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2023年3月5日日曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第10章_3

  翌日、謁見の間で二人は諸将の前で正式な会見をしたが、口上は決まった物にとどめ、意識の通じ合いをお互いに目で確認したのみである。

 明日にはベイルートを発つという夜、バラザフはまたアミルの所に呼ばれた。

「今回のメフメト軍の討伐はバラザフの活躍による所が大きい。改めて礼を言いたい。そしてもう一働きしてもらいたくて今夜呼んだのだ。戦争ではないのだが、あのファリド・レイスの動きを常に見張っていてほしいのだ。アルカルジ、リヤド、マスカットに至るまで俺の目になって見張ってほしい」

 アミルの目から鋭気を注ぎ込まれたような感じを受けて、バラザフは、この言葉にただ黙って頭を下げた。

 今夜もアミルはバラザフを茶でもてなした。

 先日はアミルに自分のアマル を一方的に掘り起こされてしまったので、バラザフは今度は自分の方から問うてみたかった。

「先日、大宰相サドラザム 殿は我がアマル を指し示されましたが、大宰相サドラザム 殿もアマル をお持ちであれば是非お聞かせ願いたく存じます」

アマル か。俺も勿論アマル を持った。それもいくつもな」

「それらを悉く自分の物とされたのですか」

「いや、自分の物になったものも、自分から離れて星と化したものもある。実はな、大宰相サドラザム などという高位は一度も望んだ事は無かったのだ。知っての通り俺は平民レアラー の出で、そればかりか、日々の食い物に事欠く有様だったよ。童子トフラ の頃、空腹で眠れず夜空を見上げた事があった。丸い月がポアチャに見えてきてな……」

 昔を懐かしみアミルは柔和で少し寂しげな笑みを浮かべている。バラザフの方はポアチャと聞いてにやにやしている。いつの間にか親しみのある言葉になっていた。

「私は未来を視る眼が欲しいと幼少よりずっと思っておりました」

「だが、人の視る未来には限りがあるな」

「そうなのです。大宰相サドラザム 殿でしたら、未来を視る眼をどのようにして自分のものとされるのですか」

「そうだな。お前に札占術タリーカ で占ってもらおうか。だが、それでは俺が手に入れた事にはならないな」

 その先の答えをバラザフは渇望して待ち続けている。アジャリアが死んでから他の人間に訓告求めるのは、これが初めてである。

「未来を視る眼の更にその先を視るさ」

「そのために結局は未来を視る眼が要るのでは」

「いや、そうではない。未来を視る眼といっても結局はそれは何かのために手段だよ。家族を護るとか、戦争に勝つとか、雨雲の明日の行方を知るとか、女性の心情を掴むとかな。つまりそれらを手にする事が出来れば、未来を視る眼の更にその先を行った事になる。勿論、未来を知れた方が事は楽に運ぶだろう。だが、未来を知っても何も出来ない事だってあると俺は思うんだ」

 バラザフは、このアミルの答えに憧れだったアジャリアの道理に似たものを感じた。そしてアジャリアと似たアミルにバラザフが距離を置きたがる道理など無かった。

 アミルはもう少しだけ言葉を重ねた。

「バラザフ。男は大人になっても結局皆童子トフラ だよ。アマル を持つというのも言い換えれば童子トフラ で在り続ける事さ。だから童子トフラ で無くなってしまった人間は魅力が無く、つまらなくなってしまうのかもしれないな」

 魅力が無く、つまらない。自身がポアチャと揶揄する、その典型的な人間の顔をバラザフは想像した。

童子トフラ だからアマル を持てる。未来を視る眼でも、食べ物でも、何でもそうだ。アマル を心で指し続ける人間が、人を惹き付ける人間だと俺は思うんだ」

 アミルのこの言葉は、今口にした熱い茶と共にバラザフの中へ深く染み入っていった。この後もバラザフとアミルのやり取りは頻繁に行われるようになる。

 リヤドに帰ったバラザフを弟のレブザフが迎えた。

「サーミザフもそろそろ所帯を持つ年頃だ。嫁をもらってはどうかと、レイス様に勧められました」

「ふむ、それもそうだな」

「レイス様が、イクティフーズ・カイフ殿を自分の養女にして、サーミザフと縁組をしたいと言っているのだが、話を進めてもよろしいですか」

「イクティフーズ・カイフ殿というと、ファリド・レイスに与えられた勿体無い神の恩寵と称えられた、あのイクティフーズ・カイフの事だな」

「はい、炎の二本角飾りのカウザ の、レイス家の執事サーキン の一人の」

「いやいや、知っているさ。俺は昔一度だけ直接戦った事があるんだ。強かった。武勇勝れる武人だった」

「おお、そうでした。それで、そのカイフ家の女性がサーミザフの妻として名が挙がっているのです」

「あのカイフ殿は俺は嫌いではない。彼の娘であれば大丈夫だと思う。それにレイス殿の養女として縁組するのだから、サーミザフにとってはレイス軍の中で栄達を得たに等しい。この縁組、承知したと伝えてくれ」

 ファリドの底巧みとしては、ハウタットバニタミムの城邑アルムドゥヌ をサーミザフの預かりにしておいて、婚姻関係を以ってレイス軍に取り込んでしまおうという事なのだが、バラザフはこれをよく見抜いた上で、それもまたよしと、この婚姻を認めた。

「バラザフの長男のサーミザフが所帯を持ったか。ではムザフにも何か話を持ってきてやらないとな」

 アミルは、サーミザフの縁組の話を聞いて、ムザフにも妻帯を勧め、候補を挙げた。

「当家の重臣でアリーシの郡長官アライベイ バフラーン・ガリワウは知っているな。そのバフラーンに年の離れた妹がいるのだが、名をハーレフという。その娘はどうだ」

 バフラーン・ガリワウはアミルの片腕ハーシム・エルエトレビーの刎頸の友である。

「バフラーンに大軍を預ければ、百万といえども一人も無駄死にさせぬだろう」

 アミルにもその戦略的才能を愛され、このように賞賛されたが、惜しくも体中の皮膚が崩れていく難病にかかり、全身を包帯で覆っている。

 バラザフ、ムザフ父子共々、この結婚に素直に首を縦にふった。このようにバラザフの子、サーミザフ、ムザフが結婚するのを待っていたかのように、二人の任官をエルサレムの聖皇に推した。サーミザフは郡長官アライベイ に、監督官ダルガチ に任官された。いずれも実際の権力基盤に比して過分の出世である。

 この時期、アミルは政権に威服したオスマンオウル家の領土であるイスタンブルを拠点に、地中海を渡ってナポリまで遠征しようと考えていた。

 ナポリ遠征のための将兵が続々とイスタンブルに集結している。バラフは、サーミザフ、ムザフを伴いイスタンブルに入ったアミルを訪れた。シルバ軍総勢七万で来ている。

 アミルもすっかり老境の入っていたが、頭も言語もまだまだ明瞭である。

「シルバ軍は今回の遠征に参加しなくてもよいぞ。レイス軍もカラビヤートに内乱が起きぬよう残るように命じてある。シルバ軍も同様だ。つまりは、わかるな」

 バラザフは、シルバ軍が出兵を免れたのは、レイス軍を見張るためなのだと、アミルの真意を察した。

 世間ではアミル・アブダーラはすでに老廃していると言っているが、実際のアミルは、要点は外さないくらいには頭はしっかり働いている。

「承知しました。大宰相サドラザム 殿の命によりシルバ軍は内乱防止の任に就きます」

「頼んだぞ。シルバ殿でなければこの微妙な仕事は出来ん」

 結局、このナポリ遠征は失敗に終わり、得るものも無く将兵は引き上げてきた。対外的には益無き事で終わっただけで済んだが、内部には文官派閥と武官派閥に大きな亀裂が生じた。滅びる前のアジャール家と似たような構造になってしまったといえる。

 さらに悪いことには、アミルが体調を崩して伏せるようになると、大宰相サドラザム に任官されているアブダーラ家の跡目は一体誰になるのか、という論争が水面下で始まった。

「レイス殿がいい」

「サリド・マンスール殿のほうがいい。実力もあるしアミル様の親友だ」

「何を言う。アミル様の御子息のカマール・アブダーラ様を脇に追いやる道理がどこにある」

 と、経世論は様々に分かれ、誰が敵で誰が味方かという探り合いが始まった。こうした世の流れに注視しつつも、バラザフには内にもっと憂いがあった。

 ハウタットバニタミムの太守などを務めてきた一族の長老的存在のイフラマ・アルマライが、カーラム暦1019年に世を去ったのである。アルマライ家は、息子であるアスファトイフラムが当主となっていたが、バラザフにとって叔父であり、重臣でもあるイフラマを失った事で、心中へ走った衝撃は決して小さいものではなかったのである。

 カーラム暦1020年、病の床に居たアミル・アブダーラがついに病死する。

 アミルは死ぬ数日前から、

「ザッハークの像を……」

 と息をするのも苦しそうに繰り返して、謎めいた言葉を遺言のように残したが、周囲に侍る者達も一時は気にしたものの、日が経つにつれ、

「あれは死ぬ前の錯乱だったのだろう」

 と謎は忘却され、各人が跡目をめぐる派閥のいずれかの流れに巻き込まれていくことになる。

 バラザフによってアミルとの思い出は彼が淹れてくれた茶の味である。

「思えば、あれほど茶が美味いことはなかった」

 権力者に競り勝たんとする闘争心が湧いてくるのがバラザフである。アミルが生きているときは、いつかこいつを越えてやろうという好敵手を見るような目が無くはなかったが、彼が世を去ってしまうと、むしろ無性に懐かしく、会いたいという気持ちが募った。

 アミル亡き後、治から乱へ世界の気が蠢き出しつつある。

「今まで軍制を整えて、領土を無難に切り盛りしてきたのがここでやっと活かされる」

 アミルの病死は、バラザフにも辛いものとなってしまったが、それはそれと、風向きを見定めてこれを喜んだ。

「また世は戦乱に逆戻りだ。俺が活躍出来る舞台がきっと与えられるはずなんだ」

 バラザフは、今こそ自分も覇権争いに名を上げて、未来を視る目を活かす時だと、信じきったようだった。

 時は二年経過して、カーラム暦1022年――。この年がバラザフ・シルバ、ファリド・レイス双方によって、生き方の最も密度の濃い時間となっていく。

 アミルが世を去って数ヶ月くらい経つと、ファリドはアミルが生前に敷いておいた、王の友シャーヤール という執政組織と、その下部組織としてのカマールの友人達アスディカ・カマール の体制方針を蔑ろにする態度を鮮明にするようになった。

 ファリド・レイス、サリド・マンスール、ジャービル・ジャファリ、ザラン・ベイ、カーセム・ホシュルー。彼等が王の友シャーヤール の総代を構成し、ファリドはこの機関の筆頭的立場にある。そして、カマールの友人達アスディカ・カマール はこの上部機関の決議事項を政策化して、大宰相サドラザム となったカマール・アブダーラを、文字通り介添えするように補佐する役目を担っていて、この長官にはハーシム・エルエトレビーが就いていた。

 王の友シャーヤール の総代の中ではサリド・マンスールがアミルの生前に最も信頼されており、文官、武官全ての評判がよかったが、病に伏せて政治に参加する機会が減り、他の三人も老獪となってきたファリドに太刀打ち適わず、いわば自動的な流れでファリドが王の友シャーヤール の筆頭格になっていったのであった。

 レイス家が、アブダーラ家に同和せぬ姿勢を示すという事は、シルバ家もその社会構造に沿って二分される事を意味する。サーミザフは、ハウタットバニタミム領に自分の家臣を太守として置いて、自分はベツレヘムにレイス家が設置した政務館に勤仕するようになった。一方、ムザフはアミルの死後、自動的に近侍ハーディル の任を解かれて、リヤドに戻っていた。

 ファリドが取った体制方針を蔑ろにする態度というのは自身の派閥の形成と強化である。アブダーラ政権下において諸侯の勝手な同盟は禁止されている。にもかかわらず、ファリドは自分の机の引き出しから物を出すように、傍に居る人間に他家と婚姻同名を結ばせて、リヤド、アルカルジなどの人事の配置換えも勝手に行った。

 これらの自分を法とするファリドの手口に、ハーシム・エルエトレビーが批難の舌鋒を向けた。だが、バラザフはファリドの行動が別の狙いをもって行われていると見抜いた。

「傍若無人に振舞っても誰が言う事を聞いてくれるのか、誰が牙をむいてくるのか。そうやって敵味方を今のうちに識別しているんだ。あの苔爺の老獪さ。間違いなくアブダーラ家の後釜を狙っているぞ」 

 この頃、バラザフはファリドをポアチャと呼ばなくなっていた。若い頃の間抜けなファリドを馬鹿にしたあだ名ではなく、今の老獪さを皮肉る呼び方に変わりつつあり、鼻につくと思いながらも、彼の実力を認め始めていた。

 次男のムザフは、大宰相サドラザム アミルの近侍ハーディル として働いていたので、自身の心情はアブダーラ家寄りになっている。ムザフにしてもファリドの謀略は義憤をもって対すべき行為であった。

大宰相サドラザム の位に在ったのは他でもないアミル様だ。ファリド・レイスはその臣下の籍に過ぎないはずではないか」

 近侍ハーディル として仕えていたといっても、その実、アミルのムザフへの扱いは養子に対するそれに近く、数々の朝恩を受けていたので、アブダーラ家へ義理立てる心情が生じたのも当然のことである。

「ハーシムの奴も、さっさとファリドを倒す心を固めればいいのだ。暗殺でも夜襲でも何でもいい。ファリドの生死で、アブダーラ家の生死も決まる。もちろん生死逆にだ」

 バラザフが今、ハーシムに求めるのは、ファリドと戦争を起こすか、暗殺するかして、ファリドをこの世から排除する事である。それによって、自分が覇権を狙う舞台に立てると期待した。だが、バラザフがこのように自分の野心を彼自身、いまだにレイス軍の下部組織の構成員としてのしがらみから脱しきれていない。

 そして病に臥せっていたサリド・マンスールがついに世を去った。カーラム暦1021年、寒い季節の終わりが見え始めた頃である。ファリドの横暴を抑制出来る最実力者を失ったハーシム達の大いに落胆した。

 そして、その夜――。

 アミルの懐刀だったハーシムを危機が襲った。政敵であるファリドから襲われたのではない。アミルの生前より政権内では、文官派閥と武官派閥の折り合いの悪さが顕著になっていたが、文官派閥の筆頭であるハーシムを、武官派閥の連中が殺害を企てた。この企てに参加した武官はナミル・カリル、アドナン・ムサバハー、ガジ・タリヤニなど。追い詰められたハーシムは、仇敵であるレイス邸に助けを求めた。

「とりあえず助けて、後で使いどころを考えるか」

 門前に居るハーシムを中へ迎え入れるようファリドは家人に命じた。程なくして武官派閥の連中がレイス邸に押しかけて、ハーシムの身柄を要求するが、ファリドは柔和にもこれを拒絶し、ハーシムに対しては助命の見返りとしてベイルートからの退去を要求した。

 この経緯をアサシンがリヤドまで報告した。バラザフには、ファリドのハーシムの使い方がよく読めていた。

「ムザフ、ファリド・レイスが何故ハーシムを救ったかわかるか」

「文官派閥と武官派閥の亀裂をもっと深めるためですね」

「その通りだ。今ハーシムが死ねば、アブダーラ家は一つにまとまりファリドに牙を剥くようになるかもしれない。そうならないようにアブダーラ家の遺臣同士で争わせ弱体化を謀っているのだ」

 さらにバラザフは、ムザフにその後の経過を語って聞かせた。ファリドはハーシムを政治の中心から遠ざけた後すぐに、メッカ南部ベツレヘムに本拠を置いて、大宰相サドラザム カマール・アブダーラの補佐として自らを宰相ペルヴァーネ の位に置いた。もちろんカマールの補佐というのは建前である事は皆が周知する所であり、世間ではファリド・レイスを実際の執政者として扱うようになっていった。

 ファリドは、アブラーラ家弱体の手を緩めなかった。

「サリド・マンスールの息子サヌービルは、スタニスラフ・ザデー達と結託して、このファリド・レイスを除こうと企てた疑いあり」

 ファリドは、この偽情報を流言として流した。

 サヌービルにはこのような事実は無く、この噂は本人とっては降って湧いた災難だった。

 サヌービルは、早速ファリドに対して噂は事実無根である事を釈明して、その証として自分の母スノウバラを、ファリドの本拠地であるオマーン地方のマスカットに人質に出した。

 ベツレヘムにおいて大手を振って、あれこれと手を打つファリドは、それだけでは足りず、今度はベイルートのアミル城クァリートアミール の城郭の中に自分の拠点を造ってしまった。

「あの苔爺め。ここまで悪臭が届いてくるようだ。呆れて物も言えぬ」

 ここまでいくと戦略、策謀という言葉の範疇に収まりきらない、ファリドの個人的なわがままの域に達しているのだとバラザフは思った。実際、今のファリドは大手を振る、というより振り回している。執政の座を得るためには何でもするという感じだ。

「やはり、アマル を持っていない人間は、力を持ったときに出てくる色合いが汚すぎる。俺もアルハイラト・ジャンビアと呼ばれ、策略で鳴らしたきた口だが、あそこまで汚いやり方はできない」

 そして、すでにこの時ファリドの魔手は、さらに南へも伸び始めていた。

 カーラム暦1022年、ファリドはザラン・ベイが召喚の命に従わない事をを理由に、討伐を発会してアミル城クァリートアミール の自分の拠点に諸侯を集めた。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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2022年7月5日火曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第8章_4

  カーラム暦1003年冬、工夫達が、まだ城邑アルムドゥヌ の細かな手直しをしている中、カトゥマルと家臣の主だった者達がタウディヒヤに入った。

 人より野生の方がこうした環境の変化に敏感で、カトゥマルがタウディヒヤに拠点を遷したときには、水を求めて動物達が集まってきていた。無論、住民の市井の営みもすでに始まっている。

 バラザフもカトゥマルの移転に伴い、自分の家族をタウディヒヤに移り住まわせていた。奥方、サーミザフ、ムザフ、娘達、家臣、近侍ハーディル侍女ハーディマ と、バラザフの家族主従だけでも五十名がここに移転した。この時期の旅は寒い。

 移転後もバラザフは忙しくアルカルジに戻ったりして、ケルシュが集めてきた情報を受けていた。翌年、カーラム暦1004年、年頭が少し過ぎた頃である。

「ハイレディン・フサイン、ファリド・レイス連合軍が再びアジャール軍への攻勢に出る様子。これに伴ったサイード・テミヤト、ナワズ・アブラスなどアジャール家親族の者等が次々とフサイン、レイス側に裏切りを約定しているようです!」

 あまりの事、すぐに全てを信じるのは危険な情報である。が、それを裏付ける報告が、フートからもあがってきた。

「シアサカウシン・メフメト、セリムへも、ハイレディンからアジャール攻めの派兵協力要請がいっております。このメフメト軍へ宛てた手紙に書かれております。我が配下が密使より奪い取ったものです」

 バラザフがその手紙を確認すると、確かにハイレディンの封蝋が押されている。

「昔、大宰相サドラザム であるハリーフ・スィンがフサイン軍包囲網を諸侯に呼びかけた事があった。それと同じ事をハイレディンはアジャール軍にしようとしているのだ」

 今のハラドとアジャール軍を囲んでいる環境を鑑みると、どうしても悲観的な見方は避けられなかった。

「これはアジャール家の危機だ!」

 バラザフは急ぎセリム・メフメトに宛てた手紙をしたためフートに持たせた。

 中にはこのように書いてある。

「現在、メフメト軍、アジャール軍の間の同盟は決裂状態にあるが、カトゥマルがハラドを放棄した時は、カトゥマルの妻リャンカ夫人のえにし でカトゥマルとアジャール軍を援助してもらいたい。この場合、シルバ家もメフメト軍に従軍してもよい」

 カトゥマルの妻はリャンカといって、シアサカウシン・メフメトの妹である。これが政略結婚である事は明らかながら、二人の夫婦仲はよかった。

 折角の生きた縁である。これを活用せぬ手はないとバラザフは考えた。

 そしてもう一通、

「近々、フサイン、レイス連合軍が、アジャール軍に対して最終決戦を仕掛けてくるであろう。万が一アジャール軍が負けた時は、カトゥマルの夫人の縁にて夫妻をベイ家にてかくま ってもらいたい」

 という、アジャール軍の同盟相手であるザラン・ベイに向けた手紙をケルシュに持たせた。

 これもザランの妻としてカトゥマルの妹を嫁がせた縁を活かそうとしたのである。

 そしてバラザフ自身も、アジャール軍がフサイン、レイス連合軍に敗北したとしても、アルカルジ一帯の自身の勢力基盤を守りきり、カトゥマルを自領にて最後まで支援しようと心に決めている。

 すでにバラザフの中には、

 ――アジャール軍敗北。

 の後の防護策が様々に描かれていた。

「あのタウディヒヤの城邑アルムドゥヌ は、そう簡単には落とせないようには作ってはいるが……」

 自分が守将としてタウディヒヤに篭城して守ってもよいとも思っている。しかし、テミヤト、アブラスなどのアジャール家親族の者等が寝返ってしまったのは、智将バラザフにとっても不安材料としては決して小さなものではなかった。

「メスト、しばらくアルカルジの仔細を任せる。俺はこれからタウディヒヤに援軍に行かねばならない。そして――」

 バラザフは、アルカルジの執事サーキン メストに、タウディヒヤに住まわせている家族を、アルカルジに戻す場合や、カトゥマルを此処に落とす場合を考慮して、受け入れの準備をしておくように命じた。

 バグダードから五十万というフサイン・レイス連合軍が出た。カルバラー、ナジャフを経由して、恐ろしい速さでリヤドまで侵攻してきた。

 途中で剣戟の音は鳴らなかった。どの城邑アルムドゥヌ も集落もフサイン・レイス連合軍が押し寄せるやいなや降参の意を表した。この大軍相手では無理からぬ事であった。

 カトゥマルの方では本格的にハイレディンに対する前に、しなければならない戦いが幾つもあった。

 かねてよりフサイン側に寝返りを約していたナワズ・アブラスが、ここで反乱の兵を起こしたため、この鎮圧に十万の兵を編成して対応した。

 カトゥマルは、リヤド近くの小領に陣を布くも、フサイン軍の先鋒の攻撃は激しく、防ぎきれずに後退を余儀なくされた。

 初めからアジャール軍を取り巻く空気は重い。これを受けて軍議となった。

 軍議の席にサイード・テミヤトは居ない。ファヌアルクトも自領に戻っていて軍議には出てこなかった。カトゥマルを囲むように諸将が座り、軍議を取り仕切る位置にはナジャルサミキ・アシュールがいた。バラザフは、カトゥマルに面する場所に腰を下ろしている。

「タウディヒヤを死んでも守りきるか、撤退するか。皆の存念を聞きたい」

 カトゥマルが皆に尋ねると、一番先にカトゥマルの長男のシシワト・アジャールが血気を上げて叫んだ。

「タウディヒヤを死守すべし! それで死んでも構わん!」

 が、場に同調の声は上がらない。

 次にナジャルサミキ・アシュールが案を出した。

「カトゥマル様ご家族共々、我が所領へ参られたらよろしいではないか」

 これには賛成意見が出た。アシュールの所領であれば、タウディヒヤから近く、撤退した後も守りきれるだろうというのが賛成の理由であった。

 バラザフは自分が主幹として建設に携ったタウディヒヤを死んでも守りきると言い切ってくれた事に衷心ちゅうしん を揺さぶられていた。撤退となれば、せっかく自分が造ったタウディヒヤは一度も使われる事なく、敵に落ちるか破壊されてしまうのである。

 とはいえ戦略的にも篭城が上策とは思われない。シシワト、アシュール以外の口からは、これ以上案は出てこないと見て、バラザフが長い沈黙から、各将に言葉を圧すように口を開いた。

「カトゥマル様主従には我がアルカルジに来ていただくのが良く、またこちらにはその用意がある。当方とベイ軍との間でカトゥマル様への支援を交渉中であり、近くにはファヌアルクト・アジャール殿の拠点もある。アルカルジであれば五年は持ちこたえられる条件は揃っているので、ここで再興の時間を稼ぎ、メフメト軍を再度味方につけるにも光明が見え始めるであろう」

 カトゥマルの中では、バラザフの案とアシュールの案がぶつかっていた。

「バラザフ殿の言われるとおりメフメト軍との関係を修復するのであれば、メフメト軍に近いアシュール領の方がよい」

 という者がいた。

 メフメト家に近くなるという言葉で、カトゥマルは落ち延びる先をアシュール領に決めた。

 メフメト家出身の夫人を何とか無事に生き残らせたいと、夫人を思い遣って、メフメト軍に近いほうに決断したのである。だが、この後皮肉にも、人として持っていてしかるべき心に従ったカトゥマルの決断は、アジャール家存続には仇ととなった。

 軍議はこれで決まった。皆、大急ぎで引き上げの手筈を整えなくてはならない。

「カトゥマル様、どうかご無事で。私はアルカルジに帰還しハイレディンを迎え撃つ支度を致します。万が一、アシュール領が落とされた時は、アルカルジはいつでもカトゥマル様をお待ち申しております」

 皆が撤退の準備に駆け回る中、バラザフは静かにカトゥマルのもとへ寄っていって言葉を手向けた。

 バラザフのこの言葉に感涙したカトゥマルは、手を取って答えた。

「親族の者や、家伝の家臣等がアジャール軍から相次いで離反していく中で、バラザフだけは私の味方でいてくれた。戦乱の世に在る中でこれほど嬉しい存在は無かったのだ。おそらくこれが最後の別れだ、兄弟。折角造ってくれたこのタウディヒヤを一度も使うこと無く棄て行くのはとても残念だが、これも妻のためなのだ。わかってくれ……」

 バラザフもカトゥマルの手をさらに強く握り返した。

「バラザフ、家族もここから引き払うのだ。アジャール家の巻き添えにしてはならない」

 カトゥマルの言葉どおりこれが二人の間の最後の言葉となった。

 昼間でも冷え込む。冬はまだ長い。バラザフは家族と家来を連れてタウディヒヤを出た。この一行に弟のレブザフと、ブライダーの城邑アルムドゥヌ から脱出してきたアデル・アシュールという武将が加わった。ナジャルサミキ・アシュールと系譜の異なる者で、バラザフの長女を嫁にもらいシルバ家の一族となっている。

 アルカルジに戻る途上で一度軍議となった。これからの方針を一同確認しておかなければならない。

「カトゥマル様は当分の間はアシュール領に留まられる。アルカルジへ来られなかったのは残念だが、あそこなら数年は守れる。アルカルジにお迎えするのは、事態が鎮静してからでもよい。アジャール、ベイ、メフメトが連合すれば、どれだけハイレディンの勢力が肥大しようとも、この防衛線を突破する事などかなわぬ」

 かつてアジャリアが地理上に点と点を結んで面としての勢力図を構築したように、アルカルジ、カイロ、バーレーンを主軸とした大連合を想定した。

 その下地としてシルバ家の領土も拡大しておく必要があり、自勢力の拡大はアジャール家の役に立つものだと確信して、この壮図にバラザフは闘志を燃やした。だが――、

 この時すでにカトゥマルはこの世の者ではなかった。

「カトゥマル様が、戦死されました!」

 この悲報の方がバラザフ達より先にアルカルジに着いていた。

「御子息シシワト様、御夫人もともに自害されました」

 信じたくない言葉であった。

「ははは……それは虚報だ。フサイン方の間者ジャースース が嘘を流したに決まっている。そもそも、カトゥマル様はアシュール領で警護されているのに、早期に戦死に至るわけではないではないか」

「そのアシュール殿に弑逆されたのです」

「そんな馬鹿な!」

 バラザフはしばらく物が言えなかった。

 ナジャルサミキは、アジャール家親族の者ですらカトゥマルに背を向ける中、最後まで忠誠を尽くすと誓ったのである。

「乱世の人の向背は不定なのは当たり前だ。だが……。だが、しかし! ここまでの不義理が許されるのか!」

 この時ほどバラザフの中で他人に対する不信が増大した事は無かった。

「カトゥマル様の側近の連中はどうしたのだ」

「ハラドに着いた途端姿をくらます者、カトゥマル様戦死する前に居なくなる者と様々ですが、皆逃げ散った様子」

 アブラス、テミヤトが去った。アシュールも裏切った。さらにカトゥマルの傍で専横の限りを尽くしてきたと言ってもよい側近連中の脱走。

「無念であられた事だろう……」

 バラザフは、頊然ぎょくぜん としてしばらく自我を投げ放ってしまっていた。

「これで俺が思い描いていた、対ハイレディン防衛線も意味を成さなくなった。だが、今後はシルバ家存続のために自己の実力のみを信じて戦乱を生き抜かなくてはならない」

 アジャール滅亡という一大事は、バラザフに自分の知謀と実力だけが頼りなのだという思いを強くさせた。九頭海蛇アダル の巨体が突如として消え去り、頭だけが宙に浮いたが、他の頭が浮遊してゆく中、一番の頭はしぶとく生き残っていった。

 無残な結果を報告を受けただけで納得しきれなかったバラザフは、アサシン等を遣ってカトゥマルの死出の真相を調べさせた。

 カトゥマルの一団は最後に五百名程残った。これは侍女ハーディマ 等、非戦闘員も多く含まれる数なので、実際には戦える人間はもっと少なかったであろう。これをフサイン・レイス軍の二万が囲んだ。

「まことに激しい戦いだったそうです。カトゥマル様の一団は全員が戦死。対する連合軍の戦死者は三千、負傷者は四千。各調べからの照らし合わせで確かな数のようです」

 カトゥマル一団の最後の奮戦がバラザフの目に浮かんだ。それがバラザフのせめてもの救いとなった。

「カトゥマル様は、アジャリアの剣カトゥマル・アジャールとして生き切ったのだ」

 四十倍の敵に三割もの損害を与えたのだ。バラザフでなくとも、このカトゥマルの最後の奮戦を悪く言う者はいなかった。


 ――カーラム暦1004年アジャール家滅亡。カトゥマル・アジャール享年三十七歳。


 幼少の頃よりバラザフは、アジャール家、アジャリア、カトゥマルに寄り添って生きてきた。いわばアジャール家そのものがバラザフの生き方であった。それが今、消えた。

 そうしたバラザフの空虚、陰鬱を無視するかのように後ろから呼ぶ者がいた。アルカルジの執事サーキン メスト・シルバであった。

「アジャール家が滅びた今、バラザフ様はアジャール軍の武官ではなくなりました。アルカルジは勿論、旧アジャール領の領主となられたのです」

「不敬が過ぎるぞ!」

 憤ってメストに詰め寄ろうとしたが、距離を縮めずともバラザフにはメストが両目を濡らしているのがわかった。それほどまでにメストは泣いていた。

「バラザフ様にとってアジャール家がどれほど大切だったかは我々も承知しております。しかし、主家を失ったバラザフ様はご自身が独立君主になられました。そのバラザフ様に我等家臣は冥府まで随行しようと覚悟しているのです」

 陪臣である彼等は、主家であるアジャール家の者よりも、バラザフに期待する所の方が大きく、またバラザフもそれだけの器量を持ち合わせていた。

「シルバ家独立は父や兄達の悲願であった。それを俺が果たしたのだ。お前達はそう考えろと言うのだな」

 メスト達の想いをバラザフは受け取った。

 家臣等の前では感傷から抜け出した風に装ったバラザフではあったが、主家の滅亡によって実現した独立は何とも寒々しいものがある。

 アジャール家が滅亡して、シルバ家は対外的な垣根を失い、直接風雨に晒される事になる。独立するとはそういう事である。

「俺がシルバ家の当主になったときもこうだった」

 この声はすでにシルバ家独立に沸き立っている家臣達には聞こえていなかった。

 冥府まで供をする覚悟があるとメストが言ったように、バラザフも今まで以上の覚悟が必要なのだと自覚した。この者達とアルカルジ、そしてアジャール旧領を護る責任が生まれたのである。

 駱駝ジャマル の背に荷を担わせた、商人の荷隊カールヴァーン が長い列を成して、城邑アルムドゥヌ の門から出て行くのが見えた。

 時代の潮目に置かれた時、いつもバラザフは未来を視る眼が欲しいという自分のアマル を痛切に自覚する。

「人の世の未来とは人の目に見えぬ程、遠く深いものなのだな……」

 そう呟いて、そっと札占術タリーカ の札を卓の奥に押し込んで、引き出しを閉めた。

 バラザフ・シルバ三十六歳。

 季節に暖かい日が少しずつ増え始めた頃である。

※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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2019年1月29日火曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第2章_3

 アジャール家のいわば外来の将であるシルバ家が、戦功をあげる事を面白く思わぬ輩も少なからずいて、彼らは陰煞いんさつの星のような存在となったが、それでもバラザフは、
 ――殺さずして得られればなお良い。
 と言って、バラザフ達子らに、頭で勝つ事の正当さを示した。まだ父しか大人を知らぬバラザフにとって、それは智の太陽だった。
「いいですか、バラザフ」
 息子や目下の者であっても、自分の言葉を見下ろすような姿勢にエルザフはしない。
「欲するという事はつまりアマルなのです。人は欲する事を止めてはいけないし、そのための努力を止めてもいけない。知恵を絞り、そして歩み続けなさい」
「では、未来を視る眼が欲しい私はどうすれば」
「未来を常に見据える他無い。未来を視る眼が欲しいという渇望が欲する物を引き寄せるのです」
「果たしてそれで叶うものなのでしょうか……」
「叶うものなのです」
 自分でも得がたい物を欲していると自覚しいるだけに、バラザフには父の方法論があまりに簡単に聞こえた。だが、父の自分への言葉は確信に満ちている事だけはよくわかる。
 父は父で息子の中に謀将としての素養だけでなく、勇将としての面も見出していた。すなわち「欲する」という、或る方向性を持った強さがそれである。

「そうだ、バラザフ。あなたにこれを渡しておきましょう」
 バラザフが手渡されたのは札占術タリーカの札であった。
「これで或る程度の未来は見えるはずです。使い方は自分で調べて習得するように。それも欲する力を鍛える修行の一つです。それから……」
 エルザフは最後に念を押すように加えた。
「占いの結果に振り回されないように。人が築く未来とは常に占いの結果を上回るのが理です。この札占術タリーカに一切左右されなくなった時、あなたは未来を視る眼を得ている事でしょう」
「心に刻んでおきます」
 そう答え、そして頭では分かってはいるものの、これで未来を知れると思ってしまうのが子供である。否、子供でなくとも、未来を知る手段を手にしてしまうと、己が万能にでもなった気になるのが人というもので、占術とは本来、老境の者でないと使いこなせるものではない。そこで垣間見た未来とは、あくまで実現性の高い事象に過ぎないのだが、これを履行されるべき契約のように勘違いしてしまうのが占者の常である。ともあれ、バラザフは占い師を幾人か訪れ教えを請い、札占術タリーカを自ら用いる事が出来るようになった。
 父の訓示をバラザフが理解出来るようになったのは、父も兄も亡くなってからになるのだが、今はまだ札占術タリーカの習熟に重きを置いている若木である。

※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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