ラベル 孔雀石 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 孔雀石 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2022年12月5日月曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第9章_5

  カーラム暦1007年になると、早くもレイス軍とメフメト軍の同盟にひびが入り始めた。

 メフメト軍の言い分は、ファリド・レイスが先の盟約に準じて領土分割を行っていないという旨である。

「シルバ。さっさとアルカルジをメフメト軍に明け渡せ」

 ファリドの命令を持った使者がバラザフのもとを訪れた。

「あのポアチャ、やはり我等との約束を不履行にしたな」

 バラザフの中には若い頃からファリドの人格を侮蔑する部分がある。自分より格下だと思っているから、自分より道義上優れているはずもなく、約束は守れない男だと認定していた。

 少なくともその認定は、この局面では当たっていたといえる。

 不都合な事とはいえ、自分の読みどおりになっている現実を直視しているバラザフの頭は、しっかり怜悧さを保っている。

「シルバ家はファリドの言いなりになる必要は全く無い」

 と家中には言い放ち、ファリドからの使者には、

「レイス殿からの証文にはこう書いてあるぞ。アルカルジはシルバ領と認め、ハラド、リヤドもシルバ家の随意に、と。ほら、これだ」

 こう言ってファリドからの証文を突きつけた。

 また別の使者には、

「リヤドは元々レイス領ではなく、シルバ家が戦功によって獲得した領地なのだ」

 と一切譲歩せぬぞという態度をとったりした。

 ファリドの方では、先のシルバ家からの同盟申し入れ以降、バラザフは自分の臣下になったものだと思っていた。彼我の勢力差を鑑みればファリドがそう認識したのは当然である。

 幾度と無く命令違反を犯したバラザフに対して、持てる全ての怒気をぶつけた。

「こうなったら無理矢理にでもリヤドを取るぞ。バラザフ・シルバ、あの無礼者も殺しても構わんぞ!」

 ここまでもバラザフの筋書き通りになっていた。

「どうせ兵力にまかせて押し寄せてくるに決まっている」

 バラザフの話は敵の出方を説明する事から、それゆえハイルの城邑アルムドゥヌ を大幅増築しておいたのだと、家臣たちの不安を取り除く方に流れていった。

 内を固めたらすぐに外である。

 レイス軍との雲行きが怪しくなってくると、バラザフは矛先を向けてきていたザラン・ベイに擦り寄っていった。

 ザランはナギーブ・ハルブにはか ってシルバ軍との同盟を認めた。

「アルカルジからシルバ軍が消滅すれば、アルカルジはメフメトのものに、リヤド辺りはレイスの切り取りになるはず。貪食たんしょく な彼らがそれで満足するはずもなく、必ずこちらに押し寄せてくるはず」

 とナギーブ・ハルブは趨勢を読んだ上で、シルバ軍を味方につけて貸しを作り上手く活用しようと考えた。

「さらに我等ベイ家はアブダーラ家と同盟関係にあり、世の全体的な同盟関係に照らし合わせて見ても、レイス軍、メフメト軍を敵として扱っても問題ありません」

 ザランはハルブの言葉に正当性を認めて、これに同意した。

 この同盟に裏の無い事の証として、バラザフは次男のムザフをベイ家に差し出した。

 ムザフ・シルバ以下二百名の主従がカイロへ発った。

 間も無くムザフと対面したザランの対応が、ハルブを驚かせる事になった。笑いを知らないと言われるザランがにこやかに談笑している。幼少から仕えるハルブも、ザランのこのような姿は一度も見た事が無かった。

 ハルブを驚かせる事はまだあった。自分の勢力圏内にムザフに小領であるが領地を与えた。そしてレイス軍やメフメト軍との抗争が勃発したときにはベイ軍からシルバ軍へ十万の援軍を出す、と約束してしまった。

「有事においては少しでもシルバ領に近い場所がよいだろうな」

 ザランは、しばらくムザフをカイロに逗留させた後、アラーの城邑アルムドゥヌ に任地として赴かせた。まるで大切な賓客を扱うようであった。

 バラザフはベイ家のムザフに対する一連の対応に、感謝はしていたものの、さらに欲深さが顔を覗かせていた。

「ベイ家と昵懇にしておけば、ベイと今親密であるアミル・アブダーラにも近づく事が出来る。きっと俺の狙い通りになるぞ」

 バラザフは近臣のイフラマ、メストしか周りに居ないときに、自分の本音を話した。二人は改めてバラザフの読みの先の長さに驚いた。

「全てはアジャリア様の知恵だ。あの方の知恵を応用すれば、万機に対応出来る」

 アジャール家から独立してから自分が何か新しい存在へと進化しているという自覚がバラザフにある。

「レブザフ、レイス家とは今後長く関係は続かないだろう。お前は進退をどうする。俺はファリド・レイスは好きじゃないが、お前との相性はいいようだ。シルバ家とベイ家が再び同盟関係になった事をファリドに知らせるもよし。アルカルジからファリドのもとへ行くのもお前の自由なのだぞ」

 バラザフは自分とファリドの両方を立てねばならない弟を気遣って言った。

「それでは私はレイス殿の所へ行くよ、兄上。万が一兄上が負けても私がレイス家に臣従していれば、シルバ家の滅亡だけは回避出来る」

「そうだな。レブザフ。シルバ家自体の存続を論じるとなると、俺とお前が別々に繁栄を図った方が得かもしれない」

 家の滅亡の危機を分散して回避する。このやり方は後になってバラザフの長男サーミザフと、バラザフ、次男ムザフをして、シルバ家を敢えて二分させる事になる。

 バラザフはレイス家にレブザフを行かせた後、ハウタットバニタミムからメスト・シルバを呼んだ。そして、メストをフートのアサシン団に護衛させて、ベイルートに密使として送り出した。

「ザラン・ベイがアミルへの謁見を世話してくれる手筈になっている」

 バラザフが謁見という言葉を使うほど、この時すでにアミル・アブダーラは中央の政治で頂点に立ちつつあった。

「アミル・アブダーラ様は、シルバ家がアブダーラ家を通して任官を求めるとは殊勝の限りである。今後はベイ家に直属し世の安寧に尽力するように。アブダーラ家からの援助は惜しまぬ、と笑みを絶やさずおっしゃいました」

 メストが持ち帰ってきたアミルからの手紙にも、

 ――援軍については心配あるべからず。

 と記されてあった。

 暑さが盛りになる頃――。

 アサシンの情報収集によって、バラザフのもとに、

 ――ファリド・レイス、出陣の号令。

 の情報が寄せられてきた。その後も諜報はレイス軍の動きを細かく掴んでは、報告をあげてくる。

「先鋒の武官はアルカフス、レイスなど。旧アジャール軍の将兵で編成された軍団です」

「レイス軍からはムフリスラーラミ・ボクオン、ジャハーン・ズバイディーが八万の兵を率いて出撃」

 状況は緊迫している。だがバラザフは無性に嬉しかった。決して血が流れる事を好むわけではなかったが、

 ――戦いが無いと干上がってしまいそうでかなわん。

 と、いつの間にか戦いの中でこそ生き生きとしていられる人格になってしまっていた。当然、このような状況では高揚し、自然と笑みも浮かぶ。

 バラザフの脳は効率よく稼動している。それが心地よい。自身の手足も忙しなく働かせながら、家臣たちに次々に指示を与えてゆく。

「ハイルの防備を怠るなよ。アルマライ領はアスファトイフラム・アルマライの判断に任せる。サーミザフはこの城邑アルムドゥヌ で防衛せよ。リヤド、ハラドにあるシルバ領の砦にはそれぞれ百名ずつの部隊で守備に入れ」

 アミル・アブダーラとやり取りしてから、月が一巡していた。

 レイス軍は来た。ハイルの城邑アルムドゥヌ 郊外に集まってそれぞれ陣を布き始めた。

「ハイルなど一気に潰してくれるぞ」

 若い頃、負け続きであったファリド・レイスがこんな自信に満ちた言葉を口にできるのには、一応、裏づけがある。ナジャフであのアミル・アブダーラと戦って勝てた事が自信に繋がった。よって、彼の気炎にも勢いがある。

 だが、そんな事はバラザフは十分承知している。これを活用しようという腹である。

「自信、自負、驕慢、油断。そんな物はこのバラザフ・シルバが掌中で転がしてくれようぞ」

 バラザフの言うとおり勢いのある時こそ油断が生まれ、それを衝いて寡兵が勝つのは戦術の定石である。多勢に無勢。まさに今回はその条件なのだ。さらに地理的条件も活かしたい。

「狭まった所に敵を引き寄せて、隠れていた兵に奇襲させる。これが今回の戦いの肝だから、一兵卒に至るまで下達を怠るなよ。そして、やけになって死なぬ覚悟を忘れるな」

 とバラザフは無謀な戦いを戒めた。

 次男のムザフがこの戦いに駆けつけていた。レイス軍に包囲される前に、アラーの街からハイルまで帰ってきたのである。

「今は少しでも戦力が欲しいだろうとナギーブ・ハルブ殿が帰郷を許可してくれました。さらにザラン様が二万の兵を援軍にアラーへ手配してくれています」

「インシャラー。なんとも、ありがたい事だ」

「早速ですが父上、この戦いを私の初陣にさせていただきたい」

「今は経験を酌量している余裕もない。容易ならざる任務だがあえて出来るかとは問わぬぞ」

 夜明け。レイス軍ではボクオンなどの陣が動いた。

「とにかく押せ。一日で落とすのだ」

 ボクオンは数で押し切る戦い方をするつもりである。勢いがあった。一息つくごとにアサシンがレイス軍の動向を報告してくる。

 ムザフはバラザフから二千の精鋭部隊を任された。ムザフがバラザフより与えられた任務は敵の囮である。

 部隊の兵卒は皆赤色の武具を装備していた。しかも赤の鮮やかさにこだわって何度も重ね塗りをさせた具足だ。

「いいか、ムザフ。後退攻撃だ。戦いながら下がるのだ。小数の兵で敵を突いてはすぐ逃げる。これを繰り返して門まで敵を引っ張ってこい。そしてすぐに中に逃げ込め」

 ムザフは赤い武具に身を包み、先頭にはのカウザ を掲げた従卒を行かせる。堂々と太鼓タブル を鳴らさせて門から一行は出てきた。出撃というより行進である。

 片や出撃、や入場と進む方向は異なるも、バラザフのハウタットバニタミム入城の風景が、さながらに再現された。

 ムザフ・シルバの初めての出撃だ。息子の晴れの舞台に思わずバラザフの頬も緩む。

 威風堂々と出てくるムザフの火炎の一団には、敵であるレイス軍からも歓声が上がった。

 レイス軍の中にも昔日を知る者は多い。そうでなくとも赤い水牛、アッサールアハマルの強さは伝説にまでなって知れ渡っている。無論かつてのアッサールアハマルの構成員は、ほぼ全員ファリドの重臣であるイブン・サリムの管轄下にあり、ムザフの部隊は模倣である。だがたとえ模倣であっても、将兵の旧い戦いの記憶が赤いムザフの部隊をアッサールアハマルに見せるのだった。

 隊長格に目をやれば、赤に身を包んだ美麗な若者が熱くも爽快な気炎を放っている。

 敵味方問わず、戦場は盛り上がった。

 最初に仕掛けたのはムザフの方であった。ムザフの部隊から矢が射掛けられ、槍兵が突撃する。レイス軍でこれを受けるのはズバイディーの部隊である。

童子トフラ 、悪いが手柄を立てさせてもらうぞ!」

ズバイディーの大軍がムザフ一人に集中した。無論、ムザフはもう童子トフラ などという年齢ではない。戦功にぎらついている敵の下士官が若造を罵倒しただけである。

 ムザフは敵兵を近くまで寄せて槍で薙いで数人を払い倒し、即座に後退した。そして、追ってくる敵をわざわざ待って数人を倒して敵をかき乱してから後ろに退く事を繰り返した。

 ここまでムザフの部隊に犠牲は出ていない。負傷者は別の兵士に運ばせて必ず救った。

 そろそろ背後に城門が見えてくる。

「よし、あと一回だ」

 ムザフはまた追っ手を散らして、すばやく城門から中へ逃げ込んだ。

 ムザフ隊の罠にズバイディー隊は見事に掛かってしまった。ズバイディー隊のうち戦闘の五千名ほどが、子供の喧嘩程度の戦いで、少しずつ後ろに下がるムザフを、

 ――これならそのうち捕まえられる。

 と錯覚して、シルバ側の城門の前まで追ってきてしまっていた。

 爆音が聞こえた、と認識したときには、ズバイディー隊の兵は火達磨になっていた。燃え上がる人体が地を転げまわる。シルバ兵による火砲ザッラーカ の一斉掃射である。

 この火砲ザッラーカ による攻撃で、ズバイディー隊は瞬時に千名ほどの将兵を失った。

 再び門が開いた。

 ムザフ隊の赤を纏う兵士が中から飛び出してきて、すでに壊滅状態にあるズバイディー隊の掃討にかかった。逃げる方向も見失っているズバイディー隊がムザフ隊の餌食になるのに長く時間は要しなかった。敵が戦力として機能していないが故に出来る戦い方である。

 やるべき事だけ済ませて、ムザフ隊は速やかに城内に撤収した。

 しかし、生き残ったズバイディーが城に目を遣ると、開門したままになっている。

「シルバの奴等、やはり我等の数に恐れをなして慌てて門を閉め忘れているぞ」

 この好機で今しがたの雪辱を果たしてやろう、という気持ちがどうしても湧いてきてしまう。

「突入するぞ!」

 ズバイディー隊の一人が声を上げると、すぐにその後を鯨波が追った。ハイルの城邑アルムドゥヌ に満ちる鼓舞、吶喊、罵倒。勢いよく突入したズバイディー隊を待っていたのはバラザフが仕組んだ罠である。水辺を改良した濠に、寓話の鼠のようにズバイディー兵は突入の勢いを殺せず、やってきた順に皆落ちていってしまう。

砂漠緑地ワッハ に目をつけて手を加えておいて正解だったな」

 そろそろ濠が落ちた兵卒でいっぱいになって、脱出を試みてよじ登ろうとする者が出始めている。

「俺からの餞別だ。釣りは要らんから受け取れ」

 今度は濠に落ちた兵卒の頭上から丸太、岩石、とにかく重量のある物がどんどん降ってくる。頭上から落下物によって反撃の気概をもって上を望んでいた者達も再び濠の水に落とされていく。こうなるとズバイディー隊は、ここから逃げ出す事しか考えられなくなってしまう。

 バラザフは塔に高く松明を掲げた。これが合図になってサーミザフとアスファトイフラムは防衛していた砦を飛び出して、平地で待ち伏せにかかった。

 そこをバラザフとムザフのシルバ本隊に追撃されたズバイディー隊が、息を切らせてやってくる。ズバイディー隊は待ち伏せのサーミザフ隊に奇襲され、そこに追いついたシルバ本隊も加わった。シルバ軍はズバイディー隊を包囲し、確実に殲滅していった。

 そこに援軍の忠世・ボクオンがやってくるなり咄嗟に叫んだ。

「レイス軍の将兵は腰抜けばかりだ! こんな奴等に禄を出すなどファリド様がお可哀想だ!」

 ボクオンが死の淵で恐れおののいて物も言えぬ味方を罵倒した如く、レイス軍の兵士にはもはや戦う気概は消え失せてしまっていた。

 危機から逃れようとするレイス軍の醜態はそれだけにとどまらず、シルバ軍の罠ではない天然の水辺に落ちて溺れて、流されてしまう者まであった。

 レイス軍は、攻めてきてわずか一日で三万もの兵力を失い、負傷者は五万とも十万とも見積もられた。

 ひとまずはバラザフの戦術によってシルバ軍は勝てた。

 だが、今のレイス軍はかつてアジャリアに完膚無きまでやられて黙っていたレイス軍ではない。レイス軍は軍議を開いて、ハイルの城邑アルムドゥヌ の防備を無力化するよう方針転換した。

 周りの砦を一つ一つ潰していく。砦の次は濠の水抜きを謀る。少しずつハイルの防御力を剥ぎ取っていこうというわけである。

「レイス軍はハイルの城邑アルムドゥヌ の周辺から落としに掛かる様子」

 折角立てレイス軍の作戦もアサシンによって、バラザフの所にすぐに漏れてきてしまう。

「それでは、さっそく砦を固めさせてもらうか」

 周辺の砦にバラザフの指示を受けた部隊が向かう。その後の援護部隊としてサーミザフに一万の兵を預けて向かわせた。

「ムザフはアッサールアハマルの率いて水路に沿って進み敵の背後に回れ。いきなり敵の背後に出現したように見せかけるのだぞ」

「父上は」

「俺はベイ軍の援軍をここで待ってから、戦機が熟した頃合で一気に打って出るぞ」

 諜報が新たな情報をあげてきた。

「イブン・サリムの部隊五万が援軍としてレイス本軍に合流!」

 この情報を受けてもバラザフは、あらかじめ計算に入ったいたように落ち着いていた。

「奴等の驚く顔がここから見れなくて残念だ。ムザフのアッサールアハマルを見たときの奴等の顔をな」

 バラザフの方ではイブン・サリムが自分の部隊をアッサールアハマルの伝統の赤を継いで戦っている事をわかっていた。だが、アッサールアハマルの兵卒等を編入しても、自分ほどその威力を使いこなせまいと、バラザフはレイス軍の赤い部隊を下に見ていた。

「俺もカウザ を被る時がきたな」

 バラザフは大軍に膨れ上がったレイス軍と対等にやり合うには、シルバ本隊が出陣するしかないと、アジャリアから下賜されたあの孔雀石マラキート象嵌ぞうがん が施されたカウザ を手元に寄せた。

 折角ムザフがアッサールアハマルで上げた士気である。これを活用しない手は無い。バラザフはハウタットバニタミムの行進を再現した。

 旧事を知るメスト・シルバなどの重臣達は脳裏にあるバラザフの勇姿が、目の前でそのまま蘇って感涙すらしていた。

「あれこそ我等のアルハイラト・ジャンビアのお姿だ!」

 自身の出陣を堂々と演出したバラザフは、一万の兵を引き連れて進んだ。火砲ザッラーカ 兵も三千連れてきている。

 バラザフの背中をアサシンのケルシュとフートが護っている。軽快に動き回れるアサシン軍団も一緒だ。そしてこのアサシン軍団でレイス軍の後尾を掻き乱してやるつもりである。

 レイス軍は、バラザフ自身が出撃したのを見て、この戦いで勝負に出てくると感じた。

「野戦なら数でまさるこちらが有利。戦力差を思い知らせるこの上ない機会だ」

 レイス軍の兵力は十二万。これを半分に割って片方を周辺砦の攻略に、片方でバラザフのシルバ本軍を押し潰すと、レイス軍の首脳陣は方針を決めた。

 ところが、レイス軍の士気は上がらない。緒戦で手痛い目にあわされた事から、またシルバ軍が何か仕掛けてくるのではないかという警戒心が戦意の高揚を鈍らせていた。経験から学習出来る者なら当然の反応であった。

 それでも行けと命じられれば将兵は行くしかない。小規模な戦闘が発生したが、その間にも、

 ――レイス軍が後方から挟撃を受けている。

 ――シルバの火砲ザッラーカ で味方が次々とやられた。

 ――今夜あたり夜襲があるぞ。

 などと流言飛語が飛び交うので、レイス軍は夜間ですらろくな眠りも得られず、病む者が続出した。もちろん、シルバのアサシンが偽情報を噂で流したのである。

 現状を重く見たイブン・サリムが味方を鼓舞するも、その声は一兵卒にまでは及ばない。上手く攻められないレイス軍の鈍い出方によって戦況の進展は滞りつつあった。

「これは長引きそうだ」

 バラザフは長期戦を覚悟してカウザ を深く被った。

 ところが、それから時を置かずして、レイス軍は急に退却していった。エルサレム、ベイルート、クウェート、バグダードに潜伏させておいたアサシンが一斉に同じ情報を持ってきた事によって、事の原因がわかった。

「アミル・アブダーラがレイス家の重臣、サーズマカ・ゴウデを一族ごと引き抜いたそうです」

 バラザフの眼前にファリドの血の気の失せた顔が浮かんで消えた。

 しばらくして、今度はハウタットバニタミムにメフメト軍が攻めてきた。

「レイスもメフメトも連携の定石すら出来んとは。逆に張り合いがないな」

「レイス軍は自分達だけでここを取って、旨味を一人で得ようと考えたのでしょう」

「それでレイス軍が失敗したから、それを利用してメフメト軍が旨味にありつこうというわけですな」

 バラザフ、サーミザフ、ムザフの親子三人は額を寄せ合って眉をひそめて、敵を哀れむとも、侮蔑するともつかない顔で表情を浮かべていた。

 一応、メフメト軍は先のレイス軍の戦い方から学んだようである。三十八万という大軍を一気に指揮して押し寄せてきた。

「今のメフメト軍に我等が恐れる者は居ないな」

 バラザフはハウタットバニタミムの攻め手はどいつも役不足だと判じ、

「ここには二万くらい兵を置いておけば大丈夫だ」

 と戦況を読んだが、手抜かり無きようベイ軍にも援軍を要請した。ザラン・ベイはこれに応じて五万の将兵を援軍として送った。

 メフメト軍はハウタットバニタミムに手出しできたのは一度、二度きりで、後は火砲ザッラーカ で焼き払われて、数百名の死傷者を出してこの戦いを終局とした。やはりメフメト軍もレイス軍と同じく、一切戦功をあげる事無く、結局、手ぶらで総退却するしかなかった。

 ――ナジャフの戦いで当代の覇者アミル・アブダーラを破ったレイス軍も凄かったが、そのレイス軍を小勢で追い払った者がいるそうだ。

 ――レイス軍の相手をして、さらに四十万のメフメト軍を一歩も寄せ付けなかったというぞ。

 ――どこにそんな英雄がいたんだ。

 ――アルカルジの君主バラザフ・シルバだそうだ。

 ――あのアジャリア・アジャールの側近でアルハイラト・ジャンビアと尊称する者も少なくないとか。 

 バラザフの勇名はカラビヤート全域に轟いた。シルバ軍は戦乱の英雄としてこの後永く口碑に残る。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

次へ進む

【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】

前に戻る

『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る

2022年5月5日木曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第8章_2

  カーラム暦1001年秋、ザラン・ベイにカトゥマルの妹が嫁いだ。バラザフもアジャール側の随員としてこの婚礼の儀に加わっていた。ここでザランと彼の参謀のナギーブ・ハルブと初めて顔を合わせた。

 この時、バラザフ・シルバ、二十三歳、ザラン・ベイ、二十四歳。ナギーブ・ハルブはまだ十九歳である。

 自分と同年代の者がすでに国を束ねている。二人の若き指導者にバラザフは興味を持った。

「カイロの義人サラディン・ベイの薫育を受け、信頼をおいたハルブが自分より若い士官だったとは」

 十九歳、その頃の自分は今のハルブの格には及ばないかもしれないというのが正直な感想である。ハルブも謀将アルハイラト と呼ばれてもおかしくない程、これから逸話を歴史の上に幾つも刻んでゆく将である。だが、バラザフと会った今時期には目を見張るような活躍はない。それなのに若さを削ぎ落としてしまったかのような深みが、その人格の奥にある。過日、バラザフがファリド・レイスを「若さに苔の生えたような男」と評したのとは別種の老成である。

 そして、

 ――低くて深く響きのある声だ。

 と表面上の印象を受けた。

「バラザフ・シルバさんですね。アジャリア公の息吹を受けたアルハイラト・ジャンビアの名前はカイロまで届いておりますよ」

 ハルブは、バラザフをこのように当たり障りの無い褒め方をした。

「この新規の同盟関係が両家にとって多幸である事を当家も願っております」

 バラザフも定型句のような返答をハルブに返しておいたが、二つの道が交わったこの先に何が待ち受けているのかは、アルハイラト・ジャンビアといえども、見通す事は困難であった。しかし、少なくともアルカルジ一帯の仕置に関して、ベイ家が干渉してくる事が無くなるのは、状況は好転したと受け取っていいはずである。

 カトゥマルは、これより後のベイ軍に関する外交処理の全権をバラザフに与えて、一任した。

 意識をハルブに戻すと、向こうはこちらをじっと見つめている。瞳の中を覗き込んできるような凝視である。針金のような張り詰めた視線、さりとて邪視アイヤナアルハサド とも違う。不思議な目つきだが、少なくとも体裁を見ているのとは異なる事だけは確かなようであった。

 こちらも相手の内心を探ってやろうと、瞳を覗き込んでみるものの、針金の視線で圧してくるので、心の身動きが取れない。

 ここで意固地に踏ん張る意味も無い。バラザフは肩の力を抜いて思考を解除した。

「アジャリア公に因んで、このバラザフをお褒め頂けるとは、小官にとっては、この上ない喜びです」

「アジャリア公の懐刀、アルハイラト・ジャンビアの切先がこちらに向けられぬ事無く済んで、ほっとしております」

 ナギーブが口に笑みを浮かべ、バラザフも笑った。

「我等アジャール軍も、強兵のベイ軍を味方につける事ができて、厄介な敵が減って、此度の同盟をありがたく思っております」

 これは本音であった。

 次いで、バラザフは、ザランへ言上を向け直して、

「ただ、災厄がまだ残っております。シアサカウシン・メフメト殿の事です。昨年、我等のアルカルジ周辺を現れてハウタットバニタミムをまんまと手中に収めてしまいました」

 滅多に笑顔を見せないザランは、バラザフの口上に対しても、いかめ しく無言でただ肯首したのみでった。戦いに出るより、人に愛想を見せる事の方が余程至難な人なのである。

 バラザフの口上にあるように、カイロ擾乱の発生の後、同盟関係であったアジャール軍とメフメト軍の間に険悪な情調が充満していた。

 その情調を体現するかのようにメフメトは、アジャールの領土にまで食指を伸ばしつつある。

「ハウタットバニタミムには八千の兵が置かれ守備しています。カトゥマル公から我がシルバ家に対して、早々にハウタットバニタミムを攻撃して奪取するように命が下っておりまして、これから城攻めに入りますので、それをベイ家にも承認していただきたい」

 ザランは、厳しい面容を保っていたが、ナギーブを一瞥した。ナギーブの口から言葉は無い。

「その件、ベイ家も承認する。アルカルジ方面の領土獲得はシルバ家の随意にするがよい。アジャール殿にもそのように伝えてくれ」

 実際に兵をもらわずとも、ベイ家とアジャール家、大勢力が二つも後ろ盾になっているという事実だけでも、万敵を怯ませるには十分な材料である。

「アジャール家と結んだからというわけではありませんが、今ベイ家は、レイス、フサインとの外交処理に多忙なのです。アルカルジ方面が敵に取られるよりは、味方であるシルバ家に押さえておいてもらえれば、我々にも安心感が広まるというものです」

 シルバ家のハウタットバニタミム攻略に関してナギーブはこのように結んだ。

 バラザフは、アジャール家、ベイ家双方の承認を得た。これは盤面をアルカルジ近辺に絞って戦えばよい事になり、寡兵を自らの知謀によって大戦力に化けさせるバラザフには、格好の舞台が与えられたといってよい。

 この地方の一番の要点であるアルカルジをシルバ軍が押さえているとはいえ、ハウタットバニタミムの地理的価値も軽視出来るものではない。

 リヤド、ハラドに接しているのはもとより、オマーンやジュバイルにも通じている。ハウタットバニタミムばかりでなくアルカルジの地方全体が各地の接点となる。だからこそ、メフメトが手を伸ばしてくる事も出来るのである。

 アジャール軍がハウタットバニタミムを攻略するのは二度目である。アジャリアの時代からアジャール軍は、大略を推し進めるために、一度獲得した城邑アルムドゥヌ を敢えて放棄するという事は何度も行ってきた。

 兵力の分散を極力回避し、城邑アルムドゥヌ の経営のために要する兵員や食料を抑えるためである。

 ハウタットはアジャリアの攻略の主軸が北に遷されるとともに、戦略的価値が低下し放棄され、アルカルジの別の族が入っていた。そこをメフメト軍に攻略された。

 ハウタットバニタミムの周りには涸れ谷ワジ が点在している。雨が続くとこれが天然のカンダク になる守りの一役を担う。今、その利を使っているのが、メフメト軍である。

 アジャール軍の方針がエルサレムへの進攻を手控えて、守りに重点を置くようになり、ハウタットの戦略的価値が再び上がってきた今、是非とも押さえておきたい城邑アルムドゥヌ なのである。

 バラザフは以前にここでの攻城のとき、間者ジャースース を用いて、敵を撹乱して戦功を上げた。つまり、

「今回はその手は通じないと見たほうよいかもな」

 抜け目の無いメフメト軍の事である。当然、当時のハウタットの下士官を探し出して、昔日のバラザフがここで用いた戦法も知っていよう。

 涸れ谷ワジ の増水によって自陣が呑み込まれる事を、父エルザフは危惧していた。そして、今でも城壁から降ってくる矢の雨も、十分に留意しなければいけない点の一つである。

「つまりは水に飲まれなければいいのだ」

 次の日、手配された間者ジャースース が大量の板と丸太の載せて現れた。

「よし、簡単な足場を作るぞ」

 工兵達の作業が始まる。工兵達は丸太を砂地に深く打ちつけ、その上に板を乗せて固定する。それだけである。

「板と丸太の固定だけは抜かりなくやっておいてくれよ」

 次の日の昼前には、敵の矢頃の外あたり、味方の陣の前面に野外演劇場のような足場が出来た。最前に板が敷かれればそれで十分である。

「足場の準備はできた。フート、投槍ビルムン を用意してくれ」

投槍ビルムン ですか。ジュバイルを攻撃した時以来見ておりませんが。私も正式に配属されるのは此度が初めて故、まだ積荷まで把握し切れていないのです」

「しくじったな……。あれからレブザフの荷隊カールヴァーン から移していなかったのか」

 レブザフの所へ使いを遣って投槍ビルムン を手配しても早くても届くのは明日になるだろう。それまで待機するよう各隊に下達しようとした所へ、

「遠くから小規模の間者ジャースース がこちらへ向かってきております」

「どこの者だ」

「敵ではないようですが……」

 バラザフ達が相手の出方を伺っていると、

「お久しぶりです、兄上」

「レブザフではないか。どうしてここに。今、丁度お前に使い送るところだったのだ」

「ええ、そうでしょう」

 レブザフは夢に、亡きエドゥアルド・アジャールが現れたのだと言う。レブザフはバラザフと違って生前エドゥアルドとはそれほどの親交は無い。そのエドゥアルドの、

 ――バラザフ……足場……。

 という言葉だけが、目を覚ましたレブザフの脳裏に妙に残った。そして足場という言葉から、バラザフがまた投槍ビルムン 使った戦術を考えているのだと、思い至ったと言う。

 バラザフは、エドゥアルドから自分の成人の祝いとして貰った孔雀石マラキート象嵌ぞうがん が施されている、あの諸刃短剣ジャンビア を見つめた。

「たしか、孔雀石マラキート の加護で、戦場で仲間の援けを得られるのだったか……」

 死してなお子を想うのエドゥアルドの親心のようなものを感じ、バラザフはじわりと両目を潤ませた。そして、レブザフの兄弟愛にも心奥で感謝した。親しい者には感謝の言葉というものは、なかなか素直に出せないものである。

「兄上、水に近いこの場所をわざわざ選んだのですか」

「うむ。以前俺は父上、兄上達とハウタットを包囲したとき、この北側を担当したのだ」

「ええ」

「その時俺は間者ジャースース を使って北側の櫓を落として、そこから突破口を開いた」

「同じ手を使うと?」

「また同じ手を使うかのように偽装したのさ」

「なるほど!」

「敵はきっと俺が間者ジャースース を使ってくると思っている。夜間の警備も厳重にするだろう。その分疲労が溜まる」

「そこへ投槍ビルムン というわけですか」

 レブザフは投槍ビルムン だけでなく、それを投げる強肩の兵もしっかり連れてきていた。

 投槍ビルムン 部隊は、用意された足場に踏ん張り、城壁の兵を次々と仕留めていった。が、それだけでは十分ではない。

 バラザフが足場となる橋を架けさせたもう一つの理由が、周囲から寄せる水を避けるためである。すでに北側の城壁の下には水が流れ込みカンダク を成している。せっかく城壁の兵を倒しても、これを渡るのに難儀している間に、残存の兵から上から攻撃されては、城邑アルムドゥヌ の攻略どころではない。

「今、間者ジャースース を潜入させれば、容易に開門出来よう。こちらは今回は正攻法で攻めると思っている裏をかくのだ。敵の出方を予測する事、これが俺の未来を視る眼であると思っている」

 此度の戦いに一緒に出陣してきていた長男のサーミザフは、父の言葉を教練のように聞き入っていた。だが、実直そのものであるサーミザフには、父バラザフの戦術は分からない事だらけである。特に敵の裏をかくという、正攻法から離れてゆく奇法に、不確かな危うさを、この頃から感じていた。

 確かに父バラザフの未来を視る眼は当たる。だが、その未来を覆すさらに大きな未来に呑み込むように襲われたとしたら、シルバ家のような小船は一瞬で沈んでしまうのではないか。生真面目な人間の抱え込む苦労がそこにある。

 バラザフが初めて総大将として采配を振るう舞台が、この二度目のハウタットバニタミムの攻略戦となった。

 今までもアジャール軍は、バラザフの発案によって動いている部分はあった。だが、それも上の裁可あっての事であり、上にはカトゥマルの判断を仰ぎ、後方ではテミヤトなどの目付けが、バラザフ等若い将に手抜かりが無いか常に見張っていた。

 先のハイレディンとの戦いにおけるテミヤトの一連の行動から、バラザフは、これまで後方で監督していたテミヤトに好感を持てなくなっている。それもあって、今、自由に采配を振るっているという実感は大きなものなっていた。

投槍ビルムン で打撃は十分与えた。後は力で押すか、間者ジャースース を使うか、の二択にしてしまってもよいのだが」

 バラザフは答えを急がず明日の朝までに結論する事にして、その晩は眠りについた。

 夜明け間近き頃――。バラザフの枕元に寄せてあるアジャリアから下賜された諸刃短剣ジャンビア象嵌ぞうがん された翠玉ズムッルド が淡い光を発し始めた。それと共鳴するかのようにエドゥアルドの孔雀石マラキート も光る。

 光はゆっくりと拡がり一つの光になると、そこにアジャリアとエドゥアルドの姿が映し出された。

 ――バラザフが総大将となる日が来ようとはな。

 ――何を言います、兄上。我等の弟子なのです。これでも遅いくらいですぞ。

 ――いやいや、わしは出世は遅い方が大成すると思うがの。

 ――今回は力攻めはするなと言いたいのですかな。

 ――そうじゃな。バラザフの初の采配だ。無事に勝たせてやりたい。

 ――バラザフ。我等はそろそろ行く。自分の力を巧く活かせよ……。

「アジャリア様! エドゥアルド様!」

 まだ靄掛かる脳裏に二人の言葉が残響する。

「夢……か……」

 二つの象嵌から返す光は朝露のものだけではなかった。

 朝一の軍議でバラザフは、

「シルバアサシンを潜入させる」

 と方針をを下に示した。

「亡きアジャリア公、エドゥアルド様のご遺志である」

 夜明けに現れたアジャリアとエドゥアルドの言葉を受けての事であるが、下の者にとってはその意味は、亡きアジャリア公の戦術を踏襲するのだ、というくらいにしか理解出来ていなかったであろう。

 ハウタットバニタミムの将兵にとっては足下に築かれたシルバ軍の足場と、投槍ビルムン の攻撃が強く印象付けられている。

「またあの長槍を投げてくるか、城壁に圧しをかけてくるのだ」

 と、正攻法的な防備を固める姿勢を見せた。

 バラザフは、これをシルバアサシンの使いどころと見た。

 ケルシュ部隊の特技は城への潜入である。数名ずつの班に分けて、夜の闇と共に中に侵入した。すぐさま流言が流れ始める。

 ――シルバ軍の大将は投降する敵兵は手にかけないらしいぞ。

 ――兵士だけではなく将官の命も保証されるらしい。

 ――そればかりか褒美まで与えられるらしい。

 ――手向かいすればアジャール軍十万で我等を皆殺しに来るらしいぞ。

 流言が十分に飛び回ったあたりで、バラザフはハウタットの太守に降伏を勧告した。それに加えて太守の配下にも黄金を贈り、さらにその下の仕官にも、ケルシュに金貨を配らせた。ナギーブ・ハルブがカトゥマルとその配下にまいない をしたのと同じやり口である。

 これで城内の守衛の意気は大いに低下した。

 シルバ軍に対して徹底抗戦を訴える士官は少数派になり、降伏した方が痛手を受けなくて済むという言葉が、一様に衆口に乗るようになってきた。仕官の中にはすでにシルバ軍から黄金を受け取った者もいるという噂も、兵卒間が顔合わせると口に出る、合言葉のようになっている。

 城内の流言作戦も熟してきた。城内には充つる空気は、降伏後、自分達の処遇はどうなるのか、それだけである。太守ですら戦う意欲を失くしている。それでも降伏に踏み切れないのは、メフメト軍に帰参した際に立つ瀬が無くなる事を恐れているからに過ぎない。

 ここで一押しと、バラザフは周辺の諸族からハウタットの副将に転身している者達に声を掛けた。

「今降伏すれば全て水に流そう」

 太守にこれ以上の義理立ては不要と、副将等は降伏を受け容れた。バラザフはさっさとその者たちと配下の将兵達を、ハウタット周辺の彼等の封地に還した。領地安堵を約束するとともにハウタットの実効戦力を削ぎ落としたのである。

 主だった将兵が離脱した事で、ハウタットバニタミムの防衛機能は皆無となり、太守はやむなく城邑アルムドゥヌ を明け渡し、野に下っていった。

投槍ビルムン と金貨で城邑アルムドゥヌ が落ちた」

 ハウタット側は一度も抵抗らしい抵抗すらさせて貰えなかったという事でになる。

「ハウタットには明日入城する事にしよう。その前に――」

 バラザフは、配下に城内の安全を念入りに確かめさせた。古来、城の明け渡しに事件は付き物である。

 翌日はバラザフは、堂々と太鼓タブル を鳴らさせて、正面の門から入城した。

「サーミザフ、戦争は犠牲少なくして勝つ事が大切だ。知恵を駆使して勝つ。力押しで勝つのは上策ではないのだ」

 バラザフは入城行進で傍らに馬を進める長男に話した。

「一兵の損失も出さず、また負傷者も一人も出さず。そのような戦術が仕官として将軍として目指す究極かもしれない」

 バラザフのハウタットバニタミム入城に従う兵は、騎馬兵三千、歩兵二万である。今回連れてきたのはアルカルジのシルバ軍であり、バラザフはリヤドにも手持ちの兵を残してきているので、今のシルバ軍の総戦力は三万前後まで成長していた。

 バラザフの周囲には従卒が四人、前に二人、後ろに二人、彼の諸刃短剣ジャンビア を天に向けて高く戴剣して、先頭にはアジャリアから下賜された、あの孔雀石マラキート の象嵌のカウザ を掲げた者が行く。こうした式典には普通、真っ直ぐな直刀を天に向けるものなので、そこに諸刃短剣ジャンビア を用いたのは些か異様な光景だということはできる。

「バラザフがハウタットバニタミムを陥落させたのか。私ですらそのような威風堂々たる行進の主役になった事などないのに、何とも羨ましい限りだ」

 バラザフのハウタットバニタミム入城の風景を、ハラドにて伝え聞いたカトゥマルは、我が事のように満足げに大きく頷いた。

「ハウタットの奪取がようやく成った。だが、それよりも私はバラザフの初の指揮が成功した事の方が嬉しいぞ!」

 そしてハウタットバニタミム奪取成功を祝す使者をバラザフに遣った。使者はハウタットの太守をバラザフが自領と兼任せよとの辞令も持ってきている。カトゥマル・アジャール公認でハウタットバニタミムをシルバ軍の領土と認めたに等しい。

 事実、このハウタットバニタミムの入城行進が、アルカルジを始めハウタットを含めた周辺地域の支配者は、バラザフ・シルバであると示すものとなった。

 そして、この領域こそがバラザフがシルバ家を一地方の領主として独立を可能にする重要基盤となるのである。

「まだまだ周辺にはシルバ家に従わぬ小族や城邑アルムドゥヌ も多い。だが、この地方の支配者は、このバラザフ・シルバである事に異論を挟む者はもはや居ないであろう」

 ハラドにいる奥方と次男のムザフに、バラザフが手紙でこう記したように、今回の入城行進はこの一帯におけるシルバ軍の示威行動となった。

 奥方もムザフも、バラザフからの手紙を何度も読み返しては目を輝かせていた。二人の眼前には自信に満ちた父バラザフの勇姿が映っており、二人ともバラザフの鬼才をよく知っていたため、彼が思う存分采配を振るえる事を喜んだ。

 この時、次男のムザフ・シルバは十三歳、男子であれば、兄が戦場で父の隣で馬を並べているのを羨望してもおかしくない歳である。

 カトゥマルからハウタットバニタミムの支配を任されたバラザフは、親族の者を太守の任にあたらせ、長男のサーミザフをまたハラドに帰還させる事にした。

 この旅でバラザフは叔父のイフラマ・アルマライに頼んで、サーミザフの護衛のため一緒にハラドまで帰ってもらうようにした。イフラマもシルバ家の男子として歴戦を生き抜いてきた者らしく、サーミザフをハラドまで護衛するくらいの任はどうという事は無い。今回の旅の彼の苦労は別の所にあった。

 彼は道すがら、ずっとサーミザフから質問攻めにされ、シルバ家の古事を語り続けるはめになった。一つ語り終えるとすぐに次の問いが来る。持っている記憶を残らず引き出されるような感じであった。

「シルバ家はリヤドの周辺地方の小領の領主だったのだが、さらに古くはシルバの名から分かるように、西のアルブルトガールまたはブルトガールという異国から渡ってきた一族なのだ」

 生真面目な性格が人の形を成しているようなサーミザフは、その形成を崩さずに、イフラマの話を一心に聞き入っている。生真面目な彼が自家の来歴を詳細に知っておこうと思ったのは当然であり、その引き出しをイフラマに求めたのはこれまた当然の事であった。

 なにしろ父バラザフは、自分が物心つく前から常に戦場を駆けている。主家のアジャリア自身が求めたものにせよ、アジャール軍は常に波乱の中になり、バラザフもその荒波に揉まれる小船の一双であった。

 ムサンナでの敗戦以降は特に家中の緊迫が高まり、バラザフはたまに家に戻ってきても、なかなか戦場での険を解く事が出来ずにいた。親子が胸襟を開いて語らう機会を作ってこれなかったのである。

 だが、そんな父をサーミザフは憎いとは思わない。むしろ主家を守るため、そしてシルバ家を守り抜くため奔走している父の背中を見て、そこに尊敬の念を感じていた。

 だからこそシルバ家の事をもっと知っておきたいと、生真面目の彼の中に、ある種責任感のようなものが発生していた。知ってさえいれば父の通った足跡を追える。

 そうした思いを抱え続けていたとき、サーミザフはイフラマという親族の長老を捕まえる事が出来た。彼にとっては好機であった。

 サーミザフは、父バラザフは戦いのときは、アサシンのフートやケルシュを重用しているが、親族の中ではイフラマに一番信を置いていると、彼なりに観察していた。

「そなたも自分の目で見てきて分かると思うが、シルバ家は盛んなりといえども、まだまだアジャール家のような大領主にはかなわん。家の記録などという物はアジャール家のような大勢力が持つ物だ。士族アスケリ といえどもシルバ家は生き抜くのに精一杯だった。来歴などという大層な物は、リヤドに来てから、そしてお前の祖父のエルザフがアジャール家で力を付けてから、自然に付いてきた物なのだよ」

「シルバ家の出自はリヤドではなかったのですか」

「勿論リヤドだとも。語り継げる記憶や記録の範囲では確かにシルバ家はリヤド出身という事になるんだ。ブルトガールから来たという先の話も、シルバという家の姓から推し量っているに過ぎないのだよ」

 その後もサーミザフはイフラマの記憶からシルバ家にまつわる事を引き出し続けた。が、やはり一番印象に残ったのはシルバ家の出自が遠く異国の地かもしれないという部分であり、アジャール軍屈指の士族アスケリ の家柄と思っていたシルバ家も、案外、近年に勃興して来た新勢力に過ぎないという事である。そこに悔しさは無い。自分が生まれてからのシルバ家については、アジャール軍内で重用されている記憶しかない。だが、自分の立ち居地が、祖父の代辺りから苦労を重ねてきた結果の足場なのだと理解したとき、この真面目な若者の胸中に湧いてきたのは、祖先への感謝の念なのであった。

 アルカルジとハウタットバニタミムの間には小さな集落がいくつもある。リヤドにおけるシルバ家発祥の地もその集落の中のひとつだとイフラマは言う。

「リヤドと一言に言っても広いからな。城壁を持たぬ集落も星の数ほどある。人の暮らしは何も城壁が全てというわけではない。城邑アルムドゥヌ を幾つも持たせて貰えた今でも、わしらはその地を放り出さず管理しているのだよ」

「ですが、父上は先日ハウタットバニタミムに入城した折、やっと俺の故郷を取り戻したと言っておりました」

「それはだな。シルバの発祥はさっきも言ったように小さな集落であったが、ナムルサシャジャリ・アジャール殿の時代、つまりアジャリア公の父上の代で、アジャール、デアイエの連合軍に攻撃されて、シルバ家は件の小領を追われた。そして流れ着いたのがアルカルジのハウタットバニタミムの辺りだったのだ。すでにシルバ家の者がそこに根を下ろしていた事もあって、そなたの祖父のエルザフ殿も、しらばくはここに安住出来た。そして、エルザフ殿はそこで嫁をもらって、父であるバラザフ殿が生まれた。それでハウタットバニタミムがバラザフ殿にとっては、故郷、あるいは旧領という事になるのだよ」

 実際に見てきたイフラマの話を聞き、サーミザフは人の生きてきた時間の長さは貴重なものだと思った。

「そういう事であれば、私の出自もリヤドや、アルカルジ一帯にまたがった広い範囲に関わっていると言えるのではないでしょうか」

「その通りだよ。シルバ家の長男であるサーミザフ殿の立場は重いものだ。何しろ各地で生きた我等の血筋の者たち、その者たちが地に足を張って、食らってきた命を全て背負う事になるのだからな」

 ――食らってきた命を継承する。

 シルバ家の血脈のみならず、自分が生きるという事が自分をこの世に有らしめてきた全てを継承する事になるのだと、サーミザフの心の中に、穏やかなるも熱い決意が興った。この決意がその後のサーミザフの生き方の全てをも決めてしまう事になる。

 アルカルジとハウタットバニタミムを中心に地方をまとめて手中に収めたシルバ軍が次に取り組むべき課題は外交である。

「ベイと同盟関係にあるとはいえ、昨日今日結ばれた関係が明日には崩れるという事はよくあるものだ。アジャリア様がしたように万が一に備えて間に位置するメッカへの手回しが必要だろう。カトゥマル様へも具申するつもりだが、シルバ家独自の外交経路を構築しておきたい」

 バラザフはその先駆けの使者として従兄弟のメスト・シルバという物をメッカに遣わした。バラザフと同じように兄達をベイ家との戦いで亡くし、自家を継承していた。

 新たに外交経路を築くという事は、商売でいえば新たな顧客開拓である。これまで対外的な方針はアジャール家のやり方に従ってきたが、シルバ家が一つの勢力として確立した今、アジャール家を始め、各所との折り合いをつけた上での外交となるので、これまでの対外策とは、また違った険しさがある。

 そしてメストはその後もシルバ家の執事サーキン の一人としてバラザフに与力した。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

次へ進む

【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】

前に戻る


『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る

2020年9月5日土曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第5章_4

 年明けてカーラム暦992年――。クウェートを押さえた後も、アジャール軍とサバーハ軍の対立は相変わらず続いていた。サバーハ軍に所属する各城邑アルムドゥヌ の太守達の中には、ハサン・アルオタイビようにアジャール家に臣従するを潔しとせぬ者等も少なからずいた。名門としての意地もある。
 アジャリアの本当の意味でのクウェート制覇は、これらの攻伐無くしては成し得なかった。
 ブービヤーン島――。ペルシャ湾に浮かぶ島でクウェートからは北へ徒歩で半日の距離である。太守にはマダトジャイド・ザマーンという者が就いていて、サバーハ軍の中でも名うての猛将として知られていた。アジャリアは、次の攻撃目標をこのブービヤーン島と定め、また侵攻の命を下した。
 アジャリアはハサン・アルオタイビの時と同様に、降伏の使者を送ったが、ザマーンは降伏勧告を受諾せず、
 ――敵に返答するには剣!
 と降伏の意思の無い事を態度で明示した。
「であるならば、こちらも相応の対し方をするまでだ」
 アジャリアはブービヤーン島を強攻めする方針で即応した。アジャリアは手練手管で城邑アルムドゥヌ を落とすのを得意とするが、ここぞという時に強攻めで押す苛烈さも人一倍である。
 アジャール軍の押しは強かった。ブービヤーン島の攻防は三日続いたが、一兵士の目から見てもアルオタイビ側の劣勢は明らかで、無駄死にを嫌がったブービヤーン島の兵士が、アジャール軍の包囲の隙間から戦線離脱していき、ブービヤーン島にもアジャール軍の旗が立てられた。アルオタイビ配下の兵等が逃げていった逃げ道も、敢えてアジャリアが空けさせておいたのであった。
 ブービヤーン島の戦いではバラザフも島へ渡り前線で両手の諸刃短剣ジャンビア を振るった。アジャール軍の攻勢は強く、残ったブービヤーン側の抵抗も激しかったが、その分だけ城門に屍を多く積む事となった。
 最後の抵抗でもアジャール軍に叩かれたブービヤーン兵の士気は下がり、門の中へ退却してゆく。この後を追ってバラザフは一団を率いて、城内へ突入した。
 ――バラザフ・シルバ殿、見事突入を果たしブービヤーンを占拠した模様!
 アジャリアの本陣にバラザフの戦功を伝える伝令の声が響く。この攻城戦でもバラザフ・シルバの手柄であると軍全体に知らしめるものだった。
 アジャリアはバラザフの能力も手柄も十分認識している。それゆえ幼少の頃より近侍ハーディル として引き立て、この若さで小さいながらも城邑アルムドゥヌ を持たせてやり厚遇してきている。
 だが近年のみのバラザフの戦功に限っても、アジャリアが、
 ――それでは褒賞が足りていないのではないか。
 とバラザフの論功行賞を見直さなくてはならない時期にきていた。
「バラザフのそのカウザ も手柄と共に数多の戦塵を被ってきた。お前の戦功を称えて新たなカウザ を贈る。是非受け取ってもらいたい」
「神に讃えあれ。この上なき下賜に御礼申し上げます」
 カウザ は鉄の基調であり額を巻く様に黄金があしらわれ額の中心に孔雀石マラキート象嵌ぞうがん が施されている。明らかにアジャリアがエドゥアルドを意識して造らせたものであり、そこから胸中の像がエドゥアルドの姿に発展したバラザフは胸を熱くした。

※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

次へ進む

【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】

前に戻る

『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る

2019年1月26日土曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第1章_30

 戦争から引き上げハラドに戻っても、バラザフの深い心穴は殆ど埋まる事はなかった。
「けしからん事だ!」
 ハラドの街に乾いた寒さが訪れる頃、ナウワーフがまた何か情報を聞きつけたのか、やってくるなり怒り出した。
「おいバラザフ、奴らはけしからんぞ!」
「一体何なんだ」
「ベイ家の奴らさ」
「それはベイ家はけしからんだろうさ」
「そうだろう! 奴らは……」
 ナウワーフが言うには、
 ――アラーの街の太守アルサウドからアジャリアへ報告が入った。それによれば、アジャール軍の死者四万五千人、ベイ軍の死者三万四千人で、これをベイ軍は自分達が戦争に勝ったのだと自讃しているという。
「それは本当にけしからん!」
「そうだろう!」
「勝ったのは我々アジャール軍だ。緒戦の奇襲で追い詰められたのは認める。だがな、ネフド砂漠の地を我々は大半制圧して、ベイ軍は逃げ帰りジャウフの街との連携すら出来なくなったのだから、本当の意味での勝利と言えば、アジャール軍の大勝利だろう!」
 バラザフにとっては、そうでなくてはならなかった。バラザフの言う通り、領土獲得戦争においてはアジャール軍は勝利した。それは事実である。だが将兵の損失という面から見れば、アジャール軍の方が痛みは大きいのである。しかし、五分勝ちという結果を納得させるには、大事な人たち失った哀しみは、あまりに大きすぎた。
 後に「アルハイラト・ジャンビア」と称される程の未来の謀将も、この時はまだ人の死を悲しむ一人の少年に過ぎなかった。
「このジャンビアを振りかざして、エドゥアルド様達を援けに行きたかった……」
 バラザフの目の中で、ジャンビアの孔雀石はその波紋を大きく歪め、揺らした。

※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

次へ進む
https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/A-Jambiya2-01.html

【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】
https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html

前に戻る
https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/A-Jambiya1-29.html

『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る
https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html

2019年1月7日月曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第1章_11

 後憂を安んずるべくアジャリアは、今までのクウェートのサバーハ家との同盟に加えて、オマーンのメフメト家と同盟を結んだ。
 これらの同盟はアジャリアにとっては、リヤド、ブライダー方面への侵攻を容易にするという効果をもたらし、メフメト家のカウシーンにとっては自分の領地であるオマーン地方の支配体制の強化に力を注げるようになった。
 アジャリアはネフド砂漠方面へ、カウシーンはアルカルジへと領土拡大の食指を伸ばしていったために、両者とも義人サラディンの討伐対象となっていたのである。
 サバーハ家のファハドの方は、これまで何かと対立の絶えなかったメフメト家と同盟が成立した事で、アジャリアと同じく後顧の憂いがある程度解消されたため、バグダードを経由する道からエルサレムやベイルートへ進出が可能になった。彼にとってはその道こそが、冥府に繋がる道となるのだが、もう少し先の事である。
 アジャール軍とベイ軍の最初の戦端が開かれたのは八年前、カーラム暦では975年の事である。その後、繰り返された両家の和平と戦争の歴史は、カーラム暦983年夏、サラディン・ベイが十三万の兵を率いてカイロを進発し、新たな戦いの頁が書き加えられようとしていた。
 ハラドのアジャリアは、この報せを日を置かずして掴んだ。
「めでたい。バラザフもついに初陣の日が来るとは」
 出撃の朝、そう声を掛けてきたのはアジャリアの弟エドゥアルド・アジャールである。
「兄者……いや、アジャリア様より成人の諸刃短剣ジャンビアを下賜されたと聞いた。私からもこれを贈りたい」
 出撃の前の物々しい隊列から少し離れた場所で、エドゥアルドはバラザフに諸刃短剣ジャンビアを手渡した。柄には孔雀石マラキート象嵌ぞうがんが施されている。
孔雀石マラキートは戦場で神の加護が得られると聞く。仲間の援けも即ち神の加護だ。わかるな?」
「はい!ありがとうございます、エドゥアルド様!」
 素直に喜びを顕わにするバラザフ。アジャリアから貰ったときも勿論嬉しかったが、エドゥアルドがくれた諸刃短剣ジャンビアが目に見えぬ重みが一段と違うようにバラザフに感じられた。
 憧れのアジャリア様が自分の師であってくれたなら。バラザフはそう願っていた。だが、自分にとっての師はやはりエドゥアルドなのである。エドゥアルドで弟子で良かったと、真に心の底から思えた。
「そうだ、バラザフ。シェワルナゼ殿からもお前に言伝がある」
「ズヴィアド様は何と」
「いつまでも教えを守るだけでは一人前にはなれん。だが、此度の初陣ではまだ教えを離れるな、との事だ」
「この戦いの先も見据えた言葉に思えますが……」
「うむ……」
 この戦いは間違いなく激しいものとなる。自分もズヴィアド・シェワルナゼも生きては帰れぬやもしれぬ。この言伝もズヴィアドのバラザフへの遺言としての意味が強かろう。それが分かりすぎるエドゥアルドだったが、手塩にかけて育ててきた、しかも初陣を控えた目の前の若者に、全てを伝えきる事は躊躇ためらわれた。
「先ずはこの戦い、必ず生き延びるのだぞ。お前の武運を祈る」
 そう言いながら、馬に跨り駆けて行くエドゥアルドの背中をバラザフは見送った。まだ戦場を知らぬ若者の目には、その後姿はこの上なく頼もしく映った。

※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

次へ進む
https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/A-Jambiya1-12.html

【創作活動における、ご寄付・生活支援のお願い】
https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/kihu.html

前に戻る
https://karabiyaat.takikawar.com/2019/01/A-Jambiya1-10.html

『アルハイラト・ジャンビア』初回に戻る
https://karabiyaat.takikawar.com/2018/11/A-Jambiya11.html