2023年2月5日日曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第10章_2

  翌年、すぐにアミルはカラビヤートの諸侯にメフメト征討のために軍を出すように命じた。ファリドやバラザフにも出兵の命令が下った。

 アミルがバーレーン要塞を包囲するために指揮した兵の数は二百万。広域にわたって周辺の城邑アルムドゥヌ に兵を分散させねば軍容を維持する事すら困難な数である。

 バラザフは三万の兵を率いてバーレーン要塞攻略戦に参加し、サリド・マンスールの部隊と合流した。サリド・マンスールはアミル・アブダーラの腹心であり盟友でもある人物である。この部隊には、ザラン・ベイ、アアジム・ダルウィーシュが所属し、サリドが部隊長を務める。

 兵力的のは申し分の戦いだが、メフメトを相手にするのにバラザフが懸念している事が一つだけある。

「あのシーフジンにはどう対処すべきか」

 カウシーン・メフメトが世を去ると同時に、モハメド・シーフジンの話も衆口に乗らなくなっている。カウシーンのようにシーフジンを巧みに統率する者が居なくなったからであろうが、メフメト家が滅亡の淵に立たされているこの戦いで、シーフジンが傍観を決め込むとは考えにくい。

「今のシーフジンはバーレーンの防衛の任務を果たすのがやっとで、アルカルジにまで手出しするに至らなかったようです」

「なんだ、そうだったのか」

 シルバアサシンにシーフジンについて調べさせ、ひとまず安心を得たバラザフである。

 ファリド・レイスも今回の戦いに参戦し、包囲網に加わっている。ファリドは一計を思いつきサーミザフを一度自分の指揮下から外してバラザフの部隊に所属させた。

 マンスール隊はメフメト軍バーレーン要塞の近くの砦を包囲している。バラザフはマンスールにハサーの城邑アルムドゥヌ の攻略を進言し、自身と息子のサーミザフをその攻略担当に自薦した。

「ひとつくらい敵の城邑アルムドゥヌ を取っておかねば、大宰相サドラザム から怠慢の烙印を押されてしまいますゆえ」

 そう言ってハサーに向かうバラザフだが、武功を立てねばならぬというような焦りは全くない。

「サーミザフ。昔アジャリア様や我が父エルザフがここに篭城したメフメト軍の太守ラエド・アレウィを攻めた。名将アレウィ相手に三日で城邑アルムドゥヌ を落とした。だがな、俺はここを一日で取るぞ」

 名将ラエド・アレウィは今はもう居ない。

 バラザフは、シルバアサシン団のフート、ケルシュの二本柱を呼んだ。

「中の敵は二百万の兵力を恐れて縮みあがっている。その恐れを我等の力にせよ。城内で火を放ち、夜間に虚言を撒き散らして自滅を誘え。太守と話をつける時間がない。計略だけでやるぞ」

 バラザフの言葉が終わると同時にシルバアサシンは、四方八方に散開した。

 バラザフ等本隊は、城邑アルムドゥヌ を包囲して城内に攻め込める姿勢で機会を待っている。

火砲ザッラーカ 隊はいつでも火を噴けるようにしておけよ。城内に炎が見えたら、それに機を合わせて射撃するのだ。千人ずつに三分して、射撃の手を絶やすなよ」

 ここまで部下はバラザフの指示通りに動いている。それは城内での経過も順調だという事でもある。

 砂漠では雨は長続きするものではない。とはいえ、

「こういう時に限って雨に狙われるものだからな」

 雨量が少しずつ増えてくる時期である事から、バラザフは急な降雨で火砲ザッラーカ の放火が阻まれはしまいかと気にしていた。若い時から彼は戦場で雲の流れが自然と気にかかる。バラザフが戦いで雨に計画を阻まれた事はなかったが、雨を気にする癖はそのままで今に至っている。悪いことではない。

 そろそろ中でケルシュが率いるアサシン団が活躍し始める頃だ。城内は騒然となり、時を置かずしてあちこちで炎が夜空を紅く照らし始めた。

「頃合だ。火砲ザッラーカ 発射!」

 城壁を越えて火砲ザッラーカ の炎が夜空をより明るく見せた。それで十分であった。

 最後の放火が行われた時には、城内の混乱は最高潮に達していた。バラザフは手元に残っていたアサシンを稼動させて、城壁を昇らせた。城内のアサシンと歩兵が連携して内側から正面を開門する。

 次に赤い水牛、アッサールアハマルの出番である。前回のレイス軍との戦いで出番を得た赤い武具の部隊は、その後もシルバ軍で常設される事となったが、前回と異なるのは馬ではなく水牛に騎乗している点である。これにはレイス軍の方ではなく、自分の方が本元のアッサールアハマルなのだと、世間に認識させるバラザフの狙いがあった。

 そういった大義名分の自他の意識が、戦場で勝敗を分ける事が多々ある。短期で水牛を飼いならす苦労はあったが、将兵の士気の高揚には見合う苦労だとバラザフは考えている。

 突入したアッサールアハマルが雄雄しく雄叫びを上げる。バラザフ自身も突入部隊に参加した。こういう時に本陣で座って待っては居られない人である。

 城内の兵士は抗戦してくる者は皆無だった。バラザフは、この城邑アルムドゥヌ に自分の権限でサーミザフを太守として置き、自身は早々と引き上げ明朝にはマンスール隊に復命していた。

 サリドは一晩で城邑アルムドゥヌ を一つ陥落させて来て、平然と明朝の軍議の席に座っているバラザフを、幻影であるかのようにしげしげと見ていた。

「隊長殿、この城邑アルムドゥヌ も手早く片付けて大宰相サドラザム 殿へのよき土産にしたいものですな」

 サリドの不思議そうな顔に比してバラザフは飄々たるものである。

「噂以上の戦巧者だ。噂といえばシルバ殿は風変わりな配下を持っているとか」

 サリドが指すのはシルバアサシンとも、昨夜の水牛のアッサールアハマルとも取れるが、バラザフはそれには微笑で返したのみであった。

 今、バラザフを含むサリド・マンスールの部隊が包囲しているのは、バーレーン要塞の支城ともいうべき城邑アルムドゥヌ で、昨夜バラザフが落とした場所よりは若干規模が大きい。またここの守将はマフーズ・ハザニという武官で、メフメト軍の古豪として有名である。

「今、我等はバーレーン要塞を落とす事を目的として、この城邑アルムドゥヌ を包囲しております。さらにその前段階として周囲の砦を確実に攻め取ってはいかがか」

 バラザフの献策にサリドもザランも同意した。

「では、折角ここに錚錚たる顔ぶれが集まっているのだから、諸将が一件ずつ担当して周囲の砦を落とすのはどうかな」

 アアジム・ダルウィーシュが締めにこう案を出して軍議は決まった。

 こうして各将は四、五の砦、城邑アルムドゥヌ を落としていったが、急がずに二週間時間をかけ、バラザフもそれに歩調を合わせた。いよいよ、孤立したマフーズ・ハザニだったが、三日は抗戦を維持したものの、最終的には降伏するしか手段は無く、マンスール部隊の管轄の戦いはこれで終わった。

 周囲の戦力が全て剥ぎ取られて、難攻不落のバーレーン要塞も落ち、メフメト軍は降伏した。さらに海峡を渡った先のバンダルアバス方面もアブダーラ軍の威令の下に置いて、アミル・アブダーラが、ついにカラビヤート全土を手中に収めたのであった。

 メフメト軍が支配していたバーレーン要塞や、オマーン地方はファリド・レイスの支配下に置かれたが、その替わりファリドはナーシリーヤ、バスラ、クウェートなど、馴染み深い本拠地をアミルに取り上げられてしまった。

 本当にしぶしぶファリドは、新たな領土であるオマーン地方のマスカットを本拠として領地運営を開始した。

 ハウタットバニタミムに関してはアミルからシルバ家に返還するようにとの命令が出た。

 これにファリドは巧みに対応した。ハウタットバニタミムはシルバ家の返還する。だが、その相手はバラザフではなく長男のサーミザフにするというのである。サーミザフは現在はレイス軍の武官となっているため、ハウタットバニタミムがシルバ領になっても、実質的にはレイス軍の領土とも言えてしまう。

「ふざけるなよ」

 バラザフにはこれは受け入れがたかったが、結局自分の死後シルバ家はサーミザフが当主となるのだからと、承服した。

「相変わらず苔の生えたような奴だ」

 外交上は調和を保ちつつも、バラザフの心中ではファリドとの間の溝がますます深まっていった。

 同年、酷暑が去りゆき逆に寒さが目立つようになってきた頃、アミルから客としてベイルートに招くという使者がやってきたので、バラザフはそれに応じた。

 ――世間の噂通り本当に鼻の大きい奴だ。

 応接間でアミルに対面したバラザフは、まずそう感じた。謁見の間でアミルが来るのを待っていたら、近侍ハーディル にこちらに通されたのであった。

「バラザフ・シルバ殿、よく参られた。日頃から未来を視る眼が欲しいと願っているとか。それが自分のアマル なのだと」

「はあ……」

 自分からこの話題を出すことは確かにある。だが、相手の方から、しかも初対面の相手から切り出されて、いきなり調子を狂わされるバラザフである。

「初対面の相手にこんな事を言われて驚かせてしまったようだな。済まん済まん。東のアルヒンドから取り寄せたシャイ だ。これでも飲んで気を休めてくれ。皆、俺が淹れたシャイ は美味いと言ってくれるのだ」

 すでに良い具合に熱せられた茶器から茶を注いで、アミルはシャイ を差し出した。

「それでは頂きます」

 ゆっくりと熱いシャイ を口に含むバラザフ。

「いい味であろう」

「はい。心が休まっていきますな」

 こいつにはやけに味方が多いようだが、この茶のせいもあるのではないかとバラザフは思った。視線を落とした自分の顔が碗の中で波紋に揺れている。

「ところでバラザフ」

「はい」

 アミルはバラザフに少し膝を寄せてきた。

「お前の未来を視る眼とは、これであろう」

 そう言って敷物の下から引き出してきたのは、バラザフがいつも先行きを占っている札占術タリーカ の札である。

「これで俺の未来を見て欲しいというのではない。相談したいのはこれさ」

 アミルが山の一番上から捲った札をバラザフに見せた。札は皇帝インバラトゥール である。

 熱いシャイ を飲んだばかりだというのに、バラザフの額からは冷や汗がゆっくりと流れ落ちる。アミルがこの札に喩えてファリド・レイスの事を言っているのであろう。それはつまりアミルの耳目はバラザフの所にまで届いているという事になる。しかも随分昔からだ。

「どうしてそれを」

「配下に目端の利く爺がいてな。そいつがどういうわけか俺の事を気に入ってくれてな。あちこち飛び回ってくれている。まあそれはいいだろう」

 アミルは黙してバラザフのファリドの評を促すように目を覗き込んでいる。

「これは大宰相サドラザム 殿はすでにご存知の事かもしれませんが、昔、アジャリア公がご存命の頃にも同じ事を聞かれました」

「ふむ、それで」

「ここだけの話にしていただきたいのですが、その時私はファリド殿を若さに苔の生えたような男と、率直に自分の感想をアジャリア様に申し上げたのです」

「それは面白いな!」

 楽しめる物が大好きなアミルは、この喩えに哄笑した。

「ですが、今のファリド殿は若者というには、いささか貫禄が過ぎるようで、その評価はいかがなものかと」

「それでは今のファリドは一体何なのだ」

「古苔で充たされた洞窟かと」

「苔だらけになってしまったではないか」

「はい。ハウタットバニタミムを愚息のサーミザフの預かりにすると言い出したとき、昔のファリド・レイスではないと思いました。老獪といいますか世知に長けてきたといいますか、若い頃よりアジャリア様に叩きのめされて強くなったいったように思えます」

「なるほどな……」

 バラザフの話を聞き終えたアミルは、頭の中でゆっくりと記憶を探り、それが今の話と繋がったかのように、納得している風だ。

「さすがはアルハイラト・ジャンビア。あのアジャリア・アジャールの片腕といわれただけの事はある。お前のような切れ者を敵には回したくないものだな。それに――」

 アミルはゆっくり腰をあげ、

「今日は久々に楽しい話が出来た。俺の事もたくさん話して聞かせたいが、政務もあるし今日はこれまでだ。また必ず会おう」

 そう言いながらバラザフに笑みを与え室を後にした。

「飄々として捉えどころがないが、何故か憎めない奴だ」

 アミルの気のおけない雰囲気に、バラザフはいつの間にか、存念を全て話してしまったという感じだが、後にはすっきりとした気持ちが心中に残って、ほんの少し残っていたシャイ を飲み干した。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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