><p> アジャール軍の多くが苦戦する中、戦巧者のナワフ・オワイランは二つ目の<ruby><rb>濠</rb><rp></rp><rt>カンダク</rt><rp></rp></ruby>
と土塁を突破し、三つ目も越えそうな勢いを見せたが、敵兵の防御の堅さと反攻の強さに難渋していた。</p><p> 固唾を呑んで戦況を見つめるバラザフの耳に信じ難い報告が入った。</p><p>「ハイブリ様、戦死!」</p><p> <ruby><rb>近侍</rb><rp></rp><rt>ハーディル</rt><rp></rp></ruby>
として共に年少からアジャリアに仕え、第一の親友であったナウワーフである。</p><p> ――あのナウワーフが、ここで死んだというのか!</p><p> 自分と共に必死に走ったきた仲間が命を落とした事がバラザフには信じられなかった。</p><p> だが、神はバラザフの悲しみをそこまでで<ruby><rb>止</rb><rp></rp><rt>とど</rt><rp></rp></ruby>
めておいてはくれなかった。一番恐れていた報がもたらされた。</p><p>「アキザフ・シルバ様、メルキザフ・シルバ様、戦死!」</p><p> その瞬間、バラザフは自分の目の前に冥界の門が開かれたかのように感じた。光が見えなくなった。時がバラザフだけを置いて流れていた。</p><p> この間にもアジャール軍の本陣には、名のある将軍達の戦死の報が続々と流れてくる。皆、古豪の武人の名ばかりである。戦力としてはおそらく五分である。だが、アジャール軍はどこの戦線でも圧倒的に不利な戦いを強いられている。</p><p>「カトゥマル様、退却です! 今付いて来れる者だけでも生き延びさせるのです!」</p><p> バラザフはようやく息を吹き返して軍師の目に戻った。カトゥマルは前線で戦っている将兵を見捨てるに忍びず、退却を迷っていた。そこへ、</p><p>「カトゥマル様だけでも何卒退却を。全滅だけは回避せねばなりません。ハリティ、オワイランの二人が敵の追撃を食い止めます!」</p><p> オワイラン、ハリティの部隊の遣いが、飛び込んでくるなり、涙ながらに叫んだ。</p><p> 名将が数多命を散らすこうした激戦の中で、テミヤト隊はとうに後方に退避していた。カトゥマルに報告もしていないという始末である。</p><p> バラザフは、下士官にカトゥマルを連れて行かせて、オワイラン、ハリティの部隊の遣いに、</p><p>「カトゥマル様には退避していただく。両将軍の武運を祈る。カトゥマル様はこのバラザフ・シルバが責任をもってハラドへ生還させる故、ブライダーで落ち合うようにと、伝えてくれ!」</p><p> と答えて、本人達のつもりでその手を固く握った。</p><p> ムサンナの死闘の一日がもうすぐ終わろうとしている。</p><p>「防塁に囲まれて我等の本領が発揮できなかった」</p><p>「悔しくて死ぬに死ねん」</p><p> ハリティとオワイランは、アジャール軍の力を出し切れなかった悔しさを自分達に向けていた。</p><p>「だが、追撃してくるとなれば、この防塁から敵は出て来ざるを得まい」</p><p>「後はあのシルバの若造に任せてもうひと暴れしようぞ」</p><p> ハリティもオワイランも、そして散っていったシャアバーンも、アジャリア・アジャールから戦いの息吹を吹き込まれている。</p><p>「まともにやり合えば我等は無敵ぞ」</p><p> というのは決して自惚れではないのである。</p><p> レイス、フサインの本陣にカトゥマル退却の報が寄せられると、追撃の軍が繰り出された。</p><p> ハリティ、オワイランは生存している将兵を再編した。まだ一万五千、戦える数である。</p><p>「我等アジャールが冥府の門を開いてくれる! フサイン、レイス軍を道連れに、冥府でアジャリア様に再びお仕えしようぞ!」</p><p><br /></p><p> ――インシャラー!!</p><p><br /></p><p> ハリティ隊、オワイラン隊の<ruby><rb>吶喊</rb><rp></rp><rt>とっかん</rt><rp></rp></ruby>
が大きく響いた。</p><p> フサシン軍、レイス軍の追撃の兵力は五万。 </p><p>「兵士諸君、最後の教練だ。寡兵での戦い方というものを教える」</p><p> ハリティ隊が最後尾、つまり敵の真正面に出た。</p><p> 追撃部隊の先頭の兵力を少し削り、すこし切り結んですぐに後ろに下がるという戦術である。</p><p> ハリティ隊が下がると、すぐにオワイラン隊が出て敵の戦力を齧り取ってゆく。</p><p> だが、ハリティ隊、オワイラン隊も無傷のままではいられない。一人また一人と敵の刃に倒れ、最後には全てが大軍の波に飲み込まれていった。</p><p><br /></p><p>※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。</p><p><br /></p><p>次へ進む</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2022/02/A-Jambiya7-6.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2022/02/A-Jambiya7-6.html</a></p><p><br /></p><p>【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html</a></p><p><br /></p><p>前に戻る</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2021/12/A-Jambiya7-4.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2021/12/A-Jambiya7-4.html</a></p><p><br /></p><p>『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html</a></p><div><br /></div>Blog authorhttp://www.blogger.com/profile/05104770986712427544noreply@blogger.com0イラク ムサンナ29.9133171 45.2993862000000081.603083263821155 10.143136200000008 58.223550936178846 80.455636200000015tag:blogger.com,1999:blog-4314757388830094658.post-63241789900801842912022-01-05T05:55:00.048+09:002022-02-05T06:18:11.377+09:00『アルハイラト・ジャンビア』第7章_4<p> カーラム暦996年、バスラの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
が陥落した。暑さ隆盛の猛夏の季節であった。</p><p> ――今はアジャール軍に勢いがある。</p><p> それを見てとったファリドとハイレディンは、下手に手出しをすれば傷口が拡がると感じて、結局、バスラの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
が落ちるのを見ているしかなかった。</p><p> ファリドとハイレディンが感じたように、今のカトゥマルに怖いものなど無かった。立ち塞がる敵は全て新生<ruby><rb>九頭海蛇</rb><rp></rp><rt>アダル</rt><rp></rp></ruby>
の巨体の踏み潰されていった。頭もようやく<ruby><rb>九頭海蛇</rb><rp></rp><rt>アダル</rt><rp></rp></ruby>
の<ruby><rb>体</rb><rp></rp><rt>てい</rt><rp></rp></ruby>
を成し始めているようである。</p><p> 巨体に勢いがある事自体、それは驚異的な力である。ハイレディンもファリドも、今はカトゥマルとの戦闘を回避するのが上策と見ていたが、カトゥマルの方からナーシリーヤ、バスラ方面に仕掛けて行くのを止めなかった。</p><p> また、アジャール軍はファリドを野外戦に誘い出すように、何度か仕掛けてみたが、ファリドはナーシリーヤの門を堅く閉ざして一向に出てくる気配もなかった。</p><p>「ウルクで叩きのめされたのが心底辛かったのだろうな」</p><p> と、アジャール軍の誰もが、引きこもっているファリドの心情を、卓上の物を見るようにはっきりと感じていた。</p><p> カトゥマルが各地でその武勇を称えられても、ハイレディンは支援すらままならずここまできてしまっている。</p><p> カーラム暦997年春、アジャール軍が十五万の手勢でハラドを進発した。リヤドを経由して北上、向かう先はムサンナである。</p><p> ムサンナはサマーワを含む広域の名で、サマーワやナーシリーヤから見れば南に広がる地帯である。この大部分は砂漠で占められているが、
<ruby><rb>涸れ谷</rb><rp></rp><rt>ワジ</rt><rp>)</rp></ruby>
も多数流れる。</p><p> 北部のユーフラテス川の近くで<ruby><rb>棗椰子</rb><rp></rp><rt>タマル</rt><rp></rp></ruby>
、<ruby><rb>米類</rb><rp></rp><rt>アルズ</rt><rp></rp></ruby>
、<ruby><rb>雑穀</rb><rp></rp><rt>ミレット</rt><rp></rp></ruby>
などの栽培が行われている。集落はあるが、広域であるため城壁のある<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
は形成していない。</p><p> カトゥマルは全軍を三つに分隊した。生前アジャリアがよく行っていた編成のやり方である。</p><p> 五万の兵をカトゥマル麾下に置いてムサンナ方面に向かった。</p><p>シャアバーンが率いる別働隊を西から、もう片方のアブドゥルマレク・ハリティが率いる別働隊を東から行かせた。</p><p> このやり方はファリドを恐れさせた。散々痛い目にあわされてきたアジャリアの戦術をカトゥマルが継承しているのが、一目でわかったからである。</p><p>「すぐにハイレディン殿に遣いをやれ。アジャリアが再来した、とな」</p><p> ファリドの心はすでに病み始めていた。今までのレイス軍とアジャール軍の戦いの経緯からすれば、今度こそナーシリーヤが滅ぼされるほどの猛攻を受けるのは必至であり、カトゥマルの実力がアジャリアに劣らぬと判明した以上、勝ち目がほとんど無くなったと考える他ない。</p><p> カトゥマルはムサンナに臨時に築かれたレイス軍の砦を包囲して、数回、<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
で攻撃した。五千台の<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
を配備している。だが、カトゥマルもそうだが、アジャール軍は<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
の運用に大して重きを置いてはいないのである。</p><p>「使用するのは至極簡単ではあるが、弓矢のように連射する事が不可能だ。火薬や燃料のための費用も馬鹿にならない。狙撃出来るような必中の武器というわけでもないから、大量に用意しないとこの威力も用を成さんな」</p><p> こう漏らしながらも、カトゥマルは<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
での準備射撃をやり切ってから、戦いの<ruby><rb>太鼓</rb><rp></rp><rt>タブル</rt><rp>)</rp></ruby>
を鳴らして陣形を整えた。そして、カトゥマルはムサンナはひとまず放置して北上しハマー湖を過ぎて、バサの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を包囲した。季節は春と夏を行き来している。</p><p> ――カトゥマル様は、レイス軍の<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
を包囲して攻めるようだ。</p><p> ――ファリドがナーシリーヤから出てくるように仕向けるおつもりらしい。</p><p> ――今後もアジャリア様の戦術の路線でやっていくということだな。</p><p> アジャール軍の中で将兵等がはカトゥマルの戦い方をこのように見ている。皆、カトゥマルの戦い方に独自性を期待すると同時に、これまでのやり方が変わらない事へ安堵もしていた。</p><p> だが、それは見方を変えれば、カトゥマルがアジャリアの轍を踏み外さず模倣するのに、十分な実力を持っている事に他ならないのである。</p><p> カトゥマルは、ファリドが頑なに篭城を続ける姿勢を見て、略奪こそしなかったものの、周辺の集落の作物を全て刈り取らせて、ファリドを挑発した。</p><p>「我等はファリドのおかげで腹を満たさせてもらったが、それでも奴は怒らないのか」</p><p> 様々な手を使ってでも、なんとかファリドを引っ張り出したいアジャール軍だが、結局、ナーシリーヤの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
の門は堅く閉ざされたままである。</p><p> このような曲折した交渉が何度か繰り返された後、カトゥマルは再び主戦場をムサンナへと移した。場所はナーシリーヤから南西のハマー湖のさらに南である。レイス軍に属する小領主達がここを守備している。</p><p> 夏場に珍しく雨が降り始めた。長く続きそうな雨である。</p><p> カトゥマルはムサンナの攻略に全力を注いだ。このような城壁も無い集落は、自分にとっては無防備も同じで、すぐに勝利出来る算段である。</p><p> これと同時に、ハイレディンの方ではナーシリーヤへの派兵を決めていた。新編していた<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
兵の部隊の動きがようやく様になってきた事が、派兵に踏み切る一つの安心材料になったからである。そして、安心材料をもう一つ、秘策として抱えていた。</p><p> ――ハイレディン、ナーシリーヤへ出兵。</p><p> カトゥマルの麾下でムサンナの攻略の任にあるバラザフのもとへ、フートの配下が報せてきた。</p><p> バラザフは、この仕事の間もシルバアサシン団の力を十二分に発揮出来る場を探していたが、その舞台を用意出来ぬまま今日まできてしまっている。</p><p> 雨は何故か未だに降り続いている。雨足が弱まる事はあっても、雲が切れて間から日が差してくる事は殆ど無い。</p><p> ――レイス軍は歩兵に一万の<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
を配備している模様。</p><p> フートの配下からさらに情報が上がってくる。だが、バラザフはこの長雨と湿気では<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
は、ただ金を捨てるようなものだと、これを危険視してはいなかった。</p><p> アジャールがムサンナが制圧出来ないままでいるところに、レイス、フサインの連合軍が合流をはたした、という情報が入った。レイス軍はこの部隊にも<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
を五千配備している。</p><p>「敵の兵力はどれくらいだ」</p><p>「ハイレディン自身が率いるフサイン軍が三十万、ファリドが率いるレイス軍が八万、計三十八万の兵力とのこと」</p><p>「我等の倍を超えているな。ハイレディンもファリドもこの戦いで雌雄を決するつもりのようだ」</p><p> 気を引き締めて、バラザフは<ruby><rb>兜</rb><rp></rp><rt>カウザ</rt><rp></rp></ruby>
を深く被った。だが、そこに驚きは無い。</p><p> ほんの少し前のウルクでの戦いで圧勝した事を皆が憶えている。</p><p> ――レイス兵ならば三人相手でも勝てる。</p><p> という自信がアジャール軍の中で一般的になっている。</p><p> アジャール軍の威風を知りながら、ハイレディンがムサンナへやってきた。ハイレディンはハマー湖の西側を少し過ぎたあたりで足を止めた。</p><p> 奇妙にも雨はまだ降り続いている。アジャール軍の方では、</p><p> ――長雨のせいでハイレディンは我が方の動向を見つめている他無いのだ。</p><p> という読みが<ruby><rb>大勢</rb><rp></rp><rt>
たいせい</rt><rp></rp></ruby>
である。</p><p> 思惑も先の見方も多数あった。そんな中でフートがアジャール軍の本陣に向かうフサイン軍の数名のアサシン集団を捕らえた。</p><p>「フサイン軍のマァニア・ムアッリム様に雇われた。我等は使者として参った故、サイード・テミヤト様に会わせてもらいたい」</p><p> フサインのアサシンは書状を出した。テミヤトに宛てたものだという。フートはこの数名をテミヤトの所へは連れていかず、ひとまずバラザフの所へ連行した。</p><p>「何故、敵のムアッリムからテミヤト殿に使者が来るのだ。フート、テミヤト殿に知らせてきてくれ」</p><p> 呼ばれたテミヤトは、</p><p>「相異無い。フサイン軍の武将と何人か連絡をとってこちらに同心する手筈になっている。それらの代表がムアッリムというわけである。使者も今回が初めてというわけではない」</p><p>「何故、そのような大事な事を今まで隠していたのです」</p><p>「成功する前に知られて失敗して自分の顔に泥を塗りたくないのでな」</p><p> と、テミヤトが顔色を変えない。</p><p>「さてと。隠し通せなくなった以上、カトゥマル様に知らせてこなくてはな」</p><p> バラザフがさらに追求を深めてくる前にテミヤトは素早く席を立った。テミヤトの密使の件がカトゥマルの耳に入ってしまえば、バラザフとしては、これ以上の糾弾の材料が見つからない。</p><p>「これは危ない兆しだぞ」</p><p> バラザフはテミヤトの暗躍をそう見た。ムアッリムがこちらに同心してくるとして、その真偽はどうなのか。そして、アジャール家の親族派閥に属するとはいえ、そういった単独の外交交渉をする権限がテミヤトにあるのか、という問題がある。</p><p>「こうした独断が認められれば、アジャール家の武将はアジャリア様以前、つまりナムルサシャジャリ様の代に逆戻りだ。アジャール家がまた分裂するという事なのですぞ。テミヤト殿ならお分かりのはずだ」</p><p> バラザフは、カトゥマルの所から出てきたテミヤトを早速捕まえて糾弾した。</p><p>「それでこの私にどうしろというのかね」</p><p> テミヤトは詰め寄られても態度は崩さず、うっすらと笑みすら浮かべている。</p><p>「く……! もうよろしい。カトゥマル様の存念をお聞きしてくる」</p><p> テミヤトと話していても埒が明かないと即断したバラザフは、脇を抜けてカトゥマルの本陣の<ruby><rb>天幕</rb><rp></rp><rt>ハイマ</rt><rp>)</rp></ruby>
に駆け込んでいった。いつものバラザフならば、このような目上の将に対して礼を失する態度は慎むものだが、そんな事に構っていられないほどの言い得ぬ危機感に突き動かされていた。</p><p>「テミヤト殿の専行は本来ならば看過出来ぬが、寝返り工作が成功すればそれを帳消しにする以上の功績となる。自分が気に入らない策でも全軍のためと思えば、それを採るのが大将としての私のつとめではなかろうか」</p><p> 敵の寝返りを含めたテミヤトがカトゥマルに具申した策というのは、ムアッリムがこちらに同心したのを合図に、フサイン、レイス軍に対して総攻撃をかけるというものである。</p><p> ムアッリムの使者が持ってきた書状には、フサイン軍はアジャール軍を罠にはめるため、工兵に陥穽のための穴を掘るのを急がせているので、今ならば、アジャール軍の騎兵部隊を全力投入すれば難なく突破出来る、とあった。</p><p> 都合が良すりる話を聞かされて、バラザフの危機感は逆につのるばかりである。</p><p>「カトゥマル様、この策に乗るのはあまりに危険です」</p><p> バラザフは、カトゥマルの決定が変わるよう何度か食い下がったが、戦意に充ちた今のカトゥマルには、全てが自分にとって益するものにしか見えなくなっていた。</p><p>「フート、手遅れになる前に敵の陣容、特に本陣を調べてきてくれ」</p><p> この言葉も、もはや無意識にバラザフの口から出ていた。</p><p> しかし、フサイン軍に本陣に遣ったフートの配下は、何の情報も得られずやむなく戻ってきた。</p><p>「警戒が異常なほど厳重でした。配置されているアサシンの数、<ruby><rb>間者</rb><rp></rp><rt>ジャースース</rt><rp></rp></ruby>
の数、今までと比較になりません。近くまで行く事はかないませんでしたが、遠目には穴を掘る工兵が動いているようには見えましたが、雨のせいで視界が利かずはっきりと確証は取れませんでした」</p><p> このとき確かにハイレディンは、工兵に穴を掘らせていた。だが、それを三重に築いていたのはアジャール軍からは確認出来なかった。掘った砂を麻袋に入れて積み上げ、平地に土塁も築いている。</p><p>「こうする事で平地に城を作ったのと同じ防衛効果が利くはずだ」</p><p> というのがハイレディンの一つの意図である。当然、ムアッリムの寝返りの話もハイレディンが画策したものだった。</p><p>「カトゥマルの奴がこれに乗ってくれば、俺達の勝ちだ」</p><p> 三重に用意した陥穽、その最前列の穴と土塁の後ろに<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
兵を一万五千人並ばせている。フサイン軍の一万、そしてレイス軍の五千である。</p><p> ハイレディンはこの戦いに自分の命運を賭けて挑んでいる。ムアッリムの裏切りという虚報で、アジャール軍を遠くから糸を引くように操っている。</p><p> 雨はまだ続いている。<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
を今回の主軸に置いているフサイン軍にとって、この雨は凶事であるように思える。が、情報の隠蔽という意味では、先にフートの配下がフサイン軍の陣容を見極める事が出来なかったように、巧く情報を隠す役割を果たしてくれていた。</p><p><br /></p><p>※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。</p><p><br /></p><p>次へ進む</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2022/01/A-Jambiya7-5.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2022/01/A-Jambiya7-5.html</a></p><p><br /></p><p>【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html</a></p><p><br /></p><p>前に戻る</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2021/10/A-Jambiya7-3.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2021/10/A-Jambiya7-3.html</a></p><p><br /></p><p>『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html</a></p><div><br /></div>Blog authorhttp://www.blogger.com/profile/05104770986712427544noreply@blogger.com0イラク ムサンナ29.9133171 45.2993862000000080.69584228150628391 10.143136200000008 59.130791918493713 80.455636200000015tag:blogger.com,1999:blog-4314757388830094658.post-42253747686781525762021-12-05T05:55:00.062+09:002022-01-05T11:47:31.759+09:00『アルハイラト・ジャンビア』第7章_3<p> バスラはシャットゥルアラブ川の右岸にある港湾都市である。穀物や<ruby><rb>棗椰子</rb><rp></rp><rt>タマル</rt><rp>)</rp></ruby>
などの輸出港でもあり、都市内に整備された運河が、バスラの産業製品である<ruby><rb>棗椰子</rb><rp></rp><rt>タマル</rt><rp>)</rp></ruby>
の品質向上にも役立っている。</p><p>「この<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp>)</rp></ruby>
は北にシャットゥルアラブ川が流れているから向こう側から攻撃するには無理がある。南のバスラ運河沿いに布陣してじっくり攻めるしかないな」</p><p> バラザフは今回の戦いでは、<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp>)</rp></ruby>
の包囲は有効な手段ではないと考えていた。</p><p>「敵味方ともに、このバスラ運河が攻防の鍵となる。敵の弱った部分を見つけて商人のダウ船で渡河できれば、そこから一気に攻略が進むのだが」</p><p> だがカトゥマルはバラザフを参謀としては採用しなかった。</p><p>「今回の戦いはテミヤト殿の能力を十二分に活かしたい。諸将もテミヤト殿の指揮下に従属するものとする。シルバ殿は、レイス軍、フサイン軍の動きを注視し、別働隊として臨機に対応してもらいたい」</p><p> という具合にテミヤトを前に推していた。</p><p> 主戦闘から外れているバラザフだったが、その間にも彼の脳は戦略的な思考をやめない。</p><p> ――アサシンの能力を活用し、新たな部隊を創設出来ないか。</p><p> この方法論をずっと探っていた。</p><p> アジャリアが世を去り、カトゥマルの代になったと同時に、世界にも新時代が開かれていくのではないか、という予感がしていた。そして、新時代に適応出来るアサシンが要る。</p><p> ――情報を獲得しなければならない。</p><p> そして、</p><p> ――そこに速さが求められる。</p><p> つまり、</p><p> ――アサシンをもっともっと増やさなくてはならない。</p><p> アサシンを活かしきって、敵を掻き乱すには、獲得した情報をアサシン部隊の中で<ruby><rb>捌</rb><rp></rp><rt>さば</rt><rp></rp></ruby>
けなくてはいけない。とすると――、</p><p>「アサシン部隊自体に頭脳が必要だな」</p><p> どこの軍団でも個々の力量によって情報を集めるようなアサシンは必ず居た。それを部隊として連携した戦法を取れるようになれば、戦力は格段に向上するはずなのだ。</p><p> メフメト家のシーフジンの軍団の事が、バラザフの脳裏に浮かんだ。だが、シーフジンはメフメト家に抱えられているとはいえ、棟梁モハメド・シーフジンが動かしている軍団である。バラザフが志向するのは、シルバ家の一部隊としてのアサシン軍団の設立であった。</p><p> バラザフは、リヤド、アルカルジなどを中心にしてアサシンの人材を広範囲に募るようにシルバアサシンの長のフートに命じた。このとき、部隊としてのアサシンを欲しているバラザフが求める人数は千人は超えていた。</p><p> この時期、ハイレディン・フサインは<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
を大量に導入した新たな軍団編成を目指していた。今まで弓兵で編成していた部分にも<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
を装備させて、武器の扱い方に慣れさせる練兵の手間を大幅に削減した。<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
は扱い方さえ覚えさせれば、鍛錬の必要はかなり少なく出来るからである。この頃ハイレディンが導入した<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
の数は一万以上であった。</p><p> しかし、未だ小<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp>)</rp></ruby>
を拝領しているだけのバラザフには、ハイレディンのように<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
を自前で導入するとか、職業軍人を常に抱えておけるような力は無かった。</p><p> 小領主の身の丈に合った部隊編成、新戦法の開発をするより道は無い。</p><p> バラザフの部隊創生の主軸には、アサシンを十二分に活かすというものがある。戦術には正奇の二つがある。将兵を使って普通に戦うのが正に据えるとすれば、バラザフの創案にあるアサシンを使った戦いは奇の位置に置かれる事になる。正奇の相まって戦いの勝利に安定性が生まれる。</p><p>「つまりだな、フート」</p><p> アサシンの長にバラザフは、アサシン軍団創生を実際事例を前に置いて説明を始めた。</p><p>「今、カトゥマル様がバスラの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp>)</rp></ruby>
を攻城しているだろう。そして、バグダードからハイレディンがレイス軍に援軍を出してきたとする」</p><p> フートは、いつもはあまり無駄な口を開かない主人の言葉に熱がこもっているの感じて、興味深くこれを聞いていた。</p><p>「手薄になった敵の<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp>)</rp></ruby>
にアサシンを五百人くらい潜入させて、あちこちで放火すると敵はどう出ると思う」</p><p>「残った守衛部隊が出てきますな」</p><p>「その通り。詰め所から出撃してきた所を、城内に埋伏させておいた者に攻撃させる。この役に二千名ほどをあてておくのだ。伏兵に慌てた守衛部隊は一旦退却するはずだ」</p><p>「そうですな。なるほど見えてきました。そこから刺さりこむのですな」</p><p>「その通り。詰め所や本部に退却する敵兵に紛れて、こちらの兵を入り込ませて中を攻撃する。援軍を出している間にバグダードの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp>)</rp></ruby>
は陥落してしまうという<ruby><rb>絡繰</rb><rp></rp><rt>からくり</rt><rp></rp></ruby>
なのだ」</p><p>「なるほど、これは我等アサシンが培ってきた力の<ruby><rb>撰修</rb><rp></rp><rt>せんしゅう</rt><rp></rp></ruby>
といえるでしょうな」</p><p> バラザフの戦術をフートがこう評したように、今語られた戦い方はアサシンのこれまでの戦い方の総纏めである。アサシンの力を認め、これまで以上の活躍の場を与えようとしてくれている主人にフートの好感は素直に上がった。</p><p> 反面、複雑さも増すだけに、目的到達には誰も経験した事の無い険しさがある。創生するとはそういうことである。</p><p> 具体的には、今までの稼動単位が一人、または数人の集団だったものが、軍団に格上げされることで兵卒の部隊と同等の連携度が求められる事になるはずである。</p><p>「軍団になるといってもアサシンは奇で、歩兵、騎兵が正だ。正が主軸になるのは言うまでも無い。フートは面白くないかもしれないが、<ruby><rb>絡繰</rb><rp></rp><rt>からくり</rt><rp></rp></ruby>の部品のような動きをしなければならないのは今までと変わらない。敵からも味方からも情報を集めてきて、それを捌く。その情報を活用して敵をかき乱し、正の者を巧みに勝たせる。名誉は得られないが重要な役割なのだ。これが今後のシルバ家の戦法となっていくであろう」</p><p> このバラザフの言葉が、バラザフの子供達のこれからの戦い方も決定する事になった。</p><p> 特に次男のムザフ・シルバは父バラザフがつけた道を轍のように通って、最初の情報収集、次の段で後方撹乱をして、多勢に無勢という戦いでも勝ちにつなげてゆく型を確立していった。</p><p> ハイレディンの<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
の運用度を上げた軍団編成は、すぐに各地の勢力で模倣されてゆくが、バラザフのこの正奇両用の新たな軍略は、バラザフにしか運用出来ず、万人による模倣はとても適うものではなかった。アサシンの力を余すところ無く引き出す部隊の新編は、大量の<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
が火を噴くような派手さはなかったが、シルバ家個有の戦術になった。</p><p> 至急、フートはバラザフの求めに応えるべく、リヤド、アルカルジを駆け巡り、新軍団に入隊する面々をバラザフの前に連れてきた。</p><p> それぞれのアサシンがすでに百名ほどの配下を持っている。</p><p>「シムカ・アブ・サイフと申します。元はアジャール家に抱えられていたアサシンで、その後、御父上のエルザフ・シルバ様の配下となりました。梶木の名のとおりシーフジンにも劣らぬ速さと自負しております」</p><p>「シムク・アルターラス。得意技は、<ruby><rb>隠密</rb><rp></rp><rt>タサルール</rt><rp></rp></ruby>
。姿を消して城に忍び込みます。元エルザフ様の配下です」</p><p> バラザフの前に並ぶ顔には見慣れた者もあった。フートと一緒に戦ってきたフート、<ruby><rb>鱈</rb><rp></rp><rt>クッド</rt><rp></rp></ruby>
、<ruby><rb>鰯</rb><rp></rp><rt>サルディーン</rt><rp></rp></ruby>
、<ruby><rb>鰻</rb><rp></rp><rt>アジャリース</rt><rp></rp></ruby>
、<ruby><rb>鯖</rb><rp></rp><rt>アスカマリィ</rt><rp></rp></ruby>
の面々である。さらに、</p><p>「ロビヤーンと申します。周りから何故か<ruby><rb>海老</rb><rp></rp><rt>ロビヤーン</rt><rp></rp></ruby>
と呼ばれておりました。城内を撹乱する技を持っております。エルザフ様に雇われた事も十五回ほど」</p><p>「ハッバール。煙の<ruby><rb>烏賊</rb><rp></rp><rt>ハッバール</rt><rp></rp></ruby>
。墨ではなく煙で姿を隠します」</p><p>「ルブスタル」</p><p>「ジャンブリ」</p><p>「大海老と小海老であります」</p><p> ルブスタルの方が付け加えた。この二人は配下を連れていなかった。</p><p>「我等の特技も移動。そして砂や木に潜む事もできます」</p><p>「ロビヤーンとは何か繋がりがあるのか?」</p><p>「いえ、フート殿の命名にて、特に関係は。アサシンは名前が隠れればそれでよいかと」</p><p> その後、彼等を何気なく観察していると、実際の兄弟かはさておき、ルブスタルが兄、ジャンブリが弟として親密に行動しいるらしい。</p><p> そして、最後にバラザフの前に出てきたのが、</p><p>「おお、ケルシュ殿も我が軍団に参画してくれたのか」</p><p> バラザフもケルシュは顔見知りの仲であった。自然とバラザフの顔にも笑みが浮かぶ。ケルシュはリヤド周辺の集落出身で、アジャール軍でアサシン団を束ねる棟梁の一人だった事もある。</p><p> 配下を敵の城に潜入できるように育成し、自分も潜入能力には長けていた。アサシンの中の古豪である。アジャール家中の身分からいえば、バラザフと同等か、それよりもやや上の人物である。</p><p>「俺が今動かせる配下は二百名。どいつもそれぞれ異能を持った奴ばかり。フートから話を持ちかけられて、面白そうだから乗らせてもらった。俺が選んだ者達、皆、バラザフ殿を満足させられるはずだ」</p><p> 明瞭だが遠くに響かず、余人に漏れない。そんな声である。</p><p> バラザフは最初の稼動人員を千名として、アサシン団を抱える事にした。そして、アサシン団の長を二人置いた。一人はケルシュ、もう一人は今までと同様、フートを任命した。</p><div><div><br /></div><div>※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。</div><div><br /></div><div>次へ進む</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2021/12/A-Jambiya7-4.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2021/12/A-Jambiya7-4.html</a></div><div><br /></div><div>【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html</a></div><div><br /></div><div>前に戻る</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2021/10/A-Jambiya7-2.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2021/10/A-Jambiya7-2.html</a></div><div><br /></div><div>『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る</div><div><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html</a></div></div><div><br /></div>Blog authorhttp://www.blogger.com/profile/05104770986712427544noreply@blogger.com0Shatt al-Arab River, イラク30.8322839 47.5579842.5220500638211547 12.401733999999998 59.142517736178846 82.714234tag:blogger.com,1999:blog-4314757388830094658.post-62320537899898915272021-11-05T05:55:00.055+09:002021-12-05T10:53:35.760+09:00『アルハイラト・ジャンビア』第7章_2<p> カーラム暦996年中頃、カトゥマルはアジャリアの弟のサッタームをアジャリアに偽装し挙兵した。本人不在の<ruby><rb>幻影</rb><rp></rp><rt>タサルール</rt><rp></rp></ruby>
作戦である。</p><p> この挙兵はアルカルジに攻めてきたサラディン・ベイに対するものである。サラディンはアジャリアの生存を疑わしく思い、一度叩いてみて出方を確かめてみようというものであった。これと同時に、ハイレディン・フサインがバグダードから再び勢力拡大に動き始めていた。</p><p> アルカルジでは病に伏しているエルザフの跡をバラザフの兄アキザフが継いでいた。そのアキザフよりこれらの急報を含めた報告が入ってきた。</p><p>「サラディンもハイレディンも、なめたまねをしてくれる。戦ってみればアジャリア様の生存がわかるというのなら、それでは勝てぬのだと教えてやろうではないか」</p><p> これには諸将も異論無く一つにまとまった。煽るようなこの二者に対して応戦せぬでは、アジャリアの死を悟らせてしまう事にもなるからである。</p><p> カトゥマルは、二つの戦線を同時にさばく事とし、アルカルジとバグダードに向けて出兵した。陣中のサッタームはアジャリアである事になっている。</p><p> ――アジャリア・アジャール自ら出師。</p><p> この報をどう判断したかは明らかにせず、サラディンの方は武器をおさめて馬を返して去っていった。</p><p> カトゥマルは、アルカルジに出していた軍を転進させて、バグダードの方に向かわせた。こうした転進を織り交ぜた行軍こそがアジャリアの模倣なのであった。</p><p> カトゥマルの当主としての戦争は緒からいい具合に運んだ。アブラス隊とともにアキザフ・シルバが先陣を駆けてフサイン軍を縦となく横となく蹴散らして勝利した。</p><p>「見事だ。さすがにシルバ家は当主がかわっても相変わらず強い」</p><p> カトゥマルは本陣でアキザフ等の活躍を見ていて、そのとき近侍していたバラザフにも信頼を込めた笑みをおくった。カトゥマルの笑顔にバラザフも素直に頷いた。</p><p> ――カトゥマル様ほど戦場で嬉しそうな顔をする方もいないな。</p><p> 人が死ぬ戦場で、溌剌としているカトゥマルを見て、彼の真の居場所のようなものをバラザフは感得していた。</p><p> ハラドにいるときの最近のカトゥマルは沈鬱な表情を浮かべていることが多い。その重苦しさが、戦場に出ていると一切感じられない。戦場に出ると要らぬ苔を削ぎ落としたような清清しさになるのである。</p><p> バグダードからハイレディンが出たときにはカトゥマルはすでに着陣していた。</p><p>「以前より速くなっているではないか。アジャリア殿の死は虚報に違いない。いや、こうして惑わす事がアジャリア殿のやり方だった気もするぞ」</p><p> カトゥマルの迅速さにハイレディンは驚き、恐怖すら芽生えつつあった。</p><p> カトゥマルがアジャリアを模倣出来たのは速さばかりではない。兵力を消耗しない、アジャリアらしい策略を駆使して、フサイン軍、レイス軍の<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp>)</rp></ruby>
を時間の後先もわからぬほど、どんどん飲み込んでいった。</p><p>「強くなっている。アジャリア様の御霊が乗り移ったかのような強さ」</p><p> カトゥマルの強さにはバラザフも驚いていた。これまでは猪突な大将としか思っていなかっただけに、カトゥマルの統率力、指揮力を見直さざるを得なかった。と同時に、今では<ruby><rb>九頭海蛇</rb><rp></rp><rt>アダル</rt><rp></rp></ruby>
の頭の一つとなっているバラザフは、すぐ横の一番大きな首を無意識に好敵手として凝視していた。</p><p> 本陣でカトゥマルを見つめていると、カトゥマルの戦術のアジャリアと僅かな違いも浮かび上がって見えてきた。カトゥマルのやり方は、押せると見たら徹底的に押して敵を下す、押しの強い戦いである。アジャリアと比較すると、このやり方は蛮勇といえるかもしれない。</p><p> 勇猛果敢である事はそれ自体が強さである。だが、突き進む強さが強ければ強いほど、敵の刃に触れる回数も圧倒的に跳ね上がる。</p><p> ――やはり戦場でのカトゥマル様は危うい。</p><p> バラザフの危惧をよそに、カトゥマルは目の前の壁を砕くかのよう戦い方を続けた。</p><p> 今回、バラザフは監視役としてカトゥマルの本陣で、諸将の賞罰を管理していたので、前線に出ることは少なかったが、カトゥマルの用兵で戦列に入る事も多少あった。</p><p> 敵の小規模な<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp>)</rp></ruby>
は、千人ぐらいの戦力して持っていない。</p><p> 敵の正面に前線の兵士を当てて、バラザフは配下を三百人率いて<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp>)</rp></ruby>
の裏に忍び寄った。配下の中にはシルバアサシンの長、フートの顔もある。フートは<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp>)</rp></ruby>
の中を調査して、警備が薄い所から潜入して、混乱の渦に陥れる。</p><p> <ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp>)</rp></ruby>
内の混乱が最高潮に達したあたりで、バラザフと配下が裏門を一気に叩いて突破し、中になだれ込む。ここで無駄な斬り合いが発生しないよう、投降する者を受け入れられるように、バラザフは配下をしっかり統率した。この辺りがバラザフが諸将と比較して抜きん出て巧みな要素といえた。</p><p> 部隊の統率者が討たれれば兵士は動けなくなる。そこを狙い目に敵の隊長格の者を見つけて倒し、敵味方の損害を最小限に抑えるのである。</p><p> 敵将の獲物がバラザフの<ruby><rb>諸刃短剣</rb><rp></rp><rt>ジャンビア</rt><rp></rp></ruby>
で防がれたときが、もう片方の<ruby><rb>諸刃短剣</rb><rp></rp><rt>ジャンビア</rt><rp></rp></ruby>
で敵将が討ち取られるときであった。</p><p>「隊長は討ち取ったぞ! 命を粗末にせず投降せよ!」</p><p> 投降を促すとともに、敵将の血のついた<ruby><rb>諸刃短剣</rb><rp></rp><rt>ジャンビア</rt><rp></rp></ruby>
をこれ見よがしに掲げる。</p><p> このやり方で投降しない敵兵はいなかった。これがバラザフの小規模戦闘での勝利の型として出来上がっていた。</p><p> いかにすれば戦意が高揚するのか、低迷するのか。アジャリアの軍に従軍して戦場にてそれを肌で感じ取ってきた事が、将軍としてのバラザフの能力の形成につながっていた。</p><p> バラザフは夜戦にも強さを発揮した。</p><p> ――夜に敵が奇襲にくるぞ。</p><p> <ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp>)</rp></ruby>
の内側に潜入した数人の<ruby><rb>間者</rb><rp></rp><rt>ジャースース</rt><rp></rp></ruby>
達は、方々で吹いて回って守備兵の恐れを喚起し、各所に放火した。</p><p> <ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp>)</rp></ruby>
の混乱が高まると<ruby><rb>間者</rb><rp></rp><rt>ジャースース</rt><rp></rp></ruby>
達は離脱して、次にバラザフを先頭に少数の強兵が襲い掛かる。</p><p> 小規模な<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp>)</rp></ruby>
は、この手口で落とされたものが多かった。</p><p>「カトゥマル・アジャール。アジャリア以上に恐ろしい大将だ。たった三日でこちらの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp>)</rp></ruby>
が二十も奪われた」</p><p> カトゥマルの猛攻にはハイレディンといえども手出し敵わず、バグダードに篭って今はこの勢いを見極める他なかった。</p><p> この戦いの間、アジャール家中におけるカトゥマル立場が強くなっていた。</p><p>「戦場の真中においてこそカトゥマル様は活きるのだ」</p><p> バラザフがそう思ったように、戦場ではアジャール家はカトゥマルを中心にひとつにまとまった。しかし、ハラドに帰ると主君の不在を守っていたモグベルなどの側近派閥が大きな顔をするようになって、戦場ではカトゥマルに引き付けられていた古豪派閥の家臣等との亀裂がまた表出してしまう。</p><p> これはカトゥマルの意思で古豪との溝を作るというよりも、側近派閥に融和性がないゆえに出来てしまう溝なので、カトゥマル自身では処置のしようがなかった。</p><p> こうした溝を埋めるためにバラザフは、またカトゥマルを戦場に置こうと考えた。</p><p>「今のカトゥマルには勢いがあります。今のうちにこれを活かしてナーシリーヤ方面の攻略を再開しては」</p><p>「うむ。正に我が意である。アジャリア様が落とせなかった<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp>)</rp></ruby>
も、今の俺ならば可能であろう」</p><p> と、カトゥマルも強く同意した。</p><p> ところが、この出征にシャアバーン、ハリティ等、古豪派閥の家臣は、表向きはアジャリアが生存している事になっていて、目だった行動をする事によって、アジャリアの死が外にもばれてしまう危険が高まる事を理由に反対した。それでもカトゥマルが強く出征路線を打ち出してくるので、古豪派閥もこれに折れるしかなかった。</p><p>「シルバ。今回はテミヤト殿に先陣を任せようと思う。異論はあるか」</p><p> 今までバラザフと呼んでいたのを、カトゥマルは<ruby><rb>シルバ</rb><rp></rp><rt>・・・</rt><rp></rp></ruby>
と呼んだ。無意識的に幼馴染という関係から抜け出し、公の人間になっていた。また、先鋒を・シャアバーン、ハリティにしなかった事も、カトゥマルが戦巧者である事を表していた。</p><p> ――カトゥマル様は本当に戦争の事になると神がかる方だな。</p><p> バラザフは、カトゥマルの采配と戦いでの神智に感心していた。</p><p> 出征の方策をカトゥマルから求められたときの案として、テミヤトを先鋒に推す事はバラザフも考えていた。クウェート方面のある小さな<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp>)</rp></ruby>
をテミヤトが領地として与えられていた事が理由の一つ。もう一つは、先鋒を古豪派閥ではなくアジャール家親族派閥から選任する事によって、家中でのテミヤトの格を上げて、なおかつ先のように戦争によってアジャール家がまとめる事を見込んだためである。カトゥマルの意図もこれに異なる部分は無かった。</p><p> かつてアジャリアとの関係がそうであったように、カトゥマルとバラザフの関係も黙したまま互いに了解出来る領域が多い。幼馴染だからこそ分かる距離感というものはあるものである。</p><p> テミヤトの部隊を先頭にアジャール軍がバスラに雪崩れ込んだ。アジャリアは生前、バスラ方面も鋭意攻略してきたが、バスラの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp>)</rp></ruby>
自体には手をつけてこなかった。バスラからファリド・レイスの本拠地であるナーシリーヤまで、西北西に約二日の行軍距離である。ナーシリーヤやクウェート等を繋ぐ、主要道の交点でもある。</p><p> ――エルザフ・シルバ、危篤。</p><p> ハラドを発つ直前にアルカルジからバラザフのもとにこの報せが入った。不安が無いといえば、それははっきりと嘘である。だが、バラザフは表情には出さなかった。</p><p>「父上の快復を祈る」</p><p> とだけバラザフは兄アキザフにあてた手紙を送った。しかし、この手紙がアルカルジに着く前に、父エルザフは病にて霊籍の人となっていた。数日の後、シルバアサシンによって父エルザフの死がバラザフに報告された。</p><p> アジャリアの死。父エルザフの死。敬愛した二人の、続いた二つの大きな死は、バラザフの心に大きな衝撃を与えた。一方で人の命の有限と、あらゆる命に死は避けえぬ宿命なのだという事も二人の死から学んだ。</p><p>「アジャリア様は限りある命を生き切ると言っていた。その中で何を成すかが大事であるとも。死を意識して尊き命を巧く運んでいかなくてはな」</p><p> あの時のアジャリアの言葉の意味がわかり始めていた。</p><p><br /></p><p>※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。</p><p><br /></p><p>次へ進む</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2021/10/A-Jambiya7-3.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2021/10/A-Jambiya7-3.html</a></p><p><br /></p><p>【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html</a></p><p><br /></p><p>前に戻る</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2021/09/A-Jambiya7-1.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2021/09/A-Jambiya7-1.html</a></p><p><br /></p><p>『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html</a></p><div><br /></div>Blog authorhttp://www.blogger.com/profile/05104770986712427544noreply@blogger.com0イラク バスラ30.5257657 47.7737969999999882.2155318638211554 12.617546999999988 58.835999536178846 82.930046999999988tag:blogger.com,1999:blog-4314757388830094658.post-80041631805667867532021-10-05T05:55:00.032+09:002021-11-05T13:02:28.151+09:00『アルハイラト・ジャンビア』第7章_1<p> バラザフの所に弟のレブザフが来た。</p><p>「兄上、アジャリア様が亡くなったとの噂を聞きました。数年の間、自分の死を秘すようにアジャリア様に言い残したとも。兄上なら全て知っているのでは」</p><p> アジャール家の武官として役に就いているレブザフであったが、アジャリアの死を知らされる身分ではなかった。だが、この隠匿はあっけないほどの速さで家中に拡散しつつあった。それでもカトゥマルも含めて重臣等は、</p><p> ――アジャリア様は病気で療養中である。</p><p> と、<ruby><rb>頑</rb><rp></rp><rt>かたく</rt><rp></rp></ruby>
なに外にも内にもアジャリア生存を装い続けた。</p><p>「レブザフ。アジャリア様を死んだ事にするとは不敬である。アジャリア様は病気。そして療養中だ。それが現実なのだ」</p><p> この間にも公ではアジャリアが出なけばならない式典等が発生する。こうした時、式典の場には弟であるサッタームがアジャリアの席の腰を下ろす事になった。</p><p> ――アジャリア様は病気の中、強いて公の場に出ている。</p><p> という現実を作り出すためである。</p><p> 数年の間、自分の死を秘すようにとアジャリアは遺言した。この数年という時間を、家臣の間では三年の間と認識して、これを共有する事となり、サッタームをはじめとするアジャリアが創った<ruby><rb>幻影</rb><rp></rp><rt>タサルール</rt><rp></rp></ruby>
達を、本人が出るべき場所へ出していた。</p><p> 一応、形の上ではアジャリア体制を維持している一方で、アジャリアのたった一人の後継者であるカトゥマルが、アジャール家での発言権を強めていった事は自然な流れだった。同時に、サッド・モグベルなどの自分の側近が重きを成すような、人材配置にしていった。</p><p>「彼らは知恵もあるし、血筋もよい。政治力も申し分ない。だが、その政治力に比重が偏るゆえ、戦術的な思考の出来る古豪のシャアバーン、ハリティ、オワイラン殿と溝が生じてしまう」</p><p> バラザフの口から懸念が漏れた。</p><p> 自分にとってはカトゥマルとは、主家でありながら親友だと思っていた。お互いに自分の考えを言い合える距離で過ごしていたので、最近のカトゥマルが事あるごとに側近の力で解決しようとして、古参の武将との間に立ち入れない一線を引いてしまっているように見えて、危うきを感じていた。</p><p> カトゥマルの母はリヤドの太守の娘である。母の生家であるリヤドで育てられたカトゥマルは、アジャリアの長男アンナムルが死んだ後、アジャリアの後継者となった今でも、アジャール家内では、「リヤド太守カトゥマル・アジャール」の印象がどうしても強く残っている。</p><p> この印象のためにアジャリアが亡くなってカトゥマルが新たな当主になっても、言い得ぬ違和感を皆に持たれてしまうのである。</p><p> カトゥマルが家臣団からぞんざいに扱われたという事は無かった。だが、モグベルなどの側近の台頭に不満を持つ家臣は徐々にこの頃から増え始めていった。</p><p> バラザフは、この亀裂を傍観することにした。</p><p>「俺は実際の<ruby><rb>執事</rb><rp></rp><rt>サーキン</rt><rp></rp></ruby>
の役を賜っているわけではない。カトゥマル様のためになる事、アジャール家のためになる仕事だけを考えていればいいのだ」</p><p> と早い段階で自分の立ち位置を定めていた。そうする事が亡きアジャリアに対する自分の報恩であると信じていた。</p><p> 他方で、カトゥマルの側近たちはそうは考えなかった。カトゥマルのため、アジャール家のためと考えるより先に、</p><p> ――いかにカトゥマル様に自分をよく見せるか。</p><p> ――自分の出世のためにカトゥマルの出方にどう処世するか。</p><p> という腹の中に金貨の受け皿を備えているような勤め方をしていた。主人の恩寵によって急に位が上がった者によくある思考である。</p><p> アジャリアの時代は、<ruby><rb>九頭海蛇</rb><rp></rp><rt>アダル</rt><rp></rp></ruby>
の頭は、長の頭によって統率されていた。家臣団の中で臨機に頭に数えれる者が替わるにせよ、ばらばらな動きはしていなかった。</p><p> ところが、カトゥマルの代になった途端、カトゥマル側近の派閥、古豪の派閥、そしてテミヤト、アシュール、アブラスといったアジャール家親族の派閥に分かれた。大きな派閥はこの三つなのだが、<ruby><rb>九頭海蛇</rb><rp></rp><rt>アダル</rt><rp></rp></ruby>
の頭には首の細いものあり、目鼻の無いものありで、<ruby><rb>九頭海蛇</rb><rp></rp><rt>アダル</rt><rp></rp></ruby>
と形容するに相応しくない態になりつつあったが、さすがに酒樽の頭を突っ込んで酔いつぶれているものは無かった。</p><p> 親族派閥は、古豪派閥に肩入れしたら、次の日は側近派閥の肩を持つというような安定感の無い動きをして、側近派閥はカトゥマルの視野を塞いで家中の裁定から遠ざけようとした。</p><p> カトゥマルに耳ざわりのよい言葉だけを入れて、側近派閥の支配権を拡張しようという、これまた王座に寄生する者にありがちな型であった。</p><p> カトゥマルの目は閉ざされても、バラザフの目からは全体が見えすぎるほど見えた。</p><p> ――側近派閥は欲得剥き出しでうんざりする。</p><p> こうした思いをバラザフは内に抱え込んでおく他無かった。</p><p> 昔のバラザフとカトゥマルであるならば、歯に衣着せる事なく考えを言い合えた。せめて自分が一歳でも年長であるならば、衷心を以って諫言する事も出来たろうにとバラザフは思う。</p><p>「アジャリア様が作ろうとしてアジャール家は、こんなものではなかったはずだ」</p><p> 早くも巨星が堕ちた弱りがアジャール家に見え始めていた。</p><p><br /></p><p>※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。</p><p><br /></p><p>次へ進む</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2021/10/A-Jambiya7-2.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2021/10/A-Jambiya7-2.html</a></p><p><br /></p><p>【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html</a></p><p><br /></p><p>前に戻る</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2021/08/A-Jambiya6-6.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2021/08/A-Jambiya6-6.html</a></p><p><br /></p><p>『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html</a></p><div><br /></div>Blog authorhttp://www.blogger.com/profile/05104770986712427544noreply@blogger.com0サウジアラビア リヤド24.7135517 46.6752957-3.5966821361788455 11.5190457 53.023785536178849 81.831545699999992tag:blogger.com,1999:blog-4314757388830094658.post-1118515425063658512021-09-05T05:55:00.039+09:002021-10-05T14:06:07.177+09:00『アルハイラト・ジャンビア』第6章_6<p> アジャール軍は野営のこの地から動かぬまま、新旧の年を遷った。カーラム暦995年になってすぐ、アジャリアは床から重い身を起こして、全軍に再出発を命じた。</p><p> 主君の病みと、長期による野営で動けぬまま倦み始めていた三十万の将兵は、進軍と聞いて歓喜の声を上げた。</p><p>「アジャリア様の快癒、我等家来共は皆喜んでおります」</p><p> アジャリアの病状の重さを知らぬ一般の仕官は、再出発の命がアジャリアの快癒を意味するものととらえてカトゥマルに賀辞を贈る者も少なくなかった。ウルクの遺跡でレイス軍に勝利した時の賑わいが久々にアジャール軍に戻ってきている。</p><p>「次の目標はルマイサだ。皆には、わしのせいでルマイサを目前にして歯がゆい思いをさせて済まなかった。ルマイサは包囲して飲み水を断水させれば陥落までさほど時は要さないだろう」</p><p> 再出発の軍議で諸将を安堵させて、アジャリアは彼が指揮鞭としている<ruby><rb>革盾</rb><rp></rp><rt>アダーガ</rt><rp>)</rp></ruby>
の柄を高々と振り上げた。</p><p> この動きの切れに主君の威信を感じた三十万の将兵は大きな川となってルマイサを目指した。さほど遠くない行軍である。</p><p> ルマイサの太守は四千の兵で<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp>)</rp></ruby>
に立て篭もっている。</p><p> アジャリアは出発前にルマイサを断水させると言った。いつも通り<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp>)</rp></ruby>
を包囲して、周囲の水源から隔絶させる他、地下から空洞を掘って井戸水を抜く手筈になっている。城外で普通の井戸の深さまで掘り進めてから、次に横に掘ってゆく。掘った所から水がしみ出てくれば当たりである。当たるまで範囲を拡げて掘ってゆくのだ。</p><p> 井戸水の断水作戦に加えて、アジャリアはこの穴を攻撃に利用しようと考えている。サマーワ攻撃の際にハリティとシャアバーンが警戒していた事を、今回は自分達がやってみようというのである。そのため今回は最初から採掘職人を連れてきていた。</p><p> これと似た方法に坑道戦というものがある。相手の砦、<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp>)</rp></ruby>
の地下へ空洞を掘り進み、空洞を支えていた柱に火をつけて重さで下に落とす。あるいは火薬で爆破して施設を崩壊させる作戦だが、今回は掘った穴から兵士を侵入させようとしているので、これとは似て非なるものである。</p><p> わざわざ採掘職人に仕事させて、作戦の手間をかけるのは、この手法でれば落城させるのに、敵味方の将兵の消耗を極力回避出来るからである。</p><p> アジャリアは動かない。ルマイサを包囲したまま、採掘職人達が空洞を掘り終わるのをじっと待っている。敵の兵力は四千、たった一押しすれば済む事だろう。しかし、アジャリアはそれをしようとせず、一ヶ月の間辛抱した。</p><p> この一ヶ月は待つ一ヶ月であると同時にアジャリアの病にも進行の時間を与えてしまっていた。</p><p> バラザフの目に映るアジャリアは日を追うごとに痩せてゆく。それどころか小さくなっていくようにすら見える。</p><p> ――これではエルサレムに上るなど夢想ではないか。</p><p> バラザフの中でその思いが日々に増幅されていくのも無理からぬ事である。</p><p>「バラザフ、ルマイサは落とせたか」</p><p> アジャリアは野営地で病臥して、意識が戻るとバラザフにこう尋ねる。一日一日がこれだけになっていた。</p><p>「あと少しです。採掘職人達が良い仕事をしておりますゆえ」</p><p> 答えるバラザフの方ではこれが定型句になっていた。</p><p> 冬の最中、一ヶ月の時間をかけて、アジャール軍はルマイサを落とした。<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp>)</rp></ruby>
の将兵らはほぼ無抵抗で武器を捨ててアジャール軍の縛についた。同時に――、</p><p> アジャリアは死を隣にして冥府の門の前で眠っていた。</p><p>「これはいけませんね……」</p><p> アジャリアの加減を診た侍医は首を横に振った。</p><p>「アジャリア様の今の病状では、これ以上進むのは限界です。ハラドに帰還するのがよろしい。ゆっくりとです」</p><p>「バラザフ、主だった将だけ秘密で集めてくれ」</p><p>「承知」</p><p> アジャリアの意識は戻らない。食事を一切摂ることが出来ず、体中の肉が落ちきっている。戦況を尋ねる言葉ももうその口から発せられなくなっていた。</p><p> カトゥマルの命で本陣に合議のため諸将が呼ばれた。</p><p>「エルサレムを目指すのはこれまでではないか」</p><p> まずアブドゥルマレク・ハリティがアジャリアの重篤を理由に撤退案を出し、何人かもこれに賛同する者があった。</p><p> ワリィ・シャアバーンはここまでを黙って聞いている。</p><p>「ナーシリーヤを抜いて、サマーワ、ルマイサを得てここまで来れたのだ。バグダードさえ攻略出来ればエルサレムまでの道が通ったも同然。アジャリア様には養生していただくとして、先鋒だけで行く手を片付けてゆくのはどうであろうか」</p><p> 言葉は穏やかながらナワフ・オワイランは継続路線を主張すると、これへの異見がサイード・テミヤトの口から出た。</p><p>「アジャリア様の意識は戻られぬままだ。ここで養生していただいても快復の望みは薄い。ハラドまで、せめてリヤドまで戻って療養に専心していただくのがよい」</p><p> これにカトゥマルが我が意という風に大きく頷いた。</p><p>「カトゥマル様のご存念を家臣にお示しください」</p><p> バラザフがカトゥマルに促すと、諸将の視線が一斉にカトゥマルに注がれた。</p><p>「私も帰還第一と考える。ハラドに戻って療養していただきたい。ハリティ殿、テミヤト殿と同じ意見である」</p><p>「これで合議は決定ですな」</p><p> バラザフがカトゥマルの言葉が総意となるように閉めた。だが、ここで初めてシャアバーンが口を開いた。</p><p>「ハラドに戻ってアジャリア様の意識が戻られた時に、何と伝えたらよいか。アジャリア様の意識が無いうちに勝手に撤退した事になってしまうからな……」</p><p> シャアバーンの言葉に対して、誰も何も言えなかった。アジャリアの病状を鑑みれば帰還が正論だが、名目上、指揮権上ではシャアバーンの言葉もまた正論なのである。それぞれが一国を束ねてもやっていける程の頭脳から出された意見だけに、それぞれの言葉に聞くべき理があり、道は容易には定まらなかった。</p><p> 諸将を沈黙させてしまったシャアバーンが再び口を開いた。</p><p>「ハラドへの帰還が諸君の決定であるのならば、私がアジャリア様に、エルサレムまで後少しと報告しておく」</p><p> 刹那、</p><p> ――一体何を言い出す!</p><p> という全員の視線がシャアバーンに集まった。</p><p>「アジャリア様に嘘を報告するとおっしゃるのか」</p><p> 血の気のひいた顔でナジャルサミキ・アシュールが、皆の不安を言葉に表した。</p><p>「然様。だがそれしか道はあるまい。アジャリア様は<ruby><rb>図西</rb><rp></rp><rt>とせい</rt><rp>)</rp></ruby>
を諦めない。一方、我等家臣団は一度ハラドに帰還し、アジャリア様の養生を第一として、再度、エルサレムを目指すべきと考えている」</p><p> シャアバーンは、この流れで相違無き事を、一旦確認するように諸将を見回すと、</p><p>「ここはアジャリア様を騙してでも御身体を案じるべきであろう。虚偽の<ruby><rb>咎</rb><rp></rp><rt>とが</rt><rp>)</rp></ruby>
は、このワリィ・シャアバーンが一切引き受ける。重大な決定である故、合議が一つにまとまらねばならぬ。合議の流れが帰還という方向だから、私もそれに従うまで。後は諸君もこのシャアバーンの嘘に合わせて上手く装っていただきたい」</p><p> 最早、これに異見を述べる者は誰も居なかった。シャアバーンがアジャリアに嘘を報告するという事に、最終的に皆が黙ってそれを認めた。エルサレムとハラド、進退いずれにしてもアジャリアの命脈は途中で尽きてしまうであろうと、口にこそ出さないものの誰もが思っていた。ならば、</p><p> ――騙してでもアジャリア様の渇望を満たしてあげたい。</p><p> アジャリアはつくづく家臣に愛されていた。</p><p> アジャリアの本営に極力に作業が悟られぬよう、アジャール軍は静かに撤退を進めた。</p><p> サマーワから三週間、行軍と野営を繰り返し、アジャール軍はリヤド近くまで戻ってきた。深夜、</p><p>「バラザフ、バラザフはいるか……」</p><p> 意識の戻ったアジャリアはバラザフを呼んだ。</p><p>「アジャリア様。バラザフでございます」</p><p>「バラザフ、今どこまで進んでおる」</p><p>「カトゥマル様のご活躍でバグダードを陥落させ、逗留しているところです」</p><p>「なるほど……。ではカスピ海も近いということだな」</p><p>「そのとおりです。行軍は順調にて、アジャリア様のご心配には一切及びません」</p><p> そう答えるバラザフの目には涙がたまっていた。</p><p>「ご苦労であった。心配ないようだな……」</p><p> アジャリアは、再び深い眠りに入っていった。</p><p> 季節は春らしくなっていた。あちこちで花が顔を見せ、雨でできた水地には<ruby><rb>駱駝</rb><rp></rp><rt>ジャマル</rt><rp>)</rp></ruby>
が水遊びをする姿が見られた。</p><p> 明日にはリヤドという所まできて、アジャリアは意識を戻し、</p><p>「花を見せてくれまいか……」</p><p> と<ruby><rb>近侍</rb><rp></rp><rt>ハーディル</rt><rp>)</rp></ruby>
の者に乞うた。</p><p> シャアバーン、ハリティも傍に近侍していて、<ruby><rb>駕籠</rb><rp></rp><rt>パランクァン</rt><rp>)</rp></ruby>
の帳をまくった。カトゥマルも隊をとめて傍まで来ていた。</p><p>「ああ……。やはりリヤドの菜の花は美しい」</p><p> 視界に広がる瑞々しき春の黄に迎えられアジャリアは感嘆をもらした。</p><p> 一同、くず折れて地に手を突いて嗚咽と共に落涙していた。</p><p>「アジャリア様……」</p><p>「ああ。わかっていたよ。リヤドの菜の花の顔は少しやさしいのだ」</p><p> アジャリアの身体を支えるバラザフの手が震えた。満面の黄に<ruby><rb>童子</rb><rp></rp><rt>トフラ</rt><rp></rp></ruby>
のように素直に喜ぶアジャリアは、本当に小さくなっていた。</p><p>「わかっていたとも。わしは初めからわかっていた。だが、知らないふりをしてきた。お前達のわしへの思いやりを受け取らなければ無粋だからなぁ……」</p><p> アジャリアの顔には満面の笑みが浮かんでいる。</p><p>「ああ……。風が、すずしい……」</p><p> 一点の濁り無き幸福感がアジャリアを包んでいた――。</p><p><br /></p><p>== カーラム暦995年 ==</p><p>アジャリア・アジャール、リヤドから冥府に入る。</p><p>享年五十三歳。</p><p><br /></p><p> バラザフがこよなく敬愛したアジャリア・アジャールは冥府の籍の人となり、同時にバラザフの心の中を占めていた大部分が虚ろな穴となった。</p><p> だが、バラザフは冥府の呼び声によく耐えた。</p><p>「俺がアジャリア様の遺徳を護る。俺が自分で考えて、俺がやるんだ」</p><p> この試練と決意がバラザフの人となりをさらに練った。</p><p> エドゥアルドとズヴィアドを失った時も、辛さが骨身にしみた。だが、今回の痛みはそれ以上だ。心のばねを強くせねば押し潰されてしまいそうだった。</p><p>「昇ってやる。上に昇ってやるぞ。地位も実力も、全てだ!」</p><p> バラザフ・シルバ、二十七歳。才溢れるこの若き将は、ここまで得たものが多かったかわりに、失ったものも多かった。</p><p> バラザフの息子達は二人ともハラド生まれ、ハラド育ちである。長男サーミザフ八歳、二男ムザフ七歳。二人は父の涙をまだ知らず、ハラドで無邪気に遊んでいる。</p><p><br /></p><p>※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。</p><p><br /></p><p>次へ進む</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2021/09/A-Jambiya7-1.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2021/09/A-Jambiya7-1.html</a></p><p><br /></p><p>【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html</a></p><p><br /></p><p>前に戻る</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2021/07/A-Jambiya6-5.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2021/07/A-Jambiya6-5.html</a></p><div><br /></div><p>『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html</a></p><div><br /></div>Blog authorhttp://www.blogger.com/profile/05104770986712427544noreply@blogger.com0サウジアラビア リヤド24.7135517 46.6752957-3.5966821361788455 11.5190457 53.023785536178849 81.831545699999992tag:blogger.com,1999:blog-4314757388830094658.post-52313510736462545572021-08-05T05:55:00.040+09:002021-09-05T14:12:26.878+09:00『アルハイラト・ジャンビア』第6章_5<p> 冬はただアジャリアに寒さに耐える事のみを強いたのではなかった。冷え込んだ日々の中にも、季節は暖かで穏やかな表情を見せる事もあり、それがアジャリアとバラザフが二人で話せる安らぎの一瞬であった。</p><p>「アジャリア様の人材を見極める目をご教授下さい」</p><p>「一つある。それは生命だ」</p><p>「生命……」</p><p>「うむ。東方に馬の生命力を観て名馬を見分ける目利きがいたという。その者の眼中には雌雄の別無く、毛並みの色も無く、肉付きも関係無い」</p><p> 語るアジャリアの<ruby><rb>真諦</rb><rp></rp><rt>しんてい</rt><rp>)</rp></ruby>
を捉えようとバラザフは必至に食い入って聞いている。穏やかな光に包まれたアジャリアはバラザフにとってはまさに賢哲であった。</p><p>「近づいてよく観てみるのだ。一方で闇であったものが、また一方では光となる。強い生命力は伸びて、広がってゆく」</p><p>「闇も用い得るのでしょうか」</p><p>「闇に目を凝らすと、その中に明るい闇と、暗い闇がある。カトゥマルは猪突で先行き不安であるが、武人としては有能であるといえよう。また、シャアバーンやハリティのような古豪の名将であっても、見方によっては暗く見える事もあろう。人を人材として選り分けるのではない。その生命力を伸ばしてやるのだ」</p><p> バラザフはアジャリアの途方も無い深さと高さを知った気がした。正直、今までアジャリアに付随するように学んできた自分が、ここに至って新たな物を得られるとは思っていなかっただけに、遠ざかる流星を追っているかのような心地がして、追いつこうとする心がここで折れてしまいそうで、バラザフは必死に心中で暗闘した。</p><p> 神話では<ruby><rb>九頭海蛇</rb><rp></rp><rt>アダル</rt><rp></rp></ruby>
は首を斬られてもその傷跡から首がいくらでも生えてくるために、傷跡を焼かれて倒された。バラザフはこの無限に生え続ける<ruby><rb>九頭海蛇</rb><rp></rp><rt>アダル</rt><rp></rp></ruby>
の首の一つになっているつもりでいた。長たる首は勿論アジャリアだが、自分もそれに並んでいると感じていた。だが、バラザフに<ruby><rb>真諦</rb><rp></rp><rt>しんてい</rt><rp>)</rp></ruby>
を語るアジャリアは<ruby><rb>九頭海蛇</rb><rp></rp><rt>アダル</rt><rp></rp></ruby>
の胴体から離れて、光を帯びて流星のごとく天駆ける至高となろうとしている。</p><p> アルハイラト・ジャンビア。アジャリアの知恵を後継した者としてバラザフは後にこう称され、<ruby><rb>九頭海蛇</rb><rp></rp><rt>アダル</rt><rp></rp></ruby>
という喩えも徐々に彼の息子に対する言葉へと遷ってゆくのだが、その彼も今はまだ流星の尾をかろうじて掴まんとする追尾者なのである。</p><p>「アジャリア様の用人の<ruby><rb>真諦</rb><rp></rp><rt>しんてい</rt><rp>)</rp></ruby>
、このバラザフの生涯の宝とさせていただきます」</p><p> とバラザフはここで一呼吸置いた。追うからには消えて見えなくなるまで追いすがって得られる物を全て得なくてはならない。</p><p>「さらにもう一つお尋ねしたいのです。いえ、もう一つというより、もう一度戦術の根底を教えていただきたいのです」</p><p> 離れた首は流星となりやがて消え行く。だが、<ruby><rb>九頭海蛇</rb><rp></rp><rt>アダル</rt><rp></rp></ruby>
さえ得ておけば、自分が胴体になっていれば、いずれ首は生えうるとバラザフは思い始めている。</p><p>「戦術の根底には三つ」</p><p> すなわち――、頭脳、謀計、戦術と、戦術の根底の中で戦術自体の優先度を一番最後に据えた。</p><p>「剣を振るのは最終手段だとおっしゃるのですか」</p><p>「勿論だ。謀で敵を陥れずとも、剣によって相手を沈めずとも、言葉によって安鎮がかなう事がこの世に多々あるが、世人には気付かれ難いものなのだ」</p><p> 攻城においても、強攻めする以前に言葉で敵の投降を促し、次の手段として謀計で敵を無力化して、最後の最後に強攻め力攻めするものである。先の手段を尽くした上で強攻めが活きるという事でもある。</p><p>「バラザフ、兵を率いる将軍に知恵があれば兵は活かされる。国家を構成するものはそれぞれ家族であり、家族を構成しているのは個々の人なのだ。当たり前であるが故に常に気に留めておかねばならぬ事である。構成する人が居なくなれば国家は国家たりえなくなる。民族もな……」</p><p> ここまでバラザフに言い聞かせて、アジャリアは瞑目し、深く長い息を吐いた。会話による疲労がアジャリアを克しつつあると感じたバラザフが礼だけして下がろうとしたとき、アジャリアの問いがバラザフを呼び止めた。</p><p>「バラザフ、お前の<ruby><rb>志</rb><rp></rp><rt>アマル</rt><rp>)</rp></ruby>
を聞かせて欲しいのだ」</p><p> バラザフは、かっと目を見開いた。<ruby><rb>志</rb><rp></rp><rt>アマル</rt><rp>)</rp></ruby>
という言葉にアジャリアの中に確かに父を見た。あの時持っていた<ruby><rb>志</rb><rp></rp><rt>アマル</rt><rp>)</rp></ruby>
は今も心中に確かに在る。</p><p>「私の、<ruby><rb>志</rb><rp></rp><rt>アマル</rt><rp>)</rp></ruby>
は――。未来を視る眼を欲する事。それが私の幼少の頃よりの<ruby><rb>志</rb><rp></rp><rt>アマル</rt><rp>)</rp></ruby>
でした。渇望し、その方向を向かい歩み続ける強さが必要であると、父に説かれました」</p><p>「やはり、エルザフは正しい。わしは、未来を視る眼とは、自分が見たい未来を視る眼だと思う。未来を視たいと皆が思うだろう。未来が視得れば多く富めるからだ。だが、その富の意味は人によって違う。視たい未来も異なる。わしが視たい未来。バラザフの視たい未来。少しずつ人によって違うはずだ……」</p><p> バラザフはアジャリアに微笑んでいた。静かに、穏やかな動作でアジャリアのもとを辞するその笑顔からは涙が一筋だけ流れていた。</p><p> 冬の日和は柔らかくアジャリアを包んでいた。遠ざかってから振り返るバラザフには、アジャリアの日和を楽しむ姿が、<ruby><rb>童子</rb><rp></rp><rt>トフラ</rt><rp>)</rp></ruby>
のように無邪気に、そして、小さく見えた――。</p><p><br /></p><p>※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。</p><p><br /></p><p>次へ進む</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2021/08/A-Jambiya6-6.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2021/08/A-Jambiya6-6.html</a></p><p><br /></p><p>【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html</a></p><p><br /></p><p>前に戻る</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2021/06/A-Jambiya6-4.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2021/06/A-Jambiya6-4.html</a></p><div><br /></div><p>『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html</a></p><div><br /></div>Blog authorhttp://www.blogger.com/profile/05104770986712427544noreply@blogger.com0イラク ナーシリーヤ31.0510427 46.25691781.9562475419490326 11.100667799999997 60.145837858050967 81.4131678tag:blogger.com,1999:blog-4314757388830094658.post-14659290156638355162021-07-05T05:55:00.035+09:002021-08-05T11:06:15.748+09:00『アルハイラト・ジャンビア』第6章_4<p> ファリドはただひたすら馬にしがみついていた。その主人を乗せて馬はただひたすら駆けた。</p><p> ――ここで落馬したら終わる。</p><p> それだけがファリドの思考を支配していた。</p><p> ――<ruby><rb>火砲</rb><rp></rp><rt>ザッラーカ</rt><rp></rp></ruby>
の爆音が聞こえてくる。</p><p> ――今、弓矢が耳を掠めていかなかったか。</p><p> 死の淵に立たされ、ファリドの耳には幻聴が鳴り響いていた。</p><p>「あの者は槍で刺されて死んだ。あの者は頭を割られて死んだ。皆、死んだ……、死んだ……、死んだ……」</p><p> 目の前で<ruby><rb>近侍</rb><rp></rp><rt>ハーディル</rt><rp></rp></ruby>
達が戦死していく光景がむざむざと脳裏によみがえってくる。掃討のため追ってきていたアジャール軍の騎兵はいつの間にか一人も居なくなっていた。</p><p>「もう暮れていたのか。光も見えないし、寒い……」</p><p> ひとまず身の危険が去った事を知ったファリドは、ここでようやく周りの夜を感知した。替わりに今度は緩慢なる恐怖がゆっくりとファリドの心身に染み入ってくる。</p><p>「死んでいない。辛うじて命は拾えたようだ」</p><p> すでにファリドの傍には誰一人、近侍していない。</p><p> ファリドを仕留めようと追撃していたバラザフは、レイス軍の歩兵、騎兵により度重なる妨害によって、標的を見失っていた。</p><p>「また逃げられた」</p><p> バラザフの方もファリドへの猛追が失敗に終わったのに気づくと、今度は宵闇が意識されて、身の危険を感じ始め焦りが生まれていた。</p><p> 命からがらナーシリーヤへ戻ったファリドは、</p><p>「城門は閉めなくともよい……」</p><p> と力無く奥へ引き取っていった。</p><p> ファリドが生還してから程無くして、暗き空を震天させる<ruby><rb>太鼓</rb><rp></rp><rt>タブル</rt><rp></rp></ruby>
の轟音と共に、追撃のアジャール軍がナーシリーヤに姿を現した。</p><p> これから攻城に掛かろうと思っていたシャアバーンとハリティが城門を見れば、松明に照らされて開け放たれているのが認められた。</p><p> どうせこのまま立て篭もっても寡兵では守り通せぬと諦めて、篭城の構えをとらなかったファリドだったが、このやるならやってくれという態度が、シャアバーンとハリティには、</p><p> ――レイス軍に策謀あり。</p><p> と映り、ナーシリーヤを攻略せず、二人は隊を退かせた。</p><p> ファリドが生還したナーシリーヤに遅れて「ファリド戦死」の報が入ってきた。この報を受けた将は当然、ファリドの生還を知っているので、誤報もたらしたこの伝令を怒鳴り飛ばしたが、戦況が戦況だけに叱責はこれにとどめた。</p><p> この将はこの一件をファリドに上げなかったが、どこからかこれがファリド自身の耳に入った。</p><p> ファリドはこれを怒らなかったし、ポアチャも吐き捨てなかった。後にファリドはこの一件を「ファリド戦死」の宗教文字で自分の顔を象らせた独自の貨幣を造らせて、自身への戒めとした。</p><p> ファリドの負け戦に巻き込まれた形となったハイレディン配下の将軍のマァニア・ムアッリムは、アジャール大軍を見た瞬間に恐怖に支配され、一度は前線に出るも、敵を一合もせずに部隊を退かせて、バグダードに向けて逃げ戻ってしまった。</p><p> 宵闇の前に見えていた黒雲は水滴を成して地表へ落ち、続く水滴は次第に冷たさを増して雹となった。</p><p> 今回もレイス軍は負け、アジャール軍が勝った。だが天が与える冷たさは両者に公平である。</p><p> 翌朝までに雹と雨は去った。宵闇の幕で覆い隠されていた地上の冥界が、昇る日によって徐々に曝され始めた。</p><p> 闇は人が見なくてもよい物を隠していてくれた。数多の肉塊となってしまった物に、<ruby><rb>沙漠狐</rb><rp></rp><rt>ファナカ</rt><rp></rp></ruby>
、<ruby><rb>鷹</rb><rp></rp><rt>サクル</rt><rp></rp></ruby>
、<ruby><rb>鷲</rb><rp></rp><rt>ネスル</rt><rp></rp></ruby>
、<ruby><rb>鳶</rb><rp></rp><rt>ハダア</rt><rp></rp></ruby>
の中の屍食の者等が群がっている。それらの口に入っているのは殆ど、レイス軍の将兵である。</p><p> レイス軍の戦死者は一万三千。負傷者は五万にも上る。</p><p>「我が軍の被害状況はどうであった」</p><p>「死傷者、計四千名との報告を受けております。私の目視でも同程度と思われます」</p><p> 戦後の被害を確認するアジャリアにバラザフは答えた。ファリドの追尾の過程で受けた傷から血が流れていた。軽傷だがその数は多い。</p><p>「治療のため負傷者を後方に下げよ。死者の弔いは念入りにしてやり、家族への年金を忘れぬよう。家族が軍籍にある者は格上げさせてやるように」</p><p> バラザフの配下は負傷した者が多少いたものの、戦死者は一人もいなかった。</p><p> ウルクに陣を張ったままアジャリアは次の一夜を野営してから、サマーワの<ruby><rb>城邑</rb><rp></rp><rt>アルムドゥヌ</rt><rp></rp></ruby>
に入った。</p><p> 次の日、サマーワから北へ向けて進発し、半日ほど進んでルマイサの辺りにさしかかった所でアジャリアの部隊が急に止まった。</p><p> バラザフはアジャリアに呼ばれた。本陣ではアジャリアが横たわっていた。</p><p>「ここまで進んで来てしまったが、エルサレムにはまだまだ届かない。身体が重くて地に引かれて前に進む事が出来ないのだ。悔しいが、しばらくここで駐留する故、皆にそう伝えるように。すこし戻ればサマーワだが……、それすら動く事もかなわぬ」</p><p> この先のルマイサを攻め取る予定であったため、シャアバーンやハリティが先行していた。彼らに早く情報を伝える必要がある。バラザフは、役は賜っていないものの、実質、アジャリアの<ruby><rb>執事</rb><rp></rp><rt>サーキン</rt><rp></rp></ruby>
としての働きをこなしている。</p><p> バラザフがアジャリア本陣から出て行く時に、丁度、カトゥマルが呼ばれて入ってきた。</p><p>「アジャリア様の病状は?」</p><p>「前向きにとらえる事はとても出来ない状態かと」</p><p>「進軍は続けられぬのだな」</p><p>「ここで駐留するとの事でした。とても動ける状態ではありません……」</p><p> カトゥマルがアジャリアの陣屋に入ると、侍医までもが陣屋の外に出された。</p><p> ――いよいよ重大な話をするに至ったのだ。</p><p> と、バラザフは察した。</p><p> これ以降、アジャリアの体調は行きつ戻りつ、病魔とじりじりした闘いを続けていた。</p><p> 今は冬である。冷え込みは厳しく、砂漠であっても雪が降る事がある季節なのだ。そして寒さは日増しにアジャリアの体力を奪っていった。</p><p>※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。</p><p><br /></p><p>次へ進む</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2021/07/A-Jambiya6-5.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2021/07/A-Jambiya6-5.html</a></p><p><br /></p><p>【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html</a></p><p><br /></p><p>前に戻る</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2021/05/A-Jambiya6-3.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2021/05/A-Jambiya6-3.html</a></p><p><br /></p><p>『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る</p><p><a href="https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html">https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html</a></p><div><br /></div>Blog authorhttp://www.blogger.com/profile/05104770986712427544noreply@blogger.com0イラク ナーシリーヤ31.0510427 46.25691782.7408088638211545 11.100667799999997 59.361276536178849 81.4131678