2023年1月5日木曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第10章_1

  バラザフが名声を得たりといえども、相変わらずアミル・アブダーラが続いている。

 大宰相サドラザム になり、一気に中央の政治の権益を自分に集めようとしているアミルの所に庇護を求める諸侯が増え、中央の威令に服す士族アスケリ の数も日増しに増えている。

 だがそのアミルでも一筋縄でいかない者等がいる。ナーシリーヤのレイス家、ドーハ、バーレーン、オマーンに威を張るメフメト家がそれであった。

「一つでも手を焼いているのに、あいつ等は同盟しているからな。ナーシリーヤからオマーンまでは光の届かぬ黒き大地だよ。それと比べて、レイス、メフメトの大軍に一歩も退かず逆に撃退したバラザフ・シルバは、今後も気にかけてやりたいものだ」

 本人の居ない所でアミルはバラザフに賀詞を連ねた。バラザフの方でもアミルへの臣従を嫌がらず、ベイ家にも頼んでムザフをアミルの所に派遣武官として置いてもらえるようにした。

 アミル・アブダーラという中央政権の庇護を得るようになり、バラザフの日々の暮らしの中に剣戟の音が聞こえなくなって、しばらく経った。

 ところがその穏和な生活を再び乱す事が起こった。カーラム暦1008年、ついにファリド・レイスが中央政権に威服した。つまりファリド・レイスがアミル・アブダーラの下についたという事で、カラビヤート全体を趨勢を鑑みれば平和への筋道となるのだが、これがシルバ家を大いに揺さぶる事になる。

 ファリドはアミルと距離を縮めたのをいい事に、今まで自分に辛酸をなめさせてきたバラザフの評価を、ここぞとばかりに貶める態度に出た。亡きアジャリアに手痛い目に遭わされ続けた恨みもある。さらには、シルバ家を罵って、同盟相手であるメフメト家の評価を相対的に上げようという狙いもあった。

「このカラビヤートにバラザフ・シルバ程の食わせ物はおりません。バラザフは一度メフメト家に従ったかと思えば、裏切ってベイ家とも結託していた。さらに奴の悪事を紐解けば、ハイレディン・フサイン殿に臣従した際も、ハイレディン様がヘブロンで死んだ途端、私ファリド・レイスを裏切った。ハイルの城邑アルムドゥヌ を改修する際にも我がレイス家は大いにシルバ家を支援したのです。差し伸べた我が手を咬む如く、ハウタットバニタミムの所有の件で裏切った」

 本音でバラザフを恨んでいるので、ファリドの弁舌は熱を帯びつつ滑らかに回る。

「そして、またベイ家と結んだかと思えば、今度はアミル様の下に付くという。これを食わせ物と呼ばぬならこの世に食わせ物など一人もおりますまい。バラザフ・シルバは自分が生き残るために他人の肉でも食うのですぞ」

 これだけの弁を生み出す如くファリドの頭に血が巡っていれば、かつてアジャリアに叩きのめされる事も無かったはずである。

「アルハイラト・ジャンビア。確かにそう世間に賞賛されるだけに頭はあります。ですが、知恵が人の全てではない。バラザフは知恵の使い方がいかにもまずく、いつ庇護者を裏切るとも知れず油断なりません。今、その気苦労をアミル様が抱えておられるかと思うと、このファリド・レイス、アミル様が不憫でなりなせん」

 アミル・アブダーラは平民レアラー の、しかもかなりの貧しさから大宰相サドラザム にまで身を起こした男である。その出世の過程の早い段階で、他人の気色を窺うという特技を身に着けていた。よって、これらのファリドの訴えも、恨みつらみが目いっぱい盛られていると冷静に見ながらも、脳内の半分では、

 ――ファリドのバラザフ・シルバ評も全く聞き流す事は出来ぬ。

 とバラザフへの警戒心も同時に持っていた。

「レイス殿の言い分はよくわかった。貴殿はこのアミルに何を求める」

「アミル様に何かを要求するなど僭越ではあります。ですがハウタットバニタミムをメフメト家に返還するように、シルバ家に命じるのが政道に適う事かと。いわばシルバ家はハウタットバニタミムの所有権を自分で喧伝しているだけなのです。政道の道理が示されればメフメト家も自ずと威令に服す事でしょう」

 ファリドとの会見が終わったアミルは、まずザラン・ベイとの路線を固めた。

「バラザフ・シルバの動向に注意されたし。顔に二面あり」

 とバラザフへ気を許しすぎるなと、アミルは手紙でザランに釘をさしておいた。

 そしてもう一通差出人不明で、

「レイス軍とシルバ軍との戦争にて、バラザフ・シルバに肩入れせぬよう」

 と書かれた手紙がザランのもとに届いた。無論、アミルの手紙と一緒にである。

 ファリドの話と、他から伝聞するバラザフの知謀をアミルは評価したが、その高評はバラザフの能力への警戒心へと作り変えられていった。

 また大勢としてはシルバ軍は少しも恐ろしい相手ではない。レイス軍が自分の所についたこの状況では、バラザフ・シルバとは個人の能力さえ注意しておけばよく、ファリドの気色を損なわないように懐柔する方が今は大事といえた。

 バラザフを心の中で少し距離を置く一方で、息子のムザフのひととなりをアミルは愛した。ファリド・レイスとの折衝からシルバ家の扱いに影響が出るが、アミルはムザフを気遣ってそのような事情は一切告げなかった。

「ムザフは、賢くてその上、実直だな。ハーシム・エルエトレビーとは、着物の表地と裏地のようだ」

 ムザフの存在を自身の懐刀であるハーシム・エルエトレビーと対にするような形で評価した。

 ハーシムは知謀に切れ味はあるものの人当たりはよくない。一方ムザフは穏和で人を生かす知謀を持つ。アミルはこの二者の才知の在り方どちらも好んで傍に置いた。

 ――アミル様は父上によく似ている。

 ムザフはアミルに仕官して、そのように見えてきた。無論、面貌ではなく、人格は能力的な面である。

 二人とも困難に直面した際には、それを前向きにとらえ闇を光に換えていこうとする。結果、憂慮していて点が逆に長所、実績となって残る。また、対人的にも賞罰両刀を使い分け人との垣根を取り払い距離を縮める。

 二人には異なる点もある、とムザフは思う。

 アミルには、平民レアラー として育った経験からか、羞恥心はあまり無く、生き抜くために恥をかく事を嫌がらない。バラザフの方は、上からどんな重石を乗せられようとも持ち上げてやるぞ、という心魂の剛直さがあった。

 ここまでのレイス軍とシルバ軍の角の突合せを見ていて、アミルが取った処方は、シルバ軍をレイス軍の下につけるというものである。このまま放っておけばファリドが再びバラザフの所に攻め入るのは時間の問題だろうから、平定しかかっているカラビヤートがまた加熱する事というアブダーラ家にとって好ましくない状況になる。

 よって、この処方は全体の熱を冷ますと同時に、他家の軍制に介入してアブダーラ家の威令によってレイス軍、シルバ軍を組成するという形を取りたかったためでもある。

「アミルめ、シルバ家をレイス家の格下に置きやがった」

 バラザフは、勢力関係を計算してシルバ家の処遇を決めたアミルを憎んだ。他家の勢力争いに乗じて裾野を拡大していく点では自分もアミルと同じ見方をしているのだが、自分は圧迫される勢力なのだから、したたかでいて良いのだとバラザフは思っている。

「それだけではないぞ。現在のシルバ領のうちハウタットバニタミムの周辺地域をメフメト軍に献上せよと言う。その我等への補填をレイス軍に一任し、アルカルジ、リヤドのみ所領据え置きにして良いと言ってきている」

 まとめるとシルバ家はアミルの命令によってレイス家の下に付かされたばかりか、所領までもメフメト家に取られたという事になる。

 そしてファリドがアミルの命令に従ってシルバ家に与えたのがナーシリーヤの城邑アルムドゥヌ の傍のガラフという場所である。ナーシリーヤの近くにあるので拠点として価値は低くはない。

 だが、シルバ家がここを実効支配するのはほぼ不可能に近い話である。本拠地となるアルカルジ、リヤドからはあまりに遠く、他家の支配地をいくつも通りながら行き来せねばならない。またナーシリーヤの傍である事は常にレイス家に見張られている事にもなるので、ファリドが変な気をおこせばいつでも奪取されてしまうのだ。

 シルバ家がここから得られるのは実質、僅かな租税だけで、それも輸送のための人員の賄いに配ってしまえば、ほとんど残らない。

「アミルの命令で痛手は受けたが、メフメト家の主張も通らなかった。アルカルジを全部寄越せといっていた所をハウタットバニタミムを所領するだけに止められた。アルカルジ、リヤドを我等が押さえているから、カイロやメッカの往来で得られる利はシルバ軍だけのものだ」

 現実に光をあてて見なければやっていられない。重臣たちに話すバラザフの言葉には、素直に負けを認めたくない色が滲み出ている。

「これだけで終わりにはしないぞ、あのメフメトはな。また悪巧みを仕組んでくるに決まっている。防衛により一層留意せよ」

 取られた部分は今は諦める他ないが、ハウタットバニタミムの城邑アルムドゥヌ でも周辺にはまだシルバ軍が実効支配出来る砦も残っている。そうした拠点を今までハウタットを任せていたイフラマ・アルマライの預かりにして、諸将を従来の配置どおりにして、バラザフはメフメト軍への警戒を説いた。

 しばらくして、バラザフは自分の方から暗躍を始めた。弟のレブザフの縁故から長男のサーミザフをファリド・レイスの所へ送り込んだ。

「アミル様の指示によるとはいえ、レイス軍の従属となったからには、保証として誰かをレイス軍へ預けた方が関係が悪化せずに済むと思われます。待遇はこのレブザフが良きように計らっておきます」

 このように書かれた手紙がレブザフから送られてきたのがきっかけである。

 バラザフはアブダーラ家から呼び戻して、今回も次男のムザフに赴任させようと思っていたが、サーミザフが自らこの任を買って出たのである。

 サーミザフという若者は生真面目な性格であると同時に、弟想い、家族想いである。レブザフは自分が待遇を保証するとは言ってはいるが、これまでのシルバ家とレイス家のややこしい関係を考えると、今アミル・アブダーラの寵愛を受けているムザフが、それ以上に良く扱われる事は考えにくい。

 また、対等ではないにしても、今やカラビヤート最強となっている大宰相サドラザム のアブダーラ家との繋がりを自ら断ってしまうのは惜しい。またその道筋をつけてくれたベイ家の顔にも泥を塗る事にもなってしまう。生真面目な彼の性格がそれを良しとしなかった。

「俺はお前を他所に出すのは反対だぞ」

 サーミザフの意向を聞いて、バラザフはすぐに反対した。バラザフの中では、長男のサーミザフを次期シルバ家当主にしようという考えがあったからである。

「ムザフはアミル・アブダーラ様の近侍ハーディル として可愛がられているとか。実力者に近侍ハーディル として仕える者がその後の出世において道が開けているのは父上が一番ご存知のはず。ファリド・レイス様は派手さは無いものの地道な方であり、ハイレディンに臣従するかのようにじっと堪忍してつきあった性格は、今後付き合っていくのに信用に値するでしょう。シルバ家の今後の事を考えた場合も、私がレイス軍に、弟がアブダーラ軍に仕官しておく事は有益です」

 若造だと思っていたがいつの間にか言うようになったとバラザフは思った。それだけサーミザフの話は的を射ていて、聞くべき理があった。

 ――レブザフの奴もファリドについて同じような事を言っていたな。

 レイス家に赴く前の妙に溌剌としたレブザフの姿がバラザフの脳裏に映った。

「お前の言う事ももっともだ。お前がレイス家に行くのならば、そこでシルバ家の陣地を拡げてこい」

 この人らしいしたたかさである。

 ――レブザフのようにサーミザフの方が俺よりファリドと気が合うかもしれない。

 レブザフと似たサーミザフの言葉の先に、ファリドとの関係が少し見えた。

 ファリド・レイスは今では元サバーハ家の領土であるクウェートを本拠地としている。クウェートに赴くサーミザフには、バラザフも一緒に付いた。

 会見の席でファリドはバラザフに対してはにこりともしなかったが、サーミザフには笑顔を絶やさなかった。

 ――サーミザフが上手くファリドと付き合っていけそうで、俺も少しだけ心配事が減った。

 ファリドの自分へのとげとげしさは気にもしていない。

 会見はそのままサーミザフ歓迎の宴席となった。その席でバラザフは、ファリドにひとつだけ尋ねた。

「レイス殿にアマル というものがあればお聞かせ願いたい」

 名目上彼の下に置かれても、レイス様と呼ばないバラザフの剛腹さである。

 答えるファリドにもバラザフへの無愛想には、ぶれが無い。

アマル という言葉すら浮かんだ事が無い。そんな物を許してくれる程、俺の現実は甘くは無かった」

 ここまでは想定どおりだったが、バラザフはもう一歩踏み込んでみた。

「私は未来を視る眼が欲しいと思いつづけておりました。童子トフラ の頃よりずっとです。今でも欲しております」

「それはアマル であって貴公にとっては幸せな事だろう。そんな物は現実には在り得ないからだ。アマル として心の中に大事に大事にしまっておかれるがよい」

 バラザフは、そこまでで言葉を発するのをやめた。この人物には未来は見えないという蔑みもあったし、怒りが湧いてこなかったのは、ファリドがサーミザフを大事にしてくれるだろうと、少しだけ好感を持てたからだろう。サーミザフに対して心配事が無くなった。今はそれだけである。

 心配事という物は一つ減れば、またすぐに新しい心配事が生じるものである。

 カーラム暦1011年秋、メフメト軍のハウタットバニタミムの太守が、近くのシルバ領の砦を陥落させ、シルバ側の守将もこの戦いで戦死した。

「メフメトのやつめ許せん。俺の政治に服さぬ乱暴に出るならば、メフメト軍を滅亡まで追い込んでやらねばならない」

 バラザフ以上にアミルは頭にきていた。折角、メフメトの顔も立てて大宰相サドラザム として裁判の労を執ってやったのに、それに不承知であると言う様な今回の挙兵である。裁定に不承知であるならば、その時に申し立てねばならない。それを後になって騙すような形でシルバ領に押し入って砦を落とすというのは、世の摂理を乱す許されざる事であった。

 一旦、事はここで霧散したものの、アミルの中ではメフメト家を威令に服さぬ不忠者という扱いになり、メフメト征討に大義を被せた。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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