2021年8月5日木曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第6章_5

  冬はただアジャリアに寒さに耐える事のみを強いたのではなかった。冷え込んだ日々の中にも、季節は暖かで穏やかな表情を見せる事もあり、それがアジャリアとバラザフが二人で話せる安らぎの一瞬であった。

「アジャリア様の人材を見極める目をご教授下さい」

「一つある。それは生命だ」

「生命……」

「うむ。東方に馬の生命力を観て名馬を見分ける目利きがいたという。その者の眼中には雌雄の別無く、毛並みの色も無く、肉付きも関係無い」

 語るアジャリアの真諦しんてい を捉えようとバラザフは必至に食い入って聞いている。穏やかな光に包まれたアジャリアはバラザフにとってはまさに賢哲であった。

「近づいてよく観てみるのだ。一方で闇であったものが、また一方では光となる。強い生命力は伸びて、広がってゆく」

「闇も用い得るのでしょうか」

「闇に目を凝らすと、その中に明るい闇と、暗い闇がある。カトゥマルは猪突で先行き不安であるが、武人としては有能であるといえよう。また、シャアバーンやハリティのような古豪の名将であっても、見方によっては暗く見える事もあろう。人を人材として選り分けるのではない。その生命力を伸ばしてやるのだ」

 バラザフはアジャリアの途方も無い深さと高さを知った気がした。正直、今までアジャリアに付随するように学んできた自分が、ここに至って新たな物を得られるとは思っていなかっただけに、遠ざかる流星を追っているかのような心地がして、追いつこうとする心がここで折れてしまいそうで、バラザフは必死に心中で暗闘した。

 神話では九頭海蛇アダル は首を斬られてもその傷跡から首がいくらでも生えてくるために、傷跡を焼かれて倒された。バラザフはこの無限に生え続ける九頭海蛇アダル の首の一つになっているつもりでいた。長たる首は勿論アジャリアだが、自分もそれに並んでいると感じていた。だが、バラザフに真諦しんてい を語るアジャリアは九頭海蛇アダル の胴体から離れて、光を帯びて流星のごとく天駆ける至高となろうとしている。

 アルハイラト・ジャンビア。アジャリアの知恵を後継した者としてバラザフは後にこう称され、九頭海蛇アダル という喩えも徐々に彼の息子に対する言葉へと遷ってゆくのだが、その彼も今はまだ流星の尾をかろうじて掴まんとする追尾者なのである。

「アジャリア様の用人の真諦しんてい 、このバラザフの生涯の宝とさせていただきます」

 とバラザフはここで一呼吸置いた。追うからには消えて見えなくなるまで追いすがって得られる物を全て得なくてはならない。

「さらにもう一つお尋ねしたいのです。いえ、もう一つというより、もう一度戦術の根底を教えていただきたいのです」

 離れた首は流星となりやがて消え行く。だが、九頭海蛇アダル さえ得ておけば、自分が胴体になっていれば、いずれ首は生えうるとバラザフは思い始めている。

「戦術の根底には三つ」

 すなわち――、頭脳、謀計、戦術と、戦術の根底の中で戦術自体の優先度を一番最後に据えた。

「剣を振るのは最終手段だとおっしゃるのですか」

「勿論だ。謀で敵を陥れずとも、剣によって相手を沈めずとも、言葉によって安鎮がかなう事がこの世に多々あるが、世人には気付かれ難いものなのだ」

 攻城においても、強攻めする以前に言葉で敵の投降を促し、次の手段として謀計で敵を無力化して、最後の最後に強攻め力攻めするものである。先の手段を尽くした上で強攻めが活きるという事でもある。

「バラザフ、兵を率いる将軍に知恵があれば兵は活かされる。国家を構成するものはそれぞれ家族であり、家族を構成しているのは個々の人なのだ。当たり前であるが故に常に気に留めておかねばならぬ事である。構成する人が居なくなれば国家は国家たりえなくなる。民族もな……」

 ここまでバラザフに言い聞かせて、アジャリアは瞑目し、深く長い息を吐いた。会話による疲労がアジャリアを克しつつあると感じたバラザフが礼だけして下がろうとしたとき、アジャリアの問いがバラザフを呼び止めた。

「バラザフ、お前のアマル を聞かせて欲しいのだ」

 バラザフは、かっと目を見開いた。アマル という言葉にアジャリアの中に確かに父を見た。あの時持っていたアマル は今も心中に確かに在る。

「私の、アマル は――。未来を視る眼を欲する事。それが私の幼少の頃よりのアマル でした。渇望し、その方向を向かい歩み続ける強さが必要であると、父に説かれました」

「やはり、エルザフは正しい。わしは、未来を視る眼とは、自分が見たい未来を視る眼だと思う。未来を視たいと皆が思うだろう。未来が視得れば多く富めるからだ。だが、その富の意味は人によって違う。視たい未来も異なる。わしが視たい未来。バラザフの視たい未来。少しずつ人によって違うはずだ……」

 バラザフはアジャリアに微笑んでいた。静かに、穏やかな動作でアジャリアのもとを辞するその笑顔からは涙が一筋だけ流れていた。

 冬の日和は柔らかくアジャリアを包んでいた。遠ざかってから振り返るバラザフには、アジャリアの日和を楽しむ姿が、童子トフラ のように無邪気に、そして、小さく見えた――。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。


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