三ヶ月後――。
ハイレディン・フサインが死んだ。
この報はカラビヤート全土を震撼させた。驚愕を表に現した数多の中にバラザフの顔もあった。
「ハイレディンの奴、俺にあれだけ大きな顔をしておいてあっさり死んでしまったのか」
ハイレディンはエルサレムから南に少し離れたヘブロンという場所で休養中に、家来のバシア・シドラという武官に急襲されて、戦の備えの殆どしていなかったのが憂いとなって、炎に包まれて世を去った。
覇王ハイレディンのもと、力で一統されかかっていた世の秩序が崩れ始めた。
影響が各地に出るのも早かった。
カトゥマルを見捨てたサイード・テミヤトが何者かに殺害され、ハラドに太守として置かれていたフマーム・ブーンジャーは、アジャール軍の残党によって惨殺された。
力でフサイン軍に押さえれれていた各地の
シルバ家存続に砕身してくれたルーズベ・ターリクも例外ではなかった。フサイン軍に臣従を誓っていた各地の諸族達は、ハイレディンさえ居なければフサイン軍など恐れるに足りないと、ターリク軍の支配権の放棄を求めた。
「早くバグダードに戻ってハイレディン様の仇を討たねばならぬときに」
ルーズベを取り巻く環境はそれを許さなかった。周りに味方は殆ど居ないのである。
「叔父上、メスト。ターリク殿を護るのだ!」
ルーズベが進退窮まっているのを見て、バラザフは家族にルーズベの護衛を命じた。
ハイレディンによる支配が除かれてから、今後、大乱になるのは必至と見た。ターリクが本拠地に帰った後も再会出来る保証はどこにもない。ここで恩義を返しておきたかった。
バラザフは、ハイレディンがヘブロンで斃れたのを、神の思し召しとまで喜んだが、一方で、アルカルジに諸族に取り囲まれてしまったルーズベをアルカルジから逃れさせるのに、何とか力を尽くしてやりたいと思っていた。
「今のアルカルジに駐屯する十八万のターリク軍も、バグダードに戻るまでに急な行軍で大半が脱落するはずだ。叔父上は兵二万を連れてターリク殿の護衛を。抜け目の無いメフメト軍が死肉を食らいにくるかもしれないからな」
ルーズベが居なければ、間違いなくシルバ家はハイレディンに圧殺されていた。フサイン家との対外交渉において、ルーズベはシルバ家の救世主となった。バラザフにとってルーズベ・ターリクだけがフサイン軍の武官の中で別格になっていた。
「シルバ殿の御厚情に感謝致します。今ここで私はアルカルジ、リヤドの支配権を放棄する。この混乱の中故、獲得の保証は出来ぬが、シルバ軍に後を全て委ねる」
別れ際にバラザフの手を握るルーズベの手に力がこもった。
ルーズベの行く手を、メフメト軍が十重二十重に妨害して、三万もの兵力がその戦いで散っていった。
イフラマはルーズベをシルバ軍の影響の及ぶぎりぎりの所まで護衛して復命した。この任務でシルバ軍で命を落とした者は一人もいない。
ターリクが去ると、アルカルジの実質的支配者はバラザフ・シルバという事になるが、一時でも手を離れた地域は空白地となっていた。特にハウタットバニタミムは所有するに有益でありながらも、この混乱の中でしばらく放置されている
「せっかくの好機だ。ハウタットバニタミムを取り返すぞ。ターリク殿も言っていた。この地域はこのバラザフ・シルバの随意である」
領土獲得にバラザフは燃えた。
さっそくバラザフはハウタットバニタミムの攻略を開始した。
攻略といっても領主の居ない
こうして空いてしまった残りの
バラザフが言ったように抜け目の無いメフメト軍は、ハイレディン死亡という火事場の混乱の中で、出来るだけ自家の領土を増やしてやろうと、またもやアルカルジに手を伸ばそうとしていた。ターリク軍に襲い掛かったのも、あわよくば当主を亡き者にして混乱の生じたターリク領を横奪せんと目論んだからである。
アルカルジの攻略にメフメト軍からは、ムスタファ・メフメトが出てきた。バーレーン要塞のシアサカウシン、セリムの親子も、これにつられる形で兵を出してきた。
ターリク軍が完全に退去すると、押し寄せてきたメフメト軍の相手をシルバ軍が引き受ける戦いとなった。
「独立したのはいいが、まだまだシルバ軍だけでは対外勢力には圧されてしまうな」
メフメト軍の大軍と戦って勝てる見通しが立たないと判断すると、バラザフはメフメト軍に臣従する擬態を取ろうと考えた。すでにアルカルジの殆どの諸族がメフメト軍に尾を振ってしまっていた。シルバ軍の兵力だけでは抵抗は敵わない。
「今叩けない手には接吻そして後でその手の骨折を祈れ、と言う。今のシルバ軍のためにあるような言葉だ。詭弁、詭術、策謀。何でもいい。多少の
次男のムザフにバラザフはこう教えた。
「武人としての誇りは大事。生き残る事はもっと大事だ。死なぬ覚悟が要るのだ。根底に武人の誇りを堅持して、死なぬ覚悟を立てるのだ。わかったか」
熱弁する父の姿がムザフには輝いて見えた。
「カトゥマル様が亡くなった時、未来を視る眼を欲する事が自分の
「父上が御自分の才知を大事にされている事がよくわかりました」
「そうか」
「ですが父上が求めている
「では何を求めているとうのだ」
「覇権です」
バラザフは、ムザフの言葉に心の臓が抉り出されたような気がした。外交の場でならともかく、まだまだ
「確かに父上は世の者等からアルハイラト・ジャンビアと称される程の智将です。ですが、父上が本当になりたいものはアジャリア様だと思うのです。アジャリア様やカトゥマル様が通った道をゆくのなら、その先には必ず覇権があるはずです」
ムザフは、バラザフが心中に秘していた野心を完全に言葉にして表出させてしまった。まだ我見に少ない少年だからこそ逆に透徹した見方が出来るものである。
「確かに俺はアジャリア様の背中を追って生きていた。そしてアジャリア様亡き後も、何とかカトゥマル様をエルサレムに上らせて覇権を得る補佐をしようと思っていた。ハイレディン殿にしてもそうだ。慢心をバシア・シドラに衝かれなければ、カラビヤートを全て手に入れる手前で没する事もなかった。今、カラビヤートは戦乱に戻り先が見えない。俺がアルカルジを統帥して、リヤドやバーレーンを手中に収めるまで、時間が残されているかもわからない。だが、お前の言うとおり俺の中には争覇に乗り出す野心がずっとあったのだ」
今まで秘していた自分の野心に気付いた。その弾みで次男のムザフに、バラザフは心中を全て吐き出してしまった。そして知らぬ間に我が子が
※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。
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