2022年5月5日木曜日

『アルハイラト・ジャンビア』第8章_2

  カーラム暦1001年秋、ザラン・ベイにカトゥマルの妹が嫁いだ。バラザフもアジャール側の随員としてこの婚礼の儀に加わっていた。ここでザランと彼の参謀のナギーブ・ハルブと初めて顔を合わせた。

 この時、バラザフ・シルバ、二十三歳、ザラン・ベイ、二十四歳。ナギーブ・ハルブはまだ十九歳である。

 自分と同年代の者がすでに国を束ねている。二人の若き指導者にバラザフは興味を持った。

「カイロの義人サラディン・ベイの薫育を受け、信頼をおいたハルブが自分より若い士官だったとは」

 十九歳、その頃の自分は今のハルブの格には及ばないかもしれないというのが正直な感想である。ハルブも謀将アルハイラト と呼ばれてもおかしくない程、これから逸話を歴史の上に幾つも刻んでゆく将である。だが、バラザフと会った今時期には目を見張るような活躍はない。それなのに若さを削ぎ落としてしまったかのような深みが、その人格の奥にある。過日、バラザフがファリド・レイスを「若さに苔の生えたような男」と評したのとは別種の老成である。

 そして、

 ――低くて深く響きのある声だ。

 と表面上の印象を受けた。

「バラザフ・シルバさんですね。アジャリア公の息吹を受けたアルハイラト・ジャンビアの名前はカイロまで届いておりますよ」

 ハルブは、バラザフをこのように当たり障りの無い褒め方をした。

「この新規の同盟関係が両家にとって多幸である事を当家も願っております」

 バラザフも定型句のような返答をハルブに返しておいたが、二つの道が交わったこの先に何が待ち受けているのかは、アルハイラト・ジャンビアといえども、見通す事は困難であった。しかし、少なくともアルカルジ一帯の仕置に関して、ベイ家が干渉してくる事が無くなるのは、状況は好転したと受け取っていいはずである。

 カトゥマルは、これより後のベイ軍に関する外交処理の全権をバラザフに与えて、一任した。

 意識をハルブに戻すと、向こうはこちらをじっと見つめている。瞳の中を覗き込んできるような凝視である。針金のような張り詰めた視線、さりとて邪視アイヤナアルハサド とも違う。不思議な目つきだが、少なくとも体裁を見ているのとは異なる事だけは確かなようであった。

 こちらも相手の内心を探ってやろうと、瞳を覗き込んでみるものの、針金の視線で圧してくるので、心の身動きが取れない。

 ここで意固地に踏ん張る意味も無い。バラザフは肩の力を抜いて思考を解除した。

「アジャリア公に因んで、このバラザフをお褒め頂けるとは、小官にとっては、この上ない喜びです」

「アジャリア公の懐刀、アルハイラト・ジャンビアの切先がこちらに向けられぬ事無く済んで、ほっとしております」

 ナギーブが口に笑みを浮かべ、バラザフも笑った。

「我等アジャール軍も、強兵のベイ軍を味方につける事ができて、厄介な敵が減って、此度の同盟をありがたく思っております」

 これは本音であった。

 次いで、バラザフは、ザランへ言上を向け直して、

「ただ、災厄がまだ残っております。シアサカウシン・メフメト殿の事です。昨年、我等のアルカルジ周辺を現れてハウタットバニタミムをまんまと手中に収めてしまいました」

 滅多に笑顔を見せないザランは、バラザフの口上に対しても、いかめ しく無言でただ肯首したのみでった。戦いに出るより、人に愛想を見せる事の方が余程至難な人なのである。

 バラザフの口上にあるように、カイロ擾乱の発生の後、同盟関係であったアジャール軍とメフメト軍の間に険悪な情調が充満していた。

 その情調を体現するかのようにメフメトは、アジャールの領土にまで食指を伸ばしつつある。

「ハウタットバニタミムには八千の兵が置かれ守備しています。カトゥマル公から我がシルバ家に対して、早々にハウタットバニタミムを攻撃して奪取するように命が下っておりまして、これから城攻めに入りますので、それをベイ家にも承認していただきたい」

 ザランは、厳しい面容を保っていたが、ナギーブを一瞥した。ナギーブの口から言葉は無い。

「その件、ベイ家も承認する。アルカルジ方面の領土獲得はシルバ家の随意にするがよい。アジャール殿にもそのように伝えてくれ」

 実際に兵をもらわずとも、ベイ家とアジャール家、大勢力が二つも後ろ盾になっているという事実だけでも、万敵を怯ませるには十分な材料である。

「アジャール家と結んだからというわけではありませんが、今ベイ家は、レイス、フサインとの外交処理に多忙なのです。アルカルジ方面が敵に取られるよりは、味方であるシルバ家に押さえておいてもらえれば、我々にも安心感が広まるというものです」

 シルバ家のハウタットバニタミム攻略に関してナギーブはこのように結んだ。

 バラザフは、アジャール家、ベイ家双方の承認を得た。これは盤面をアルカルジ近辺に絞って戦えばよい事になり、寡兵を自らの知謀によって大戦力に化けさせるバラザフには、格好の舞台が与えられたといってよい。

 この地方の一番の要点であるアルカルジをシルバ軍が押さえているとはいえ、ハウタットバニタミムの地理的価値も軽視出来るものではない。

 リヤド、ハラドに接しているのはもとより、オマーンやジュバイルにも通じている。ハウタットバニタミムばかりでなくアルカルジの地方全体が各地の接点となる。だからこそ、メフメトが手を伸ばしてくる事も出来るのである。

 アジャール軍がハウタットバニタミムを攻略するのは二度目である。アジャリアの時代からアジャール軍は、大略を推し進めるために、一度獲得した城邑アルムドゥヌ を敢えて放棄するという事は何度も行ってきた。

 兵力の分散を極力回避し、城邑アルムドゥヌ の経営のために要する兵員や食料を抑えるためである。

 ハウタットはアジャリアの攻略の主軸が北に遷されるとともに、戦略的価値が低下し放棄され、アルカルジの別の族が入っていた。そこをメフメト軍に攻略された。

 ハウタットバニタミムの周りには涸れ谷ワジ が点在している。雨が続くとこれが天然のカンダク になる守りの一役を担う。今、その利を使っているのが、メフメト軍である。

 アジャール軍の方針がエルサレムへの進攻を手控えて、守りに重点を置くようになり、ハウタットの戦略的価値が再び上がってきた今、是非とも押さえておきたい城邑アルムドゥヌ なのである。

 バラザフは以前にここでの攻城のとき、間者ジャースース を用いて、敵を撹乱して戦功を上げた。つまり、

「今回はその手は通じないと見たほうよいかもな」

 抜け目の無いメフメト軍の事である。当然、当時のハウタットの下士官を探し出して、昔日のバラザフがここで用いた戦法も知っていよう。

 涸れ谷ワジ の増水によって自陣が呑み込まれる事を、父エルザフは危惧していた。そして、今でも城壁から降ってくる矢の雨も、十分に留意しなければいけない点の一つである。

「つまりは水に飲まれなければいいのだ」

 次の日、手配された間者ジャースース が大量の板と丸太の載せて現れた。

「よし、簡単な足場を作るぞ」

 工兵達の作業が始まる。工兵達は丸太を砂地に深く打ちつけ、その上に板を乗せて固定する。それだけである。

「板と丸太の固定だけは抜かりなくやっておいてくれよ」

 次の日の昼前には、敵の矢頃の外あたり、味方の陣の前面に野外演劇場のような足場が出来た。最前に板が敷かれればそれで十分である。

「足場の準備はできた。フート、投槍ビルムン を用意してくれ」

投槍ビルムン ですか。ジュバイルを攻撃した時以来見ておりませんが。私も正式に配属されるのは此度が初めて故、まだ積荷まで把握し切れていないのです」

「しくじったな……。あれからレブザフの荷隊カールヴァーン から移していなかったのか」

 レブザフの所へ使いを遣って投槍ビルムン を手配しても早くても届くのは明日になるだろう。それまで待機するよう各隊に下達しようとした所へ、

「遠くから小規模の間者ジャースース がこちらへ向かってきております」

「どこの者だ」

「敵ではないようですが……」

 バラザフ達が相手の出方を伺っていると、

「お久しぶりです、兄上」

「レブザフではないか。どうしてここに。今、丁度お前に使い送るところだったのだ」

「ええ、そうでしょう」

 レブザフは夢に、亡きエドゥアルド・アジャールが現れたのだと言う。レブザフはバラザフと違って生前エドゥアルドとはそれほどの親交は無い。そのエドゥアルドの、

 ――バラザフ……足場……。

 という言葉だけが、目を覚ましたレブザフの脳裏に妙に残った。そして足場という言葉から、バラザフがまた投槍ビルムン 使った戦術を考えているのだと、思い至ったと言う。

 バラザフは、エドゥアルドから自分の成人の祝いとして貰った孔雀石マラキート象嵌ぞうがん が施されている、あの諸刃短剣ジャンビア を見つめた。

「たしか、孔雀石マラキート の加護で、戦場で仲間の援けを得られるのだったか……」

 死してなお子を想うのエドゥアルドの親心のようなものを感じ、バラザフはじわりと両目を潤ませた。そして、レブザフの兄弟愛にも心奥で感謝した。親しい者には感謝の言葉というものは、なかなか素直に出せないものである。

「兄上、水に近いこの場所をわざわざ選んだのですか」

「うむ。以前俺は父上、兄上達とハウタットを包囲したとき、この北側を担当したのだ」

「ええ」

「その時俺は間者ジャースース を使って北側の櫓を落として、そこから突破口を開いた」

「同じ手を使うと?」

「また同じ手を使うかのように偽装したのさ」

「なるほど!」

「敵はきっと俺が間者ジャースース を使ってくると思っている。夜間の警備も厳重にするだろう。その分疲労が溜まる」

「そこへ投槍ビルムン というわけですか」

 レブザフは投槍ビルムン だけでなく、それを投げる強肩の兵もしっかり連れてきていた。

 投槍ビルムン 部隊は、用意された足場に踏ん張り、城壁の兵を次々と仕留めていった。が、それだけでは十分ではない。

 バラザフが足場となる橋を架けさせたもう一つの理由が、周囲から寄せる水を避けるためである。すでに北側の城壁の下には水が流れ込みカンダク を成している。せっかく城壁の兵を倒しても、これを渡るのに難儀している間に、残存の兵から上から攻撃されては、城邑アルムドゥヌ の攻略どころではない。

「今、間者ジャースース を潜入させれば、容易に開門出来よう。こちらは今回は正攻法で攻めると思っている裏をかくのだ。敵の出方を予測する事、これが俺の未来を視る眼であると思っている」

 此度の戦いに一緒に出陣してきていた長男のサーミザフは、父の言葉を教練のように聞き入っていた。だが、実直そのものであるサーミザフには、父バラザフの戦術は分からない事だらけである。特に敵の裏をかくという、正攻法から離れてゆく奇法に、不確かな危うさを、この頃から感じていた。

 確かに父バラザフの未来を視る眼は当たる。だが、その未来を覆すさらに大きな未来に呑み込むように襲われたとしたら、シルバ家のような小船は一瞬で沈んでしまうのではないか。生真面目な人間の抱え込む苦労がそこにある。

 バラザフが初めて総大将として采配を振るう舞台が、この二度目のハウタットバニタミムの攻略戦となった。

 今までもアジャール軍は、バラザフの発案によって動いている部分はあった。だが、それも上の裁可あっての事であり、上にはカトゥマルの判断を仰ぎ、後方ではテミヤトなどの目付けが、バラザフ等若い将に手抜かりが無いか常に見張っていた。

 先のハイレディンとの戦いにおけるテミヤトの一連の行動から、バラザフは、これまで後方で監督していたテミヤトに好感を持てなくなっている。それもあって、今、自由に采配を振るっているという実感は大きなものなっていた。

投槍ビルムン で打撃は十分与えた。後は力で押すか、間者ジャースース を使うか、の二択にしてしまってもよいのだが」

 バラザフは答えを急がず明日の朝までに結論する事にして、その晩は眠りについた。

 夜明け間近き頃――。バラザフの枕元に寄せてあるアジャリアから下賜された諸刃短剣ジャンビア象嵌ぞうがん された翠玉ズムッルド が淡い光を発し始めた。それと共鳴するかのようにエドゥアルドの孔雀石マラキート も光る。

 光はゆっくりと拡がり一つの光になると、そこにアジャリアとエドゥアルドの姿が映し出された。

 ――バラザフが総大将となる日が来ようとはな。

 ――何を言います、兄上。我等の弟子なのです。これでも遅いくらいですぞ。

 ――いやいや、わしは出世は遅い方が大成すると思うがの。

 ――今回は力攻めはするなと言いたいのですかな。

 ――そうじゃな。バラザフの初の采配だ。無事に勝たせてやりたい。

 ――バラザフ。我等はそろそろ行く。自分の力を巧く活かせよ……。

「アジャリア様! エドゥアルド様!」

 まだ靄掛かる脳裏に二人の言葉が残響する。

「夢……か……」

 二つの象嵌から返す光は朝露のものだけではなかった。

 朝一の軍議でバラザフは、

「シルバアサシンを潜入させる」

 と方針をを下に示した。

「亡きアジャリア公、エドゥアルド様のご遺志である」

 夜明けに現れたアジャリアとエドゥアルドの言葉を受けての事であるが、下の者にとってはその意味は、亡きアジャリア公の戦術を踏襲するのだ、というくらいにしか理解出来ていなかったであろう。

 ハウタットバニタミムの将兵にとっては足下に築かれたシルバ軍の足場と、投槍ビルムン の攻撃が強く印象付けられている。

「またあの長槍を投げてくるか、城壁に圧しをかけてくるのだ」

 と、正攻法的な防備を固める姿勢を見せた。

 バラザフは、これをシルバアサシンの使いどころと見た。

 ケルシュ部隊の特技は城への潜入である。数名ずつの班に分けて、夜の闇と共に中に侵入した。すぐさま流言が流れ始める。

 ――シルバ軍の大将は投降する敵兵は手にかけないらしいぞ。

 ――兵士だけではなく将官の命も保証されるらしい。

 ――そればかりか褒美まで与えられるらしい。

 ――手向かいすればアジャール軍十万で我等を皆殺しに来るらしいぞ。

 流言が十分に飛び回ったあたりで、バラザフはハウタットの太守に降伏を勧告した。それに加えて太守の配下にも黄金を贈り、さらにその下の仕官にも、ケルシュに金貨を配らせた。ナギーブ・ハルブがカトゥマルとその配下にまいない をしたのと同じやり口である。

 これで城内の守衛の意気は大いに低下した。

 シルバ軍に対して徹底抗戦を訴える士官は少数派になり、降伏した方が痛手を受けなくて済むという言葉が、一様に衆口に乗るようになってきた。仕官の中にはすでにシルバ軍から黄金を受け取った者もいるという噂も、兵卒間が顔合わせると口に出る、合言葉のようになっている。

 城内の流言作戦も熟してきた。城内には充つる空気は、降伏後、自分達の処遇はどうなるのか、それだけである。太守ですら戦う意欲を失くしている。それでも降伏に踏み切れないのは、メフメト軍に帰参した際に立つ瀬が無くなる事を恐れているからに過ぎない。

 ここで一押しと、バラザフは周辺の諸族からハウタットの副将に転身している者達に声を掛けた。

「今降伏すれば全て水に流そう」

 太守にこれ以上の義理立ては不要と、副将等は降伏を受け容れた。バラザフはさっさとその者たちと配下の将兵達を、ハウタット周辺の彼等の封地に還した。領地安堵を約束するとともにハウタットの実効戦力を削ぎ落としたのである。

 主だった将兵が離脱した事で、ハウタットバニタミムの防衛機能は皆無となり、太守はやむなく城邑アルムドゥヌ を明け渡し、野に下っていった。

投槍ビルムン と金貨で城邑アルムドゥヌ が落ちた」

 ハウタット側は一度も抵抗らしい抵抗すらさせて貰えなかったという事でになる。

「ハウタットには明日入城する事にしよう。その前に――」

 バラザフは、配下に城内の安全を念入りに確かめさせた。古来、城の明け渡しに事件は付き物である。

 翌日はバラザフは、堂々と太鼓タブル を鳴らさせて、正面の門から入城した。

「サーミザフ、戦争は犠牲少なくして勝つ事が大切だ。知恵を駆使して勝つ。力押しで勝つのは上策ではないのだ」

 バラザフは入城行進で傍らに馬を進める長男に話した。

「一兵の損失も出さず、また負傷者も一人も出さず。そのような戦術が仕官として将軍として目指す究極かもしれない」

 バラザフのハウタットバニタミム入城に従う兵は、騎馬兵三千、歩兵二万である。今回連れてきたのはアルカルジのシルバ軍であり、バラザフはリヤドにも手持ちの兵を残してきているので、今のシルバ軍の総戦力は三万前後まで成長していた。

 バラザフの周囲には従卒が四人、前に二人、後ろに二人、彼の諸刃短剣ジャンビア を天に向けて高く戴剣して、先頭にはアジャリアから下賜された、あの孔雀石マラキート の象嵌のカウザ を掲げた者が行く。こうした式典には普通、真っ直ぐな直刀を天に向けるものなので、そこに諸刃短剣ジャンビア を用いたのは些か異様な光景だということはできる。

「バラザフがハウタットバニタミムを陥落させたのか。私ですらそのような威風堂々たる行進の主役になった事などないのに、何とも羨ましい限りだ」

 バラザフのハウタットバニタミム入城の風景を、ハラドにて伝え聞いたカトゥマルは、我が事のように満足げに大きく頷いた。

「ハウタットの奪取がようやく成った。だが、それよりも私はバラザフの初の指揮が成功した事の方が嬉しいぞ!」

 そしてハウタットバニタミム奪取成功を祝す使者をバラザフに遣った。使者はハウタットの太守をバラザフが自領と兼任せよとの辞令も持ってきている。カトゥマル・アジャール公認でハウタットバニタミムをシルバ軍の領土と認めたに等しい。

 事実、このハウタットバニタミムの入城行進が、アルカルジを始めハウタットを含めた周辺地域の支配者は、バラザフ・シルバであると示すものとなった。

 そして、この領域こそがバラザフがシルバ家を一地方の領主として独立を可能にする重要基盤となるのである。

「まだまだ周辺にはシルバ家に従わぬ小族や城邑アルムドゥヌ も多い。だが、この地方の支配者は、このバラザフ・シルバである事に異論を挟む者はもはや居ないであろう」

 ハラドにいる奥方と次男のムザフに、バラザフが手紙でこう記したように、今回の入城行進はこの一帯におけるシルバ軍の示威行動となった。

 奥方もムザフも、バラザフからの手紙を何度も読み返しては目を輝かせていた。二人の眼前には自信に満ちた父バラザフの勇姿が映っており、二人ともバラザフの鬼才をよく知っていたため、彼が思う存分采配を振るえる事を喜んだ。

 この時、次男のムザフ・シルバは十三歳、男子であれば、兄が戦場で父の隣で馬を並べているのを羨望してもおかしくない歳である。

 カトゥマルからハウタットバニタミムの支配を任されたバラザフは、親族の者を太守の任にあたらせ、長男のサーミザフをまたハラドに帰還させる事にした。

 この旅でバラザフは叔父のイフラマ・アルマライに頼んで、サーミザフの護衛のため一緒にハラドまで帰ってもらうようにした。イフラマもシルバ家の男子として歴戦を生き抜いてきた者らしく、サーミザフをハラドまで護衛するくらいの任はどうという事は無い。今回の旅の彼の苦労は別の所にあった。

 彼は道すがら、ずっとサーミザフから質問攻めにされ、シルバ家の古事を語り続けるはめになった。一つ語り終えるとすぐに次の問いが来る。持っている記憶を残らず引き出されるような感じであった。

「シルバ家はリヤドの周辺地方の小領の領主だったのだが、さらに古くはシルバの名から分かるように、西のアルブルトガールまたはブルトガールという異国から渡ってきた一族なのだ」

 生真面目な性格が人の形を成しているようなサーミザフは、その形成を崩さずに、イフラマの話を一心に聞き入っている。生真面目な彼が自家の来歴を詳細に知っておこうと思ったのは当然であり、その引き出しをイフラマに求めたのはこれまた当然の事であった。

 なにしろ父バラザフは、自分が物心つく前から常に戦場を駆けている。主家のアジャリア自身が求めたものにせよ、アジャール軍は常に波乱の中になり、バラザフもその荒波に揉まれる小船の一双であった。

 ムサンナでの敗戦以降は特に家中の緊迫が高まり、バラザフはたまに家に戻ってきても、なかなか戦場での険を解く事が出来ずにいた。親子が胸襟を開いて語らう機会を作ってこれなかったのである。

 だが、そんな父をサーミザフは憎いとは思わない。むしろ主家を守るため、そしてシルバ家を守り抜くため奔走している父の背中を見て、そこに尊敬の念を感じていた。

 だからこそシルバ家の事をもっと知っておきたいと、生真面目の彼の中に、ある種責任感のようなものが発生していた。知ってさえいれば父の通った足跡を追える。

 そうした思いを抱え続けていたとき、サーミザフはイフラマという親族の長老を捕まえる事が出来た。彼にとっては好機であった。

 サーミザフは、父バラザフは戦いのときは、アサシンのフートやケルシュを重用しているが、親族の中ではイフラマに一番信を置いていると、彼なりに観察していた。

「そなたも自分の目で見てきて分かると思うが、シルバ家は盛んなりといえども、まだまだアジャール家のような大領主にはかなわん。家の記録などという物はアジャール家のような大勢力が持つ物だ。士族アスケリ といえどもシルバ家は生き抜くのに精一杯だった。来歴などという大層な物は、リヤドに来てから、そしてお前の祖父のエルザフがアジャール家で力を付けてから、自然に付いてきた物なのだよ」

「シルバ家の出自はリヤドではなかったのですか」

「勿論リヤドだとも。語り継げる記憶や記録の範囲では確かにシルバ家はリヤド出身という事になるんだ。ブルトガールから来たという先の話も、シルバという家の姓から推し量っているに過ぎないのだよ」

 その後もサーミザフはイフラマの記憶からシルバ家にまつわる事を引き出し続けた。が、やはり一番印象に残ったのはシルバ家の出自が遠く異国の地かもしれないという部分であり、アジャール軍屈指の士族アスケリ の家柄と思っていたシルバ家も、案外、近年に勃興して来た新勢力に過ぎないという事である。そこに悔しさは無い。自分が生まれてからのシルバ家については、アジャール軍内で重用されている記憶しかない。だが、自分の立ち居地が、祖父の代辺りから苦労を重ねてきた結果の足場なのだと理解したとき、この真面目な若者の胸中に湧いてきたのは、祖先への感謝の念なのであった。

 アルカルジとハウタットバニタミムの間には小さな集落がいくつもある。リヤドにおけるシルバ家発祥の地もその集落の中のひとつだとイフラマは言う。

「リヤドと一言に言っても広いからな。城壁を持たぬ集落も星の数ほどある。人の暮らしは何も城壁が全てというわけではない。城邑アルムドゥヌ を幾つも持たせて貰えた今でも、わしらはその地を放り出さず管理しているのだよ」

「ですが、父上は先日ハウタットバニタミムに入城した折、やっと俺の故郷を取り戻したと言っておりました」

「それはだな。シルバの発祥はさっきも言ったように小さな集落であったが、ナムルサシャジャリ・アジャール殿の時代、つまりアジャリア公の父上の代で、アジャール、デアイエの連合軍に攻撃されて、シルバ家は件の小領を追われた。そして流れ着いたのがアルカルジのハウタットバニタミムの辺りだったのだ。すでにシルバ家の者がそこに根を下ろしていた事もあって、そなたの祖父のエルザフ殿も、しらばくはここに安住出来た。そして、エルザフ殿はそこで嫁をもらって、父であるバラザフ殿が生まれた。それでハウタットバニタミムがバラザフ殿にとっては、故郷、あるいは旧領という事になるのだよ」

 実際に見てきたイフラマの話を聞き、サーミザフは人の生きてきた時間の長さは貴重なものだと思った。

「そういう事であれば、私の出自もリヤドや、アルカルジ一帯にまたがった広い範囲に関わっていると言えるのではないでしょうか」

「その通りだよ。シルバ家の長男であるサーミザフ殿の立場は重いものだ。何しろ各地で生きた我等の血筋の者たち、その者たちが地に足を張って、食らってきた命を全て背負う事になるのだからな」

 ――食らってきた命を継承する。

 シルバ家の血脈のみならず、自分が生きるという事が自分をこの世に有らしめてきた全てを継承する事になるのだと、サーミザフの心の中に、穏やかなるも熱い決意が興った。この決意がその後のサーミザフの生き方の全てをも決めてしまう事になる。

 アルカルジとハウタットバニタミムを中心に地方をまとめて手中に収めたシルバ軍が次に取り組むべき課題は外交である。

「ベイと同盟関係にあるとはいえ、昨日今日結ばれた関係が明日には崩れるという事はよくあるものだ。アジャリア様がしたように万が一に備えて間に位置するメッカへの手回しが必要だろう。カトゥマル様へも具申するつもりだが、シルバ家独自の外交経路を構築しておきたい」

 バラザフはその先駆けの使者として従兄弟のメスト・シルバという物をメッカに遣わした。バラザフと同じように兄達をベイ家との戦いで亡くし、自家を継承していた。

 新たに外交経路を築くという事は、商売でいえば新たな顧客開拓である。これまで対外的な方針はアジャール家のやり方に従ってきたが、シルバ家が一つの勢力として確立した今、アジャール家を始め、各所との折り合いをつけた上での外交となるので、これまでの対外策とは、また違った険しさがある。

 そしてメストはその後もシルバ家の執事サーキン の一人としてバラザフに与力した。


※ この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。

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