2023年7月5日水曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第11章_3

  ついにファリドはマスカットを進発した。この情報はすぐさまアサシンによってバラザフ、ムザフに報告された。

 この時点でレイス軍の八十三万の兵力は三分割された形となり、ベイ軍進攻対策としてスウィーキー・レイスに十三万、ファリドの本軍三十二万が西進し、さらにファルダハーンが三十八万を率いてリヤドへ向かいつつ、そこから迂回してルトバを目指しそこで合流する手筈となっていた。

「ファリドの奴、やはりこちらに一軍を差し向けて来たぞ。ファルダハーンの三十八万をこちらに当ててきた。今日まで整備してきた城邑アルムドゥヌ で存分に相手してやろう」

 ファリドは、目付けとして重臣のイクティカード・カイフをファルダハーンの傍に置いた。ファルダハーン・レイスはこの時二十一歳の若輩で、ファリドの心配も頷ける。心配性のファリドがファルダハーンの所へ遣った重臣はイクティカードだけでなく、スィンダ・ボクオン、タヌナド・ファイヤド、フアード・アズィーズ等、レイス軍古参の勇将達の精強な部隊をファルダハーン軍に編入して、武力強化も念入りに施した。

「我等が途上に退かずに居座るのはシルバ軍だけだ。しかも我等は三十八万の大兵を率いてきている。いくらアルハイラト・ジャンビアと知謀を畏れられたバラザフ・シルバでもまともな戦いは出来ないだろう。抗戦を示すならばリヤド、ハイルの城邑アルムドゥヌ ごと踏み潰す。従わなくば剣だ」

 すでにファルダハーンの目前には、これからのリヤドの戦いは映っておらず、手早く雑事を済ませてファリドと合流しようと余裕の笑みを見せていた。目付けであるイクティカードも、部隊担当のボクオン、ファイヤドも同じように戦況を見ていたので、ファルダハーンの余裕を若輩の油断と批難する事は出来ない。

 ファルダハーン軍の行軍は速く、すでにリヤドの城邑アルムドゥヌ の間近まで迫り、近日中には包囲を完成させそうな勢いである。

「ムザフ、レイス軍が来た。ハーシムの奴が戦勝後我等の領地の加増を保証してくれているとはいえ万が一もあるし、アミル殿の時のように他の諸侯に難癖をつけられないとも限らない。今のうちの取れる砦を自分達で取っておこう」

「それには私も同意です。丁度私も同じ事を考えていました。近くに防衛拠点が増えるとリヤドの防衛度も向上します」

「ムザフ、俺が一つでも砦を落としてこよう。まだまだ前線での腕は衰えてはいないぞ」

 そういってバラザフは、腰の諸刃短剣ジャンビア に手をかけた。成人の折、アジャリア、エドゥアルド、そして父エルザフから諸刃短剣ジャンビア を贈られて以来、バラザフの腰周りは四本の短剣で賑わっていたが、アジャリアとエドゥアルドの諸刃短剣ジャンビア は今日まで敵の血を吸った事は無かった。

「父上の武技はよく承知しておりますが、レイス軍到達まで今は時間がありません。私がすぐに砦を落としてきましょう」

 そう言って、ムザフは素早く騎乗すると、

「レオ。騎馬兵のみでいいので急いで編成して後から来てください。私は先に行っていますよ」

 レオは手早く五百騎を編成して先に行ったムザフを追った。バラザフも三百名の火砲ザッラーカ隊を編成して、レオに付けた。

「ムザフもまだまだだな。騎馬兵だけで手詰まりになったらどうするのか」

 息子や若手の僅かに詰めの甘い部分を見つけて、やはり俺が居なくてはだめだと、老兵にありがちな満足感をバラザフは感じていた。

 夜の暗闇はムザフ隊の夜襲を援けた。しかも、ムザフの方はレオ・アジャールなどのアサシンを先に行かせて、暗闇の中でも猛進出来るように先の障碍が無いか探らせて、地の利の一端を得ていた。

 ムザフの攻城策はそれだけではない。砦の中に配下を何人も潜入させておいて、要所に配されている兵士を香で無力化していた。室内で用いる場合ではないので昏睡に至らしめる事までは出来なかったが、守備兵の頭が朦朧とする状態になればそれで十分であった。

 ムザフが猛進する道には見張りの兵が居たが、彼等も皆レオ・アジャール達によって取り除かれてしまっていた。

 これらの処方でムザフは、敵の砦に至るまでに無人の道をただ突き進んできたのである。守備兵は皆、起居も意のままにならぬ有様だ。

 ムザフ隊が門前に馬を並べると、中から城門が静々と開いた。ムザフは追いついてきた火砲ザッラーカ 隊に着火させ、放火を備えさせた。

 騎兵部隊が城門から突入する。砦の兵士は千人くらい居たがどの眼もはっきりと開かず、自分達が赫々と燃えるような武具を纏った連中にすっかり取り囲まれているという事だけようやく理解は出来た。

「シルバ軍のムザフがこの砦をいただきにきた。砦も貴公等も包囲されている。手向かいするならば、火砲ザッラーカ の炎が貴公等の身を焼いて今夜の灯火と成すぞ」

 砦の兵士は皆、得物を手放した。頭は朦朧とし、手足に力も入らぬでは、とても戦うどころではなかった。

「賢明な判断だ。死なぬ覚悟を尊ばれよ」

 砦の千名の兵士達は捕虜として扱われリヤドの城邑アルムドゥヌ に送られた。そして砦には騎馬兵二百名、火砲ザッラーカ 兵三百名が守備として置かれた。

「レオ、ここは貴方に任せます。すぐに歩兵をここに編入します。予め旗に使える物を千程準備しておいてください」

 ムザフもバラザフもこの砦を活かした擬態を考えていた。

 リヤドの城邑アルムドゥヌ の城壁から外を見渡すと遠くに砂塵が巻き起こっているのが見えた。砦を奪取して次の日の事である。

「低く広く広がった砂塵だ。相当大軍の客が来たぞ」

「我等シルバ家の旗もあります。兄上の部隊も参加しているようです」

「三十八万。さすがに壮観だ。ウルクでアジャリア様が動かした兵でさえあそこまで多くはなかった。あのような大軍の指揮を執ってみたいものだ」

 大軍の総帥権を握ってみたいという思いは昔からバラザフの憧れであった。ムザフにも父のこの本音が自ずと漏尽してきて、気持ちを一つにしていた。

 リヤドの城邑アルムドゥヌ の守備兵は二万。この数で外のおよそ四十万の大軍を防ぐのである。

 一方、ファルダハーンは、リヤドの城邑アルムドゥヌ を視界に微かに認める距離で陣を布いた。

「昔、レイス軍に煮え湯を飲ませてくれたバラザフ・シルバを冥府の住人にしてやろうぞ」

 昔とは十五年前リヤド城を攻囲して、結局敗退した時の戦いの事で、その屈辱を返上してやろうとファルダハーンは、息巻いていた。

「ファルダハーン様。リヤドを攻略する事自体は容易ですが、今の我々は時を惜しまねばなりません。ファリド様の本軍との合流に遅れるわけにはいきませんから、降伏を勧める使者を遣わしましょう」

イクティカード・カイフの進言をファルダハーンは素直に容れた。その使者としてはバラザフの長男であるサーミザフが良いと、ファルダハーン軍の首脳陣は判断し、彼を遣わす事になった。

 サーミザフは射手に弓矢を浴びせられる事もなく、リヤドの門前まで馬を進めた。

「サーミザフ、レイス軍から離脱して来たのか」

「そんな訳が無いでしょう。父上がレイス軍に降伏するように使者として来たのです」

「何だ、これ俺に降伏勧告とは。まあ良い。これから軍議を開いて降伏勧告とやらを容れるかどうか決める。明日こちらから使者を出すからお前はファルダハーンの陣に戻れ」

 正直者のサーミザフは、自分が相手を偽らぬと同様に相手の言葉にも偽りが無いとして全てを肯定してしまう。まして実の父の口から出た言葉である。これに疑いを差し挟むという理屈はサーミザフには有り得ず、使者としての自分の役目は上々だと信じてファルダハーンの陣に帰った。

 だが、バラザフからの使者は来ない。

 次の日になっても、またその次の日になってもバラザフからの使者がファルダハーンの本陣に姿を現す事は無かった。バラザフには、降伏勧告を受け容れる事はおろか、律儀に返事してやるつもりも無かった。

 ファルダハーンもサーミザフの報告を受けて黙って待っていたが、使者はやって来ず、しびれを切らして自分の方から再度使者を送った。使者には二千人の部隊を付けている。

「シルバ殿、降伏するか否か」

「降伏か。するわけがないだろう」

「返答の使者を寄越すはずだったのでは」

「よいか。俺とムザフはエルエトレビー軍に付くと決めたのだ。お前等のような恥知らずと違って大義に従っている」

「我等を好き放題愚弄するにも程がありますぞ」

「さっさと帰れ。帰ってレイスの小僧に、シルバ軍にとってお前の四十万の兵力など四千と変わらぬと言ってやるがいい。十五年前、お前の父親と同じように泥を被らせてやるぞ」

 使者は真っ赤になって怒ったが黙って席を払って出て行った。怒りのやり場のない使者は、戻ってバラザフの罵倒をそのままファルダハーンに伝えてしまった。

 ファルダハーンは父ファリドからはそれほど短気の性質を受け継いでいなかったものの、これにはさすがに激怒した。冷静さが売りのイクティカード・カイフですら怒りに上気していた。

 ファルダハーンの陣に揃って馬を繋ぐ諸侯も、言葉になって出るのはシルバ軍に対する怒りばかりである。

「バラザフ・シルバ、ここで討つべし! 踏み潰してリヤドの城邑アルムドゥヌ ごと砂に埋めてしまおうぞ!」

 主戦論が大勢を占めるファルダハーンの陣の中で、一人イクティカードの頭だけが冷静さを取り戻し、沈着に進言した。

「ファルダハーン様、リヤドまでやって来てなんですが、今ここを奪取する利は薄いと存じます。包囲の兵員だけを残して、ファリド様との合流地点に向かいましょう」

 とイクティカードは老兵として目付けに付いている真価を発揮した。

「これを懸念していたから使者を怒らせておいたのだがなぁ……」

 ファルダハーンとレイス軍を挑発しておいて、リヤドの城邑アルムドゥヌ に張り付かせておこうというのがバラザフの計画だった。

 バラザフは城壁の外の耕作地、放牧地も焼き討ちに遭うだろうと想定していたので、住民を早めに城内へ退避させるなり、他の城邑アルムドゥヌ に移すなりしていた。

 結局、ファルダハーンはイクティカードの進言を容れて、総攻撃は行わない方針に決めた。

「もう一度だけ降伏勧告をしておこう。それで利かなければ包囲の兵だけ残して、本軍との合流に向かうぞ」

 バラザフのアサシンはここにも配置されていた。それで次に来る使者が最後通告であること、そしてそれが不首尾に終われば、城邑アルムドゥヌ を包囲したまま主力は決戦の舞台へ向かうとファルダハーンが方針決定したと、バラザフは使者が来る前に知り得た。

「それでは、使者にはもっとファルダハーンが怒るようにひと働きしてもらわねばなるまい」

 馬に乗って使者がこちらに向かってきているのが見えた。

「レイス軍は四十万といえども驢馬の尻尾の毛ほどの価値も無い。奴等の毛で襟巻ワシャア でも編んでやろうか。レイスは弱いがシルバは強いぞ。ウルクで負けてリヤドでも負ける。負け癖のついたレイス軍。このリヤドの兵力がいくらか知っているか。たったの二万だ。その二万に腰が引けるからお前等は降伏勧告を何度もしてくるわけだ。戦え、戦え、戦え。ファルダハーンは自分の剣で手を切るのが怖くて、剣も抜けないか」

 最早稚気とも言える罵詈雑言をありったけ浴びせた後、バラザフは、自ら火砲ザッラーカ を担いで、使者に罵倒のみならず火炎まで浴びせてしまったのだった。

 火だるまになった使者は、砂地を転げ周り消火して何とか一命は取りとめ、一目散に退却した。それをシルバ軍の兵があからさまに笑いたてた。

 これが引き金となって、リヤドの周辺の砦からも鯨波があがり、相当な数のシルバ軍の旗が各城壁に棚引いた。

「シルバ軍は寡兵だったはずでは――」

 ファルダハーンは、四十万の自軍を包囲されたような状況に呑まれてしまった。そこへ全身火傷を負った使者が戻ってきて、報告にならないような呻きでファルダハーンに何事か訴えた。

 ここまでよく自制してきたファルダハーンの辛棒が折れた。

「総攻撃だ。リヤドを踏み潰してくれる!」

 ファルダハーンは、ついにバラザフの挑発にかかってしまった。

「本陣を押し出すぞ」

 ファルダハーンは、土地勘のあるサーミザフに諮り、リヤドの城邑アルムドゥヌ が上から見える高台に陣を移すことにした。

「ムザフ。ようやくファルダハーンの小僧が意地を見せてきたぞ。砦を取っておいたのが利いてきたようだ」

 先の砦の奪取は、戦闘としての価値ではなく、少数の遣い者に連結した旗を振らせて、レイス軍に対して視覚的な圧力を加えるためのものだったのである。

 口に含んで吹き付けられた水が霧散して細かく動き回るごとく、レイス軍の動きは忙しい。バラザフの目から見えればレイス軍の将兵など水滴ほど小さなものでしかない。

「うむ。向こうでシルバ軍の旗も移動しているな。サーミザフはきっとハイルの城邑アルムドゥヌ に向かうはずだぞ」

 バラザフは、レイス軍の兵まで自分の意図通りに動かしているつもりになっていた。シルバ軍にやられやすいように、レイス軍を動かせばいいのだと、未来を視る眼に自信を越えた確信を持っている。

「レイス軍はまず周辺の城邑アルムドゥヌ と砦を攻略してから、このリヤドの備えを削ぎ落として、全軍攻撃の命令を出してくると思うが、ムザフの見立てはどうか」

「兄上の動向を鑑みるに、父上の読みどおりになるかと」

「うむ。ムザフ、お前はここを抜けてアルカルジを押さえに行ってくれマスカットへ少しでも近くなるほうが、ファルダハーンの小僧を圧迫出来る。それとハイルの方にはレオ・アジャールを派遣して適当に敵の相手をしたら拠点を放棄して離脱させろ。サーミザフにそのままハイルを取らせればいい」

 あれだけ念入りに改修して産業まで興したハイルをバラザフは放棄するという。ハイルが陥落すれば、おそらくそのままサーミザフの預かりとなり、サーミザフは守備隊としてそこに留められるはずである。そのように事が動いてくれればシルバ家の家族同士で斬り合いする必要は生じない。

 バラザフの先を視る眼は、戦いに競り勝つ事のみならず、大局眼で戦術ではなく戦略を視ていた。

 ムザフがリヤドを出てその日の夕刻、偵察の者から報告が入ってきた。タヌナド・ファイヤドがムザフに押さえに行かせた砦に向かっている。三万の部隊を編成しているという。

 そして、ハイル方面の報告も、レオ・アジャールが計画通り城邑アルムドゥヌ を放棄して退却の最中であると伝えてきた。

 さらに、各方面の砦にボクオン隊二万等、レイス軍から別働隊が編成され本隊から分散しているとの情報があがってきた。無論、バラザフの想定からは少しも逸脱するものは無く、間者の入れ替わりの報告も確認程度でしかない。

 これら一つ一つの対応にも全く焦りが無い。やるべき事は予め決めていた。配下には作戦実行の最終確認だけすればいい。

 ムザフの相手をさせられたレイス軍はいつもどおり苦戦していた。このときのムザフの戦術は、高所から岩を転がしたり、城壁から石を投げたり、火砲ザッラーカ で一斉に炎を浴びせたりと、ファイヤド隊をシルバ軍らしく苦しめた。

 今回の戦いで視覚効果は彼等の手札となったようで、砦全体にシルバ軍の旗を立てて、拡声器で礼拝合図アザーン ではなく吶喊を敵に浴びせた。砦全体にシルバ軍の威圧が響く。

 耳も目も敵の威圧に屈してしまったように、ファイヤド隊の動きは目に見えて鈍った。すでに三分の一程も戦力を失ってしまっている事もある。

 ムザフは火砲ザッラーカ を放射させて、砦から出た。だが、もう敵を狙う必要はない。この方面の防衛線はこれにて締めである。そして、砦の守備を実際に解除してリヤドの城邑アルムドゥヌ に急いで帰還した。

 別方面の砦、すなわちボクオン隊等のレイス軍の別働隊が向かっているシルバ軍の各拠点に、二千人の兵力を配置してある。高低差があるのが特徴で、いたるところに落石が仕掛けられ、穴に落ちれば、これまた槍が林立していて命を拾う事は難しい。

 規模は大きくない砦であるため、大略を考えれば放置しておいてもよく、また奪取したとて彩のある収益は見込めない。それでもレイス軍はリヤドの城邑アルムドゥヌ のために周りを削ぐのだと躍起になり、案の定、穴に落ちて槍で身を刺し貫かれる事になった。

 レイス軍も正攻法で砦は落ちぬと理解したのか、夜襲をかけて攻略をはかるも、夜間の見張りに少しでも人が見つかると、火砲ザッラーカ から一気に炎が噴き出されて近づく事すら容易ではない。

 リヤドと周辺の砦を巻き込んだ多方面攻防戦は、ここまでで一日。どう見てもレイス軍が負けている。バラザフの目論見通りに全てが動いていた。

 レイス軍古参であるイクティカード・カイフは、ファリド・レイスの若く拙い時代からレイス家を支えてきただけあって、シルバ軍の出方に頭を抱えてしまうような事は無いものの、ここまで上手くいかないとやはり面白くはない。

 彼が表に渋面を作りながら次に目を付けたのは、畑――である。

 短い雨の季節が終わろうとしている。リヤドの城邑アルムドゥヌ の外にも、収穫時期を迎えた穀類がよく実っていた。麦の穂は昨日までの雨の雫を朝陽に照らして輝いている。

「畑の作物を手短に刈り取ってしまえ。残りは良い頃合で火をつけて畑を焼いてしまうのだ。さすがのシルバ軍でも慌てて城壁から出て止めに来るに違いないから、その時に打撃を与えればよい」

 古来、攻城戦で畑を焼いて敵の食料を断つという手はしばしば行われてきた。だが、これすらもバラザフは見透かしていた。

 レイス軍は歩兵が一時帰農したような格好で畑に足を踏み入れた。シルバ軍をおびき出す目的ではあるのだが、目の前の黄金色に実る麦は、刈り取れば我が物にしてよいとイクティカードから許されているので兵士達の顔色は明るい。そして、その後ろの方に城外に出てくるシルバ軍を包囲殲滅するための五万の軍隊が息を潜めていた。

 ついにリヤドの正面の門が開いた。間をおかず火砲ザッラーカ が出てきて全体放火を何度も仕掛けた。

「頭の方を狙え。畑を出来るだけ燃やさないようにしろよ」

 収穫に頭がいっぱいだったレイスの帰農兵達は伏せる間もないまま大火傷を負った。雨後の晴天がバラザフのこの作戦に味方している。

 バラザフの奇策はこれで終わらない。騎馬兵が五百程城外に突出して槍を振り回した。

「仕留めずともよい。帰農兵を薙いで威圧したらすぐに城内駆け込んで来るんだ。残りは俺達でやる」

 バラザフは赤い水牛、アッサールアハマル隊をレオ・アジャールに指揮させて繰り出した。

「今回は囮ですね。敵の刃を掠らせもしませんよ」

 門から突進してきたアッサールアハマル隊に度肝を抜かれたレイス軍だが、この騎馬兵の数が少ないと見るや、五万の大兵で圧殺出来ると見込んで押し返してきた。

「敵が出てくるのはこちらの計画通りなのだ。シルバ軍を一人も帰すなよ!」

 だが、アッサールアハマル隊は、レイスの帰農兵の鼻先までの距離に来て、手綱を引いて素早く迂回した。これにレイス軍は食いついてしまった。敵にようやく接触出来たのだ。この機を逃すまいとレイス軍は意気を揚げてアッサールアハマル隊の背中を追いかけていた。

「いかん。またバラザフの罠だ。追ってはいかん!」

 イクティカードは自軍の突進を大声で制止したが、シルバ軍の粘り強い反攻に昨日まで抑圧されてきたレイス軍の追撃は止まらなかった。要らない所でこれ以上無いくらいに士気が上がってしまったのである。

 リヤドの城邑アルムドゥヌ の門が緩やかに閉められていく。アッサールアハマル隊を率いたレオ・アジャールは最後までレイス軍を振り切ったのである。

 普段、士気の上がりにくいレイス軍も、闘争心に火がつくと命じられもしないのに自分から城壁を登りにかかった。城壁の上ではすでに火砲ザッラーカ が煙を立ち上らせて数百ほど待ち構えている。

 火砲ザッラーカ から炎が噴き出され城壁に殺到していたレイス軍の兵士達は多くが黒こげになり、残りは上方からの落石攻撃で下に落とされた。

 まずは足の速い少数部隊で敵を突いておいて、それを追撃にかかった敵を誘引して、まとめて倒すのはバラザフ・シルバの勝ち方の一つの型である。

「十五年くらいこのやり方でレイス軍に当たっているが、誰もこれに気付かないのだろうか」

 学ばない者は未来が見えないし読めない。同じ事を組織的に繰り返すレイス軍の無能の態に、バラザフの心中は憐憫と侮蔑であい半ばした。

 だが、レイス軍の中にもこの学習能力の無さを自覚した者が一人だけ居た。バラザフの罠に気付いていち早く制止をかけたイクティカード・カイフである。

「またバラザフにしてやられたではないか」

 人は集団に成ると慎重さを欠く。冷静さも無くなる。

 自分達が大軍であるゆえ負ける事は無いのだという感覚が、繰り返し土を嘗めさせられてもシルバ軍を過小評価してしまう。言葉としてではなく、感覚として自分達の中に存在する故、自覚出来ないのである。

 バラザフの放火に味方した晴天は、また雲の帳に隠れた。

「偵察に行くぞ。五百騎位連れていこうと思うが、お前もどうだ」

 バラザフはムザフに問うたが、答えは聞かなくても分かっている。

「行きましょう。愉快な事になりそうです」

 この二人の意見が食い違う事は滅多になかった。ムザフの方でもバラザフが次に何を言い出すのか大概知っていた。

「レオ。また火砲ザッラーカ を城壁に準備させておいてください。そして、敵がいつ来ても撃てるように常に着火を」

 バラザフは偵察と言ってもただ行って見て帰ってくるつもりはなく、実際に剣を交えて相手の強さを探ってやろうと思っている。五百騎を連れた二人が門の外に出る。

 アッサールアハマルの赤い行軍は、レイス軍の本陣からも見えた。それはよく目立つ。

「我がバラザフ・シルバを仕留めてくれよう」

 ファルダハーンは自ら火砲ザッラーカ を担いでバラザフのアッサールアハマルの隊を追いかけた。挑発に乗りやすいのがレイス家の血なのかもしれない。旗下の部隊も同様に火砲ザッラーカ を携えてファルダハーンを追うしかない。

 ファルダハーンを筆頭に五百の火砲ザッラーカ が火を噴いた。本営以外のレイスの部隊からも遅れて放火される。

 バラザフは、馬を退かせてそのまま反転した。ムザフはバラザフの部隊の最後尾で追撃の敵を槍で薙ぎ払い、突き倒して着実に撤退している。

 リヤドの門に馳せ込んだバラザフは、レオに頃合を知らせた。ムザフは、レイス軍がしっかり追って来るように距離を開けすぎず、わざわざ戻っては敵中を掻き回して、また退くという事をやった。

 昨日と同じ、というより数十年来の愚をレイス軍はまたやろうとしている。彼等はシルバ軍の罠に気付かず、追って来て、気付いた時にはリヤドの城壁が目の前にあった。

「またやられた!」

 兵の中の誰かが叫んだ。だが、それは余りに遅すぎた。

 リヤドの門が開くと中から現れたのは三百人の一隊とした火砲ザッラーカ が三隊である。レイス軍は一斉放火にただ焼かれるしかなかった。

 煙が風で吹き払われると、全身火傷を負ったレイスの兵達が転げ回る姿が露になった。死傷者は数百名と見える。

 さらに先ほど城内に収容したアッサールアハマル隊も出た。煉獄の中に命を繋いだレイス軍の兵士も、結局、アッサールアハマルの槍に貫かれて、拾いかけた命も瞬時に奪われていった。

 さらにバラザフは締めも厳しい。槍を持った歩兵が出撃して徹底的に生存者を潰していった。

「ムザフ、五千はやったと思うが、どうだろうか」

「昨日の戦果も併せると二万以上になります。短期でこれほどの戦果を上げるなど、我等シルバ軍でなくては不可能な事ですよ」

 ファルダハーンは若き日のファリドさながらに、自陣の物を所構わず蹴散らして大立ち回りを踏んだ。ポアチャが口に含まれていないのが不自然なほどそっくりであった。

「イクティカード、明日は総攻めするぞ! これ以上止めるなよ」

「総攻めはいけません。たとえ成功しても引き上げるのに時間がかかって集合に間に合うわけがありません。ファリド様はもうルトバに到着してお待ちのはずです」

 イクティカードが淡々と正論を述べるだけ、ファルダハーンにはイクティカードが自分の意思を汲まず軽んじていると感じられて、角も生えんばかりの勢いである。

「そろそろファルダハーンの小僧も堪え切れずに総攻撃に踏み切るはずだ」

 明日には来るはずだとバラザフは確信している。自分でやっておきながら可哀想になるくらいファルダハーンを愚弄してきた。

「これで怒らずに居られたら余程大物だろうさ」

「イクティカード・カイフとファルダハーンの身分が逆なら大変な事になっていました」

「ムザフ、川の上流で水を止めてから油を流せ」

「川を炎の壁に変えるのですね。他の砦の差配はどうします」

「今、ケルシュが向かっている。アサシンだけで部隊編成をして、別に稼動させる」

 次の日、最初に城門から出てきたのはムザフの武具を装備した、レオ・アジャールである。

 かつてアジャリアが替わり蓑として自分とよく似た人物を幻影タサルール として用いたように、レオもムザフという役を上手に演じた。

 これに対して、連日手ひどくやられたレイス軍は、これには手を出さず切歯扼腕してこれを見つめている。

「まずはレイス軍は様子見だろうな」

 これもバラザフの読みにしっかりと入っていた。

「レオ、今日のレイスはいつもと違うレイスだ。無闇に突っ込んではこないだろうから、そこを利用しろ。こちらから正面を突いても用心し過ぎて反撃すらしてこないはずだ。だからファルダハーンに飛び切りの罵倒を与えて、砂を掴んで兵等の顔に撒いてやれ。それでまた怒り出せば上々だ」

 まるで敵将であるバラザフに命じられたかのようにレイス軍の兵士はじっと身構えて反撃もしてこない。レオもバラザフの示した手順の通りに罵倒し、砂をかけた。

 ファルダハーンも罵倒までは何とか堪えたものの、麾下の兵士が顔面に砂をかけられて、顔をしかめて耐えているのを見て、眉一つ動かさぬまま彼の脳は最高に怒張した。

「やる――」

 この一言でレイス軍が再び攻撃に転じた。が、レイス軍の動きはファルダハーンよりも前のめりで、一隊が火砲ザッラーカ 仕掛け、しかもレオの率いるシルバ軍の後を追った。

「出ていいなら我等も出るぞ」

 スィンダ・ボクオン、フアード・アズィーズ等の部隊が先に行った一隊を追う形になった。

 レオは、上手く後ろに続くレイス軍を掃いながら、リヤドまで下がって来ている。だが、追撃のレイス軍は大軍である。この後退でシルバ軍にも戦死者が出た。

 今まで空を切るような戦いを強いられてきたレイス軍も、今回ばかりは良い感触を得たらしく、勢いはさらに勝って追撃はとまらない。

 シルバ軍にとってこの後退は筋書き通りであるが、士気の上がったレイス軍の切先は鋭い。レオはもう後ろを振り返らず、真っ直ぐリヤドの城門へ馳せた。

 かつてアラーの城邑アルムドゥヌ の大改築を行い、それ以前にはカトゥマルの頼みでアジャール家最後の砦のタウディヒヤの建築を主幹したバラザフである。当然、リヤドにも色々な仕掛けをしてある。

 まず城邑アルムドゥヌ の中は迷路になっている。敵兵が迷い込むと同じ所を何度も周回したり、あるいは螺旋状の道に迷い込むと奥で詰まってしまい、部隊全体が進退窮まるように作ってあった。通行を妨げる柵もやたら多い。

 リヤドに駆け込んだレイス軍の兵士達はまたもや堪えなければならなかった。おそらく中央にバラザフ等は居ると思われるのだが、目指す先が見えているのに道に沿って巡らされるばかりで、一行に核心に至る事は出来ない。バラザフの方でもただレイス軍の兵士にリヤドを散策させるつもりなどなく、あちこちに少数の兵を潜ませておいて、上から矢が放ち横から槍で腹を衝かせた。

 それでもレイス軍の兵士は苦難の道程を進まねばならない。そして、その苦難の末ようやく内側の城門の前まで来れたのに、城壁からの落石、投石に見舞われた。最早定番となったシルバ軍の勝ちの型であり、すなわちレイス軍にとっては負けの型であった。攻城に挑んだレイス軍の兵士はここでほぼ全滅した。

「これ以上傷口を拡げるわけにはいかん。すぐに下がるぞ」

 レイス軍の将の口から撤退が出ると今度は、開門して中からシルバ軍が追撃にかかった。レイス軍は前後の敵味方でつか えて完全に進退窮まっている。

 先も後も詰まったといってもレイス軍が大軍である事には変わりなく、犠牲の出た上にもそれらを越してシルバ軍へ押し寄せてきた。城門の下の濠に落ちた者も這い上がって城壁を登ろうとしている。

「油の臭いがする――」

 レイス軍の兵の一人がそう気付いたとき、火の川が彼等を一瞬の内に呑み込んだ。ムザフが先にせき止めておいた川に砂漠に漏れ出ている黒い油を流し込んでいたのだった。川だった場所は今燃え上がり炎の壁となっている。

 リヤドの城兵もこの炎の川を最初から心得ていて、炎が迫る前に焼かれない場所へそれぞれ立脚した。

 炎の川に包まれてリヤドは炎の城になった。確かに炎の壁が出来た事によってレイス軍を寄せ付けぬ防御となるのだが、これでは自分で自分の城を火攻めしているに等しい。だが、そこは心計の深いバラザフらしく、上流から流す油を適度に加減して、城邑アルムドゥヌ や、商人宅、民家に燃え移る前に油が燃え尽きるようにしてあった。そして、その油が燃え尽きたあたりで再び川のせき を切って消火する手筈になっている。

 レイス軍の兵士にもこの火攻めで生き残った者も大勢いた。何しろ大軍であるから、確率的に生き残れる者もそれだけ多くなる。火の手が弱まり、生存者が再び城壁をよじ登ろうとしたとき――。

 濠を流すように大水が横から押し寄せた。水ばかりでなく、大岩、巨木までもが含まれた濁流である。当然、レイス軍は恐慌状態に陥った。今度こそ逃げ場がない。

 それでも運あって命を拾える者はいたが、そこに炎の壁作戦を終えたムザフ隊が戻ってきて、稀有の幸運も一瞬で摘み取られてしまった。レイス軍の背後には別働隊として分隊しておいたケルシュの部隊が挟撃に加わって一方的な殺戮を演じた。

 一方でレイス軍の後詰や本軍でもこれらの一連は信じられない光景として映った。意気揚々と攻城をしかけていたのが、一転、殲滅される側に立たされた。

 リヤドの城邑アルムドゥヌ の中にも周りにも濠がある事はわかっていた。濠を越えるのに難があれば、早めに引き上げの指示を出そうと決めていたが、兵達は意気が上がって城壁を登ろうとしている。

 今度こそ、シルバ軍に勝ったと思った。

 だが、濠から一瞬で炎の壁が出現し、兵等を焼いて消え去ったかと思えば、今度は大水が押し寄せてきて、生存者を押し流し、あるいは水底へ誘う。

 救援に行こうにも大水で遮られて最前線に寄り付く事も出来ない。いきなり出現した川の向こうで、味方がバラザフ、ムザフが指揮するシルバ軍の強兵に一方的に殺されていく。ただ、それを傍観している他ないのである。

 レイス軍からハイルの守備を任され、その場で暫定的な太守になったサーミザフからも、これらの様子はよく見えていた。驚きのあまり見開く両目に、父バラザフの戦い方が凄絶に映った。

「情け容赦ない……それしか言葉が出ない」

 そう漏らしながら、サーミザフには一つ気付いた事があった。それはこのハイルの城邑アルムドゥヌ を父バラザフが無抵抗で自分に譲ってくれたという事である。同時に、その意味する所も理解した。

「レイス家の者同士が剣を交えなくても済むように。父上は私と部下をこのハイルに入れて命を拾わせたのだな……」

 このリヤドへの攻城戦だけで、レイス軍の戦死者は四万にのぼった。バラザフの配慮が無ければ、この中にサーミザフの主従も含まれてもおかしくはなかった。

「それぞれの部隊が勝手に押し出したのは明らかな軍律違反なのだぞ」

 それでなくとも、ここに来てから負けを重ねてしまっているのである。イクティカード・カイフは、諸将の責任問題をきつく言及した。この落とし前をつけるという形で、ボクオン隊他、諸部隊から隊長格が処刑されるという犠牲まで出た。

 責任問題に対する処分としてこれらは当然であるとしても、珍しく士気が自発的に上がっていたレイス軍は、急激に消沈し、冷えていった。

「嬉しい誤算というやつだ」

 実戦での戦果に加えて、レイス軍の戦力をさらに削ぐ事が出来たのである。バラザフは作戦の成功を喜んだ。

 次の日は、また雨になった。風で横に舞うような霧雨である。

 バラザフはその霧雨の中、正面の門から出てきた。頭にはアジャリアから下賜された、額に孔雀石マラキート象嵌ぞうがん が施されたあのカウザ を被っている。一万の将兵を率いていた。城内の方にも一万の兵を残してムザフに全権を与えた。

「万が一にも俺がこいつら相手に死ぬ事は有り得んが、リヤドはムザフに任せてきた。ファルダハーンの小僧には策略抜きでシルバ軍の戦いを見せてやろうじゃないか」

 バラザフが連れた一万のうち、千騎がアッサールアハマルの精鋭である。彼等はバラザフを中心に並列錐ミスカブ の突撃陣形をとった。だが、まだ突撃はかけない。後ろの歩兵の行軍速度に合わせて、頃合まで近づいて一気に抜くのだ。

 霧雨の中に、焼かれて赤く光る巨大な鉄塊が、ずしりずしりと濡れた砂を踏み固めて押し進んでいるように見える。レイス軍の本陣からも、ハイルを守備しているサーミザフ隊からも、この燃える赤はよく視界に映えた。

「バラザフ・シルバが出てきたぞ!」

「いや、あれは先年亡くなられたアジャリア様じゃないのか」

「俺はハウタットバニタミムの入城行進を思い出したぞ」

 今でもアジャール家の元家臣はレイス軍の中にも結構居る。皆が数十年も昔のアジャール家全盛期を目の前の光景と重ねた。

「ファルダハーン様、今度こそ手出ししてはいけませんぞ」

 イクティカードは、ファルダハーンに釘を刺しておかなくてはならない。イクティカードにそう制止されるまでも無く、ファルダハーンの意気はレイス軍全体の消沈の気を全て吸い取ってきたかのように、萎んでいたので、イクティカードが手出し無用の方針を決定してくれた事は、むしろ決断を強いられるよりはありがたかったのである。

 だが、その沈みきった心も数刻も経って少し落ち着くと、今度は、

 ――誰か我が軍の中にシルバ軍に一泡吹かせる事の出来る勇者はいないのか。

 と、苛立ちがまたもや小さな火となって揺れ始めている。

「ファルダハーン様、我が軍に知恵の回る猛者が居れば、今日までの敗戦はひとつまみ程の損害で済まされていたはずです」

 口に出していないファルダハーンを読心したかのように、イクティカードは再度釘刺しを忘れなかった。

 バラザフの部隊は、そのすぐ後ろにアッサールアハマル、その後ろに歩兵隊、そして最後に千人程の火砲ザッラーカ 兵が続いた。火砲ザッラーカ にはすでに火が付いている。

 バラザフはファルダハーンの本陣までやってきて大音声で叫んだ。

「我はリヤド領主バラザフ・シルバ。レイス軍にひとつ提案があるからまずは聞け!」

 レイス軍では将軍格から兵卒に至るまで、息を呑んでバラザフの次の言葉を待っている。

「こちらはたったの二万、それに対してお前達レイス軍は四十万だ。二十倍だ。いいか、二十倍だぞ。それを我等シルバ軍が相手になると言っているのだ。今日、決着を着ける。これで手合わせせぬというのなら、レイス軍は数だけ揃えた駱駝ジャマル の糞の塊だとカラビヤート中、噂が広まるだろうな」

 バラザフの喩えの汚さにシルバ軍の兵卒すら眉を寄せて苦笑したのだから、当然、ファルダハーンは怒った。怒ってはみたものの、レイス軍は前進出来る状態になかった。眼前に、昨日の炎の壁作戦の余剰で出来た川が横たわっていた。

 川の手前にレイス軍は、稲妻バラク のおうとつのある陣形で構えている。一方、バラザフの方はリヤドを出てきた時から並列錐ミスカブ の隊列を組んでいる。何故、並列かといえば、バラザフを中心に機に応じて、部隊を左右に分隊できるからである。左右に分かれたとき、並列錐ミスカブ は、双頭蛇ザッハーク に変形した事になる。四十万のレイス軍に対して、シルバ軍の二万など小隊扱いであり、それゆえ、間の群飛雁イウザ稲妻バラク の形体を飛ばして変形してもよいとバラザフは考えていた。

「まぁ、どちらでもよいわ」

 バラザフにとっては、ファルダハーンを怒らせて戦いに引きずりだせば、痛恨の一撃を与えてやれる自信がある。そのために、自分が囮として最前線に出てきて、しかもリヤドの兵力を半分もこちらに割いてきた。

「かのサラディン・ベイの戦法にも似ているようだが……」

 と気付いたのはハイルのサーミザフである。彼はバラザフから昔日、ベイ軍との決戦に参加した見聞を聞かされていた、その記憶の中に素早く探りをいれ、当時のサラディンの突撃陣形を父が再現しているのだと理解した。

「アジャリア様だけでなく、サラディンまで自分の力にしてしまったのか」

 レイス軍のボクオン、アズィーズ、ファイヤドのような古豪でも、眼前のバラザフの戦闘隊形を危険視していた。目の前には川も横たわっている。大軍を自在に動かす事はできず、動けない間にバラザフの知謀に陥れられる不安を拭い去る事ができるのなら、それは無謀の猪突者だけだ。

「バラザフ・シルバ自身が出てきたのだ。陥穽が仕込んであるに決まっている。とはいえ、先手を打つこともできぬ……」

 そうした恐怖が増幅していくのは当然である。

「さあ、来ないなら行くぞ。シルバ軍を相手にするという事はアジャリア・アジャールに狩られる事だと知れ」

 バラザフは諸刃短剣ジャンビア を一本抜いて、そのまま敵陣へ、鋭く、真っ直ぐ指し示した。いつもの武器として扱っている方ではなく、アジャリアから下賜された翠玉ズムッルド象嵌ぞうがん の宝物である。

 歩兵五百が河川に居並んだ。アジャリアの独特の戦法だったタスラム部隊である。歩兵が膏で出来た投擲武器を持ち、渾身の力でこれを投げつける敵を怯ませるのである。

 戦いの太鼓タブル が打たれた。すぐさま歩兵がタスラムを敵目掛けて投げつける。レイス軍の前線の兵士達は、タスラムにやられて頭部から血を流し、次々と卒倒していく。しかも割れたタスラムの石膏破片が粉塵となって視界を遮るのである。

 アジャリアの時代から、このタスラム戦法は敵に厭忌されてきた。やられる方からすればそれほど鬱陶しい攻撃であった。

 レイス兵が逃げ散りそうになっているのを見て、バラザフは次の手を合図した。タスラム部隊が下がって、次に火砲ザッラーカ 隊が前面に出てきた。

 太鼓タブル の拍子が変わり、一千の火砲ザッラーカ が火を噴いた。すでに、ここまででレイス軍には六百程の死傷者が出ている。

 しかし、レイス軍の反応は薄い。逃げ惑うような反応は見せはしても、反撃に出てくるまでの押し返しは無い。懲りているのである。もはや両軍にとって定番となりつつある煽られてよりの反撃は、入り乱れた戦いの陥りやすく、即ち、これも定番のレイス軍の敗北を誘引する。

 バラザフの合図で、詰めの弓兵が出てきた。

 川から進んでこれないレイス軍の頭の上から矢の雨が浴びせられた。

「ポアチャから駱駝ジャマル の糞が生まれたか!」

 精一杯悪態を込めて罵声を放ち、バラザフが手綱を引いてリヤドに戻ろうとした、その時、レイス軍の中から火砲ザッラーカ を撃つ者があった。炎はバラザフの所まで至らなかったが、その引き金で、レイス軍の勘気余った者らが水を掻いてバラザフの後を追おうとした。それを見て残りの前列の歩兵も皆、水に浸かって押し出していく。俄かに大兵が殺到したので、元々、舟が無くとも渡れる水量だった川の流れが止まった。

 命令違反ではある。だが、ファルダハーンは兵達の自発的な押し出しに、自身の意気もまたもや上がって、

「そのまま疾駆するのだ!」

 と、状況を良い風に受け取って喜んでいた。

 バラザフは、またすぐに迂回して前後反転し、並列錐ミスカブ を整え直した。隊が細分化され、錐がさらに鋭さを増した形である。

 レイス軍の先頭が川を渡り終え、今度こそバラザフの部隊を包囲したと確信したとき、

「待て、油のにおいが――」

 流れのせき止められた川は、再び炎の壁と化し、押し出してきたレイス軍の歩兵の大半が一瞬で焼死した。今度は、バラザフの傍にいたケルシュが、この仕掛けを発動させたのだった。フートも一枚噛んでいて、川の水がとまったのを見て濠に油を流し込んで、仕込みをしていた。フートは今回で引退を決めていて、アサシン軍団を指揮に現場に立った。

 二度目の炎の壁で数千の歩兵の焼死体ができた。

「終わりましたな……」

 イクティカードはファルダハーンにわざと聞こえるように呟いた。落胆というより、諦めと嫌気の交じった呟き、ため息である。

 バラザフは、戦果を自分の目で確認して、満足して後ろに退いた。

 後にファリド列伝ともいうべき記録が、レイス家に編まれる事になるが、そこにすら、

 ――シルバ家とのリヤドにおける戦いで、我が軍百害で足らず。

 と、自虐されてしまうほど、この戦いでレイス軍は見事に崩れたのである。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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(最終章2024.03.05公開予定)

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