2024年3月5日火曜日

『アルハイラト・ジャンビア』最終章

 レイス軍は、必勝を期待して挑んだリヤド攻略戦で、類を見ないほど惨敗した。

「我等の敗北が世人に広まれば、レイス連合全体に動揺が伝播するのではないか……」

 ファルダハーンは、決戦の場に召集された連合軍の向背を案じた。

 逆にバラザフは、この戦いで自軍が大勝した事が衆口に乗れば、自軍が所属するエルエトレビー連合の士気は上がり、レイス連合に背を向けてこちらに同心してくる諸侯が後を絶たない状況になるのは必然だと思っていた。それくらいの事はしたという自信がある。

「ファルダハーンがこのまま負けを背負ったままファリドの本軍に合流する事はないだろう」

 だが、ファルダハーンに付いている知恵袋のイクティカード・カイフは、

「これ以上リヤド攻略に拘泥していては、エルエトレビーとの決戦に間に合わなくなります。我等にリヤドは取れないのです。ファリド様がマスカットを出てから、すでにかなり経っています。ルトバにファルダハーン様が来ない事に痺れを切らしているはずです」

「だが、このままシルバ軍に勝ちを与えたまま放置するのはいかがなものか」

 それではと、イクティカードはリヤド攻略に重臣を二部隊ほど残して抑えさせておき、リヤド攻略は終わっていないという事にして、ファルダハーンに行軍再開を納得させた。

 岩山の難路を往くという事になった。リヤドから離れて戦線離脱した今になっても、バラザフ・シルバがいつどこで追っ手を差し向けてくるか、それならまだよしとしても、また得体の知れない妖術の類で罠にはめられてはたまったものではない。レイス軍にとって、もはやバラザフ・シルバの戦術というものは、不可視の幻影タサルール のような認識である。

 かつてアジャリアが自分の身代わりになる者達を幻影タサルール と呼んで使っていたが、バラザフのそれは大分様子が異なる。

「リヤドで疲弊した上にこの難路か……」

 一週間も道らしい道を進む事ができず、ファルダハーンは嫌気が差していた。負け戦の後ならばなおさらである。

 バラザフの方はといえば、リヤドに四十万の大軍を一週間も足止めさせた事に十分過ぎるほどの成果を感じていた。ファルダハーンやイクティカードが懸念したとおり、

「本当はもう一段階くらいレイス軍を陥れてやりたかったが」

 と、バラザフは追撃の意欲はあったものの、自軍の寡兵ぶりを鑑みると、自身の手腕だけで突き進むわけにもいかず自制した。リヤドの周りには、未だファルダハーンの配下が陣を張って残留している。リヤドもまだ自由になったわけではないのである。

「父上の意図が全て通りましたね。レイスの兵共が流した涙を壷に貯めて量ってやりたい所です」

 先のバラザフの罵倒に影響されてか、ムザフも俄かに辛辣になった。

「そうだな。俺達が参戦できる局面はここまでだ。後はベイ軍の挙兵を期待し、アッバース軍、ラフサンジャーニー軍の旗色次第でも戦況が動くだろう。ハーシム殿にも今回のリヤドでの攻防戦を手紙で書いておいた。四十万というレイス軍の主力をリヤドに延々と足止めさせたのだから、我等の功績はエルエトレビー軍の中では決して小さなものではないと思うがな」

 戦果を実感しながらも、バラザフの頭の中では、すでに次の手を打つ事を考えている。それにはまず、

「両軍の対決がどれほど時間がかかるか」

 を読まなくてはならない。本音を言えば、どれだけ時間を掛けてくれるか、だった。対決に要する時間が延びていくほどバラザフにとっては益多き事になる。

 ――最後の勝ちはこの俺がもらうぞ。

 バラザフの中で、そうした願望は少しずつ燃焼を強めている。

 かつて、バラザフは大宰相サドラザム アミル・アブダーラに自分は未来を視る目が欲しいと打ち明け、アミルによってその見る先にある物を得る事こそ、本当のアマル だと開眼した。そして、今、そのアマル は、確実に自分の方へ近づきつつある――。

「フート、良い事を思いついたぞ。アサシンを使ってレイス軍がリヤドでシルバ軍に大敗したと、方々に言いふらさせるのだ。各勢力に使者を送るのは当然だが、それより先にベイ、アッバース、ラフサンジャーニー、そして、レイス連合、エルエトレビー連合全ての諸侯にシルバ軍の大勝利を触れ回るのだ、カラビヤート全土、いや、世界にシルバありと言わしめるのだ」

 雨の少ないこの土地に、どういうわけか日照りが少ない。夏の暑さもまだ残る中、この夜も雨が勢いを増して降り始めた。

 エルエトレビー軍がハウラーン・ワジに向かっている。アブー・カマールを出たエルエトレビー軍の兵士達は行軍の間、音を立てて降り注ぐ大粒の雨に身体を濡らした。

「このアブー・カマールを素通りするだと?」

 レイス連合がアブー・カマールに攻撃せずそのままベイルートに向かうと聞いて、アブダーラ連合の実際の統帥権を握るハーシムは、ハウラーン・ワジをレイス連合が通る辺りで食い止めようと城を出てきたのである。

 この情報はファリドが流した偽情報であり、ハウラーン・ワジで決戦に挑みたいと考えていたのは、ファリドの方である。

 決戦の場に先に到着したエルエトレビー連合は、夜が明ける前に布陣を終え、後から来たレイス連合は丘の方に拠点を布設した。

 この時すでにハーシム・エルエトレビーの所には、バラザフがリヤドの城邑アルムドゥヌ で一週間もレイス軍を足止めしたという情報がもたらされていた。

「今、レイス軍を叩けば間に合うわけだな」

 遅参しているファルダハーン軍がここまで到達しないうちに決着をつけたいと思ったのも、ハーシムにここまで軍を動かせた理由の一つである。

 フートが人選して送り込んだアサシンは当然腕のよい者達ばかりで、彼らは、

「ファルダハーン・レイス殿の軍勢がリヤドでやられた。レイス軍の主力がリヤドでシルバ軍に惨敗してしまったんだ」

 と、レイス連合の陣にもしっかり入り込んで、レイス軍リヤドで惨敗の報を方々で撒き散らした。

「四十万のうち半分がやられたという事だ。生存の各隊も負傷者ばかりかかえて、ここまで来ても足を引っ張るだけだ」

 半分事実であるだけに、この流言はレイス連合の諸侯の向背を揺るがせ始めていた。

「こんな事で、勝てるのか……」

 レイス連合の中でファリド・レイスの狼狽が最も顕著であった。すでにハウラーン・ワジで決着をつけるべく全軍に移動命令を下してしまっているのである。その直後にこの流言が厄介事となって飛び回っているのだ。

 それでも、ここに居るファリド・レイスは、若い時アジャリア・アジャールにいい様に手玉に取られて赫怒していた彼ではない。抜かり無く裏でエルエトレビー連合にも手を回し、マブフート家、サバグ、アリ等の諸侯に必死に数百通も手紙を送り続けていた。

「こいつらは必ず我に寝返る」

 そう見込んでいるからこそ、筆を持つ手に汗をも握り、力も入る。ハウラーン・ワジでレイス連合が勝つには、これらの諸侯の寝返りは必要条件であった。

 ワジという地形は間欠泉で曇りやすい。が、この朝のハウラーン・ワジには特に濃い霧が立ち込めた。

 濃霧の中、レイス連合、エルエトレビー連合、両軍が鯨波を上げて互いに激突した。

 ――この戦いは長引く。

 この戦場に居合わせた誰もがそう思っていた。しかし――。

 確かに激戦は発生した。だが、それは日が沈むまでに決着した。レイス連合が決戦に勝利したのである。

 決戦の舞台から遥か離れたリヤドで、同じ落日を見るバラザフとムザフも、この結末は予想だにしていなかった。

 フートが差し向けたシルバ・アサシンはこの戦場に十人ほど散っていて、両軍二百万の大軍がぶつかるこの決戦の顛末を見届けていた。

 ハーシム・エルエトレビーの部隊が敵陣に押し込み蹴散らした。バフラーン・ガリワウも勇戦を演じながらも押し潰されるように戦場に散った。ハーフィド・マブフートはエルエトレビー連合を裏切り、サバグ軍、アリは何故か不戦を決め込んだ。

 アサシン達は、戦況をいち早くリヤドに伝達するため、一人ずつリヤドに向かって駆けた。その報告の任に就いたアサシン達の中には、メフメト家が滅亡したした後シルバの配下となったシーフジンの生き残りの顔もあった。

 エルエトレビーの連合のカーセム・ホシュルー、アウグスティヌス・ゼンギンの軍が全滅したとき、アサシンの最後の一人が地を蹴った。このときにアリは、ファリドの陣を中央突破して戦場離脱していた。

「ハウラーンでの決戦はファリド連合の勝利!」

 リヤドの城邑アルムドゥヌ が、この報が世界で一番早く受け取った。

 バラザフがこの報により衝撃を受けたと同時に、紫電が直下した。轟音と共に落ちたそれは青い火柱となり、横に壁を成した。レイスの死霊達の燐光は、怨恨の炎の壁となり、今度はバラザフの未来を阻まんとするかのようである。

「これはレイス軍の流した虚報ではないのか。二百万だぞ。何故、そのような大軍が戦ってたった一日で決戦が終わるのだ。まったく信じられん……」

 何故こうなったのか、どこで読み間違えたのか。バラザフは頭の中に浮かぶ条件を全て整理してみようと懊悩したが、いくつもの仮定が浮かびそれらが渦のように激しく回るだけである。

「父上、ハーシム殿が惨敗したそうです……」

 馳せ込んでくると同時に報告するバラザフに、虚空に泳いでいた目をゆっくりとムザフに向けて、

「すでに聞いている」

 とだけ答えた。

「それともうひとつ」

 ムザフは、ザラン・ベイがカイロから出ず、執事サーキン のナギーブ・ハルブも主戦論を撤回し城邑アルムドゥヌ にて篭城に等しい構えを見せていると伝えた。

「結局俺は未来が視えなかった」

 ムザフは言葉に詰まり答えなかった。

「俺は未来が視えなかった。いや、見えていたのだ。あのファリドに一度、俺は皇帝インバラトゥール を見た事がある。だが、それは有り得ぬと思った。どうしても納得できなかった」

 バラザフは虚空の中に何かを見ていた。

「戦いには勝った。だが俺達は負けた。レイス軍の主力をここで足止めしてやり、あいつらは決戦には間に合わなかった。だが、それは盤面のひと隅に過ぎなかったんだ」

 そして所属母体となっているエルエトレビーの連合が敗北した。それも僅か一日の内にである。

「今や俺達も敗軍の将となったわけだ。これで中央に居座る事になるファリドから、何らかの沙汰が来るのを待つしか無くなった」

 ムザフの眼前に座る父は、ハウラーンでの顛末を聞いてから俄かに枯れて萎んでしまったかのようである。

「ですが我々は結局ファリド・レイスに、いえ、時代の奔流に勝ちました」

「うむ……?」

「兄上をレイス軍の配下に行かせた事で父上はシルバ家を存続させる事に成功しました」

「だが、それはサーミザフがファリドを好いたからだろう」

「兄上の中に居る父上が、バラザフ・シルバがそうさせたのです」

 ここでようやくバラザフの目にムザフの姿が映った。そして、諦めと満足が入り混じった笑みを口に浮かべて、そのまま瞑目した。

 ――疲れた……休みたい……。

 バラザフ・シルバは生まれて初めて考えるという事をやめた。

 一方で勝ったはずのレイスのファルダハーン軍は、決戦が起きた当日には、まだラフハーの辺りに居た。リヤドでの惨敗で将兵は疲れきっていた。士気も低い。よって行軍速度はかなり鈍いものである。

 三日後、アラーの城邑アルムドゥヌ で決戦終結の報を受けた。

「終わった!? 負けてしまったのか!?」

 なにしろ主力である肝心の自分達が決戦場に間に合わなかったのである。ファルダハーンが、こう早とちりしたのも無理からぬ事であった。

 勝利したレイス軍では、諸侯、各将に褒賞するために戦功が論じられている。そんな中、サーミザフ・シルバにとっては本当の戦いが始まっていた。彼の戦いは実に孤独極まりなく、

「我が父、バラザフ・シルバ、レイス軍に槍を向けた事、死罪も当然な罪ながら、今回このサーミザフが少しでも功有りと賞与下さるならば、父バラザフ・シルバの助命を希います」

 と、父と弟の助命を、シルバ家の風当たりの強いレイス軍の中で切に嘆願した。

 ファリドは、サーミザフの事は気に入っていたし、レイス軍の中でも彼自身の評判は悪くなく、生真面目で裏に含みの無い信に足る武人と評価されている。それでも、さすがにこの嘆願はファリドに首を立てには振らないだろうと、論功の場に居た誰もが思った。

 だが、ファリドは、驚くほどあっさり、

「サーミザフ、いやこれからはシルバ殿と呼ぶべきだな。今回の戦功は評価に値すると思う。リヤドの城邑アルムドゥヌ で我等レイス軍は散々にやられた。貴公がアラーの城邑アルムドゥヌ の陥落させて守り通したのは、我等レイス軍の中で唯一目を背けなくて済む戦功である。肉親の情に従えば、父、弟と計ってこのファリドに弓引いたとしてもおかしくはなかった。バラザフ・シルバには殺しても殺し足りぬほど、今まで煮え湯を飲まされ続けてきたが、貴公の助命嘆願を受け容れる事とする」

 と願いを聞いたが、サーミザフはすぐに愁眉を開くというわけにはいかなかった。まだ何かありそうだと、ファリドの心の動きを感得していた。

「だがな、サーミザフよ……」

 来たな、とサーミザフは覚悟した。

「リヤドにバラザフを置いておいては、このファリドの気が安らぐ事がないのは貴公にもわかるな。そこでバラザフの土地勘の利かぬ遠方へ隠棲させるというのであれば、バラザフは殺さぬ。弟のムザフも、バラザフと共にジーザーン辺りに送るように手配せよ」

「インシャラー!」

 もっと重い処断があるだろうと心痛していたサーミザフは、感涙して応を唱えた。

 急いて退去しようとするサーミザフに、ファリドは、

「待て。まだあるぞ」

 今度こそ、サーミザフは凍りついた。ジーザーンで父と兄を処刑するよう申し渡されるのだと顔を強くしか めた。

「バラザフを退去させるとリヤドが空く。そこでサーミザフ・シルバが今のアルカルジの太守の任と、リヤドを兼任する事とする。どちらかに代行を置く等、子細の人事は貴公に任せる」

 サーミザフの身体に衝撃が走った。無論、恐怖心によるそれではない。本来、サーミザフのリヤドでの功程度であれば、父と弟の助命嘆願だけ相殺されるのが妥当な処分であるため、この領地加増は過分といえる。

 バラザフがあえてサーミザフを招き入れるように、アラーの城邑アルムドゥヌ に入れておいた事で、大盤のお釣りがきたのである。

 感涙したり、肝胆を氷結されたりと、心中慌しい事この上無いサーミザフだったが、ともあれ彼の独りの戦いは終わった。

 バラザフとムザフのジーザーンへの旅が始まった。付き従う家臣は百六十名。これまで中核を占めていた重臣達はすべてサーミザフに預けて、アルカルジに残す事にした。バラザフに従う百六十名は下人に見えて、実は殆どがアサシンであった。

 明日は出立という夜、バラザフ、サーミザフ、ムザフは三人で、シャイ を楽しんでいた。

「東のアルヒンドから取り寄せたシャイ だ」

 自分で淹れたシャイ をバラザフは、二人に差し出した。

「父上はアルヒンドにまで手を出していたのですか」

 父と弟の助命嘆願の一件で一皮脱皮した感のあるサーミザフは、シャイ に口をつけながら、意外と落ち着いて父に尋ねた。

「いや、実は亡き大宰相サドラザム 殿の好意で、居城に招かれてよりシャイ を送ってもらっていたのだ。次の大宰相サドラザム 、まあ、それには十中八九ファリドが就くだろうが、奴は何か送りつけてくるかな」

「送ってくるとすればポアチャではないですかな」

「そうか。ポアチャを送ってくるか!」

 サーミザフの言葉に、バラザフもムザフも大笑いした。意表をつかれたという事もあった。いつの間に冗談に言える男になっていたのか。そんな思いである。

「俺達はレイス軍四十万をリヤドに引き付けて、そして見事に撃退した。小規模勢力といえども一大軍事力として世界中が我等シルバ軍を認識したはずだ。そして、サーミザフを諸侯に位上げするという結果も残せた。そう、結果を残したんだ」

 バラザフの言葉に、サーミザフを首を縦に振って返すしかできなかった。

「俺達はこれからジーザーンで暮らす事になる。これも奇遇の成せるわざか、実は、俺は勝ったらファリドを追放するならジーザーン辺りにしようと決めていたんだ」

 バラザフの目尻に滴がこぼれずに光っている。その皺はリヤドでの戦いの前よりも深く、黒くなったようだった。

 ジーザーンへの道すがらムザフは、

「やはり、兄上の中には父上が居ました」

 と、何気なく語りだした。

「サーミザフが諸侯の席に仲間入りした事か」

「いえ、それもありますが、出立の前夜三人で饗応した時です。父上と兄上の座る姿が実にそっくりでした」

「そうか」

 バラザフのその返事には満足とまではいかなくとも、最早、悔恨の色は残っていなかった。

 バラザフの一行は、ジーザーンの太守に挨拶を済ませ、そこでしばらく預かられてから、山の上の寺院の伽藍がらん を一部間借りする事となった。

 バラザフにとって戦いの無いジーザーンでの時は、十年が一睡のように呆気なく流れた。

 十年の流れは世から人も連れ去った。シルバアサシンの二頭だったフートもケルシュも今や冥府に籍を置いていた。

 小勢力といえども領地持ちであった頃はまだよかった。ジーザーンに来てからは暮らし向きが困窮する事もしばしばで、父子を始め、家来に至るまで飢える事もあった。

 貧しさは反面、知恵も生んだ。

 バラザフの旧知の者が、ナザールボンジュウと呼ばれるガラス製の魔除けの製法をもたらしてくれて、それをムザフが教則化し、皆で生産できるようにした。それで凌いで今日まで生きれてこれたのであった。シルバ家の「死なぬ覚悟」が二人の生きる意志を碧く形作った。

 バラザフとムザフが追放されている間に中央ではファリド・レイスが遂に大宰相サドラザム になり、政治と時代の舵を握っていた。バラザフとムザフはレイス家による政権が安定していくのを遠くから眺めながらも、世界から波乱の種がすっかり拭い去れてはいないと観測している。そのために生活を切り詰めて、蓄えを作り、密かに武器を貯蔵した。

「戦いが無くならない限り俺の出番も尽きる事はないはずだ」

 ジーザーンの生活はバラザフに着実に老いを与えている。だが心の底のアマル まで枯らしきったわけではなく、むしろそれは湧き出ずる泉のごとく確実に存在していた。世相も彼にとって絶望に尽きるものではなく、アミル城クァリートアミール では、カマール・アブダーラが幼年から成人の入り口に入りつつあり、その完成カマールを待ち焦がれる諸侯もこの時点では少なくなかったのである。

 そしてある年の寒さが緩み始める季節、急にバラザフが倒れた。病床の傍につき父を看るムザフに、

「ハーシムが除かれても、アブダーラ家とレイス家の溝は埋まるまいな」

「はい。戦火の煙がここまで漂ってくる気すらしますが、実際、本格的に戦端が開かれるまでに三年はかかるかと」

「三年か。それまで俺はもたぬな」

「生きてください父上、アルハイラト・ジャンビアが再びベイルートに現れるのをアブダーラ勢は皆心待ちにしておりましょう」

「だが、三年はさすがに無理だ。だからお前に策を授けておく」

「拝聴致します」

「アブダーラ軍とレイス軍が交戦状態なったならば、お前はまずアミル城クァリートアミール に向かうのだろう」

「然り。私は父上以上に亡き大宰相サドラザム に大恩を受けた身ゆえ」

「ならばそれを推すような策にしてやろう」

 おそらくこれがバラザフからムザフへの最初で最後の策謀伝授になろう。この父子は昔から気は絶妙に合ったものの、何かを教え、また請うという事は今まで一度も無かった。

アミル城クァリートアミール から二十万の兵をハウラーン・ワジに行かせる。わざわざレイス軍が勝利したハウラーンに行かせるんだ」

「それでファリドはシルバ軍に策謀ありと勘繰る」

「そうだ。奴等が対応策を話し合っている間に西に引き返し、山に挟まれた適当な隘路を探して、工兵、火薬、何でも使って道を封鎖しろ。一度も戦う事無くアブダーラ家古参の諸侯を味方につけろ。奴等の心が揺らいだ所をこちらに引き込むんだ」

 卒倒した時には両目の行き先がまとまらなかったバラザフだったが、戦略を講ずる時の彼はまさにアルハイラト・ジャンビアとして瞬時に蘇生し、視線にも口吻にも力が入る。

「旧エルエトレビー連合を今度は正式にアブダーラ連合として再統合するのだ。エルサレムの要所である縫目の塔ブルジュ・キヤト にも火をかけよ。そしてアミル城クァリートアミール に篭城するのだ。拠点を固めて安定したあたりで今度や夜襲に転じて敵の疲労と混乱を狙ってゆく。そこでカマール公の署名で各地のアブダーラ家の古参の諸侯に書状を送る。ハウラーン・ワジの戦いでファリドがやったようにな。それで敵方は自分の味方を信用出来なくなる。そこまでいけば後は旗色が替わるのを待つだけだ」

「要するに今度は私がハウラーン・ワジのファリドの立ち居地に立つのですね」

「そうだ。間違いなくこれでアブダーラとレイスの抗争は終息する」

 ここまで勢いよく語り終え、バラザフは長く息を漏らした。

「俺の目論見では、アブダーラ、レイス、そこにシルバが加わって鼎立抗争になるはずだったんだが、まあ……うまくいかんものだな」

「そうですね……」

「それからな」

 バラザフは先ほどまでよりさらに声を落とした。

アミル城クァリートアミール に入ったら双頭蛇ザッハーク の像を探せ」

「そこには何が」

「知らん」

「は?」

「アミル殿がそれを探せと言っていただけだ」

「私には何も」

「お前なら何か知っているだろうと思って、敵がお前の身辺を探るからだろう。だから秘密を分割して俺とお前に託したんじゃないのか。レオにも十分用心しろよ」

「レオが……まさかと思います」

「ああ、信じられるうちはしっかり信じてやれ。だが、刺客は必ずくるぞ」

「はい」

 だが、アサシンとしてはあまりに純粋無垢で、しかも弟のように可愛がっているレオ・アジャールを、ムザフはどうしても疑う気持ちになれなかった。

 夕刻、急な豪雨が降って、何事も無かったように去った。

 バラザフの容態は奇跡的に回復した。いそいそと旅支度をするバラザフを見てムザフは驚いた。

「まだ起き上がってはなりません。また倒れたらどうするのです。それに旅支度などして一体どこへ」

「ムザフ、今夜中にジーザーンを引き払うぞ。というか脱出する」

アミル城クァリートアミール に行くのですか」

「お前はな」

「では父上はどこへ」

「まだ決めてない」

「決めてないって……」

「決めてはいないが、あちこちに出没してファリドに一泡も二泡も吹かせてやるつもりだ」

 バラザフは最後に四本の諸刃短剣ジャンビア を身につけ旅装を終えた。

「最後に、レイスとアブダーラに戦端が開かれたときの事だ。あの作戦もこのバラザフ・シルバの名を以って味方が信義を持ち、敵が謀略を危惧する。だが、お前の知名度はまだまだ低い。実力は俺以上であっても、世人の認識あっての信頼なのだ。お前を若造と見て侮る者もいるだろう」

「心得ております」

「だがな、何も悪びれる必要はないぞ。世評に一喜一憂するな。俺はああは言ったがな、配下を信じてやれ。それ以上に自分自身もな。それを以って角と成し突き進むのがシルバの戦い方だ。

わかっているな、ムザフ。死なぬ覚悟だぞ。臆病になって逃亡する事ではないのだ。それがシルバの家風、いや、この俺の遺言だ」

「承りました。我等シルバ軍はその言葉を戦場まで持って行きます」

「それから――」

 と、バラザフはムザフに問うた。

「お前は未来を視る眼を欲しいと思うか」

「もちろん欲しいです。幼少の頃より欲しておりました」

「そうか、お前もそうか。俺もそうだった。未来を、先々を見通す眼が欲しかったんだ」

 喜色を帯びたバラザフの視線は俄かに遠くへ飛んだ。

「だが、結局、俺には未来を視る資格はなかったらしい」

「そんな事はありませんよ。父上のその眼が無ければ、シルバ家もそしてアジャール家ですらこの乱世の砂塵に揉み消されてしまっていたはずです」

「本当にそうであろうか」

「はい。人はいつでも波の上に居られるわけではありません。また波間から九頭海蛇アダル が出現する。そんな時代を創ろうではありませんか」

「そうだな……」

 バラザフはムザフにさっと背を向けると、颯爽とジーザーンを離れた。別れの言葉も言えずに来てしまったのは、涙とはな で濡れきった醜態を見られたくなかったからである。

 バラザフは歩いた。ひたすら歩き続け、歩くという事に没頭していた。不思議と疲れは全く感じなかった――。

 歩くだけ歩いてふと我に返ったバラザフの眼前に見覚えのある瑞々しき黄色が広がっていた。

「ここは……リヤドか」

 菜の花の黄色はあの日と同じ美しさで、バラザフを迎えた。

「ああ……。やはりリヤドの菜の花は美しい」

 遠くから訪れた風が、花の淡い香りとともにバラザフの頬をやさしく撫でる。


 ――ああ……。風が、すずしい……。


 菜の花に魅入られたバラザフはゆっくりと一歩一歩へ踏み出し、吸い込まれるように奥へ姿を消した。

 これ以降のカラビヤートに史書にバラザフ・シルバが出てくる事は二度と無かった――。

(完)

2023年7月5日水曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第11章_3

  ついにファリドはマスカットを進発した。この情報はすぐさまアサシンによってバラザフ、ムザフに報告された。

 この時点でレイス軍の八十三万の兵力は三分割された形となり、ベイ軍進攻対策としてスウィーキー・レイスに十三万、ファリドの本軍三十二万が西進し、さらにファルダハーンが三十八万を率いてリヤドへ向かいつつ、そこから迂回してルトバを目指しそこで合流する手筈となっていた。

「ファリドの奴、やはりこちらに一軍を差し向けて来たぞ。ファルダハーンの三十八万をこちらに当ててきた。今日まで整備してきた城邑アルムドゥヌ で存分に相手してやろう」

 ファリドは、目付けとして重臣のイクティカード・カイフをファルダハーンの傍に置いた。ファルダハーン・レイスはこの時二十一歳の若輩で、ファリドの心配も頷ける。心配性のファリドがファルダハーンの所へ遣った重臣はイクティカードだけでなく、スィンダ・ボクオン、タヌナド・ファイヤド、フアード・アズィーズ等、レイス軍古参の勇将達の精強な部隊をファルダハーン軍に編入して、武力強化も念入りに施した。

「我等が途上に退かずに居座るのはシルバ軍だけだ。しかも我等は三十八万の大兵を率いてきている。いくらアルハイラト・ジャンビアと知謀を畏れられたバラザフ・シルバでもまともな戦いは出来ないだろう。抗戦を示すならばリヤド、ハイルの城邑アルムドゥヌ ごと踏み潰す。従わなくば剣だ」

 すでにファルダハーンの目前には、これからのリヤドの戦いは映っておらず、手早く雑事を済ませてファリドと合流しようと余裕の笑みを見せていた。目付けであるイクティカードも、部隊担当のボクオン、ファイヤドも同じように戦況を見ていたので、ファルダハーンの余裕を若輩の油断と批難する事は出来ない。

 ファルダハーン軍の行軍は速く、すでにリヤドの城邑アルムドゥヌ の間近まで迫り、近日中には包囲を完成させそうな勢いである。

「ムザフ、レイス軍が来た。ハーシムの奴が戦勝後我等の領地の加増を保証してくれているとはいえ万が一もあるし、アミル殿の時のように他の諸侯に難癖をつけられないとも限らない。今のうちの取れる砦を自分達で取っておこう」

「それには私も同意です。丁度私も同じ事を考えていました。近くに防衛拠点が増えるとリヤドの防衛度も向上します」

「ムザフ、俺が一つでも砦を落としてこよう。まだまだ前線での腕は衰えてはいないぞ」

 そういってバラザフは、腰の諸刃短剣ジャンビア に手をかけた。成人の折、アジャリア、エドゥアルド、そして父エルザフから諸刃短剣ジャンビア を贈られて以来、バラザフの腰周りは四本の短剣で賑わっていたが、アジャリアとエドゥアルドの諸刃短剣ジャンビア は今日まで敵の血を吸った事は無かった。

「父上の武技はよく承知しておりますが、レイス軍到達まで今は時間がありません。私がすぐに砦を落としてきましょう」

 そう言って、ムザフは素早く騎乗すると、

「レオ。騎馬兵のみでいいので急いで編成して後から来てください。私は先に行っていますよ」

 レオは手早く五百騎を編成して先に行ったムザフを追った。バラザフも三百名の火砲ザッラーカ隊を編成して、レオに付けた。

「ムザフもまだまだだな。騎馬兵だけで手詰まりになったらどうするのか」

 息子や若手の僅かに詰めの甘い部分を見つけて、やはり俺が居なくてはだめだと、老兵にありがちな満足感をバラザフは感じていた。

 夜の暗闇はムザフ隊の夜襲を援けた。しかも、ムザフの方はレオ・アジャールなどのアサシンを先に行かせて、暗闇の中でも猛進出来るように先の障碍が無いか探らせて、地の利の一端を得ていた。

 ムザフの攻城策はそれだけではない。砦の中に配下を何人も潜入させておいて、要所に配されている兵士を香で無力化していた。室内で用いる場合ではないので昏睡に至らしめる事までは出来なかったが、守備兵の頭が朦朧とする状態になればそれで十分であった。

 ムザフが猛進する道には見張りの兵が居たが、彼等も皆レオ・アジャール達によって取り除かれてしまっていた。

 これらの処方でムザフは、敵の砦に至るまでに無人の道をただ突き進んできたのである。守備兵は皆、起居も意のままにならぬ有様だ。

 ムザフ隊が門前に馬を並べると、中から城門が静々と開いた。ムザフは追いついてきた火砲ザッラーカ 隊に着火させ、放火を備えさせた。

 騎兵部隊が城門から突入する。砦の兵士は千人くらい居たがどの眼もはっきりと開かず、自分達が赫々と燃えるような武具を纏った連中にすっかり取り囲まれているという事だけようやく理解は出来た。

「シルバ軍のムザフがこの砦をいただきにきた。砦も貴公等も包囲されている。手向かいするならば、火砲ザッラーカ の炎が貴公等の身を焼いて今夜の灯火と成すぞ」

 砦の兵士は皆、得物を手放した。頭は朦朧とし、手足に力も入らぬでは、とても戦うどころではなかった。

「賢明な判断だ。死なぬ覚悟を尊ばれよ」

 砦の千名の兵士達は捕虜として扱われリヤドの城邑アルムドゥヌ に送られた。そして砦には騎馬兵二百名、火砲ザッラーカ 兵三百名が守備として置かれた。

「レオ、ここは貴方に任せます。すぐに歩兵をここに編入します。予め旗に使える物を千程準備しておいてください」

 ムザフもバラザフもこの砦を活かした擬態を考えていた。

 リヤドの城邑アルムドゥヌ の城壁から外を見渡すと遠くに砂塵が巻き起こっているのが見えた。砦を奪取して次の日の事である。

「低く広く広がった砂塵だ。相当大軍の客が来たぞ」

「我等シルバ家の旗もあります。兄上の部隊も参加しているようです」

「三十八万。さすがに壮観だ。ウルクでアジャリア様が動かした兵でさえあそこまで多くはなかった。あのような大軍の指揮を執ってみたいものだ」

 大軍の総帥権を握ってみたいという思いは昔からバラザフの憧れであった。ムザフにも父のこの本音が自ずと漏尽してきて、気持ちを一つにしていた。

 リヤドの城邑アルムドゥヌ の守備兵は二万。この数で外のおよそ四十万の大軍を防ぐのである。

 一方、ファルダハーンは、リヤドの城邑アルムドゥヌ を視界に微かに認める距離で陣を布いた。

「昔、レイス軍に煮え湯を飲ませてくれたバラザフ・シルバを冥府の住人にしてやろうぞ」

 昔とは十五年前リヤド城を攻囲して、結局敗退した時の戦いの事で、その屈辱を返上してやろうとファルダハーンは、息巻いていた。

「ファルダハーン様。リヤドを攻略する事自体は容易ですが、今の我々は時を惜しまねばなりません。ファリド様の本軍との合流に遅れるわけにはいきませんから、降伏を勧める使者を遣わしましょう」

イクティカード・カイフの進言をファルダハーンは素直に容れた。その使者としてはバラザフの長男であるサーミザフが良いと、ファルダハーン軍の首脳陣は判断し、彼を遣わす事になった。

 サーミザフは射手に弓矢を浴びせられる事もなく、リヤドの門前まで馬を進めた。

「サーミザフ、レイス軍から離脱して来たのか」

「そんな訳が無いでしょう。父上がレイス軍に降伏するように使者として来たのです」

「何だ、これ俺に降伏勧告とは。まあ良い。これから軍議を開いて降伏勧告とやらを容れるかどうか決める。明日こちらから使者を出すからお前はファルダハーンの陣に戻れ」

 正直者のサーミザフは、自分が相手を偽らぬと同様に相手の言葉にも偽りが無いとして全てを肯定してしまう。まして実の父の口から出た言葉である。これに疑いを差し挟むという理屈はサーミザフには有り得ず、使者としての自分の役目は上々だと信じてファルダハーンの陣に帰った。

 だが、バラザフからの使者は来ない。

 次の日になっても、またその次の日になってもバラザフからの使者がファルダハーンの本陣に姿を現す事は無かった。バラザフには、降伏勧告を受け容れる事はおろか、律儀に返事してやるつもりも無かった。

 ファルダハーンもサーミザフの報告を受けて黙って待っていたが、使者はやって来ず、しびれを切らして自分の方から再度使者を送った。使者には二千人の部隊を付けている。

「シルバ殿、降伏するか否か」

「降伏か。するわけがないだろう」

「返答の使者を寄越すはずだったのでは」

「よいか。俺とムザフはエルエトレビー軍に付くと決めたのだ。お前等のような恥知らずと違って大義に従っている」

「我等を好き放題愚弄するにも程がありますぞ」

「さっさと帰れ。帰ってレイスの小僧に、シルバ軍にとってお前の四十万の兵力など四千と変わらぬと言ってやるがいい。十五年前、お前の父親と同じように泥を被らせてやるぞ」

 使者は真っ赤になって怒ったが黙って席を払って出て行った。怒りのやり場のない使者は、戻ってバラザフの罵倒をそのままファルダハーンに伝えてしまった。

 ファルダハーンは父ファリドからはそれほど短気の性質を受け継いでいなかったものの、これにはさすがに激怒した。冷静さが売りのイクティカード・カイフですら怒りに上気していた。

 ファルダハーンの陣に揃って馬を繋ぐ諸侯も、言葉になって出るのはシルバ軍に対する怒りばかりである。

「バラザフ・シルバ、ここで討つべし! 踏み潰してリヤドの城邑アルムドゥヌ ごと砂に埋めてしまおうぞ!」

 主戦論が大勢を占めるファルダハーンの陣の中で、一人イクティカードの頭だけが冷静さを取り戻し、沈着に進言した。

「ファルダハーン様、リヤドまでやって来てなんですが、今ここを奪取する利は薄いと存じます。包囲の兵員だけを残して、ファリド様との合流地点に向かいましょう」

 とイクティカードは老兵として目付けに付いている真価を発揮した。

「これを懸念していたから使者を怒らせておいたのだがなぁ……」

 ファルダハーンとレイス軍を挑発しておいて、リヤドの城邑アルムドゥヌ に張り付かせておこうというのがバラザフの計画だった。

 バラザフは城壁の外の耕作地、放牧地も焼き討ちに遭うだろうと想定していたので、住民を早めに城内へ退避させるなり、他の城邑アルムドゥヌ に移すなりしていた。

 結局、ファルダハーンはイクティカードの進言を容れて、総攻撃は行わない方針に決めた。

「もう一度だけ降伏勧告をしておこう。それで利かなければ包囲の兵だけ残して、本軍との合流に向かうぞ」

 バラザフのアサシンはここにも配置されていた。それで次に来る使者が最後通告であること、そしてそれが不首尾に終われば、城邑アルムドゥヌ を包囲したまま主力は決戦の舞台へ向かうとファルダハーンが方針決定したと、バラザフは使者が来る前に知り得た。

「それでは、使者にはもっとファルダハーンが怒るようにひと働きしてもらわねばなるまい」

 馬に乗って使者がこちらに向かってきているのが見えた。

「レイス軍は四十万といえども驢馬の尻尾の毛ほどの価値も無い。奴等の毛で襟巻ワシャア でも編んでやろうか。レイスは弱いがシルバは強いぞ。ウルクで負けてリヤドでも負ける。負け癖のついたレイス軍。このリヤドの兵力がいくらか知っているか。たったの二万だ。その二万に腰が引けるからお前等は降伏勧告を何度もしてくるわけだ。戦え、戦え、戦え。ファルダハーンは自分の剣で手を切るのが怖くて、剣も抜けないか」

 最早稚気とも言える罵詈雑言をありったけ浴びせた後、バラザフは、自ら火砲ザッラーカ を担いで、使者に罵倒のみならず火炎まで浴びせてしまったのだった。

 火だるまになった使者は、砂地を転げ周り消火して何とか一命は取りとめ、一目散に退却した。それをシルバ軍の兵があからさまに笑いたてた。

 これが引き金となって、リヤドの周辺の砦からも鯨波があがり、相当な数のシルバ軍の旗が各城壁に棚引いた。

「シルバ軍は寡兵だったはずでは――」

 ファルダハーンは、四十万の自軍を包囲されたような状況に呑まれてしまった。そこへ全身火傷を負った使者が戻ってきて、報告にならないような呻きでファルダハーンに何事か訴えた。

 ここまでよく自制してきたファルダハーンの辛棒が折れた。

「総攻撃だ。リヤドを踏み潰してくれる!」

 ファルダハーンは、ついにバラザフの挑発にかかってしまった。

「本陣を押し出すぞ」

 ファルダハーンは、土地勘のあるサーミザフに諮り、リヤドの城邑アルムドゥヌ が上から見える高台に陣を移すことにした。

「ムザフ。ようやくファルダハーンの小僧が意地を見せてきたぞ。砦を取っておいたのが利いてきたようだ」

 先の砦の奪取は、戦闘としての価値ではなく、少数の遣い者に連結した旗を振らせて、レイス軍に対して視覚的な圧力を加えるためのものだったのである。

 口に含んで吹き付けられた水が霧散して細かく動き回るごとく、レイス軍の動きは忙しい。バラザフの目から見えればレイス軍の将兵など水滴ほど小さなものでしかない。

「うむ。向こうでシルバ軍の旗も移動しているな。サーミザフはきっとハイルの城邑アルムドゥヌ に向かうはずだぞ」

 バラザフは、レイス軍の兵まで自分の意図通りに動かしているつもりになっていた。シルバ軍にやられやすいように、レイス軍を動かせばいいのだと、未来を視る眼に自信を越えた確信を持っている。

「レイス軍はまず周辺の城邑アルムドゥヌ と砦を攻略してから、このリヤドの備えを削ぎ落として、全軍攻撃の命令を出してくると思うが、ムザフの見立てはどうか」

「兄上の動向を鑑みるに、父上の読みどおりになるかと」

「うむ。ムザフ、お前はここを抜けてアルカルジを押さえに行ってくれマスカットへ少しでも近くなるほうが、ファルダハーンの小僧を圧迫出来る。それとハイルの方にはレオ・アジャールを派遣して適当に敵の相手をしたら拠点を放棄して離脱させろ。サーミザフにそのままハイルを取らせればいい」

 あれだけ念入りに改修して産業まで興したハイルをバラザフは放棄するという。ハイルが陥落すれば、おそらくそのままサーミザフの預かりとなり、サーミザフは守備隊としてそこに留められるはずである。そのように事が動いてくれればシルバ家の家族同士で斬り合いする必要は生じない。

 バラザフの先を視る眼は、戦いに競り勝つ事のみならず、大局眼で戦術ではなく戦略を視ていた。

 ムザフがリヤドを出てその日の夕刻、偵察の者から報告が入ってきた。タヌナド・ファイヤドがムザフに押さえに行かせた砦に向かっている。三万の部隊を編成しているという。

 そして、ハイル方面の報告も、レオ・アジャールが計画通り城邑アルムドゥヌ を放棄して退却の最中であると伝えてきた。

 さらに、各方面の砦にボクオン隊二万等、レイス軍から別働隊が編成され本隊から分散しているとの情報があがってきた。無論、バラザフの想定からは少しも逸脱するものは無く、間者の入れ替わりの報告も確認程度でしかない。

 これら一つ一つの対応にも全く焦りが無い。やるべき事は予め決めていた。配下には作戦実行の最終確認だけすればいい。

 ムザフの相手をさせられたレイス軍はいつもどおり苦戦していた。このときのムザフの戦術は、高所から岩を転がしたり、城壁から石を投げたり、火砲ザッラーカ で一斉に炎を浴びせたりと、ファイヤド隊をシルバ軍らしく苦しめた。

 今回の戦いで視覚効果は彼等の手札となったようで、砦全体にシルバ軍の旗を立てて、拡声器で礼拝合図アザーン ではなく吶喊を敵に浴びせた。砦全体にシルバ軍の威圧が響く。

 耳も目も敵の威圧に屈してしまったように、ファイヤド隊の動きは目に見えて鈍った。すでに三分の一程も戦力を失ってしまっている事もある。

 ムザフは火砲ザッラーカ を放射させて、砦から出た。だが、もう敵を狙う必要はない。この方面の防衛線はこれにて締めである。そして、砦の守備を実際に解除してリヤドの城邑アルムドゥヌ に急いで帰還した。

 別方面の砦、すなわちボクオン隊等のレイス軍の別働隊が向かっているシルバ軍の各拠点に、二千人の兵力を配置してある。高低差があるのが特徴で、いたるところに落石が仕掛けられ、穴に落ちれば、これまた槍が林立していて命を拾う事は難しい。

 規模は大きくない砦であるため、大略を考えれば放置しておいてもよく、また奪取したとて彩のある収益は見込めない。それでもレイス軍はリヤドの城邑アルムドゥヌ のために周りを削ぐのだと躍起になり、案の定、穴に落ちて槍で身を刺し貫かれる事になった。

 レイス軍も正攻法で砦は落ちぬと理解したのか、夜襲をかけて攻略をはかるも、夜間の見張りに少しでも人が見つかると、火砲ザッラーカ から一気に炎が噴き出されて近づく事すら容易ではない。

 リヤドと周辺の砦を巻き込んだ多方面攻防戦は、ここまでで一日。どう見てもレイス軍が負けている。バラザフの目論見通りに全てが動いていた。

 レイス軍古参であるイクティカード・カイフは、ファリド・レイスの若く拙い時代からレイス家を支えてきただけあって、シルバ軍の出方に頭を抱えてしまうような事は無いものの、ここまで上手くいかないとやはり面白くはない。

 彼が表に渋面を作りながら次に目を付けたのは、畑――である。

 短い雨の季節が終わろうとしている。リヤドの城邑アルムドゥヌ の外にも、収穫時期を迎えた穀類がよく実っていた。麦の穂は昨日までの雨の雫を朝陽に照らして輝いている。

「畑の作物を手短に刈り取ってしまえ。残りは良い頃合で火をつけて畑を焼いてしまうのだ。さすがのシルバ軍でも慌てて城壁から出て止めに来るに違いないから、その時に打撃を与えればよい」

 古来、攻城戦で畑を焼いて敵の食料を断つという手はしばしば行われてきた。だが、これすらもバラザフは見透かしていた。

 レイス軍は歩兵が一時帰農したような格好で畑に足を踏み入れた。シルバ軍をおびき出す目的ではあるのだが、目の前の黄金色に実る麦は、刈り取れば我が物にしてよいとイクティカードから許されているので兵士達の顔色は明るい。そして、その後ろの方に城外に出てくるシルバ軍を包囲殲滅するための五万の軍隊が息を潜めていた。

 ついにリヤドの正面の門が開いた。間をおかず火砲ザッラーカ が出てきて全体放火を何度も仕掛けた。

「頭の方を狙え。畑を出来るだけ燃やさないようにしろよ」

 収穫に頭がいっぱいだったレイスの帰農兵達は伏せる間もないまま大火傷を負った。雨後の晴天がバラザフのこの作戦に味方している。

 バラザフの奇策はこれで終わらない。騎馬兵が五百程城外に突出して槍を振り回した。

「仕留めずともよい。帰農兵を薙いで威圧したらすぐに城内駆け込んで来るんだ。残りは俺達でやる」

 バラザフは赤い水牛、アッサールアハマル隊をレオ・アジャールに指揮させて繰り出した。

「今回は囮ですね。敵の刃を掠らせもしませんよ」

 門から突進してきたアッサールアハマル隊に度肝を抜かれたレイス軍だが、この騎馬兵の数が少ないと見るや、五万の大兵で圧殺出来ると見込んで押し返してきた。

「敵が出てくるのはこちらの計画通りなのだ。シルバ軍を一人も帰すなよ!」

 だが、アッサールアハマル隊は、レイスの帰農兵の鼻先までの距離に来て、手綱を引いて素早く迂回した。これにレイス軍は食いついてしまった。敵にようやく接触出来たのだ。この機を逃すまいとレイス軍は意気を揚げてアッサールアハマル隊の背中を追いかけていた。

「いかん。またバラザフの罠だ。追ってはいかん!」

 イクティカードは自軍の突進を大声で制止したが、シルバ軍の粘り強い反攻に昨日まで抑圧されてきたレイス軍の追撃は止まらなかった。要らない所でこれ以上無いくらいに士気が上がってしまったのである。

 リヤドの城邑アルムドゥヌ の門が緩やかに閉められていく。アッサールアハマル隊を率いたレオ・アジャールは最後までレイス軍を振り切ったのである。

 普段、士気の上がりにくいレイス軍も、闘争心に火がつくと命じられもしないのに自分から城壁を登りにかかった。城壁の上ではすでに火砲ザッラーカ が煙を立ち上らせて数百ほど待ち構えている。

 火砲ザッラーカ から炎が噴き出され城壁に殺到していたレイス軍の兵士達は多くが黒こげになり、残りは上方からの落石攻撃で下に落とされた。

 まずは足の速い少数部隊で敵を突いておいて、それを追撃にかかった敵を誘引して、まとめて倒すのはバラザフ・シルバの勝ち方の一つの型である。

「十五年くらいこのやり方でレイス軍に当たっているが、誰もこれに気付かないのだろうか」

 学ばない者は未来が見えないし読めない。同じ事を組織的に繰り返すレイス軍の無能の態に、バラザフの心中は憐憫と侮蔑であい半ばした。

 だが、レイス軍の中にもこの学習能力の無さを自覚した者が一人だけ居た。バラザフの罠に気付いていち早く制止をかけたイクティカード・カイフである。

「またバラザフにしてやられたではないか」

 人は集団に成ると慎重さを欠く。冷静さも無くなる。

 自分達が大軍であるゆえ負ける事は無いのだという感覚が、繰り返し土を嘗めさせられてもシルバ軍を過小評価してしまう。言葉としてではなく、感覚として自分達の中に存在する故、自覚出来ないのである。

 バラザフの放火に味方した晴天は、また雲の帳に隠れた。

「偵察に行くぞ。五百騎位連れていこうと思うが、お前もどうだ」

 バラザフはムザフに問うたが、答えは聞かなくても分かっている。

「行きましょう。愉快な事になりそうです」

 この二人の意見が食い違う事は滅多になかった。ムザフの方でもバラザフが次に何を言い出すのか大概知っていた。

「レオ。また火砲ザッラーカ を城壁に準備させておいてください。そして、敵がいつ来ても撃てるように常に着火を」

 バラザフは偵察と言ってもただ行って見て帰ってくるつもりはなく、実際に剣を交えて相手の強さを探ってやろうと思っている。五百騎を連れた二人が門の外に出る。

 アッサールアハマルの赤い行軍は、レイス軍の本陣からも見えた。それはよく目立つ。

「我がバラザフ・シルバを仕留めてくれよう」

 ファルダハーンは自ら火砲ザッラーカ を担いでバラザフのアッサールアハマルの隊を追いかけた。挑発に乗りやすいのがレイス家の血なのかもしれない。旗下の部隊も同様に火砲ザッラーカ を携えてファルダハーンを追うしかない。

 ファルダハーンを筆頭に五百の火砲ザッラーカ が火を噴いた。本営以外のレイスの部隊からも遅れて放火される。

 バラザフは、馬を退かせてそのまま反転した。ムザフはバラザフの部隊の最後尾で追撃の敵を槍で薙ぎ払い、突き倒して着実に撤退している。

 リヤドの門に馳せ込んだバラザフは、レオに頃合を知らせた。ムザフは、レイス軍がしっかり追って来るように距離を開けすぎず、わざわざ戻っては敵中を掻き回して、また退くという事をやった。

 昨日と同じ、というより数十年来の愚をレイス軍はまたやろうとしている。彼等はシルバ軍の罠に気付かず、追って来て、気付いた時にはリヤドの城壁が目の前にあった。

「またやられた!」

 兵の中の誰かが叫んだ。だが、それは余りに遅すぎた。

 リヤドの門が開くと中から現れたのは三百人の一隊とした火砲ザッラーカ が三隊である。レイス軍は一斉放火にただ焼かれるしかなかった。

 煙が風で吹き払われると、全身火傷を負ったレイスの兵達が転げ回る姿が露になった。死傷者は数百名と見える。

 さらに先ほど城内に収容したアッサールアハマル隊も出た。煉獄の中に命を繋いだレイス軍の兵士も、結局、アッサールアハマルの槍に貫かれて、拾いかけた命も瞬時に奪われていった。

 さらにバラザフは締めも厳しい。槍を持った歩兵が出撃して徹底的に生存者を潰していった。

「ムザフ、五千はやったと思うが、どうだろうか」

「昨日の戦果も併せると二万以上になります。短期でこれほどの戦果を上げるなど、我等シルバ軍でなくては不可能な事ですよ」

 ファルダハーンは若き日のファリドさながらに、自陣の物を所構わず蹴散らして大立ち回りを踏んだ。ポアチャが口に含まれていないのが不自然なほどそっくりであった。

「イクティカード、明日は総攻めするぞ! これ以上止めるなよ」

「総攻めはいけません。たとえ成功しても引き上げるのに時間がかかって集合に間に合うわけがありません。ファリド様はもうルトバに到着してお待ちのはずです」

 イクティカードが淡々と正論を述べるだけ、ファルダハーンにはイクティカードが自分の意思を汲まず軽んじていると感じられて、角も生えんばかりの勢いである。

「そろそろファルダハーンの小僧も堪え切れずに総攻撃に踏み切るはずだ」

 明日には来るはずだとバラザフは確信している。自分でやっておきながら可哀想になるくらいファルダハーンを愚弄してきた。

「これで怒らずに居られたら余程大物だろうさ」

「イクティカード・カイフとファルダハーンの身分が逆なら大変な事になっていました」

「ムザフ、川の上流で水を止めてから油を流せ」

「川を炎の壁に変えるのですね。他の砦の差配はどうします」

「今、ケルシュが向かっている。アサシンだけで部隊編成をして、別に稼動させる」

 次の日、最初に城門から出てきたのはムザフの武具を装備した、レオ・アジャールである。

 かつてアジャリアが替わり蓑として自分とよく似た人物を幻影タサルール として用いたように、レオもムザフという役を上手に演じた。

 これに対して、連日手ひどくやられたレイス軍は、これには手を出さず切歯扼腕してこれを見つめている。

「まずはレイス軍は様子見だろうな」

 これもバラザフの読みにしっかりと入っていた。

「レオ、今日のレイスはいつもと違うレイスだ。無闇に突っ込んではこないだろうから、そこを利用しろ。こちらから正面を突いても用心し過ぎて反撃すらしてこないはずだ。だからファルダハーンに飛び切りの罵倒を与えて、砂を掴んで兵等の顔に撒いてやれ。それでまた怒り出せば上々だ」

 まるで敵将であるバラザフに命じられたかのようにレイス軍の兵士はじっと身構えて反撃もしてこない。レオもバラザフの示した手順の通りに罵倒し、砂をかけた。

 ファルダハーンも罵倒までは何とか堪えたものの、麾下の兵士が顔面に砂をかけられて、顔をしかめて耐えているのを見て、眉一つ動かさぬまま彼の脳は最高に怒張した。

「やる――」

 この一言でレイス軍が再び攻撃に転じた。が、レイス軍の動きはファルダハーンよりも前のめりで、一隊が火砲ザッラーカ 仕掛け、しかもレオの率いるシルバ軍の後を追った。

「出ていいなら我等も出るぞ」

 スィンダ・ボクオン、フアード・アズィーズ等の部隊が先に行った一隊を追う形になった。

 レオは、上手く後ろに続くレイス軍を掃いながら、リヤドまで下がって来ている。だが、追撃のレイス軍は大軍である。この後退でシルバ軍にも戦死者が出た。

 今まで空を切るような戦いを強いられてきたレイス軍も、今回ばかりは良い感触を得たらしく、勢いはさらに勝って追撃はとまらない。

 シルバ軍にとってこの後退は筋書き通りであるが、士気の上がったレイス軍の切先は鋭い。レオはもう後ろを振り返らず、真っ直ぐリヤドの城門へ馳せた。

 かつてアラーの城邑アルムドゥヌ の大改築を行い、それ以前にはカトゥマルの頼みでアジャール家最後の砦のタウディヒヤの建築を主幹したバラザフである。当然、リヤドにも色々な仕掛けをしてある。

 まず城邑アルムドゥヌ の中は迷路になっている。敵兵が迷い込むと同じ所を何度も周回したり、あるいは螺旋状の道に迷い込むと奥で詰まってしまい、部隊全体が進退窮まるように作ってあった。通行を妨げる柵もやたら多い。

 リヤドに駆け込んだレイス軍の兵士達はまたもや堪えなければならなかった。おそらく中央にバラザフ等は居ると思われるのだが、目指す先が見えているのに道に沿って巡らされるばかりで、一行に核心に至る事は出来ない。バラザフの方でもただレイス軍の兵士にリヤドを散策させるつもりなどなく、あちこちに少数の兵を潜ませておいて、上から矢が放ち横から槍で腹を衝かせた。

 それでもレイス軍の兵士は苦難の道程を進まねばならない。そして、その苦難の末ようやく内側の城門の前まで来れたのに、城壁からの落石、投石に見舞われた。最早定番となったシルバ軍の勝ちの型であり、すなわちレイス軍にとっては負けの型であった。攻城に挑んだレイス軍の兵士はここでほぼ全滅した。

「これ以上傷口を拡げるわけにはいかん。すぐに下がるぞ」

 レイス軍の将の口から撤退が出ると今度は、開門して中からシルバ軍が追撃にかかった。レイス軍は前後の敵味方でつか えて完全に進退窮まっている。

 先も後も詰まったといってもレイス軍が大軍である事には変わりなく、犠牲の出た上にもそれらを越してシルバ軍へ押し寄せてきた。城門の下の濠に落ちた者も這い上がって城壁を登ろうとしている。

「油の臭いがする――」

 レイス軍の兵の一人がそう気付いたとき、火の川が彼等を一瞬の内に呑み込んだ。ムザフが先にせき止めておいた川に砂漠に漏れ出ている黒い油を流し込んでいたのだった。川だった場所は今燃え上がり炎の壁となっている。

 リヤドの城兵もこの炎の川を最初から心得ていて、炎が迫る前に焼かれない場所へそれぞれ立脚した。

 炎の川に包まれてリヤドは炎の城になった。確かに炎の壁が出来た事によってレイス軍を寄せ付けぬ防御となるのだが、これでは自分で自分の城を火攻めしているに等しい。だが、そこは心計の深いバラザフらしく、上流から流す油を適度に加減して、城邑アルムドゥヌ や、商人宅、民家に燃え移る前に油が燃え尽きるようにしてあった。そして、その油が燃え尽きたあたりで再び川のせき を切って消火する手筈になっている。

 レイス軍の兵士にもこの火攻めで生き残った者も大勢いた。何しろ大軍であるから、確率的に生き残れる者もそれだけ多くなる。火の手が弱まり、生存者が再び城壁をよじ登ろうとしたとき――。

 濠を流すように大水が横から押し寄せた。水ばかりでなく、大岩、巨木までもが含まれた濁流である。当然、レイス軍は恐慌状態に陥った。今度こそ逃げ場がない。

 それでも運あって命を拾える者はいたが、そこに炎の壁作戦を終えたムザフ隊が戻ってきて、稀有の幸運も一瞬で摘み取られてしまった。レイス軍の背後には別働隊として分隊しておいたケルシュの部隊が挟撃に加わって一方的な殺戮を演じた。

 一方でレイス軍の後詰や本軍でもこれらの一連は信じられない光景として映った。意気揚々と攻城をしかけていたのが、一転、殲滅される側に立たされた。

 リヤドの城邑アルムドゥヌ の中にも周りにも濠がある事はわかっていた。濠を越えるのに難があれば、早めに引き上げの指示を出そうと決めていたが、兵達は意気が上がって城壁を登ろうとしている。

 今度こそ、シルバ軍に勝ったと思った。

 だが、濠から一瞬で炎の壁が出現し、兵等を焼いて消え去ったかと思えば、今度は大水が押し寄せてきて、生存者を押し流し、あるいは水底へ誘う。

 救援に行こうにも大水で遮られて最前線に寄り付く事も出来ない。いきなり出現した川の向こうで、味方がバラザフ、ムザフが指揮するシルバ軍の強兵に一方的に殺されていく。ただ、それを傍観している他ないのである。

 レイス軍からハイルの守備を任され、その場で暫定的な太守になったサーミザフからも、これらの様子はよく見えていた。驚きのあまり見開く両目に、父バラザフの戦い方が凄絶に映った。

「情け容赦ない……それしか言葉が出ない」

 そう漏らしながら、サーミザフには一つ気付いた事があった。それはこのハイルの城邑アルムドゥヌ を父バラザフが無抵抗で自分に譲ってくれたという事である。同時に、その意味する所も理解した。

「レイス家の者同士が剣を交えなくても済むように。父上は私と部下をこのハイルに入れて命を拾わせたのだな……」

 このリヤドへの攻城戦だけで、レイス軍の戦死者は四万にのぼった。バラザフの配慮が無ければ、この中にサーミザフの主従も含まれてもおかしくはなかった。

「それぞれの部隊が勝手に押し出したのは明らかな軍律違反なのだぞ」

 それでなくとも、ここに来てから負けを重ねてしまっているのである。イクティカード・カイフは、諸将の責任問題をきつく言及した。この落とし前をつけるという形で、ボクオン隊他、諸部隊から隊長格が処刑されるという犠牲まで出た。

 責任問題に対する処分としてこれらは当然であるとしても、珍しく士気が自発的に上がっていたレイス軍は、急激に消沈し、冷えていった。

「嬉しい誤算というやつだ」

 実戦での戦果に加えて、レイス軍の戦力をさらに削ぐ事が出来たのである。バラザフは作戦の成功を喜んだ。

 次の日は、また雨になった。風で横に舞うような霧雨である。

 バラザフはその霧雨の中、正面の門から出てきた。頭にはアジャリアから下賜された、額に孔雀石マラキート象嵌ぞうがん が施されたあのカウザ を被っている。一万の将兵を率いていた。城内の方にも一万の兵を残してムザフに全権を与えた。

「万が一にも俺がこいつら相手に死ぬ事は有り得んが、リヤドはムザフに任せてきた。ファルダハーンの小僧には策略抜きでシルバ軍の戦いを見せてやろうじゃないか」

 バラザフが連れた一万のうち、千騎がアッサールアハマルの精鋭である。彼等はバラザフを中心に並列錐ミスカブ の突撃陣形をとった。だが、まだ突撃はかけない。後ろの歩兵の行軍速度に合わせて、頃合まで近づいて一気に抜くのだ。

 霧雨の中に、焼かれて赤く光る巨大な鉄塊が、ずしりずしりと濡れた砂を踏み固めて押し進んでいるように見える。レイス軍の本陣からも、ハイルを守備しているサーミザフ隊からも、この燃える赤はよく視界に映えた。

「バラザフ・シルバが出てきたぞ!」

「いや、あれは先年亡くなられたアジャリア様じゃないのか」

「俺はハウタットバニタミムの入城行進を思い出したぞ」

 今でもアジャール家の元家臣はレイス軍の中にも結構居る。皆が数十年も昔のアジャール家全盛期を目の前の光景と重ねた。

「ファルダハーン様、今度こそ手出ししてはいけませんぞ」

 イクティカードは、ファルダハーンに釘を刺しておかなくてはならない。イクティカードにそう制止されるまでも無く、ファルダハーンの意気はレイス軍全体の消沈の気を全て吸い取ってきたかのように、萎んでいたので、イクティカードが手出し無用の方針を決定してくれた事は、むしろ決断を強いられるよりはありがたかったのである。

 だが、その沈みきった心も数刻も経って少し落ち着くと、今度は、

 ――誰か我が軍の中にシルバ軍に一泡吹かせる事の出来る勇者はいないのか。

 と、苛立ちがまたもや小さな火となって揺れ始めている。

「ファルダハーン様、我が軍に知恵の回る猛者が居れば、今日までの敗戦はひとつまみ程の損害で済まされていたはずです」

 口に出していないファルダハーンを読心したかのように、イクティカードは再度釘刺しを忘れなかった。

 バラザフの部隊は、そのすぐ後ろにアッサールアハマル、その後ろに歩兵隊、そして最後に千人程の火砲ザッラーカ 兵が続いた。火砲ザッラーカ にはすでに火が付いている。

 バラザフはファルダハーンの本陣までやってきて大音声で叫んだ。

「我はリヤド領主バラザフ・シルバ。レイス軍にひとつ提案があるからまずは聞け!」

 レイス軍では将軍格から兵卒に至るまで、息を呑んでバラザフの次の言葉を待っている。

「こちらはたったの二万、それに対してお前達レイス軍は四十万だ。二十倍だ。いいか、二十倍だぞ。それを我等シルバ軍が相手になると言っているのだ。今日、決着を着ける。これで手合わせせぬというのなら、レイス軍は数だけ揃えた駱駝ジャマル の糞の塊だとカラビヤート中、噂が広まるだろうな」

 バラザフの喩えの汚さにシルバ軍の兵卒すら眉を寄せて苦笑したのだから、当然、ファルダハーンは怒った。怒ってはみたものの、レイス軍は前進出来る状態になかった。眼前に、昨日の炎の壁作戦の余剰で出来た川が横たわっていた。

 川の手前にレイス軍は、稲妻バラク のおうとつのある陣形で構えている。一方、バラザフの方はリヤドを出てきた時から並列錐ミスカブ の隊列を組んでいる。何故、並列かといえば、バラザフを中心に機に応じて、部隊を左右に分隊できるからである。左右に分かれたとき、並列錐ミスカブ は、双頭蛇ザッハーク に変形した事になる。四十万のレイス軍に対して、シルバ軍の二万など小隊扱いであり、それゆえ、間の群飛雁イウザ稲妻バラク の形体を飛ばして変形してもよいとバラザフは考えていた。

「まぁ、どちらでもよいわ」

 バラザフにとっては、ファルダハーンを怒らせて戦いに引きずりだせば、痛恨の一撃を与えてやれる自信がある。そのために、自分が囮として最前線に出てきて、しかもリヤドの兵力を半分もこちらに割いてきた。

「かのサラディン・ベイの戦法にも似ているようだが……」

 と気付いたのはハイルのサーミザフである。彼はバラザフから昔日、ベイ軍との決戦に参加した見聞を聞かされていた、その記憶の中に素早く探りをいれ、当時のサラディンの突撃陣形を父が再現しているのだと理解した。

「アジャリア様だけでなく、サラディンまで自分の力にしてしまったのか」

 レイス軍のボクオン、アズィーズ、ファイヤドのような古豪でも、眼前のバラザフの戦闘隊形を危険視していた。目の前には川も横たわっている。大軍を自在に動かす事はできず、動けない間にバラザフの知謀に陥れられる不安を拭い去る事ができるのなら、それは無謀の猪突者だけだ。

「バラザフ・シルバ自身が出てきたのだ。陥穽が仕込んであるに決まっている。とはいえ、先手を打つこともできぬ……」

 そうした恐怖が増幅していくのは当然である。

「さあ、来ないなら行くぞ。シルバ軍を相手にするという事はアジャリア・アジャールに狩られる事だと知れ」

 バラザフは諸刃短剣ジャンビア を一本抜いて、そのまま敵陣へ、鋭く、真っ直ぐ指し示した。いつもの武器として扱っている方ではなく、アジャリアから下賜された翠玉ズムッルド象嵌ぞうがん の宝物である。

 歩兵五百が河川に居並んだ。アジャリアの独特の戦法だったタスラム部隊である。歩兵が膏で出来た投擲武器を持ち、渾身の力でこれを投げつける敵を怯ませるのである。

 戦いの太鼓タブル が打たれた。すぐさま歩兵がタスラムを敵目掛けて投げつける。レイス軍の前線の兵士達は、タスラムにやられて頭部から血を流し、次々と卒倒していく。しかも割れたタスラムの石膏破片が粉塵となって視界を遮るのである。

 アジャリアの時代から、このタスラム戦法は敵に厭忌されてきた。やられる方からすればそれほど鬱陶しい攻撃であった。

 レイス兵が逃げ散りそうになっているのを見て、バラザフは次の手を合図した。タスラム部隊が下がって、次に火砲ザッラーカ 隊が前面に出てきた。

 太鼓タブル の拍子が変わり、一千の火砲ザッラーカ が火を噴いた。すでに、ここまででレイス軍には六百程の死傷者が出ている。

 しかし、レイス軍の反応は薄い。逃げ惑うような反応は見せはしても、反撃に出てくるまでの押し返しは無い。懲りているのである。もはや両軍にとって定番となりつつある煽られてよりの反撃は、入り乱れた戦いの陥りやすく、即ち、これも定番のレイス軍の敗北を誘引する。

 バラザフの合図で、詰めの弓兵が出てきた。

 川から進んでこれないレイス軍の頭の上から矢の雨が浴びせられた。

「ポアチャから駱駝ジャマル の糞が生まれたか!」

 精一杯悪態を込めて罵声を放ち、バラザフが手綱を引いてリヤドに戻ろうとした、その時、レイス軍の中から火砲ザッラーカ を撃つ者があった。炎はバラザフの所まで至らなかったが、その引き金で、レイス軍の勘気余った者らが水を掻いてバラザフの後を追おうとした。それを見て残りの前列の歩兵も皆、水に浸かって押し出していく。俄かに大兵が殺到したので、元々、舟が無くとも渡れる水量だった川の流れが止まった。

 命令違反ではある。だが、ファルダハーンは兵達の自発的な押し出しに、自身の意気もまたもや上がって、

「そのまま疾駆するのだ!」

 と、状況を良い風に受け取って喜んでいた。

 バラザフは、またすぐに迂回して前後反転し、並列錐ミスカブ を整え直した。隊が細分化され、錐がさらに鋭さを増した形である。

 レイス軍の先頭が川を渡り終え、今度こそバラザフの部隊を包囲したと確信したとき、

「待て、油のにおいが――」

 流れのせき止められた川は、再び炎の壁と化し、押し出してきたレイス軍の歩兵の大半が一瞬で焼死した。今度は、バラザフの傍にいたケルシュが、この仕掛けを発動させたのだった。フートも一枚噛んでいて、川の水がとまったのを見て濠に油を流し込んで、仕込みをしていた。フートは今回で引退を決めていて、アサシン軍団を指揮に現場に立った。

 二度目の炎の壁で数千の歩兵の焼死体ができた。

「終わりましたな……」

 イクティカードはファルダハーンにわざと聞こえるように呟いた。落胆というより、諦めと嫌気の交じった呟き、ため息である。

 バラザフは、戦果を自分の目で確認して、満足して後ろに退いた。

 後にファリド列伝ともいうべき記録が、レイス家に編まれる事になるが、そこにすら、

 ――シルバ家とのリヤドにおける戦いで、我が軍百害で足らず。

 と、自虐されてしまうほど、この戦いでレイス軍は見事に崩れたのである。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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(最終章2024.03.05公開予定)

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2023年5月5日金曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第11章_2

  暑さが酷くなってきた。

 ファリドは、諸将にカイロ征伐を通達した。そして、自身も領土に帰って、戦いの準備を配下に忙しく指示した。レイス軍にシルバ軍の情報は入らないのに、逆の情報はすぐに流れる。

「クウェートには、ファルダハーン・レイス、バスラにはカロウ・タレミ、シャア・アッバース、ケルマーンにはミールホセイン・ラフサンジャーニーが軍隊を揃えている。レイス軍のベイルートに駐在している軍団にも諸侯が合流するらしい」

「ベイルートの諸侯の面々は」

「ムサバハー、タリヤニ、サルマスィー、ティトー、バギロフなど武官派閥の連中に加えて、ナサ・アフラク、パヤム・ベイザー、ラウフ・タラート、サアド・ウトゥーブ等等。ファリド自身はアミル城クァリートアミール を出てベツレヘムに入り、守将にジャハーン・ズバイディーを置いたらしい」

 バラザフとムザフは次々と寄せられる報告を聞いて、胸を躍らせていた。

「有事に身を置いてこそ生きがいを得られるとは我ながら難儀な性分だ」

「まったくです」

 二人の口端に苦笑いが漏れる。

 今、この瞬間もシルバ軍は名義上、レイス軍の配下に置かれているわけで、当然、バラザフ・シルバにもカイロ出征に軍を出すように下達されている。しかも、その使者は長男のサーミザフである。

 ファリドは、まずはシルバ軍に対してクウェートに集合するように促した。

「父上、ムザフ。私もシルバ軍の武官として出るつもりです。先にハウタットバニタミムに戻って軍容を整えておきます」

 これにはバラザフも当惑してしまった。

 サーミザフは、純粋にファリドの配下として、シルバ軍はレイス軍に忠誠を尽くすものだと思い込んでおり、その前提で話を進めてしまっていた。

 父バラザフが裏でハーシムやナギーブ等の反レイスの連合と繋がっているなどとは夢にも思っていない。どこまでも真っ正直、実直なサーミザフの性根が、今のバラザフを困らせないわけがなかった。

 ――こいつに裏を明かせば板ばさみになって苦しめる事になるな。

 バラザフは、サーミザフには反レイス連合との繋がりなど、一切におわせずに、レイス軍に合流する支度を始めた。

 この頃、バクーの城邑アルムドゥヌ のハーシムの方は、

「ファリドがベイとハルブの誘い出しに乗った。ベイルートをファリドが離れたのはまたとない好機。ようやく毒のある枯葉を切り落とせるぞ」

「確かに毒はありますな。枯葉というよりアブダーラ家にへばり付く古苔と言えましょう」

「バラザフ・シルバ殿の手紙にもそのように書いてあった」

 ファリド評について皮肉りながら、ハーシムと重臣モジュタバー・ミーナーヴァンドは声を上げて大笑いした。どこでも、そしてどこまでいってもファリド・レイスという男は笑いのねたであった。この笑いには自分達の思惑通りに事が運んでいるという満足感も含まれている。

 元々、人望のあまりないハーシムであったが、この時彼に味方する諸侯は意外に多く、ベイ軍、シルバ軍の他に、ハーシムにはカーセム・ホシュルー、ジャービル・ジャファリ、バフラーン・ガリワウ、アマル・カアワール、ディーナー・ムーアリミー、デイシャ・バリクチスなどがハーシム主催の連合に加わっていた。

 サーミザフは先に軍備を整えハウタットバニタミムを進発した。サーミザフの部隊は迷わずクウェートへ向かっている。バラザフとムザフは、その一日後、リヤドの城邑アルムドゥヌ を出た。ここでバラザフにハーシム等保守連合がファリドの革新連合に対して正式に宣戦布告したと報告を受けていた。ハーシムの軍、ファリドの軍両方について詳細な情報までは得られていないのだが、大略で観ればバラザフを満足させるには十分な条件が揃っていた。

「この状況でリヤド、アルカルジのバラザフ・シルバが我等の方に旗色を示せば、それが契機となってこちらにつく諸侯も増えるはずだ。アルハイラト・ジャンビアと言われたバラザフ・シルバだ。我等の中であの知謀を越える者はいまい。ベイ軍のナギーブ・ハルブまで我等についているのだ。我等が戦略でレイス軍に劣るという事はありえないだろう」

 ファリド・レイス包囲網完成。ハーシムはそう確信した。

 二週間程経つと、今度はカマールの友人達アスディカ・カマール として、エルエトレビー、カアワール、ムーアリミー達がファリド・レイス本人に弾劾上を送りつけると同時に、諸侯にはファリド討伐を訴える檄文を送った。

 アブダーラ家保守連合、つまりハーシム側の連合は総帥にジャービル・ジャファリが担がれて、アミル城クァリートアミール に入城した。

 アミル城クァリートアミール にはせ参じる諸侯は一気に増えた。ムンターザルダービク・ジャファリ、アウニ・サバグ、タビット・アリ、ハーフィド・マブフート、ジャメル・ユースフ、トールマン・グリバス、アウグスティヌス・ゼンギンが反レイス連合に名を連ねた。

「現在、アミル城クァリートアミール に集まった戦力だけでも九十三万に上ります!」

 報告を受け、ハーシムが悦に入るのも無理からぬ大戦力である。

 翌日、ホシュルーとマブフートの軍がファリド側のベツレヘムを取り囲んだ。ベツレヘムには守将としてジャハーン・ズバイディーが置かれていた。

 保守軍と革新軍の戦端が開かれた瞬間である。

「今の所、保守軍およびベイ軍、シルバ軍でレイス軍の包囲網が完成すれば俺達が勝つ公算が非常に高い。だが、戦争の見込みに絶対などというものは絶対に無い。レイス軍が跳ね返してくる事だってありうる。その時はハーシムを見限って知らぬ顔でレイスの軍門に居残る。シルバ家存亡の潮目だ。よく読んで動かねばな」

 隣で馬を進めるムザフにだけ聞こえる声でバラザフは囁いた。前にバラザフとムザフが同じ戦場に出たのはリヤドの戦いである。その時にはレイス軍を痛い目に遭わせて追い払ったのだ。

 ベツレヘムの攻囲から数日して、バラザフのもとにオルガがハーシムから使者を連れてきた。バラザフはカフジの城邑アルムドゥヌ に来ていた。このまま北へ進軍すればファリドと諸将が待つクウェートの中心地には一日で到着出来る距離である。

 バラザフは使者からの手紙を受け取った。手紙にはハーシム・エルエトレビーとバフラーン・ガリワウの名前がある。

 そこに書かれている言葉はバラザフの血液を頭の大いに巡らすのを促した。一気に最後まで読み進め、それを隣に居るムザフにも見せる。手渡された手紙をムザフも読むが、ムザフの反応は落ち着いていて、言葉と内容を慎重に吟味している。

「この手紙に書いてある事が全て本当であれば、エルエトレビーの軍は百万以上という事になります。これに対してレイス軍は本軍を加えて百十万と算定出来ます」

 ムザフの計算は速く、手紙の内容から両軍の戦力を一瞬で数値化した。さすがのバラザフにもこのような異能は無かった。

「間違いなく、カラビヤートを二分する大戦争になるでしょう。問題は、両軍がどこで激突するのか……」

「ムザフ、今すぐサーミザフを呼べ。クウェートで俺達の到着を待っているはずだ。大事な話があるので、重大な相談があるから至急カフジまで来るように言え」

 ムザフによってすぐに使者が、サーミザフのもとへ遣わされた。サーミザフはカフジに来るなり、バラザフからハーシムからの手紙を見せられ、全身に氷のような寒さが走って彼の体温を奪った。これを見たときのバラザフの反応とは正反対である。

「ハーシムが軍を起こしたのか……」

「サーミザフ、もうわかるな。大事な話とはこれだ。シルバ軍はどちらに味方すべきか。生死の分水嶺だ」

「父上、私の答えは最初から決まっています。シルバ軍はレイス軍の配下なのです。筋を通してこのままレイス軍の陣営に参陣すべきなのです。ファリド様も父上の到着を待ち焦がれております!」

 サーミザフの性格からすれば当然の答えで、また正論過ぎるほど正論であった。是が非でも父バラザフをファリドから遠ざけてはならず、その強い意志は、いつになく強い語気に顕れていた。

 バラザフは、まだこれには返答しない。

 そして次にムザフの意見を促した。

「私はハーシム殿に味方すべきだと思います。父上のご判断はどうなるとしても、私はこれまでの半生をアミル様の育てられました。さらにバフラーン・ガリワウ殿は私の舅なのです。兄上のファリド殿に味方すべきという正論も決して否定は出来ません。しかも兄上もファリド殿の重臣中の重臣イクティフーズ・カイフ殿が舅だ。兄上は兄上でハーシム殿に味方出来る理由が無いのです。ここから結論するとすれば、我々兄弟が敵味方に分かれる他、道は無いと思われます。すでにそれぞれ別の未来を持ってしまったのです」

 バラザフ自身はどちらに付くかもう決めていた。

 バラザフは、サーミザフとムザフ双方にそれぞれ顔を向け、そして瞑目に入った。

「極めて難時である。だが、どちらに付くかここで決める。サーミザフ、お前だけレイス軍に戻れ。俺とムザフはハーシムに付く。こうしておけば、結果がどうあれ、シルバ家は必ず生き残れる。お前はすぐにファリドの所へ戻り、ハーシムの挙兵と俺の謀反を報告するのだ。次に会うのは戦場になるだろう。そして――」

 一息だけつき、

「死ぬなよ」

 そういってバラザフはサーミザフを送り出した。サーミザフの背中が遠くなり、傍に居るムザフに語った。

「歴史も国も問わず、こうした生き残り方は幾度も繰り返されきたはずだ。家族と別れるのは辛いが、これで俺が世に戦いを挑める好機が巡ってきた。あちこちから戦火が起こるぞ。今度こそ未来を視る眼の先を手に入れてやる」

 ムザフはたまに父の口から未来を視る眼という言葉が出てくる

訳は知らなかった。しかし、五十を越えたバラザフの身体から闘気が発せられているのだけはよくわかった。

「よし、すぐにリヤドに戻るぞ。ここでレイス連合の動向をよく見極めて、それ次第で城邑アルムドゥヌ を防衛するか、ハーシム連合に合流するかが決まる」

 サーミザフがクウェートに戻ると、先にベツレヘムのズバイディーの使者がファリドの陣に来ていて、ハーシムが挙兵した事を伝えた。

 ファリドはこれを聞いて驚くどころか、満足な笑みを顔いっぱいに顕して、重臣のイクティカード・カイフに顔を向けた。

「ようやくハーシム・エルエトレビーが挙兵した」

 ファリドは、ハーシムの挙兵を辛抱強く待ち続けていた。

 サーミザフは、ファリドにハーシムの挙兵と、父バラザフの謀反を報告した。そればかりかシルバ家で話し合って、家を二分して生き残るという結論に至ったのだと、真っ正直に全て話した。

 ファリドは、サーミザフが父親より自分に加担すると決めた事、全て隠さず自分に話してくれた事を素直に喜んだ。

「バラザフが敵に回ったのは痛手だが、サーミザフだけでも戻ってきてくれ心底嬉しく思う。ありがとう――」

 ファリドはサーミザフの両手を握ってまで喜んだ。そして、

「アルカルジ、そしてバラザフが所有しているリヤドもサーミザフの所領として認める」

 と今まで以上の厚遇を俄かに宣言した。

 この時点でバラザフの経路はまず狙いの一歩を進めたという事になる。

 ファリドは大略の戦争としてはハーシムを相手にしているが、

局地戦という面ではバラザフが好敵手となっている。二人の辣腕家によって知謀が水面下で火花を散らす。バラザフもファリドも最終的に欲する物は世の覇権なのである。

 クウェートに設置されているレイス軍の本営では、寄り集まった諸侯が皆ファリドに加担すると言質を供した。それ以前に人質も出している。クウェートへの参陣要請を拒否し、しかも反旗を翻したのバラザフ・シルバ、ムザフ・シルバの親子ばかりであり、他の全員がファリド・レイスの尖兵となると気勢を上げた。世の覇権をファリド・レイスが完全に手中に収める前に、売れる恩は売れる時に売らねばならぬ、という功名心でぎらついた者が並み居る。クウェートの城邑アルムドゥヌ は、そんな姿をしていた。

 未来の権力者に尻尾を振る群雄達を背中で嗤いながら、バラザフとムザフは、言い切った。

「ファリド・レイスは悪辣なり。最後の最後までカマール様のために反逆者を征討する戦争なのだと諸侯を騙しとおした。それがわかっていて付いて行く奴等もみんな古苔だ」

 サーミザフと別れ威勢よくカフジの城邑アルムドゥヌ を出てきた、バラザフとムザフとバラザフだったが、どうにもバラザフの様子がおかしい事がムザフは気になっていた。

 一行がリヤドに戻る道に入った頃である。バラザフが、

「サーミザフの子等に会っておきたくなった」

 と言い出した。サーミザフの子は当然バラザフにとっては自分の孫にあたる。

 急遽、軍旅をハウタットバニタミムに向けたものの、ハウタットの城門は固く閉ざされていて、バラザフが門を開けるように促しても守兵は何も反応しない。

 途方に暮れていた所、門の上にサーミザフの妻レベッカが現れて、槍を振り回して不動の構えで上から見下ろした。あのイクティフーズが被っていた、炎を象形した二本角のカウザ と同じものを被っている。こちらは女性用に仕立てられたようで、やや小さめであった。

「バラザフ殿がいかに舅殿といえども、夫サーミザフの敵に回ったお方を、この城邑アルムドゥヌ には一歩たりともお通しは出来ません!」

 レベッカの怒気にバラザフは口端を歪めて笑って応じるしかなかった。

「まったく、あいつには負けるよ。さすがは、あのイクティフーズ・カイフ殿の娘だ。父親の気性を受け継ぎ烈女となったか。城の護りも堅いわ」

 諦めてバラザフが城門に背を向けて立ち去ろうとしたその時――。

 背後で城門の開く音がして、レベッカが姿を現した。

「先ほどはご無礼を。ですがやはりこの門より内に入れる事は適いません。せめて、子供達と再会の場はご用意させていただきます」

 そう言ってレベッカは、リャンカの伽藍跡を面会の場に指定した。リャンカ寺院は、カトゥマルの妻リャンカがハラドの高僧ナデイユ師に、ザルハーカの法を授けられた事を起因に、リャンカがナデイユ師のために建てさせたゆえ、リャンカの名がつく。だが、リャンカ寺院は、フサイン軍の襲撃を受け伽藍は焼け落ち今は廃墟となっている。リャンカも、ナデイユも、そしてハイレディン・フサインも、もうこの世の者ではない。

 バラザフは息子の妻の親身な態度に感謝して、リャンカの伽藍跡へ馬を向けた。

 孫達と再会を喜び合って別れを済ませると、バラザフはリヤドへの道を急いだ。ここから二日はかかる予定である。

 すでにこの時、バラザフはファリドの動向を、未来を見る眼で走査していて、それ以外の事は彼の脳裏から消え去っていた。それしか考えられなくなっていた。

 そのバラザフの隣にはもう一人バラザフが居る。ムザフは、エルサレム、ベイルート、レイス軍、ベイ軍、アッバース軍など、情報収集路線を多岐に広げて、それらを見事に捌いた。間者ジャースース を縦横無尽に使いこなす態は、昔のバラザフそのものであった。

 バラザフは、未来を読んだ。

「八十三万。これはレイス軍のみの戦力だ。そのうち十万、あるいは二十万はベイ軍の進攻を防止するために割くはず。つまり、ハーシムとの決戦に連れて行ける戦力は多くても七十万ということになる」

 考えているうちにまた新たな要素が思い浮かぶ。

「レイス軍の尖兵となった諸侯も六十万くらいはいる。これもハーシム軍にぶつけるだろう」

 そこに大軍を進行させるレイス軍の課題が浮かび上がってくる。

「レイス軍はどこに宿営させるのか。一気に移動させるのか、段階的な移動になるのか。一気に行くとすれば、どこの城邑アルムドゥヌ ならば大軍を収容出来るか」

 バラザフは、都市機能、市民生活等の要素を考慮した結果、レイス軍はエルサレムへの行軍過程の問題から、段階的な終結になるだろうと予想した。

「となると、クウェートを進発した後軍隊を三つくらいに分隊し、バスラ、ナーシリーヤ、ナジャフ、バグダードの路線を、先発隊から順に移動と駐留を繰り返して進むしかない。あるいは路線をそれぞれ変えるという手もあるな。その内一隊くらいはリヤドに押し出してくるかもしれない」

 来るのが諸侯の軍になるか、レイス軍になるか。それは分からない。ハーシムと決着をつけるだけならリヤドはレイス軍の盤外に外しても戦略としては十分成り立つ。だが――。

「レイス軍は必ずリヤドに来る」

 それが、理屈の次元を超えたバラザフの勘であった。

「つまり、俺達はリヤドを空けておくわけにはいかないという事だな」

 アジャリアであれば一度リヤドを捨て、好機が巡ってきた頃に再度取り返す。そんな手も打てたであろうが、シルバ軍には、そのように流動的に動かせる組織力は無い。情報力だけが力である。

 さらにバラザフはハーシム側の動きも予想する手間を取らなければならない。味方ではあるのだが、ファリドのようにバラザフは味方の統帥権は持っておらず、また、献策も求められていない。

「そもそも、このまま行くと両軍はどこで激突するのか」

 戦力は自由にはならないが、考え方に関してはバラザフはアジャリアの思考を大いに活用した。大略の流動的な動きを、未来を見る眼で読み解く。両軍において、これに関してはバラザフを越える武人は誰一人居ない。

 視野を広域に広げれば、そのような大局眼を持った武人はもう一人だけいた。トリポリの君主、ヨシュア・タリヤニである。

 ヨシュアはアミルの生前、トリポリの城邑アルムドゥヌ を拝領して今に至る。が、ヨシュアは今回のハーシムとファリドの争いに今の所無関係を決め込んでいる。

「ハウラーンの涸谷ワジ だな」

 バラザフは、ハーシムとヨシュアがここで激突すると確信した。

「反レイス連合軍といっても、実際の作戦はハーシムが決めるのだ」

 リヤドに帰還して数日というもの、バラザフは自室に一人で閉じこもって作戦を考えていた。その前に両軍の流動が読めなければ話にならないので、貫徹して両者を見比べていた。そして、ようやく部屋から出てきてムザフに説き始めたのである。

「ファリドはじっくりやる攻城戦より野戦の方を得意としている。あくまであいつの中で得意というだけだ」

 これを裏付ける過去はいくらでもあった。まず第一に挙げられるのはウルクでのレイス軍の惨敗である。挙げればきりがないほど、バラザフはアジャール家の武官時代にファリドの負けぶりを幾度と無く目撃してきたのだ。ゆえに、バラザフは武人としての技量はファリドなどより自分が数段格上だと思っている。またこれを否定する人間もおそらく誰も居ない。

「それでファリドは自分の得意な野戦に事を運んでいきたいが、ハーシムはアブー・カマールに篭城するはずだ。もしここが陥落しても西へ逃げればベイルートだし、北へ行けばハーシムの本拠地であるカスピ海バクーの城邑アルムドゥヌ がある。どちらも一週間逃げ切れば退避出来る。アブー・カマールにレイス軍を張り付かせておけば、時間の経過とともにレイス軍からハーシム側へ旗色を替える輩も必ず出てくる。とどめにカマール様が自ら戦場に出てくればアブダーラの古参の武官は先を争って反レイス連合の陣に馬をつなぐだろう」

 バラザフは、ハーシムの側についているものの、このようにハーシムがあっさり勝ってしまうのは、それはそれで都合が悪い。アブダーラの政権が確たるものとして固まってしまう。つまりバラザフとしてはハーシム、ファリド双方が食い合って共倒れしてほしいわけだが、さすがにそこまでの魂胆は、相手がムザフであっても話す事はできなった。 

 ――共倒れとはいかなくとも、せめて両軍の進退が窮まって数ヶ月固まってくれれば。 

 主戦場が他に移る事になる。

 カイロのベイ家が周辺と戦争になるか、一連の同盟を作る。ヨシュア・タリヤニはトリポリ周辺の諸侯と戦い、自勢力でも何でも作ってくれればいい。

 その戦場が分散した時間がバラザフの好機となる。シルバ軍はバラザフとムザフでリヤド、ハラド、アルカルジをこの際全て手に入れてしまう。アジャール家再興を大義として自分の野心の上に掲げておけば、旧アジャール軍の武官を束ねて勢力を拡大する。そこまで強くなれればアジャリアが企図した西進を、バラザフの旗の下で成す事が出来る。

 本来、レイス軍とエルエトレビー軍の激突となるはずだった戦いが、広域戦乱として飛び火していく。

 世界的な戦火の中、その火に照らされながら、中央の政権にシルバ軍の旗を立てる。新生シルバ軍の覇権ともいうべき作戦壮図がバラザフの中で生き生きと描かれていた。


「インシャラー!」

 何に対するインシャラーなのか、バラザフは燃え上がった。

 レイス軍とエルエトレビー軍の大戦争は、バラザフにとって好機である。しかも、ただ大乱になるだけではない。自分が覇権を握れるような盤面が整っていた。

 バラザフはムザフにも本当の裏の裏の野心は説かず、戦況の先行きだけを示した。

「今まで攻城戦であれだけ失敗を重ねてきたファリドだ。さすがに攻囲での不利を自覚しているに違いない。あらゆる手段を講じてハーシムを野戦の場に誘引するはずだ。その手段までは細かく読めないが、ハーシムが誘いに乗った場合、決戦の場は、ハウラーンの涸谷ワジ になると結論出来る」

 バラザフの解き明かしを聞きながらムザフは地図から目を離さずにいた。

「ですが、父上。なぜ涸谷ワジ のような湿気があり不安定な地形を選ぶのですか。しかも、両軍とも。他にいくらでも平地、平地が得られなければ砂漠も有り得ましょう」

「人気取りさ」

「人気取り」

「うむ。どちらが勝っても一気に覇権の座は得られない。ハーシムにはアブダーラ家を弑逆するつもりは毛頭無いし、ファリドにしてもハーシムを倒したからといって即、大宰相サドラザム の地位を得られるとは限らない。だから農地や村落が荒れるような地形は避けたいわけだ。両軍とも連合として編成されていて一枚岩ではないから、大義を失すると後々厄介になるのさ」

 この辺りがバラザフの大略を読むに勝れた所で、戦場での作戦手腕だけに頼る武人、軍師達の一つ、二つ上を行っていた。

「本拠地であるバクーから近い分、あの辺りの土地勘はハーシムの方にあるだろう。岩陰に部隊を隠しておいてファリドだけを狙い撃ちする事も出来る」

「岩が多く、道が筋状に別れているという事は、挟撃が発生しやすい地形でもありますね」

「野戦になったとしも、ハウラーンならハーシムに優位に働くだろう」

「ハウラーンでの戦いが長引いてくれなければ、我等シルバ軍にとってはよくないですね」

「それもあるが、俺はハーシムの采配自体を心配しているよ。あいつは確か、名が上がるような戦勝は一度も経験していないはずだ。だからハーシムが総司令としてしっかり指揮力を発揮出来るのかどうか」

「臣下の心を掌握しきれていないという点でも、ハーシム殿が百万の大軍の総司令としての器として耐え得るものなのか、これも不安要素ではあります」

「まあ、数ヶ月にわたる長丁場になるのは間違いない。百万対百万の大戦だからな。この盤面での我等の手は、分隊して西進するレイス軍の一軍をこちらに引き寄せて、ハウラーンに向かう戦力を少しでも削ぎ落とす事だ。ハウラーンでの決戦、我等も楽しませてもらわないとな」

 そして、バラザフは篭城する事で引き付けたレイス軍に対処すると決めた。

 配下のアサシンが情報を持ってきて、ムザフがそれを吟味する。すると驚いた事に、そこから出てきた答えは、両軍の流動を明解に示したバラザフの予知と結果がほぼ同じになった。

「父上は裏付け無しに正確に未来を読み取ったというのか」

 アルハイラト・ジャンビアと言われるバラザフ・シルバ。息子であっても戦略家としての神威ともいうべき切れ味を、再認識させられる事はまだまだある。

「このハーシムでは、バラザフ・シルバの知謀には未だ届かず、敵に回さなくてよかったと痛感している」

 バラザフに宛てたハーシムの手紙である。

 バラザフはムザフにハーシムの手紙を見せた。その口には苦笑いがなぜか浮かんでいる。

「シルバ家の今の所領に加えて、ハラド、リヤド全域を領土として認める、と書いてありますね」

「レイス軍が勝てば、ハラド、リヤドはサーミザフのものに、エルエトレビー軍が勝てば俺達のものになる。どっちも品物を仕入れる前に売る約束をしているようなものだぞ」

 バラザフは、自分で喩えて、これが気に入ったらしく、今度は素直に笑った。

 この年の酷暑過ぎ、雨の季節が訪れようとしていた。レイス軍の諸将はクウェートの駐留をやめ、ついに城邑アルムドゥヌ を出て西へ進み始めた。そのうちの一軍はバラザフが予見したとおりリヤドに向けて派遣された。

 二週間で彼等はバグダードに到達した。急ぎすぎない無理の無い行軍といえる。レイス軍の配下として動いている諸侯に、中央に勤務しているそれぞれの家の家臣が主君に報告を入れる。

 ――ベツレヘムがエルエトレビー軍に落とされた。

 どこの主従も報告の内容はほぼ一緒である。

 諸侯の中に迷いが出始める者がいた。今からエルエトレビー軍に加勢すればまだ重用されるに間に合うのではと、心揺り動かされる者も少なくなかった。今頃合流しているはずのレイス軍の主力部隊がまだ自分達の見える場所にすら居ない事も、動揺を促した原因の一つである。

 今、ファリドは本拠地であるマスカットに居た。極めて多忙であった。

 ザラン・ベイが本腰を入れてレイス軍攻撃に乗り出してくるのか。それの真意と動静を確実に知っておきたかった。

 カイロからマスカットまでは最短距離でも二ヶ月近くかかる。しかも他勢力圏内をいくつも通過して来なければならないのだが、その通過する他勢力圏の正中に居るのが、よりによってシルバ軍であった。これまでのバラザフ・シルバのやり方を鑑みると、レイス軍とエルエトレビー軍の戦いが長引いた場合、バラザフがリヤドにベイ軍を引き入れて、マスカットを急襲するという事は十分に考えられた。しかも、それより以西のメッカの動向もわからない。

 マスカット滞在中にファリドは出来る限りの手を打っておきたかった。ザランに直接降伏勧告を行ったり、懐柔のための条件も提示したりした。

「アッバース殿は御自身の本拠地であるバンダルアバスからクウェートまでを監視体制に置き、ベイ軍の動きを見張られよ。攻め入るには及ばぬ故、ベイ軍がシルバ領の入る間に後詰の方から食われるかもしれぬという警戒心を持たせれば上々。クウェートに十三万の兵力を置いておくから、ベイ軍が攻めてきたらそれを使って防ぐのだ」

 こうして配下に幾つも指示を出してベイ軍の進攻を阻止しておいてた。シルバ軍とベイ軍を接触させない事がベイ軍対策の第一であった。

 まだまだ手を打っておかなければ西進のための準備を終える事は出来ないファリドは、エルエトレビー軍に付くことを表明しているマブフート軍、サバグ軍、カアワール軍、ムーアリミー軍にも筆を休めず手紙を書き続けレイス軍へ付くように工作に精を出した。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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2023年4月5日水曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第11章_1

  バラザフはリヤドで書面に筆を走らせていた。リヤドに戻ってから、こういう事務的な忙しさに追われる日々である。書面の内容はといえば、事務的な世事や時節の事柄を書き連ねて、それを擬装タムウィ として本件は所々に手短に記した。つまり手短に書かれている事は殺伐とした内容でもあるわけであり、反面、大半の余分な部分でバラザフは詩的な表現記述を楽しんだ。

 そして、真に核心に触れた手紙は、実力と仁義を信じられるアサシン軍団に持たせた。このように伝達方法を二つに分けたのも戦略としての擬装タムウィ である。

 バラザフも頭に大分白いものが増えた。同様にフートやケルシュも、もう若くはない。よって若手のアサシン、間者ジャースース が、バラザフの遠隔作業のために篤実に働いた。かつてアサシンとして実働していたフートは、今ではバラザフの執事サーキン のような仕事をしている。ケルシュは、リヤド近くに領地を与えられ、太守としての役割を果たすようになっていた。

 バラザフの手足になっているアサシンは、組織的にはムザフの部下であるという事になっている。ムザフは頭は切れるがその物腰は柔らかい。それで部下からは主君の息子という感じではなく、棟梁あるいは兄貴という感覚で慕われていた。

 バラザフが育ててきたシルバアサシンは、今、世代交代の時期を迎えている。ムザフを中心とした第二世代の波が来ているのである。

 その中で注目されるのがレオ・アジャールという若手のアサシンである。アサシン団のシムク・アルターラスの手で赤子の時から育てられたのだが、何と、かのアジャリア・アジャールの血を引いているという噂があった。アジャリアは彼の祖父にあたるらしいが、詳細は周囲には明かされなかった。バラザフもムザフもこのレオを可愛がって育てた。

 シムク・アルターラス亡き後は、アサシン団の中心に居たルブスタル、ジャンブリの二人が師匠となって、アサシンとしてのあらゆる技法を教えた。結果、今ではレオ・アジャールの実力はシルバアサシン団随一のものになっている。

「レオ・アジャール、カイロのベイ家執事サーキン ナギーブ・ハルブ殿にこの手紙を渡せ。言うまでもないが必ず本人に直接渡すのだ」

 レオと並んで主な任務をこなせるアサシンが居た。女のアサシンで名をオルガという。オルガもレオと同じくシムク・アルターラスに育てられ、レオとは姉弟同然である。亜麻色の髪を持つ相当な美人だが、素性はレオ以上に不明な事ばかりで、陰に隠して明かさないという事ではなく、名前以外の事が今日に至るまで本人にも判明出来ていない。

「オルガは、ハーシム・エルエトレビー殿の本拠地であるバクーの城邑アルムドゥヌ に行ってくれ。カスピ海の傍だ」

 バラザフの与える任務は重い。だが、こういった過負荷な仕事でも移動力に長けた二人は平然と受けた。バラザフにとって本心から頼もしいと思える新世代である。

 バラザフ・シルバ、五十四歳。ムザフ・シルバ、三十六歳。この二人のシルバ軍の棟梁は戦略的なかみ合わせが非常に良い。今の趨勢をどう見るか、それに対してどのように対処するのか。二人の方針は同和する所が多い。

「ファリド・レイスが何故周囲を振り回してまで先を急ぐのかムザフには見えているだろう」

「寄る年波ですよ。ファリド殿も八十を越えたとか。だからこそ、今まで慎重な素振りを見せていたのを、今になってひるがえ すのです」

「今のままでもファリド・レイスは実質的な執政者だ。安定した政権を望むなら、昨今、巻き起こしてきたように戦争を誘発する所業に出る必要はないのではないか」

「安定した政権というのであれば、それは結局アブダーラ家の政権としての安定です。大宰相サドラザム の地位を何としてでもレイス家のものにしたいと思えばこそ、戦乱の渦に世を巻き込んで諸侯の出方を見極めて、アブダーラ家を追い落とそうとするのです」

「ムザフの見解、まさに核心を衝いていると言える。俺も同じ考えだよ。ファリドのやり口は悪徳商人が自分の懐だけに金貨を貯めこむような感じだ。自分に利する世に対して信義を以って報いるという事がないのだ」

 同じような会話が、バクーのエルエトレビー家でも、カイロのベイ家でも行われていた。

 ――我等の信義を神はお望みだ。

 彼等のファリド・レイスの悪行に対する信義は、まずは理念の段階で団結している。

 大宰相サドラザム の地位もさることながら、今ファリドが渇望しているのは戦乱である。まず戦乱の渦に世間を巻き込まなければ何も始まらなかった。

 その渦に最初に巻き込まれたのは、ザラン・ベイである。

「ベイ侯には、政権より召集の命を何度も出した。これに従わないのはカマール様さらには聖皇に対する反逆の意があるからであろう」

 と詰問する内容の手紙がファリドからザランに送られた。これに対してザランも負けていない。

「馬鹿を言うな。このザランにカマール様への謀反の心があるはずがない。他人よりも己の心を明日の朝、井戸にでも川にでも行って洗ってくるがいい」

 ベイ家からの応酬はこれに終わらず、ハルブ個人からもファリドへ挑発の手紙を送った。

「ファリド・レイス。ザラン・ベイと、このナギーブ・ハルブが若造だと思って侮ると承知せぬぞ。ベイルートおよびエルサレムへの召集には応じないとは一言も言っていない。ベイ家にはベイ家の事情がある。それを知っていながら、ベイ家の不参を以って反逆者扱いするなど無礼にも程がある。ザランが反逆者であるならファリド・レイスは大逆人である。世から誅せらるべきはファリド・レイスである。ザラン・ベイのカマール様への忠心はカラビヤートに並ぶべきものなし。いずれにとが があるのかはっきりさせてやろうではないか。ファリドでもいい、愚息のファルダハーンでもいい。戦下手のレイス軍の相手をベイ軍がしてやろう」

 実に長い手紙である。

 これらの写しは同盟相手であるシルバ家にも届けられた。

「さすがの俺もここまで叩きつけてやれないな」

「しかも、他人の子を愚息呼ばわりですからね……」

 小気味よくザランとナギーブの読みながらも、バラザフもムザフも驚きを隠せなかった。

 かかってこいと言わんばかりのベイ家の胆力がバラザフには羨ましかった。これまでの人生、特にアジャリアを失った後は、バラザフにとって戦いとは、大勢力との正面衝突をいかに回避して勝つかという事に神経を尖らせてきた。

 そういう押しも押されもせぬ安定を求めていたからこそ、戦乱の世に躍り出て、活躍の舞台で大立ち回りを演じてやろうと息巻いていたのだった。

 戦争に挑む自分の動機が、ザランやナギーブよりも、むしろファリドに近いと自覚してしまった事も、バラザフを内心では動揺させた。

「ファリドのやつ、あまりに憤って、ハイレディンのように髪の毛が真っ赤になっているのではないか」

「最高に怒っているでしょう。ベイ家にあのように豪胆に言い放たれますと、我等シルバ家だけが真の士族アスケリ ではないと省みる価値もあるというものです」

「そうだな……」

 バラザフは、まだこの時は表立ってレイス軍に反旗を翻す事はできないでいた。今の所は流れを見定めておきたい。

 しかし、裏ではハーシムやナギーブとの手紙のやり取りをしきりに重ねて、さらには、ムザフの舅であるバフラーン・ガリワウと連絡を取り合うなどして、密盟の幅を拡げつつあった。

 ここまで裏でバラザフが大きく暗躍していても、レイス軍にはまったく気取られていないかった。バラザフは配下のアサシンの優秀さに援けられていた。


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2023年3月5日日曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第10章_3

  翌日、謁見の間で二人は諸将の前で正式な会見をしたが、口上は決まった物にとどめ、意識の通じ合いをお互いに目で確認したのみである。

 明日にはベイルートを発つという夜、バラザフはまたアミルの所に呼ばれた。

「今回のメフメト軍の討伐はバラザフの活躍による所が大きい。改めて礼を言いたい。そしてもう一働きしてもらいたくて今夜呼んだのだ。戦争ではないのだが、あのファリド・レイスの動きを常に見張っていてほしいのだ。アルカルジ、リヤド、マスカットに至るまで俺の目になって見張ってほしい」

 アミルの目から鋭気を注ぎ込まれたような感じを受けて、バラザフは、この言葉にただ黙って頭を下げた。

 今夜もアミルはバラザフを茶でもてなした。

 先日はアミルに自分のアマル を一方的に掘り起こされてしまったので、バラザフは今度は自分の方から問うてみたかった。

「先日、大宰相サドラザム 殿は我がアマル を指し示されましたが、大宰相サドラザム 殿もアマル をお持ちであれば是非お聞かせ願いたく存じます」

アマル か。俺も勿論アマル を持った。それもいくつもな」

「それらを悉く自分の物とされたのですか」

「いや、自分の物になったものも、自分から離れて星と化したものもある。実はな、大宰相サドラザム などという高位は一度も望んだ事は無かったのだ。知っての通り俺は平民レアラー の出で、そればかりか、日々の食い物に事欠く有様だったよ。童子トフラ の頃、空腹で眠れず夜空を見上げた事があった。丸い月がポアチャに見えてきてな……」

 昔を懐かしみアミルは柔和で少し寂しげな笑みを浮かべている。バラザフの方はポアチャと聞いてにやにやしている。いつの間にか親しみのある言葉になっていた。

「私は未来を視る眼が欲しいと幼少よりずっと思っておりました」

「だが、人の視る未来には限りがあるな」

「そうなのです。大宰相サドラザム 殿でしたら、未来を視る眼をどのようにして自分のものとされるのですか」

「そうだな。お前に札占術タリーカ で占ってもらおうか。だが、それでは俺が手に入れた事にはならないな」

 その先の答えをバラザフは渇望して待ち続けている。アジャリアが死んでから他の人間に訓告求めるのは、これが初めてである。

「未来を視る眼の更にその先を視るさ」

「そのために結局は未来を視る眼が要るのでは」

「いや、そうではない。未来を視る眼といっても結局はそれは何かのために手段だよ。家族を護るとか、戦争に勝つとか、雨雲の明日の行方を知るとか、女性の心情を掴むとかな。つまりそれらを手にする事が出来れば、未来を視る眼の更にその先を行った事になる。勿論、未来を知れた方が事は楽に運ぶだろう。だが、未来を知っても何も出来ない事だってあると俺は思うんだ」

 バラザフは、このアミルの答えに憧れだったアジャリアの道理に似たものを感じた。そしてアジャリアと似たアミルにバラザフが距離を置きたがる道理など無かった。

 アミルはもう少しだけ言葉を重ねた。

「バラザフ。男は大人になっても結局皆童子トフラ だよ。アマル を持つというのも言い換えれば童子トフラ で在り続ける事さ。だから童子トフラ で無くなってしまった人間は魅力が無く、つまらなくなってしまうのかもしれないな」

 魅力が無く、つまらない。自身がポアチャと揶揄する、その典型的な人間の顔をバラザフは想像した。

童子トフラ だからアマル を持てる。未来を視る眼でも、食べ物でも、何でもそうだ。アマル を心で指し続ける人間が、人を惹き付ける人間だと俺は思うんだ」

 アミルのこの言葉は、今口にした熱い茶と共にバラザフの中へ深く染み入っていった。この後もバラザフとアミルのやり取りは頻繁に行われるようになる。

 リヤドに帰ったバラザフを弟のレブザフが迎えた。

「サーミザフもそろそろ所帯を持つ年頃だ。嫁をもらってはどうかと、レイス様に勧められました」

「ふむ、それもそうだな」

「レイス様が、イクティフーズ・カイフ殿を自分の養女にして、サーミザフと縁組をしたいと言っているのだが、話を進めてもよろしいですか」

「イクティフーズ・カイフ殿というと、ファリド・レイスに与えられた勿体無い神の恩寵と称えられた、あのイクティフーズ・カイフの事だな」

「はい、炎の二本角飾りのカウザ の、レイス家の執事サーキン の一人の」

「いやいや、知っているさ。俺は昔一度だけ直接戦った事があるんだ。強かった。武勇勝れる武人だった」

「おお、そうでした。それで、そのカイフ家の女性がサーミザフの妻として名が挙がっているのです」

「あのカイフ殿は俺は嫌いではない。彼の娘であれば大丈夫だと思う。それにレイス殿の養女として縁組するのだから、サーミザフにとってはレイス軍の中で栄達を得たに等しい。この縁組、承知したと伝えてくれ」

 ファリドの底巧みとしては、ハウタットバニタミムの城邑アルムドゥヌ をサーミザフの預かりにしておいて、婚姻関係を以ってレイス軍に取り込んでしまおうという事なのだが、バラザフはこれをよく見抜いた上で、それもまたよしと、この婚姻を認めた。

「バラザフの長男のサーミザフが所帯を持ったか。ではムザフにも何か話を持ってきてやらないとな」

 アミルは、サーミザフの縁組の話を聞いて、ムザフにも妻帯を勧め、候補を挙げた。

「当家の重臣でアリーシの郡長官アライベイ バフラーン・ガリワウは知っているな。そのバフラーンに年の離れた妹がいるのだが、名をハーレフという。その娘はどうだ」

 バフラーン・ガリワウはアミルの片腕ハーシム・エルエトレビーの刎頸の友である。

「バフラーンに大軍を預ければ、百万といえども一人も無駄死にさせぬだろう」

 アミルにもその戦略的才能を愛され、このように賞賛されたが、惜しくも体中の皮膚が崩れていく難病にかかり、全身を包帯で覆っている。

 バラザフ、ムザフ父子共々、この結婚に素直に首を縦にふった。このようにバラザフの子、サーミザフ、ムザフが結婚するのを待っていたかのように、二人の任官をエルサレムの聖皇に推した。サーミザフは郡長官アライベイ に、監督官ダルガチ に任官された。いずれも実際の権力基盤に比して過分の出世である。

 この時期、アミルは政権に威服したオスマンオウル家の領土であるイスタンブルを拠点に、地中海を渡ってナポリまで遠征しようと考えていた。

 ナポリ遠征のための将兵が続々とイスタンブルに集結している。バラフは、サーミザフ、ムザフを伴いイスタンブルに入ったアミルを訪れた。シルバ軍総勢七万で来ている。

 アミルもすっかり老境の入っていたが、頭も言語もまだまだ明瞭である。

「シルバ軍は今回の遠征に参加しなくてもよいぞ。レイス軍もカラビヤートに内乱が起きぬよう残るように命じてある。シルバ軍も同様だ。つまりは、わかるな」

 バラザフは、シルバ軍が出兵を免れたのは、レイス軍を見張るためなのだと、アミルの真意を察した。

 世間ではアミル・アブダーラはすでに老廃していると言っているが、実際のアミルは、要点は外さないくらいには頭はしっかり働いている。

「承知しました。大宰相サドラザム 殿の命によりシルバ軍は内乱防止の任に就きます」

「頼んだぞ。シルバ殿でなければこの微妙な仕事は出来ん」

 結局、このナポリ遠征は失敗に終わり、得るものも無く将兵は引き上げてきた。対外的には益無き事で終わっただけで済んだが、内部には文官派閥と武官派閥に大きな亀裂が生じた。滅びる前のアジャール家と似たような構造になってしまったといえる。

 さらに悪いことには、アミルが体調を崩して伏せるようになると、大宰相サドラザム に任官されているアブダーラ家の跡目は一体誰になるのか、という論争が水面下で始まった。

「レイス殿がいい」

「サリド・マンスール殿のほうがいい。実力もあるしアミル様の親友だ」

「何を言う。アミル様の御子息のカマール・アブダーラ様を脇に追いやる道理がどこにある」

 と、経世論は様々に分かれ、誰が敵で誰が味方かという探り合いが始まった。こうした世の流れに注視しつつも、バラザフには内にもっと憂いがあった。

 ハウタットバニタミムの太守などを務めてきた一族の長老的存在のイフラマ・アルマライが、カーラム暦1019年に世を去ったのである。アルマライ家は、息子であるアスファトイフラムが当主となっていたが、バラザフにとって叔父であり、重臣でもあるイフラマを失った事で、心中へ走った衝撃は決して小さいものではなかったのである。

 カーラム暦1020年、病の床に居たアミル・アブダーラがついに病死する。

 アミルは死ぬ数日前から、

「ザッハークの像を……」

 と息をするのも苦しそうに繰り返して、謎めいた言葉を遺言のように残したが、周囲に侍る者達も一時は気にしたものの、日が経つにつれ、

「あれは死ぬ前の錯乱だったのだろう」

 と謎は忘却され、各人が跡目をめぐる派閥のいずれかの流れに巻き込まれていくことになる。

 バラザフによってアミルとの思い出は彼が淹れてくれた茶の味である。

「思えば、あれほど茶が美味いことはなかった」

 権力者に競り勝たんとする闘争心が湧いてくるのがバラザフである。アミルが生きているときは、いつかこいつを越えてやろうという好敵手を見るような目が無くはなかったが、彼が世を去ってしまうと、むしろ無性に懐かしく、会いたいという気持ちが募った。

 アミル亡き後、治から乱へ世界の気が蠢き出しつつある。

「今まで軍制を整えて、領土を無難に切り盛りしてきたのがここでやっと活かされる」

 アミルの病死は、バラザフにも辛いものとなってしまったが、それはそれと、風向きを見定めてこれを喜んだ。

「また世は戦乱に逆戻りだ。俺が活躍出来る舞台がきっと与えられるはずなんだ」

 バラザフは、今こそ自分も覇権争いに名を上げて、未来を視る目を活かす時だと、信じきったようだった。

 時は二年経過して、カーラム暦1022年――。この年がバラザフ・シルバ、ファリド・レイス双方によって、生き方の最も密度の濃い時間となっていく。

 アミルが世を去って数ヶ月くらい経つと、ファリドはアミルが生前に敷いておいた、王の友シャーヤール という執政組織と、その下部組織としてのカマールの友人達アスディカ・カマール の体制方針を蔑ろにする態度を鮮明にするようになった。

 ファリド・レイス、サリド・マンスール、ジャービル・ジャファリ、ザラン・ベイ、カーセム・ホシュルー。彼等が王の友シャーヤール の総代を構成し、ファリドはこの機関の筆頭的立場にある。そして、カマールの友人達アスディカ・カマール はこの上部機関の決議事項を政策化して、大宰相サドラザム となったカマール・アブダーラを、文字通り介添えするように補佐する役目を担っていて、この長官にはハーシム・エルエトレビーが就いていた。

 王の友シャーヤール の総代の中ではサリド・マンスールがアミルの生前に最も信頼されており、文官、武官全ての評判がよかったが、病に伏せて政治に参加する機会が減り、他の三人も老獪となってきたファリドに太刀打ち適わず、いわば自動的な流れでファリドが王の友シャーヤール の筆頭格になっていったのであった。

 レイス家が、アブダーラ家に同和せぬ姿勢を示すという事は、シルバ家もその社会構造に沿って二分される事を意味する。サーミザフは、ハウタットバニタミム領に自分の家臣を太守として置いて、自分はベツレヘムにレイス家が設置した政務館に勤仕するようになった。一方、ムザフはアミルの死後、自動的に近侍ハーディル の任を解かれて、リヤドに戻っていた。

 ファリドが取った体制方針を蔑ろにする態度というのは自身の派閥の形成と強化である。アブダーラ政権下において諸侯の勝手な同盟は禁止されている。にもかかわらず、ファリドは自分の机の引き出しから物を出すように、傍に居る人間に他家と婚姻同名を結ばせて、リヤド、アルカルジなどの人事の配置換えも勝手に行った。

 これらの自分を法とするファリドの手口に、ハーシム・エルエトレビーが批難の舌鋒を向けた。だが、バラザフはファリドの行動が別の狙いをもって行われていると見抜いた。

「傍若無人に振舞っても誰が言う事を聞いてくれるのか、誰が牙をむいてくるのか。そうやって敵味方を今のうちに識別しているんだ。あの苔爺の老獪さ。間違いなくアブダーラ家の後釜を狙っているぞ」 

 この頃、バラザフはファリドをポアチャと呼ばなくなっていた。若い頃の間抜けなファリドを馬鹿にしたあだ名ではなく、今の老獪さを皮肉る呼び方に変わりつつあり、鼻につくと思いながらも、彼の実力を認め始めていた。

 次男のムザフは、大宰相サドラザム アミルの近侍ハーディル として働いていたので、自身の心情はアブダーラ家寄りになっている。ムザフにしてもファリドの謀略は義憤をもって対すべき行為であった。

大宰相サドラザム の位に在ったのは他でもないアミル様だ。ファリド・レイスはその臣下の籍に過ぎないはずではないか」

 近侍ハーディル として仕えていたといっても、その実、アミルのムザフへの扱いは養子に対するそれに近く、数々の朝恩を受けていたので、アブダーラ家へ義理立てる心情が生じたのも当然のことである。

「ハーシムの奴も、さっさとファリドを倒す心を固めればいいのだ。暗殺でも夜襲でも何でもいい。ファリドの生死で、アブダーラ家の生死も決まる。もちろん生死逆にだ」

 バラザフが今、ハーシムに求めるのは、ファリドと戦争を起こすか、暗殺するかして、ファリドをこの世から排除する事である。それによって、自分が覇権を狙う舞台に立てると期待した。だが、バラザフがこのように自分の野心を彼自身、いまだにレイス軍の下部組織の構成員としてのしがらみから脱しきれていない。

 そして病に臥せっていたサリド・マンスールがついに世を去った。カーラム暦1021年、寒い季節の終わりが見え始めた頃である。ファリドの横暴を抑制出来る最実力者を失ったハーシム達の大いに落胆した。

 そして、その夜――。

 アミルの懐刀だったハーシムを危機が襲った。政敵であるファリドから襲われたのではない。アミルの生前より政権内では、文官派閥と武官派閥の折り合いの悪さが顕著になっていたが、文官派閥の筆頭であるハーシムを、武官派閥の連中が殺害を企てた。この企てに参加した武官はナミル・カリル、アドナン・ムサバハー、ガジ・タリヤニなど。追い詰められたハーシムは、仇敵であるレイス邸に助けを求めた。

「とりあえず助けて、後で使いどころを考えるか」

 門前に居るハーシムを中へ迎え入れるようファリドは家人に命じた。程なくして武官派閥の連中がレイス邸に押しかけて、ハーシムの身柄を要求するが、ファリドは柔和にもこれを拒絶し、ハーシムに対しては助命の見返りとしてベイルートからの退去を要求した。

 この経緯をアサシンがリヤドまで報告した。バラザフには、ファリドのハーシムの使い方がよく読めていた。

「ムザフ、ファリド・レイスが何故ハーシムを救ったかわかるか」

「文官派閥と武官派閥の亀裂をもっと深めるためですね」

「その通りだ。今ハーシムが死ねば、アブダーラ家は一つにまとまりファリドに牙を剥くようになるかもしれない。そうならないようにアブダーラ家の遺臣同士で争わせ弱体化を謀っているのだ」

 さらにバラザフは、ムザフにその後の経過を語って聞かせた。ファリドはハーシムを政治の中心から遠ざけた後すぐに、メッカ南部ベツレヘムに本拠を置いて、大宰相サドラザム カマール・アブダーラの補佐として自らを宰相ペルヴァーネ の位に置いた。もちろんカマールの補佐というのは建前である事は皆が周知する所であり、世間ではファリド・レイスを実際の執政者として扱うようになっていった。

 ファリドは、アブラーラ家弱体の手を緩めなかった。

「サリド・マンスールの息子サヌービルは、スタニスラフ・ザデー達と結託して、このファリド・レイスを除こうと企てた疑いあり」

 ファリドは、この偽情報を流言として流した。

 サヌービルにはこのような事実は無く、この噂は本人とっては降って湧いた災難だった。

 サヌービルは、早速ファリドに対して噂は事実無根である事を釈明して、その証として自分の母スノウバラを、ファリドの本拠地であるオマーン地方のマスカットに人質に出した。

 ベツレヘムにおいて大手を振って、あれこれと手を打つファリドは、それだけでは足りず、今度はベイルートのアミル城クァリートアミール の城郭の中に自分の拠点を造ってしまった。

「あの苔爺め。ここまで悪臭が届いてくるようだ。呆れて物も言えぬ」

 ここまでいくと戦略、策謀という言葉の範疇に収まりきらない、ファリドの個人的なわがままの域に達しているのだとバラザフは思った。実際、今のファリドは大手を振る、というより振り回している。執政の座を得るためには何でもするという感じだ。

「やはり、アマル を持っていない人間は、力を持ったときに出てくる色合いが汚すぎる。俺もアルハイラト・ジャンビアと呼ばれ、策略で鳴らしたきた口だが、あそこまで汚いやり方はできない」

 そして、すでにこの時ファリドの魔手は、さらに南へも伸び始めていた。

 カーラム暦1022年、ファリドはザラン・ベイが召喚の命に従わない事をを理由に、討伐を発会してアミル城クァリートアミール の自分の拠点に諸侯を集めた。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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2023年2月5日日曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第10章_2

  翌年、すぐにアミルはカラビヤートの諸侯にメフメト征討のために軍を出すように命じた。ファリドやバラザフにも出兵の命令が下った。

 アミルがバーレーン要塞を包囲するために指揮した兵の数は二百万。広域にわたって周辺の城邑アルムドゥヌ に兵を分散させねば軍容を維持する事すら困難な数である。

 バラザフは三万の兵を率いてバーレーン要塞攻略戦に参加し、サリド・マンスールの部隊と合流した。サリド・マンスールはアミル・アブダーラの腹心であり盟友でもある人物である。この部隊には、ザラン・ベイ、アアジム・ダルウィーシュが所属し、サリドが部隊長を務める。

 兵力的のは申し分の戦いだが、メフメトを相手にするのにバラザフが懸念している事が一つだけある。

「あのシーフジンにはどう対処すべきか」

 カウシーン・メフメトが世を去ると同時に、モハメド・シーフジンの話も衆口に乗らなくなっている。カウシーンのようにシーフジンを巧みに統率する者が居なくなったからであろうが、メフメト家が滅亡の淵に立たされているこの戦いで、シーフジンが傍観を決め込むとは考えにくい。

「今のシーフジンはバーレーンの防衛の任務を果たすのがやっとで、アルカルジにまで手出しするに至らなかったようです」

「なんだ、そうだったのか」

 シルバアサシンにシーフジンについて調べさせ、ひとまず安心を得たバラザフである。

 ファリド・レイスも今回の戦いに参戦し、包囲網に加わっている。ファリドは一計を思いつきサーミザフを一度自分の指揮下から外してバラザフの部隊に所属させた。

 マンスール隊はメフメト軍バーレーン要塞の近くの砦を包囲している。バラザフはマンスールにハサーの城邑アルムドゥヌ の攻略を進言し、自身と息子のサーミザフをその攻略担当に自薦した。

「ひとつくらい敵の城邑アルムドゥヌ を取っておかねば、大宰相サドラザム から怠慢の烙印を押されてしまいますゆえ」

 そう言ってハサーに向かうバラザフだが、武功を立てねばならぬというような焦りは全くない。

「サーミザフ。昔アジャリア様や我が父エルザフがここに篭城したメフメト軍の太守ラエド・アレウィを攻めた。名将アレウィ相手に三日で城邑アルムドゥヌ を落とした。だがな、俺はここを一日で取るぞ」

 名将ラエド・アレウィは今はもう居ない。

 バラザフは、シルバアサシン団のフート、ケルシュの二本柱を呼んだ。

「中の敵は二百万の兵力を恐れて縮みあがっている。その恐れを我等の力にせよ。城内で火を放ち、夜間に虚言を撒き散らして自滅を誘え。太守と話をつける時間がない。計略だけでやるぞ」

 バラザフの言葉が終わると同時にシルバアサシンは、四方八方に散開した。

 バラザフ等本隊は、城邑アルムドゥヌ を包囲して城内に攻め込める姿勢で機会を待っている。

火砲ザッラーカ 隊はいつでも火を噴けるようにしておけよ。城内に炎が見えたら、それに機を合わせて射撃するのだ。千人ずつに三分して、射撃の手を絶やすなよ」

 ここまで部下はバラザフの指示通りに動いている。それは城内での経過も順調だという事でもある。

 砂漠では雨は長続きするものではない。とはいえ、

「こういう時に限って雨に狙われるものだからな」

 雨量が少しずつ増えてくる時期である事から、バラザフは急な降雨で火砲ザッラーカ の放火が阻まれはしまいかと気にしていた。若い時から彼は戦場で雲の流れが自然と気にかかる。バラザフが戦いで雨に計画を阻まれた事はなかったが、雨を気にする癖はそのままで今に至っている。悪いことではない。

 そろそろ中でケルシュが率いるアサシン団が活躍し始める頃だ。城内は騒然となり、時を置かずしてあちこちで炎が夜空を紅く照らし始めた。

「頃合だ。火砲ザッラーカ 発射!」

 城壁を越えて火砲ザッラーカ の炎が夜空をより明るく見せた。それで十分であった。

 最後の放火が行われた時には、城内の混乱は最高潮に達していた。バラザフは手元に残っていたアサシンを稼動させて、城壁を昇らせた。城内のアサシンと歩兵が連携して内側から正面を開門する。

 次に赤い水牛、アッサールアハマルの出番である。前回のレイス軍との戦いで出番を得た赤い武具の部隊は、その後もシルバ軍で常設される事となったが、前回と異なるのは馬ではなく水牛に騎乗している点である。これにはレイス軍の方ではなく、自分の方が本元のアッサールアハマルなのだと、世間に認識させるバラザフの狙いがあった。

 そういった大義名分の自他の意識が、戦場で勝敗を分ける事が多々ある。短期で水牛を飼いならす苦労はあったが、将兵の士気の高揚には見合う苦労だとバラザフは考えている。

 突入したアッサールアハマルが雄雄しく雄叫びを上げる。バラザフ自身も突入部隊に参加した。こういう時に本陣で座って待っては居られない人である。

 城内の兵士は抗戦してくる者は皆無だった。バラザフは、この城邑アルムドゥヌ に自分の権限でサーミザフを太守として置き、自身は早々と引き上げ明朝にはマンスール隊に復命していた。

 サリドは一晩で城邑アルムドゥヌ を一つ陥落させて来て、平然と明朝の軍議の席に座っているバラザフを、幻影であるかのようにしげしげと見ていた。

「隊長殿、この城邑アルムドゥヌ も手早く片付けて大宰相サドラザム 殿へのよき土産にしたいものですな」

 サリドの不思議そうな顔に比してバラザフは飄々たるものである。

「噂以上の戦巧者だ。噂といえばシルバ殿は風変わりな配下を持っているとか」

 サリドが指すのはシルバアサシンとも、昨夜の水牛のアッサールアハマルとも取れるが、バラザフはそれには微笑で返したのみであった。

 今、バラザフを含むサリド・マンスールの部隊が包囲しているのは、バーレーン要塞の支城ともいうべき城邑アルムドゥヌ で、昨夜バラザフが落とした場所よりは若干規模が大きい。またここの守将はマフーズ・ハザニという武官で、メフメト軍の古豪として有名である。

「今、我等はバーレーン要塞を落とす事を目的として、この城邑アルムドゥヌ を包囲しております。さらにその前段階として周囲の砦を確実に攻め取ってはいかがか」

 バラザフの献策にサリドもザランも同意した。

「では、折角ここに錚錚たる顔ぶれが集まっているのだから、諸将が一件ずつ担当して周囲の砦を落とすのはどうかな」

 アアジム・ダルウィーシュが締めにこう案を出して軍議は決まった。

 こうして各将は四、五の砦、城邑アルムドゥヌ を落としていったが、急がずに二週間時間をかけ、バラザフもそれに歩調を合わせた。いよいよ、孤立したマフーズ・ハザニだったが、三日は抗戦を維持したものの、最終的には降伏するしか手段は無く、マンスール部隊の管轄の戦いはこれで終わった。

 周囲の戦力が全て剥ぎ取られて、難攻不落のバーレーン要塞も落ち、メフメト軍は降伏した。さらに海峡を渡った先のバンダルアバス方面もアブダーラ軍の威令の下に置いて、アミル・アブダーラが、ついにカラビヤート全土を手中に収めたのであった。

 メフメト軍が支配していたバーレーン要塞や、オマーン地方はファリド・レイスの支配下に置かれたが、その替わりファリドはナーシリーヤ、バスラ、クウェートなど、馴染み深い本拠地をアミルに取り上げられてしまった。

 本当にしぶしぶファリドは、新たな領土であるオマーン地方のマスカットを本拠として領地運営を開始した。

 ハウタットバニタミムに関してはアミルからシルバ家に返還するようにとの命令が出た。

 これにファリドは巧みに対応した。ハウタットバニタミムはシルバ家の返還する。だが、その相手はバラザフではなく長男のサーミザフにするというのである。サーミザフは現在はレイス軍の武官となっているため、ハウタットバニタミムがシルバ領になっても、実質的にはレイス軍の領土とも言えてしまう。

「ふざけるなよ」

 バラザフにはこれは受け入れがたかったが、結局自分の死後シルバ家はサーミザフが当主となるのだからと、承服した。

「相変わらず苔の生えたような奴だ」

 外交上は調和を保ちつつも、バラザフの心中ではファリドとの間の溝がますます深まっていった。

 同年、酷暑が去りゆき逆に寒さが目立つようになってきた頃、アミルから客としてベイルートに招くという使者がやってきたので、バラザフはそれに応じた。

 ――世間の噂通り本当に鼻の大きい奴だ。

 応接間でアミルに対面したバラザフは、まずそう感じた。謁見の間でアミルが来るのを待っていたら、近侍ハーディル にこちらに通されたのであった。

「バラザフ・シルバ殿、よく参られた。日頃から未来を視る眼が欲しいと願っているとか。それが自分のアマル なのだと」

「はあ……」

 自分からこの話題を出すことは確かにある。だが、相手の方から、しかも初対面の相手から切り出されて、いきなり調子を狂わされるバラザフである。

「初対面の相手にこんな事を言われて驚かせてしまったようだな。済まん済まん。東のアルヒンドから取り寄せたシャイ だ。これでも飲んで気を休めてくれ。皆、俺が淹れたシャイ は美味いと言ってくれるのだ」

 すでに良い具合に熱せられた茶器から茶を注いで、アミルはシャイ を差し出した。

「それでは頂きます」

 ゆっくりと熱いシャイ を口に含むバラザフ。

「いい味であろう」

「はい。心が休まっていきますな」

 こいつにはやけに味方が多いようだが、この茶のせいもあるのではないかとバラザフは思った。視線を落とした自分の顔が碗の中で波紋に揺れている。

「ところでバラザフ」

「はい」

 アミルはバラザフに少し膝を寄せてきた。

「お前の未来を視る眼とは、これであろう」

 そう言って敷物の下から引き出してきたのは、バラザフがいつも先行きを占っている札占術タリーカ の札である。

「これで俺の未来を見て欲しいというのではない。相談したいのはこれさ」

 アミルが山の一番上から捲った札をバラザフに見せた。札は皇帝インバラトゥール である。

 熱いシャイ を飲んだばかりだというのに、バラザフの額からは冷や汗がゆっくりと流れ落ちる。アミルがこの札に喩えてファリド・レイスの事を言っているのであろう。それはつまりアミルの耳目はバラザフの所にまで届いているという事になる。しかも随分昔からだ。

「どうしてそれを」

「配下に目端の利く爺がいてな。そいつがどういうわけか俺の事を気に入ってくれてな。あちこち飛び回ってくれている。まあそれはいいだろう」

 アミルは黙してバラザフのファリドの評を促すように目を覗き込んでいる。

「これは大宰相サドラザム 殿はすでにご存知の事かもしれませんが、昔、アジャリア公がご存命の頃にも同じ事を聞かれました」

「ふむ、それで」

「ここだけの話にしていただきたいのですが、その時私はファリド殿を若さに苔の生えたような男と、率直に自分の感想をアジャリア様に申し上げたのです」

「それは面白いな!」

 楽しめる物が大好きなアミルは、この喩えに哄笑した。

「ですが、今のファリド殿は若者というには、いささか貫禄が過ぎるようで、その評価はいかがなものかと」

「それでは今のファリドは一体何なのだ」

「古苔で充たされた洞窟かと」

「苔だらけになってしまったではないか」

「はい。ハウタットバニタミムを愚息のサーミザフの預かりにすると言い出したとき、昔のファリド・レイスではないと思いました。老獪といいますか世知に長けてきたといいますか、若い頃よりアジャリア様に叩きのめされて強くなったいったように思えます」

「なるほどな……」

 バラザフの話を聞き終えたアミルは、頭の中でゆっくりと記憶を探り、それが今の話と繋がったかのように、納得している風だ。

「さすがはアルハイラト・ジャンビア。あのアジャリア・アジャールの片腕といわれただけの事はある。お前のような切れ者を敵には回したくないものだな。それに――」

 アミルはゆっくり腰をあげ、

「今日は久々に楽しい話が出来た。俺の事もたくさん話して聞かせたいが、政務もあるし今日はこれまでだ。また必ず会おう」

 そう言いながらバラザフに笑みを与え室を後にした。

「飄々として捉えどころがないが、何故か憎めない奴だ」

 アミルの気のおけない雰囲気に、バラザフはいつの間にか、存念を全て話してしまったという感じだが、後にはすっきりとした気持ちが心中に残って、ほんの少し残っていたシャイ を飲み干した。


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2023年1月5日木曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第10章_1

  バラザフが名声を得たりといえども、相変わらずアミル・アブダーラが続いている。

 大宰相サドラザム になり、一気に中央の政治の権益を自分に集めようとしているアミルの所に庇護を求める諸侯が増え、中央の威令に服す士族アスケリ の数も日増しに増えている。

 だがそのアミルでも一筋縄でいかない者等がいる。ナーシリーヤのレイス家、ドーハ、バーレーン、オマーンに威を張るメフメト家がそれであった。

「一つでも手を焼いているのに、あいつ等は同盟しているからな。ナーシリーヤからオマーンまでは光の届かぬ黒き大地だよ。それと比べて、レイス、メフメトの大軍に一歩も退かず逆に撃退したバラザフ・シルバは、今後も気にかけてやりたいものだ」

 本人の居ない所でアミルはバラザフに賀詞を連ねた。バラザフの方でもアミルへの臣従を嫌がらず、ベイ家にも頼んでムザフをアミルの所に派遣武官として置いてもらえるようにした。

 アミル・アブダーラという中央政権の庇護を得るようになり、バラザフの日々の暮らしの中に剣戟の音が聞こえなくなって、しばらく経った。

 ところがその穏和な生活を再び乱す事が起こった。カーラム暦1008年、ついにファリド・レイスが中央政権に威服した。つまりファリド・レイスがアミル・アブダーラの下についたという事で、カラビヤート全体を趨勢を鑑みれば平和への筋道となるのだが、これがシルバ家を大いに揺さぶる事になる。

 ファリドはアミルと距離を縮めたのをいい事に、今まで自分に辛酸をなめさせてきたバラザフの評価を、ここぞとばかりに貶める態度に出た。亡きアジャリアに手痛い目に遭わされ続けた恨みもある。さらには、シルバ家を罵って、同盟相手であるメフメト家の評価を相対的に上げようという狙いもあった。

「このカラビヤートにバラザフ・シルバ程の食わせ物はおりません。バラザフは一度メフメト家に従ったかと思えば、裏切ってベイ家とも結託していた。さらに奴の悪事を紐解けば、ハイレディン・フサイン殿に臣従した際も、ハイレディン様がヘブロンで死んだ途端、私ファリド・レイスを裏切った。ハイルの城邑アルムドゥヌ を改修する際にも我がレイス家は大いにシルバ家を支援したのです。差し伸べた我が手を咬む如く、ハウタットバニタミムの所有の件で裏切った」

 本音でバラザフを恨んでいるので、ファリドの弁舌は熱を帯びつつ滑らかに回る。

「そして、またベイ家と結んだかと思えば、今度はアミル様の下に付くという。これを食わせ物と呼ばぬならこの世に食わせ物など一人もおりますまい。バラザフ・シルバは自分が生き残るために他人の肉でも食うのですぞ」

 これだけの弁を生み出す如くファリドの頭に血が巡っていれば、かつてアジャリアに叩きのめされる事も無かったはずである。

「アルハイラト・ジャンビア。確かにそう世間に賞賛されるだけに頭はあります。ですが、知恵が人の全てではない。バラザフは知恵の使い方がいかにもまずく、いつ庇護者を裏切るとも知れず油断なりません。今、その気苦労をアミル様が抱えておられるかと思うと、このファリド・レイス、アミル様が不憫でなりなせん」

 アミル・アブダーラは平民レアラー の、しかもかなりの貧しさから大宰相サドラザム にまで身を起こした男である。その出世の過程の早い段階で、他人の気色を窺うという特技を身に着けていた。よって、これらのファリドの訴えも、恨みつらみが目いっぱい盛られていると冷静に見ながらも、脳内の半分では、

 ――ファリドのバラザフ・シルバ評も全く聞き流す事は出来ぬ。

 とバラザフへの警戒心も同時に持っていた。

「レイス殿の言い分はよくわかった。貴殿はこのアミルに何を求める」

「アミル様に何かを要求するなど僭越ではあります。ですがハウタットバニタミムをメフメト家に返還するように、シルバ家に命じるのが政道に適う事かと。いわばシルバ家はハウタットバニタミムの所有権を自分で喧伝しているだけなのです。政道の道理が示されればメフメト家も自ずと威令に服す事でしょう」

 ファリドとの会見が終わったアミルは、まずザラン・ベイとの路線を固めた。

「バラザフ・シルバの動向に注意されたし。顔に二面あり」

 とバラザフへ気を許しすぎるなと、アミルは手紙でザランに釘をさしておいた。

 そしてもう一通差出人不明で、

「レイス軍とシルバ軍との戦争にて、バラザフ・シルバに肩入れせぬよう」

 と書かれた手紙がザランのもとに届いた。無論、アミルの手紙と一緒にである。

 ファリドの話と、他から伝聞するバラザフの知謀をアミルは評価したが、その高評はバラザフの能力への警戒心へと作り変えられていった。

 また大勢としてはシルバ軍は少しも恐ろしい相手ではない。レイス軍が自分の所についたこの状況では、バラザフ・シルバとは個人の能力さえ注意しておけばよく、ファリドの気色を損なわないように懐柔する方が今は大事といえた。

 バラザフを心の中で少し距離を置く一方で、息子のムザフのひととなりをアミルは愛した。ファリド・レイスとの折衝からシルバ家の扱いに影響が出るが、アミルはムザフを気遣ってそのような事情は一切告げなかった。

「ムザフは、賢くてその上、実直だな。ハーシム・エルエトレビーとは、着物の表地と裏地のようだ」

 ムザフの存在を自身の懐刀であるハーシム・エルエトレビーと対にするような形で評価した。

 ハーシムは知謀に切れ味はあるものの人当たりはよくない。一方ムザフは穏和で人を生かす知謀を持つ。アミルはこの二者の才知の在り方どちらも好んで傍に置いた。

 ――アミル様は父上によく似ている。

 ムザフはアミルに仕官して、そのように見えてきた。無論、面貌ではなく、人格は能力的な面である。

 二人とも困難に直面した際には、それを前向きにとらえ闇を光に換えていこうとする。結果、憂慮していて点が逆に長所、実績となって残る。また、対人的にも賞罰両刀を使い分け人との垣根を取り払い距離を縮める。

 二人には異なる点もある、とムザフは思う。

 アミルには、平民レアラー として育った経験からか、羞恥心はあまり無く、生き抜くために恥をかく事を嫌がらない。バラザフの方は、上からどんな重石を乗せられようとも持ち上げてやるぞ、という心魂の剛直さがあった。

 ここまでのレイス軍とシルバ軍の角の突合せを見ていて、アミルが取った処方は、シルバ軍をレイス軍の下につけるというものである。このまま放っておけばファリドが再びバラザフの所に攻め入るのは時間の問題だろうから、平定しかかっているカラビヤートがまた加熱する事というアブダーラ家にとって好ましくない状況になる。

 よって、この処方は全体の熱を冷ますと同時に、他家の軍制に介入してアブダーラ家の威令によってレイス軍、シルバ軍を組成するという形を取りたかったためでもある。

「アミルめ、シルバ家をレイス家の格下に置きやがった」

 バラザフは、勢力関係を計算してシルバ家の処遇を決めたアミルを憎んだ。他家の勢力争いに乗じて裾野を拡大していく点では自分もアミルと同じ見方をしているのだが、自分は圧迫される勢力なのだから、したたかでいて良いのだとバラザフは思っている。

「それだけではないぞ。現在のシルバ領のうちハウタットバニタミムの周辺地域をメフメト軍に献上せよと言う。その我等への補填をレイス軍に一任し、アルカルジ、リヤドのみ所領据え置きにして良いと言ってきている」

 まとめるとシルバ家はアミルの命令によってレイス家の下に付かされたばかりか、所領までもメフメト家に取られたという事になる。

 そしてファリドがアミルの命令に従ってシルバ家に与えたのがナーシリーヤの城邑アルムドゥヌ の傍のガラフという場所である。ナーシリーヤの近くにあるので拠点として価値は低くはない。

 だが、シルバ家がここを実効支配するのはほぼ不可能に近い話である。本拠地となるアルカルジ、リヤドからはあまりに遠く、他家の支配地をいくつも通りながら行き来せねばならない。またナーシリーヤの傍である事は常にレイス家に見張られている事にもなるので、ファリドが変な気をおこせばいつでも奪取されてしまうのだ。

 シルバ家がここから得られるのは実質、僅かな租税だけで、それも輸送のための人員の賄いに配ってしまえば、ほとんど残らない。

「アミルの命令で痛手は受けたが、メフメト家の主張も通らなかった。アルカルジを全部寄越せといっていた所をハウタットバニタミムを所領するだけに止められた。アルカルジ、リヤドを我等が押さえているから、カイロやメッカの往来で得られる利はシルバ軍だけのものだ」

 現実に光をあてて見なければやっていられない。重臣たちに話すバラザフの言葉には、素直に負けを認めたくない色が滲み出ている。

「これだけで終わりにはしないぞ、あのメフメトはな。また悪巧みを仕組んでくるに決まっている。防衛により一層留意せよ」

 取られた部分は今は諦める他ないが、ハウタットバニタミムの城邑アルムドゥヌ でも周辺にはまだシルバ軍が実効支配出来る砦も残っている。そうした拠点を今までハウタットを任せていたイフラマ・アルマライの預かりにして、諸将を従来の配置どおりにして、バラザフはメフメト軍への警戒を説いた。

 しばらくして、バラザフは自分の方から暗躍を始めた。弟のレブザフの縁故から長男のサーミザフをファリド・レイスの所へ送り込んだ。

「アミル様の指示によるとはいえ、レイス軍の従属となったからには、保証として誰かをレイス軍へ預けた方が関係が悪化せずに済むと思われます。待遇はこのレブザフが良きように計らっておきます」

 このように書かれた手紙がレブザフから送られてきたのがきっかけである。

 バラザフはアブダーラ家から呼び戻して、今回も次男のムザフに赴任させようと思っていたが、サーミザフが自らこの任を買って出たのである。

 サーミザフという若者は生真面目な性格であると同時に、弟想い、家族想いである。レブザフは自分が待遇を保証するとは言ってはいるが、これまでのシルバ家とレイス家のややこしい関係を考えると、今アミル・アブダーラの寵愛を受けているムザフが、それ以上に良く扱われる事は考えにくい。

 また、対等ではないにしても、今やカラビヤート最強となっている大宰相サドラザム のアブダーラ家との繋がりを自ら断ってしまうのは惜しい。またその道筋をつけてくれたベイ家の顔にも泥を塗る事にもなってしまう。生真面目な彼の性格がそれを良しとしなかった。

「俺はお前を他所に出すのは反対だぞ」

 サーミザフの意向を聞いて、バラザフはすぐに反対した。バラザフの中では、長男のサーミザフを次期シルバ家当主にしようという考えがあったからである。

「ムザフはアミル・アブダーラ様の近侍ハーディル として可愛がられているとか。実力者に近侍ハーディル として仕える者がその後の出世において道が開けているのは父上が一番ご存知のはず。ファリド・レイス様は派手さは無いものの地道な方であり、ハイレディンに臣従するかのようにじっと堪忍してつきあった性格は、今後付き合っていくのに信用に値するでしょう。シルバ家の今後の事を考えた場合も、私がレイス軍に、弟がアブダーラ軍に仕官しておく事は有益です」

 若造だと思っていたがいつの間にか言うようになったとバラザフは思った。それだけサーミザフの話は的を射ていて、聞くべき理があった。

 ――レブザフの奴もファリドについて同じような事を言っていたな。

 レイス家に赴く前の妙に溌剌としたレブザフの姿がバラザフの脳裏に映った。

「お前の言う事ももっともだ。お前がレイス家に行くのならば、そこでシルバ家の陣地を拡げてこい」

 この人らしいしたたかさである。

 ――レブザフのようにサーミザフの方が俺よりファリドと気が合うかもしれない。

 レブザフと似たサーミザフの言葉の先に、ファリドとの関係が少し見えた。

 ファリド・レイスは今では元サバーハ家の領土であるクウェートを本拠地としている。クウェートに赴くサーミザフには、バラザフも一緒に付いた。

 会見の席でファリドはバラザフに対してはにこりともしなかったが、サーミザフには笑顔を絶やさなかった。

 ――サーミザフが上手くファリドと付き合っていけそうで、俺も少しだけ心配事が減った。

 ファリドの自分へのとげとげしさは気にもしていない。

 会見はそのままサーミザフ歓迎の宴席となった。その席でバラザフは、ファリドにひとつだけ尋ねた。

「レイス殿にアマル というものがあればお聞かせ願いたい」

 名目上彼の下に置かれても、レイス様と呼ばないバラザフの剛腹さである。

 答えるファリドにもバラザフへの無愛想には、ぶれが無い。

アマル という言葉すら浮かんだ事が無い。そんな物を許してくれる程、俺の現実は甘くは無かった」

 ここまでは想定どおりだったが、バラザフはもう一歩踏み込んでみた。

「私は未来を視る眼が欲しいと思いつづけておりました。童子トフラ の頃よりずっとです。今でも欲しております」

「それはアマル であって貴公にとっては幸せな事だろう。そんな物は現実には在り得ないからだ。アマル として心の中に大事に大事にしまっておかれるがよい」

 バラザフは、そこまでで言葉を発するのをやめた。この人物には未来は見えないという蔑みもあったし、怒りが湧いてこなかったのは、ファリドがサーミザフを大事にしてくれるだろうと、少しだけ好感を持てたからだろう。サーミザフに対して心配事が無くなった。今はそれだけである。

 心配事という物は一つ減れば、またすぐに新しい心配事が生じるものである。

 カーラム暦1011年秋、メフメト軍のハウタットバニタミムの太守が、近くのシルバ領の砦を陥落させ、シルバ側の守将もこの戦いで戦死した。

「メフメトのやつめ許せん。俺の政治に服さぬ乱暴に出るならば、メフメト軍を滅亡まで追い込んでやらねばならない」

 バラザフ以上にアミルは頭にきていた。折角、メフメトの顔も立てて大宰相サドラザム として裁判の労を執ってやったのに、それに不承知であると言う様な今回の挙兵である。裁定に不承知であるならば、その時に申し立てねばならない。それを後になって騙すような形でシルバ領に押し入って砦を落とすというのは、世の摂理を乱す許されざる事であった。

 一旦、事はここで霧散したものの、アミルの中ではメフメト家を威令に服さぬ不忠者という扱いになり、メフメト征討に大義を被せた。


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2022年12月5日月曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第9章_5

  カーラム暦1007年になると、早くもレイス軍とメフメト軍の同盟にひびが入り始めた。

 メフメト軍の言い分は、ファリド・レイスが先の盟約に準じて領土分割を行っていないという旨である。

「シルバ。さっさとアルカルジをメフメト軍に明け渡せ」

 ファリドの命令を持った使者がバラザフのもとを訪れた。

「あのポアチャ、やはり我等との約束を不履行にしたな」

 バラザフの中には若い頃からファリドの人格を侮蔑する部分がある。自分より格下だと思っているから、自分より道義上優れているはずもなく、約束は守れない男だと認定していた。

 少なくともその認定は、この局面では当たっていたといえる。

 不都合な事とはいえ、自分の読みどおりになっている現実を直視しているバラザフの頭は、しっかり怜悧さを保っている。

「シルバ家はファリドの言いなりになる必要は全く無い」

 と家中には言い放ち、ファリドからの使者には、

「レイス殿からの証文にはこう書いてあるぞ。アルカルジはシルバ領と認め、ハラド、リヤドもシルバ家の随意に、と。ほら、これだ」

 こう言ってファリドからの証文を突きつけた。

 また別の使者には、

「リヤドは元々レイス領ではなく、シルバ家が戦功によって獲得した領地なのだ」

 と一切譲歩せぬぞという態度をとったりした。

 ファリドの方では、先のシルバ家からの同盟申し入れ以降、バラザフは自分の臣下になったものだと思っていた。彼我の勢力差を鑑みればファリドがそう認識したのは当然である。

 幾度と無く命令違反を犯したバラザフに対して、持てる全ての怒気をぶつけた。

「こうなったら無理矢理にでもリヤドを取るぞ。バラザフ・シルバ、あの無礼者も殺しても構わんぞ!」

 ここまでもバラザフの筋書き通りになっていた。

「どうせ兵力にまかせて押し寄せてくるに決まっている」

 バラザフの話は敵の出方を説明する事から、それゆえハイルの城邑アルムドゥヌ を大幅増築しておいたのだと、家臣たちの不安を取り除く方に流れていった。

 内を固めたらすぐに外である。

 レイス軍との雲行きが怪しくなってくると、バラザフは矛先を向けてきていたザラン・ベイに擦り寄っていった。

 ザランはナギーブ・ハルブにはか ってシルバ軍との同盟を認めた。

「アルカルジからシルバ軍が消滅すれば、アルカルジはメフメトのものに、リヤド辺りはレイスの切り取りになるはず。貪食たんしょく な彼らがそれで満足するはずもなく、必ずこちらに押し寄せてくるはず」

 とナギーブ・ハルブは趨勢を読んだ上で、シルバ軍を味方につけて貸しを作り上手く活用しようと考えた。

「さらに我等ベイ家はアブダーラ家と同盟関係にあり、世の全体的な同盟関係に照らし合わせて見ても、レイス軍、メフメト軍を敵として扱っても問題ありません」

 ザランはハルブの言葉に正当性を認めて、これに同意した。

 この同盟に裏の無い事の証として、バラザフは次男のムザフをベイ家に差し出した。

 ムザフ・シルバ以下二百名の主従がカイロへ発った。

 間も無くムザフと対面したザランの対応が、ハルブを驚かせる事になった。笑いを知らないと言われるザランがにこやかに談笑している。幼少から仕えるハルブも、ザランのこのような姿は一度も見た事が無かった。

 ハルブを驚かせる事はまだあった。自分の勢力圏内にムザフに小領であるが領地を与えた。そしてレイス軍やメフメト軍との抗争が勃発したときにはベイ軍からシルバ軍へ十万の援軍を出す、と約束してしまった。

「有事においては少しでもシルバ領に近い場所がよいだろうな」

 ザランは、しばらくムザフをカイロに逗留させた後、アラーの城邑アルムドゥヌ に任地として赴かせた。まるで大切な賓客を扱うようであった。

 バラザフはベイ家のムザフに対する一連の対応に、感謝はしていたものの、さらに欲深さが顔を覗かせていた。

「ベイ家と昵懇にしておけば、ベイと今親密であるアミル・アブダーラにも近づく事が出来る。きっと俺の狙い通りになるぞ」

 バラザフは近臣のイフラマ、メストしか周りに居ないときに、自分の本音を話した。二人は改めてバラザフの読みの先の長さに驚いた。

「全てはアジャリア様の知恵だ。あの方の知恵を応用すれば、万機に対応出来る」

 アジャール家から独立してから自分が何か新しい存在へと進化しているという自覚がバラザフにある。

「レブザフ、レイス家とは今後長く関係は続かないだろう。お前は進退をどうする。俺はファリド・レイスは好きじゃないが、お前との相性はいいようだ。シルバ家とベイ家が再び同盟関係になった事をファリドに知らせるもよし。アルカルジからファリドのもとへ行くのもお前の自由なのだぞ」

 バラザフは自分とファリドの両方を立てねばならない弟を気遣って言った。

「それでは私はレイス殿の所へ行くよ、兄上。万が一兄上が負けても私がレイス家に臣従していれば、シルバ家の滅亡だけは回避出来る」

「そうだな。レブザフ。シルバ家自体の存続を論じるとなると、俺とお前が別々に繁栄を図った方が得かもしれない」

 家の滅亡の危機を分散して回避する。このやり方は後になってバラザフの長男サーミザフと、バラザフ、次男ムザフをして、シルバ家を敢えて二分させる事になる。

 バラザフはレイス家にレブザフを行かせた後、ハウタットバニタミムからメスト・シルバを呼んだ。そして、メストをフートのアサシン団に護衛させて、ベイルートに密使として送り出した。

「ザラン・ベイがアミルへの謁見を世話してくれる手筈になっている」

 バラザフが謁見という言葉を使うほど、この時すでにアミル・アブダーラは中央の政治で頂点に立ちつつあった。

「アミル・アブダーラ様は、シルバ家がアブダーラ家を通して任官を求めるとは殊勝の限りである。今後はベイ家に直属し世の安寧に尽力するように。アブダーラ家からの援助は惜しまぬ、と笑みを絶やさずおっしゃいました」

 メストが持ち帰ってきたアミルからの手紙にも、

 ――援軍については心配あるべからず。

 と記されてあった。

 暑さが盛りになる頃――。

 アサシンの情報収集によって、バラザフのもとに、

 ――ファリド・レイス、出陣の号令。

 の情報が寄せられてきた。その後も諜報はレイス軍の動きを細かく掴んでは、報告をあげてくる。

「先鋒の武官はアルカフス、レイスなど。旧アジャール軍の将兵で編成された軍団です」

「レイス軍からはムフリスラーラミ・ボクオン、ジャハーン・ズバイディーが八万の兵を率いて出撃」

 状況は緊迫している。だがバラザフは無性に嬉しかった。決して血が流れる事を好むわけではなかったが、

 ――戦いが無いと干上がってしまいそうでかなわん。

 と、いつの間にか戦いの中でこそ生き生きとしていられる人格になってしまっていた。当然、このような状況では高揚し、自然と笑みも浮かぶ。

 バラザフの脳は効率よく稼動している。それが心地よい。自身の手足も忙しなく働かせながら、家臣たちに次々に指示を与えてゆく。

「ハイルの防備を怠るなよ。アルマライ領はアスファトイフラム・アルマライの判断に任せる。サーミザフはこの城邑アルムドゥヌ で防衛せよ。リヤド、ハラドにあるシルバ領の砦にはそれぞれ百名ずつの部隊で守備に入れ」

 アミル・アブダーラとやり取りしてから、月が一巡していた。

 レイス軍は来た。ハイルの城邑アルムドゥヌ 郊外に集まってそれぞれ陣を布き始めた。

「ハイルなど一気に潰してくれるぞ」

 若い頃、負け続きであったファリド・レイスがこんな自信に満ちた言葉を口にできるのには、一応、裏づけがある。ナジャフであのアミル・アブダーラと戦って勝てた事が自信に繋がった。よって、彼の気炎にも勢いがある。

 だが、そんな事はバラザフは十分承知している。これを活用しようという腹である。

「自信、自負、驕慢、油断。そんな物はこのバラザフ・シルバが掌中で転がしてくれようぞ」

 バラザフの言うとおり勢いのある時こそ油断が生まれ、それを衝いて寡兵が勝つのは戦術の定石である。多勢に無勢。まさに今回はその条件なのだ。さらに地理的条件も活かしたい。

「狭まった所に敵を引き寄せて、隠れていた兵に奇襲させる。これが今回の戦いの肝だから、一兵卒に至るまで下達を怠るなよ。そして、やけになって死なぬ覚悟を忘れるな」

 とバラザフは無謀な戦いを戒めた。

 次男のムザフがこの戦いに駆けつけていた。レイス軍に包囲される前に、アラーの街からハイルまで帰ってきたのである。

「今は少しでも戦力が欲しいだろうとナギーブ・ハルブ殿が帰郷を許可してくれました。さらにザラン様が二万の兵を援軍にアラーへ手配してくれています」

「インシャラー。なんとも、ありがたい事だ」

「早速ですが父上、この戦いを私の初陣にさせていただきたい」

「今は経験を酌量している余裕もない。容易ならざる任務だがあえて出来るかとは問わぬぞ」

 夜明け。レイス軍ではボクオンなどの陣が動いた。

「とにかく押せ。一日で落とすのだ」

 ボクオンは数で押し切る戦い方をするつもりである。勢いがあった。一息つくごとにアサシンがレイス軍の動向を報告してくる。

 ムザフはバラザフから二千の精鋭部隊を任された。ムザフがバラザフより与えられた任務は敵の囮である。

 部隊の兵卒は皆赤色の武具を装備していた。しかも赤の鮮やかさにこだわって何度も重ね塗りをさせた具足だ。

「いいか、ムザフ。後退攻撃だ。戦いながら下がるのだ。小数の兵で敵を突いてはすぐ逃げる。これを繰り返して門まで敵を引っ張ってこい。そしてすぐに中に逃げ込め」

 ムザフは赤い武具に身を包み、先頭にはのカウザ を掲げた従卒を行かせる。堂々と太鼓タブル を鳴らさせて門から一行は出てきた。出撃というより行進である。

 片や出撃、や入場と進む方向は異なるも、バラザフのハウタットバニタミム入城の風景が、さながらに再現された。

 ムザフ・シルバの初めての出撃だ。息子の晴れの舞台に思わずバラザフの頬も緩む。

 威風堂々と出てくるムザフの火炎の一団には、敵であるレイス軍からも歓声が上がった。

 レイス軍の中にも昔日を知る者は多い。そうでなくとも赤い水牛、アッサールアハマルの強さは伝説にまでなって知れ渡っている。無論かつてのアッサールアハマルの構成員は、ほぼ全員ファリドの重臣であるイブン・サリムの管轄下にあり、ムザフの部隊は模倣である。だがたとえ模倣であっても、将兵の旧い戦いの記憶が赤いムザフの部隊をアッサールアハマルに見せるのだった。

 隊長格に目をやれば、赤に身を包んだ美麗な若者が熱くも爽快な気炎を放っている。

 敵味方問わず、戦場は盛り上がった。

 最初に仕掛けたのはムザフの方であった。ムザフの部隊から矢が射掛けられ、槍兵が突撃する。レイス軍でこれを受けるのはズバイディーの部隊である。

童子トフラ 、悪いが手柄を立てさせてもらうぞ!」

ズバイディーの大軍がムザフ一人に集中した。無論、ムザフはもう童子トフラ などという年齢ではない。戦功にぎらついている敵の下士官が若造を罵倒しただけである。

 ムザフは敵兵を近くまで寄せて槍で薙いで数人を払い倒し、即座に後退した。そして、追ってくる敵をわざわざ待って数人を倒して敵をかき乱してから後ろに退く事を繰り返した。

 ここまでムザフの部隊に犠牲は出ていない。負傷者は別の兵士に運ばせて必ず救った。

 そろそろ背後に城門が見えてくる。

「よし、あと一回だ」

 ムザフはまた追っ手を散らして、すばやく城門から中へ逃げ込んだ。

 ムザフ隊の罠にズバイディー隊は見事に掛かってしまった。ズバイディー隊のうち戦闘の五千名ほどが、子供の喧嘩程度の戦いで、少しずつ後ろに下がるムザフを、

 ――これならそのうち捕まえられる。

 と錯覚して、シルバ側の城門の前まで追ってきてしまっていた。

 爆音が聞こえた、と認識したときには、ズバイディー隊の兵は火達磨になっていた。燃え上がる人体が地を転げまわる。シルバ兵による火砲ザッラーカ の一斉掃射である。

 この火砲ザッラーカ による攻撃で、ズバイディー隊は瞬時に千名ほどの将兵を失った。

 再び門が開いた。

 ムザフ隊の赤を纏う兵士が中から飛び出してきて、すでに壊滅状態にあるズバイディー隊の掃討にかかった。逃げる方向も見失っているズバイディー隊がムザフ隊の餌食になるのに長く時間は要しなかった。敵が戦力として機能していないが故に出来る戦い方である。

 やるべき事だけ済ませて、ムザフ隊は速やかに城内に撤収した。

 しかし、生き残ったズバイディーが城に目を遣ると、開門したままになっている。

「シルバの奴等、やはり我等の数に恐れをなして慌てて門を閉め忘れているぞ」

 この好機で今しがたの雪辱を果たしてやろう、という気持ちがどうしても湧いてきてしまう。

「突入するぞ!」

 ズバイディー隊の一人が声を上げると、すぐにその後を鯨波が追った。ハイルの城邑アルムドゥヌ に満ちる鼓舞、吶喊、罵倒。勢いよく突入したズバイディー隊を待っていたのはバラザフが仕組んだ罠である。水辺を改良した濠に、寓話の鼠のようにズバイディー兵は突入の勢いを殺せず、やってきた順に皆落ちていってしまう。

砂漠緑地ワッハ に目をつけて手を加えておいて正解だったな」

 そろそろ濠が落ちた兵卒でいっぱいになって、脱出を試みてよじ登ろうとする者が出始めている。

「俺からの餞別だ。釣りは要らんから受け取れ」

 今度は濠に落ちた兵卒の頭上から丸太、岩石、とにかく重量のある物がどんどん降ってくる。頭上から落下物によって反撃の気概をもって上を望んでいた者達も再び濠の水に落とされていく。こうなるとズバイディー隊は、ここから逃げ出す事しか考えられなくなってしまう。

 バラザフは塔に高く松明を掲げた。これが合図になってサーミザフとアスファトイフラムは防衛していた砦を飛び出して、平地で待ち伏せにかかった。

 そこをバラザフとムザフのシルバ本隊に追撃されたズバイディー隊が、息を切らせてやってくる。ズバイディー隊は待ち伏せのサーミザフ隊に奇襲され、そこに追いついたシルバ本隊も加わった。シルバ軍はズバイディー隊を包囲し、確実に殲滅していった。

 そこに援軍の忠世・ボクオンがやってくるなり咄嗟に叫んだ。

「レイス軍の将兵は腰抜けばかりだ! こんな奴等に禄を出すなどファリド様がお可哀想だ!」

 ボクオンが死の淵で恐れおののいて物も言えぬ味方を罵倒した如く、レイス軍の兵士にはもはや戦う気概は消え失せてしまっていた。

 危機から逃れようとするレイス軍の醜態はそれだけにとどまらず、シルバ軍の罠ではない天然の水辺に落ちて溺れて、流されてしまう者まであった。

 レイス軍は、攻めてきてわずか一日で三万もの兵力を失い、負傷者は五万とも十万とも見積もられた。

 ひとまずはバラザフの戦術によってシルバ軍は勝てた。

 だが、今のレイス軍はかつてアジャリアに完膚無きまでやられて黙っていたレイス軍ではない。レイス軍は軍議を開いて、ハイルの城邑アルムドゥヌ の防備を無力化するよう方針転換した。

 周りの砦を一つ一つ潰していく。砦の次は濠の水抜きを謀る。少しずつハイルの防御力を剥ぎ取っていこうというわけである。

「レイス軍はハイルの城邑アルムドゥヌ の周辺から落としに掛かる様子」

 折角立てレイス軍の作戦もアサシンによって、バラザフの所にすぐに漏れてきてしまう。

「それでは、さっそく砦を固めさせてもらうか」

 周辺の砦にバラザフの指示を受けた部隊が向かう。その後の援護部隊としてサーミザフに一万の兵を預けて向かわせた。

「ムザフはアッサールアハマルの率いて水路に沿って進み敵の背後に回れ。いきなり敵の背後に出現したように見せかけるのだぞ」

「父上は」

「俺はベイ軍の援軍をここで待ってから、戦機が熟した頃合で一気に打って出るぞ」

 諜報が新たな情報をあげてきた。

「イブン・サリムの部隊五万が援軍としてレイス本軍に合流!」

 この情報を受けてもバラザフは、あらかじめ計算に入ったいたように落ち着いていた。

「奴等の驚く顔がここから見れなくて残念だ。ムザフのアッサールアハマルを見たときの奴等の顔をな」

 バラザフの方ではイブン・サリムが自分の部隊をアッサールアハマルの伝統の赤を継いで戦っている事をわかっていた。だが、アッサールアハマルの兵卒等を編入しても、自分ほどその威力を使いこなせまいと、バラザフはレイス軍の赤い部隊を下に見ていた。

「俺もカウザ を被る時がきたな」

 バラザフは大軍に膨れ上がったレイス軍と対等にやり合うには、シルバ本隊が出陣するしかないと、アジャリアから下賜されたあの孔雀石マラキート象嵌ぞうがん が施されたカウザ を手元に寄せた。

 折角ムザフがアッサールアハマルで上げた士気である。これを活用しない手は無い。バラザフはハウタットバニタミムの行進を再現した。

 旧事を知るメスト・シルバなどの重臣達は脳裏にあるバラザフの勇姿が、目の前でそのまま蘇って感涙すらしていた。

「あれこそ我等のアルハイラト・ジャンビアのお姿だ!」

 自身の出陣を堂々と演出したバラザフは、一万の兵を引き連れて進んだ。火砲ザッラーカ 兵も三千連れてきている。

 バラザフの背中をアサシンのケルシュとフートが護っている。軽快に動き回れるアサシン軍団も一緒だ。そしてこのアサシン軍団でレイス軍の後尾を掻き乱してやるつもりである。

 レイス軍は、バラザフ自身が出撃したのを見て、この戦いで勝負に出てくると感じた。

「野戦なら数でまさるこちらが有利。戦力差を思い知らせるこの上ない機会だ」

 レイス軍の兵力は十二万。これを半分に割って片方を周辺砦の攻略に、片方でバラザフのシルバ本軍を押し潰すと、レイス軍の首脳陣は方針を決めた。

 ところが、レイス軍の士気は上がらない。緒戦で手痛い目にあわされた事から、またシルバ軍が何か仕掛けてくるのではないかという警戒心が戦意の高揚を鈍らせていた。経験から学習出来る者なら当然の反応であった。

 それでも行けと命じられれば将兵は行くしかない。小規模な戦闘が発生したが、その間にも、

 ――レイス軍が後方から挟撃を受けている。

 ――シルバの火砲ザッラーカ で味方が次々とやられた。

 ――今夜あたり夜襲があるぞ。

 などと流言飛語が飛び交うので、レイス軍は夜間ですらろくな眠りも得られず、病む者が続出した。もちろん、シルバのアサシンが偽情報を噂で流したのである。

 現状を重く見たイブン・サリムが味方を鼓舞するも、その声は一兵卒にまでは及ばない。上手く攻められないレイス軍の鈍い出方によって戦況の進展は滞りつつあった。

「これは長引きそうだ」

 バラザフは長期戦を覚悟してカウザ を深く被った。

 ところが、それから時を置かずして、レイス軍は急に退却していった。エルサレム、ベイルート、クウェート、バグダードに潜伏させておいたアサシンが一斉に同じ情報を持ってきた事によって、事の原因がわかった。

「アミル・アブダーラがレイス家の重臣、サーズマカ・ゴウデを一族ごと引き抜いたそうです」

 バラザフの眼前にファリドの血の気の失せた顔が浮かんで消えた。

 しばらくして、今度はハウタットバニタミムにメフメト軍が攻めてきた。

「レイスもメフメトも連携の定石すら出来んとは。逆に張り合いがないな」

「レイス軍は自分達だけでここを取って、旨味を一人で得ようと考えたのでしょう」

「それでレイス軍が失敗したから、それを利用してメフメト軍が旨味にありつこうというわけですな」

 バラザフ、サーミザフ、ムザフの親子三人は額を寄せ合って眉をひそめて、敵を哀れむとも、侮蔑するともつかない顔で表情を浮かべていた。

 一応、メフメト軍は先のレイス軍の戦い方から学んだようである。三十八万という大軍を一気に指揮して押し寄せてきた。

「今のメフメト軍に我等が恐れる者は居ないな」

 バラザフはハウタットバニタミムの攻め手はどいつも役不足だと判じ、

「ここには二万くらい兵を置いておけば大丈夫だ」

 と戦況を読んだが、手抜かり無きようベイ軍にも援軍を要請した。ザラン・ベイはこれに応じて五万の将兵を援軍として送った。

 メフメト軍はハウタットバニタミムに手出しできたのは一度、二度きりで、後は火砲ザッラーカ で焼き払われて、数百名の死傷者を出してこの戦いを終局とした。やはりメフメト軍もレイス軍と同じく、一切戦功をあげる事無く、結局、手ぶらで総退却するしかなかった。

 ――ナジャフの戦いで当代の覇者アミル・アブダーラを破ったレイス軍も凄かったが、そのレイス軍を小勢で追い払った者がいるそうだ。

 ――レイス軍の相手をして、さらに四十万のメフメト軍を一歩も寄せ付けなかったというぞ。

 ――どこにそんな英雄がいたんだ。

 ――アルカルジの君主バラザフ・シルバだそうだ。

 ――あのアジャリア・アジャールの側近でアルハイラト・ジャンビアと尊称する者も少なくないとか。 

 バラザフの勇名はカラビヤート全域に轟いた。シルバ軍は戦乱の英雄としてこの後永く口碑に残る。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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2022年11月5日土曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第9章_4

  ハラド、リヤド、そしてアルカルジ。アジャール家の旧領は、諸侯の領地争奪戦の間で激しく揺さぶられている。無論、そこに手を伸ばそうとしているのは、レイス家、メフメト家である。さらにはベイ家までもが戦乱を生き残るために領土獲得という路線を打ち出してきていた。

 この三家の中でもハラドの獲得で激しくぶつかっているのが、レイス家と、メフメト家で、両軍の衝突があちこちで発生した。

 セリム・メフメトは、

「ハラドの支配権はアジャリアの孫の自分にある」

 と大いに喧伝した。

 これは領土獲得のための欺瞞ではなく、実際にセリム・メフメトは、アジャリアの娘の子である。

 この主張に対するだけの名分を持ち合わせていないファリドは、アジャリア家遺臣を多数雇用して、彼等の土地勘と人脈を活用して巧みに戦争を展開していった。

 戦いはレイス軍がじわりじわりと優勢に進んでゆく。この風向きをずっとバラザフは眺めていた。そして、風向きがレイス軍に有利と見るや、ファリド・レイスに味方しようと決めた。

「ですが、バラザフ様。すでにメフメト軍ともベイ軍とも同盟関係にある我等がレイス軍にまで距離を縮めるとなると、シルバ家が世に軽く見られます」

 家臣の言い分はもっともである。これら三家はそれぞれ敵対関係にあり、シルバ軍だけがその全てに対して良い顔するという事は、どこかで下手を打てば、その瞬間全て矛先がこちらに向けられる危険を孕んでいる。だが、バラザフはこの訴えを自己の肯定を以って柔和に斥けた。

「これこそがバラザフ・シルバの戦略の真骨頂だ。この方法こそが俺達のような小勢力を滅亡から救うのだ。心配ない」

 こう言ってバラザフは、レイス軍への使者に、また弟のレブザフを立てた。

 レブザフは、現在レイス軍の武官となっている、元アジャリア家の家臣のつてでレイス軍につきたいという旨を伝えた。

「あのシルバ家が我等に臣従するというのか」

 ファリドは余程嬉しかったのか、早速レブザフに直接面会し、丁重に迎えた。

「昔、貴公の兄のバラザフ・シルバに一度だけ会った事がある。あの時はアジャリア殿の使者としてであった。いかにも切れ者という面貌だったのを憶えている。そこから我等はシルバ軍に手痛い目に遭わされ始めたな」

 表情に棘を作らないように努めているファリドだが、積年の仇を所々で刺してくる。レブザフはシルバ軍の売込みで出来るだけ値を吊り上げるため、アジャール軍在籍時代に、シルバ軍がメフメト軍やレイス軍と戦って立て功績を、整然と述べた。

 レブザフの語りを聞いていたファリドは、突如、

「貴公、レブザフ・シルバと言ったな。話を聞いていて貴公が欲しくなった」

 とシルバ家の与力を認める前に、目の前のレブザフを家臣に誘った。

 ファリドはバラザフに、

 ――若さに苔の生えたような男。

 と言わしめた程、彼等の相性はほぼ最悪に近い。

 その相性で言うならば、ファリドとレブザフは組み合わせが良かった。少なくともファリドの方ではレブザフを気に入ったようである。

「レブザフ、レイス軍の武官になってくれるなら、貴公を藩主ラジャー に任官するようにエルサレムの聖皇に働きかけてやってもよいぞ。今のレイス家はそれくらいの力はある。勿論、レイス家からも十分な禄を出す」

 今まで何度もバラザフの遣いで方々に外交に出向いて、淡々と人物を見てきた。あのアジャリアですらも、兄よりもある種、冷ややかな視線で観察していたレブザフも、これには心を動かされた。感激したといってよい。

 今までレブザフは相手からバラザフ・シルバの使者として見られてきたが、レブザフ・シルバとして人物そのものに入れ込んできた者はファリドが初めてだったかもしれない。初対面の自分を破格の待遇で迎えると言ってくれている事が、彼の誠実さを表していると思った。

「ファリド殿がレブザフを気に入ってくれたか。シルバ家とレイス家の関係も築いていけそうだ。交渉ご苦労であった」

 バラザフは、素直に外交上の成功を喜んだ。

「兄上、レイス殿が私をレイス軍の武官にと望んでいるのです」

「うむ。それもいいだろう。シルバ家にとってレブザフ以上の外交の人材は居ないゆえ、大きな損失ではあるが、ファリド殿の厚遇を袖にするわけにもいかないだろう。だが、レブザフよ。右か左か迷ったときは、必ずシルバ家のためになる判断をしてくれ」

「もちろんです。しかし、まだシルバ軍での残務処理がありますので、残りの仕事片付けてから移籍致します」

 レブザフがファリドから取り付けてきた約定は、レブザフ本人のみならず、シルバ家にも良い待遇であった。アルカルジのシルバ領をこれまでどおり認め、ハラド、リヤドに関してもシルバ軍の随意で良いというものである。

「シルバ軍が、レイス軍の下についただと!」

 シアサカウシン、セリムのメフメト親子は、バラザフのやり口に恐慌した。当然の反応といえる。

 メフメト家は、これをシルバ家の裏切りと受け取った。

「あちらがそのつもりならば、こちらにもやり方というものがある」

 早速、メフメト軍は、アルカルジを端から切り取ろうと、軍隊を派遣してきた。

 カイロのザラン・ベイもバラザフの外交処方は背信行為であるとして、シルバ家へ侵略の動きを見せてきた。

 当初、恐れていた挟撃を受けた形になったが、それでもバラザフは落ち着いたままである。

「当然予想していたよ。メフメトもベイも想定どおりの反応を見せてきた。だからレイス軍を選んだわけだ。心配ない」

 これまでバラザフは、アルカルジ、リヤドと自分の活動圏の支配権を賭けの担保にするように、諸侯、諸族との外交的な折衝において優位性を得てきたので、その点に関しては実績に裏付けられた矜持があった。支配領域に比してシルバ軍の組織としての勢力は弱い。

 兵力の多寡を覆して、大勢力と同等の立場で渡り合うには、心の奥底に燃ゆる気根と剛勇さを持ち続けるしか無い。表向きは臣従したような形にはなっても、相手が大勢力であろうとも自分は対等の立場であり、君主個人の能力では必ず相手より優っているはずだという思いがバラザフの中にある。

「おい、リヤドに新しい城邑アルムドゥヌ を造るぞ」

 シルバ家の家臣達は、バラザフの突飛な策案に毎度の事ながら面食らった。レイス軍に付くと言い出したかと思えば、今度は城邑アルムドゥヌ を手がけるというのだから、彼等が驚くのも無理は無かった。

「正確にはハイルの城邑アルムドゥヌ を新しくする。アルカルジやリヤドからは一週間もかかるから急な援軍を差し向ける事も出来ないし、我らには多くの軍を常に抱えておける力はない。昔のように小勢が寄せてきたのを撃退すれば良い時代ではなくなっているから、城邑アルムドゥヌ 自体が小さいと、防衛して耐えているうちに味方の戦局から置き去りにされるのだ」

 アルカルジ、リヤド、ブライダーと西北に道が伸びており、ハイルはその道の先にある城邑アルムドゥヌ である。その先も各地に道は伸びてゆくので、押さえを疎かに出来ない場所ではある。

「拠点の戦略的価値を向上させる。規模を広げて大きくするぞ」

 ハイルの西にごつごつとした岩場がある、切り立った高い山ではないが、足場が悪く進軍に難儀しそうな場所である。そこを起点に城壁を築き、足場の悪い岩肌に難儀して行軍してくる敵を弓矢などで撃退すればよい。その基本的な在り様の今までどおり活用して、バラザフはハイルを東へ、あるいは南北へ拡張していった。

「ここからジャウフ、ラフハー、メディナに繋がる」

「三方を睨める位置だが、また三方から攻められる位置でもあるのう」

 叔父のイフラマがバラザフの意図を解して言葉にした。

「その通りです。そして折角城邑アルムドゥヌ を拡張したのに、兵を養えぬでは無用の事となるのです。よって、糧秣確保のための畑と、さらにそのための貯水が必要になってくる」

 バラザフは、ハイルの周辺に点在する小さな砂漠緑地ワッハ を基に水源を整備して、城邑アルムドゥヌ の中にもいくつも溜池を作った。

井戸ファラジ の整備も当然必要だ。防衛線になったら水が枯渇するから、井戸ファラジ は各部署ごとに作ろう。そしてそのうちの一つは枯れ井戸にする」

 この一つに水を通さないようにするのは、抜け道にするためである。

 バラザフは城邑アルムドゥヌ の砦としての機能ばかりを重視していたわけではない。各門に通じる道の脇に商業区を整備し、布類の商人を多く置いた。煉瓦の工場や、金属加工の鍛冶職人も抱えた。

 産業として鷹匠達への業務援助も行った。

 古くからカラビヤードでは鷹狩りが男子の嗜みとされていて、近頃では権威の象徴とされる向きもある。男達がサクル を連れて城邑アルムドゥヌ を離れ、砂漠に入ってゆき、鷹狩りを楽しむ光景もよく見られる。

 サクル は高価なものでは、城邑アルムドゥヌ と天秤に掛けられる程の値がつく。王族、貴族が戦争で捕虜になった際にも身代金代わりに要求される事すらある。

 城邑アルムドゥヌ の整備に併せるように、バラザフは軍制改革にも着手した。

「ハイレディン・フサインがやったように専業武官を増強する」

 カトゥマルも生前、フサイン軍の勢力に圧されて軍制改革の必要性に迫られていた。それを成そうとバラザフは躍起になっていたが、一方で家臣達はこの軍制改革に不安を抱いていた。専業武官の増加は、農業人口の減少に繋がる。シルバ軍のような小勢力がそれを実行可能なのかどうか。家臣達の不安はそれに尽きる。

 ハイルの城邑アルムドゥヌ の大幅な改築に現場が賑わう中、レイス軍とメフメト軍の間で突如として戦いが止んだ、との情報が入ってきた。

「ハラド、リヤドをレイス軍のものに、アルカルジからオマーンまでをメフメト家の随意にする。その保証として両家の間に婚姻同盟が結ばれる、という取り決めです」

 この情報をアサシンのケルシュの部下が探ってきた。

「そんな事だと思った。あのファリドが豪腕を奮えるわけがないからな。外交上の抜け道があれば、すぐに飛びつくのさ」

 バラザフは、むしろ両家の同盟を面白がって見ていた。

「ハイルの築城を急がせろ。叔父上、急ぎハウタットバニタミムに太守として就いてくれ」

 そして、イフラマ・アルマライの下に長男のサーミザフとメスト・シルバを付けて防衛の任を与えた。

 ハイルに大きな城邑アルムドゥヌ が出来上がった。シルバ家が抱えて維持していくにはやや困難ではあるが、ハイル、リヤド、アルカルジ、ハラドが一連してシルバ領となった。

 ハイレディン死後、中央でも時代は停滞していない。

 ハイレディンの寵愛を受けて出世した遺臣のアミル・アブダーラが、他のフサイン軍の遺臣達を統御して、ハイレディンの盟友であったファリドと対立を深めた。

 両家の軍団は、バグダードの南、ナジャフで衝突。この戦いにレイス軍が勝利した。

「また世の風向きが荒れてきたな」

 バラザフの胸中には若者のような期待感がある。自分の知略を思う存分活用出来るような気がしていた。

「戦乱になれば俺の時代も巡ってくる」

 バラザフの気炎はアジャリアの下に居た時以上に、アルハイラト・ジャンビアとして煌々としている。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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