2020年10月5日月曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第5章_5

  クウェートに侵入しようとする、アジャリアの戦意、領土欲は、この先も衰える事はなくメフメト軍、サバーハ軍との戦いには終わりが見えない。

 アジャリアとバラザフはクウェートとハラドを往復する忙中に在った。その忙中の閑には、アジャリアは菜の花の咲く保養地にバラザフを連れて足を運んで心身を休めた。

 アジャリアの近侍ハーディル の中でも特に主君の寵愛を受けていたのがバラザフ・シルバなのであった。

「バラザフは配下の褒美に、戦場では金貨の他に肉も与えているそうだな」

「はい」

 保養地での主従の会話である。

「戦場で金は役に立たぬゆえ、肉を与えるのは良き考えであると思う。わしも次から真似してみよう。ところで――」

 アジャリアは少しおいて、

「やはり食料を必要以上に持っていくとなると、いかに物資を迅速に運べるかが問題となると思うのだが――」

「その通りですね」

「であるならば、物資の輸送の方法を見直してくれまいか」

「私がですか」

「うむ、輸送が捗れば褒美として与える食料も腐らせる心配が無き故、種類を豊富に用意できるしな。任せたぞ」

「インシャラー」

 謀将アルハイラト の脳は輸送について考える事に支配される日々だ続いた。そして考え至ったのが、

「道――」

 である。

 人の生活環境がそうであるように、都市間に石を布いて足場を固めれば、人、物、金が円滑に行き来できる。だが、資金と人手を要する事業であるため、リヤド、クウェート間に限定して道を造って経済を活性化させる。これならばクウェートを併合する事によって救済するというアジャリアの名目を立てられるはずである。

 バラザフは早速この案をアジャリアに持っていった。

「なるほど、駱駝ジャマル荷隊カールヴァーン の改良以前に足元の道が必要か。だが、それにはかなりの金が要りようになろう。時もかかる」

「ですが、急ぎ取り掛かるのがよろしいかと。設備というものは完成が早ければその分、そこから得られる利益も増す事になりましょう。戦いに使うとなれば尚更です」

「わかった。すぐに取り掛かるがよい。資金の事はテミヤトと相談せよ」

「インシャラー」

 まずは石工職人達に腕を振ってもらわねばならない。工期の最初の内は石畳がたくさん要る。拠点からの輸送距離が短いため石畳を布いたらすぐ次の石畳が必要になるためである。そして、その石畳を輸送し、砂漠に一つ一つ地道に布いていくのだ。

 工程が半分近くまで進んだあたりで、バラザフは最初の手ごたえを感じた。ここまで造ってきた道を使って荷隊カールヴァーン の往来が増え始めている。造った道の上を人が通ってくれれば道が砂に埋もれるのを防ぐことが出来、道が道として機能出来る。

 また物資の往来は当然、経済を援け城邑アルムドゥヌ で暮らす人々の生活はさらに豊かになる。ただでさえ戦争は平民レアラー に負担をかける。こういった形で罪滅ぼしになれば、士族アスケリ であるバラザフとしても嬉しい。

 現場ではそこで働く労働者を相手に物を売りに来る行商人の逞しい姿も見られた。中でも飲み物の類は暑い中石を運び並べていくという重労働に従事する彼らに大変喜ばれた様子だ。

 それを見ていたバラザフは、その日から一日の終わりに自分の金で労働者に飲食を労う事にした。斜陽に紅く染まる空の下、大地の上で労働の喜びを感じてしっかりと生きる人々の姿があった。

 どの顔にも笑みがある。元を辿れば、これは戦争のための物資を運ぶための事業から始まった。だが、ここに居る誰もが平和というものを体現していた。

 リヤドに戻ったバラザフはある変化に気付いた。市の露天に以前より魚が多く並ぶようになっている。酢漬けの物ではあるが、道を整備した事で海から品が届きやすくなっているようだ。クウェートからの荷隊カールヴァーン が増えているのだろう。海老クライディス の姿も多く見えた。

 道は北北東へ延びてゆきカフジに達してから、そこからさらに北へ延びてクウェートに至った。

「バラザフ、よくやった。物資が行き交えばリヤド、クウェートの双方が豊かになるであろう」

 アジャリアの皿にはすでにクウェートから運ばれてきたであろう海老クライディス が載っている。傍らにはすでにそれらの赤い殻が積まれていた。この所戦い続きで食を摂るのも忘れがちだったアジャリアも食欲が戻ってきたのか、頬に以前のようなふくよかさが戻ってきている。好き旨味が舌に乗ればそれだけ主食も進むものである。

 この後、リヤドからは東北東への道も造られ、リヤドとダンマームを結んだ。

 こうした公共財へ設備投資を含めながら、アジャリアの断続的にクウェートへ侵攻し、徐々に支配域を拡大してゆき、戦局は西へと動き始めていた。

 この年の冬、アジャール軍はクウェートからやや北のズバイルを次の攻撃目標に定めた。アジャール軍の荷隊カールヴァーン は今までより、食料がやや豊富に積載されているようである。クウェートからは約二日の行軍である。

 ズバイルでの戦いは年内に決着はつかなかったが、次の年、カーラム暦993年に入って十日も経つと、ズバイルの城邑アルムドゥヌ にはアジャール軍の旗が翻った。

 ズバイルを落城させた後のアジャリアの視線の先には、ファリド・レイス支配下にあるバスラの城邑アルムドゥヌ があり、そこから西へ視線を移すとナーシリーヤの城邑アルムドゥヌ がある。

 アジャリアの目指すところの本心は常に、

 西――。

 であり、聖皇の居坐すエルサレムにアジャール軍の旗を打ち立てたいという大望をずっと持ち続けていた。サバーハ軍、メフメト軍との戦いも、一度獲得した城邑アルムドゥヌ をあっさりと放棄して何度も繰り返し攻め込むような戦い方をしてきたのも、その後顧の憂いを断つために過ぎない。

 ナーシリーヤも元々レイス軍の拠点であり、サバーハ軍の影響下を離れたファリドが今ではその旧領を回復していた。

 ズバイルの城邑アルムドゥヌ を落として二ヵ月後、アジャール軍は今度はサフワーンを包囲し始めた。

 サフワーンはクウェートのすぐ北に位置する城邑アルムドゥヌ で、ズバイルから見ると南である。いよいよバスラ攻略を目の前にして手前で折り返して来た形だ。

 アジャリアはこの戦いで相手の出方をうかがうつもりでいる。前線のアジャール軍の陣に居るのはアジャリアの幻影タサルール で本人はハラドから自軍の将兵に指示を出している。

「ファリド・レイスと実際に戦うのは初めてじゃ。あの小僧の戦いでの差配をわしが見極めてやるとでもしようか」

 アジャリアのファリド・レイスの名が出て、バラザフは一度対面したあの小僧・・ の面相を思い出していた。

 常にポアチャを頬張っているせいか、若い割りに太っていたという記憶がある。余り良い意味で無く老成しているその態度から、自分は、

 ――若さに苔の生えたような男

 と評したのも憶えている。そしてまだ若いのに、

「人を見下したような奴だった」

 バラザフの中のファリド・レイスの人物評は良くない。容貌も態度も声も嫌いである。相性の悪さがはっきり表に出た出会いであった。

 また札占術タリーカ で彼を占ってみたのも思い出したが、やはり、今でもあの小僧と皇帝インバラトゥール を結びつけて考える事がどうしても出来なかった。あのファリド・レイスと自分が生涯に亘って剣を交える相手になる事など予想だにしていない。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。


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