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2023年3月5日日曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第10章_3

  翌日、謁見の間で二人は諸将の前で正式な会見をしたが、口上は決まった物にとどめ、意識の通じ合いをお互いに目で確認したのみである。

 明日にはベイルートを発つという夜、バラザフはまたアミルの所に呼ばれた。

「今回のメフメト軍の討伐はバラザフの活躍による所が大きい。改めて礼を言いたい。そしてもう一働きしてもらいたくて今夜呼んだのだ。戦争ではないのだが、あのファリド・レイスの動きを常に見張っていてほしいのだ。アルカルジ、リヤド、マスカットに至るまで俺の目になって見張ってほしい」

 アミルの目から鋭気を注ぎ込まれたような感じを受けて、バラザフは、この言葉にただ黙って頭を下げた。

 今夜もアミルはバラザフを茶でもてなした。

 先日はアミルに自分のアマル を一方的に掘り起こされてしまったので、バラザフは今度は自分の方から問うてみたかった。

「先日、大宰相サドラザム 殿は我がアマル を指し示されましたが、大宰相サドラザム 殿もアマル をお持ちであれば是非お聞かせ願いたく存じます」

アマル か。俺も勿論アマル を持った。それもいくつもな」

「それらを悉く自分の物とされたのですか」

「いや、自分の物になったものも、自分から離れて星と化したものもある。実はな、大宰相サドラザム などという高位は一度も望んだ事は無かったのだ。知っての通り俺は平民レアラー の出で、そればかりか、日々の食い物に事欠く有様だったよ。童子トフラ の頃、空腹で眠れず夜空を見上げた事があった。丸い月がポアチャに見えてきてな……」

 昔を懐かしみアミルは柔和で少し寂しげな笑みを浮かべている。バラザフの方はポアチャと聞いてにやにやしている。いつの間にか親しみのある言葉になっていた。

「私は未来を視る眼が欲しいと幼少よりずっと思っておりました」

「だが、人の視る未来には限りがあるな」

「そうなのです。大宰相サドラザム 殿でしたら、未来を視る眼をどのようにして自分のものとされるのですか」

「そうだな。お前に札占術タリーカ で占ってもらおうか。だが、それでは俺が手に入れた事にはならないな」

 その先の答えをバラザフは渇望して待ち続けている。アジャリアが死んでから他の人間に訓告求めるのは、これが初めてである。

「未来を視る眼の更にその先を視るさ」

「そのために結局は未来を視る眼が要るのでは」

「いや、そうではない。未来を視る眼といっても結局はそれは何かのために手段だよ。家族を護るとか、戦争に勝つとか、雨雲の明日の行方を知るとか、女性の心情を掴むとかな。つまりそれらを手にする事が出来れば、未来を視る眼の更にその先を行った事になる。勿論、未来を知れた方が事は楽に運ぶだろう。だが、未来を知っても何も出来ない事だってあると俺は思うんだ」

 バラザフは、このアミルの答えに憧れだったアジャリアの道理に似たものを感じた。そしてアジャリアと似たアミルにバラザフが距離を置きたがる道理など無かった。

 アミルはもう少しだけ言葉を重ねた。

「バラザフ。男は大人になっても結局皆童子トフラ だよ。アマル を持つというのも言い換えれば童子トフラ で在り続ける事さ。だから童子トフラ で無くなってしまった人間は魅力が無く、つまらなくなってしまうのかもしれないな」

 魅力が無く、つまらない。自身がポアチャと揶揄する、その典型的な人間の顔をバラザフは想像した。

童子トフラ だからアマル を持てる。未来を視る眼でも、食べ物でも、何でもそうだ。アマル を心で指し続ける人間が、人を惹き付ける人間だと俺は思うんだ」

 アミルのこの言葉は、今口にした熱い茶と共にバラザフの中へ深く染み入っていった。この後もバラザフとアミルのやり取りは頻繁に行われるようになる。

 リヤドに帰ったバラザフを弟のレブザフが迎えた。

「サーミザフもそろそろ所帯を持つ年頃だ。嫁をもらってはどうかと、レイス様に勧められました」

「ふむ、それもそうだな」

「レイス様が、イクティフーズ・カイフ殿を自分の養女にして、サーミザフと縁組をしたいと言っているのだが、話を進めてもよろしいですか」

「イクティフーズ・カイフ殿というと、ファリド・レイスに与えられた勿体無い神の恩寵と称えられた、あのイクティフーズ・カイフの事だな」

「はい、炎の二本角飾りのカウザ の、レイス家の執事サーキン の一人の」

「いやいや、知っているさ。俺は昔一度だけ直接戦った事があるんだ。強かった。武勇勝れる武人だった」

「おお、そうでした。それで、そのカイフ家の女性がサーミザフの妻として名が挙がっているのです」

「あのカイフ殿は俺は嫌いではない。彼の娘であれば大丈夫だと思う。それにレイス殿の養女として縁組するのだから、サーミザフにとってはレイス軍の中で栄達を得たに等しい。この縁組、承知したと伝えてくれ」

 ファリドの底巧みとしては、ハウタットバニタミムの城邑アルムドゥヌ をサーミザフの預かりにしておいて、婚姻関係を以ってレイス軍に取り込んでしまおうという事なのだが、バラザフはこれをよく見抜いた上で、それもまたよしと、この婚姻を認めた。

「バラザフの長男のサーミザフが所帯を持ったか。ではムザフにも何か話を持ってきてやらないとな」

 アミルは、サーミザフの縁組の話を聞いて、ムザフにも妻帯を勧め、候補を挙げた。

「当家の重臣でアリーシの郡長官アライベイ バフラーン・ガリワウは知っているな。そのバフラーンに年の離れた妹がいるのだが、名をハーレフという。その娘はどうだ」

 バフラーン・ガリワウはアミルの片腕ハーシム・エルエトレビーの刎頸の友である。

「バフラーンに大軍を預ければ、百万といえども一人も無駄死にさせぬだろう」

 アミルにもその戦略的才能を愛され、このように賞賛されたが、惜しくも体中の皮膚が崩れていく難病にかかり、全身を包帯で覆っている。

 バラザフ、ムザフ父子共々、この結婚に素直に首を縦にふった。このようにバラザフの子、サーミザフ、ムザフが結婚するのを待っていたかのように、二人の任官をエルサレムの聖皇に推した。サーミザフは郡長官アライベイ に、監督官ダルガチ に任官された。いずれも実際の権力基盤に比して過分の出世である。

 この時期、アミルは政権に威服したオスマンオウル家の領土であるイスタンブルを拠点に、地中海を渡ってナポリまで遠征しようと考えていた。

 ナポリ遠征のための将兵が続々とイスタンブルに集結している。バラフは、サーミザフ、ムザフを伴いイスタンブルに入ったアミルを訪れた。シルバ軍総勢七万で来ている。

 アミルもすっかり老境の入っていたが、頭も言語もまだまだ明瞭である。

「シルバ軍は今回の遠征に参加しなくてもよいぞ。レイス軍もカラビヤートに内乱が起きぬよう残るように命じてある。シルバ軍も同様だ。つまりは、わかるな」

 バラザフは、シルバ軍が出兵を免れたのは、レイス軍を見張るためなのだと、アミルの真意を察した。

 世間ではアミル・アブダーラはすでに老廃していると言っているが、実際のアミルは、要点は外さないくらいには頭はしっかり働いている。

「承知しました。大宰相サドラザム 殿の命によりシルバ軍は内乱防止の任に就きます」

「頼んだぞ。シルバ殿でなければこの微妙な仕事は出来ん」

 結局、このナポリ遠征は失敗に終わり、得るものも無く将兵は引き上げてきた。対外的には益無き事で終わっただけで済んだが、内部には文官派閥と武官派閥に大きな亀裂が生じた。滅びる前のアジャール家と似たような構造になってしまったといえる。

 さらに悪いことには、アミルが体調を崩して伏せるようになると、大宰相サドラザム に任官されているアブダーラ家の跡目は一体誰になるのか、という論争が水面下で始まった。

「レイス殿がいい」

「サリド・マンスール殿のほうがいい。実力もあるしアミル様の親友だ」

「何を言う。アミル様の御子息のカマール・アブダーラ様を脇に追いやる道理がどこにある」

 と、経世論は様々に分かれ、誰が敵で誰が味方かという探り合いが始まった。こうした世の流れに注視しつつも、バラザフには内にもっと憂いがあった。

 ハウタットバニタミムの太守などを務めてきた一族の長老的存在のイフラマ・アルマライが、カーラム暦1019年に世を去ったのである。アルマライ家は、息子であるアスファトイフラムが当主となっていたが、バラザフにとって叔父であり、重臣でもあるイフラマを失った事で、心中へ走った衝撃は決して小さいものではなかったのである。

 カーラム暦1020年、病の床に居たアミル・アブダーラがついに病死する。

 アミルは死ぬ数日前から、

「ザッハークの像を……」

 と息をするのも苦しそうに繰り返して、謎めいた言葉を遺言のように残したが、周囲に侍る者達も一時は気にしたものの、日が経つにつれ、

「あれは死ぬ前の錯乱だったのだろう」

 と謎は忘却され、各人が跡目をめぐる派閥のいずれかの流れに巻き込まれていくことになる。

 バラザフによってアミルとの思い出は彼が淹れてくれた茶の味である。

「思えば、あれほど茶が美味いことはなかった」

 権力者に競り勝たんとする闘争心が湧いてくるのがバラザフである。アミルが生きているときは、いつかこいつを越えてやろうという好敵手を見るような目が無くはなかったが、彼が世を去ってしまうと、むしろ無性に懐かしく、会いたいという気持ちが募った。

 アミル亡き後、治から乱へ世界の気が蠢き出しつつある。

「今まで軍制を整えて、領土を無難に切り盛りしてきたのがここでやっと活かされる」

 アミルの病死は、バラザフにも辛いものとなってしまったが、それはそれと、風向きを見定めてこれを喜んだ。

「また世は戦乱に逆戻りだ。俺が活躍出来る舞台がきっと与えられるはずなんだ」

 バラザフは、今こそ自分も覇権争いに名を上げて、未来を視る目を活かす時だと、信じきったようだった。

 時は二年経過して、カーラム暦1022年――。この年がバラザフ・シルバ、ファリド・レイス双方によって、生き方の最も密度の濃い時間となっていく。

 アミルが世を去って数ヶ月くらい経つと、ファリドはアミルが生前に敷いておいた、王の友シャーヤール という執政組織と、その下部組織としてのカマールの友人達アスディカ・カマール の体制方針を蔑ろにする態度を鮮明にするようになった。

 ファリド・レイス、サリド・マンスール、ジャービル・ジャファリ、ザラン・ベイ、カーセム・ホシュルー。彼等が王の友シャーヤール の総代を構成し、ファリドはこの機関の筆頭的立場にある。そして、カマールの友人達アスディカ・カマール はこの上部機関の決議事項を政策化して、大宰相サドラザム となったカマール・アブダーラを、文字通り介添えするように補佐する役目を担っていて、この長官にはハーシム・エルエトレビーが就いていた。

 王の友シャーヤール の総代の中ではサリド・マンスールがアミルの生前に最も信頼されており、文官、武官全ての評判がよかったが、病に伏せて政治に参加する機会が減り、他の三人も老獪となってきたファリドに太刀打ち適わず、いわば自動的な流れでファリドが王の友シャーヤール の筆頭格になっていったのであった。

 レイス家が、アブダーラ家に同和せぬ姿勢を示すという事は、シルバ家もその社会構造に沿って二分される事を意味する。サーミザフは、ハウタットバニタミム領に自分の家臣を太守として置いて、自分はベツレヘムにレイス家が設置した政務館に勤仕するようになった。一方、ムザフはアミルの死後、自動的に近侍ハーディル の任を解かれて、リヤドに戻っていた。

 ファリドが取った体制方針を蔑ろにする態度というのは自身の派閥の形成と強化である。アブダーラ政権下において諸侯の勝手な同盟は禁止されている。にもかかわらず、ファリドは自分の机の引き出しから物を出すように、傍に居る人間に他家と婚姻同名を結ばせて、リヤド、アルカルジなどの人事の配置換えも勝手に行った。

 これらの自分を法とするファリドの手口に、ハーシム・エルエトレビーが批難の舌鋒を向けた。だが、バラザフはファリドの行動が別の狙いをもって行われていると見抜いた。

「傍若無人に振舞っても誰が言う事を聞いてくれるのか、誰が牙をむいてくるのか。そうやって敵味方を今のうちに識別しているんだ。あの苔爺の老獪さ。間違いなくアブダーラ家の後釜を狙っているぞ」 

 この頃、バラザフはファリドをポアチャと呼ばなくなっていた。若い頃の間抜けなファリドを馬鹿にしたあだ名ではなく、今の老獪さを皮肉る呼び方に変わりつつあり、鼻につくと思いながらも、彼の実力を認め始めていた。

 次男のムザフは、大宰相サドラザム アミルの近侍ハーディル として働いていたので、自身の心情はアブダーラ家寄りになっている。ムザフにしてもファリドの謀略は義憤をもって対すべき行為であった。

大宰相サドラザム の位に在ったのは他でもないアミル様だ。ファリド・レイスはその臣下の籍に過ぎないはずではないか」

 近侍ハーディル として仕えていたといっても、その実、アミルのムザフへの扱いは養子に対するそれに近く、数々の朝恩を受けていたので、アブダーラ家へ義理立てる心情が生じたのも当然のことである。

「ハーシムの奴も、さっさとファリドを倒す心を固めればいいのだ。暗殺でも夜襲でも何でもいい。ファリドの生死で、アブダーラ家の生死も決まる。もちろん生死逆にだ」

 バラザフが今、ハーシムに求めるのは、ファリドと戦争を起こすか、暗殺するかして、ファリドをこの世から排除する事である。それによって、自分が覇権を狙う舞台に立てると期待した。だが、バラザフがこのように自分の野心を彼自身、いまだにレイス軍の下部組織の構成員としてのしがらみから脱しきれていない。

 そして病に臥せっていたサリド・マンスールがついに世を去った。カーラム暦1021年、寒い季節の終わりが見え始めた頃である。ファリドの横暴を抑制出来る最実力者を失ったハーシム達の大いに落胆した。

 そして、その夜――。

 アミルの懐刀だったハーシムを危機が襲った。政敵であるファリドから襲われたのではない。アミルの生前より政権内では、文官派閥と武官派閥の折り合いの悪さが顕著になっていたが、文官派閥の筆頭であるハーシムを、武官派閥の連中が殺害を企てた。この企てに参加した武官はナミル・カリル、アドナン・ムサバハー、ガジ・タリヤニなど。追い詰められたハーシムは、仇敵であるレイス邸に助けを求めた。

「とりあえず助けて、後で使いどころを考えるか」

 門前に居るハーシムを中へ迎え入れるようファリドは家人に命じた。程なくして武官派閥の連中がレイス邸に押しかけて、ハーシムの身柄を要求するが、ファリドは柔和にもこれを拒絶し、ハーシムに対しては助命の見返りとしてベイルートからの退去を要求した。

 この経緯をアサシンがリヤドまで報告した。バラザフには、ファリドのハーシムの使い方がよく読めていた。

「ムザフ、ファリド・レイスが何故ハーシムを救ったかわかるか」

「文官派閥と武官派閥の亀裂をもっと深めるためですね」

「その通りだ。今ハーシムが死ねば、アブダーラ家は一つにまとまりファリドに牙を剥くようになるかもしれない。そうならないようにアブダーラ家の遺臣同士で争わせ弱体化を謀っているのだ」

 さらにバラザフは、ムザフにその後の経過を語って聞かせた。ファリドはハーシムを政治の中心から遠ざけた後すぐに、メッカ南部ベツレヘムに本拠を置いて、大宰相サドラザム カマール・アブダーラの補佐として自らを宰相ペルヴァーネ の位に置いた。もちろんカマールの補佐というのは建前である事は皆が周知する所であり、世間ではファリド・レイスを実際の執政者として扱うようになっていった。

 ファリドは、アブラーラ家弱体の手を緩めなかった。

「サリド・マンスールの息子サヌービルは、スタニスラフ・ザデー達と結託して、このファリド・レイスを除こうと企てた疑いあり」

 ファリドは、この偽情報を流言として流した。

 サヌービルにはこのような事実は無く、この噂は本人とっては降って湧いた災難だった。

 サヌービルは、早速ファリドに対して噂は事実無根である事を釈明して、その証として自分の母スノウバラを、ファリドの本拠地であるオマーン地方のマスカットに人質に出した。

 ベツレヘムにおいて大手を振って、あれこれと手を打つファリドは、それだけでは足りず、今度はベイルートのアミル城クァリートアミール の城郭の中に自分の拠点を造ってしまった。

「あの苔爺め。ここまで悪臭が届いてくるようだ。呆れて物も言えぬ」

 ここまでいくと戦略、策謀という言葉の範疇に収まりきらない、ファリドの個人的なわがままの域に達しているのだとバラザフは思った。実際、今のファリドは大手を振る、というより振り回している。執政の座を得るためには何でもするという感じだ。

「やはり、アマル を持っていない人間は、力を持ったときに出てくる色合いが汚すぎる。俺もアルハイラト・ジャンビアと呼ばれ、策略で鳴らしたきた口だが、あそこまで汚いやり方はできない」

 そして、すでにこの時ファリドの魔手は、さらに南へも伸び始めていた。

 カーラム暦1022年、ファリドはザラン・ベイが召喚の命に従わない事をを理由に、討伐を発会してアミル城クァリートアミール の自分の拠点に諸侯を集めた。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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2022年10月5日水曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第9章_3

  シルバ軍のメフメト軍に対する臣従は本心からではない。メフメト軍からやってきた使者に与えた答えは、

 ――不戦。

 である。

 結局バラザフは、ハイレディンが斃れた後、一滴も血を流さず回復したアルカルジを始めとするシルバ領から兵を退去させず、実効支配を続けた。メフメト軍に対する対処は、剣を向ける事はしない。それ以上でも以下でもない。

「カイロが攻勢に出たようだ」

 リヤドを拠点にカイロの情報収集にあたっていたアサシンのケルシュが、いつもどおり静かな様子を崩さずに報告にやってきた。

 十万の兵力がザラン・ベイから送り込まれて、アラーの街など、数箇所の集落を取った。現状の周辺勢力の均衡を鑑みると、リヤドの北西部が、全てベイ軍の所領になるのを止められる者は周囲にはいない。

 すでにザランからバラザフへ降伏勧告の使者が送られてきている。ハイルはもともと、シルバ軍がデアイエ軍を追い出して手に入れた所領である。ベイ軍はアラーを取った後、次の標的としてのハイルをこちらによこせと言ってきている。

 ザランは、

「従わなくば剣」

 と交渉に強い押しを見せてきた。

 メフメト軍と、ベイ軍。両者に連携は無いものの、シルバ軍は大勢力二つから挟撃を受ける形になってしまった。

 ここでもバラザフは、

 ――不戦。

 と答えた。

 臣従しているようでしていない。相手の攻撃対象にされないように言葉で相手の剣先を逸らしたに過ぎない。

「大勢力の間で揉まれるのはシルバ家の宿業だ」

 父エルザフもアジャール家との距離を調節しながら生き延びていたなと、小勢力の苦患を自身も受け止めざるを得なかった。

「何がアルハイラト・ジャンビアだ、九頭海蛇アダル の頭だ。蜥蜴の尾が切られて蠢いているだけじゃないか」

 半分やけになって自虐的な言葉を自分に投げつけるバラザフだが、リヤド、ハイルのシルバ軍をベイ軍寄りに、アルカルジのシルバ軍をメフメト軍に味方させる事で、シルバ家の滅亡を辛うじて回避させる事が出来たのである。

「このような荒波の中で、小船で乗り切るような危ない生き方をいつまでも続けたくはないな」

 アジャール家について生きていく事に疑問を持ってこなかったバラザフにとっては、今が小勢力の痛みを真に感じてしまう時であった。

 バラザフは、シルバ家の一員として迎えるべくアジャール家の遺臣をアデル・アシュールに指示した。アデルは、タウディヒヤから退去する折、シルバ家に随行してきて、アジャール家滅亡と同時に正式にシルバ軍の武官として在籍する事となった。

「アジャール家の遺臣にあたってみてわかったのですが、ファリド・レイスがハイレディンが死んだ後に、ハラドにまで出てきてメフメト軍と主導権争いをしている模様です。ファリドはアジャール家の遺臣達にしきりに接触して、レイス軍に抱え込もうとしいます」

 アデルは、アジャール家遺臣の獲得が、ファリド・レイスに先を越されていると、ほのめかす報告をした。

 アジャール家の遺臣といえば、バラザフのようにアジャリアの息吹の込められた、豪腕で規律も正しい武官ばかりである。多少の兵力差はわけもなく跳ね返してしまうような、場所を選ばずに使える者がそろっていた。

 今は野に下っているが、登用すれば大幅な戦力強化につながる事は間違いなかった。

「アデル、ポアチャの奴にだけ美味い所を持っていかれてはいかんぞ」

「ポアチャが、何か?」

「いや、何でもない。こちらも登用に躍起にならなければならない」

 アジャール家滅亡後もその遺臣達は、ほぼ全てが次の仕官口にありついていた。ファリド・レイスは九千人以上をレイス軍の戦力として獲得した。

「アジャリア家に居た頃と同じ待遇で構わない」

 とファリドは、領地と禄の保証を受け合ったため、ファリド軍への再仕官の希望者が殺到した。

 ファリドはこれらアジャール家の再仕官者から、勇者を選抜して赤い水牛、アッサールアハマルと名づけて精鋭部隊を編成した。そして、重臣のイブン・サリムの管轄としたが、その構成員の多くはワリィ・シャアバーンの部隊に所属していた生き残りの猛者達である。

 アジャール遺臣の他の再仕官先は、メフメト軍の所属になった者が千名。ベイ軍にも百名ほどが雇用された。

 バラザフも、この人材獲得合戦で二千名もの優秀な将兵を得る事が出来た。これはレイス軍よりもシルバ軍に所属したいと願った者が多かった事による。バラザフがアジャール家滅亡の瀬戸際にあって、カトゥマルを自領にて受け入れてフサイン軍に抗戦しようとして、大義を周囲に示したのが、ここで利いてきたのであった。

 新たにシルバ軍に仕官した者には両家の子息が多い。子息といってもすでに成人している次世代の若者であるが、アジャール家の執事サーキン を務めたヤッセル・ガリーや、勇将ナワフ・オワイランの子などが、さらにその家臣も連れてシルバ家の与力となった。後の活躍が期待できる武官が多数増えたのである。

 そして、リヤド周辺の諸族もバラザフをアジャール家遺臣の盟主に仰いだ。それらに抱えられていたアサシンの生き残りも雇用した。

 かねてよりバラザフは、アサシン軍団の新制を目論んでいたが、新しく軍団を形作る構成要素として彼等は重要な手札となった。

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2021年4月5日月曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第6章_1

  ファリドは、アジャール軍によって設けれた死地から何とか命を拾った。だが、これと同時にアジャール軍の方では別働隊としてナーシリーヤの東側の攻略にあたっていたワリィ・シャアバーンが、レイス軍の城邑アルムドゥヌ を間断も無い程に陥落させていった。中には城邑アルムドゥヌ が落ちるまでに僅か半刻という驚くべき速さの攻城もあった。

 加えてワリィは、近くの城邑アルムドゥヌ を陥落させ、そこに自分の兵力を分隊して支配下に置いた。アジャリアが計路としていた敵の支配域の分断が成功したのである。

 アジャリアの本隊は敵の分断のために稼動していた、アシュール隊と合流して、さらにこれにシャアバーン隊を合流させた。

「バラザフ、全軍を集結させろ。場所はナーシリーヤの西、サマーワ。わしらも移動の準備をせよ」

 相変わらずせわ しなく移動するアジャリアだったが、こうした大規模な移動が繰り返される事によって、レイス軍同士の連絡を断ち、もし偵察がいれば駆逐する事で自軍の情報を護りつつ敵を攪乱する効果が出ていた。

「サマーワを足下に置いておくことで、バグダード攻略の拠点に出来るし、後はナーシリーヤを落とせば、サマーワ、ナーシリーヤ、バスラと繋がり、リヤドまでの退路を確保出来るのだ」

 サマーワからナーシリーヤまでは東へおよそ二日の行軍、ナーシリーヤからバスラまではおよそ三日の道のりである。後はクウェートまで戻り南下すれば、リヤドまでの道は半分を消化出来た事になり、補給路も確保できて、これらを地図上で結ぶとアジャール軍の版図が大いに拡大する事がわかる。

 太守の退去という形でアジャール軍は一度サマーワの攻略に成功しているため、戦術において難は無いだろうと判断したアジャリアは力で単純に押していこうと考えたが、アブドゥルマレク・ハリティ、ワリィ・シャアバーンの二人が城邑アルムドゥヌ の包囲を上申した事により、この方法を採る事になった。

 アジャリアが慎重に城を包囲してから落とすやり方をバラザフは何度も見てきた。言い換えるとバラザフにとって包囲戦というやり方は、アジャリアの戦術であるという印象があり、ハリティ、シャアバーンという古豪の将軍らのやり方をここで見ておける良い機会だと思って、実に興味津々で見守っていた。

「枯れ井戸から横穴を掘って隣の城邑アルムドゥヌ と繋いで逃げ道を造るという方法を聞いたことがある」

「サマーワの周りにはナーシリーヤの他にも小さな城邑アルムドゥヌ がたくさんある。サマーワから抜け出た兵士がそれらから奇襲してくると我等が挟まれる事になってしまうな」

「今から全ての城邑アルムドゥヌ の井戸を調べる時間は無いな」

「サマーワを包囲する他に、奇襲を警戒して全方位に防衛線を用意しておこう」

「うむ。承知した」

 この会話を聞いていたバラザフは背筋に冷たいものが走った。若い世代の将であるバラザフはそんな事例は聞いたことが無かったし、もし、その枯れ井戸作戦を敵が実行してきていたら、危ない事になっていたであろう戦いが過去の記憶からいくつも蘇ってきていた。サイード・テミヤトなどの れた将軍が常にバラザフら若い将軍が力を遺憾無く発揮出来るよう、後方で見守っていてくれていたという事になる。戦術の面だけでもまだまだ先陣に学ぶべき事は多いと知った。

 サマーワは一ヶ月近く粘り強い防衛を見せた。この攻防を続ける間にもアジャリアは何度か相手方に降伏を促してきたが、それも無駄と知るとついに総攻撃の命令を下した。

 事ここに至り、ようやくサマーワの太守が降伏したいと言い出したので、カトゥマルを制圧隊長としてアジャール軍が城内に踏み込むと、包囲によって水と食料を絶たれたサマーワ兵等が、まさに死に際という感じで横たわっていた。

 これと同時にアジャール軍の別働隊としてサッド・モグベルがフサイン軍の要所カルバラーの攻略にかかっていた。

「バグダードにほど近いカルバラー。困難な仕事だがモグベルには何とか成功してもらいたいものだ」

 アジャリアが待つのはカルバラー攻略の吉報である。アジャリアの言葉通りカルバラーからバグダードまでは僅かに一日。フサイン軍との対決にも、また後方への退路としても獲得しておきたい城邑アルムドゥヌ である。

 バラザフ・シルバはこれまで自分の知略を他者に優るものと自負していた。この世においてもはや学ぶべき見上げるべき存在はアジャリアが唯一であると思っていた。が、先のワリィ・シャアバーンとアブドゥルマレク・ハリティの作戦というか手配り目配りを目の当たりにして、

 ――まだまだ他人に学ぶべき事は多すぎるものだ。

 と思い直した事から、今回のサッド・モグベルの戦術に興味を持って見ていた。サッド・モグベルも学ぶべき対象になったのである。

「この堅城からどうやって敵兵を引っ張り出すか。それとも策を用いて自滅さえていくのか。どちらにしても力押しで行く事は有り得ないだろうな」

 遠くからサッドの戦術を想い描いてみるバラザフだが、決め手となるものを彼の頭脳は導き出せなかった。

 その答えをサッドは意外な所から引っ張り出してきた。

 カルバラーの太守はハイレディン・フサインの臣である。覇王ハイレディンと言われる彼にとっても、アジャール軍はまだまだ恐るべき相手である。そのハイレディンが先のアジャール軍とレイス軍との戦いを見て、

 ――アジャール家に臣従する事を決意した。

 ため、カルバラーの城邑アルムドゥヌ も速やかにそれに従い開城せよ、というものであった。勿論、虚報である。

 カルバラーを調べさせていたアサシンから情報が入ってきた。

「カルバラーはハイレディン降伏の報を信じたということか」

「そのようで。いずれにしても戦いを避けるいい口実になるかと」

 同じ情報はアジャリアのもとにも上げられた。

「今回のサッド・モグベルの奇策は見事であった。カルバラーの城邑アルムドゥヌ を手に入れられた事は我が軍にとって大きい。これでレイス軍、フサイン軍を蹴散らしてやれるのう」

 カルバラーを支配下に収めたアジャール軍は城邑アルムドゥヌ を出て城壁の外で防備を固めた。バラザフのもとにはシルバアサシンから新たな情報が立て続けに入ってくる。

「レイス軍にハイレディン・フサインからの援軍三万が合流し、合わせて十万がナーシリーヤを出立」

 アジャリアはこのカルバラーでレイス軍を迎え撃つ心積もりでいる。

 ――今度こそレイス軍を逃がすまい。

 とバラザフは東の地平を睨んでいる。

 だが、三十万のアジャール軍がすでに待ち伏せていると見るや、ファリドは大慌てでナーシリーヤへ踵を返し始めた。

「またポアチャだな」

 食欲があろうとなかろうと、苛立って麺麭ポアチャ を齧っている、あるいは吐き出しているファリドの滑稽な姿をバラザフは想像していた。見苦しさもあそこまでいくと、逆に見物みもの である。

「ファリド・レイスという男はいつもアジャリア様の戦術に右往左往させられているのだな」

 ファリドの方ではフサイン家からの援軍と合わせた十万の兵を城邑アルムドゥヌ に篭城させて、

「何があっても城邑アルムドゥヌ の外に出るものか」

 と、卑屈さの色合いのある決意をしていた。

 ハイレディンの方でも、

「アジャール軍と剣を交えるのは自刎に等しい。嵐の後に晴れが来る僥倖をひたすら待て」

 とファリドに指示してきており、フサイン家の援軍の長にも、

「戦闘は不要。戦力の維持を最優先せよ」

 と守備一貫の命令をしていた。

 ナーシリーヤは、城邑アルムドゥヌ の領域の西から南東にかけてユーフラテス川が流れる。ファリドが城邑アルムドゥヌ に篭り守りの態勢に居るのであれば、川は護りの味方となるであろう。

 だが、敵はあのハイレディンですら恐れたアジャール軍三十万なのである。果たして川という味方もどれほど通用するものか――。苦い思いを身に染みさせてきた弱者にいつも付き惑う、漠然とした不安がそこにあった。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。


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2021年1月1日金曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第5章_8

  バサの城邑アルムドゥヌ の城門は全て固く閉ざされ、ファリドは一歩も動かぬ姿勢を見せた。配下の者等にもアジャール軍のいかなる陥穽にかかる事の無きよう、篭城の姿勢を守る事を厳達した。すでにその声色も恐慌の色で満ちている。

 一方、攻める方のアジャリアは余裕である。  

「ファリドの小僧、ポオチャを頬張るのも忘れて、また身体が引き締まるであろう。さて、強攻めをして怪我でもさせられてはかなわぬから、ゆっくり絞めてからハラドに帰るとするか」

 アジャリアはバサの城邑アルムドゥヌ から脱出してくる民たちを自陣で歓待して、兵士達には城壁の外からファリドを挑発させておいて、それを見物させた。

 ――ポアチャ! ポアチャ! ポアチャ!

 単純だがファリドにとってはこの上なく効果的な挑発である。

 バラザフの脳裏に浮かぶファリドは真っ赤に上気して、物を投げつけ、蹴飛ばし、大暴れしていて、実に滑稽な姿であった。思い出し笑いを配下に見られると自身が恥ずかしいので我慢はしてはいるが、どうしてもバラザフの口吻からは笑いが漏れて仕方なかった。

 笑いを堪えるのに必死だったのはバラザフだけではない。バサの城邑アルムドゥヌ の内側で、ファリドの傍に仕える家臣は、目の前に主君がいるため、先程来の惨敗を忘れたかのように、今は腹の中の笑いと必死で戦っていた。

 ファリドは――、ポアチャは持っていなかった。だが、バラザフの脳裏に出現した姿とさほど遠からぬ容態で、怒りに突き動かされ、一人の大乱闘を踏んでいた。周りの備品がどんどん破壊されてゆく。

「あの……ポアチャ、お持ちしましょうか?」

「要らぬわ! アジャリアめ、人をこけにしやがって!」

 ファリドに対してのみ通用する侮辱だけに、その効き目は大きかった。

 この頃のアルカルジに居るバラザフの父エルザフは、長男とともに城邑アルムドゥヌ の守衛に勤めながらも、周辺のまだ自分達に与力していない小さい城邑アルムドゥヌ をしっかり手中に収めていた。シルバ家のやり方らしく、力攻めせず知恵でこれを取り込む事に成功している。

 地道にアジャール家の自勢力を肥えさせてゆくシルバ家の活動は、アジャリアの信任をさらに篤くし、功労が称えられるとともに、

 ――アルカルジの近辺の諸事、随意にされたし。

 とまで言わしめたのであった。

 アジャリアのエルサレム獲得の戦略路線はほぼ固まりつつあった。

 同年、カウシーン・メフメトが没し、メフメト家ではカウシーンが遺した言葉通り、サラディン・ベイとの同盟を破棄して、アジャール家との再同盟を方針を出してきた。この事はアジャリアにとっては都合が好く、東側の戦線に配慮する必要が無くなった。盤面がアジャリアの大望を果たせる状況に整ってきていた。

 カーラム暦994年、炎節――。アジャリアが俄かに病臥した。エルサレム侵攻のための兵を動かそうとの沙汰の後の事である。

「ここ数年、食欲の無い日々が続いていたのだ。地に身体が引かれるのを感じる。横なっていても沈んでいくような感じがするのだ」

 海老クライディス の殻を盛って見せていたのも、側近と計って健やかなる自分を見せるために、芝居を演じていたのであった。健康面で不安がある事を家臣達に見せては、遠征に支障をきたす。それはまだ側近にしか知らせていない。

 バラザフは、アジャリアの体調不良はこの猛暑のせいであろうと思って見ていた。ファリド・レイスに劣らぬほどふくよかだったアジャリアの姿は、バラザフが会う度に肉が落ちているように見える。

「アジャリア様、この酷暑はご自身の身体に障ります。涼風の吹き始める頃に、また軍を編成し直しては」

 しかし、アジャリアはその意見には肯首せず、

「もう少しで食欲も元に戻りそうだ。本来ならすぐにでも出陣したい所なのだ。各部隊、荷隊カールヴァーン も含めすぐに出られるように怠り無く準備しておくように」

 と覇気の無い声で命令した。


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2019年4月25日木曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第2章_40

 結局ファリドはバラザフに確約を与えた通りに、サフワーン攻撃に入った。バスラの包囲を解いてサフワーン攻撃に遷ったあたりをバラザフはファリドの中に義理を見たが、ファリドにしてみれば、
 ――どうせバスラを落としてもすぐアジャール軍に奪われるのであれば、気色を損なわないよう今は要求を呑んでおくか。
 という気であったかもしれない。
 ファリドの半ば諦めを含んだ読みは当たった。
 リヤドに居たカトゥマルの副官アルムアウィン サッド・モグベルが自身に与えられている部隊のみでバスラを占拠した。レイス軍に包囲され枯渇していたバスラは、包囲が解かれたので補給が行き来していたのであるが、その流れに乗ってモグベル隊は容易にバスラを取れた。
 ところがその先に流れがファリドを驚かす事になった。バスラ占領でほとんど力を失っていないモグベル隊は、勢いでそのまま西のハンマール湖を舟で渡り、ファリドの拠点であるナーシリーヤ周辺の集落を攻撃し始めたのである。
 これには辛抱強いファリドも本気で怒りを顕にした。
「悪辣なアジャリアめ! 利用するだけ利用して騙したのか!」
 持っていたポアチャを投げつけ、それを盛ってあった皿を蹴飛ばし、口に含んでいた物までも吐き出して喚き、耳まで赤くなって、もはや言葉になっていない叫びを撒き散らし続けた。
 ひとしきり大立ち回りを演じた後、アジャリアに背信を責める使者を遣ったが、
「今回のナーシリーヤ攻撃はアジャリア・アジャールが一切あずかり知らぬ事。こちらでも子細を調べた後でなければ対応できぬ」
 としか返答が得られず、拠点との間にモグベル隊が刺さった事で、レイス軍は孤立する状況に置かれてしまった。
「さすがに手広くやり過ぎたか」
 ファリドからの使者が退去すると、アジャリアは周囲のワリィ・シャアバーン、アブドゥルマレク・ハリティに漏らした。
「モグベル隊はアジャリア様の指示で動いていたのですか?」
「そうだ。だが、ファリドに気付かれては、もうナーシリーヤまでは取れんな」
 勿論、ファリドにとってもアジャリアの返答など信じられるはずもなく、急いでナーシリーヤまで撤退すると、矛先をアジャール軍に向けたまま、またハイレディンに頭を下げ、カウシーン・メフメト、サラディン・ベイとの同盟関係を急速に構築していった。結局、アジャリアの口車に乗ったファリド・レイスのクェート出兵は益無き事に終わった。

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2019年4月15日月曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第2章_39

 アジャリアの下に帰ってバラザフはファリドとの調子の調わない会見を報告した。
「バラザフ、お前はファリド・レイスという人物をどう見た」
 事実報告を終えたバラザフにアジャリアは尋ねた。バラザフが言葉に詰まっていると、
「お前の単純な感想を聞きたい」
「若さに苔の生えたような男だと思います」
「それは面白い表現だ」
「はい。かのお人からは結局光を感じ取る事は出来ませんでした」
「老成していると?」
「そういった練れた器にも見えませんでした」
「本音を見せぬという事だな」
「それに……」
「まだあるのか」
「私はあいつが嫌いです」
「そうか! 嫌いか」
 正直ついでに本音を全て漏らしたバラザフの言葉に、アジャリアは呵呵大笑した。
「これは愉快。だがな――」
 ひとしきり笑ったアジャリアは、ファリド・レイスという人物をバラザフに語って聞かせた。それによれば、彼は多感な幼少期をフサイン軍、サバーハ軍の俘虜として過ごし、それらの交渉材料として物を取引するように扱われた。俘虜のファリドの生活は本来あるべき貴人のそれとはかけ離れたもので、この世の汚泥を全て被ったかのような環境下で他人に胸襟を開くという事など有り得ず、バラザフを見下したような態度も彼の過酷な生い立ちを鑑みれば、無理の無き事と言えた。
 自分が味わった苦労に比べれば、同年代の者の経験など童子トフラ とさして変わらぬという思いがあっただろう。若者の光と無縁のまま成人してしまったのは至極当然である。
 周りに人が居ないという孤独は辛い。だが本当に人が居ないという事は砂漠で遭難でもしない限り現実にはあまり有り得た事ではなく、真に辛さとなるのは、人の中に居るときの孤独。それが一人の人間の心を情け容赦なく締め付け、歪めてゆくのである。
「窮めて哀れな御方だったのですね」
 アジャール家に厚遇され城邑アルムドゥヌ まで持たせてもらっているが、バラザフも最初は人質としてハラドに送られたのである。人生の種々相を見せられた思いがして、バラザフは心ひそかに目の前のアジャリアに感謝した。
「私と会っている間、ほとんどポアチャを頬張ったままでした。そのせいか、何というか……若い割には肉付きがよろしいようで」
「ほう、ファリドがなぁ。わしが昔配下に調べさせた情報によると奴は腹の肉が割れる程、鍛錬には精を出していたようだが、変われば変わるものよ」
 そう口にしたアジャリアには少しずつ肥えてゆくファリドの心情がわかるような気がした。彼は過去の不遇を憎んでいる。そればかりか過去の自分をも憎み続けている。それで太る事で風貌を変えて過去の己を消し去るという負の克己なのではあるまいか。自分の増長的な食欲とは対になるものなのだろう。
「そうか……。分った」
 とアジャリアはバラザフを下がらせた。
 食べるという事を意識した途端、彼の胃袋は何か食わせろと強烈に自己主張を始めた。アジャール家では胃袋までが厚遇されている。

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2019年4月5日金曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第2章_38

 正直バラザフには荷が重い。何せまだまだ小隊長格の自分が主君の同盟相手に上から物を言わねばならないのである。相手の人となりが全く分らぬ上に、ファリドの出方や細かな心の機微も見落としてはならなかった。
 バラザフが面会を求めに行った時、ファリド・レイスはまだバスラを包囲している最中で、バラザフはファリドの野営陣に通された。
「すんなり分け前を寄越すまいとは思っていたが、こちらの取り分まで邪魔するというのか」
 バラザフの口上にファリドは怒った。当然の反応である。語気を抑えただけまだ辛抱強いと言える。
 バラザフとしても損な役目であるが、この瞬間二人の間に出来た大きな溝は生涯に亘って尾を引く事となった。
「なぁ、バラザフとやら。俺はバスラを取るのに忙しいのだ」
「存じております」
 ファリドは使者との会見であるにもかかわらず、ポアチャを脇に置いて齧っている。
 完全にバラザフが若造だと思ってなめてかかっている。が、ファリド自身、バラザフを侮っていい程、歳を経ているわけでは全くない。この時ファリド・レイス二十六歳、バラザフ・シルバ二十二歳である。
「どうだろうバラザフ、俺には会えなかった事にして帰ってはもらえまいか」
 正気で言っているのかとバラザフは疑った。アジャリアに嘘を報告するつもりも毛頭無いが、仮に会えなかったと言ったとして、そんな事を信じるアジャリアではない。ファリドがこちらの申し出を断ったと受け取り、レイス家はバスラ諸共アジャール軍に踏み潰されるのがおちである事は、バラザフの目から見ても簡単に分る。
 要求をいかにして飲み込ませるか思案していると、
「冗談だ。サフワーン攻撃はやっておくと伝えておいてくれ」
 と、もってまわったような承諾をファリドは返してきたのだった。
 バラザフは一応冷静に心の目を働かせ、ファリドを観察していた。だが、どうにもこの人物を掴む事がかなわない。ただ、
 ――こいつは嫌いだ。
 と率直に感じた。若者が放つ独特の光がこの男には無かった。

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