2021年9月5日日曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第6章_6

  アジャール軍は野営のこの地から動かぬまま、新旧の年を遷った。カーラム暦995年になってすぐ、アジャリアは床から重い身を起こして、全軍に再出発を命じた。

 主君の病みと、長期による野営で動けぬまま倦み始めていた三十万の将兵は、進軍と聞いて歓喜の声を上げた。

「アジャリア様の快癒、我等家来共は皆喜んでおります」

 アジャリアの病状の重さを知らぬ一般の仕官は、再出発の命がアジャリアの快癒を意味するものととらえてカトゥマルに賀辞を贈る者も少なくなかった。ウルクの遺跡でレイス軍に勝利した時の賑わいが久々にアジャール軍に戻ってきている。

「次の目標はルマイサだ。皆には、わしのせいでルマイサを目前にして歯がゆい思いをさせて済まなかった。ルマイサは包囲して飲み水を断水させれば陥落までさほど時は要さないだろう」

 再出発の軍議で諸将を安堵させて、アジャリアは彼が指揮鞭としている革盾アダーガ の柄を高々と振り上げた。

 この動きの切れに主君の威信を感じた三十万の将兵は大きな川となってルマイサを目指した。さほど遠くない行軍である。

 ルマイサの太守は四千の兵で城邑アルムドゥヌ に立て篭もっている。

 アジャリアは出発前にルマイサを断水させると言った。いつも通り城邑アルムドゥヌ を包囲して、周囲の水源から隔絶させる他、地下から空洞を掘って井戸水を抜く手筈になっている。城外で普通の井戸の深さまで掘り進めてから、次に横に掘ってゆく。掘った所から水がしみ出てくれば当たりである。当たるまで範囲を拡げて掘ってゆくのだ。

 井戸水の断水作戦に加えて、アジャリアはこの穴を攻撃に利用しようと考えている。サマーワ攻撃の際にハリティとシャアバーンが警戒していた事を、今回は自分達がやってみようというのである。そのため今回は最初から採掘職人を連れてきていた。

 これと似た方法に坑道戦というものがある。相手の砦、城邑アルムドゥヌ の地下へ空洞を掘り進み、空洞を支えていた柱に火をつけて重さで下に落とす。あるいは火薬で爆破して施設を崩壊させる作戦だが、今回は掘った穴から兵士を侵入させようとしているので、これとは似て非なるものである。

 わざわざ採掘職人に仕事させて、作戦の手間をかけるのは、この手法でれば落城させるのに、敵味方の将兵の消耗を極力回避出来るからである。

 アジャリアは動かない。ルマイサを包囲したまま、採掘職人達が空洞を掘り終わるのをじっと待っている。敵の兵力は四千、たった一押しすれば済む事だろう。しかし、アジャリアはそれをしようとせず、一ヶ月の間辛抱した。

 この一ヶ月は待つ一ヶ月であると同時にアジャリアの病にも進行の時間を与えてしまっていた。

 バラザフの目に映るアジャリアは日を追うごとに痩せてゆく。それどころか小さくなっていくようにすら見える。

 ――これではエルサレムに上るなど夢想ではないか。

 バラザフの中でその思いが日々に増幅されていくのも無理からぬ事である。

「バラザフ、ルマイサは落とせたか」

 アジャリアは野営地で病臥して、意識が戻るとバラザフにこう尋ねる。一日一日がこれだけになっていた。

「あと少しです。採掘職人達が良い仕事をしておりますゆえ」

 答えるバラザフの方ではこれが定型句になっていた。

 冬の最中、一ヶ月の時間をかけて、アジャール軍はルマイサを落とした。城邑アルムドゥヌ の将兵らはほぼ無抵抗で武器を捨ててアジャール軍の縛についた。同時に――、

 アジャリアは死を隣にして冥府の門の前で眠っていた。

「これはいけませんね……」

 アジャリアの加減を診た侍医は首を横に振った。

「アジャリア様の今の病状では、これ以上進むのは限界です。ハラドに帰還するのがよろしい。ゆっくりとです」

「バラザフ、主だった将だけ秘密で集めてくれ」

「承知」

 アジャリアの意識は戻らない。食事を一切摂ることが出来ず、体中の肉が落ちきっている。戦況を尋ねる言葉ももうその口から発せられなくなっていた。

 カトゥマルの命で本陣に合議のため諸将が呼ばれた。

「エルサレムを目指すのはこれまでではないか」

 まずアブドゥルマレク・ハリティがアジャリアの重篤を理由に撤退案を出し、何人かもこれに賛同する者があった。

 ワリィ・シャアバーンはここまでを黙って聞いている。

「ナーシリーヤを抜いて、サマーワ、ルマイサを得てここまで来れたのだ。バグダードさえ攻略出来ればエルサレムまでの道が通ったも同然。アジャリア様には養生していただくとして、先鋒だけで行く手を片付けてゆくのはどうであろうか」

 言葉は穏やかながらナワフ・オワイランは継続路線を主張すると、これへの異見がサイード・テミヤトの口から出た。

「アジャリア様の意識は戻られぬままだ。ここで養生していただいても快復の望みは薄い。ハラドまで、せめてリヤドまで戻って療養に専心していただくのがよい」

 これにカトゥマルが我が意という風に大きく頷いた。

「カトゥマル様のご存念を家臣にお示しください」

 バラザフがカトゥマルに促すと、諸将の視線が一斉にカトゥマルに注がれた。

「私も帰還第一と考える。ハラドに戻って療養していただきたい。ハリティ殿、テミヤト殿と同じ意見である」

「これで合議は決定ですな」

 バラザフがカトゥマルの言葉が総意となるように閉めた。だが、ここで初めてシャアバーンが口を開いた。

「ハラドに戻ってアジャリア様の意識が戻られた時に、何と伝えたらよいか。アジャリア様の意識が無いうちに勝手に撤退した事になってしまうからな……」

 シャアバーンの言葉に対して、誰も何も言えなかった。アジャリアの病状を鑑みれば帰還が正論だが、名目上、指揮権上ではシャアバーンの言葉もまた正論なのである。それぞれが一国を束ねてもやっていける程の頭脳から出された意見だけに、それぞれの言葉に聞くべき理があり、道は容易には定まらなかった。

 諸将を沈黙させてしまったシャアバーンが再び口を開いた。

「ハラドへの帰還が諸君の決定であるのならば、私がアジャリア様に、エルサレムまで後少しと報告しておく」

 刹那、

 ――一体何を言い出す!

 という全員の視線がシャアバーンに集まった。

「アジャリア様に嘘を報告するとおっしゃるのか」

 血の気のひいた顔でナジャルサミキ・アシュールが、皆の不安を言葉に表した。

「然様。だがそれしか道はあるまい。アジャリア様は図西とせい を諦めない。一方、我等家臣団は一度ハラドに帰還し、アジャリア様の養生を第一として、再度、エルサレムを目指すべきと考えている」

 シャアバーンは、この流れで相違無き事を、一旦確認するように諸将を見回すと、

「ここはアジャリア様を騙してでも御身体を案じるべきであろう。虚偽のとが は、このワリィ・シャアバーンが一切引き受ける。重大な決定である故、合議が一つにまとまらねばならぬ。合議の流れが帰還という方向だから、私もそれに従うまで。後は諸君もこのシャアバーンの嘘に合わせて上手く装っていただきたい」

 最早、これに異見を述べる者は誰も居なかった。シャアバーンがアジャリアに嘘を報告するという事に、最終的に皆が黙ってそれを認めた。エルサレムとハラド、進退いずれにしてもアジャリアの命脈は途中で尽きてしまうであろうと、口にこそ出さないものの誰もが思っていた。ならば、

 ――騙してでもアジャリア様の渇望を満たしてあげたい。

 アジャリアはつくづく家臣に愛されていた。

 アジャリアの本営に極力に作業が悟られぬよう、アジャール軍は静かに撤退を進めた。

 サマーワから三週間、行軍と野営を繰り返し、アジャール軍はリヤド近くまで戻ってきた。深夜、

「バラザフ、バラザフはいるか……」

 意識の戻ったアジャリアはバラザフを呼んだ。

「アジャリア様。バラザフでございます」

「バラザフ、今どこまで進んでおる」

「カトゥマル様のご活躍でバグダードを陥落させ、逗留しているところです」

「なるほど……。ではカスピ海も近いということだな」

「そのとおりです。行軍は順調にて、アジャリア様のご心配には一切及びません」

 そう答えるバラザフの目には涙がたまっていた。

「ご苦労であった。心配ないようだな……」

 アジャリアは、再び深い眠りに入っていった。

 季節は春らしくなっていた。あちこちで花が顔を見せ、雨でできた水地には駱駝ジャマル が水遊びをする姿が見られた。

 明日にはリヤドという所まできて、アジャリアは意識を戻し、

「花を見せてくれまいか……」

 と近侍ハーディル の者に乞うた。

 シャアバーン、ハリティも傍に近侍していて、駕籠パランクァン の帳をまくった。カトゥマルも隊をとめて傍まで来ていた。

「ああ……。やはりリヤドの菜の花は美しい」

 視界に広がる瑞々しき春の黄に迎えられアジャリアは感嘆をもらした。

 一同、くず折れて地に手を突いて嗚咽と共に落涙していた。

「アジャリア様……」

「ああ。わかっていたよ。リヤドの菜の花の顔は少しやさしいのだ」

 アジャリアの身体を支えるバラザフの手が震えた。満面の黄に童子トフラ のように素直に喜ぶアジャリアは、本当に小さくなっていた。

「わかっていたとも。わしは初めからわかっていた。だが、知らないふりをしてきた。お前達のわしへの思いやりを受け取らなければ無粋だからなぁ……」

 アジャリアの顔には満面の笑みが浮かんでいる。

「ああ……。風が、すずしい……」

 一点の濁り無き幸福感がアジャリアを包んでいた――。


== カーラム暦995年 ==

アジャリア・アジャール、リヤドから冥府に入る。

享年五十三歳。


 バラザフがこよなく敬愛したアジャリア・アジャールは冥府の籍の人となり、同時にバラザフの心の中を占めていた大部分が虚ろな穴となった。

 だが、バラザフは冥府の呼び声によく耐えた。

「俺がアジャリア様の遺徳を護る。俺が自分で考えて、俺がやるんだ」

 この試練と決意がバラザフの人となりをさらに練った。

 エドゥアルドとズヴィアドを失った時も、辛さが骨身にしみた。だが、今回の痛みはそれ以上だ。心のばねを強くせねば押し潰されてしまいそうだった。

「昇ってやる。上に昇ってやるぞ。地位も実力も、全てだ!」

 バラザフ・シルバ、二十七歳。才溢れるこの若き将は、ここまで得たものが多かったかわりに、失ったものも多かった。

 バラザフの息子達は二人ともハラド生まれ、ハラド育ちである。長男サーミザフ八歳、二男ムザフ七歳。二人は父の涙をまだ知らず、ハラドで無邪気に遊んでいる。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。


次へ進む

https://karabiyaat.takikawar.com/2021/09/A-Jambiya7-1.html


【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】

https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html


前に戻る

https://karabiyaat.takikawar.com/2021/07/A-Jambiya6-5.html


『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る

https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html


0 件のコメント:

コメントを投稿