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2019年9月5日木曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第3章_11

 緒戦を勝利で飾ったアジャリアは、余力の将兵全てにバーレーン要塞攻撃を命じた。アジャール軍とメフメト軍の戦いは本格的な局面に入った。カーラム暦983年のベイ軍との戦争は熾烈を極めた。それと同じ規模の激戦がメフメト軍との間に起きようとしている。
 ――アジャール軍の総力をこの戦いに注ぎ込む。
 ハラド、リヤド、アルカルジ、クウェートといった各地のアジャール軍の兵は四十万を数える。
 いよいよアジャリアがハラドを発つ時、将兵を集めて出征の儀を催した。この儀に参列させるにあたり将兵等に大蒜トゥーム を食べぬように通達されており、また彼らもそれは心得ていた。
 屋外に設けられた香壇を前にアジャリアを始め居並ぶ将兵が厳か日の出を待つ。やがて、東の空が薄明るくなり始め、少しずつ赤を強くする。

 ――インシャラー!

 神がお望みならと唱和し、皆、体躯を折り頭を地に着けた。
 地平から光が差して、香壇にて乳香アリバナ が焚かれた。
 と、その上に水滴が落ち将兵を濡らした。光は差したままで日の光と雨とが彼らを包んだ。
「おお。これは神が我等アジャリア家を潤すとの御意思ぞ!」
 立ち上がって喜びを叫びで表すアジャリアに呼応して、皆も立ち上がり、歓喜に濡れた。
 その叫びの中に、此度の儀式のために戻ってきていたバラザフと幼馴染のナウワーフの姿もあった。バラザフもナウワーフも近侍ハーディル として務めていた頃、この儀式の香壇の準備をやっていた。
「微妙に今までとは違わないか」
「バラザフも感じていたのか」
「うむ。今、違いがわかったぞ。演出が過ぎるのだ」
「俺も一つ気付いた。バーレーン要塞を攻撃すると外部にもわかるように喧伝しているぞ」
「確かに」
「ではアジャリア様の意図は」
「陽動という事になるな」
 幼い頃よりアジャリアの傍近くに仕えていただけあって二人の読みはまさに当たっていた。
 アジャリアはアサシンや間者ジャースース に糸を付けて放ち、アジャール軍がバーレーン要塞を攻撃目標として定めていると情報を撒き散らしている。ハラドの城邑アルムドゥヌ の内にもメフメト家から間者ジャースース が送り込まれているはずである。アジャリアはそれも見込んでアジャール家中にもバーレーン要塞攻撃を言い続けてきたのだった。
 メフメト家はこの情報をどう料理するのか。
「アジャリア様の本心は、やはりクウェートの領域を全て固めたいのだろうな」
「本気を出して短刀でバーレーンをつつ きにゆくのか」
「とは思うのだが、もしかすると」
「もしかすると?」
「アジャリア様のアマル の大きさを考えると、案外両方欲しているのかもしれない」
「我が主君ながら、それが絵空事で済まされない方だとは思うよ」
「そうだな」
「そう考えるとお前の言う演出が過ぎるという違和感もはっきりと実感出来るな」
「どの道表面上はバーレーン要塞を攻撃目標とする事になるだろう」
「メフメト軍の方ではこれをどう取ると思う」
「迷っているだろうな」
「当たり前ではないか」
「いやいや、当たり前というが、当たり前の奴ならそのままバーレーン要塞攻撃と受け取るのだぞ」
「それはそうだが」
「裏があるのかどうか迷うくらいの知恵はカウシーン殿にはお有りだな」
「アジャリア様の方が一枚上と言いたいのか」
「それはそうだろう」
 ここまでの情勢談義に結論して二人は笑い合った。乗せる魚は違っても二人の俎板は近侍ハーディル 時代と少しも変わっていなかった。噂好きの二人であったし、自分の見えている物と同じ物が相手も見えているとなれば会話は弾む。見ている物を言葉に紡ぐ甲斐がある。
 バラザフが読んだとおりメフメト軍は迷っていた。相手の意図が読めぬ限り戦いの軸をは定まらない。つまりメフメト軍はアジャリアの指から出た蠱惑の糸によって、本領を発揮出来ぬ心理状態へ操られているのである。
 ――やはり真に恐ろしきは我が主君アジャリア・アジャール。
 剣が振られる前にすでに敵を斬っている。バラザフはこの恐ろしさを忌避して離れるのではなく、寧ろ憧れた。アジャリアという名の戦術を模倣すれば、それは自らの力と成り得ると単純に思った。

※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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2019年2月18日月曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第2章_24

 末子は成功するという処世の型のようなものがある。過酷な環境に置かれるか、あるいは日進月歩、歩みを止めない親にとっては時に晒される事自体が進化と言って良く、齢を重ねる程実力を身につけてゆくのは道理である。よってこの型の親が子に遺せる才能の恩恵は、若年に出来た子よりは、末子に至る程大きくなると言えるのである。
 バラザフの場合は正確には末子ではないが、この型に照らすならば兄達より成功する可能性は大いにあるのである。だがこの若者には手柄は有っても未だ世に顕現する成功は無く、自覚も無く、父エルザフのみが先に来るであろう光を見通していた。
 アンナムルはとある寺院の香壇にて、一人乳香アリバナ に包まれた生活を送っていた。
 彼は父を諌めた事が、自身の善心の発揚であると疑わない。父の無道を正すこの事自体、父アジャリアの影響を受けての行動だと言えなくも無かった。とはいえアンナムルは父アジャリアの髄が本当に無道であるとは思っていない。
 副官アルムアウィン のヤルバガ・シャアバーン等、自分に賛同してくれる多くの家来達を死なせてしまったが、時が経てば賢君である父の事である。自分の主張を十分に斟酌してくれるはずであった。
 アンナムルの篭る香壇に足音が近づいてきている。
「ようやく父上もご理解下されたか」
 迎えの者が来た喜びで身も心も大いに軽くなった。
 扉が開かれ振り向いたとき、アンナムルは迎えの者と差し込む光と、そして抜き放たれた刃を見た。
 アンナムル・アジャールの名はカラビヤートから消えた。

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2019年2月1日金曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第2章_6

 エルザフはエルザフで十年来のアマルであるシルバ家の旧領回復を成し遂げたものの、ある意味貪欲に次の飛翔をすでに思い描いている。
 その内心を知ってというわけでもないだろうが、アジャリアはデアイエ家から奪ったハイルの太守にエルザフを任じた。元々のシルバ家の旧領など取るに足らない程の破格の待遇である。
 アジャリアのシルバ家への厚遇はエルザフに対するものにとどまらなかった。
「エルザフ。バラザフを近侍ハーディルに取り立てようと思う。親子でよく話し合って返事してくれ」
 このような出世話をこの父子が拒む理由も無く、有り難くこの近侍ハーディルの命を受けた。
 アジャリアにバザラフを取り立てるのを決めさせたのは、猛竜胆の聖廟マスジット・イ・ティンニーンのシュクヮ師である。アジャリアはシュクヮ師を、ザルハーカ教の死生の導き手として尊崇しており、これでまでの香の式次第を基に新たな式次第を構築しようとしていた。神と死者を想うという事に重きを置いて、無駄を削ぎ落とし、意味のあるものは残していった。だが、その過程で問題がひとつあがった。肝心の香は何を用いたら良いかという事である。
 法学者ウラマーは、いかにすれば神と生者の橋渡しが出来るかという命題を抱えるシュクヮ師にとって、今まで当たり前に用いられてきた香を今一度俎上に載せる事もその命題の鍵と成り得る事であり、そうした迷いが生じるくらい、シュクヮ師は神への信仰と人の幸せを真剣に考えていた。
 或る日、アジャリアの館に居たバラザフをつかまえてシュクヮ師は尋ねた。
童子トフラよ。我らが神や先師たちは何の香を好まれると思うかね?」
 「それは乳香アリバナでしょう」
 バラザフははっきりと答えた。
「そうよな。やはり乳香アリバナよな」
 理屈を持たぬ童子トフラが、疑いなくそう答えたのだから、自然としてこれは間違いあるまいと、シュクヮ師は迷いが晴れ納得したのだった。
 一方、シュクヮ師に明路を示したバラザフにとっては、これはどうという事もなかった。遊び友達として親しくしているアジャリアの子のカトゥマルが、最近父が乳香アリバナに凝り出して、自分も付き合わされて堪らぬと、バラザフやナウワーフに漏らしていたのである。
 シュクヮ師に香について問われたとき、持ち前の機転が利いて、
 ――ああ、この事か。
 と思ったバラザフは「乳香アリバナ」と即答しただけの事である。
「あの童子トフラは大層賢いようですな」
 庭で遊び、笑う三人の子供達を見ながらシュクヮ師は、アジャリアに推した。これに弟エドゥアルドの口添えもあって、アジャリアの心は決まった。

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