カーラム暦1003年冬、工夫達が、まだ
人より野生の方がこうした環境の変化に敏感で、カトゥマルがタウディヒヤに拠点を遷したときには、水を求めて動物達が集まってきていた。無論、住民の市井の営みもすでに始まっている。
バラザフもカトゥマルの移転に伴い、自分の家族をタウディヒヤに移り住まわせていた。奥方、サーミザフ、ムザフ、娘達、家臣、
移転後もバラザフは忙しくアルカルジに戻ったりして、ケルシュが集めてきた情報を受けていた。翌年、カーラム暦1004年、年頭が少し過ぎた頃である。
「ハイレディン・フサイン、ファリド・レイス連合軍が再びアジャール軍への攻勢に出る様子。これに伴ったサイード・テミヤト、ナワズ・アブラスなどアジャール家親族の者等が次々とフサイン、レイス側に裏切りを約定しているようです!」
あまりの事、すぐに全てを信じるのは危険な情報である。が、それを裏付ける報告が、フートからもあがってきた。
「シアサカウシン・メフメト、セリムへも、ハイレディンからアジャール攻めの派兵協力要請がいっております。このメフメト軍へ宛てた手紙に書かれております。我が配下が密使より奪い取ったものです」
バラザフがその手紙を確認すると、確かにハイレディンの封蝋が押されている。
「昔、
今のハラドとアジャール軍を囲んでいる環境を鑑みると、どうしても悲観的な見方は避けられなかった。
「これはアジャール家の危機だ!」
バラザフは急ぎセリム・メフメトに宛てた手紙をしたためフートに持たせた。
中にはこのように書いてある。
「現在、メフメト軍、アジャール軍の間の同盟は決裂状態にあるが、カトゥマルがハラドを放棄した時は、カトゥマルの妻リャンカ夫人の
カトゥマルの妻はリャンカといって、シアサカウシン・メフメトの妹である。これが政略結婚である事は明らかながら、二人の夫婦仲はよかった。
折角の生きた縁である。これを活用せぬ手はないとバラザフは考えた。
そしてもう一通、
「近々、フサイン、レイス連合軍が、アジャール軍に対して最終決戦を仕掛けてくるであろう。万が一アジャール軍が負けた時は、カトゥマルの夫人の縁にて夫妻をベイ家にて
という、アジャール軍の同盟相手であるザラン・ベイに向けた手紙をケルシュに持たせた。
これもザランの妻としてカトゥマルの妹を嫁がせた縁を活かそうとしたのである。
そしてバラザフ自身も、アジャール軍がフサイン、レイス連合軍に敗北したとしても、アルカルジ一帯の自身の勢力基盤を守りきり、カトゥマルを自領にて最後まで支援しようと心に決めている。
すでにバラザフの中には、
――アジャール軍敗北。
の後の防護策が様々に描かれていた。
「あのタウディヒヤの
自分が守将としてタウディヒヤに篭城して守ってもよいとも思っている。しかし、テミヤト、アブラスなどのアジャール家親族の者等が寝返ってしまったのは、智将バラザフにとっても不安材料としては決して小さなものではなかった。
「メスト、しばらくアルカルジの仔細を任せる。俺はこれからタウディヒヤに援軍に行かねばならない。そして――」
バラザフは、アルカルジの
バグダードから五十万というフサイン・レイス連合軍が出た。カルバラー、ナジャフを経由して、恐ろしい速さでリヤドまで侵攻してきた。
途中で剣戟の音は鳴らなかった。どの
カトゥマルの方では本格的にハイレディンに対する前に、しなければならない戦いが幾つもあった。
かねてよりフサイン側に寝返りを約していたナワズ・アブラスが、ここで反乱の兵を起こしたため、この鎮圧に十万の兵を編成して対応した。
カトゥマルは、リヤド近くの小領に陣を布くも、フサイン軍の先鋒の攻撃は激しく、防ぎきれずに後退を余儀なくされた。
初めからアジャール軍を取り巻く空気は重い。これを受けて軍議となった。
軍議の席にサイード・テミヤトは居ない。ファヌアルクトも自領に戻っていて軍議には出てこなかった。カトゥマルを囲むように諸将が座り、軍議を取り仕切る位置にはナジャルサミキ・アシュールがいた。バラザフは、カトゥマルに面する場所に腰を下ろしている。
「タウディヒヤを死んでも守りきるか、撤退するか。皆の存念を聞きたい」
カトゥマルが皆に尋ねると、一番先にカトゥマルの長男のシシワト・アジャールが血気を上げて叫んだ。
「タウディヒヤを死守すべし! それで死んでも構わん!」
が、場に同調の声は上がらない。
次にナジャルサミキ・アシュールが案を出した。
「カトゥマル様ご家族共々、我が所領へ参られたらよろしいではないか」
これには賛成意見が出た。アシュールの所領であれば、タウディヒヤから近く、撤退した後も守りきれるだろうというのが賛成の理由であった。
バラザフは自分が主幹として建設に携ったタウディヒヤを死んでも守りきると言い切ってくれた事に
とはいえ戦略的にも篭城が上策とは思われない。シシワト、アシュール以外の口からは、これ以上案は出てこないと見て、バラザフが長い沈黙から、各将に言葉を圧すように口を開いた。
「カトゥマル様主従には我がアルカルジに来ていただくのが良く、またこちらにはその用意がある。当方とベイ軍との間でカトゥマル様への支援を交渉中であり、近くにはファヌアルクト・アジャール殿の拠点もある。アルカルジであれば五年は持ちこたえられる条件は揃っているので、ここで再興の時間を稼ぎ、メフメト軍を再度味方につけるにも光明が見え始めるであろう」
カトゥマルの中では、バラザフの案とアシュールの案がぶつかっていた。
「バラザフ殿の言われるとおりメフメト軍との関係を修復するのであれば、メフメト軍に近いアシュール領の方がよい」
という者がいた。
メフメト家に近くなるという言葉で、カトゥマルは落ち延びる先をアシュール領に決めた。
メフメト家出身の夫人を何とか無事に生き残らせたいと、夫人を思い遣って、メフメト軍に近いほうに決断したのである。だが、この後皮肉にも、人として持っていてしかるべき心に従ったカトゥマルの決断は、アジャール家存続には仇ととなった。
軍議はこれで決まった。皆、大急ぎで引き上げの手筈を整えなくてはならない。
「カトゥマル様、どうかご無事で。私はアルカルジに帰還しハイレディンを迎え撃つ支度を致します。万が一、アシュール領が落とされた時は、アルカルジはいつでもカトゥマル様をお待ち申しております」
皆が撤退の準備に駆け回る中、バラザフは静かにカトゥマルのもとへ寄っていって言葉を手向けた。
バラザフのこの言葉に感涙したカトゥマルは、手を取って答えた。
「親族の者や、家伝の家臣等がアジャール軍から相次いで離反していく中で、バラザフだけは私の味方でいてくれた。戦乱の世に在る中でこれほど嬉しい存在は無かったのだ。おそらくこれが最後の別れだ、兄弟。折角造ってくれたこのタウディヒヤを一度も使うこと無く棄て行くのはとても残念だが、これも妻のためなのだ。わかってくれ……」
バラザフもカトゥマルの手をさらに強く握り返した。
「バラザフ、家族もここから引き払うのだ。アジャール家の巻き添えにしてはならない」
カトゥマルの言葉どおりこれが二人の間の最後の言葉となった。
昼間でも冷え込む。冬はまだ長い。バラザフは家族と家来を連れてタウディヒヤを出た。この一行に弟のレブザフと、ブライダーの
アルカルジに戻る途上で一度軍議となった。これからの方針を一同確認しておかなければならない。
「カトゥマル様は当分の間はアシュール領に留まられる。アルカルジへ来られなかったのは残念だが、あそこなら数年は守れる。アルカルジにお迎えするのは、事態が鎮静してからでもよい。アジャール、ベイ、メフメトが連合すれば、どれだけハイレディンの勢力が肥大しようとも、この防衛線を突破する事などかなわぬ」
かつてアジャリアが地理上に点と点を結んで面としての勢力図を構築したように、アルカルジ、カイロ、バーレーンを主軸とした大連合を想定した。
その下地としてシルバ家の領土も拡大しておく必要があり、自勢力の拡大はアジャール家の役に立つものだと確信して、この壮図にバラザフは闘志を燃やした。だが――、
この時すでにカトゥマルはこの世の者ではなかった。
「カトゥマル様が、戦死されました!」
この悲報の方がバラザフ達より先にアルカルジに着いていた。
「御子息シシワト様、御夫人もともに自害されました」
信じたくない言葉であった。
「ははは……それは虚報だ。フサイン方の
「そのアシュール殿に弑逆されたのです」
「そんな馬鹿な!」
バラザフはしばらく物が言えなかった。
ナジャルサミキは、アジャール家親族の者ですらカトゥマルに背を向ける中、最後まで忠誠を尽くすと誓ったのである。
「乱世の人の向背は不定なのは当たり前だ。だが……。だが、しかし! ここまでの不義理が許されるのか!」
この時ほどバラザフの中で他人に対する不信が増大した事は無かった。
「カトゥマル様の側近の連中はどうしたのだ」
「ハラドに着いた途端姿をくらます者、カトゥマル様戦死する前に居なくなる者と様々ですが、皆逃げ散った様子」
アブラス、テミヤトが去った。アシュールも裏切った。さらにカトゥマルの傍で専横の限りを尽くしてきたと言ってもよい側近連中の脱走。
「無念であられた事だろう……」
バラザフは、
「これで俺が思い描いていた、対ハイレディン防衛線も意味を成さなくなった。だが、今後はシルバ家存続のために自己の実力のみを信じて戦乱を生き抜かなくてはならない」
アジャール滅亡という一大事は、バラザフに自分の知謀と実力だけが頼りなのだという思いを強くさせた。
無残な結果を報告を受けただけで納得しきれなかったバラザフは、アサシン等を遣ってカトゥマルの死出の真相を調べさせた。
カトゥマルの一団は最後に五百名程残った。これは
「まことに激しい戦いだったそうです。カトゥマル様の一団は全員が戦死。対する連合軍の戦死者は三千、負傷者は四千。各調べからの照らし合わせで確かな数のようです」
カトゥマル一団の最後の奮戦がバラザフの目に浮かんだ。それがバラザフのせめてもの救いとなった。
「カトゥマル様は、アジャリアの剣カトゥマル・アジャールとして生き切ったのだ」
四十倍の敵に三割もの損害を与えたのだ。バラザフでなくとも、このカトゥマルの最後の奮戦を悪く言う者はいなかった。
――カーラム暦1004年アジャール家滅亡。カトゥマル・アジャール享年三十七歳。
幼少の頃よりバラザフは、アジャール家、アジャリア、カトゥマルに寄り添って生きてきた。いわばアジャール家そのものがバラザフの生き方であった。それが今、消えた。
そうしたバラザフの空虚、陰鬱を無視するかのように後ろから呼ぶ者がいた。アルカルジの
「アジャール家が滅びた今、バラザフ様はアジャール軍の武官ではなくなりました。アルカルジは勿論、旧アジャール領の領主となられたのです」
「不敬が過ぎるぞ!」
憤ってメストに詰め寄ろうとしたが、距離を縮めずともバラザフにはメストが両目を濡らしているのがわかった。それほどまでにメストは泣いていた。
「バラザフ様にとってアジャール家がどれほど大切だったかは我々も承知しております。しかし、主家を失ったバラザフ様はご自身が独立君主になられました。そのバラザフ様に我等家臣は冥府まで随行しようと覚悟しているのです」
陪臣である彼等は、主家であるアジャール家の者よりも、バラザフに期待する所の方が大きく、またバラザフもそれだけの器量を持ち合わせていた。
「シルバ家独立は父や兄達の悲願であった。それを俺が果たしたのだ。お前達はそう考えろと言うのだな」
メスト達の想いをバラザフは受け取った。
家臣等の前では感傷から抜け出した風に装ったバラザフではあったが、主家の滅亡によって実現した独立は何とも寒々しいものがある。
アジャール家が滅亡して、シルバ家は対外的な垣根を失い、直接風雨に晒される事になる。独立するとはそういう事である。
「俺がシルバ家の当主になったときもこうだった」
この声はすでにシルバ家独立に沸き立っている家臣達には聞こえていなかった。
冥府まで供をする覚悟があるとメストが言ったように、バラザフも今まで以上の覚悟が必要なのだと自覚した。この者達とアルカルジ、そしてアジャール旧領を護る責任が生まれたのである。
時代の潮目に置かれた時、いつもバラザフは未来を視る眼が欲しいという自分の
「人の世の未来とは人の目に見えぬ程、遠く深いものなのだな……」
そう呟いて、そっと
バラザフ・シルバ三十六歳。
季節に暖かい日が少しずつ増え始めた頃である。