一月程経過し、涼やかな風が少しく吹くようになると、アジャリアの体調は回復の兆しを見せた。バラザフは、
――やはり酷暑が堪えたのだ。
と、アジャリアの回復を喜んだが、食欲は戻ったものの、痩身は元の体格には戻る事はなかった。
アジャリア自身は、
――そろそろ冥府の籍にわしの名が記される頃だ。
と死期が近い事を悟り始めていた。
「今少し保たせてもらえまいか……」
アジャリアはとにかくエルサレムに行きたかった。エルサレムに上って
「保たせなければならぬ」
さらに半月程経ち、アジャール軍はエルサレムへ進発した。この時期あたりから、作物の類は夏季が最盛期の物から徐々に主役を降りてゆく。
ワリィ・シャアバーンが今回も先陣を務める事になった。彼の配下の将兵は五万。リヤド近くのブライダーではサッド・モグベルがワリィの合流を待っている。ここにも五万の兵力が置かれている。
アジャリアの本隊がハラドを発った。威風堂々とした
アジャリア麾下の五万の中にバラザフの顔もあった。今回の出征で、バラザフはアジャリアの傍で務めようと決めていた。
その他の部隊編成は、ナジャルサミキ・アシュール隊三万、アブドゥルマレク・ハリティ隊二万、カトゥマルのリヤド軍団三万、ナワフ・オワイラン隊四万、サイード・テミヤト隊三万と、総勢三十万を超す大軍である。さらにメフメト軍からも二万の援軍が送られてきている。
メフメト軍との同盟が成ったとはいえ、後方のアルカルジは地方の諸族の向背が定まらぬ上にベイ軍の手出しが懸念される地域であり、ここをエルザフ・シルバ、アキザフ・シルバに押さえてもらい、自領北部のアラーをトルキ・アルサウドに守衛させて後ろを任せてから出立である。
エルサレムへの道を、アジャリアは最短を採らなかった。
アジャリアが通ろうとする道というのは、まずハラドからリヤドへと自領を西へ移動するアジャール軍の常套の行軍路から、さらに西へ進みブライダーを経由して、そこから一気に北上してナーシリーヤからエルサレムを目指すという道順である。
「ブライダーまで行ったのならアルサウド殿の居るアラーは、ジャウフを通ってそのまま西進すればエルサレムには近いのではないか」
バラザフは、アジャリアの行軍路の意図をはかりかねていたが、思案の中、急に頭の奥に最短を採らなかった理由が浮かんできた。
「分かった。やはりアジャリア様は背後を気にされているのだ。最短で往けばナーシリーヤ、バスラのレイス軍を放置したままになる。となると、ハイレディンと雌雄を決する際にファリドが邪魔になってくるのだな」
バラザフの推測は当たっていた。アジャリアはブライダーに着いてから軍団を三つに分けた。
「シャアバーンは別働隊として迂回し、かつ先行せよ」
アジャリアは、シャアバーンには迂回してナーシリーヤに向うように、そして諜報を出してレイス軍の諜報を駆逐しながら進軍するように指示し、モグベルの部隊にはハイレディンへの威圧を目的とした上でのルトバの
「そしてわしが本隊を率いて北上し、バスラの
バラザフの配下のシルバアサシンも、アジャリア本隊の諜報として動いている。隊が行軍する先々でレイス軍の諜報を始末するために、全方位に彼らは駆けている。
バラザフは、アジャリアから賜った
「バラザフ、今わしら本隊はバスラを目指しているわけだが、その間のレイス軍の拠点をいくつか取ってゆく。理由はわかるな」
アジャリアとバラザフの間には、しばしば、教練のような会話が交わされる。バラザフの脳裏には進軍先の地勢が描かれ、精一杯頭を回転させて、アジャリアの戦略的意図を考察した。
アジャリアの計路の中には、アジャール軍の総帥がカトゥマルになる時代を想定して、バラザフをカトゥマルの
バラザフの方でも、平野や砂漠での戦い方、攻城と篭城のやり方、外交面を含めた戦略など、アジャリアの脳内にある財産を総じて自分の物にしたいという
「我が愚才でアジャリア様のお考えを図るのは僭越ではありますが、バスラの南にあるズバイルを我が軍の拠点として今一度固め直すおつもりであると」
「そうだ。では、更にそれはなにゆえか」
「これらの
「バラザフよ、その心計は賞賛に値するぞ。我が意もお前の言葉通りである。つまりは、小さな拠点でも確実に手中に収めておく事が肝要となるのだ」
とアジャリアはこの戦略性を説いた。だが、二人はこうした小さな
この見込みは当たり、アジャール軍が
これを聞いてファリド・レイスの頭は大いに混乱した。これらの
「自分でアジャール軍の数を目で見てくる」
こう言い出したら最後、非妥協的になってしまうファリドは二万の将兵を大偵察部隊に動員して出動した。偵察には多くても三百人で部隊を構成すれば十分足りるのであるが、主将自らが偵察に出るとなっては、一軍そのものを偵察部隊として稼動させなければならない。
――ファリド・レイスが偵察に動いてる。
という情報がすぐバラザフに知らされた。
「それは確かなのだな、フート」
「ファリド自身が出る前に諜報を出しておりましたが、それとシルバアサシンが遭遇し、撃退する途中でその内の一人を捕縛しました。その者から出た情報です」
バラザフがそれをアジャリアに上げると、アジャリアは口に僅かに笑いを浮かべて、こう命じた。
「ファリドの小僧が自ら偵察に出たがっているのであれば、それを待ち受けて、あわよくば始末してしまおう」
アジャリアはバラザフを切り込み隊として、それにアシュール隊を付けて行かせた。後の煩わしさを今ここで消化しておけるかもしれない。だが、後の大戦に備えて強行な攻めはせぬようにと最後に加えた。
※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。
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