――カーラム暦1000年サラディン・ベイ死亡。死因は心臓麻痺。
ベイ家の当主サラディン・ベイが死んだ。サラディンの死は心臓麻痺によるものと世間には広まった。だが奇妙な事にサラディンの遺体の首には刃物で斬られた跡あった。
それはさておき、サラディンの死が、カイロの
サラディン・ベイには実子がなく、養子が二人いるのみである。
養子の一人はサラディンの甥のザラン・ベイである。ベイ家の血に連なる者で慕う部下も少なくない。
もう一人はベイ軍とメフメト軍が同盟した際に交換武官としてベイ軍に所属したオグズ・メフメトである。カウシーン・メフメトの末のほうの子らしいが、サラディンは殊更彼の素性を掘り起こそうとしはしなかった。
サラディンが見た所、オグズには武人としての良質な芽があり、これを間違えて育てなければ、きっとベイ軍の力となるだろう。たとえオグズがメフメト家に還ったとしても、人一人、一人前に育て上げ実家に戻し、自分としての義が立てばそれでいいと、
サラディンは考えて、オグズも自分の養子とした。
サラディンは、ザランを後継者として、ベイ家とカイロとミスル地方の領土を継がせるつもりでいたが、その事をはっきり周知する前に冥府の住人となってしまったのである。
サラディンが死して日が経つごとに、皆が予見した
「ベイ家が内乱状態にあるだと?」
アジャール家では、アラーの
「フート、お前の配下を全て連れてカイロに潜入してくれ。次のベイ家の当主はどちらになるのか。カイロの行く先はどうなるのか。その目で見て見澄ましてくるのだ」
次いで、ケルシュにも命じた。
「メフメト家の動向も知っておきたい。おそらくシーフジンが稼動しいるだろうから警戒が必要だ。今はアジャール軍とメフメト軍は同盟状態にあるが、有事とは得てしてこういう変事から起こるものだからな」
さらに、
「シムク・アルターラスを配下と共に俺の下に戻しておいてくれ」
と、配下のアサシンに戦闘任務ではなく、元々の役割であった諜報任務を与えた。
「カイロへ出征する可能性も考えられる。戦いの支度もぬかりなく済ませておくように」
カイロ擾乱は、バラザフの頭脳と体躯を活発に使役させた。しかし、こうした慌しさの中でバラザフは、逆に生命力を湧き上がらせていた。
バラザフの重臣にイフラマ・アルマライという人物がいる。バラザフの叔父であり、熱血と冷徹が同居したようなイフラマは、淡々と戦支度を進めている。
「バラザフ。もし戦争が勃発したらサーミザフを初陣に出す良い機会だと思うのだが」
「サーミザフも十二歳。戦場を知っても良い歳かもしれません。私もアジャリア様の
「ベイ軍とのあの戦いか。初めて戦場に出るには、あれは重い戦いであったな」
イフラマの脳裏にあの激闘の光景が浮かんだ。バラザフはあの激闘を乗り越えて立派に成人して今は将軍の一人になった。だが、もし戦いが起こって、それがあのような惨状を呈した場合、サーミザフも同じように乗り切れるのか。不安は湧いてくるが自分が言い出してしまっただけに、イフラマはサーミザフの出陣を取り下げる事が出来なかった。
「サーミザフ、次の戦いでお前を連れていく事になった」
バラザフは、長男サーミザフ、二男ムザフの二人を前に並べて、サーミザフの出陣を言い渡した。黙って頷くサーミザフを、ムザフが羨ましそうな顔をして見つめている。ムザフのその姿にバラザフは自身の幼少期を見た。
アジャール家にとってカイロ擾乱は、ムサンナの敗戦での捲土重来を期せるまたとない好機となりうる。カトゥマルは十五万の兵と共に進発した。このカトゥマルの出兵の背景には、メフメト家も一枚噛んでいて、メフメト軍は現在盟約を結んでいるアジャール家にカイロへの出兵を要請したのであった。
大きく二つに割れたベイ家の片割れ、オグズの妹が今のカトゥマルの妻になっている事も背後にあって、カトゥマルはこの出兵の目的をひとまずオグズに肩入れするためとしている。
カトゥマルは北西に進軍してジャウフまで進み、そこから西へ向かって、スエズに至った。ここまで来ればカイロまで一両日、遅くても三日で到達する。
これと同時にシアサカウシン・メフメトの方でもカイロ擾乱を自勢力の拡大の機会ととらえて、ベイ軍が手出ししてこないうちに、アルカルジの
シアサカウシンが目をつけたのはハウタットバニタミムの地である。シアサカウシンも派兵の目的をオグズに味方するためとして、カイロとは何の関係も無いこの地に押し寄せてきていた。
「メフメト軍がハウタットバニタミムに進攻し周辺に勢力を拡大しているようです」
バラザフは、ケルシュの配下が持ってきたこの情報に驚かされた。当然、カトゥマルの気色もよくない。
「アルカルジに手を出すというような背信行為は、メフメト軍の同盟破約ではないか」
「いえ、ハウタットバニタミムは我がアジャール軍の支配下にないため、辛うじて同盟破約にはあたりません。ですが……」
「何とも
「ええ」
「同盟状態が維持されているとはいえ、そこから掌を返されては、すぐにアルカルジ諸共、一帯が席巻されるぞ」
「防諜に手抜かりはありません。ご安心を」
バラザフには、メフメト軍がさらなる進攻、それこそ背信行為に出てくるであろう事は容易に想像出来た。よって、ケルシュに、
――シアサカウシンはカイロの弟のオグズと組んでハウタットバニタミムを挟んで乗っ取りに来る。
とハウタットバニタミムの諸族を、ザラン・ベイの側につくという名目で、対メフメト軍の勢力として布石させた。カイロから遠く離れたアルカルジ、そしてハウタットバニタミムの地でも、形の上ではあるが、オグズ対ザランの構図が作り上げられた事になる。予想していなかった自勢力への抵抗で、アルカルジを含めて周辺を一気に席巻しようとしていたシアサカウシンの進攻の壮図はハウタットバニタミムまでで終わった。
その頃、カイロでは状況に進展が無く行き詰った状態にあった。そこへアジャール軍が乱入してきたので、ザランと彼の参謀のナギーブ・ハルブの気勢は、急速に弱まった。この状況でアジャール軍をカイロに入れてしまえば、カイロの支配権は完全にアジャール軍の手に落ちるからである。そして、メフメト軍、アジャール軍が裏で糸を引いている事を考慮しても、ベイ家の当主としてオグズがカイロの
カイロ入りしているフートは、
――ザラン、ナギーブ・ハルブともに、アジャール軍との同盟の意図あり。
と、バラザフに報告した。
「ザラン側では、同盟や降伏を本気で考えなければ、滅亡まで追い込まれると読んでいるのだな」
そして、メフメト軍の方に
――シアサカウシンはこの機にアルカルジを取る意気を、まだ捨てていない。
という情報がバラザフの所へ上げられてきている。
次いで、
――オグズへの支援、カイロでの差配をアジャール軍に押し付けて、アルカルジを奪取する野心あり。
との詳細も送られてきた。
「さて、この双方をどう
バラザフは、二方面の情勢を測った。
「ザランから同盟を模索する使者が来るのは間違いない。カトゥマル様に講和に意思があるかどうか」
バラザフが読んだとおり、ハルブの使者が、カトゥマルの
ザラン側の使者は、まずアジャール軍との和平の意思があるとし、
「フサイン軍、レイス軍との同盟関係を破棄する。アジャール軍とベイ軍で新たな同盟関係を構築し、リヤド、アルカルジ近辺のベイ軍所有の
と条件を示してきた。
続いてやってきた使者は、
「アジャール軍に対して従属同盟であってもよい。フサイン軍、レイス軍に対しても、アジャール軍の盾となって戦う覚悟もある」
と、さらに譲歩した条件まで提示してきた。が、この過度に譲歩された講和条件は、地理的条件を加味すると、エルサレムへの進攻を手控えている今のアジャール軍の盾となるような位置に、カイロに居るベイ軍が割って入るなどという事は現実的には、有り得ない事ではある。
意地でもアジャール軍との抗争を回避したいザラン軍は、これでもかというように、カトゥマルと側近達へ、次の使者には、金塊とアレクサンドリアの金細工を大量に持たせて
「さすがにここまで来ると露骨だとは思うが、ザランが提示してきた条件は我々にはこの上ないものばかりだ。妹とザランの縁が決まれば、ザラン・ベイと我々は縁戚という事になる。これからの力関係によっては、ナワズ・アブラスのようにアジャール家の親族派の家臣になる事も十分考えられる」
ザラン・ベイという人は義人サラディンに似て、外交での化かしあい好むような狡知の人ではない。参謀であるハルブに、そこまで言ってのけねばアジャール軍との講和は成らないと言われて、このような講和条件を裁可したにすぎない。ハルブにしても相手を騙すような手段を普段から好んでいたわけではないが、ザランとベイ家を存続するために何をすべきかという窮状において、割り切って考えられる頭を持っていた。
こうしてカトゥマルは、使者とのやり取りをバラザフに説明した上で、和平の受け入れる意思を示した。
「だが、ザランと講和するとなればオグズを裏切る事になるので、上手く話がまとまるように持っていきたいのだが」
「であれば、ザランとオグズが和議を結ぶように、我等が調停に入るようにすれば、両方に義理立て出来、また両方に恩を売った事になるでしょう」
アジャール軍としては方向性が決まり、ザランとの講和も成立した。
カイロは元の調和へ向けて歩みだしたように見えた。しかし、ベイ家の家臣の中には、ザランがアジャールと手を結んだ事に不満を持つ勢力が発生し、こらがオグズ側について、再びカイロは擾乱状態に陥った。
そして次の年。ザランに追い詰められたオグズが自決し、多くの犠牲が出したカイロ擾乱は、これをもって終結したのである。
これらの経緯を、フート、ケルシュ率いるアサシン団がバラザフに順次報告していた。
※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。
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