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2024年3月5日火曜日

『アルハイラト・ジャンビア』最終章

 レイス軍は、必勝を期待して挑んだリヤド攻略戦で、類を見ないほど惨敗した。

「我等の敗北が世人に広まれば、レイス連合全体に動揺が伝播するのではないか……」

 ファルダハーンは、決戦の場に召集された連合軍の向背を案じた。

 逆にバラザフは、この戦いで自軍が大勝した事が衆口に乗れば、自軍が所属するエルエトレビー連合の士気は上がり、レイス連合に背を向けてこちらに同心してくる諸侯が後を絶たない状況になるのは必然だと思っていた。それくらいの事はしたという自信がある。

「ファルダハーンがこのまま負けを背負ったままファリドの本軍に合流する事はないだろう」

 だが、ファルダハーンに付いている知恵袋のイクティカード・カイフは、

「これ以上リヤド攻略に拘泥していては、エルエトレビーとの決戦に間に合わなくなります。我等にリヤドは取れないのです。ファリド様がマスカットを出てから、すでにかなり経っています。ルトバにファルダハーン様が来ない事に痺れを切らしているはずです」

「だが、このままシルバ軍に勝ちを与えたまま放置するのはいかがなものか」

 それではと、イクティカードはリヤド攻略に重臣を二部隊ほど残して抑えさせておき、リヤド攻略は終わっていないという事にして、ファルダハーンに行軍再開を納得させた。

 岩山の難路を往くという事になった。リヤドから離れて戦線離脱した今になっても、バラザフ・シルバがいつどこで追っ手を差し向けてくるか、それならまだよしとしても、また得体の知れない妖術の類で罠にはめられてはたまったものではない。レイス軍にとって、もはやバラザフ・シルバの戦術というものは、不可視の幻影タサルール のような認識である。

 かつてアジャリアが自分の身代わりになる者達を幻影タサルール と呼んで使っていたが、バラザフのそれは大分様子が異なる。

「リヤドで疲弊した上にこの難路か……」

 一週間も道らしい道を進む事ができず、ファルダハーンは嫌気が差していた。負け戦の後ならばなおさらである。

 バラザフの方はといえば、リヤドに四十万の大軍を一週間も足止めさせた事に十分過ぎるほどの成果を感じていた。ファルダハーンやイクティカードが懸念したとおり、

「本当はもう一段階くらいレイス軍を陥れてやりたかったが」

 と、バラザフは追撃の意欲はあったものの、自軍の寡兵ぶりを鑑みると、自身の手腕だけで突き進むわけにもいかず自制した。リヤドの周りには、未だファルダハーンの配下が陣を張って残留している。リヤドもまだ自由になったわけではないのである。

「父上の意図が全て通りましたね。レイスの兵共が流した涙を壷に貯めて量ってやりたい所です」

 先のバラザフの罵倒に影響されてか、ムザフも俄かに辛辣になった。

「そうだな。俺達が参戦できる局面はここまでだ。後はベイ軍の挙兵を期待し、アッバース軍、ラフサンジャーニー軍の旗色次第でも戦況が動くだろう。ハーシム殿にも今回のリヤドでの攻防戦を手紙で書いておいた。四十万というレイス軍の主力をリヤドに延々と足止めさせたのだから、我等の功績はエルエトレビー軍の中では決して小さなものではないと思うがな」

 戦果を実感しながらも、バラザフの頭の中では、すでに次の手を打つ事を考えている。それにはまず、

「両軍の対決がどれほど時間がかかるか」

 を読まなくてはならない。本音を言えば、どれだけ時間を掛けてくれるか、だった。対決に要する時間が延びていくほどバラザフにとっては益多き事になる。

 ――最後の勝ちはこの俺がもらうぞ。

 バラザフの中で、そうした願望は少しずつ燃焼を強めている。

 かつて、バラザフは大宰相サドラザム アミル・アブダーラに自分は未来を視る目が欲しいと打ち明け、アミルによってその見る先にある物を得る事こそ、本当のアマル だと開眼した。そして、今、そのアマル は、確実に自分の方へ近づきつつある――。

「フート、良い事を思いついたぞ。アサシンを使ってレイス軍がリヤドでシルバ軍に大敗したと、方々に言いふらさせるのだ。各勢力に使者を送るのは当然だが、それより先にベイ、アッバース、ラフサンジャーニー、そして、レイス連合、エルエトレビー連合全ての諸侯にシルバ軍の大勝利を触れ回るのだ、カラビヤート全土、いや、世界にシルバありと言わしめるのだ」

 雨の少ないこの土地に、どういうわけか日照りが少ない。夏の暑さもまだ残る中、この夜も雨が勢いを増して降り始めた。

 エルエトレビー軍がハウラーン・ワジに向かっている。アブー・カマールを出たエルエトレビー軍の兵士達は行軍の間、音を立てて降り注ぐ大粒の雨に身体を濡らした。

「このアブー・カマールを素通りするだと?」

 レイス連合がアブー・カマールに攻撃せずそのままベイルートに向かうと聞いて、アブダーラ連合の実際の統帥権を握るハーシムは、ハウラーン・ワジをレイス連合が通る辺りで食い止めようと城を出てきたのである。

 この情報はファリドが流した偽情報であり、ハウラーン・ワジで決戦に挑みたいと考えていたのは、ファリドの方である。

 決戦の場に先に到着したエルエトレビー連合は、夜が明ける前に布陣を終え、後から来たレイス連合は丘の方に拠点を布設した。

 この時すでにハーシム・エルエトレビーの所には、バラザフがリヤドの城邑アルムドゥヌ で一週間もレイス軍を足止めしたという情報がもたらされていた。

「今、レイス軍を叩けば間に合うわけだな」

 遅参しているファルダハーン軍がここまで到達しないうちに決着をつけたいと思ったのも、ハーシムにここまで軍を動かせた理由の一つである。

 フートが人選して送り込んだアサシンは当然腕のよい者達ばかりで、彼らは、

「ファルダハーン・レイス殿の軍勢がリヤドでやられた。レイス軍の主力がリヤドでシルバ軍に惨敗してしまったんだ」

 と、レイス連合の陣にもしっかり入り込んで、レイス軍リヤドで惨敗の報を方々で撒き散らした。

「四十万のうち半分がやられたという事だ。生存の各隊も負傷者ばかりかかえて、ここまで来ても足を引っ張るだけだ」

 半分事実であるだけに、この流言はレイス連合の諸侯の向背を揺るがせ始めていた。

「こんな事で、勝てるのか……」

 レイス連合の中でファリド・レイスの狼狽が最も顕著であった。すでにハウラーン・ワジで決着をつけるべく全軍に移動命令を下してしまっているのである。その直後にこの流言が厄介事となって飛び回っているのだ。

 それでも、ここに居るファリド・レイスは、若い時アジャリア・アジャールにいい様に手玉に取られて赫怒していた彼ではない。抜かり無く裏でエルエトレビー連合にも手を回し、マブフート家、サバグ、アリ等の諸侯に必死に数百通も手紙を送り続けていた。

「こいつらは必ず我に寝返る」

 そう見込んでいるからこそ、筆を持つ手に汗をも握り、力も入る。ハウラーン・ワジでレイス連合が勝つには、これらの諸侯の寝返りは必要条件であった。

 ワジという地形は間欠泉で曇りやすい。が、この朝のハウラーン・ワジには特に濃い霧が立ち込めた。

 濃霧の中、レイス連合、エルエトレビー連合、両軍が鯨波を上げて互いに激突した。

 ――この戦いは長引く。

 この戦場に居合わせた誰もがそう思っていた。しかし――。

 確かに激戦は発生した。だが、それは日が沈むまでに決着した。レイス連合が決戦に勝利したのである。

 決戦の舞台から遥か離れたリヤドで、同じ落日を見るバラザフとムザフも、この結末は予想だにしていなかった。

 フートが差し向けたシルバ・アサシンはこの戦場に十人ほど散っていて、両軍二百万の大軍がぶつかるこの決戦の顛末を見届けていた。

 ハーシム・エルエトレビーの部隊が敵陣に押し込み蹴散らした。バフラーン・ガリワウも勇戦を演じながらも押し潰されるように戦場に散った。ハーフィド・マブフートはエルエトレビー連合を裏切り、サバグ軍、アリは何故か不戦を決め込んだ。

 アサシン達は、戦況をいち早くリヤドに伝達するため、一人ずつリヤドに向かって駆けた。その報告の任に就いたアサシン達の中には、メフメト家が滅亡したした後シルバの配下となったシーフジンの生き残りの顔もあった。

 エルエトレビーの連合のカーセム・ホシュルー、アウグスティヌス・ゼンギンの軍が全滅したとき、アサシンの最後の一人が地を蹴った。このときにアリは、ファリドの陣を中央突破して戦場離脱していた。

「ハウラーンでの決戦はファリド連合の勝利!」

 リヤドの城邑アルムドゥヌ が、この報が世界で一番早く受け取った。

 バラザフがこの報により衝撃を受けたと同時に、紫電が直下した。轟音と共に落ちたそれは青い火柱となり、横に壁を成した。レイスの死霊達の燐光は、怨恨の炎の壁となり、今度はバラザフの未来を阻まんとするかのようである。

「これはレイス軍の流した虚報ではないのか。二百万だぞ。何故、そのような大軍が戦ってたった一日で決戦が終わるのだ。まったく信じられん……」

 何故こうなったのか、どこで読み間違えたのか。バラザフは頭の中に浮かぶ条件を全て整理してみようと懊悩したが、いくつもの仮定が浮かびそれらが渦のように激しく回るだけである。

「父上、ハーシム殿が惨敗したそうです……」

 馳せ込んでくると同時に報告するバラザフに、虚空に泳いでいた目をゆっくりとムザフに向けて、

「すでに聞いている」

 とだけ答えた。

「それともうひとつ」

 ムザフは、ザラン・ベイがカイロから出ず、執事サーキン のナギーブ・ハルブも主戦論を撤回し城邑アルムドゥヌ にて篭城に等しい構えを見せていると伝えた。

「結局俺は未来が視えなかった」

 ムザフは言葉に詰まり答えなかった。

「俺は未来が視えなかった。いや、見えていたのだ。あのファリドに一度、俺は皇帝インバラトゥール を見た事がある。だが、それは有り得ぬと思った。どうしても納得できなかった」

 バラザフは虚空の中に何かを見ていた。

「戦いには勝った。だが俺達は負けた。レイス軍の主力をここで足止めしてやり、あいつらは決戦には間に合わなかった。だが、それは盤面のひと隅に過ぎなかったんだ」

 そして所属母体となっているエルエトレビーの連合が敗北した。それも僅か一日の内にである。

「今や俺達も敗軍の将となったわけだ。これで中央に居座る事になるファリドから、何らかの沙汰が来るのを待つしか無くなった」

 ムザフの眼前に座る父は、ハウラーンでの顛末を聞いてから俄かに枯れて萎んでしまったかのようである。

「ですが我々は結局ファリド・レイスに、いえ、時代の奔流に勝ちました」

「うむ……?」

「兄上をレイス軍の配下に行かせた事で父上はシルバ家を存続させる事に成功しました」

「だが、それはサーミザフがファリドを好いたからだろう」

「兄上の中に居る父上が、バラザフ・シルバがそうさせたのです」

 ここでようやくバラザフの目にムザフの姿が映った。そして、諦めと満足が入り混じった笑みを口に浮かべて、そのまま瞑目した。

 ――疲れた……休みたい……。

 バラザフ・シルバは生まれて初めて考えるという事をやめた。

 一方で勝ったはずのレイスのファルダハーン軍は、決戦が起きた当日には、まだラフハーの辺りに居た。リヤドでの惨敗で将兵は疲れきっていた。士気も低い。よって行軍速度はかなり鈍いものである。

 三日後、アラーの城邑アルムドゥヌ で決戦終結の報を受けた。

「終わった!? 負けてしまったのか!?」

 なにしろ主力である肝心の自分達が決戦場に間に合わなかったのである。ファルダハーンが、こう早とちりしたのも無理からぬ事であった。

 勝利したレイス軍では、諸侯、各将に褒賞するために戦功が論じられている。そんな中、サーミザフ・シルバにとっては本当の戦いが始まっていた。彼の戦いは実に孤独極まりなく、

「我が父、バラザフ・シルバ、レイス軍に槍を向けた事、死罪も当然な罪ながら、今回このサーミザフが少しでも功有りと賞与下さるならば、父バラザフ・シルバの助命を希います」

 と、父と弟の助命を、シルバ家の風当たりの強いレイス軍の中で切に嘆願した。

 ファリドは、サーミザフの事は気に入っていたし、レイス軍の中でも彼自身の評判は悪くなく、生真面目で裏に含みの無い信に足る武人と評価されている。それでも、さすがにこの嘆願はファリドに首を立てには振らないだろうと、論功の場に居た誰もが思った。

 だが、ファリドは、驚くほどあっさり、

「サーミザフ、いやこれからはシルバ殿と呼ぶべきだな。今回の戦功は評価に値すると思う。リヤドの城邑アルムドゥヌ で我等レイス軍は散々にやられた。貴公がアラーの城邑アルムドゥヌ の陥落させて守り通したのは、我等レイス軍の中で唯一目を背けなくて済む戦功である。肉親の情に従えば、父、弟と計ってこのファリドに弓引いたとしてもおかしくはなかった。バラザフ・シルバには殺しても殺し足りぬほど、今まで煮え湯を飲まされ続けてきたが、貴公の助命嘆願を受け容れる事とする」

 と願いを聞いたが、サーミザフはすぐに愁眉を開くというわけにはいかなかった。まだ何かありそうだと、ファリドの心の動きを感得していた。

「だがな、サーミザフよ……」

 来たな、とサーミザフは覚悟した。

「リヤドにバラザフを置いておいては、このファリドの気が安らぐ事がないのは貴公にもわかるな。そこでバラザフの土地勘の利かぬ遠方へ隠棲させるというのであれば、バラザフは殺さぬ。弟のムザフも、バラザフと共にジーザーン辺りに送るように手配せよ」

「インシャラー!」

 もっと重い処断があるだろうと心痛していたサーミザフは、感涙して応を唱えた。

 急いて退去しようとするサーミザフに、ファリドは、

「待て。まだあるぞ」

 今度こそ、サーミザフは凍りついた。ジーザーンで父と兄を処刑するよう申し渡されるのだと顔を強くしか めた。

「バラザフを退去させるとリヤドが空く。そこでサーミザフ・シルバが今のアルカルジの太守の任と、リヤドを兼任する事とする。どちらかに代行を置く等、子細の人事は貴公に任せる」

 サーミザフの身体に衝撃が走った。無論、恐怖心によるそれではない。本来、サーミザフのリヤドでの功程度であれば、父と弟の助命嘆願だけ相殺されるのが妥当な処分であるため、この領地加増は過分といえる。

 バラザフがあえてサーミザフを招き入れるように、アラーの城邑アルムドゥヌ に入れておいた事で、大盤のお釣りがきたのである。

 感涙したり、肝胆を氷結されたりと、心中慌しい事この上無いサーミザフだったが、ともあれ彼の独りの戦いは終わった。

 バラザフとムザフのジーザーンへの旅が始まった。付き従う家臣は百六十名。これまで中核を占めていた重臣達はすべてサーミザフに預けて、アルカルジに残す事にした。バラザフに従う百六十名は下人に見えて、実は殆どがアサシンであった。

 明日は出立という夜、バラザフ、サーミザフ、ムザフは三人で、シャイ を楽しんでいた。

「東のアルヒンドから取り寄せたシャイ だ」

 自分で淹れたシャイ をバラザフは、二人に差し出した。

「父上はアルヒンドにまで手を出していたのですか」

 父と弟の助命嘆願の一件で一皮脱皮した感のあるサーミザフは、シャイ に口をつけながら、意外と落ち着いて父に尋ねた。

「いや、実は亡き大宰相サドラザム 殿の好意で、居城に招かれてよりシャイ を送ってもらっていたのだ。次の大宰相サドラザム 、まあ、それには十中八九ファリドが就くだろうが、奴は何か送りつけてくるかな」

「送ってくるとすればポアチャではないですかな」

「そうか。ポアチャを送ってくるか!」

 サーミザフの言葉に、バラザフもムザフも大笑いした。意表をつかれたという事もあった。いつの間に冗談に言える男になっていたのか。そんな思いである。

「俺達はレイス軍四十万をリヤドに引き付けて、そして見事に撃退した。小規模勢力といえども一大軍事力として世界中が我等シルバ軍を認識したはずだ。そして、サーミザフを諸侯に位上げするという結果も残せた。そう、結果を残したんだ」

 バラザフの言葉に、サーミザフを首を縦に振って返すしかできなかった。

「俺達はこれからジーザーンで暮らす事になる。これも奇遇の成せるわざか、実は、俺は勝ったらファリドを追放するならジーザーン辺りにしようと決めていたんだ」

 バラザフの目尻に滴がこぼれずに光っている。その皺はリヤドでの戦いの前よりも深く、黒くなったようだった。

 ジーザーンへの道すがらムザフは、

「やはり、兄上の中には父上が居ました」

 と、何気なく語りだした。

「サーミザフが諸侯の席に仲間入りした事か」

「いえ、それもありますが、出立の前夜三人で饗応した時です。父上と兄上の座る姿が実にそっくりでした」

「そうか」

 バラザフのその返事には満足とまではいかなくとも、最早、悔恨の色は残っていなかった。

 バラザフの一行は、ジーザーンの太守に挨拶を済ませ、そこでしばらく預かられてから、山の上の寺院の伽藍がらん を一部間借りする事となった。

 バラザフにとって戦いの無いジーザーンでの時は、十年が一睡のように呆気なく流れた。

 十年の流れは世から人も連れ去った。シルバアサシンの二頭だったフートもケルシュも今や冥府に籍を置いていた。

 小勢力といえども領地持ちであった頃はまだよかった。ジーザーンに来てからは暮らし向きが困窮する事もしばしばで、父子を始め、家来に至るまで飢える事もあった。

 貧しさは反面、知恵も生んだ。

 バラザフの旧知の者が、ナザールボンジュウと呼ばれるガラス製の魔除けの製法をもたらしてくれて、それをムザフが教則化し、皆で生産できるようにした。それで凌いで今日まで生きれてこれたのであった。シルバ家の「死なぬ覚悟」が二人の生きる意志を碧く形作った。

 バラザフとムザフが追放されている間に中央ではファリド・レイスが遂に大宰相サドラザム になり、政治と時代の舵を握っていた。バラザフとムザフはレイス家による政権が安定していくのを遠くから眺めながらも、世界から波乱の種がすっかり拭い去れてはいないと観測している。そのために生活を切り詰めて、蓄えを作り、密かに武器を貯蔵した。

「戦いが無くならない限り俺の出番も尽きる事はないはずだ」

 ジーザーンの生活はバラザフに着実に老いを与えている。だが心の底のアマル まで枯らしきったわけではなく、むしろそれは湧き出ずる泉のごとく確実に存在していた。世相も彼にとって絶望に尽きるものではなく、アミル城クァリートアミール では、カマール・アブダーラが幼年から成人の入り口に入りつつあり、その完成カマールを待ち焦がれる諸侯もこの時点では少なくなかったのである。

 そしてある年の寒さが緩み始める季節、急にバラザフが倒れた。病床の傍につき父を看るムザフに、

「ハーシムが除かれても、アブダーラ家とレイス家の溝は埋まるまいな」

「はい。戦火の煙がここまで漂ってくる気すらしますが、実際、本格的に戦端が開かれるまでに三年はかかるかと」

「三年か。それまで俺はもたぬな」

「生きてください父上、アルハイラト・ジャンビアが再びベイルートに現れるのをアブダーラ勢は皆心待ちにしておりましょう」

「だが、三年はさすがに無理だ。だからお前に策を授けておく」

「拝聴致します」

「アブダーラ軍とレイス軍が交戦状態なったならば、お前はまずアミル城クァリートアミール に向かうのだろう」

「然り。私は父上以上に亡き大宰相サドラザム に大恩を受けた身ゆえ」

「ならばそれを推すような策にしてやろう」

 おそらくこれがバラザフからムザフへの最初で最後の策謀伝授になろう。この父子は昔から気は絶妙に合ったものの、何かを教え、また請うという事は今まで一度も無かった。

アミル城クァリートアミール から二十万の兵をハウラーン・ワジに行かせる。わざわざレイス軍が勝利したハウラーンに行かせるんだ」

「それでファリドはシルバ軍に策謀ありと勘繰る」

「そうだ。奴等が対応策を話し合っている間に西に引き返し、山に挟まれた適当な隘路を探して、工兵、火薬、何でも使って道を封鎖しろ。一度も戦う事無くアブダーラ家古参の諸侯を味方につけろ。奴等の心が揺らいだ所をこちらに引き込むんだ」

 卒倒した時には両目の行き先がまとまらなかったバラザフだったが、戦略を講ずる時の彼はまさにアルハイラト・ジャンビアとして瞬時に蘇生し、視線にも口吻にも力が入る。

「旧エルエトレビー連合を今度は正式にアブダーラ連合として再統合するのだ。エルサレムの要所である縫目の塔ブルジュ・キヤト にも火をかけよ。そしてアミル城クァリートアミール に篭城するのだ。拠点を固めて安定したあたりで今度や夜襲に転じて敵の疲労と混乱を狙ってゆく。そこでカマール公の署名で各地のアブダーラ家の古参の諸侯に書状を送る。ハウラーン・ワジの戦いでファリドがやったようにな。それで敵方は自分の味方を信用出来なくなる。そこまでいけば後は旗色が替わるのを待つだけだ」

「要するに今度は私がハウラーン・ワジのファリドの立ち居地に立つのですね」

「そうだ。間違いなくこれでアブダーラとレイスの抗争は終息する」

 ここまで勢いよく語り終え、バラザフは長く息を漏らした。

「俺の目論見では、アブダーラ、レイス、そこにシルバが加わって鼎立抗争になるはずだったんだが、まあ……うまくいかんものだな」

「そうですね……」

「それからな」

 バラザフは先ほどまでよりさらに声を落とした。

アミル城クァリートアミール に入ったら双頭蛇ザッハーク の像を探せ」

「そこには何が」

「知らん」

「は?」

「アミル殿がそれを探せと言っていただけだ」

「私には何も」

「お前なら何か知っているだろうと思って、敵がお前の身辺を探るからだろう。だから秘密を分割して俺とお前に託したんじゃないのか。レオにも十分用心しろよ」

「レオが……まさかと思います」

「ああ、信じられるうちはしっかり信じてやれ。だが、刺客は必ずくるぞ」

「はい」

 だが、アサシンとしてはあまりに純粋無垢で、しかも弟のように可愛がっているレオ・アジャールを、ムザフはどうしても疑う気持ちになれなかった。

 夕刻、急な豪雨が降って、何事も無かったように去った。

 バラザフの容態は奇跡的に回復した。いそいそと旅支度をするバラザフを見てムザフは驚いた。

「まだ起き上がってはなりません。また倒れたらどうするのです。それに旅支度などして一体どこへ」

「ムザフ、今夜中にジーザーンを引き払うぞ。というか脱出する」

アミル城クァリートアミール に行くのですか」

「お前はな」

「では父上はどこへ」

「まだ決めてない」

「決めてないって……」

「決めてはいないが、あちこちに出没してファリドに一泡も二泡も吹かせてやるつもりだ」

 バラザフは最後に四本の諸刃短剣ジャンビア を身につけ旅装を終えた。

「最後に、レイスとアブダーラに戦端が開かれたときの事だ。あの作戦もこのバラザフ・シルバの名を以って味方が信義を持ち、敵が謀略を危惧する。だが、お前の知名度はまだまだ低い。実力は俺以上であっても、世人の認識あっての信頼なのだ。お前を若造と見て侮る者もいるだろう」

「心得ております」

「だがな、何も悪びれる必要はないぞ。世評に一喜一憂するな。俺はああは言ったがな、配下を信じてやれ。それ以上に自分自身もな。それを以って角と成し突き進むのがシルバの戦い方だ。

わかっているな、ムザフ。死なぬ覚悟だぞ。臆病になって逃亡する事ではないのだ。それがシルバの家風、いや、この俺の遺言だ」

「承りました。我等シルバ軍はその言葉を戦場まで持って行きます」

「それから――」

 と、バラザフはムザフに問うた。

「お前は未来を視る眼を欲しいと思うか」

「もちろん欲しいです。幼少の頃より欲しておりました」

「そうか、お前もそうか。俺もそうだった。未来を、先々を見通す眼が欲しかったんだ」

 喜色を帯びたバラザフの視線は俄かに遠くへ飛んだ。

「だが、結局、俺には未来を視る資格はなかったらしい」

「そんな事はありませんよ。父上のその眼が無ければ、シルバ家もそしてアジャール家ですらこの乱世の砂塵に揉み消されてしまっていたはずです」

「本当にそうであろうか」

「はい。人はいつでも波の上に居られるわけではありません。また波間から九頭海蛇アダル が出現する。そんな時代を創ろうではありませんか」

「そうだな……」

 バラザフはムザフにさっと背を向けると、颯爽とジーザーンを離れた。別れの言葉も言えずに来てしまったのは、涙とはな で濡れきった醜態を見られたくなかったからである。

 バラザフは歩いた。ひたすら歩き続け、歩くという事に没頭していた。不思議と疲れは全く感じなかった――。

 歩くだけ歩いてふと我に返ったバラザフの眼前に見覚えのある瑞々しき黄色が広がっていた。

「ここは……リヤドか」

 菜の花の黄色はあの日と同じ美しさで、バラザフを迎えた。

「ああ……。やはりリヤドの菜の花は美しい」

 遠くから訪れた風が、花の淡い香りとともにバラザフの頬をやさしく撫でる。


 ――ああ……。風が、すずしい……。


 菜の花に魅入られたバラザフはゆっくりと一歩一歩へ踏み出し、吸い込まれるように奥へ姿を消した。

 これ以降のカラビヤートに史書にバラザフ・シルバが出てくる事は二度と無かった――。

(完)

2021年9月5日日曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第6章_6

  アジャール軍は野営のこの地から動かぬまま、新旧の年を遷った。カーラム暦995年になってすぐ、アジャリアは床から重い身を起こして、全軍に再出発を命じた。

 主君の病みと、長期による野営で動けぬまま倦み始めていた三十万の将兵は、進軍と聞いて歓喜の声を上げた。

「アジャリア様の快癒、我等家来共は皆喜んでおります」

 アジャリアの病状の重さを知らぬ一般の仕官は、再出発の命がアジャリアの快癒を意味するものととらえてカトゥマルに賀辞を贈る者も少なくなかった。ウルクの遺跡でレイス軍に勝利した時の賑わいが久々にアジャール軍に戻ってきている。

「次の目標はルマイサだ。皆には、わしのせいでルマイサを目前にして歯がゆい思いをさせて済まなかった。ルマイサは包囲して飲み水を断水させれば陥落までさほど時は要さないだろう」

 再出発の軍議で諸将を安堵させて、アジャリアは彼が指揮鞭としている革盾アダーガ の柄を高々と振り上げた。

 この動きの切れに主君の威信を感じた三十万の将兵は大きな川となってルマイサを目指した。さほど遠くない行軍である。

 ルマイサの太守は四千の兵で城邑アルムドゥヌ に立て篭もっている。

 アジャリアは出発前にルマイサを断水させると言った。いつも通り城邑アルムドゥヌ を包囲して、周囲の水源から隔絶させる他、地下から空洞を掘って井戸水を抜く手筈になっている。城外で普通の井戸の深さまで掘り進めてから、次に横に掘ってゆく。掘った所から水がしみ出てくれば当たりである。当たるまで範囲を拡げて掘ってゆくのだ。

 井戸水の断水作戦に加えて、アジャリアはこの穴を攻撃に利用しようと考えている。サマーワ攻撃の際にハリティとシャアバーンが警戒していた事を、今回は自分達がやってみようというのである。そのため今回は最初から採掘職人を連れてきていた。

 これと似た方法に坑道戦というものがある。相手の砦、城邑アルムドゥヌ の地下へ空洞を掘り進み、空洞を支えていた柱に火をつけて重さで下に落とす。あるいは火薬で爆破して施設を崩壊させる作戦だが、今回は掘った穴から兵士を侵入させようとしているので、これとは似て非なるものである。

 わざわざ採掘職人に仕事させて、作戦の手間をかけるのは、この手法でれば落城させるのに、敵味方の将兵の消耗を極力回避出来るからである。

 アジャリアは動かない。ルマイサを包囲したまま、採掘職人達が空洞を掘り終わるのをじっと待っている。敵の兵力は四千、たった一押しすれば済む事だろう。しかし、アジャリアはそれをしようとせず、一ヶ月の間辛抱した。

 この一ヶ月は待つ一ヶ月であると同時にアジャリアの病にも進行の時間を与えてしまっていた。

 バラザフの目に映るアジャリアは日を追うごとに痩せてゆく。それどころか小さくなっていくようにすら見える。

 ――これではエルサレムに上るなど夢想ではないか。

 バラザフの中でその思いが日々に増幅されていくのも無理からぬ事である。

「バラザフ、ルマイサは落とせたか」

 アジャリアは野営地で病臥して、意識が戻るとバラザフにこう尋ねる。一日一日がこれだけになっていた。

「あと少しです。採掘職人達が良い仕事をしておりますゆえ」

 答えるバラザフの方ではこれが定型句になっていた。

 冬の最中、一ヶ月の時間をかけて、アジャール軍はルマイサを落とした。城邑アルムドゥヌ の将兵らはほぼ無抵抗で武器を捨ててアジャール軍の縛についた。同時に――、

 アジャリアは死を隣にして冥府の門の前で眠っていた。

「これはいけませんね……」

 アジャリアの加減を診た侍医は首を横に振った。

「アジャリア様の今の病状では、これ以上進むのは限界です。ハラドに帰還するのがよろしい。ゆっくりとです」

「バラザフ、主だった将だけ秘密で集めてくれ」

「承知」

 アジャリアの意識は戻らない。食事を一切摂ることが出来ず、体中の肉が落ちきっている。戦況を尋ねる言葉ももうその口から発せられなくなっていた。

 カトゥマルの命で本陣に合議のため諸将が呼ばれた。

「エルサレムを目指すのはこれまでではないか」

 まずアブドゥルマレク・ハリティがアジャリアの重篤を理由に撤退案を出し、何人かもこれに賛同する者があった。

 ワリィ・シャアバーンはここまでを黙って聞いている。

「ナーシリーヤを抜いて、サマーワ、ルマイサを得てここまで来れたのだ。バグダードさえ攻略出来ればエルサレムまでの道が通ったも同然。アジャリア様には養生していただくとして、先鋒だけで行く手を片付けてゆくのはどうであろうか」

 言葉は穏やかながらナワフ・オワイランは継続路線を主張すると、これへの異見がサイード・テミヤトの口から出た。

「アジャリア様の意識は戻られぬままだ。ここで養生していただいても快復の望みは薄い。ハラドまで、せめてリヤドまで戻って療養に専心していただくのがよい」

 これにカトゥマルが我が意という風に大きく頷いた。

「カトゥマル様のご存念を家臣にお示しください」

 バラザフがカトゥマルに促すと、諸将の視線が一斉にカトゥマルに注がれた。

「私も帰還第一と考える。ハラドに戻って療養していただきたい。ハリティ殿、テミヤト殿と同じ意見である」

「これで合議は決定ですな」

 バラザフがカトゥマルの言葉が総意となるように閉めた。だが、ここで初めてシャアバーンが口を開いた。

「ハラドに戻ってアジャリア様の意識が戻られた時に、何と伝えたらよいか。アジャリア様の意識が無いうちに勝手に撤退した事になってしまうからな……」

 シャアバーンの言葉に対して、誰も何も言えなかった。アジャリアの病状を鑑みれば帰還が正論だが、名目上、指揮権上ではシャアバーンの言葉もまた正論なのである。それぞれが一国を束ねてもやっていける程の頭脳から出された意見だけに、それぞれの言葉に聞くべき理があり、道は容易には定まらなかった。

 諸将を沈黙させてしまったシャアバーンが再び口を開いた。

「ハラドへの帰還が諸君の決定であるのならば、私がアジャリア様に、エルサレムまで後少しと報告しておく」

 刹那、

 ――一体何を言い出す!

 という全員の視線がシャアバーンに集まった。

「アジャリア様に嘘を報告するとおっしゃるのか」

 血の気のひいた顔でナジャルサミキ・アシュールが、皆の不安を言葉に表した。

「然様。だがそれしか道はあるまい。アジャリア様は図西とせい を諦めない。一方、我等家臣団は一度ハラドに帰還し、アジャリア様の養生を第一として、再度、エルサレムを目指すべきと考えている」

 シャアバーンは、この流れで相違無き事を、一旦確認するように諸将を見回すと、

「ここはアジャリア様を騙してでも御身体を案じるべきであろう。虚偽のとが は、このワリィ・シャアバーンが一切引き受ける。重大な決定である故、合議が一つにまとまらねばならぬ。合議の流れが帰還という方向だから、私もそれに従うまで。後は諸君もこのシャアバーンの嘘に合わせて上手く装っていただきたい」

 最早、これに異見を述べる者は誰も居なかった。シャアバーンがアジャリアに嘘を報告するという事に、最終的に皆が黙ってそれを認めた。エルサレムとハラド、進退いずれにしてもアジャリアの命脈は途中で尽きてしまうであろうと、口にこそ出さないものの誰もが思っていた。ならば、

 ――騙してでもアジャリア様の渇望を満たしてあげたい。

 アジャリアはつくづく家臣に愛されていた。

 アジャリアの本営に極力に作業が悟られぬよう、アジャール軍は静かに撤退を進めた。

 サマーワから三週間、行軍と野営を繰り返し、アジャール軍はリヤド近くまで戻ってきた。深夜、

「バラザフ、バラザフはいるか……」

 意識の戻ったアジャリアはバラザフを呼んだ。

「アジャリア様。バラザフでございます」

「バラザフ、今どこまで進んでおる」

「カトゥマル様のご活躍でバグダードを陥落させ、逗留しているところです」

「なるほど……。ではカスピ海も近いということだな」

「そのとおりです。行軍は順調にて、アジャリア様のご心配には一切及びません」

 そう答えるバラザフの目には涙がたまっていた。

「ご苦労であった。心配ないようだな……」

 アジャリアは、再び深い眠りに入っていった。

 季節は春らしくなっていた。あちこちで花が顔を見せ、雨でできた水地には駱駝ジャマル が水遊びをする姿が見られた。

 明日にはリヤドという所まできて、アジャリアは意識を戻し、

「花を見せてくれまいか……」

 と近侍ハーディル の者に乞うた。

 シャアバーン、ハリティも傍に近侍していて、駕籠パランクァン の帳をまくった。カトゥマルも隊をとめて傍まで来ていた。

「ああ……。やはりリヤドの菜の花は美しい」

 視界に広がる瑞々しき春の黄に迎えられアジャリアは感嘆をもらした。

 一同、くず折れて地に手を突いて嗚咽と共に落涙していた。

「アジャリア様……」

「ああ。わかっていたよ。リヤドの菜の花の顔は少しやさしいのだ」

 アジャリアの身体を支えるバラザフの手が震えた。満面の黄に童子トフラ のように素直に喜ぶアジャリアは、本当に小さくなっていた。

「わかっていたとも。わしは初めからわかっていた。だが、知らないふりをしてきた。お前達のわしへの思いやりを受け取らなければ無粋だからなぁ……」

 アジャリアの顔には満面の笑みが浮かんでいる。

「ああ……。風が、すずしい……」

 一点の濁り無き幸福感がアジャリアを包んでいた――。


== カーラム暦995年 ==

アジャリア・アジャール、リヤドから冥府に入る。

享年五十三歳。


 バラザフがこよなく敬愛したアジャリア・アジャールは冥府の籍の人となり、同時にバラザフの心の中を占めていた大部分が虚ろな穴となった。

 だが、バラザフは冥府の呼び声によく耐えた。

「俺がアジャリア様の遺徳を護る。俺が自分で考えて、俺がやるんだ」

 この試練と決意がバラザフの人となりをさらに練った。

 エドゥアルドとズヴィアドを失った時も、辛さが骨身にしみた。だが、今回の痛みはそれ以上だ。心のばねを強くせねば押し潰されてしまいそうだった。

「昇ってやる。上に昇ってやるぞ。地位も実力も、全てだ!」

 バラザフ・シルバ、二十七歳。才溢れるこの若き将は、ここまで得たものが多かったかわりに、失ったものも多かった。

 バラザフの息子達は二人ともハラド生まれ、ハラド育ちである。長男サーミザフ八歳、二男ムザフ七歳。二人は父の涙をまだ知らず、ハラドで無邪気に遊んでいる。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。


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2020年11月5日木曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第5章_6

  結局、アジャリアはサフワーンを取らずに攻めるのをやめた。

 ――レイスの小僧はメフメト軍よりも弱い。

 それだけ確認出来れば十分で、アジャリアは矛先をナーシリーヤに向ける事にした。

 今、クウェートの城邑アルムドゥヌ はアジャール軍の拠点として使える状態にある。しかし、アジャリアはバスラやクウェートからナーシリーヤへ向う道を採らず、一度、リヤドに戻ってから転進するという方向で事を進めた。

 ――これはアジャリア様のアマル なのだ。

 バラザフはアジャリアの戦略にエルサレムへの企望を見た。リヤドからナーシリーヤを攻撃するという事は、クウェートから行くよりもアジャリアにとっては見込みのある行軍路であり、加えてレイス軍の予想の裏をかいてナーシリーヤを攻めるという利点がある。

 春――。花の咲く時期にアジャール軍はハラドを出発した。ハラドからリヤドを経由してブライダーに進み、そこから北東へ進軍してゆく。結局途中でクウェートで補給してからナーシリーヤへ向うのだが、補給路や後詰を自分の拠点を通す事で、不測の事態を可能な限り排除したいというアジャリアの慎重さがここにも出ている。

 行軍途中、ブライダーにさしかかったあたりで、菜の花が咲いている一帯があった。

「砂の黄、黄金の黄と黄にも色々あるが、花の黄はやはり命が感じられてよいな」

 砂の大地では命は特に尊い。アジャリアもカトゥマルも幼少の頃よりは花は好きである。出陣してさほど日は経っていなかったが、生命の美しさというものが感じられた時、人はそこから家族へと想いが飛んでゆくようである。

 アジャール軍の本隊はクウェートに駐留せず、補給部隊だけを行かせて食料を賄った後、本隊に合流させた。アジャリアはクウェートからナーシリーヤへ道を使わず、クウェートの西側の砂漠を真っ直ぐ北上した。

 アジャール軍はナーシリーヤの南、スーク・アッシュユーフという城邑アルムドゥヌ を包囲した。

 スーク・アッシュユーフの太守には突然、九頭海蛇アダル が現れたように見えた。アッシュユーフの南には緑地が東西に広がっていて、それでアジャール軍が攻め寄せてきたのが見えなかったせいでもある。

 太守の慌てぶりは尋常ではなかった。すでに日は高く熱い日差しで気温が高くなっているにもかかわらず、彼の頭からは血の気がひいて、寒気をおぼえていた。

 アジャリアはすぐにはアッシュユーフには手を出さなかった。数日の間威圧して、さらに敵の焦燥を誘うつもりである。

「そろそろやるとするか。明日の朝攻撃すると中に伝えてやれ」

 明朝、朝靄がひくと、防備の気配のない、スーク・アッシュユーフの城邑アルムドゥヌ だけが姿を現した。住民も避難する者だけは早々に避難して、残された者達も息をひそめていた。

 アジャリアは、スーク・アッシュユーフに至ったとき、彼らの戦意が低い事を見てとった。そして、ブービヤーン島のときのように、わざと敵の逃げ道をつくっておいて、敵兵の脱走を促して城邑アルムドゥヌ の防備を無力化したのである。これには不必要な戦争を回避して、戦力の無駄な消費を避ける効果があった。

 以前よりアジャリアからあらゆる事を吸収しようと努めていたバラザフである。この戦法も咀嚼するに値した。

「アジャリア様から、また新たな手札を得る事が出来た」

 バラザフはアジャリアを師として仰いでいる。勿論、主君として崇拝すべき存在ではあるが、今では戦術の師としてアジャリアを越える存在が無くなっていた。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。


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