カーラム暦996年、バスラの
――今はアジャール軍に勢いがある。
それを見てとったファリドとハイレディンは、下手に手出しをすれば傷口が拡がると感じて、結局、バスラの
ファリドとハイレディンが感じたように、今のカトゥマルに怖いものなど無かった。立ち塞がる敵は全て新生
巨体に勢いがある事自体、それは驚異的な力である。ハイレディンもファリドも、今はカトゥマルとの戦闘を回避するのが上策と見ていたが、カトゥマルの方からナーシリーヤ、バスラ方面に仕掛けて行くのを止めなかった。
また、アジャール軍はファリドを野外戦に誘い出すように、何度か仕掛けてみたが、ファリドはナーシリーヤの門を堅く閉ざして一向に出てくる気配もなかった。
「ウルクで叩きのめされたのが心底辛かったのだろうな」
と、アジャール軍の誰もが、引きこもっているファリドの心情を、卓上の物を見るようにはっきりと感じていた。
カトゥマルが各地でその武勇を称えられても、ハイレディンは支援すらままならずここまできてしまっている。
カーラム暦997年春、アジャール軍が十五万の手勢でハラドを進発した。リヤドを経由して北上、向かう先はムサンナである。
ムサンナはサマーワを含む広域の名で、サマーワやナーシリーヤから見れば南に広がる地帯である。この大部分は砂漠で占められているが、
北部のユーフラテス川の近くで
カトゥマルは全軍を三つに分隊した。生前アジャリアがよく行っていた編成のやり方である。
五万の兵をカトゥマル麾下に置いてムサンナ方面に向かった。
シャアバーンが率いる別働隊を西から、もう片方のアブドゥルマレク・ハリティが率いる別働隊を東から行かせた。
このやり方はファリドを恐れさせた。散々痛い目にあわされてきたアジャリアの戦術をカトゥマルが継承しているのが、一目でわかったからである。
「すぐにハイレディン殿に遣いをやれ。アジャリアが再来した、とな」
ファリドの心はすでに病み始めていた。今までのレイス軍とアジャール軍の戦いの経緯からすれば、今度こそナーシリーヤが滅ぼされるほどの猛攻を受けるのは必至であり、カトゥマルの実力がアジャリアに劣らぬと判明した以上、勝ち目がほとんど無くなったと考える他ない。
カトゥマルはムサンナに臨時に築かれたレイス軍の砦を包囲して、数回、
「使用するのは至極簡単ではあるが、弓矢のように連射する事が不可能だ。火薬や燃料のための費用も馬鹿にならない。狙撃出来るような必中の武器というわけでもないから、大量に用意しないとこの威力も用を成さんな」
こう漏らしながらも、カトゥマルは
――カトゥマル様は、レイス軍の
――ファリドがナーシリーヤから出てくるように仕向けるおつもりらしい。
――今後もアジャリア様の戦術の路線でやっていくということだな。
アジャール軍の中で将兵等がはカトゥマルの戦い方をこのように見ている。皆、カトゥマルの戦い方に独自性を期待すると同時に、これまでのやり方が変わらない事へ安堵もしていた。
だが、それは見方を変えれば、カトゥマルがアジャリアの轍を踏み外さず模倣するのに、十分な実力を持っている事に他ならないのである。
カトゥマルは、ファリドが頑なに篭城を続ける姿勢を見て、略奪こそしなかったものの、周辺の集落の作物を全て刈り取らせて、ファリドを挑発した。
「我等はファリドのおかげで腹を満たさせてもらったが、それでも奴は怒らないのか」
様々な手を使ってでも、なんとかファリドを引っ張り出したいアジャール軍だが、結局、ナーシリーヤの
このような曲折した交渉が何度か繰り返された後、カトゥマルは再び主戦場をムサンナへと移した。場所はナーシリーヤから南西のハマー湖のさらに南である。レイス軍に属する小領主達がここを守備している。
夏場に珍しく雨が降り始めた。長く続きそうな雨である。
カトゥマルはムサンナの攻略に全力を注いだ。このような城壁も無い集落は、自分にとっては無防備も同じで、すぐに勝利出来る算段である。
これと同時に、ハイレディンの方ではナーシリーヤへの派兵を決めていた。新編していた
――ハイレディン、ナーシリーヤへ出兵。
カトゥマルの麾下でムサンナの攻略の任にあるバラザフのもとへ、フートの配下が報せてきた。
バラザフは、この仕事の間もシルバアサシン団の力を十二分に発揮出来る場を探していたが、その舞台を用意出来ぬまま今日まできてしまっている。
雨は何故か未だに降り続いている。雨足が弱まる事はあっても、雲が切れて間から日が差してくる事は殆ど無い。
――レイス軍は歩兵に一万の
フートの配下からさらに情報が上がってくる。だが、バラザフはこの長雨と湿気では
アジャールがムサンナが制圧出来ないままでいるところに、レイス、フサインの連合軍が合流をはたした、という情報が入った。レイス軍はこの部隊にも
「敵の兵力はどれくらいだ」
「ハイレディン自身が率いるフサイン軍が三十万、ファリドが率いるレイス軍が八万、計三十八万の兵力とのこと」
「我等の倍を超えているな。ハイレディンもファリドもこの戦いで雌雄を決するつもりのようだ」
気を引き締めて、バラザフは
ほんの少し前のウルクでの戦いで圧勝した事を皆が憶えている。
――レイス兵ならば三人相手でも勝てる。
という自信がアジャール軍の中で一般的になっている。
アジャール軍の威風を知りながら、ハイレディンがムサンナへやってきた。ハイレディンはハマー湖の西側を少し過ぎたあたりで足を止めた。
奇妙にも雨はまだ降り続いている。アジャール軍の方では、
――長雨のせいでハイレディンは我が方の動向を見つめている他無いのだ。
という読みが
思惑も先の見方も多数あった。そんな中でフートがアジャール軍の本陣に向かうフサイン軍の数名のアサシン集団を捕らえた。
「フサイン軍のマァニア・ムアッリム様に雇われた。我等は使者として参った故、サイード・テミヤト様に会わせてもらいたい」
フサインのアサシンは書状を出した。テミヤトに宛てたものだという。フートはこの数名をテミヤトの所へは連れていかず、ひとまずバラザフの所へ連行した。
「何故、敵のムアッリムからテミヤト殿に使者が来るのだ。フート、テミヤト殿に知らせてきてくれ」
呼ばれたテミヤトは、
「相異無い。フサイン軍の武将と何人か連絡をとってこちらに同心する手筈になっている。それらの代表がムアッリムというわけである。使者も今回が初めてというわけではない」
「何故、そのような大事な事を今まで隠していたのです」
「成功する前に知られて失敗して自分の顔に泥を塗りたくないのでな」
と、テミヤトが顔色を変えない。
「さてと。隠し通せなくなった以上、カトゥマル様に知らせてこなくてはな」
バラザフがさらに追求を深めてくる前にテミヤトは素早く席を立った。テミヤトの密使の件がカトゥマルの耳に入ってしまえば、バラザフとしては、これ以上の糾弾の材料が見つからない。
「これは危ない兆しだぞ」
バラザフはテミヤトの暗躍をそう見た。ムアッリムがこちらに同心してくるとして、その真偽はどうなのか。そして、アジャール家の親族派閥に属するとはいえ、そういった単独の外交交渉をする権限がテミヤトにあるのか、という問題がある。
「こうした独断が認められれば、アジャール家の武将はアジャリア様以前、つまりナムルサシャジャリ様の代に逆戻りだ。アジャール家がまた分裂するという事なのですぞ。テミヤト殿ならお分かりのはずだ」
バラザフは、カトゥマルの所から出てきたテミヤトを早速捕まえて糾弾した。
「それでこの私にどうしろというのかね」
テミヤトは詰め寄られても態度は崩さず、うっすらと笑みすら浮かべている。
「く……! もうよろしい。カトゥマル様の存念をお聞きしてくる」
テミヤトと話していても埒が明かないと即断したバラザフは、脇を抜けてカトゥマルの本陣の
「テミヤト殿の専行は本来ならば看過出来ぬが、寝返り工作が成功すればそれを帳消しにする以上の功績となる。自分が気に入らない策でも全軍のためと思えば、それを採るのが大将としての私のつとめではなかろうか」
敵の寝返りを含めたテミヤトがカトゥマルに具申した策というのは、ムアッリムがこちらに同心したのを合図に、フサイン、レイス軍に対して総攻撃をかけるというものである。
ムアッリムの使者が持ってきた書状には、フサイン軍はアジャール軍を罠にはめるため、工兵に陥穽のための穴を掘るのを急がせているので、今ならば、アジャール軍の騎兵部隊を全力投入すれば難なく突破出来る、とあった。
都合が良すりる話を聞かされて、バラザフの危機感は逆につのるばかりである。
「カトゥマル様、この策に乗るのはあまりに危険です」
バラザフは、カトゥマルの決定が変わるよう何度か食い下がったが、戦意に充ちた今のカトゥマルには、全てが自分にとって益するものにしか見えなくなっていた。
「フート、手遅れになる前に敵の陣容、特に本陣を調べてきてくれ」
この言葉も、もはや無意識にバラザフの口から出ていた。
しかし、フサイン軍に本陣に遣ったフートの配下は、何の情報も得られずやむなく戻ってきた。
「警戒が異常なほど厳重でした。配置されているアサシンの数、
このとき確かにハイレディンは、工兵に穴を掘らせていた。だが、それを三重に築いていたのはアジャール軍からは確認出来なかった。掘った砂を麻袋に入れて積み上げ、平地に土塁も築いている。
「こうする事で平地に城を作ったのと同じ防衛効果が利くはずだ」
というのがハイレディンの一つの意図である。当然、ムアッリムの寝返りの話もハイレディンが画策したものだった。
「カトゥマルの奴がこれに乗ってくれば、俺達の勝ちだ」
三重に用意した陥穽、その最前列の穴と土塁の後ろに
ハイレディンはこの戦いに自分の命運を賭けて挑んでいる。ムアッリムの裏切りという虚報で、アジャール軍を遠くから糸を引くように操っている。
雨はまだ続いている。
※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。
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